#362/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 10/07/11 23:41 (497)
水は氷より出でて 1 永山
★内容
六月半ばのことである。
気温はさほど上昇していないにも拘わらず、僕はすっかり浮かれて、舞い上
がってしまった。
「百田(ももた)君。夏期休暇で空いている日を――」
授業の合間の休み時間、憧れの音無亜有香(おとなしあゆか)からこんな風
に話し掛けられたんだから無理からぬことと、万人に理解されるに違いない。
「――十文字(じゅうもんじ)先輩に聞いてみてくれないか」
「……はあ」
そういうことか。舞い上がった分だけ、力も気も抜けて元通りに。いや、マ
イナスになったかも。
「いいけど……何か用でもあるの」
「詮索は好ましくない」
ぴしゃりと音無。続けて、頭を軽く下げつつ、こうも云った。
「頼み事をするのに、事情を伝えぬ非礼は詫びる。しかし、十文字先輩を直に
お誘い申し上げる際に、なるたけ円滑に事を進めたいのだ。一度目に都合を尋
ね、日を改めてお誘いするのは、みっともないだろう」
そんなものかな。別にかまわない気がする。
それよりも、お誘いって何なんだ。思わせぶり?な表現のせいで、無視しよ
うにもできなくなる。だが、詮索は好ましくないと釘を刺されたばかりで、質
問を重ねるのは……音無に嫌われたくない。
「誘うって、まさかデートかにゃん?」
突然、一ノ瀬(いちのせ)が会話に割り込んできた。僕の肩に両手を載せ、
もみもみと猫の手つきを始める。
普段なら注意し、即刻追い払うところだけれども、今回だけは見逃す。むし
ろ、物凄くありがたい。
「違う」
動揺の一欠片も見せず、きつい調子で否定した音無。だが、一ノ瀬も簡単に
は引っ込まなかった。
「本当かにゃ〜。否定するだけじゃあ、信じられないよー」
耳元で喋られると、やかましくてたまらないのだが、許す。もっと粘って、
音無から本当の答を引き出してくれ。
念じていると、意外とあっさり通じた。音無がため息混じりに答える。
「十文字先輩にはここ数ヶ月、何かとお世話になったので、感謝の印としてお
礼をしたい。そう考えただけだ。ついては、音無家の別荘にお招きし、骨休め
として――」
「うわぁ、別荘を持ってるんだ、剣豪さんとこは」
勝手に命名したニックネームに、「さん」を付けるか、普通? それに、何
やら下心が見えるぞ。
「……」
音無は一ノ瀬を見つめ返しながら、しばし考える仕種を覗かせた。少しだけ
開いた唇。今し方軽く握られた手。そして揺れたポニーテールは、頭を僅かば
かり傾げたことを示す。
やがて云った。
「思い返してみれば、あなたも十文字先輩の力になってはいた」
「うんうん。ミーも、このみつるっちも」
「となれば……十文字先輩の意向次第では、あなた達を一緒に招いた方がよい
のだろうか」
よいのだろうかと疑問形で云われても困る。いやいや、個人的・心情的には
全然困らない。招いた方がいいよと即答するだけだ。常識として実際には云え
ないだけであって。
「うんうん。招いて招いて」
あまり常識的でない一ノ瀬が、招き猫のようなポーズを取りながら云った。
「考えておく。じゃあ、百田君。返事はなるたけ早くほしい。くれぐれもお願
いする」
音無の物腰に、こちらは承知仕ったと応じてしまいそうになる。彼女はその
まま足早に、自身の席に行ってしまった。
ふと隣に目を移すと、一ノ瀬が電子手帳を開き、独り言をぶつぶつやってい
る。
「さて。夏のスケジュールを見直さないといけない……あーっ、学会に行くこ
とになってるんだった!」
独り言から急に大声を出すな。それにしても学会だって?
「友達の晴れ舞台を見物しに行く約束なのさっ。お土産のリクエストある?
何も云わなかったら、マカダミアナッツチョコにしちゃうよ」
「学会って、どこで開かれるんだい?」
「ハワイ」
「……って、アメリカの? 友達も外国人か」
「そう、アメリカ合衆国のアメリカ国民。他にもハワイってあるんだっけ?」
僕の知る限りでは、日本にも羽合(はわい)なる地名があるはず……。
いや、そんなことよりも。
「一ノ瀬のその友達って、高校生じゃないよな。普通の高校生は学会で発表な
んかしない」
「そうでもないけど、今度の学会で研究発表するのは、教授と助手と院生だよ。
グループで発表するんだ。そのみんなと友達さっ」
どういういきさつで知り合ったんだ……と聞こうか否か迷っていると、始業
が近いとベルが知らせた。まあ、一ノ瀬のことだから、インターネットを通じ
て知り合ってもおかしくはない。敢えて尋ねなくても、別の機会にすればいい。
七尾弥生(ななおやよい)の目には、その学校が小さく見えた。自身の通う
七日市学園と、無意識の内に比べてしまったせいだろう。
校門の手前で立ち止まると、知っている顔を探す。文化発表会の催される今
日、美馬篠(みましの)高校は朝早くから賑わっており、出入りする人の数も
多い。
「――無双(むそう)さん」
しばらくして見付けた。毛先のロールした長い髪が、格好の目印だ。
七尾は呟きながら小走りで近付く。相手はまだ気付いていないようだ。が、
気配を感じ取ったのか、急に七尾の方を振り向いた。
「おっ、来たね。時間通り」
校門脇に立つ街頭時計に視線をやり、また戻す無双美咲(みさき)。
「今日は一人?」
「うん。一応、宣伝したし、友達を誘ってみたんだけれど、みんな用事があっ
て忙しいみたい」
「そうかぁ、残念。進学校だもん、仕方ない!」
「それに、僕、敬遠されてるところもあるしね」
「……前も電話で云っていたわね。じいさまが学園長兼オーナーという立場は、
そんなに邪魔かね?」
おどけた口ぶりになる無双に、七尾も笑みをこぼしながら答える。
「邪魔ってことはない。友達いるし、贔屓はされてないと思うし……ただ、み
んなが僕に遠慮してる気がする。腫れ物に触るって感じが近いかな」
「学園長の孫娘と遊びに出て、帰りが遅くなったり、事故に遭遇したりしたら、
印象よくないかもしれないわな、確かに。少なくとも、そう考えるのは無理な
いと思う」
無双は一転して率直な感想を述べる。校門を通り、中に入ってからも続けた。
「でも、全員が全員てことはないはずよ。まだ入学して二ヶ月ちょっと。深い
付き合いになる友達と巡り会ってないだけ」
「……かもね」
受け取ったリーフレットを一瞥したあと、腕組みをした七尾。指先でリーフ
レットが揺れる。
「何せ、マジック好きな人をまだ見付けられないでいるくらいだから」
「悲劇だ、それは。うちに転校しない? 一年生だけでも、私を始め、四人も
いる」
二人は一秒ほどの間のあと、声を立てて笑い、校舎へと向かう。そこを半周
する形で迂回し、目指すは奇術倶楽部。無双の先導で、渡り廊下を急ぐ。程な
く、プレハブ小屋が見えてきた。
「予め云ったと記憶しているけれど、名称は『倶楽部』でも、実際は同好会扱
い。部室も、元々一つの部屋だったのを、あとから壁を入れて二つに仕切った。
つまり、正規の部に比べて半分の広さで、よその同好会と半同居って感じ」
「発表は別の場所なんでしょう? だったら不平を云うほどのことじゃあ……」
「いや、不平とか文句じゃなく、狭い部屋に案内するのが……まあいいわ」
無双が足を止め、七尾も立ち止まる。いつの間にか目的地に着いていた。眼
前のドアをノックをする無双。すぐに返事があって、同時にドアが開いた。
「やあ、久しぶり」
ノブを握ったまま、法月京之助(のりづききょうのすけ)が愛想よく云った。
今日は晴れの舞台が待っているせいか、さらさらヘアに磨きが掛かっている。
「そんなに久しぶりだっけか。練習でよく顔を合わせているような」
天野紳蔵(あまのしんぞう)の声が続く。中を覗いてみると、縦長の形をし
た部屋の奥で、天野がパイプ椅子にふんぞり返っている……と思った七尾だっ
たが、それは間違いだった。よくよく見れば、座ったまま、ジャグリングの練
習をしていた。
「法月君は実際、顔を合わせていなかったわ。しばらく、別メニューだったも
のね」
衣笠妙子(きぬがさたえこ)が注意する。彼女もまた手をせわしなく動かし
ているようだが、七尾からは背中しか見えないため、どんなマジックを練習し
ているのかは分からない。
「あれ? お馴染みの顔ぶればっかりじゃない。先輩は?」
無双は七尾を招き入れてから、部屋にいた三人に尋ねた。
「布川(ふかわ)先輩なら、舞台のセッティングをチェックしに行ってくれた」
ジャグリングをやめ、答える天野。七尾はすぐに疑問を口にした。
「そういう仕事は、下級生の役目なんじゃあ……」
「うちは特別なんだよ」
天野は今度はカップとボールを取り出し、手捌きの練習を始めた。感覚が染
み込んでいるのだろう、視線を手元から外していても自由自在に動かせる。
「まず、現在、正式な先輩は布川さん一人だけ」
「え、一人?」
「今年、俺達がまとめて入部したことで、解散を免れた訳さ。それにな、布川
さんは観る専門で、マジックをやらないんだ」
「えー? そんな人でも入部できるって……」
どんな奇術サークルなんだろうと、訝しむ七尾。
そんな彼女の表情を読み取ったか、法月が微笑混じりに云った。
「その代わり、布川さんはマジックの知識が豊富で、種を見破ることが得意だ
し、新しいマジックの考案もされるんだよ。真にオリジナリティがあって、物
になるのは、二割に届くかどうかぐらいだけれどね」
説明を受け、町の発明家をイメージした七尾。聞いてみると、町内では名の
知られた仕出し屋の一人息子だそうだ。
「じゃあ、その布川さんて人は舞台に立たないのだから、四人でやるの?」
「あ、がっかりしてる。初めての人の演目を観られると期待していたな?」
無双に指差され、七尾は素直に頷いた。
「だって、そういうこと、全然云ってくれないんだもん。期待するよ、それは」
「唇を尖らせなくても、一人、ゲストが出るのよ」
肩越しに振り返り、衣笠が云った。
「またがっかりさせない内に付け加えると、この学校のよそのサークルの人な
んだけどね。二年生で布川さんの知り合い」
「他にもマジックを扱うサークルが?」
「ううん、ミステリ研究会の人よ。二度、マジックを見せて貰ったわ。結構な
腕前なのに、一番の趣味は推理小説だからとかで、部活はミステリ研究会一本
槍なのよね」
衣笠は片頬に手を当て、さも残念そうに嘆息する。対して、無双が云った。
「お隣さんに聞こえるかもしれないよ」
「聞こえたのなら、ぜひとも兼部を考えてほしいなぁ」
どうやら隣室がミステリ研究会の部屋らしい。尤も、壁は案外しっかりした
造りのように見えるから、声をかなり張らない限り、聞こえそうにない。
「とにかくよかった、楽しみができた」
七尾が喜びを露わにすると、「僕らの演目は楽しみじゃないって?」とつっ
こみが入った。
「たまの休みに、知らない人ばかりの学園祭に足を運ぶ羽目になるとは」
「何か云ったかい、百田君?」
「いえ、大したことじゃ……」
ごにょごにょと語尾を濁し、僕は十文字先輩の背中について行った。この人
とは良好な関係を保たねば。少なくとも、夏休みが終わるまでは。
「君の知り合いはいなくても、僕の知り合いがいる。だから心配するな」
何だ、聞こえているじゃないですか。それに、別に心配している訳じゃあな
いんですけど。
「何という名前でしたっけ、先輩のパズル友達の人……」
校門を視界の端に捉えつつ、僕は聞いた。前を向いたままの先輩から、素っ
気ない返答が来る。
「針生徹平(はりおてっぺい)。パズラーであり、大のミステリ好きでもある」
「ミステリ研究会の人ですよね。矢張り、名探偵に憧れとかあるんでしょうか」
「憧れね……ゼロではないだろうが」
歩く速さが落ちた。追い付いて並んだ僕に、十文字先輩が続ける。
「どちらかと云えば、謎を作り出す方に興味がある奴さ。ミステリに準えるな
ら、名探偵ならぬ名犯人だな」
耳慣れない表現だ。名犯人……怪人二十面相とかアルセーヌ=ルパンといっ
た存在を差すのだろうか。
「奴は犯人当て小説を書くのが得意なんだ。今日、学園祭に乗り込むのも、あ
いつの犯人当てを解いてやるためでね」
「矢鱈と気合いが入っているように見えましたが、そういうことだったんです
ね」
「君の言い種は気に食わないな」
先輩は二、三歩先んじると、僕の前に立ちはだかった。いつも以上に鋭い目
付き、棘のある物腰、尖らせた唇……急に不機嫌になったのは火を見るよりも
明らかだった。
「何かまずいことを云ったでしょうか、僕」
「あいつの犯人当てを解くのに、気合いを入れる必要など微塵も、これっぽっ
ちも、爪の先ほどもない。断じてないっ」
最大瞬間風速を記録するような勢いで云うや、十文字先輩は僕に背を向け、
最前よりもスピードアップして歩き出した。
名探偵を自称し、実践する先輩が、針生なる人物の犯人当て小説を過剰に意
識している。さっき、口では否定していたが、それがかえっておかしかった。
過去、その人の書いた犯人当ての真相を、見破り損なったことが恐らくあるの
ではないか。
半ば無理矢理に連れて来られた他校の学園祭――正式名称は文化発表会らし
いが――だったが、楽しみができた。十文字先輩の推理ミスを目撃できるかも
しれない。それにもし、先輩が犯人当て自体を苦手にしてるとしたら、僕も一
丁書いて、挑戦してやろう。日頃の恨み、基、一泡吹かせてみたいと前々から
思っていたのだ。
僕は先輩の姿を探し、追った。一階のとある部屋の前で立ち止まり、中を覗
き込んでいるのが見えた。近付くと、教室名を示すプレートや窓ガラスの一部
に、“ミステリ研究会”の張り紙があると知れた。
「十文字先輩、入らないんですか」
「早すぎたようだ。奴がいない」
奴とは当然、針生徹平氏だろう。十文字先輩は室内にいた部員らしき人を呼
び止め、針生徹平の居所を尋ねた。
「午前中は奇術倶楽部の手伝いとかで、来るのは午後からになると聞いていま
す」
一年生らしきその男子は、素直にこう返答した。
十文字先輩は質問を重ねる素振りを見せたが、すぐに引っ込め、リーフレッ
トを開いた。校門をくぐったときにもらった物だ。廊下の壁際に寄りながら、
ふんふんとうなずく。
「奇術倶楽部の部屋が見当たらないと思ったら、舞台発表か。体育館で十一時
からとなっている」
「まだ間がありますね」
時計をちらと見て、僕は先ほどのミステリ研究会の陣取る教室(部室ではあ
るまい。見たところ、視聴覚教室の類だ)に足を向けた。
「会誌をもらっておきますか。犯人当て、きっとそこに載っているんでしょう」
「いや。だめだ」
きっぱりとした拒否に、僕は足を止めざるを得ない。
「あいつの目の前で解いてやるんだ。相手の不在に乗じて、先に目を通して解
こうという姑息な真似を、僕はしたくないね」
「え、でも」
犯人当てが印刷物になっているなら、それを読む行為に、出題者が居合わせ
るかどうかなんて、関係ない……。
「僕がいかに短時間で真相を見抜いたか、あいつに思い知らせてやる」
なるほど。相手に断りなく、先に犯人当てに目を通すと、正解に至までの時
間が曖昧になる。それが許せないらしい。
「じゃあ、どうしましょう? 奇術倶楽部の部室を訪ねても、どうせ準備で忙
しくて、相手にされませんよ」
「訪ねるつもりなど端からない。僕は奇術も好きじゃないんでね」
「……もしかして、針生さんの演じた奇術を見破れなかったとか……?」
質問を声に出してしまってから気付いた。この人の機嫌を損ねないためには、
針生徹平を話題にするときは慎重すぎるほど慎重になるべきなんだ。
「断じて違う。謎を提示しておきながら、正解を明かそうとしない態度が気に
入らないのだ。パズルは云うまでもなく、数学の問題にしろ推理小説にしろ、
正解がきちんと示されるところがいい」
「現実の事件は正解は示されないけれども、十文字先輩のような人が自力で正
解を見つける訳ですね」
「まるで、奇術も自力で見破れと云わんばかりだねえ」
フォローしたつもりが、とんだ藪蛇だ。しばらく、余計なことを云うまい。
「残念ながら、僕が答を突きつけても、マジシャンは正解か否かの判定をしや
しない。当たっていようがいまいが、はぐらかすように微笑むだけだ」
先輩は一気に喋ってから、「いや」と首を左右に振った。
「分かっている。手品の種明かしがタブーであることぐらい。分かっているん
だが、あいつ、針生徹平に演じられると、負けまいという意識が何故か強く働
いてしまう」
ライバル意識を認めると、再び歩き出した。どこへ向かおうというのだろう。
明確な目的地があるらしく、十文字先輩の足取りに迷いはない。この学校の生
徒達の間を、すり抜けるようにして進む。
僕は半ば必死に追いつつ、「あのー、どちらへ?」と尋ねた。
「隣の校舎の一階だ。他の知り合いに会っておく。クラスで和風喫茶をやって
いるらしいから、時間潰しを兼ねてお茶を飲むとしよう」
「お茶はありがたいですけど、その人にしろ、針生さんにしろ、十文字先輩と
はどういう経緯で知り合ったんですか」
「針生とは、小六の夏休みに、あるパズルの大会で出会った。話してみると、
割と近くに住んでいると分かった。その大会で、僕に敗れたのが悔しかったに
違いない。僕に挑戦してくるようになってね。認めるのは癪だが、今や対等な
ライバル関係さ。これから向かう和風喫茶にいる知り合いというのが、針生の
お姉さん、ここの三年生だ」
知り合いの知り合いってことですか。その点を確認してみると。
「いや、面識あるよ。早恵子(さえこ)さんとは針生の家を訪問した折、顔を
合わせてね。弟と違い、感じのいい人だ。歳が上でも、話し易いというかな。
彼らの家庭は親が留守がちで、早恵子さんが母親代わりになることも多いそう
だよ」
僕の知らない二人を比較して、感じがいいだの悪いだのと説明されても、ぴ
んと来ない。ただ、十文字先輩の表情を見れば、本心から針生早恵子さんを好
ましく評しているように思えた。
「ここだな」
先輩はある教室の前で立ち止まった。ドアや窓にはポスター――というより
も店の看板が目一杯、掲示されているが、プレートで三年二組と分かる。幕堂
成堂というのが模擬店の名前らしい。まくどうなるどう?
