#348/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 09/08/23 23:54 (270)
お題>スイス 1 永山
★内容
足を抜いて一歩進むだけで苦労する。とは言え、体力の衰えのせいにするに
は早すぎる。滝田星来(たきたせいら)には、まだ若く健康だという自信があ
った。
雪の降るのが珍しくない地方ではあるが、今年の量は例年に比べてかなり多
いようだ。
馴染みの屋敷の玄関に辿り着いたときには、息を弾ませていた。そんな彼を、
よく通る声が迎える。
「まあ、ようこそ滝田さん。ささ、上がって。今年も大いに楽しみましょう」
上品な外見をした初老の女性が、笑みをたたえる。小柄だが、存在感に大き
さがあるのは、のんびりした調子だが通りのよい声に理由があるのかなと、滝
田は思う。
「よろしくお願いします、トメさん。以前のようにお元気そうで何よりだ。あ、
名字が変わっても、下は一緒だからトメさんでいいよね?」
「はい。斉藤トメ(さいとうとめ)になりましたが、トメで」
笑みを広げるトメに、滝田も笑みを返す。
トメは元々、派遣の家政婦をしていた。若い頃に一度離婚を経験し、その後
独り身のまま、何とはなしに人生を終えるのだろうと考えていた彼女にとって、
派遣先の主人からプロポーズされたことが大きな転機になる。その初老男性は
斉藤一栄(いちえい)といい、働き盛りの頃から投資で財をなし、裕福な暮ら
しをしていた。だが、家族に悉く先立たれた上、病が重なり、心身ともに参っ
ていた。どん底状態から救ってくれた家政婦に、好意以上の感情を抱いても不
思議ではない。トメは、お世話をしたのは仕事だから当然だし、病気が治った
のは言うまでもなく医者の功績だとして、当初は断った。だが、相手の再三に
渡る熱意溢れる求婚に折れ、一緒になることを承知した。
斉藤一栄は本格推理小説の研究を趣味にしており、定年退職を機に、愛好者
の集まり「謎求会」を創った。いくつかの恒例行事を催すが、最大のイベント
は、年に一度の懇親会だと言えよう。会場は、ここ斉藤の屋敷と決まっていた。
冬ともなると交通の便が極端に悪くなるが、本格推理の世界に出て来そうな、
和洋折衷の大きな邸宅が会員らを惹きつけるのだ。
(今年で四年目か。さすがにもう、“雪の山荘”での殺人事件なんていう“期
待”はしなくなったけれども、それでも何だか胸躍るな)
と、滝田が会に入ったばかりの頃を思い起こしているところへ、第三の声が
加わる。
「文字通り、“差”を付けられた訳よね、私」
トメの後方、屋敷の奥から、黒のドレスに包んだすらりとした姿を現したの
は、赤井留美(あかいるみ)。元ファッションモデルで、今は、個人――主に
主婦――の発想から生まれた便利グッズを商品化する会社を営む。順調らしく、
ために結婚できないと嘆いていた。差を付けられた云々は、そのことを差すの
だろうと滝田は解釈した。
「お早いご到着ですね、赤井さん」
「私はいつもこんな調子でやってるわ。お久しぶり、滝田さん。少しお疲れの
ようね」
「まだ若いつもりなんですがね。日頃の運動不足がたたったかな。それに比べ
て、あなたは年齢を重ねないようだ」
「お世辞じゃないなら、ストレートに、きれいだ美しいと言ってほしいところ
だわ」
冗談めかし、笑い声を立てる留美。その笑い方には、しわが面に浮かばない
よう気を付ける様が覗えた。
「あっ、聞こうと思っていて忘れていたわ。トメさん、他の人達には結婚した
と言ったの?」
トメを見る留美の視線は、意外と穏やかだ。案外、当人は結婚に興味がない
のかもしれない。
「いいえ、まだ留美さんと滝田さんにしか。他の方々へは、今夜にもと思って
いたのですが、主人の一栄が……」
「そういえば、ご主人にご挨拶をしたいのですが、今、よろしいですかね?」
向き直り、滝田が尋ねると、トメは申し訳なさげに目を伏せがちにした。
「実は、まだ帰って来ていないんですよ。お目当ての原書以外にも、思わぬ掘
り出し物があったと言って、ずるずる延びてしまって。そうこうする内に、あ
ちらも天候が悪くなって、今日は大事な会合だというのに間に合わなくなる始
末です」
台詞を区切ると、深々と頭を下げた。
「あの人が不在の間は、私が精一杯、ホストを務めますので、ご寛恕ください」
「天気が相手では仕方ない。ミステリ好きが高じての原書収集ですしね。明日
にはお着きになる?」
「本人はそう申しておりましたが、あちらが晴れても、こちらの天気がどこま
で回復するか……」
「そうでしたか。まあ、私は時間の融通が利くので、長逗留が許されるのなら、
一栄さんの帰国を待ちたいものです」
「私の方からお願いします」
再度、頭を垂れるトメ。そこへ被せるように、留美が声を張る。
「私はそう簡単に予定変更できない。だから、早く来なさい、滝田さん。とり
あえず飲まないと」
言って、滝田の手を引っ張る留美。近くに寄ると、若干、アルコールの匂い
が。顔に出ない人なので気付かなかったが、すでに飲み始めていたようだ。
「荷物を置いてこないと。他の方で来られているのは――?」
「いいえ、誰も。独り手酌で寂しい時間を過ごしてたわ」
トメは飲めない質なので、他の面々がいないのであれば、留美一人で飲んで
いるしかなかったろう。
「皆さんも、雪のせいで遅れてるんでしょうかねえ」
荷物を持とうとするトメを、滝田は慌てて制す。
「そんなことしなくていいんですよ、トメさん。以前ならいざ知らず、今は」
「いいえ、そういう訳には。慣れていますし、私達の結婚を知らない他の方々
が来られたら、同じように振る舞わないといけませんからね。驚いてもらうた
めにも」
「しかし、今はまだいないのですから」
ちょっとした押し問答の末、赤井留美から急かされたせいもあり、荷物を一
つずつ持って部屋に向かった。
荷物