「あら、十文字君。今年も来てくれたのね」
中に入る前から、臙脂色の法被を羽織った呼び込み役?の女子生徒が親しげ
に話し掛けてきた。察するに、この人が――。
「百田君、紹介しておこう。この人が針生早恵子さんだ」
やっぱり。先輩の話を聞いた段階では、もっと大柄な人をぱっとイメージし
たのだが、会ってみると平均的な身長の、瓜実顔の人だった。
頭を下げた僕と先輩を、早恵子さんは早々に店へと案内してくれる。結構賑
わっており、座席の半分強が埋まっていた。漂う抹茶の香りが、いかにも和風
喫茶らしい。
「お薦めはあります?」
「お薦めは、いろはの“い”セットね」
「僕はそれを。百田君は好きな物を頼みたまえ。無理に付き合わせたのと引き
換えという訳でもないが、おごろう」
メニューを見ずに注文を済ませた先輩は、次いで、早恵子さんに尋ねた。
「徹平の居場所をご存知じゃないですか。どうやら奇術の準備で忙しいようだ
が、それなら前もって教えろよと、一言文句を云ってやりたくて」
「居場所は知らないけれども、徹平から君にって、預かり物があるわ」
早恵子さんは先に僕の注文を聞き、オーダーを通した。そのあと、内懐から
白い封筒を取り出す。切手や消印、宛名は見当たらない。差出人に当たる位置
には、何やら片仮名が見えた。
「私も詳しいことは聞かされていないから、質問はしないでね。じゃ、ゆっく
りして行って。ワトソン君も」
感じのいい笑みを残し、早恵子さんは再び廊下へ出て行った。
って、いつの間にやら、ワトソン君呼ばわりされている……。先輩、どうい
う風に僕を紹介してくれたのさ。
「ハッピーレート? 妙な名前を名乗ったもんだ」
受け取った封筒をすぐには中身を見ようとせず、表、裏と、矯めつ眇めつす
る先輩。
「しかも、針生徹平からだと分かっているのに、別の名前とは。……なるほど、
アナグラムか」
一人で納得する先輩。僕の怪訝な目付きで察したのか、ペンでリーフレット
の余白に書き込みながら説明してくれた。
「ハッピーレートを英語綴りではなく、莫迦正直にローマ字で表すと、HAP
PIIREETOだ。これを、こう、こう――」
文字を書き、そこから矢印を引っ張る。
「――こう並べ替えると、HARIOTEPPEIになる。つまり、針生徹平
さ。恐らく、早恵子さんは弟の徹平から、名前を伏せてこの封筒を僕に渡すよ
う頼まれたが、ついうっかり、口を滑らせてしまったんだろう」
だったら、そもそも手渡し役に姉を選ぶこと自体に、問題ある気がする。
ともかく、中身に注目だ。十文字先輩は爪をあてがい、糊付けされた封筒の
口を開いた。犯人当て小説かという僕の予想は外れ、出て来たのは四つ折りに
されたA4用紙一枚きり。開くと、そこには次の文章が印字されていた。
<十文字龍太郎。君は探偵として、考えたことがあるだろうか。名探偵と名犯
人が共存し得る“幸福な割合”について。
君の愛する本格推理小説は、探偵小説という別の呼び名があるように、探偵
の活躍を主に描き、犯人は日陰の扱いだ。仮に名犯人が登場しても、その作品
限りで出番が終わるため、読者の記憶に残らない。名探偵のように連続して登
場するには、逮捕されないことが要件となるが、冒険活劇に出て来る荒唐無稽
な変装万能人間か、計画を立てるだけで実行は他人任せな犯罪者辺りならまだ
しも、本格的な犯罪を実行する名犯人は、シリーズキャラクターとはなり得な
いのだ。
シリーズキャラクターが無理なら、せめて一作の中で、名探偵と対等かそ
れ以上の扱いを受けるべきであろう。ところが実情は、探偵の活躍が目立つば
かりで、犯人はせいぜい、その正体が明らかになる直前直後にしか、認知され
ない。
犯人が伏せられているのだから仕方ない? それは間違いだ。正体を隠した
まま、おどろおどろしい仮の名を名乗り、予告状や挑戦状を送りつけ、怪しげ
なマントに仮面姿で現れる犯人もいるではないか。が、読者の果たして何パー
セントが、そのような一度きりの怪人を覚えているだろうか。覚えていたとし
ても、怪人の正体――本名まで記憶しているだろうか? 答は恐らく、否、で
ある。
今回、私はかような状況を打破するべく、趣向を凝らすこととした。私と十
文字龍太郎、君とで、一対一の勝負をしよう。それも、私が一方的に謎を提示
し、君が解くばかりでなく、君の側からも謎を提示し、私が解くというゲーム
だ。これなら、ゲーム限定とはいえ、名探偵と名犯人が両立する。
この提案を受け入れるのなら、明日が終わるまでに、何らかの謎を私に示し
たまえ。無論、拒否するのは自由だ。逃げたと見なすこともないから、安心し
ていい。名探偵は所詮、探偵しかできないという当たり前が証明されるまで。
尤も、私の出す謎を解けなかったときは、探偵すらできないことになる。くれ
ぐれも油断召されぬよう、忠告して締めとする。
ハッピーレート>
十文字先輩に続いて読み終わった僕は目を上げ、用紙を返した。ついでに疑
問をぶつけてみる。
「これ、本当に針生徹平という人の書いた文章ですか?」
「ほう。疑う根拠は?」
「先輩を手こずらせる犯人当てを書く人にしては、文章がこなれていないとい
うか、固い感じがして……。小説じゃなく、論文に近いような」
「ふむ。よい着眼だ」
用紙を封筒に戻し、微笑を浮かべた十文字先輩。そこへ、注文した“い”セ
ットと“ろ”セットが運ばれ、とりあえず、飲み物で喉を潤す。
「渋くて、なかなか乙な味だ。――さて、百田君。針生の書く犯人当てを全く
見たことのない君が、そのような判断をするのは、いささか早計だよ。あいつ
の文章はこんなものさ。まあ、自身の名前のアナグラムによる仮名を活かすた
め、無理矢理こしらえた理屈と展開故、文面も若干おかしくなったのかもしれ
ない。要は、僕と一対一の勝負がしたい、それだけの意味しかあるまい」
「だったら、随分勝手な要求を突き付けてくる人ですね。二日間で謎を用意し
ろだなんて。自分は準備する時間がたっぷりあったから余裕なんでしょうけど
さ」
「僕は名探偵であると同時に、パズラーなのを忘れてくれては困る」
自信ありげに胸を反らした先輩は、残っていた最中を片付けに掛かった。僕
もみたらし団子を頬張り、飲み込む。
「パズルを解くだけじゃなく、創るのも得意なんでしたっけ。でも、行間を読
むと、普通のパズルやクイズではなく、推理小説っぽい謎でなければならない
気がしますが」
「なあに、殺人をする訳じゃあるまいし、飽くまでゲーム。たまには大犯罪者
になったつもりで、パーフェクトプランを決行するのもよかろう」
調子よく語っていた先輩の表情が、ふと曇る。
「しかし……出題というからには、論理的に解けるだけの手掛かりやヒントを
も、仕込まないといけないのかな? その辺の指定が甘いな。これは矢張り、
当人に会う必要がありそうだ」
「じゃあ、すぐに出ますか」
お茶を飲み干そうとした僕を、先輩は首を振って止める。
「心当たりがないのだし、ゆっくりしたまえ。僕は、あいつに出す問題をどう
しようか、考えるとするよ。しばらく話し掛けないように」
そう断ると、名探偵は手帳を取り出し、ページを繰り始めた。パズルのアイ
ディアが多数、メモしてあるらしかった。
奇術倶楽部の公演開幕まで、まだ時間があったが、七尾は部室を辞去した。
折角、他校の文化発表会に足を運んだのだから、余裕がある内に少し見て回っ
ておこうと考えたのだ。一方で、早めに体育館に行き、いい席を取りたい気持
ちも強いのだが。
「ああ、君、そこの君」
部室を出て、五十メートルも歩かない内に、校舎の方から声がした。自分が
呼び止められたのだと気付く。
振り向くなり、ぎょっとさせられた。大げさでなく、身体がびくりとした。
何せ、声の主らしき人物は、道化師のような扮装をしていたのだから。細いた
れ目の仮面を付け、だぶだぶの服を纏い、上向きに曲がった爪先を持つ靴でど
たどたと近寄ってくる。仮面も服も白と赤と黒の三色からデザインされている
が、中でも黒が多い。どことなくトランプのジョーカーか悪魔めいた容貌であ
る。
「すまないが、針生徹平にこれを渡してくれまいか。渡すだけでいい」
外見に合っているようでどこかずれている、ユーモラスな響きの声を道化師
は発した。革っぽい手袋をした手に握られた便箋が、“これ”なのだろう。
「え。でも、僕、針生徹平という人を知りませんが」
「奇術倶楽部の人でしょう? 君達のショーにゲスト出演すると聞いたんだけ
れどな」
そっか、針生という人が外部からのゲストなんだ――得心しつつ、七尾は返
事した。
「いいえ。知り合いというだけで、美馬篠の生徒でもありませんし」
「じゃ、奇術倶楽部の誰かに渡してくれればいい。みんな、針生徹平を知って
るはずだから。頼むよ。忙しいんだ」
「……分かりました」
既に足先が逆の方角を向いている道化師を見て、七尾は承知した。このぐら
いの距離を引き返すぐらい、全然問題ない。
道化師は「恩に着るよ!」なんて大げさな表現で礼を述べ、小走りで去って
行った。
(変な人……演劇にでも出るのかな、あの格好。でなければ、お化け屋敷か何
かの客引き? そういえば、名前を聞かなかった。まずかったかも)
手渡された剥き出しの便箋に視線を落とす。中に名前があるのかもしれない
が、確かめる訳にも行かない。ともかく、部室へときびすを返した。最前の道
化師につられたかのごとく小走りになったため、じきに着く。
と、プレハブ小屋の壁に、影法師が二つできている。自分の他にもう一人。
誰だろう?と振り返る。
「君は? 見掛けない顔だけど、奇術倶楽部の新入……いや、きっと違うな。
文化発表会の日に私服で来るのは、原則NGだから、うちの生徒ではない可能
性が高い」
一気にそれだけ喋った男――多分、美馬篠校生――自身は、上は白のシャツ
に控え目な黒の蝶ネクタイ、下は黒のズボンをサスペンダーで吊り、さらには
純白の手袋を填めているという、どう見ても制服ではない格好をしていた。
「初めまして。僕は奇術倶楽部の一年生部員と知り合いで、今日は舞台を観に
来ました」
先に挨拶し、ぺこりと頭を下げる。
「さっき部室をおいとましたんだけれど、用事ができて、ちょっと戻ってきた
ところなんです。……あの?」
「間違えていたら悪い。もしかすると、君が七尾弥生さん?」
「そうですが……ご存知ということは、あなたが先輩部員の布川さ、ううん、
違いますね。その格好は、マジックを実演する人のそれ。つまり」
便箋を持つ手を前に突き出す七尾。
「針生徹平さんですか? 当たっていたら、これをどうぞ。渡すように云われ
て来ました」
「いかにも、僕は針生だけれど、この手紙らしき物は何者から?」
男の口元が上向きになる。その面白がる様子が、やがて顔全体に広がった。
「ピエロの格好をした、多分、男の人からです。渡せば分かる、と」
「ふむ」
時刻を気に掛ける素振りをしてから、彼は便箋を開いた。
「確かにお渡ししました。じゃあ、僕は急ぎますので、これで。マジック、楽
しみにしています」
「ああ、うん。ありがとう。時間があるとき、マジックの話をしよう」
七尾は「はい」と頷いて、その場を立ち去った。なかなか感じのよさそうな
人だと思った。
針生はミステリ研の部屋を覗き、既に無人であると確認した。居残っていた
二年生達も、見物に行くかミス研の展示教室に移動するかしたと思われる。
(誰もいないのは好都合。とはいえ……)
手にした便箋をどうするか。ここに置いておくと、他人に読まれる可能性、
ゼロではない。かといって、無関係の奇術倶楽部の部屋に持ち込むのは、もっ
と気が進まなかった。
普通ならば身に着けておけば済む話だが、今からしばらくは少々事情を異に
する。マジックを演じる際に、余計な物を身に着けておきたくないのだ。それ
でいて、この“挑戦状”を手元に置いておきたい心理も働く。
便箋の文面に、改めて目を通してみた。
(差出人、ジョン=ドラゴン・クロス。ドラゴンは龍。クロスは十字架。ジョ
ンは英米ではありふれた名前で、差し詰め、日本の“太郎”といったところ。
これらを考え合わせると、手紙を書いたのは十文字龍太郎と導き出される……。
名前に関しては、なかなかきれいな出来映えだな)
長い文章ではなかった。手書きだが、きれいな字で綴ってある。客観的な感
想に努めれば、意味の理解は容易いが、意図は理解しがたい文面と云えよう。
<針生徹平に告ぐ
我が名はジョン=ドラゴン・クロス 謎を編み、謎を切り裂きし者
貴君を一級のソルバーと見込み、ここに謹んで謎を編む
美馬篠高校文化発表会の期間中、当校に関わるものが死ぬ その真相を暴い
てみせよ
手掛かりは次の暗号にあり
ノギ一ョノウ一ノイ一エ
ノタノ丁一イノ一イ丁半
イョ丁クイ一丁イノ丁一
ノノイ一丁ノ半一コソ二
ョゴウインクコギイョ丁
タイギ丁ョイウ丁イエス
※行間を読め
明日が終わる迄に解けぬときは、我の勝利を宣言する
貴君の健闘を祈る
ジョン=ドラゴン・クロス>
――続く
#363/598 ●長編 *** コメント #362 ***
★タイトル (AZA ) 10/07/11 23:43 (455)
水は氷より出でて 2 永山
★内容
再読したあと、便箋が学校指定の物と気付いた。わざわざ、校内の購買部で
買って来たとみえる。
(『死ぬ』という一点が穏やかじゃない。あいつらしくない表現だ。気に掛か
る……。ああ、まずい。ぐずぐずしているとマジックの時間が来てしまう。し
ょうがない)
針生は靴を脱ぎ、便箋をそこへ隠した。履き直し、違和感のないことを感触
でしかと確認してから、隣の奇術倶楽部に向かう。
「――揃ってるか? 布川との打ち合わせはばっちりだぜ」
殊更に明るい調子で云うと、四人の後輩達――所属違いではあるが――から
は、負けないほどの明るい返事があった。
「腕が鳴りますよ!」
四人とも、プロのマジシャンから手解きを受けており、人前で手並みを披露
したことも何度となくあるという。物怖じも緊張もしないのは、当然か。
「結構。では、もうそろそろしたら、体育館に移動するぞ。そのとき、第三者
に種を見られないようにな」
「忘れてましたけど、携帯電話で連絡を取ればいいんじゃないですか」
和風喫茶を出るなり、僕は思い付きを口にした。十文字先輩は手帳を大事そ
うに仕舞うと、「ケータイ?」と聞き返してきた。話を聞いていなかったのだ
ろうか。
「ええ。針生さんに携帯電話で、今、どこにいるのか聞いたらどうでしょう?」
「あいつの番号を知らない」
「あ、そうなんですか……」
「針生が携帯電話を持っているかどうかすら、関知するところではないのでね。
針生も僕の番号を知るまい」
そういう仲なんですね。妙に納得。
「どうせ、じきに奇術倶楽部の舞台が始まる。終わってから訪ねるのが確実だ
ろう」
「じゃあ、それまでどこで時間を潰しましょう……」
「しょうがないから、奴のマジックを見物してやるさ」
「あれ? 好きじゃないと云っていたのでは」
「体育館にいないと、マジックの終了をすぐに把握できないじゃないか」
とか云いながら、その実、針生という人のマジックにも関心があるんだった
りして。機嫌を損ねないために、声に出して聞きはしないけれど、そんな気が
する。何故って、針生さんと会うためだけなら、ミステリ研の教室で待ってい
ればいいのだから。
「観るなら観るで、早く行って、いい席を取らないと」
「いや。前の方には座りたくないね」
種を見破る気はないってことか。僕が勝手に解釈していると、先輩はぼそり
と付け足した。
「目が合ったら嫌じゃないか」
そうして、さっさと――多分、体育館のある方角へ――歩き出す。僕は爆笑
したいのを我慢し、あとに続いた。
やがて体育館らしき建物が視界に入る。周囲には人が結構いた。勿論、全員
がこれから始まるマジックを観るとは限らない。一つ前の出し物の人気が高い
だけかもしれない。
「先輩。先輩は去年も来られたんですよね」
「来たね」
それが何か?とばかりに、名探偵は肩越しに振り返った。
「そのときも、マジック、あったんですか? 針生さんがやって、好評だった
とか」
「さあ、どうだったかな。忘れた。――開場時間になっている。入るとしよう」
はぐらかされた。
とにかく僕らは体育館の玄関をくぐった。入口で、係?の男子生徒が数字の
印刷された紙――縦横五センチほどの正方形――を配っている。先輩が160、
僕が161だった。入場者数を把握するための整理券代わりだろうか。
紙を財布に仕舞い、開け放たれた内扉を通って中に入る。広い。ざっと見て、
パイプ椅子が五百脚以上は並べてある。その約四分の一が既に埋まっていた。
この学校の生徒職員だけでなく、外部からの客も大勢いるようだ。
「やっぱり、そこそこ人気あるみたいですね」
いちいち応じるのが面倒になったのか、無言の十文字先輩。僕も黙った。先
輩は客席の中程の列、一番右端に座った。僕は前を失礼して、空いている隣に
収まった。
腕組みをした先輩は、周囲を見渡し、今気付いたという風に、僕に聞いてき
た。
「カップルらしき二人連れが割といるな。百田君には休日、デートするような
相手はいないのかい?」
今日、ほとんど強制的に僕を連れて来ておいて、そんなことを聞きますか。
返事は自棄気味になった。
「いたら、十文字先輩に紹介しています」
「何だ。一ノ瀬君と仲がよいようだが」
「あー、あれは変に懐かれているだけというか。いいなと思ってる人は、他に
いますよ」
よっぽど、音無のことを話題にしようかと考えたが、やめておいた。当然、
夏休みの予定についても、まだ尋ねていない。十文字先輩の機嫌が最高のとき
を見計らって質問し、音無にとって(そして僕にとっても)最高の返事を引き
出したいのだ。
だから、「そういう先輩は、五代(ごだい)先輩とどうなんですか」なんて
質問は、決してしない。してはいけない気がする。
会場は、開演時間の五分前ともなると、三分の一以上が埋まった。たいした
ものだ。黒い厚手のカーテンが全て引かれ、必要最小限と思われる照明が点る。
舞台の向かって左手には大型モニターまで用意され、否応なしに期待してしま
う。やがて時間が迫り、携帯電話の電源を切るなどの注意がアナウンスされ、
正面玄関と上がってすぐのドアがともに閉じられた。
「前に観たときより、凝った演出にしているようだ」
先輩の呟きに被せるように、始まりを告げるアナウンスがあった。BGMが
小さく流される。学校の体育館にしては、なかなかよい音響設備だ。
<本日は、ご来場ありがとうございます。只今より、美馬篠高校奇術倶楽部の
文化発表会公演を開始いたします。最後までごゆっくり、お楽しみください>
型通りの口上が済めば、あとは説明も紹介もなしに、いきなり始まった。照
明が恐らく最弱にまで落とされ、暗くなる場内。ステージを注目していると、
中央にスポットライトが当たり、人影を浮かび上がらせる。
正装をし、シルクハットを被った女性が一人。当然、ここの生徒なんだろう
けど、随分と大人びて見える。彼女は帽子を取ると、深々とお辞儀した。面を
起こすと、整った顔立ちが目に留まる。毛先のカールした長い髪が、よく似合
っていた。
彼女は丸い一本足テーブルに帽子を逆向きに置くと、その中から大きめの蝋
燭とマッチ箱を取り出した。これだけでもそれなりに不思議だが、シルクハッ
トの二重底を想像できるせいか、拍手はまばらだ。
蝋燭をテーブルのよく見える位置に置き、女性マジシャンは視線を斜め上に
やった。合わせたかのように、再び照明が弱まり、暗くなったところで、蝋燭
に火が灯る。観客の目を炎に充分に惹き付けたあと、女性マジシャンは右手を
火に近付け、人差し指と親指を二度、付けたり離したりした。そしてやおら、
火をつまみ上げる。「あっ」という声を漏らしたのは、僕一人ではなかった。
暗がりの中、火は消えることなく、彼女の人差し指の先に移り、ゆらめく。
どんな表情をしているのかは分からない。炎の周辺だけが、ぼーっと浮かび上
がった。
それから彼女は、人差し指と親指とで輪を作り、すぐに離した。すると、火
が親指の先に移った。人差し指の方は、光らなくなっている。その後も、光る
指先で他の指に触れると、明かりが移るという現象が繰り返された。右手のみ
ではなく、左手にもそれは波及した。光と闇による幻想的な演技に、拍手が徐
徐に大きくなる。
やがて、火の明かりは増え始めた。十指に広がると、彼女は両手を握り締め、
左右を密着させた。次の瞬間、ぱっと開いた両手には白いボールのような物体
が載っていた。
場内が明るくなり、拍手や歓声は一層大きくなった。それらが収まるのを待
ち、女性マジシャンは球体をテーブルに置いた。蝋燭やマッチ箱を片付けたあ
と、軽く目を瞑って、球体の上に両手をかざす。何やら念じるような仕種に、
一転して静まる僕ら観客。照明はみたび、落とされていった。
薄ぼんやりと見える舞台上で、不意に白い球体が浮いた。彼女の両手のひら
の間、やや下方の位置を保ったまま、徐々に高く上がっていく。その間にも照
明は弱くなり、またも闇になる……と思いきや、球体が光を発した。距離があ
ってしかとは分からなかったが、球体は白色電球らしい。
光るボールはふわふわと不安定な浮遊を続け、演者が身体をぐるりと一周さ
せても、落ちることはない。改めて拍手が起こった。
と、女性マジシャンが天井を見上げた。次に、両手を振り、光る球体を投げ
上げる仕種をしたかと思うと、球体が見えなくなった。つられて上を見た僕ら
観客が、急いで視線を戻すと、女性マジシャンがスポットライトの中、両手に
何もないことを示している。それから、始まりと同様、深く頭を下げた。
観客は、あちこちで「凄い」「どうやったの?」なんて呟きを挟みつつ、拍
手喝采を惜しまない。僕も正直なところ、いくら用意が大がかりでも、所詮は
高校生の奇術と甘く見、宴会芸レベルの手品を想像していたから、驚いてしま
った。度肝を抜かれたと表現しても差し支えない。
こうして最高のスタートを切ったショーは、その後もレベルを落とさない。
二番手は、見た目はスポーツに精を出していそうな男。意外と器用な手つきで、
複数の輪っかを通過させて組み合わせたり外したりするマジックを披露した。
輪の一つを白いロープに変えたところで、三番手にバトンタッチ。そのロープ
を受け取った三番手は眼鏡を掛けた女性で、魔女のような衣装がやけにマッチ
している。ロープを鋏で切り、復元するマジックはありきたりであるが、口上
がいかにも魔法使いのおばあさん然としていたのに加えて、最後にロープが蛇
(もちろん作り物だが)になったのは、雰囲気によく合っている。シャボン玉
がピンポン球に変わるマジックを披露したあと、彼女は下がり、代わって登場
したのは遠目でもさらさら髪と分かる二枚目の男。固定ファンでもいるのか、
黄色い歓声が一部から上がった。男はそれを気にする様子もなく、前の“魔女”
が残していったピンポン球を手に取ると、指に挟んで徐々に増やしていく。両
手の指の間が、八つのピンポン球でいっぱいになったかと思うと、一瞬にして
ピンポン球が金色に輝くコインになった。八枚のコインを手の甲で踊らせるよ
うに扱い、手の中でひとまとめにし、次に手を開いたときには四枚に減ってい
た。テーブル上の透明なグラスに、それらのコインを入れていくと、金属とガ
ラスのぶつかる乾いた音がした。が、何故か四回を数えても、音は続く。実際、
彼の手からは次から次へとコインが出ては、グラスの中へと落とし込まれてい
った。
この男が引っ込み、新たな男が出て来ると、隣の十文字先輩が小声で教えて
くれた。あいつが針生徹平だ、と。
僕は目を凝らした。そして、いささか拍子抜けした。パズル等において十文
字先輩と互角に渡り合う程だから、相当な切れ者をイメージしていたが、どう
も違う。今は舞台に立つ演者として着飾っているが、もしも学生服を着ていた
ら、平凡な一生徒にしか見えまい。お姉さんの早恵子さんの方が存在感があり
そうだ。針生徹平という人はお姉さんよりも背が高いようだが、逆に存在感を
消すことでその他大勢に溶け込める空気を纏っているような。
そんな針生徹平の最初のマジックは、トランプ。まず一組のカードを開き、
カラフルな扇形を作る。この手捌きを幾通りかやってみせたあと、トランプを
テーブル上のシルクハットに投げ入れ、両手を空にした。が、すぐさま新たな
トランプの束が現れ、扇になる。これを繰り返し、さらには指の間から無数と
も思える大量のカードを出しては散らし、散らしては出しし、シルクハットを
満たしていった。クライマックスは、シルクハットをひっくり返し、中を空に
したことを観客に示した後、再びテーブルに置き、魔法でも掛けるような手つ
きをすると、そのシルクハットから大量のトランプが盛大に噴き出した。
「派手で見事ですけど、どうして前の人のコインが増えるマジックと似た演目
をしたんでしょう? 得意なネタが似てるのなら、登場順を変えればいいのに」
「このあとの仕込みに関係してるんだろうね。リーフレットによると針生以外
は一年生とあるから、仮令、正規メンバーでなくても、針生を五番目に据える
べきと考えたのかもしれないし」
「へえ、あの四人、僕と同い年か。たいした腕前だなあ」
二人でそんなやり取りをする内に、舞台中央を埋め尽くしていたトランプは
片付けられ、新たな演目に入った。
最前、一番目から三番目に演じた男女三人が、制服姿で出て来た。何をする
のかと見守っていると、スプーン曲げや念動力、透視といった超能力ショーを
面白おかしく演じ始めた。要はコントだ。スプーンが曲がらずにネクタイが曲
がったり、角度によって糸が丸見えになる念動力をやったり、透視がちっとも
うまく行かないと思ったら女の子の眼鏡が黒サングラスに変わっていたりと、
笑いどころを鏤めつつ、マジックを挟んだ構成となっていた。
笑いと皮肉たっぷりのコントが終わると、モニターに注目するようにアナウ
ンスがあった。テーブルマジック(クロースアップマジック)の始まりだ。舞
台には大きな丸テーブルと、六脚のパイプ椅子が運び込まれた。説明によると、
会場から観客を五人選び、間近で体験していただくとのこと。選ぶ方法は、入
場時に渡された紙の番号で、ランダムに決定する仕組みだった。段ボール製の
抽選箱に、演者が順に手を入れ、引いた紙にある数字と一致した者が壇上に招
かれる。
最後に針生さんが引き、書かれた番号を口にした。
「160番の方。いらっしゃいますか」
十文字先輩の番号だ。何という偶然。宿命のライバルたる証か?なんて考え
が、頭をちょぴりかすめた。
「やれやれ。百田君が望むなら、代わってもいいが、どうだね」
「い、いえ、結構です。僕はここで」
「そうかい。舞台上だと、種に気付いても、流石に口にできないので困るんだ
が」
渋々と、しかし笑みを浮かべて、先輩は席を立った。
さあ、どうなるのかと不安込みの興味津々状態で、成り行きを見守る。だが、
僕の期待は肩透かしを食らった。最初に、最前の超能力コントに出ていなかっ
た一年男子がコインを使ったマジックをやり、では次が針生さんかと思いきや、
もう一人の一年男子が出て来て、カップとボール三つずつを用いたマジックを
披露した。三番手には、オープニングを飾った女子がトランプを使ったカード
マジックをいくつか見せ、それで終わり。針生さんはクロースアップマジック
を演じなかったのだ。
「十文字先輩が選ばれたので、控えたんですかね?」
戻って来た先輩に尋ねてみると、首を横に振られた。
「残念ながら違うだろう。あいつは多分、クロースアップマジックの類は得意
じゃない。僕も見たことがないからね。元々、見せる気がなかったんじゃない
か。客選びの籤引きの際、あいつも引いたから、もしかしたら……と思わない
でもなかったが」
「そうなんですか」
不安になる必要はなかった訳か。
変にがっかりしていると、これが最後のマジック云々というアナウンスが聞
こえた。大掛かりな演目らしく、電話ボックス大の箱が運び込まれ、舞台中央
に設置された。程なくして、有名なスパイ映画のテーマミュージックが流れる。
舞台上手から黒尽くめの格好をした人物が駆け出し、それを追う形でトレンチ
コートに帽子を被った男――針生徹平その人が「待てー!」と叫びながら登場、
ともに下手へ消える。どうやら、私立探偵が犯人を追い掛けている構図のよう
だ。
下手から上手へと同じことをやり、三度目に上手から登場したとき、探偵が
追い付き、捕らえた。と、安堵する間もなく、犯人の仲間が現れ、探偵を背後
から襲い、昏倒させた。そして二人掛かりで引きずり起こすと、くだんの箱に
押し込め、手足を鎖で拘束した。箱の蓋が閉じられるが、顔の高さには丸く穴
が空いており、探偵の表情はよく見える。一種の覗き窓だ。犯人達は探偵の頬
をぺたぺたと叩いて、目覚めさせたあと、金属製らしき銀色の板を一枚ずつ持
った。それらを箱のサイドから、箱を三等分する位置に差し込む。人体切断マ
ジックだ。犯人の一人は、真ん中に当たる部分を、横に引っ張り、完全にずら
した。舞台の向こう側の衝立が見通せる。
探偵の顔が苦悶に歪む。が、それはほんの短い時間で、平気な様子になった。
犯人達は頭を抱え、驚くポーズ。真ん中の箱を押し戻すと、蓋(というか扉)
を開き、探偵の全身がどうなっているのかを確認する。押し込められたときの
ままの状態で、何ともないのは、観客席からでも分かった。
高笑いする仕種の探偵に、犯人達は悔しがり、ダイナマイトと目覚まし時計
をくっつけたような代物を探偵に示した。この時限爆弾で吹っ飛ばしてやるぞ
という意味だろう。慌てる探偵に対し、犯人二人は覗き窓を閉め切り、足下付
近に爆弾をセットした。
がたがたと揺れる箱。爆弾からは煙が出始めた(変わった時限爆弾だと笑い
そうになった)。そこへ、サイレンの音が鳴り響き、舞台には赤い光が当てら
れる。同時に、舞台の両袖からは、銀色の耐火服に身を包んだ消防士姿の何人
かが飛び出した。手にはめいめい、消火ホース(の先だけ)を持っている。内
一人の合図で、一斉に消火開始! 勿論、本当に火が出ている訳ではないし、
水や消化液が出る訳もない。が、ともかく消火は成功し、煙は消えた。それか
ら囚われの探偵を救出すべく、消防士達は箱を開けに(もしくは壊しに?)掛
かる。押したり引いたりする内に、勢い余ったか、全員が箱ごと前のめりに倒
れた。すると箱がばらばらに壊れ、中が露わに。しかし、そこに探偵の姿はな
かった。首を捻りつつも、消防士達は退場。
当然、僕は(きっと他の観客達も)よくあるマジックを思い浮かべていた。
どこか全く別の場所から、針生徹平扮する探偵が生還するに違いない。普通の
学校の体育館に奈落があるとは思えないので、方法は分からないが、とにかく
針生さんは舞台を秘密裏に抜け出しており、僕らをあっと云わせるようなとこ
ろから姿を現すはず。
そう信じて待っていたのだが……現れない。それどころか、変化が起きない。
三分経つか経たないかの頃、舞台裏が騒がしくなったような気がした。僕達観
客側もざわつく。
「ハプニングですかね、これ?」
「うむ……。焦らす演出にしては、長すぎる。スマートでない」
十文字先輩は鼻の頭を指の腹で撫で、思慮深げに眉間に皺を寄せた。
「何か起きたと見るべきだね。舞台裏だか楽屋だか控室だか知らないが、行っ
てみよう」
決断するや否や、先輩は席をすっと離れた。僕も急いであとを追った。
(このマジックなら、囚われ役を演じた人は、外を回って来る可能性が高い)
最前列で観ていた七尾弥生は、考えを素早くまとめると、身を低くして椅子
を立った。そのまま目立たぬよう、舞台とは反対方向、体育館の玄関へ向かう。
扉は閉まっていたが、押すと簡単に開いた。
外に出る。左右を見渡す。行き交う人は疎らながらいた。が、舞台から消え
た探偵の姿は見当たらない。
(人に見られたくない気持ちが強くて、舞台裏手からここまで回り込めないで
いる? そんな莫迦なことはないよね。普通の格好をして、普通に歩いて来れ
ば、誰にも気付かれない)
玄関とは反対側まで見に行ってみようかと考えた七尾だが、取りやめた。舞
台裏やその近辺で何か起きているのなら、他に人がいるのだから、じきに状況
把握できるはず。今更、部外者の自分が行っても仕方がない。
(あっちに探偵役の人がいないのなら、こっちまで探しに来るだろうから、こ
こでしばらく待っていよう。そしてもし、本当に探偵役の人が舞台裏手にいな
いのであれば、僕にできることは……)
七尾は改めて、マジックの演出プランについて想像してみた。どこから現れ
るのが最も効果的か。体育館の二階部分に当たる回廊? 観客に紛れて座って
いる? いずれも難しそう。可能な選択肢の中では、玄関側から入り、あの内
扉をばん!と開けて登場するのが常道だけれども……。
(もしかして、少し捻った? 玄関からじゃなくて――)
体育館へ向き直り、目を走らせる七尾。出入り口の両サイドには結構なスペ
ースがあり、ともに窓があることに気付く。自らの経験に照らし、そこが用具
置き場であると見当を付けた。
(そういえば、中から見たときも、スライド式の大きな金属扉があった。用具
置き場で間違いなし。あの窓を前もって開けておいて、中に潜り込み、用具置
き場から現れるというプランだったのかも。向かって右の窓なら、道から外れ
ていて、人目に付きにくいし)
壁際まで近寄り、試しに手を伸ばしてみた。だが、七尾の身長では窓まで届
かない。ただ、その窓が僅かに開いていることを発見したのは収穫かもしれな
い。
急いで体育館内に引き返し、右手の用具置き場に向かおうとした。しかし、
すでに二、三人が集まっている。
(あ、天野君だ)
知っている顔を見付けて安心した七尾は、足を止めずに用具置き場前の輪に
加わった。
「お、七尾さん」
天野が気付き、先に声を掛けてくれた。
「ケシン先生から道具を貸してもらったというのに、最後の最後で失態を見せ
ちまったようだな。格好悪い」
「それより、どうなってるの? そこから探偵役の人が現れる予定だったんじ
ゃ……」
「何だ、分かってたのか。俺達が集まってるから、やって来たのかと思った。
一応、他の客には秘密な。まだ、完全に中止とは決まってないから」
「それで? いたの?」
「いなかった。代わりに、あんな物が」
顎を振る天野。七尾がそちらを見やると、別の男子生徒が白っぽい紙を持っ
ていた。文字が書かれているようだが、館内の照明は弱いままで、ために、読
み取れない。
七尾は目を凝らし、そして記憶に引っ掛かった。問題の紙に、確かに見覚え
があった。
「すみません。その紙、よく見せてくれないでしょうか」
請われた男子生徒はその細い目で、見知らぬ相手を誰何する。天野がすかさ
ず紹介した。
「布川部長、彼女が七尾弥生さんです」
「あ、この子がそうなの?」
これだけで通じた。布川の目尻が下がる。
「君のことなら、よく聞いているよ。こういう状況でなければ、お手並み拝見
したいところなんだけど」
「いずれお願いします。それで、その紙ですが、僕、見たことあるかもしれま
せん」
切羽詰まった口調で云うと、布川も「え、まさかぁ」と半信半疑ながらも、
差し出しくれた。折り目通りに畳まれたそれを、七尾は指先で挟むようにして
受け取った。真上から眺めたり、掲げて透かし見たりと、あれこれ試す。ほん
の僅かに透けて見える罫線や模様が、記憶にあるそれと合致した。
「これ、針生徹平さんに渡してほしいと頼まれた物と、凄くよく似ています」
「え? 何だって?」
訝る天野や布川らに、七尾はできる限り手短に、奇術倶楽部の部室を出たあ
とのことを伝えた。
「――話は分かった。だけど、君は中身を読んでいないんだよね」
布川が聞いてくる。七尾は頷いた。
「だったら、そのときの紙がこれと同一とは断定できない。この便箋は学校指
定の物で、裏から透かし見ただけでは、違いが分からないと思う」
「でも、同じという可能性も……」
「いや。だとしたら、話がおかしくなるぜ」
今度は天野が否定する。
「頼まれた紙、針生先輩に渡したんだよな」
「ええ。それはもう、すぐに」
「じゃあ、何で針生先輩は渡された紙を残して、姿を消さなくちゃならない?」
「え?」
混乱した。姿を消した探偵役の人って……?
「あの、最後のマジックで探偵の役をしていた人が、針生さんなの?」
「ああ。気付かなかったのか? そんなに凝ったメイクなんて、してなかった
のに」
当てにならない記憶力だなと云わんばかりの天野。七尾は大きくかぶりを振
った。
「じゃあ、僕が手紙を渡した針生徹平は、誰?」
自分の発した疑問に応える声はなし……と思えた矢先。
「興味深い証言だ」
布川部長の後方から、鋭い声が飛んで来た。
僕と十文字先輩はやや離れた位置で、奇術倶楽部の人と知り合いらしき女の
子との会話を聞いていた。
異変を察知して舞台裏に駆け付けた僕らは、当初、部外者扱いされて、追い
出されかけた。が、居合わせた奇術倶楽部部長の布川さんが十文字先輩と顔見
知りで、取りなしてくれた。その上で状況を教えてもらった。
針生徹平扮する探偵は舞台を離れ、予定通り、裏口から外に出たという。そ
の後、体育館の周囲を半周し、体育用具置き場から現れる段取りになっていた
のだが、実際にはそうなっていない。どうしようかと話し合っていると、十文
字先輩と僕が押し掛けた訳である。
その後、とりあえず体育用具置き場を見に行こうと決まり、奇術倶楽部の三
人を舞台裏に残して、こちらに移動して来た。そこへ、この“僕っ子”少女が
現れたという次第だが。
「あの子を知っているかい、百田君?」
小声で尋ねてきた先輩に、僕は首を左右に振った。
「そうか。確認したかったのだが。僕の記憶に間違いがなければ、彼女は僕ら
と同じ、七日市学園の生徒だよ」
「え?」
我が校には学内有名人が大勢いるが、一年生である僕は、まだあまり詳しく
ない。一方、十文字先輩は名探偵を志すだけあって、情報収集を欠かさない。
「学園長の孫娘が、今年入学したと聞いている。フルネームは七尾弥生といっ
たはず。マジックが趣味とも」
「じゃあ、まず確定じゃないですか」
僕は改めて、学園長兼オーナーの孫娘なる人を盗み見た。ガリ勉のイメージ
は欠片もなく、ストレートヘアが似合う、平凡な女の子といった感じだ。高校
一年生にしては、小柄な方かもしれない。くりくりっとした目が、好奇心の強
さを窺わせた。
「自己紹介と行こう」
十文字先輩が云うので、僕は服の前面を手で払い、前髪を整え、見栄えを気
にした。心の準備だ。
それなのに、先輩と来たら……いきなり「興味深い証言だ」なんて発言をし
て、話に割って入ってしまった。そりゃあ、あなたにとってはそれが名刺代わ
りになるかもしれませんけどね。
「初めまして。僕は十文字龍太郎。七日市学園の二年生です。彼は同じく一年
生の百田充君」
勝手に紹介された。急いで頭を下げる。同学年ではあるけれど、学園長の身
内と聞いただけで、目上の感がある。
対する七尾さんは、まず驚き、次いで困惑し、それから笑顔を作って、「こ
ちらこそ、初めまして」と挨拶を返してきた。
「十文字さんの名前は、祖父から聞いてます。入学して間もない頃、学園内で
事件が起きましたが、そのときにご迷惑をお掛けしたとか」
「いやいや、あの程度は迷惑の内に入りやしません。ところで、目下、僕の関
心事は先程のあなたの証言でしてね。掻い摘んで云うと――七尾さんは仮面を
した人物から手紙を託され、自称・針生徹平に渡した。しかし、その文面まで
は知らない――こうなる?」
「その通りです。僕自身は、同一の手紙だったと信じていますけど」
「仮に、針生の偽者に再び会ったら、すぐに指摘できるかい?」
初対面かつ学園長の孫娘相手という事実が影響したのか、丁寧語だった十文
字先輩の言葉遣いが、ここに来て普段のそれに戻っていく。事件?に集中し始
めた証拠かもしれない。僕は「さん」付けをしばらく続けるとしよう。
「多分、できると……。短い間だったけれど、感じのよさそうな人だと思いま
したから」
「結構。現時点では、針生徹平の身に何らかのトラブルが起き、その原因を作
った者、要は犯人が手紙を置いて逃げた、と仮定して、話を進めるとしよう。
手紙は犯人からのメッセージと考えるのが妥当。ということで、布川。もう一
度、その手紙を見せてくれ」
布川さんは問題の紙を渡しながら、「それよりも何よりも、公演をどうする
かを早く決めないと」と困り果てた声と顔で云った。
「第三者からのアドバイスでしかないが、切り上げるべきだと思うね。ただし、
ここでぷつんと終わらせるのではなく、針生がマジックを続けられなくなった
旨を説明するんだ。その上で、一年生メンバーで穴埋めのマジックを見せるこ
とができるなら、そうするのがいい」
「――できるか?」
布川さんが天野に聞いた。この一年生マジシャンは数秒考え、「フィナーレ
にふさわしいかどうかは別として、見せていないネタならまだあります。他の
三人も同じだと思う」と返事した。
「よし。じゃあ、急いで戻って、四人で相談して決めてくれ。準備ができたら、
合図を。それまでにお客さんには説明しておく」
「了解っ」
意思決定がなされると、あとは早かった。天野は舞台裏へと猛ダッシュで走
って行く。布川さんも足を動かし掛けたが、念のためという風に十文字先輩に
聞いてきた。
「針生は急病ってことでいいよな?」
「だと思う。決めるのは君だ、布川」
「分かった。針生を見付けてくれ」
こうして布川さんも走り去る。用具置き場前には、七日市学園の生徒三名が
残った。
「穴埋めのマジックが始まるのなら、一旦、出るとしよう。暗くなるかもしれ
ないからね」
先輩の言葉に従い、内扉の向こうに移動する。ここなら、外からの明かりが
射し込んできて、手紙を読むのに差し支えない。その文面は、以下の通りだっ
た。
<針生徹平に告ぐ
我が名はジョン=ドラゴン・クロス 謎を編み、謎を切り裂きし者
貴君を一級のソルバーと見込み、ここに謹んで謎を編む
美馬篠高校文化発表会の期間中、当校に関わるものが死ぬ その真相を暴い
てみせよ
手掛かりは次の暗号にあり
ノギ一ョノウ一ノイ一エ
ノタノ丁一イノ一イ丁半
イョ丁クイ一丁イノ丁一
ノノイ一丁ノ半一コソ二
ョゴウインクコギイョ丁
タイギ丁ョイウ丁イエス
※行間を読め
明日が終わる迄に解けぬときは、我の勝利を宣言する
貴君の健闘を祈る
ジョン=ドラゴン・クロス>
――続く
#364/598 ●長編 *** コメント #363 ***
★タイトル (AZA ) 10/07/11 23:47 (493)
水は氷より出でて 3 永山
★内容
僕がロールプレイングゲームを連想したのは、きっと、ドラゴンという名前
のせいだろう。反面、暗号には漢字が混じっており、和の匂いが感じられる。
「これって、殺人予告でしょうか。もしかして、針生さんを?」
「それはない」
即座に断言する十文字先輩。根拠はなく、そう信じたいだけのように見えた。
口では嫌っていても、針生さんをライバルとして認めているようだから、悪い
想像はしたくないに違いない。
「針生の命を狙うなら、本人宛にこんな予告状を出すものか。矛盾している。
この文面は、明らかに針生に挑戦しているのが分からないかね。殺人事件を起
こすからその謎を解いてみよ、という訳だ」
一応の根拠はあったのか。お見それしました。
「何はさておき、暗号を解く必要がある。断るまでもないが、真っ当に行間を
読んでもだめだ」
「思い付いたんですけど、いいですか」
七尾さんが控え目に発言を求めた。
「無論。遠慮なく」
「行間を読めとは、ギョウの間を読めという意味じゃないですか? ほら、こ
の暗号文て、ギ、ョ、ウの三文字がたくさん使われています」
指差しながら自説を展開する七尾さん。関係ないけど、彼女のきれいに手入
れされた指に少々見とれてしまったことを、ここに密かに記す。
「面白い意見だ。でも、三文字の間とは?」
「多分、ギとョ、ョとウ、それぞれの間を読み取るんじゃないかなって」
「ふむ。やってみよう」
手帳にメモを取る先輩。結果は……。
「一ノゴイ丁イ、か。意味がありそうには見えないな。縦読みを含めるとして
も、タが一つ増えるだけ」
「一年五組の誰かを狙う、という意味かもしれません」
あきらめきれない様子の七尾さん。なるほど、一ノゴが一年五組を表すとい
うのは、考えられなくもない。むしろ、賛同できる。だが、そうなると、イ丁
イとは何だ? 個人を示すはずだが、こんな人名、あるだろうか。
「あるとしたら、『糸井』かな? 片仮名でイトイと書いて、真ん中のトを横
倒しにしたとか」
「百田君。推理するのはいいが、考えなしに何でもかんでも声に出すのはいけ
ない。もしイトイを表したいのであれば、丁の字を使わず、最初からトを書け
ばいいじゃないか」
「そうですよね……」
速攻で否定された。毎度のことながら、ちょっとばかり落ち込む。僕が黙り
込むと、再び七尾さんが口を開いた。
「丁は『ちょう』と読みますから、『伊調』さんではどうでしょう? 残るイ
は下の名前の最初の文字。一年五組には伊調さんが二人以上いて、区別するた
めに」
「ぴんと来ないなあ。七尾さんの推理で当たりなら、名前を漢字と片仮名で表
す理由というか、必然性がほしい。これだけの文字数を使っているんだ、イチ
ョウの四文字ぐらい、すべて片仮名で表せるはず。なのに、犯人がそうしてい
ないということは、解読方法が間違っている気がする」
「だめでしょうか」
七尾さんも沈黙してしまった。が、先輩の態度は、僕のときと若干異なって
いた。
「いやいや。君はなかなか素晴らしい示唆を、僕に与えてくれた。ギ、ョ、ウ
の三文字はきっとフェイクなんだ。落とし穴を這い出て、真の正解に辿り着く
には、もう一つの行間を読む必要がある」
そう云うと、十文字先輩は暗号全文を写し取り、そこへペンで丸を入れてい
った。
「このノとイを重ねたら、ぎょうにんべんに見える」
「はあ」
「一と丁を重ねると、片仮名のテに似た形になる。呼び方があるのかもしれな
いが、生憎、僕は知らない。肝心なのは、ぎょうにんべんとテを並べると、行
の字になることだよ」
「え……っと」
書いてもらって、すっきり理解できた。確かに行という漢字ができあがる。
「行間を読めとは、ノ、一、イ、丁の四文字に囲まれた字を順に読めという意
味ではないか。こう考え、該当箇所を拾っていくと……タイイクソウコになる」
「――体育倉庫!」
「って、どこだ?」
七尾さん、僕の順で云った。学校関係者じゃない僕らには、体育倉庫がどこ
にあるのか分からない。体育館内にある用具置き場とは違うのだろうか。辺り
をきょろきょろと見回す。
らしき建物が、体育館と直角をなす位置にあった。直射日光を避けるためか、
数本からなる人工林に遮られていたが、正面にある大きな扉は左右にスライド
させるタイプで、物の出し入れが容易な構造になっている。
「あそこでしょうか。鍵が掛かっていそうだけれど、学校の人に頼めば中を調
べてもらえるかも」
呟いた僕の前から、先輩が消えた。言葉より行動とばかり、体育倉庫(と思
しき建物)に向かっている。
「あ――。えっと、七尾さん、暗号が体育倉庫を示していたことと、僕らは倉
庫に向かったことを、布川さんに伝えてくれる?」
「はい。またあとで」
記述者役として最低限のことは果たした、と思う。七尾さんの姿が扉の向こ
うに見えなくなると、僕は先輩のいる体育倉庫を目指した。
建物正面にはいない。が、開けられた気配はなく、実際、錠が下りていた。
ぐるっと見て回ろうとすると、向かって右側面奥に、勝手口のようなドアを見
付けた。荷物の出し入れとは別に、人の出入りのためにあるようだ。その手前
に、十文字先輩はいた。近寄る僕に気付き、早口で云った。
「鍵が掛かっている」
「じゃ、じゃあ、鍵を借りてきましょうか。念のため、中を調べないと」
「待て。さっき呼び掛けたんだが、中から音がするんだ。呻き声のようなのと、
物を引きずるような」
先輩が口を噤むと、確かにそのような音が聞こえてきた。誰か、あるいは何
かがいるのは間違いない。
「……乱闘って雰囲気じゃありませんね。物を引きずって、疲れて喘いでいる
感じに近い」
「犯人が遺体を引きずっているとも考えたんだが――」
名探偵を自負する先輩は、さらっと恐い発言をする。
「――犯人がいるのなら、外から声を掛けられれば、逃げ出そうとするのが普
通だ。その気配が全くない。ということは、誰かが身動き取れない状態で、も
がいているんじゃないだろうか」
「だ、だとしたら、なおさら早く助けないと」
「君に同意してもらいたかったんだ。それともう一つ。ドアに鍵が掛かってい
ることもね」
そう云って、ドアの前のスペースを空ける先輩。僕はノブに手を伸ばし、捻
ってみた。手応えがあった。
が、そのとき、ドアの下部をどしんと叩く、大きな音がした。反射的に手を
引っ込める。二人して様子を窺っていると、小さく、かちゃっと音がし、直後
にもう一度、どしん。
「中から開けた?」
十文字先輩がドアノブを回す。抵抗なく回った。用心しつつ、開ける。中は
薄暗い。ドアは内開きで、三十度と開かぬ内に、何かに当たった。外の光で、
それが人の足と分かる。仰向けの格好で、ロープ上の物で足首を縛られていた。
靴下は身に着けているが、靴は履いていない。上半身に目を移すと、猿ぐつわ
を噛まされた男の顔が見えた。
「針生!」
十文字先輩が叫ぶや否や、無理矢理にドアを押し開け、中に転がり込む。
光が増したおかげで、僕はその男性の格好が、最後のマジックで探偵役を演
じていた人の格好と同じだと気付いた。針生徹平その人である。よく見ると、
手も後ろ手に拘束されていた。
「大丈夫か」
右側に跪き、猿ぐつわに用いられた手ぬぐいを外しながら、先輩は針生さん
に声を掛けた。必死さが表に出ている。
対する針生さんは精根尽き果てた様子だったが、目をうっすらと開け、口を
動かした。すぐには声が出ず、二度ほど唾を飲み込んで、やっと聞こえてきた。
「どうにか……助かった……。もう一人、いる」
それから弱々しく首を振り、奥を示す。先輩はすっくと立ち上がり、僕の方
を見ると、「百田君、明かりを」と指示してきた。
僕はほんの少し遅れて、電気のスイッチのことだと理解した。ドア枠の横に
あるスイッチを見付け、オンに入れる。複数の蛍光灯が灯り、一気に明るくな
る。
すると、倉庫の中央辺りに人影が浮かび上がった。古びたマットが三つ折り
に畳まれて置いてあり、その上に横たえられていた。ぴくりともしない。身体
の真ん中よりやや上辺りに、細い何かが見えた。
「――百田君。君は針生の拘束を解いてやってくれ。あっちは僕が見る」
云うと同時に行動を起こし、先輩はとぐろを巻いた綱引き縄やハードル、無
造作に置かれた鉄アレイや砲丸、それに徒競走で順位を示す旗といった様々な
“障害物”を避けながら、マットの方へ急ぐ。
僕は遅れて「はい」と頷き、しゃがんだ。まずは足からと思ったのだが、拘
束具はビニール製の丸い紐で、結び目は固く、解きづらい。引きちぎろうにも、
素手では皮膚が切れそうだ。では腕はと見ると、何と、手錠であった。銀色に
光っているが、手触りから、プラスチック製の玩具だと知れた。それでも、鍵
がないと開けられそうにない。
「どこかに、工具箱があるかもしれない」
針生さんが苦しげな声でそう伝えてきた。なるほど、体育倉庫なら、工具箱
があっても不思議ではない。僕は一旦、彼の元を離れ、探した。
勝手が分からず、当初はおろおろしたが、案外近くで見付かった。入って来
たドアを右に、壁沿いに進んだ途中に工具箱はあったのだ。ペンチやドライバ
ーなど、役立ちそうな物が入っている。選ぼうとして、僕は莫迦だなと内心呟
いた。箱ごと持って行けばいい。
手錠はペンチで破壊し、外せた。足のビニール紐が意外と難物で、鋏があれ
ば一発なのだろうけど、残念ながら見当たらない。鋸では危険だ。結局、鑢で
ごしごし擦り、部分的にぼろぼろにしてから引っ張ると、ようやくちぎれた。
「先輩、こちらは終わりました! そっちはどうですか?」
叫ぶようにして聞くが、返事がない。と、先輩はくるりと身体の向きを換え、
僕の方へ戻ってきた。表情が険しい。
「おい、針生。何があった?」
「何って、マジックで外に出たあと、誰かにやられたとしか。おまえが噛んで
るにしては、乱暴すぎるとは感じたが……。保健室、連れて行ってくれないか。
手当てを」
「勿論だ。が、あと一つだけ。おまえが云ったもう一人の奴、死んでいるぞ」
「何?」
「殺されたようだ。何も知らないのか?」
詰問調の十文字先輩に、呆然とした様の針生さん。僕は突っ立ったまま、聞
いているほかなかった。
昼休みの学食は騒がしく、多少のお喋りは誰に聞き咎められることもない。
「それでどうなったのよっ?」
五代春季(はるき)先輩にどやされる十文字先輩。それに付き合わされる僕。
休み明けの学校でも、貴重な昼休みを潰さざるを得ない羽目に陥っていた。
「あとは、君にも伝わってるんじゃないかな?」
気取った手つきの十文字先輩。悪びれる様子は欠片もない。
「五代君の名前を出したら、比較的早く、解放してもらえたよ」
「私の名前じゃなくて、私の父や祖父の名前でしょうが!」
「必然的にそうなる」
「……呆れた。まったく、私と知り合う前は、どうやって切り抜けていたのや
ら」
「五代君と知り合えたからこそ、前よりも踏み込めるんだ。その点、感謝して
いるよ」
「――百田君。あなたを常識人と見込んで、敢えて無理な頼み事をする。この
男の手綱をしっかり持って、できる限り操縦するように。いいわね」
五代先輩は名探偵を指差しながら、僕の顔を真っ直ぐ見据えた。そんなこと
頼まれても、まるで自信ないのですが。でも、ここは首を縦に振っておかない
と、場が収まらない気がした。
「とにかく」
再び、十文字先輩に向き直る五代先輩。
「今回は被害者にあなたの友達がいるから、分かったことがあれば特別に教え
てあげる。でも、そちらから聞いてくるのはなし。以上、最大の譲歩をしたの
だから、反論は認めない」
「やむを得まい。本来、探偵とは警察の力を当てにしないものだ」
十文字先輩の答を聞き終えず、五代先輩は席を立った。
「やれやれ、しょうがないな。困ったもんだ」
いや、困ったもんだはあんただ、と喉まで出かかった。
「こうなると分かっていたら、もう少し容疑者らしく振る舞って、あの刑事達
から情報を聞き出しておくべきだったかもしれない」
実際、最初期だけだったが、十文字先輩は容疑者扱いされた。
その原因は、遺体と一緒に倉庫に閉じ込められた針生さんの証言にある。特
に、渡された手紙にあった署名が十文字龍太郎を意味するものと信じていた、
と証言したためだ。なるほど、ジョン=ドラゴン・クロスを強引に和訳すれば、
十文字龍太郎になる。加えて、針生さんと十文字先輩が昔からライバル意識を
燃やしていた事実、十文字先輩が美馬篠高校を訪れた日に事件が起きたこと等
を勘案すれば、警察としても疑わない訳に行くまい。
勿論、犯行推定時刻には体育館で奇術倶楽部の公演を一緒に見ていたという
僕の証言により、ひとまず容疑は晴れた。僕の証言以上に、五代先輩サイドの
口添えが効果大だったかもしれない。他にも理由はあって、被害者――針生さ
んではなく殺された方――が、先輩とは直接のつながりを持たない人物だった
のだ。名を葛西知幸(かさいともゆき)といい、美馬篠高校二年生。つまりは
針生さんの同学年で、一年時は同じクラスだったそうだ。話はするが深い付き
合いはなく、クラスが別れてからは、顔を合わせることもほとんどなかったと
か。どちらかといえば目立たぬ存在で、トランプの独り遊びやクイズパズルの
類を好んでいた、とは針生さんの弁。パズルという共通項のおかげで、一年生
のときに針生さんと話が合ったのかもしれない。
文化発表会当日も一人で行動していたようで、具体的な動きは、警察でもま
だ把握できていない模様だ。
「報道で知る限り、凶器も未発見のようだね」
昼休みの残り時間を費やし、事件を整理するトークは続く。
葛西――呼び捨てにさせてもらおう――は、セラミック製の包丁で刺し殺さ
れていた。凶器は胸に刺さったままになっており、少量の出血を僕自身も目の
当たりにした。その他、いくつかの打撲が全身にあったという。なお、この包
丁は、美馬篠高校の調理実習室から持ち出された物と判明している。
死亡推定時刻は、発見が早かったおかげもあってか、文化発表会当日の十一
時から正午までの一時間に絞り込まれていた。奇術倶楽部の公演は十一時から
の一時間を予定していて、ラストの演目中に、針生さんの身にトラブルが降り
懸かったと分かったのが、十一時五十分を回った頃。
「僕らが体育倉庫に駆け付けたのが、十二時十五分か、遅くても二十分にはな
っていませんでした。あの時点で、倉庫内に犯人はいなかったと思われます。
十一時五十分過ぎに、針生さんを襲って倉庫内に連れ込み、遺体とともに転が
し、現場を密室状態にしてから逃げ出したと……できなくはありませんね」
「まだ、手紙を針生から奪い、用具置き場に放り込むという作業があるから、
ぎりぎりだろうね。尤も、密室が合鍵の産物だとしたら、密室作りの手間はゼ
ロに等しいが」
体育倉庫の鍵は正面扉、勝手口双方とも、職員室で保管されている。とはい
え、生徒であればほぼフリーパスで借り出せたし、錠前屋に持ち込めば簡単に
コピーできる程度の代物。そもそも、勝手口のドアは普段から施錠せず、開け
っ放しだったという。授業時に、鍵を職員室まで取りに行くのが面倒であれば、
勝手口から入り、正面扉のロックを内側から外す、これで事足りる訳だ。
「針生さんは気を失っていて、犯人が鍵を掛けるところ、ないしは密室状況か
ら抜け出すところを見ていないんですよね」
「百田君。正確な記述を心掛けるのは結構だがね、そんな密室トリックの分類
に拘るのは、無駄だよ。他にも種々様々なパターンがある。たとえば、密室状
況の倉庫に、気絶した針生と遺体を何らかの方法で入れた、とかね。全ての事
例を挙げていては、冗長になってしまう」
「はあ」
妙な点で注意されてしまった。記述者として期待されているのだから、仕方
がないかもしれない。
「それにしても針生さんは、縛られた状態で、よく中から解錠できましたよね。
勝手口のドアは内側からなら、ノブの上にあるつまみを倒すだけで開くとはい
うものの、あそこまで這って行き、ドアに足を向けて精一杯振り上げ、つまみ
に的確にヒットさせなきゃならない」
「あいつも僕に似て肉体派ではないが、身の危険を感じ取っていたんだろうな。
普段やれと云われてもできないだろうが、危機的状況下故にやり遂げたに違い
ない」
「靴があるのとないのとでは、どちらが楽なんでしょうね」
「うん?」
「床に横たわったまま、ドアのつまみを倒すとして、靴を履いているのといな
いのでは――」
「面白い着眼点だ」
僕が皆まで繰り返さぬ内に、先輩は大きく頷いた。
「もしも、靴のない状態の方がやり易いとしたら、犯人はわざと針生に逃げる
チャンスを与えた可能性が出て来る」
「そんな」
「いや、考えてもみたまえ。犯人は針生の命を奪おうと思えばできたのだよ。
しかし、現実にはそうしていない。遺体と一緒に密室状態に放置するなんて、
故意にあいつを苦しめようとしているかのようだ」
「確かに、云われてみれば」
「犯人は、僕に濡れ衣を着せたい節がある。針生を殺さずに苦しめるやり口は、
ある意味、針生をライバル視する十文字龍太郎らしい、と犯人は考え、こんな
犯行をしでかしたのかもしれないな。どう思う?」
「僕には何とも云えませんが……犯人がそう思い込むことは、あり得るんじゃ
ないでしょうか」
下手に先輩を批評するような発言は控えたい。
「うむ、結構。ただ、犯人が靴を脱がせたのは、針生に渡った手紙を取り戻し、
用具置き場に置くという目的が大きかったとも解釈できる」
針生さんは犯人からの手紙を受け取ったあと、どこかに置いておくことはせ
ず、身に着けておくことを選んだそして、。奇術の邪魔にならないよう、靴底
に入れた。この隠し方は、針生さんの親しい男友達なら誰もが知っているとい
う。無論、十文字先輩も。
「だとしたら、犯人は針生さんと親しい人ってことになりませんか」
「おかしくあるまい。僕と針生に恨みを持つ者を怪しむのなら、当然、針生と
親しい人物も入ってくるさ。むしろ気にするとしたら、犯人は他の箇所を探す
ことなく、真っ先に靴を当たったらしい点じゃないかな」
ミス研及び奇術倶楽部の部室に、荒らされた痕跡は皆無だった。また、拘束
された針生さんの衣類を探ったかどうかは、針生さんが床を這いずり回ったお
かげで、判然としなかったものの、短時間で靴という正解に辿り着いている事
実から、衣服は端から眼中になかったと考えられる。
「まあ、些細な引っ掛かりに過ぎないがね。針生が手紙を身に着けていなかっ
たら、犯人は予め用意しておいたもう一通を取り出しただけさ、きっと」
ここで予鈴が鳴った。
事件のおさらいがまだ少し残っているんだけれど、仕方がない。五代先輩の
お説教が長かった。手綱をコントロール云々の指令もあるし、切り上げるとす
る。
「あっと、忘れるところだった。百田君」
十文字先輩が僕を呼び止めた。
「七尾君と接触できそうかい?」
学園長の孫娘も、結局は他の下級生と変わりなく、「君」付けするようにな
っている。
先輩のそんなところに変に感心しつつ、僕は受け答えした。
「ええ、どうにかなると思います」
七尾弥生は学校を休んでいた。学園長の七尾陽市朗が、殺人事件に巻き込ま
れた孫娘を案じて休ませたというのが、専らの噂である。
実は、十文字先輩は事件発生の時点で早々に、七尾さんに詳しい話を聞きた
いと申し込んみ、色よい返事をもらっていたのだが、一夜明けて、断りの連絡
が入ったという。何故か七尾さん自身からではなく、学校側から。
「前に園内で事件が起きたときは、探偵活動を認められたのに、今回は学外の
事件にも拘わらず、渋るとは。いくらお孫さんが巻き込まれたと云っても、極
端だな。裏に何かあるのかもしれない」
こんな風に推理を働かせた名探偵・十文字龍太郎は、僕と一ノ瀬に七尾さん
とコンタクトを取るよう、頼んできた。一年生同士の方が接触し易かろうとい
うのと、先輩自身は針生さんと話がしたい欲求が強いため、僕らに任された次
第。
「昔、殺人事件に首を突っ込んでいるね、孫娘さんは」
前日に一ノ瀬にリサーチを依頼し、朝一番での報告があった。どうやって情
報を入手したのかは、敢えて尋ねまい。
「えっと、中学生のときか。そんでもって、解決に一役買ってるよん」
「そうなんだ? 意外だな」
七尾さんの容姿を思い浮かべ、小柄な彼女が謎解きする場面を想像してみた
が、まるでぴんと来ない。十文字先輩のそれを当てはめてはいけないのかも。
「でも、分かった気がする。このときのことがあるから、事件に関わらせたく
なくて、学園長は十文字先輩が七尾さんに話を聞くのを邪魔したんだ」
「謎が解けるんだったら、自由にさせればいいのに」
「たまたま一件、解決できたからって、事件に積極的に関わるようになってい
ったら、まずいだろ。自ら火に飛び込むようなもの。娘がそんなのだったら、
親や家族も嫌だろうし」
「あれれ、じゃあ、十文字さんはー? 息子だったらいいのかにゃ?」
と、一ノ瀬から反撃を食らったところで、朝の休み時間は終了。その後、授
業間の短い休憩を活用し、僕と一ノ瀬は、どうやって七尾さんに接触するか、
段取りを考え、作戦を練った。僕自身はだめだ。事件関係者であることが七尾
さんの家族に伝わっているだろうし、十文字先輩に助手扱いされていることも
同様。一ノ瀬にしたって、四月の事件では十文字先輩と一緒に探偵に収まって
いた。
「という訳で、お願いします、剣豪殿」
「……」
放課後、帰り支度を始めていた音無が振り返り、じろりと僕らを見る。怪訝
がる目付きだ。
僕は説明を端折っていきなり云った一ノ瀬を引っ込ませ、ことの次第を改め
て話した。
「話は分かったが、それよりも百田君。先に、私に報告することはないの」
「あ、十文字先輩の都合のよい日? あれは――」
「そこなんですよぉ」
また勝手に喋る一ノ瀬。今は猫の手つきは影を潜め、太鼓持ちみたいな仕種
を垣間見せる。最近、落語でも観て覚えたか?
「実はみつるっち、尋ねたはいいが、十文字さんに見抜かれまして。あなたが
招待したがっていることを白状してしまったんですよ」
「え?」
こちらを振り返った音無に、僕は違う違うと首を左右に振った。まだ一切の
話をしていないんだってば。
しかし、一ノ瀬のお喋りは止まらないどころか、勢いを増す。
「それを知った十文字さん、にこりと笑い、『音無君が僕に協力してくれれば、
お礼なんて充分』と云って、今度のことを頼んできたんですよ〜」
「それは困る。言伝ぐらいでは、私の気持ちが済まない。礼を尽くすには、是
非、ご招待を」
「うん、そう思って、ミーも十文字さんに重ねて伝えたよ。ならばってことで、
『今度の件で協力をしてくれたら、喜んで招待を受けよう』だって」
音無の堅い物言いに肩が凝ったのか、普段の喋り方に戻った一ノ瀬。音無に
それを気に留める風はなく、安堵の表情を浮かべた。
「そういうことであれば、こちらこそ、喜んでお引き受けしますと、伝えてほ
しい。早速、お見舞いを兼ねて出向くとしよう」
「りょーかい」
軽い受け答えの一ノ瀬を押し退け、僕は「ありがとう、先輩も僕も助かるよ」
と云った。
「君なら、学園側にもいい印象を持たれているに違いないし、例の事件のとき
だって、巻き込まれた被害者の立場だったから、ある意味、七尾さんと同じ境
遇と云える」
「だから受け入れられる、と。百田君が云うと重みが感じられないのは、何故
なんだろう。口が軽いからかな」
音無はぐさりと突き刺さるような言葉を残して、教室を出た。
「よかったよかった。これでうまく行くよ、みつるっち」
一ノ瀬め。こいつが女でなかったら、後ろから蹴り倒していたのに。
「さっき出て行った人、誰?」
入れ替わりの来客――無双と衣笠の二人――に、七尾はまだもらった花を花
瓶に生ける間もなかった。
「学校の人。お見舞いに来てくれた。病気じゃないんだけれどね、学校を休ん
だから」
「ふうん。じゃ、委員長なのね。確かに、らしい見た目だった」
「委員長かどうか、僕は知らない」
無双の早合点を訂正する。
「ええ? 何で。同級生なんでしょうが」
「それが違う。学年は同じでも、クラスは別の人。音無さんといって、名前は
知っていたけれど、話したのは初めてだった」
「うーん。さっぱり分からない」
衣笠が持って来たお菓子を開けながら、首を捻る。
「事件を推理しようと思って来たのに、その前に謎を出されちゃうと困る」
「しーっ! 事件の話はなるべく小さな声で」
七尾は自室のドアをしっかり閉めた。祖父は不在のはずだが、お手伝いさん
がいる。彼女らの耳に入れば、筒抜けも同然だ。
「とにかく説明するから、座って」
友人二人を落ち着かせ、自分も落ち着くと、七尾は話し始めた。
「文化発表会での事件、第一発見者になった七日市学園の生徒がいたでしょ。
あの人が十文字龍太郎さんといって、数学やパズルの天才にして、名探偵を目
指してる人。音無さんは、その十文字さんの命を受けて――って音無さん本人
の言葉だよ――、事件解決のため、話を聞きたいと頼みに現れたっていういき
さつ」
「あ、何か思い出した。当たり前みたいな顔をして、事情聴取を始めていたあ
の人ね。名探偵志望ってことは、やっぱり、ちょっと変人入ってる?」
「僕も詳しくない、というか、親しくないので……」
衣笠の問いに、言葉を濁すしかない七尾。そこへ無双が決め付ける調子で云
った。
「確実に変人でしょ。本人が直接来ないなんて。理由があって来られないとし
ても、電話で済むんだしさ」
「いや、それは」
と、七尾は十文字自身がここへ足を運べず、電話もしづらい理由を話して聞
かせた。ついでに、事件解決の実績があることも強調しておく。
「――なるほど。じゃあ、一応、前言撤回しておくわ。私達にとって他校生と
はいえ、年上だし」
「それより、七日市学園の名探偵が乗り出してきたってことは、私達にとって
ライバル出現な訳で、困るわ」
衣笠が眉間にしわを寄せ、困りを作る。芝居がかっているのは、この前の舞
台だけでは物足りないせいかもしれない。
「そういえば、電話でマジック探偵団とか云っていたけれど、本気でやるの?」
「だからこそ、こうして久しぶりに来たんじゃない」
「そうそう。事件解決の実績なら、私達にもあるんだし、自信を持っていいと
思うよ」
のりのりの二人。彼女らの目の輝きを前にして、七尾も決心した。
「よし、やろっか。――でも、天野君と法月君がいないよ」
「あの二人には、あとで伝えておく。問題は、一堂に会する時間が、マジック
の練習の合間ぐらいしか取れそうにないことね」
「僕が十文字さんに接近して、話す代わりに情報を得る。それをみんなにメー
ルか何かで伝え、一緒に考える。これでいいんじゃない?」
「うん、名案」
無双が大きく首肯した。
「どうやら出し抜かれてしまったようだよ」
放課後、十文字先輩の教室まで足を運ぶと、先輩は僕の顔を見るなり、切り
出した。
「いくら知り合いが巻き込まれていたからと云って、充分に観察する余裕をな
くしていたのは、名探偵としてあるまじき失態だった」
十文字先輩が何をこんなに悔しがっているかというと、警察が既に密室の謎
を解き明かした(らしい)ため。
五代先輩からもたらされた話によれば、捜査陣はまず、合鍵の可能性を潰し
た。市内にある鍵関係の店を虱潰しに当たった末、美馬篠高校体育倉庫の鍵を
持ち込んで合鍵作成を依頼した者はいなかったと結論づけた。
次に、現場となった体育倉庫を徹底的に調べた結果、天井近くの壁に通気の
ための小さな孔が設けられていた事実に着目。さらにその孔を通して、細いゴ
ムホースが倉庫内へ引き込まれていたという。後の聞き込みで学校の備品と判
明したそれは、長さにして二十メートル。
これとは別に、釣り糸が校庭の茂みの中から発見された。長さは約三十メー
トル。
ゴムホースを子細に調べてみたところ、内側に筋ができていた。ちょうど、
釣り糸を通して擦れることで付くような痕跡であったらしい。
これらの事実から推測されたのは、犯人は三十メートルある釣り糸の片端を、
勝手口のつまみに結び付けたあと、恐らくは滑りをよくするためにゴムホース
内を通して外へと出し、倉庫を脱出してから、釣り糸を引くことでつまみを倒
し、施錠せしめるというトリック。
「通気孔の位置、ドアとの角度、ゴムホースを通気孔のある高所に仕掛けるこ
とができるか否かといった疑問をぶつけてみたが、警察は実験済みだそうだ。
まさか、こんな推理小説めいたトリックを、警察がこうも早く見破るとはね」
「犯人も間が抜けていますね。苦労して密室を作った割に、釣り糸やゴムホー
スを放置するなんて」
「うむ。加えて、何のために密室にしたのかも、判然としない。針生を犯人に
仕立てたかったのかもしれないが、百田君が指摘した通り、詰めが甘い。ゴム
ホースにしても、摩擦軽減のためなら、二十センチもあれば充分だと思うんだ
がね。切るのが面倒だったか、切る道具がなかったのか……。計画性があるの
かないのか、よく分からない犯人だ」
「計画は立てたが、釣り糸だけで大丈夫と思ってたんじゃないでしょうか。実
際に仕掛けてみると、滑りが悪い。そこでゴムホースの利用を思い付いたが、
切る道具がなく、丸ごと使用した……」
「調べた訳ではないが、刃物ぐらい学校にあるんじゃないか? 鋸の一本や二
本。剪定鋏でもいい。工具箱には、ペンチがあったんだろ。それでも事足りる
んじゃないかな。ゴムホースを現地調達したのなら、刃物にも気が回りそうな
ものだ」
名探偵の否定に、僕は黙って自説を引っ込めた。代わりに、殺害方法に話題
を転じる。
「釣り糸といえば、殺害トリックにも用いられていたんですよね」
「うむ。警察の推定では、天井近くを横に走る柱を跨いで、片方の端には包丁
を結わえ、もう片方は金バケツの中に作られた氷塊で固定されていたというこ
とになっている。包丁は被害者の真上にセッティングされていた」
時間の経過とともに氷が溶け、包丁が落下、身動きを取れなくされていた葛
西の胸に突き刺さったと考えられている。勿論、警察が見付けたのは水を張っ
たバケツと、包丁の柄にある孔に付いた糸が擦れたような痕跡であり、その痕
跡から類推して釣り糸を倉庫内で発見したのだ。
「この仕掛けにより、犯人は犯行時刻にアリバイを得る狙いだったんだな。警
察に簡単に見破られるとは、予想していなかったのかね。僕が思うに、釣り糸
にはコンパクトだが重量のある物が、いくつか絡めてあったかもしれないな。
包丁一本だけでは、確実に殺せるかどうか、流石に不安を感じるだろう。僅か
でもずれれば、アウトだからね。それを補うために、重量物を絡めておけば、
脳天に直撃することで致命傷を負わせ得る」
「全身の打撲は、その痕だと」
「ああ。現場に鉄アレイが三つ四つ、転がっていたのを覚えている」
釣り糸さえ目にしていれば、十文字先輩も警察と同じ推理を、警察よりずっ
と早く組み立てていたに違いない。改めて、頼もしく感じられた。
それはさておき、警察が現時点で力を注いでいるのが、氷を用意し得た者の
炙り出し。学校外から調達するのはなかなか困難を伴うと考えられるので、美
馬篠校内にある設備を利用したのではないかと見ている。家庭科室に冷凍室付
きの冷蔵庫が、学食の調理場に冷凍庫があるらしい。だが、いずれかが使われ
たのかとなると、疑問が残る。前者は学園祭前日に故障が発生し、そのままに
なっていたし、後者は食材が常に保管されているため、バケツ一杯分の氷を作
るスペースがないという。
他方、針生さんと七尾さんそれぞれに手紙を渡した人物や、針生徹平を自称
した男の割り出しにも、重点を置いている。
こちらについてクロースアップされるのは、手紙の渡った順番だ。七尾さん
の証言によると、仮面の人物から受け取り、直後に現れた偽の針生に渡してし
まったことになる。一方、針生さんは手紙を、矢張り仮面をした者から渡され
たという。両者の証言から、各々の仮面の怪人は扮装や背格好が非常に似通っ
ており、同一人物と推測される。
――続く
#365/598 ●長編 *** コメント #364 ***
★タイトル (AZA ) 10/07/11 23:49 (495)
水は氷より出でて 4 永山
★内容
「常識的に考えれば、同じ文面の手紙が二通、用意されていたことになる」
「二通あったとしか、考えられないんじゃあ……」
「いやいや。飽くまでも可能性の問題だが、偽の針生が仮面を被り、七尾さん
から受け取った手紙を針生に回したという流れも考えられる。いつ受け取り、
手渡したのか、二人とも時刻に関しては記憶があやふやだから、決定的なこと
は云えないのさ」
あらゆる可能性を考慮する。探偵として必要な思考方法なんだろうけど、場
合によっては自縛の紐になり得るだけに、どこで見切りを付けるかが大事だ。
そしてその見極めに優れているのが、名探偵なんだと思う。
「ところで百田君。七尾君はまだかい。学校には来ているはずだが」
「もうすぐですよ」
今、音無と一ノ瀬が呼びに行っている。尤も、音無は仲介役に徹したいとか
で、七尾さんと一ノ瀬を引き合わせたあとは、こちらには向かわず、剣道の練
習に打ち込むと云っていた。
「我が校の校長は、割に力があるようだね。参考人聴取を望む警察に対し、孫
娘の体調が回復してからとかいう理由で、拒んでいるそうだ。つまり、この点
で僕らは警察に先んじることが――」
先輩が云い終わらぬ内に、教室前方のドアから、一ノ瀬と七尾さんが入って
来た。僕が来た時点では、他に何人か残っていたこのクラスも、今や僕ら四人
だけである。
自己紹介は事件当日に済んでいたが、改めて互いに名乗っておく。そうして、
本題に突入した。
「早速だが――一ノ瀬君」
先輩に促され、一ノ瀬は小脇に抱えていたノートパソコンを机に置いた。開
くと、スタンバイ状態だったらしく、すぐに画面が明るくなる。何らかの画像
データを既に読み込んであった。顔写真のサムネイルがずらっと……これはま
さか!?
「美馬篠高校在校生全員の顔写真を入手した。君が見たという偽針生徹平がこ
の中にいないか、見て行ってくれたまえ。とりあえず、男子を優先で。同時に
聞いてほしいのだが――」
七尾さんに指示をする十文字先輩を横目に見つつ、僕は一ノ瀬の腕をつつい
た。
「んにゃ?」
「もしかして、あの顔写真のデータ……」
「うん。ちょっと入らせてもらったよん。セキュリティがないも同然で、玄関
から堂々と入った気分」
あうう、やっぱり。
「ばれてないのか」
「多分。たとえ辿られても、ミーとは無関係のマンションに辿り着くだけだし、
そこの住人さん達にも迷惑は掛からない。みつるっちは安心して、泥船に乗っ
た気分でいて」
泥じゃなくて大だ、大。こめかみを押さえる僕の耳に、七尾さんの遠慮がち
な声が聞こえてきた。
「一つずつチェックする前に、先に見ておきたい人がいるんです」
「おや。奇術倶楽部の一年生以外にも、美馬篠に知り合いが? いや、知り合
いなら顔をよく知っているはずだから、理屈が合わないな」
「僕が云ったのは亡くなった方、葛西知幸って人のことですよ。あの人の顔、
一紙だけ小さく出ていたのを見たものの、不鮮明だったから」
「おお」
感心したように口笛を短く吹いた先輩。呼応する形で、一ノ瀬がパソコンを
いじり、葛西知之の写真を大きく呼び出す。
「どう?」
「……この人で間違いない」
七尾さんはためを作り、そして断定した。彼女の慎重さを感じるとともに、
確信も表れていた。
「これはいい。手間が省けた」
先輩は一つ手を打ったものの、どこか拍子抜けした様子。一ノ瀬にしても危
ない?橋を渡った甲斐がないと感じたのか、人差し指をくわえるポーズをした。
「だが、解明が進んだとは云い難い。むしろ、謎は深まった」
「被害者が犯人というパターンは、そこそこあると思いますが」
「実際に死ぬとなると、希有だ。一種の自殺と捉えるにしても、理由がいる。
葛西に自殺する動機がなかったか、調べねば」
それから、しばし沈思黙考する名探偵。自殺云々を推理できるはずないので、
別のことを考えているに違いない。程なくして、新たな質問を七尾さんにぶつ
けた。
「仮面の人物から手紙を託され、それを偽針生の葛西に渡すまで、時間はどれ
ぐらいあっただろう?」
「恐らく、二分とありませんでした」
「ふむ。じゃあ、仮面の人物イコール葛西という可能性は、捨てた方がよさそ
うだな」
「僕に手紙を渡したあと、急いで引っ込み、衣装と仮面を脱ぎ捨てると、プレ
ハブの方に回り込んで姿を現した? それはありませんよ。地面の下に隠し通
路があったとしても、不可能です」
「結構。つまり、葛西には共犯者がいることになる。いや、葛西は従犯に過ぎ
ず、主犯に殺害されたと見なすべきだな」
「動機が複雑になって、特定しにくくなりそうですね。最初から狙いは葛西の
命だけだったのか、針生さんを陥れることも目的だったのか。あるいは、針生
さんも殺すつもりだったのか」
「事件の見える部分から判断するに、葛西は針生徹平への恨みがあり、荷担し
た。恐らく、軽い仕返しとか悪戯のつもりだったんじゃないか。しかし、主犯
は葛西を生贄にし、針生に殺人の濡れ衣を着せるのが真の目的であった。ふん。
針生に直接会って、人間関係を聞き出す必要がある」
針生さんは事件後、病院で手当てを受け、警察に事情聴取されたあと、ひと
まず自由の身になったと聞く。発見時の僕らの証言に加え、マジックを演じて
いたというアリバイが、一応ではあるが認められた形だ。高校生であることも
考慮されたんだと思う。
「今、その針生さんて人、どうしてるのかな」
一ノ瀬が、針生徹平の顔写真を眺めながら呟いた。横から覗いていた僕の脳
裏には、早恵子さんの顔が浮かぶ。かなり似ている姉弟だと思う
「きっと、学校に出て来ているんじゃないかな。挫けるたまじゃないからね」
「そのことで、美馬篠の友達経由で、預かり物が」
七尾さんが制服のポケットから、四つ折りにした紙を取り出した。
「というと、奇術倶楽部の一年生?」
「ええ。何でも針生さん、十文字先輩に直接云うのは癪なんだそうで。連絡手
段もないそうですし」
広げてから、紙を渡す七尾さん。
「念のため、云っておきますが、見ていません」
「ありがとう」
受け取った先輩が、目を細める。僕と一ノ瀬は、それぞれ左右から覗き込ん
だ。直筆の文章で、簡単な箇条書きだった。
・出題し合う件は延期だ
・公演ラストで体育館を出たあと、何者かに襲われて意識を失ったのは、薬品
の類ではなく、腹を殴られたため
・そのときの相手も仮面を被っていたかもしれない。が、記憶曖昧
・倉庫内で気付いたとき、他に人影はなく、物音もせず
・教師を含め、校内の人間から恨まれる覚えはない。嫌いな奴、肌の合わない
奴はいるが、恨みを買うほどではないはずだ
・葛西は以前、パズルの大会でおまえと会ったことがあると話していた
「恨まれる覚えがないというのは、本人には分からないことが多いから、無視
するとしよう」
動機に関してはこんな判断を下すと、先輩は次に四つ目の項目を指差した。
「この証言により、針生が意識を失わされる前から、葛西は既に殺害されてい
た公算が大と云える。と同時に、犯人は針生の命を奪ったり、深手を負わせる
つもりはなかったと推察できる」
「殺害の方は、バケツのトリックが発動すれば大きな音がしたはずだからと分
かりますが、針生さんの命を狙う気がなかったとするのはどうしてです?」
「そのつもりがあれば、犯人は葛西に施したのと同じ仕掛けを、針生にもして
いたんじゃないか。そうしなかったのは、飽くまで狙いは、濡れ衣を着せるこ
とだったんだ。無論、今後はどうなるか分からんがね」
僕が納得している横から、一ノ瀬が手紙の最後の行を差し示す。
「ねえねえ、十文字さん。葛西って人と面識があるみたいなこと書いてあるけ
ど、これについては?」
「残念ながらというべきか、覚えがない。向こうが覚えていたのなら、そうな
んだろう。わざわざ文化発表会の日に犯罪を決行したのは、僕を巻き込むため
かもしれないし、容疑を生徒や教師だけに限定させないためかもしれない」
「あと、これは奇術倶楽部の友達から、直に聞いたんですが」
タイミングを計っていたらしい、七尾さんが口を挟んだ。
「針生さん、実際のところ、かなり怯えていらっしゃるそうです。事件が続く
んだとしたら、次に狙われるのは自分じゃないかと」
ライバルである十文字龍太郎に助けを請うのはプライドが許さない、という
ことなんだろうか。命に関わるかもしれないのに。
「奇術倶楽部の一年生四人も、心配していて。ですから、僕からもお願いしま
す。事件を解決して、針生さんを安心させてください」
机の縁に両手をつき、きっちりと頭を下げる七尾さん。“僕っ子”には違和
感あるけど、こういうところは躾の賜なのかな、なんて思う。
「頼まれなくても、そのつもりだよ」
十文字先輩は余裕のある笑みを覗かせた。
このあと、明かせる限りの捜査情報と、調べてほしいことを七尾さんに伝え
て、散会となった。
「死んだ葛西が、針生先輩を名乗っていたなんて」
電話口の向こうで、無双が叫び気味に云った。数多あった情報の中で、一番
意外そうにしている。
「うん、僕も驚いた」
七尾が応じる。
「新聞の写真を見て、あれ?とは感じたんだけれど、そのときはまさかと打ち
消しちゃった」
「そっかあ。あ、ていうことは、私達が葛西の写真を用意して、見せていたら、
確信を持てていた?」
「そうなる」
「うーん、マジック探偵団、大失策だわ」
「ごめん。次に何か気付いたら、真っ先に伝えます」
「丁寧語で謝るほどのことでもないけど。十文字探偵に先んじるとこが、一つ
ぐらいあった方がいいかなって思っただけで」
「あの人なら、そういう駆け引きよりも、盛り立てた方がいい感じ。根っから
の探偵ね」
「ふうん。まあ、とりあえず私達の考えをまとめるのは、全員揃ってからにす
るとして――」
七尾が十文字から聞いた情報を、文章にまとめ、奇術倶楽部の四人にメール
送信したのは、ついさっき。無双が電話を掛けてきたのは、そのメールを待ち
きれなかったためであった。
「針生先輩に伝えるべき注意点はある? 危険が差し迫っている兆候があると
か」
「具体的にはまだないが、油断はできないっていうニュアンスだった。それで、
メールにも書いたけれど、美馬篠高校関係者で針生さんと親しい人をリストア
ップして、トラブルの火種がないか、第三者の目でチェックしてみて。表には
出てなくても、恨みを買うケースがあるから、本人の話を必要以上に重視しな
いように」
「分かった。でも、動機を調べるなら、葛西の分もじゃない? 共犯の一人だ
としても、殺されてしまったんだから」
「そちらに関しては、下手に嗅ぎ回るとみんなにまで危険が及ぶ恐れが大きく
なるから、無理しなくていいって」
「うん? そりゃあ、針生先輩に関しては、親しいから調べやすいというのは
あるわよ。でも、危ないかどうかなんて、五十歩百歩じゃないかしら」
「動機探しが共犯者捜しにも通じてしまうでしょ。そうなると、僕が偽針生が
葛西だと気付いたことまで、犯人に察知されかねない。できる限り、伏せてお
きたいみたい」
「分かったような分からないような。もしかして、警察にも云わないの、偽針
生の正体?」
「ううん、それはきちっと証言する。警察サイドで伏せるだろうってこと」
「極限られた者しか知らない情報、ってやつね」
納得した様子が、電話越しにも感じられる。
「だからこのことは、そっちでも四人の間だけの秘密にしておいて」
「了解」
簡単に請け合う無双。といっても、彼女を始めとする奇術倶楽部四人の口の
堅さは、筋金入りだ。何たって、小学生の頃からマジックを習いながら、その
種を一切口外しないでいるのだ。
「じゃ、くれぐれも気を付けてね。何たって、犯人と接触してるんだから」
「それを云うなら、美馬篠高校の近くに犯人がいる可能性だって、結構高いか
もしれない。お互いに注意しなくちゃ」
次に練習で会える日を確認して、この日の電話は終えた。
期末テストを意識し始めていい頃合いになった。天才でも秀才でもない僕は、
勉強が気になり出す。探偵のお手伝いというかワトソン役はひとまず降りたい
とこだが、あの先輩から逃れられるはずもなく。それに、音無の件もあるし。
あとはもう、一刻も早い解決を願うばかりだ。
「さて、百田君」
貴重な休み時間を利して、暗記をしていたら、一ノ瀬がおかしな口調で始め
た。君付けで呼ばれるのは久しぶりのような気がする。
「今回の指令だが、次の土曜の正午、駅に集合だ。時間厳守。尚、このテープ
は自動的に巻き戻される」
スパイ物の影響だなと思っていたら、消滅しないのかよ、テープっ。
「一ノ瀬。テープに質問したいんだが、答えてくれるのか?」
「イエス」
「集まってどこへ行くのか知りたい。一緒に行く顔ぶれも」
「ミーと十文字さんと八十島(やそじま)さん」
いつにない早口にすっと流しそうになったが、八十島さんて誰だ。
「あ、八十島さんていうのは、五代さんの柔道の先生の一人で、警察の人なん
だって。要するに刑事さん」
「な、何で刑事が」
「五代さんが十文字さんの暴走を心配して、お目付役に頼んだみたいだよん。
刑事さんだって事件に関心あるに違いないし、一日ぐらいなら問題ないってと
ころなのかな」
矢張り、目的は美馬篠高校での事件関係か。
「で、行き先はね、七尾さんの通うマジック教室。魔法学校じゃないから、く
れくれたこら、じゃなくてくれぐれも間違えないように」
「え。何でまた」
「十文字さんが云うには、針生さんに話を聞くのがそもそもの目的。今度の土
日の予定を尋ねたら、マジック教室に見学に行くことが分かった。関係者の多
くが集まる場に行けば、得るものも大きいかもしれない。そんなとこ」
「じゃあ、針生さんはどうして見学に行こうと思ったんだろ」
「事件の後遺症で塞ぎ込んでいたのを、気分転換したいんだって、十文字さん
は聞いたらしいよん」
「……ところで、一ノ瀬はいつ十文字先輩と会って、そういう話をしたんだ」
普段なら、先に話が回ってくるのは僕なのに。いや、まあ、別にどうでもい
いんだけれどさ。
「ネットに出ていた双子素数に関する偽の証明が、傑作ジョークだったので、
これは教えねばと思い立ち」
……本当か嘘か分からない。第一、双子素数って何だっけ? 習った覚え、
あるようなないような。
「ついでに聞いておきたいんだけどさ。一ノ瀬は何で、十文字さんの探偵に付
き合うんだ? 毎回毎回……」
「前に云わなかったっけ。万が一、ミーが犯罪を起こすことになったと場合に
備え、敵を研究しておくためさっ」
少なくともその返答は初耳だぜ。そもそもだ。犯罪ならたまにやらかしてる
んじゃないのか。ネット関係のを。
僕の顔を見て、一ノ瀬が首を捻った。
「気に入らない? みつるっちが気に入りそうな答となると……名探偵に引っ
付いてるみつるっちが、危ない目に遭いやしないかと心配で心配で。だから、
ミーも付き合ってあげている、とかでどうかにゃん」
「……冗談は横に置いといて」
実際、冗談だろうし、頭脳労働ではなく武力面で、一ノ瀬が役に立つとは思
えない。むしろ、確実に足手まといだろう。
「念のために聞いておきたい。まさか、十文字先輩のことを好き、とかじゃあ
ないよな」
五代先輩の顔を思い浮かべつつ、聞いてみる――と、一笑に付された。同時
に、猫の手握りをして、それを左右に振る一ノ瀬。
「恋愛って意味なら、ないない。ミーは昔ね、コンピュータをいじってばかり
いて、人間関係薄っぺらかった頃があって。今はその反動で、色んな人と関わ
りたいんだよ。好き嫌いとか合う合わないとかじゃなくって、直感で気になっ
たらゴーサイン。来る者は拒まず、逃げる者は追い掛けるって方針で」
次の言葉を喋りながら、一ノ瀬はこれまで見せたことのないような、爽やか
な笑みを満面に広げた。
「コンピュータだけが友達だったのが、コンピュータが友達の一人になった。
そんなとこかな」
「僕もその一人に入ってる?」
「そーなるね」
鬱陶しいときもたまに、いやしょっちゅうあるけれど。でも、悪くない。
予定は未定であり、決定ではない。
土曜日の十二時半に、僕らはマジック教室の入っているビルに到着した。駅
から電車で行くつもりだったのが、八十島刑事の運転で、警察の車に乗り合わ
せて来たのだ。殺人事件関係者の護衛という名目を捻り出したらしい。
「上司命令とはいえ、こんな多人数のお守り役は、正直、疲れそうで、今から
神経ぴりぴりしているよ」
巨漢だが柔和な顔つきの八十島刑事は、僕らに無茶な行動は慎むようにと口
酸っぱく注意を垂れたあと、こんな愚痴をこぼした。今日初めて会ったけど、
五代先輩の柔道の先生(の一人)と聞いていなければ、単に身体の大きな人に
思えたろう。
「このあと、マジック教室で何か事件が起きると決まった訳ではないのですか
ら、そこまで張り詰める必要はないでしょう」
十文字先輩は敬語を交えつつも、どことなく馴れ馴れしい口調である。いつ
ものことだけど、大人相手にもこれだと、端で見ていて精神衛生上、よくない。
「リラックスし、多少脱力した方が、本来の動きができるともいいます」
「アドバイスに従うとしよう」
苦笑を浮かべた八十島刑事。内心、誰のせいで……と思っているに違いない。
その証拠に、彼の細い眼がじろっと先輩を睨んだ気がする。
「約束は一時だが、早くても差し支えなかろう」
僕ら四人はビルの中に入り、教室の所在を案内板で確かめてから、エレベー
ターで向かった。
「針生には、警護が付いていなくて大丈夫なんでしょうかね?」
上昇する短い時間にも、十文字先輩は刑事に話し掛け、情報を得ようとする。
実は、車の中でもこの調子だった。八十島刑事は顔とは正反対に口は堅く、大
して有益なことは喋ってくれなかった。せいぜい、新しい動きは見られないこ
と、犯行予告状?にあった字の筆跡を鑑定したが誰のものとも特定できなかっ
たこと、偽針生と判明した葛西を洗っていること、この三点ぐらい。
「連続殺人事件と決まった訳でなし、予告状に示唆されていもいない。葛西が
無理心中を失敗したという見方も、できなくはない。現状で、針生君自身が護
衛はいらないと云うんだから、無理矢理付けることがあるまいという判断だ」
「えっ、あいつの方から断ってきたんですか」
意外そうな先輩。声の調子が荒っぽくなったのは、警戒を怠るなという忠告
を無視した針生さんに、腹を立てたのか。あるいは、七尾さんの云った「怯え
ている」という話との矛盾に違和感を覚えたのかも。
「いや、ニュアンスがちょっと違うな。我々から護衛しましょうと持ち掛けた
のではない。今後、もしも自宅の方にまで危害が及んだ場合、対策を講じる必
要があることを説いた。すると、そうなったとしても、護衛なんて付けなくて
かまわない。それが針生家の総意ということだ」
目指す四階でエレベーターが止まる。会話は打ち切られた。皆、静かに廊下
の奥にある一室へ向かう。そこでマジック教室が行われているはず。八十島刑
事がノックをして名乗ると、「どうぞ」の声とともにドアが開いた。
「話は伺っております。ここでマジックを教えている、マジシャンのテンドー・
ケシンです」
僕達を中へ招き入れながら、手早く自己紹介をしたのは、左右に立てた鼻髯
に特徴のある中年男性。耳に心地よい、穏やかな声をしている。この人、テレ
ビで観たことがあると感じた。マジックに詳しくないので、名前を聞いてもぴ
んと来なかったけど。
でも、十文字先輩はよく知っているようだ。短い間だが、目を見張ったのは、
驚きの表れだろう。まさか教えるのがこんな有名なマジシャンとは、流石に予
想していなかった――といったところかな。
僕ら高校生三名も自己紹介をしてから、教室中程の椅子に着席した。一つ前
には、すでに針生さんが座っている。そのさらに前、最前列には美馬篠の奇術
倶楽部一年生達と七尾さんが熱心にレクチャーを受けていた。
「ちょうど、教えている途中でしてね。しばらく待ってくれますか。区切りの
よいところまで済めば、休憩としますので」
テンドー・ケシンさん――さん付けも変か――の断りに対し、八十島刑事か
ら不満が出るはずもなし。僕らは針生さんと同様、見学する形となる。
しばらく眺めていると、フォーシングという心理的なテクニックを教えてい
るのだと分かる。たくさんのトランプの中から、マジシャンの望む一枚を引か
せるというやつ。ただ、その手順を見ただけでは、やり方はさっぱり分からな
い。舞台裏を簡単に明かしてくれるんだなと思ったら、こういうことか。
「――さて、これで一区切りとしていいのですが、折角ですし、ちょっとした
実験台になっていただきましょうか」
ケシンが目線を上げ、僕らを順に見渡す。「実験台と云いますと?」と、声
に出して反応したのは、八十島刑事だった。
「この子達がどのくらい理解し、実践できるかをチェックするために、簡単な
お手伝いをお願いしたい。じゃあ、七尾君から」
七尾さんは席を立つと、まだ戸惑いがちな刑事の前まで来て、トランプを手
に始めてみせる。カードを開いて扇を作り、マークや数字がばらばらに並んで
いることを示すと、「こうやって広げていきますから、刑事さんが好きなカー
ドを一枚、人差し指で触れてください」と云い、カードの表が見えないように
伏せる。カードの扇を一旦畳んだかと思うと、またすぐに右端から徐々に開い
ていく。
八十島刑事は右手の人差し指を構えた。じきに彼の指が一枚のカードに触れ
る。七尾さんははにかみながら、
「えっと、味も素っ気もない当て方をしますけど、勘弁してください。刑事さ
んが選んだのは、スペードの8ですよね?」
まさかという顔をしつつ、カードを抜き取り、表向きにする八十島。次に、
巨体に似合わず、「わっ!」と声を上げてカードを取り落としてしまった。ひ
らひらと舞い、床に表向きに落ちたそれは、七尾さんの言葉の通り、スペード
の8。
「ど、どうやったんだい、これ」
目を白黒させる八十島刑事。問われた七尾さんは肩を縮こまらせている。刑
事相手という意識が頭にあるせいか、種を教えるべきか迷っている風に映った。
「秘密です」
ケシンが助け船を出す。
「あなたが落としの達人でも、マジシャンは種明かしをしませんので、あしか
らず」
「それもそうか。こいつは失敬」
八十島刑事が頭をかき、柔和な笑みを見せると、七尾さんは金縛りから解放
されたみたいな動きで、急に頭を下げ、元いた席に駆け戻った。
このあとに続いて、僕も衣笠という女子に全く同じマジックを試され、もの
の見事に引っ掛かった。次は一ノ瀬の番。空気を読めよと囁いておく。にも拘
わらず、こいつはほんと、しょうがない奴で……。扇の開き具合を無視し、向
かって一番左端のカードに、猫の手で触れた。相手をした無双という女子は案
の定、眉間にしわを作って弱り顔になる……が、それはほんの一瞬だけで、即
座に余裕の氷上に変化した。これはどうしたことかと怪訝がる僕の視線の先で、
無双さんは「予め、七尾さんから聞いておいてよかったわ」と聞こえよがしに
呟くと、一ノ瀬に「どうぞ、ジョーカーをめくってくださいな」と告げた。
素直に従った一ノ瀬は、選んだカードがジョーカーだと分かると、「おおー、
これは凄いっ」と驚く。わざとらしいが、驚いているのもまた確かだ。
「三番手というだけでやりにくいと思っていたが、これじゃあますますやりに
くいな」
次に控えていた法月という男子――学園祭のマジックショーで黄色い声を浴
びていた――が、前髪をかきあげつつ、苦笑混じりに云った。確かに。同情さ
せてもらうよ。すると、
「残るのは俺と十文字だが、カードマジックのフォーシングなら、二人とも基
本原理を知っているからな。別のがいい」
針生さんがそんなことを云い出した。提案はさらにエスカレートする。十文
字先輩に向き直ると、針生さんは続けた。
「法月達には悪いが……いい機会だから、勝負と行こうじゃないか、十文字」
「強引だな。この間の勝負がお預けになっていることであるし、まあかまわな
い。マジック勝負か?」
周囲の人達の気持ちなんか無視して、勝手に話を進めるライバル二人。
八十島刑事はへし口を作り、早々とそっぽを向いてる。付き合いきれない、
といったところだろう。分かる分かる。
「ケシンさん、紙コップ、ありますよね?」
「ああ。小さな子がカップアンドボールの練習をするのに、ちょうどいいんだ」
「四つ、使わせてください。フォーシングの応用をやってみたいんです」
望み通り、ケシンは紙コップ四つを用意してくれた。その間、針生さんは外
に出て、多分自動販売機で買ったのだろう、五百ミリリットルサイズのミネラ
ルウォーター一本を調達してきた。早速開栓し、各コップにおおよそ三分目ず
つ、均等に注いでいく。
「さて、ここから、思い付きの勝負と見せ掛けて、実は準備万端だとばれてし
まうんだが……僕はレモンのエキスを持って来ている」
マジシャンぽい手つきで、胸ポケットから小さな容器を取り出す針生さん。
弁当に付いてくるソース入れに似ている。いや、そのものだ。魚型ではなく、
円柱タイプのその小さな容器には、透明な液体がほぼ一杯に入れられている。
「針生はレモンを苦手にしていた記憶しているが」
十文字先輩の指摘に針生さんは満足そうに頷き返す。
「今でもそうさ。おまえだって、レモンは好きではない、だろ? 苦手までは
行かないにしても」
「ああ」
「このエキスは濃縮されていて、普通のレモンの十倍ほど酸っぱい。口に含め
ば、確実に表情に出る」
「ふむ、読めてきたぞ。おまえがエキスをコップのどれかに投じ、僕は一つを
選んで飲むんだな? エキス入りを選ばなかったら、僕の勝ち」
「そういうことだ。不正というかサクラの余地がないよう、誰にも見られない
形で入れる。分量は残りのミネラルウォーターで調節し、ぱっと見では区別で
きないようにする。どうだい、受けるかい?」
「……僕の選ばなかったコップ三つを、おまえが飲み干すのなら、受けよう」
どうやら先輩、全部のコップにレモンのエキスを垂らされるのを警戒してい
るらしい。針生さんに飲ませなくても、全部のコップを先輩自身が飲んでみれ
ば分かることだが、レモンエキスを何度も味わいたくないのと、針生さんにレ
モンエキスを飲ませてやりたいという思惑から、こんな提案をしたに違いない。
条件を提示され、針生さんは笑い声を立てた。
「なるほど、おまえらしいな。いいだろう。こっちが九割方勝てる勝負だから
な」
「ケシンさん。針生がやろうとしていることは、あなたが教えたものですか?」
十文字先輩はライバルの返事を無視し、プロマジシャンに向かって尋ねた。
答はノーだった。
「元々、彼はこの教室に通っている訳ではないんでね。ごく初歩のレクチャー
をしたことがあるだけだよ。どんな手際を見せてくれるのか、私も楽しみだ」
「ばれなかった場合、種明かしをするつもりはありませんので、あしからず」
針生さんは得意げに笑った。そうして早速セッティングに取り掛かる。全員、
背を向けるように云って、その間にコップのどれかにレモンエキスを入れ、他
の三つの分量を水で調節した、らしい。僕も見ていないのだから、想像で記述
するしかない。
程なくして許可が出され、僕ら全員、揃って振り返る。十文字先輩を先頭に、
長机上の四つのコップを上から覗く。匂いや色、紙コップ自体の外観も含め、
違いはない。針生さんの宣言通りだ。彼は改めてコップ四つを横一列に並べた。
「さあ、選んでくれ。予め注意しておくが、五分以内に頼むぜ。蒸発を待って、
飲まずに済ませるのはなしだ」
「何だ、そうしようかとも考えていたのに、残念だ」
冗談なのか本気なのか分からないやり取りに、教室内は妙な空気に。それを
破ったのは――当然――、一ノ瀬だった。
「心理的なトリックに対抗する一つの方法は、ランダムセレクトだねっ」
「おっと、それもなし」
すかさず針生さんが針を、基、釘を刺す。流石、先輩と張り合うだけのこと
はある。
「念のために聞くが、針生はどのコップにレモンエキスを入れたのか、承知し
ているんだろうね?」
「無論。断っておくと、質問は受け付けるが、こちらの答が正確とは限らない。
嘘を云うかもしれない」
「ふむ。では」
先輩は右端のコップを指差した。
「君がレモンエキスを入れたのは、このコップか?」
針生さんはにやりと笑い、何もかも承知したという風に、大きな動作で首肯
した。
「ああ、入れた」
自然な口調の返事だ。少なくとも、僕にはそう聞こえた。
先輩は続けて尋ねる。一つ左隣のコップに指を移し、同じ質問をした。答も
さっきと同様、「入れた」だ。先輩はさらに残る二つのコップに関しても、全
く同じ質問を重ね、針生さんは全く同じ返答をした。いずれの場合も、表情や
口調に最初に答えたときと差はないようだった。
「リミットまで、あと三分あまりだ」
「……針生、君はまだレモンエキスを入れていないんじゃないか」
「ん? それはどういう意味だ」
「僕が選んだ後に、そのコップにうまくレモンエキスを垂らすつもりじゃない
だろうねってことさ」
「なるほど。そんなことはないが、疑いを払拭するには、どうすればいい?」
「コップから離れてくれ。そして、どんなことがあろうと、僕が選んだコップ
に僕が口を付けるまで、触れないでくれればいい」
「了解した。他に質問は?」
コップを置いた机から三メートルほど遠ざかり、腕時計を見る針生さん。余
裕綽々だ。
「僕の代わりに君が選んでくれないかな?」
「何だって?」
「どれにするか、正直云って迷っている。君が先に三つ選んだら、残りの一つ
を潔く飲むとしよう」
「冗談じゃない。俺は答を知っているんだ。ゲームにならん。それに、おまえ
の『潔く飲む』って言葉自体、信じられないね」
「やれやれ。ライバルとはいえ、あんまりな言い種だ」
「いいから、早く選べ。あと……一分半だぞ」
「あと一つだけ、絶対にやってもらいたいことがある。君の用意したレモンエ
キスが毒にすり替えられていないか、調べてくれ」
「な――」
応じる言葉をなくす針生さん。
毒と聞いて、八十島刑事が物音を立てて振り返る。全身に真剣さが漲るのが
分かった。
「毒とは穏やかでないな。どういう意味だね」
「今度の事件の犯人が、依然として針生を狙っているなら、彼の所持する飲食
物に毒を仕掛けるケースを想定するのは、飛躍ではないでしょう。ここに来る
までの間に、レモンエキスの容器を見つけた犯人が、これ幸いとばかりに毒を
入れたかもしれない。針生、おまえが飲む物と信じてな」
「容器はずっとポケットの中にあった。機会はなかったはずだ。俺のレモン嫌
いも、結構知られているから、俺の命を狙うならレモンエキスに毒を混ぜる訳
がない」
「犯人がレモン嫌いを知っているとは限らないし、中身を確かめずに毒を投じ
たかもしれない。あるいは容器が空の状態のときに、少量の毒を入れた可能性
だってある。毒を入れるチャンスだって、たとえば、容器ごとすり替える方法
なら、さほど時間を要すまい。さっき見た容器、大量生産品に違いないから、
用意するのも簡単だ」
「それは、そうかもしれないが……」
針生さんの声が小さくなると、八十島刑事が折を見計らった風に、手を打っ
て大きな音を立てた。皆の視線を集め、刑事は重々しく述べた。
「そこまでだ。あれこれ論ずるより、実際に調べた方が早い。針生君、容器を
出して机に置いたら、手を洗う。用心して、手を口に持って行かないように。
分かったね?」
「はあ、はい」
従う針生さんを視認すると、刑事は僕らにも「無闇にそこらを触らないよう
に」と注意してきた。
――続く
#366/598 ●長編 *** コメント #365 ***
★タイトル (AZA ) 10/07/12 00:02 (396)
水は氷より出でて 5 永山
★内容
具体的に何も起きておらず、また、毒の混入を疑うだけの強い根拠もなかっ
たため、鑑識の人を呼び寄せるのは無理だったようだ。八十島刑事が容器と紙
コップを回収し、直接、警察の方へ持って行くことになった。また、この場に
集まった面々の内、確実に容器に触れた針生さんも、用心するに越したことは
ないと、手その他に毒が付着していないかの検査を受けるため、刑事に同行し
た。他の事件との兼ね合いもあるが、結果は一両日中にも判明するだろうとの
話だ。
これにより、今日の集まりは思わぬ形で散会となった。ただし、形ばかりの
散会でもあった。テンドー・ケシンはマジック教室を念のために自主的に一時
封鎖とし、次の所用に発っていったが、僕ら高校生はそのまま別の場所――近
くのファミレスに移動した。美馬篠での事件について、改めて検討するためだ。
本来、十文字先輩の今日の目的は、針生さんから事情を聴くことだったが、
かような成り行きで、残った者達で再検討をしようと相成った。
全員、ドリンクバーを注文し、居座る基盤をこしらえる……と思ったら。
「十文字さ〜ん」
一ノ瀬がちょんちょんと、先輩の肩をつつく。オーダーを決めずに、何を始
めるつもりだ。
「さっきのコップ選び、負けそうだったから、毒が入ってるかも!なんて云い
出したんじゃないかにゃ? ミーはそう思うのでありますが」
美馬篠高校の面々の目もあるので放っておいたら、とんでもないことを云い
出した。先輩の顔を見やると、最初は無表情だったのが、五秒ほどでふっと頬
を緩め、苦笑した。
「流石だね、一ノ瀬君。半分当たりだ」
「やった。じゃ、ご褒美と口止め料を兼ねて、ここは十文字さんのおごりって
ことで、いかがでしょー?」
「全員分? 一ノ瀬君、高いやつを頼む気満々だな。ドリンクバー程度で勘弁
してもらいたい」
「しょうがないにゃー」
メニューの冊子を立てて覗き込んでいた一ノ瀬は、やがてケーキセット(オ
レンジ風味のモンブラン+ドリンクバー)を選んだ。無論、ドリンクバーより
高い。
「みんなもケーキセットぐらいなら」という十文字先輩の言葉に対し、男性
陣は遠慮した。つまり、女性陣は遠慮しなかったってこと。
「どういう意味なんです、半分当たりとかどうとかって」
落ち着いたところで、美馬篠の天野が十文字先輩に尋ねた。僕も聞きたい。
「君達が針生をどれだけ知っているのか、僕は把握していない。が、僕の知る
限り、あいつは分の悪い勝負は挑んでこない」
そう切り出した先輩に、美馬篠高校の四人と七尾さんは、それぞれ頷いた。
「あいつがさっき用意した勝負は、四つのコップの内、三つが負けというもの
だった。勝率四分の一の賭けを挑んでくるだろうかと、僕は怪しんだ」
「でもそれは、フォーシングの技術で勝つ自信があったからかも」
と、美馬篠の衣笠さん。物怖じや遠慮しないタイプと見受けられる。最前、
七尾さんがケーキセットの注文を女性陣で唯一躊躇した際も、「ここは厚意に
甘えておきなって」と背を押したのが彼女だった。
「では専門家のみんなに聞くが、どんな方法が考えられる? いや、方法は云
わなくていいから、フォーシングでどの程度まで勝率を高められると思う?」
「それは……上手な人がカードを選ばせる場合なら、九割強。仮に失敗しても、
フォローが利くけれど」
衣笠さんの迷うような視線を受け、法月が引き継ぐ。
「針生先輩が用意していたあのやり方だと、コップを置いて、本当に自由に選
ばせるみたいだからなあ。どんなフォーシングのテクニックが使えるか、見当
が付かない」
「何らかのテクニックを使えたとして、それでもせいぜい勝率五割程度に高め
るのが関の山じゃないの」
無双さんがさらに付け足す。比較的ボーイッシュな外見をした彼女は、さば
さばした物言いをすることが多いようだ。
「高々五割の勝ち目で勝負を挑まれたとしたら、僕も嘗められたものだ」
小さく笑い声を立てる十文字先輩。どことなく、愉快そうである。
「さて、いかに僕が名探偵だとしても、嘘を一〇〇パーセント見破ることはで
きない。それでも、何らかのヒントにつながると思い、針生に質問した。コッ
プ一つ一つを対象に、レモンを入れたかどうかをね。結果を述べると、あいつ
はどの場合も嘘をついていない、という印象を受けた。この直感を信じると、
あいつは全てのコップにレモンエキスを入れたことになる。なるほど、もしそ
うであれば、僕がどのコップを選ぼうと、針生の勝ちだ」
「おかしいですよ」
衣笠さんが異を唱えた。彼女がいると、僕は出番がなくなるなあと感じつつ、
続きに耳を傾ける。
「十文字さんがコップを選んだあと、残り三つを針生先輩が飲む取り決めだっ
たんですから。レモン嫌いの先輩が、知らん顔で三杯分、飲み干せるはずがな
い」
「そうですよ。コップが一つだけなら、間違ってこぼしたふりで逃げおおせる
かもしれませんが、三つともこぼす訳にはいかないし」
ずっと黙っていた法月も、疑問の補強を行う。
しかし十文字先輩は涼しい顔で、間を置くことなく答えた。
「今度、学校で針生に会ったら、こう聞いておいてくれないか。『先輩、ミラ
クルフルーツは美味しかったですか?』とね」
その一言で全て氷解した。針生さんがどんな企みでもって、勝負に挑んでい
たのか。
誰からも質問が飛ばず、全員が納得顔をしていたところをみると、皆、ミラ
クルフルーツを知っているようだ。この果物を口に含んだあと、レモンや梅干
しといった酸っぱい物を食べると、酸味よりも甘味を強く感じるようになる、
らしい。帰宅してから調べてみたら、ミラクリンなるタンパク質が舌の味蕾に
結合してうんたらかんたら、効果は二時間ほど持続するどうたこうたら……と
あった。
「勿論、毒が本当に混入されている可能性も皆無ではないと思った。少なくと
もあの場合、事前確認なしにレモンエキスを口にするのは賢明じゃない。当然
の判断さ」
「毒の有無に拘わらず、犯人が針生先輩の命を狙っているとお考えですか」
法月の質問に、十文字先輩は質問で返した。
「君達はどう思ってるんだい」
「それは、どちらとも云いにくいかなって……」
「命を狙っているのなら、倉庫の密室で殺さなかった理由が分からない」
と、腕組みしたのは天野。続けて云う。
「氷が溶けることで落下した鉄アレイが、たまたま当たらなかっただけという
のも何か変だし。葛西先輩を刃物で狙ったんなら、針生先輩も同じく刃物で狙
うのが理にかなっている」
「やっぱり、針生先輩に罪を被せるために、倉庫を密室にして殺人を引き起こ
した……と考えるのが妥当な気がしますね」
衣笠が最後に付け加えた。結局、既出の推測に戻った格好である。十文字先
輩は頷くと、今日の出来事を踏まえた上でこう云った。
「もし仮に、レモンエキスに毒が入れられていたとしたら、そしてもし仮に、
それを針生がマジックに使うことを犯人が知っていたのなら、針生に濡れ衣を
着せるためという仮説は、より説得力を持つと思わないかな?」
「その場合の犠牲者は、あなただったということですか」
無双の口調は、冷静さを保とうと努めている様子だった。表情は硬く、十文
字先輩に向けた視線を、すぐに落としてしまった。
「段取り次第では、僕だけじゃなく、針生も死んでいたかもしれない」
そう認めてから、先輩は声のトーンを明るくした。
「まあ、全ては検査結果待ちさ。勘ぐり過ぎってことも充分にある」
「正直云って、犯人が動いてくれなきゃ、こっちも今以上には推理を展開させ
ようがないと思いますが、いかがですにゃん?」
一ノ瀬は相変わらず軽い調子だ。遠慮知らず故、しにくい話でも、他人の家
にずかずかと土足で上がり込むかのごとくできるのは強みであろう。そばにい
る者としては、ありがたい場合もありがたくない場合もあるけれど。
「一ノ瀬君の発言は不謹慎だが、一理ある。葛西殺害と針生への濡れ衣で、犯
人の目的が達成されたとしたら、捜査は難航するどころか、迷宮入りの恐れさ
え高まる。そうなるくらいなら、僕を狙ってほしいもんだ」
以前、校内で何者かに襲撃された際は、ほとんど抵抗できなかったのに……。
先輩の台詞を聞いて、僕はそんなことを心の中でぼそりと云った。
でも、このあと、有力な情報交換がなされなかった現実を思うと、先輩が囮
になろうと云い出すのも宜なるかな。不意打ちでは不覚を取っても、端から囮
になるつもりならば、名探偵らしい対応が可能に違いない。
現在進行形の事件と見なし、優先してくれたのか、八十島刑事が云っていた
よりも早く検査結果が出た。それは夜遅くに、五代先輩を通じて十文字先輩に
伝えられ、そこからまた僕に伝わった。
「え、何も検出されなかった?」
拍子抜けする知らせに、僕は思わず、電話口で大きな声を出した。
「早合点はよくない。何もというのは正確でないよ、百田君」
先輩は名探偵っぽい台詞を口にした。でも、たった今、何も検出されなかっ
たと表現したのは、十文字先輩なんですが……。
「レモンエキスが、極端に濃度の高い塩水にすり替えられていたそうだ。ミラ
クルフルーツを口に含んだとしても、吐き出してしまうほどのね」
「……」
どう反応していいものやら、迷った挙げ句、僕は尋ねてみた。
「それってつまり、犯人は、針生さんがミラクルフルーツとレモンエキスを使
ったマジックをやると知っていた? あ、針生さんのマジックの種がミラクル
フルーツだとしての話ですが」
「順序立てて答えよう。まず、針生の奴は八十島刑事に、ミラクルフルーツを
使う予定だったと種明かししていた。全てを打ち明けるべきだと判断したらし
い。賢明だ。さて、そのマジックの内容を犯人が知っていたと見なすのは、ど
うだろう。針生の持っているレモンエキスを見つけたまではいいとして、それ
をドレッシングか何かだと思い、悪戯のつもりで塩水とすり替えたかもしれな
い」
「でも、殺人事件に巻き込まれたばかりの針生さんに対して、悪戯を仕掛ける
なんて真似、常識のある人はしないんじゃあ……」
「その通り。だから、悪戯の犯人イコール殺人犯と思っていいんじゃないかな」
「ええ? 犯人は何のために、そんな悪戯をするんですか」
「おまえを毒殺することぐらい、いつでもできる。ほら、こんな風にすり替え
て――というアピール」
なるほど。それなら筋は通らなくもない。
「この仮説が正しいとすれば、犯人は針生のレモン嫌いを知らなかったことに
なる。これは有力な手掛かりだ」
「どの程度、知れ渡っていたんですかね」
「本人に聞く機会がまだない。まあ、これを条件にいきなり容疑者を絞り込も
うとするより、浮かんだ容疑者が針生のレモン嫌いを知っているか否か、検討
する方が現実的というものさ」
「ただ、すり替えられたんだから、犯人は身近な人物である可能性が高いです
よね。どんな方法を使ったんだろう……」
「八十島刑事が針生にいくつか質問をしている。まず、あの容器にレモンエキ
スを入れ、身に着けたのはいつかと。答は、『このマジックを思い付いてから、
常に』だそうだ」
「常に? レモンエキスが腐りそう……」
「無論、中身は適宜交換していたそうだ。マジシャンは人を驚かせるためには、
普段から準備しておくものさ。周りからマジックを見せてくれといつ頼まれて
もいいように」
マジシャンの心得はともかく。
かなり以前からあの魚型容器を身に着けていたのなら、それを目にした犯人
がすり替えを画策し、実行するチャンスを狙っていたことになる。
「最後にレモンエキスを新たに詰めたのは、いつだったか分かってるんでしょ
うか」
「三日前の夜だと云ったそうだ。その間、学校を始めとして色々出歩いたとい
うから、犯人にとって機会はあったろう。尤も、今回のすり替えの件では、警
察は動けないようだ」
何故と聞き返そうとして、やめた。考えるまでもなく、レモンエキスの入っ
た容器を塩水の入ったそれとすり替えたぐらいでは、警察が捜査を始めるはず
もない。殺人事件との関連が強く疑われる証拠でも出て来れば、また話は違っ
てくるだろうけど。
「すり替え事件で警察が動かないなら、僕らで調べるんですか?」
「ああ。そういう訳で、学校を休むつもりだ」
「は?」
「何しろ、現在進行形の重大事件だからね。どこですり替えが行われ得たか、
急いで調べねばならないが、二日ほどかかると踏んでいる。明日の日曜はいい
が、月曜を潰す必要が生じるかもしれない。その間、君のところへ五代君がや
かましく云ってくるだろうが、うまくごまかすよう頼むよ」
「え、そう云われましても……」
語尾を濁しつつ、一方で考える。僕も学校を休んで付き合えと云われないだ
け、ましかな、と。
あ、でも、日曜は出て来いと云われるのかな? 探り探り尋ねると、意外な
返事が。
「明日も僕一人で動く。この事件は、針生と張り合っている場合じゃない。一
時休戦して共同戦線を張ろうと、あいつに提案するつもりだ。そういう場に、
第三者がいると……正直、やりにくいんだよ」
電話の向こうで照れたような苦笑顔をなす先輩を、容易に想像できた。
日曜の夜までに、十文字先輩からの連絡はなかった。こっちから電話で安否
確認するようなことはなかったが、念のため、テレビのニュースに気を付けて
はいた。男子高校生二人が夜の街で喧嘩になり、どちらかが病院に担ぎ込まれ
たとしたって、臨時ニュースにはならないだろうけど。
結局、割と近場で水道管が破裂したというローカルな臨時ニュースがあった
ぐらいで、あとは何ごともなかった。
そして月曜日。登校してみても、十文字先輩が休んでいるのかどうか、すぐ
には分からなかった。学年が違うのだから当たり前。
僕の方から二年生のフロアまで出向く義務はあるまい。なので、何もせずに
いると、一時間目が終わった休み時間に、七尾さんが教室にやって来た。
「十文字先輩が無断欠席しているらしいので、伝えておこうと思って」
「ああ、それなら」
さすが学園長の孫娘だけあって、生徒の出席動向に関して耳が早いのかな。
妙に感心しながら、僕は事情を説明していく。と、途中で首を横に振られた。
「さっき受け取った無双さんからのメールに、針生さんも同じように無断で休
んでいると」
「へえ……大方、二人で探偵に夢中になってるんじゃあ」
共同戦線を張るなら、二人とも学校を休んでおかしくはない。ただ、揃って
無断欠席という点が引っ掛かる。嘘の理由でも何でも、学校に知らせるもんじ
ゃないのか。それとも、今度の事件に首を突っ込むことを学園長が快く思って
いない節が見え隠れするので、単なるエスケープと思わせたいとか?
「十文字さんか針生さんの携帯電話に掛けてみたらー?」
横合いから一ノ瀬が口を挟む。珍しく端から真っ当な意見だ。「そうだな」
と頷き、僕が十文字先輩へ掛けてみることに。
呼び出し音の代わりに、電波の届かない云々のメッセージが聞こえてきた。
「だめだ。針生さんの番号、分かる?」
七尾さんに聞いたが、知らないという返事。一ノ瀬なら、ツールがあれば調
べられるんだろうけれど、今はそんな余裕ないし。
「針生さんのお姉さんに聞くのは?」
一ノ瀬が七尾さんに云う。
「でも僕、針生さんのお姉さんへの連絡方法も知らないから……無双さんを通
じて、聞いてもらおうか」
携帯電話を取り出した七尾さん。ピンク色をした華奢な機種は、“僕っ娘”
には何だか不似合いにも思えた。
「えっと、確か向こう、今は授業中だから」
呟いて文字を打つ。変換に手間取った以外は、あっという間に送信完了。
「多分、お昼までには具体的なことが分かるはず」
このときはこれで終わったが、無双さんからの返事は予想より早かったよう
だ。次の休み時間になるや、七尾さんが飛んできた。僕と一ノ瀬は廊下に出て
いたので、そこで話す。
「大変な事態かもしれないので、大声で反応しないように」
息を切らせつつも冷静に前置きした彼女に、僕と一ノ瀬は黙って首を縦に振
った。
「無双さんからの返信によれば、針生さんのお姉さん、早恵子さんも無断欠席
している、と」
「――」
努力して口を噤み、僕は一ノ瀬と顔を見合わせた。先輩達だけなら探偵作業
にのめり込むあまりという解釈もできたが、早恵子さんまで休んでいるとなる
と、見方を変えざるを得ない。
「何かおかしい……な。針生さんの自宅に電話を掛けられたら、もっとはっき
りするんだろうけど」
「えーっと、何て名前だっけ。針生さんのもう一人の親友みたいな人。あっち
の魔術部の部長の」
僕の肩をつっつきながら一ノ瀬。って、いくら美馬篠の学園祭に行ってない
からって、魔術部はないだろう、魔術部は。
「奇術倶楽部の会長なら、布川さんだけれど」
「おお、サンキューです、七尾っち。その布川さんにも一応聞いてみたらどう
かな?」
悪くない意見だが、学園長の孫娘を「七尾っち」呼ばわりはやめるべきだと
思うぞ。
しかし七尾さんは気にした風もなく、「そうだね」と応じると文字を打ち始
め、手早くメールを送った。これで再び返事待ちだ。
そういえば……僕はふと気になった。
五代先輩が何も云ってこないのは、どうしたことだろう。
結局、布川さんからも有力な話は得られなかった。
割り切りの早い一ノ瀬は、さっさと自分のやるべきことに取り掛かっていた。
僕はというと、普段、十文字先輩の強引さに閉口気味なのに、連絡が付かない
となると、足下の定まらない、漠然とした不安感にやきもきさせられている。
その不安がとりあえず解消されたのは、翌火曜の授業全てが終わった、放課
後になってからだった。
試験勉強をレクチャーして進ぜようという一ノ瀬に対し、僕がどうしようか
と迷っているところへ、五代先輩が現れた。挨拶もそこそこに十文字先輩のこ
とで話があると告げられ、連れてこられたのが、なんと学園長室。訳が分から
ないまま入ると、部屋の主たる七尾陽市朗学園長の他に、八十島刑事、そして
十文字先輩その人がいた。大人二人が一般常識の範囲内にある身だしなみを保
っている(当然だ)のに対し、先輩は風呂から上がったばかりのようなぼさぼ
さ頭をしていた。実際、風呂上がりなのかもしれない。シャンプーか石鹸かの
香りを嗅いだ気がする。
最初に口を開いたのは、学園長。
「八十島刑事とは顔見知りであるね? では、これから刑事さんと十文字君か
ら話があるそうだ。私は口を挟まないが、ことがことだけに、生徒の動向を把
握しておかねばなるまい。同席を願い出ると、刑事さんは快諾してくれた」
八十島刑事の様子を伺うと、わずかに口元をゆがめた。諸手を挙げての賛成
ではないと見たね。そりゃあそうだろう。事件絡みの話をするのなら、警察署
で行いたいはず。
次に話を始めたのは、その八十島刑事。この場でのやり取りは他言無用と強
く念押しし、「じゃあ、十文字君」と名探偵志望の高校生にイニシアチブを渡
した。
十文字先輩は、ソファにぐったりと腰掛けていたが、刑事の声に反応して、
すっくと起き上がった。そしておもむろに僕ら――僕と五代先輩と一ノ瀬――
の方を向く。
「まず、連絡ができず、結果的に心配を掛けて済まなかった。心から謝る」
こうべを垂れる先輩。時間が長い。やがて五代先輩が応じた。
「私はさっき、散々聞いたからもういい。探偵ごっこに巻き込んでおいて、放
ったらかしにしておいた二人に、もう一度、きちんと謝って」
促された十文字先輩は、僕と一ノ瀬の名前を云って、謝罪の言葉を繰り返し
た。
反応に困る僕の斜め後ろで、一ノ瀬がほとんど即座に返事をする。
「何があったか知らないけれど、十文字さんの気持ちは充分伝わってきたから
問題なしっ――てことでいいよね、みつるっち?」
「あ? ああ、うん」
「それで、この数日で何が起きてたんです? 色んな意味で興味津々」
一ノ瀬は言葉こそ普通だが、顔付き目つき手つきが猫っぽくなっている。
十文字先輩は僕らに断ってから、ソファに座り直した。
「どこから話そうか迷うが、かいつまんで説明するなら……僕と針生徹平は日
曜の夜七時過ぎ、何者かに拉致され、月曜の夜まで監禁されていた」
「ええ?」
「おかげで身体が臭ってたまらなかったが、そのことは事件と直接には関係な
い。もう少し詳しく説明しよう」
先輩が語った顛末を、なるべくまとめて書いてみると、次のようになる。
先の日曜日、共同戦線を張った針生さんと共に、レモンエキスと塩水とをす
り替えられた場所を突き止めるべく、行動を開始した。可能性のある建物を巡
るだけの単純作業は、なかなか成果が上がらなかった。しかし、何軒目かに当
たった、雑居ビルの地下にある潰れたディスコホールで、事件に遭遇する。地
下の空間故、店内は闇に満たされ、電気は通じていなかった。予め持っていた
ペンライトの細い光で暗がりを照らしながら、探索を行う最中、二人ははぐれ
た。そしてどちらが後先かは不明だが、針生さんも先輩も何者かにスタンガン
による物らしい電気的なショックで自由を奪われ、監禁される羽目に陥った。
意識を取り戻したとき、十文字先輩は相変わらず暗い部屋にいた。口にはガ
ムテープを貼られ、手足を拘束され、床に座らされていた。後ろ手に紐状の物
で縛られていたため、腕時計や携帯電話で日時を確認することは不可能。目を
しばらく凝らすと闇に慣れてきて、ぼんやりとではあるが、部屋の状況がつか
めるようになった。どうやら、襲われたときと同じ店内らしい。声を出そうと
試みるが、極々小さな隙間から空気が漏れるばかりで、じきに疲れてしまった。
部屋の様子をもっと探ろうと、不自由な足を曲げ伸ばしして身体の向きを換
えようとした刹那、物音がした。聞こえてきた右方向に視線をやるが、すぐに
は見えない。やがて浮かび上がったのは、自身と同じような格好で拘束された
針生さんの姿だった。
先輩が呼び掛けのつもりで足を使って音を立てると、針生さんはびくっとし
たが、すぐに安堵した様子になり、同じ方法で返事をした。先輩の感覚では、
二人が意識を取り戻すまでにおよそ三十分ほどの差があったとのこと。
それから二人は背中合わせに接近し、手首の拘束を解こうとした。だが、プ
ラスチックか何かでできた紐は丈夫で、しかも単に結んであるのではなく、本
から拘束用に作られたらしく、専用の留め具が付いていた。とても素手で外せ
る代物ではない。足の拘束も同様であった。
ならばと、二人は口を覆うガムテープを剥がしにかかった。幾重にも張られ
たテープに苦労させられ、苦痛も味わったが、五分程度で剥がすことに成功。
これで声を出せる。
だからといって、いきなり声を張り上げ、助けを求めることはしない。自分
達を襲った犯人に気付かれていいものなのか、ひそひそ声で相談する。結論は
割に早く出た。
「僕らを並べて監禁しておけば、いずれ意識を取り戻し、口のテープを剥がす
ことぐらい、犯人にも予想できるに違いない。つまり、声を出されてもかまわ
ないと、犯人は考えている」
ということは、助けを求めて叫んでも成果は恐らく期待できまい。むしろ、
自分達が目覚めたことを犯人に気付かせ、ここに来させるのがいいのではない
か。状況を掴むためにも、敵との対話を成立させる必要がある。
その前にもう一つ、試しておくべきことがあった。携帯電話の活用だ。一人
で縛られていては尻ポケットから取り出そうにも取り出せなかったが、二人に
なれば局面打開が成る。
しかし――十数秒後に二人は落胆を味わわされた。いつもの場所に携帯電話
はあったのだが、壊されたのかバッテリーを抜かれたのか、全く作動しなかっ
た。
すっかり意気消沈した十文字先輩と針生さんだったが、もののついでとばか
り、互いの腕時計の文字盤を読み取り、今が月曜の朝七時四十五分だと知った。
無論、犯人が腕時計の時刻をいじっていないと仮定しての話だが。
約十二時間も意識を失っていた事実に、先輩は衝撃と不審を密かに覚えたと
いう。スタンガンの電撃を一度食らっただけで、半日も意識をなくすものなの
か。ひょっとしたら、途中で睡眠薬入りの液体でも無理矢理、口中に流し込ま
れていたのでは。そういえば、ひどい頭痛がする。
ともかく、日時を一応確認できたところで、いよいよ声を発することにした。
まずは普通の音量で、様子を窺う。こんな目に遭わせたのはのは誰だとか、
誰かいないのかとか、早く解放しろ、目的は何だ等々、監禁された者としてあ
りきたりの台詞を吐いてみた。が、自分達の声が響き、じきに消えるだけで、
特段の反応は返ってこない。
午前八時をいくらか過ぎたところで、やり方を変える。今度は、あからさま
に救いを求め、叫ぶのだ。地下の店からとはいえ、往来を行き交う人々に声が
届くかもしれない。
十文字先輩と針生さんは、順番に声を張り上げた。けれども、相も変わらず
反応はゼロ。隔絶された世界に閉じ込められた気分に一瞬なったと、先輩は述
懐した。
念のため、二人で声を揃えてもみたが、結果は変わらず。この店、この建物
はぼろぼろな外観と違い、防音設備はしっかりしているようだった。ディスコ
なら大音量を流していただろうから、さもありなんと云えた。
しばらく無為に時間が過ぎ、正午前になってやっと事態に変化があった。唐
突に声がしたのである。ボイスチェンジャーを通したと思しき、かんに障るだ
み声で、“そいつ”は一方的に喋った。
いかに名探偵志望でも、正確な文言までは記憶していなかったが、おおよそ
の内容は覚えていた。尤も、事件解決に役立つとは思えない、ある意味事務的
ですらあるメッセージだった。犯人の声はこう云った。
<今いる部屋の四隅にはパンとジュースが置いてある。毒や薬は入っていない
から、食べたければ食べるがいい>
十文字先輩と針生さんは顔を見合わせた。そして先輩は犯人の言葉が事実か
どうかを確かめるべく、もぞもぞと移動し始めた。一方、針生さんは犯人にコ
ンタクトを試みる。
「あんたは誰だ? 何がしたい?」
相手は逡巡したのか、若干の間ができた。返ってきた答は、<教える訳には
いかない>という素っ気ないものだった。それでも針生さんはあきらめず、続
けて聞いた。
「僕ら二人を解放する気はあるのか?」
再び間があり、今度はある程度具体的な答が返ってきた。
<計画がうまく行けば、約六時間後に解放することになるだろう。うまく行か
なかった場合は――そうだな、殺し合いでもしてもらうかな。生き残った方だ
け解放してやろう>
その頃、先輩は一番近い部屋の隅に、パンとジュースが二つずつ置いてある
のを確認した。中身に異常がないかどうかまではまだ分からないが、一応、犯
人は事実を語っていると知れた。部屋の他の隅も同様と思えた。
――続く
#367/598 ●長編 *** コメント #366 ***
★タイトル (AZA ) 10/07/12 00:04 (384)
水は氷より出でて 6 永山
★内容 12/05/05 16:10 修正 第3版
「それで、まさか、針生さんとやり合う事態になって、十文字さんが生き残っ
たとか?」
一ノ瀬が丸い目をさらに真ん丸にして聞いた。先輩の話は明らかに途中だと
いうのに、好奇心を抑えられないやつ。
先輩は頭を横に一度振った。
「そんなことにはならなかった。幸か不幸か、犯人の計画が成功裏に終わった
ようだ。僕と針生は月曜の夜七時頃、通報を受けた警察に助け出された。その
あとはわざわざ話すほどでもないが、即、病院に担ぎ込まれ、検査。命に別状
なし。体力が一定レベルまで回復したところで、事情聴取を受けた」
「針生さんも先輩と同じぐらい、回復したんでしょうか」
「そうだと聞いている。まだ会って話をしていないんだ」
答える先輩の様子がちょっとおかしいと気付いた。鋭く細めた目を僕や一ノ
瀬から逸らし、眉間にはしわを刻み、難しげな表情をなしている。が、それは
三秒程度で消え、軽く瞼を閉じると何かを否定するかの如く、首を左右にゆっ
くり振った。
「どうかしたのかにゃ?」
一ノ瀬も気が付いたようだ。間髪入れず、ストレートに尋ねるところが僕と
違う。
「うむ。あることを想像してしまって……隠すつもりはないが、積極的に云い
たくもない。八十島刑事、別に起きた事件のことを話してやってください」
「別の事件?」
僕が反応する余裕もそこそこに、八十島刑事が二、三歩前に踏み出し、胸を
ずいと張った。
「日曜深夜に殺しが起きた。被害者は大学生の幸田加奈子(ゆきたかなこ)、
十九歳。この春よりアルバイトで、針生君の姉・早恵子さんの家庭教師をして
いた。溺死と見られる」
「え、針生さんのお姉さんの家庭教師ということは、針生さんとも知り合いだ
ったんでしょうか?」
「無論。当人も認めた。顔見知り程度だと云っているが、その辺りはこれから
詳しく聞く」
「二人がどういう関係にあるにしろ、これは美馬篠高での殺人と合わせて、連
続殺人ですよね? 犯人は針生さんを追い詰める狙いで、周囲の人物を殺して
行く……」
「そう云い切れない節がある」
僕は八十島刑事に尋ねたつもりだったが、十文字先輩がすかさず応えた。そ
ちらを見ると、先輩は難しい表情で続けた。
「殺害方法及び状況をまだ聞いていない百田君達にはぴんと来ないだろうが、
僕は恐れている。針生の奴が僕に大胆な挑戦をしてきたのではないかと」
「挑戦て、問題を出し合うというのは取り止めにしたんじゃあ」
「そのことではない。この連続殺人の犯人は針生徹平ではないかと、僕は疑い
始めているんだ」
「ええ? 針生さんが犯人だなんて、そんなことあり得ます? 最初の事件だ
って、密室内で拘束されて……」
疑問点を挙げようとした僕を、一ノ瀬が制した。
「まあまあ、みつるっち。ここは先に、起きたばかりの事件に関して、色々と
知っておくべきだよん。――刑事さん、説明をお願いしますです」
「いいとも。話せる範囲で、になるが。幸田加奈子はLマンションで独り暮ら
しをしている。女性専用ではなく、築十何年にもなるマンションで、防犯カメ
ラや一階エントランスでの厳重なロックシステム等はない。十文字君らが監禁
されていたビルからなら、徒歩で片道三十分足らずの距離にある。遺体は部屋
の浴室、バスタブの中で見つかった。被害者は手足を縛られ、ねじった手ぬぐ
いを噛まされ、その上、荷造りなんかに使う丈夫なガムテープで、バスタブに
固定されていた。犯人は身動きを取れなくした被害者を、蛇口から水を少しず
つ出すことで溺死させようとしたと考えられる。彼に云わせれば――」
と、刑事はあごを振って十文字先輩を示す。
「――アリバイ作りを目的とした、よくある殺害方法らしいな。このやり方だ
と、犯人はなるべく早く遺体を見つけさせ、死亡推定時刻を正確に算出させよ
うとする。そのせいかどうか知らないが、当日の午前二時、Lマンションのす
ぐそばにある公衆電話から何者かが通報したため、早期の遺体発見となった。
通報者の正体は不明だ」
「それだったら」
僕は先輩に視線を戻した。
「針生さんは十文字先輩と一緒にいたというアリバイがあるから、犯行は無理
なんじゃあ? 段々増える水が自動的に被害者の命を奪うとはいえ、少なくと
も往復のための一時間と、さらに細工をするためのプラスアルファが必要です。
よく分かりませんけれど、一時間半は見ておかないといけない気がしますよ」
「一緒にいたこと事態が、あやふやと云える。僕が意識を取り戻したのは、月
曜の朝七時以降。それまでは針生がどこにいたのか分からない。あいつが意識
を失っていたかどうかすら、当人以外には分からないのだよ」
「もしそうだとしたら、店内で先輩を襲ったのは……」
「針生ということになる。わざとはぐれて僕の不意を突けるよう待機すれば、
あとは簡単だ」
苦々しげに推理を披露した十文字先輩。そこへ一ノ瀬が「……でも、何だか
おかしいにゃ」と脳天気な調子で口走る。
「アリバイトリックを駆使したなら、せめて死亡推定時刻だけはしっかりとし
たアリバイを確保しようとするものでしょ?」
「ああ、それが普通だ」
「幸田って人がお亡くなりになったのは、何時ぐらい?」
「午前一時前後とされているよ。一ノ瀬君の云う通り、この時間帯に針生が僕
とあのビルで監禁されたまま、会話を交わしていたなら、アリバイトリックの
構図としては完璧になるな。だが、話の続きを聞けば、納得が行くだろう。百
田君が割って入ってくれたおかげで、まだ話の途中なんだ」
それならそうと云ってくれればいいのに……。僕は身を縮こまらせた。
「犯人が誰であろうと、この事件での溺死トリックは不可能なのさ。遺体発見
時、浴槽に向けられた蛇口から、水は流れ出ていなかった。何故なら、日曜の
夜、現場近くの水道管が老朽化により破裂し、午後十一時からは一部地域に断
水の措置が執られたんだ。完全復旧は今日昼過ぎまで掛かったという」
僕も思い出した。夜の街明かり、さらには報道機関の物であろう照明を浴び、
水柱がきらきらと光る。その横、少し離れた道路を、乗用車がそろりそろりと
通って行く。そんな映像を確かに見た。
「それってつまり、どういう……」
「徐々に増える水が被害者を溺れさせることが、このトリックの眼目なのに、
肝心の水が蛇口から出て来なければ成立しない。しかも、断水は犯人の工作で
はなく、全くのハプニングだ。急遽代わりのトリックを考案し、用いたとは考
えられない。トリック不発を悟った犯人は死亡推定時刻、現場にいることを選
択した。その手で彼女を溺死させたんだよ」
「犯人が針生さんだと仮定した場合、死亡推定時刻の頃に確実なアリバイがな
かった理由はそれ?」
一ノ瀬が即座に聞き返す。十文字先輩も即答する。
「君の云う通りだと思う。本来の計画では、あいつが僕を起こすつもりだった
のかもしれないな。逆になったのは、監禁場所へ戻るのが予定より遅くなった
からじゃないかと疑っている」
「犯行現場で水道から水が出ないとにゃると、困ったことが一つ」
云って、右の手のひらを僕や先輩に向ける一ノ瀬。どうやら人差し指をぴん
と伸ばしたサインのつもりらしいが、いつもの癖で招き猫の手のようになって
いる。分かりづらいったらありゃしない。
「浴槽に張った水は、どこから調達したのかにゃ?」
ああ、そうか。先輩の推理に多少魅せられたせいで、忘れていた。水が出な
いのなら、浴槽に水を溜められない。しかし現実には浴槽は水で満たされてい
たらしい。
「それについては、私が答えよう」
八十島刑事は手帳をちらっと一瞥し、話し始めた。
「遺体の入っていた浴槽の水だが、簡易分析をしたところ、少々汚れていたと
分かった。水道から入れ立ての水ではなく、前日からの残り湯と思われる。被
害者の肺などから出た水に関しては、これから詳しい分析が行われるが、どう
やら残り湯よりも汚れの度合いが薄いらしい」
「あまり汚れていない?」
「恐らく、犯人は別のきれいな水を運び込み、それを使って被害者を溺死させ
た後、浴槽に押し込んで、いかにも水道利用のアリバイトリックを用いたかの
ような細工をしたんだろう」
刑事が答え、十文字先輩が付け足す。
「洗面器一杯ほどの水があれば、人を水死させることは可能とされる。運び込
む水は少量で済む訳だ」
「なるほど納得。証拠がないのは残念無念。今聞いた範囲じゃあ、誰が犯人で
あってもかまわないなり」
「一ノ瀬君、僕が針生に疑いの目を向けたきっかけならあるんだが……下の話
になるが、君はかまわないか?」
「しもの話? しもってフロストの霜なのかな?」
「いや、下の世話をするのしもだ」
「?」
一ノ瀬はしきりに首を傾げた。最近は日本語もだいぶこなれてきたと感じて
いたが、まだまだ知らない単語が多いと見える。
「僕があとで教えておきますから、先輩、どうぞ」
「うむ。正直なところ、僕も些か恥ずかしいのだが……監禁がほぼ二十四時間
に渡ったというのに、針生の奴は小便を一切しなかったようなんだ。大はとも
かく、小は我慢しきれないと思うんだが。疑問を解くべく、救出されたあと、
あいつのズボンの股間を観察したんだが、全く濡れていないようだった。僕が
意識を失っている間、針生は別の場所にいて、用を足したんじゃないかと推理
するきっかけになった」
「理屈は分かりましたが、それだけでは殺人の証拠にはなりませんよね。監禁
場所から抜け出していたというだけで」
「ああ。僕だって、あいつを殺人犯だと思いたくない気持ちが強い。ここで思
考停止してもいいぐらいだ。だが、美馬篠高校での殺人についても考え合わせ
ると、疑いが強まった」
僕が提示した疑問に、やっと答を出してもらえるようだ。
「葛西が遺体となって発見された体育倉庫は密室状態であったが、内部にはも
う一人、針生という生存者がいた。針生の拘束のされ方を思い出してほしい。
一人芝居でもやれると分かるだろう。また、警察が解き明かした氷を用いた密
室トリック――僕もその通りだと一度は確信した――は、云うまでもないこと
だが氷を持ち込む必要がある。しかし、校内でそれ相応のサイズの氷を作れる
冷蔵庫は二つだけで、一つは作るスペースがなく、もう一つは急な故障により
使用不能になっていた。校外から持ち込むには、いくら文化祭とはいえ目立つ。
殺人犯は氷を用いることなく、あの密室殺人を成し遂げたものと考えるのが筋
じゃないかな? そこを認めれば、最有力容疑者は密室内にいた唯一の生存者
だろう」
十文字先輩は一気に喋ったかと思うと、この場にいる者全員を避けるみたい
に俯いた。己の推理を肯定したくない気持ちがどこかにあるのかもしれない。
「……で? 決定的な証拠やロジックはまだにゃいんですか、十文字さん?」
一ノ瀬がずけずけとした態度で尋ねた。もう、敢えて空気を読んでいないと
しか思えない。
ところが十文字先輩に気を悪くした様子はない。どちらかといえば、微笑ん
でいるかのようだ。先輩はそんな顔付きのまま云った。
「決定的な証拠は見つかっていない。そのことが、今の僕にとって、救いない
しは喜びであるのかもしれないな」
七尾弥生は迷っていた。
針生徹平が二つの殺人事件に関して、容疑者の一人として浮上していること
を十文字や五代といった一年先輩から知らされ、注意を喚起された。それと同
時に、口外しないこと、特に美馬篠高校の面々へは話さないよう、求められも
した。容疑に当人が気付かない内に警察は証拠を固める気らしい。それは察し
たのだが、果たして針生が犯人なのかどうかとなると、七尾には判断が付かな
い。十文字の推理の大まかなところは説明されていたが、それでもなお、針生
を犯人と決め付ける気にはならなかった。どうして疑いきれないのか。推理を
述べる十文字の口調に迷いがにじんでいたせいかもしれない。もしくは、七尾
の親友である無双達四人にとって、針生が尊敬できる先輩――少なくとも奇術
において――であるせいかもしれなかった。
こんな具合に迷いを抱いた高校一年生の彼女に、無双から電話があった。土
曜の午後のことだった。
「針生先輩から、新しいマジックを披露するので君達は観客になってほしい、
と云われたんだ」
「う、うん。それで?」
弾んだ調子の無双に比べ、いきなり針生の名前を出された七尾は、少なから
ずどぎまぎしてしまった。そんな様子を気にした風もなく、無双は続ける。
「それで、うちらだけだと身内ばかりになっちゃうから、より厳しい意見、正
直な感想を述べられる立場の部外者を招きたいと希望してるんだよね。できた
ら七尾さんに頼みたいっていうご指名よ」
「ん……」
「あれっ? 反応が薄いなぁ。どうかした?」
「あ、ごめん。興味ある、凄く。いつやるの?」
「急な話で、今日云われて、明日なのよ。ほら、ぼちぼち定期テストがあるで
しょ」
「テストが理由なら、終わったあと、夏休みにでもやればいいんじゃあ?」
「あれこれと予定が詰まっているみたい。ま、先輩のわがままをある程度我慢
するのは、後輩の役目の一つだと思って」
「うん、元々、僕の方は明日ならかまわないけれど」
「よかった。それじゃあ、時間と場所を云うから、メモを。いい? 場所は何
と、針生先輩の自宅。ご両親が留守にしているらしいから、遠慮はいらないん
ですって。ただ、七尾さんのとこからはちょっと遠いかも。住所は――」
無双の嬉しそうな声に、七尾は語尾の「けれど」に込めた意識を伝え損なっ
た。いっそ、針生に容疑が向けられていることを話してしまおうかと思った。
だが、七尾にとって、十文字達も今や大事な知り合いだ。簡単に裏切れはしな
い。問題を棚上げにしたまま、七尾は承諾せざるを得なかった。
ただし、折角の機会をみすみす見送るほど、七尾は愚鈍ではない。
「あのさ、僕よりも適任な人がいるじゃない? そう、十文字先輩。あの人も
お誘いすればきっと来るから、どうかしらと思って」
「うーん。針生先輩って、十文字さんとは真剣勝負モードだから、試しに披露
するところは見られたくないんじゃないかな。私達相手にリハーサルしておい
て、十文字さん相手が本番」
「そっかー」
多分、針生に直接尋ねても、同じ答が返って来るだろう。
針生に、十文字との“対決”を避ける気配があれば、殺人容疑を掛けられて
いることを察した状況証拠となるかもしれない。そんな思惑から七尾は提案し
たが、空振りに終わった。
「あ、だったら当然、撮影もだめ?」
「だと思う。確認してないけれどね」
「それじゃあ、他に友達を連れて行ってもいいかな。都合が付けばになるだろ
うけれど、一ノ瀬さんと百田君を」
「あの二人なら、先輩も私達も歓迎するわ。どうせ他にも部外者の人が居合わ
せる可能性あるしね」
「え?」
「刑事よ。八十島さんとか云った。針生先輩、続けざまに狙われたから、見張
りを付けるようになったみたい。周りで見掛けることが増えたんだって」
「あ、そういう」
八十島刑事が針生に張り付いていることは、すでに知らされていた。警護よ
りも監視の色合いが濃いことを、当人や無双達は承知しているのかどうか。
「ちょうどお昼時になるけれど、食べる物は用意してくださるそうだから」
そんな風にして、無双との通話は終わった。
この時期、日曜日は貴重だ。なのに僕は、七尾さんや一ノ瀬と一緒に初めて
の駅で降り、初めての道を歩いていた。
前日、七尾さんから急な誘いを受けた僕らは、少々迷ったものの、その場で
OKを出した。事後報告の形で十文字先輩にこの件を伝えたところ、何が起こ
るか分からないが、起きたことをしかと観察してくるようにと頼まれた(いつ
もならほとんど命令口調なのに、今はライバルを疑う行為に苦悩しているのか、
“頼んで”きたのだ)。
「駅からは近いそうです。徒歩十分足らず」
先頭を行く七尾さんは、犬みたいに舌を出してはあはあ云っている一ノ瀬を
見ながら、そんな説明をした。手にはメモが握られている。
「とぼとぼ徒歩して、ほとほと疲れて、とほほな気分だよー」
思い付くまま喋っているような一ノ瀬。いくら彼女でも、ここまで体力がな
いはずない。実は昨晩、ずっとパソコンでプログラムのチェックをしていたら
しい。知り合いの手伝いだよん、と云っていた。
「――あそこです。白い壁にえんじの屋根の二階家」
「似たような家ばかりなり」
「えっと、斜め前にグレーの乗用車が停まってる……あれ、八十島さんですね」
七尾さんの言葉の通り、針生家の前、道路を挟んで反対側にある車には、八
十島刑事が乗っていた。こういう場合、知らんぷりして通り過ぎるのが常識か
な。声を掛ければ、張り込みの邪魔になるのは確実なのだから。
と思って通り過ぎようとしたら、相手から声を掛けてきたので焦った。
運転席に座ったまま、八十島刑事はウィンドウを下げて、頭を外に傾けた。
「君達、針生徹平君に用事かい?」
「はい」
一番近くにいた僕が代表する形で答える。
「針生さんが新しいマジックを試したいというので、その観客役に呼ばれまし
た。他にも、美馬篠高校奇術倶楽部の一年生全員が来るはずです。見ていませ
んか?」
「見てないな。今日は朝早くに両親が出掛けたあと、宅配ピザと何か店屋物の
出前が来た。ホームパーティでもやるんだろうなとは思ったが、君達高校生だ
けとはねえ」
「ところで刑事さん。こんなに目立っていいんですか? 張り込みなのに……」
「今のこれは、警護を装った張り込み。ターゲットにプレッシャーを与える狙
いもある。だから多少は目立っていいんだよ。目に付かないと意味がないと云
うべきか」
刑事は表情を変えず、声を潜めて云った。そのまま、視線は門扉に向けて、
話を続ける。
「針生徹平が仮に犯人だとしても、十文字君のいないところで、大きな騒ぎを
起こすとは考えにくい。が、用心に越したことはない。異常があったら、すぐ
に知らせるように」
「八十島さんは、家に入らないんですか。護るためと云えば入れるでしょう?」
「高校生に混じって、日曜の昼間にパーティ気分を味わうのは遠慮するよ」
長話はさすがにまずいと判断したのか、八十島刑事はウィンドウを上げ、会
話を一方的に打ち切った。僕らは呆気に取られたが、一秒後には当たり前のよ
うな顔をして、針生宅の門をくぐった。
インターフォンは門にも玄関にもなく、呼び鈴のボタンがあったので押した。
しばらく待ったが、反応が見られない。仕方ないのでもう一度押し、ドアをノ
ックしてみる。依然として反応がなかったため、今度は声を発した。
「えー、ごめんくださいっ。針生徹平さんのお招きで来たのですが、おられま
せんか?」
「ちょいちょい、みつるっち。そんなにしゃっちょこばらなくても、今、針生
さんの両親はいないはず」
あ、そうだった。一ノ瀬に二の腕をつつかれて思い出す。「でも、お姉さん
がいるかもしれないし……」と言い訳して、恥ずかしさをごまかしておく。
そのとき、ドアが開いた。隙間から覗いた顔を見て、僕と七尾さんが同時に
声を上げる。
「――布川さん」
「君達、針生に呼ばれて来たの? あいつ、どういうつもりなんだろうなあ。
さっぱり理解できん」
ばつが悪そうに笑いつつも、頭を捻る布川さん。状況が飲み込めない僕らは、
説明を求めた。
「布川さんも呼ばれていたのですか?」
「違うんだ。針生が君らや一年部員相手にマジックを披露することさえ、知ら
されていなかった。自分はあいつからちょっとした悪戯に協力してくれと頼ま
れ、協力しただけなんだが」
「どんな悪戯を?」
「出前の格好をして、この家に自転車で配達に来たふりをする。上がり込んで
から、出前の衣装を針生が着て、僕は持って来た服に着替える。要は僕と針生
が入れ替わり、出て行くんだ」
警察の目を逃れるため、詐術を弄したのか? 僕は表の車にいる刑事に知ら
せようと、きびすを返した。だが、一ノ瀬が次に発した質問が気になり、しば
しとどまる。
「針生さんは外に出て、何をするか云ってた?」
初対面のはずだが、一ノ瀬はくだけた調子で尋ねる。
「いや、聞いてない。ただ単に、『マジックを仕掛けるんだ』とだけ」
「入れ替わった布川さん、あなたは何時まで、何をして過ごすつもりだったの
かにゃ?」
相手の語尾に目をぱちくりさせた布川さん。だが、気にしないで答えてくれ
た。
「暇潰しの道具があれば持って来ておけと云われていたから、ゲームや本を用
意しておいた。時間の方は、午後六時までには戻ると云っていたな。六時間程
度ならと思い、引き受けたんだよ」
「もう一つだけ。針生早恵子さんはこの家にいるですか?」
「え? 針生のお姉さんは出掛けたと聞いてるぞ」
僕は玄関から外に急いで出た。。車に駆け寄り、八十島刑事に針生家の状況
を伝える。
電気ショックか何かで弾かれたように、運転席から飛び出すと、針生宅へ走
った。彼の後ろ姿を追おうとした僕の目の前に、美馬篠高校奇術倶楽部の面々
が現れた。
その後、捜査が進むにつれ、いくつかの事実が明らかになっていった。
まず、一時消失したかのように思えた針生早恵子さんの行方だが、級友の家
に泊まりがけでテスト勉強に行っていた。これには僕らの思い込みが関与して
いる。針生宅に到着寸前に八十島刑事から聞いた話を、僕らは<四人いる家か
ら両親が出掛け、子供二人は残っている>と解釈した。しかし事実は、<子供
の一人は、昨日の内から出掛けて戻っていない>ということだったのだ。早恵
子さんは当初の予定通り、夜七時前に無事帰宅した。
一方、針生徹平の行方に関しては、なかなか判明しなかった。だが、当日の
午後八時過ぎに、美馬篠高校奇術倶楽部の部屋で、遺体となっているのを発見
された。日曜の高校は、当然ながら閉められており、針生は無理に忍び込んだ
と思われる。校舎そのものの防犯はそれなりにしっかりしているが、部室の方
は厳重とは言い難いようで、針生が奇術倶楽部の部屋に入れたのも、彼自身が
前もってドアか窓の鍵を掛けずにおいたと考えられた。
そして針生徹平の死に様だが……部屋が密室状態であった点、二件の犯行が
自分の仕業であると認める自筆の遺書めいたメッセージがあった点から、自殺
と思われた。だが、それで済ませるには大きな問題もあった。
彼の遺体は、各部に切断されていたのだ。頭、胸、腹、腰、左右の手、腕、
足、太もも……刃物の種類はまだ分かっていないが、自らの手でこんな芸当、
できるはずがない。
針生徹平のメッセージは、関係者のみに知らされた。自殺には大きな疑問符
を付けざるを得ないし、あまりにも芝居がかっていたせいもあろう。その文面
は、次の通りである。
『私は針生徹平。魔術師を目指す者。
葛西知幸を葬ったマジック、幸田加奈子を葬ったマジック。
二つのマジックは、私の手で完璧に行われるはずだった。しかし偶発的なア
クシデントが、私に不運をもたらし、いずれも不完全に終わったようだ。
ならば私は三つ目のマジックを披露しよう。
魔術師を目指す者の誇りを胸に、挑戦する。
このマジック、名探偵は解けるかな?
“幸せな割合”のために、健闘を祈らん。』
名指しこそしていないが、十文字龍太郎への挑戦状と受け取れる。もちろん、
先輩もこのメッセージを見ている。だが、事件発覚から三日目になっても、全
くコメントをしていない。ライバルを疑うだけでも堪えていたのに、その不可
解な死によって、精神的に大きな打撃を受けたのかもしれない。僕もおいそれ
と尋ねられないのが現状だ。
しかし、先輩が名探偵としての埃を捨てた訳では断じてない。その証拠に、
先輩が警察に述べたという推理が、五代先輩を通じて僕の耳にも入ってきた。
先輩は美馬篠高校奇術倶楽部の密室を、後から入れられた仕切り壁の特性を利
したトリックであろうと考え、移動させた、あるいはたわませた痕跡がないか
を調べるべきと主張しているらしい。先輩はまた、針生徹平が(他の二件の犯
人である可能性は残るが)魔術によって自殺したのではなく、何者かによって
殺されたものと見なしていることも明らかだ。いずれ、警察の捜査能力と相俟
って、真相を暴くに違いないと信じている。
かような状況にある中、十文字先輩に簡単に話し掛けるのは非常に心苦しい
のだけれども、僕には話さねばならないことが一つあった。そう、音無からの
頼みを、まだ伝えていなかったのである……。
* *
「百田君。君や十文字先輩が色々と大変な事態にあるのは、よく理解している
つもりだ。しかし、私の願いは事件発生前に伝えたことを忘れてはいまい?
加えて、私は君達が今事件を調べる過程でも微力ながら助太刀した。それなの
に、返事が未だにないとは、いかような理由があるのか。包み隠さず、話して
もらいたいのだが」
詰め寄ってきた勢いそのままに、音無は僕に対してまくし立てた。クラスの
数名が、何ごとかと振り返っている。
僕は回答を持っていたのだが、なかなか口を挟めないでいた。それは彼女の
語勢に気圧された……というよりも、美貌に見とれてしまったせいかも。
「そ、そのことなら」
やっと云えた。にやにや笑っている一ノ瀬の視線をうなじ辺りに感じながら、
なるべく平板な調子で、音無に答える。
「OKをもらったよ。ただ、今度の事件の経緯が経緯だから、さしもの十文字
先輩もとても落ち込まれている。できれば、音無さんが歓待して、元気づけて
あげればいいんじゃないかな」
――終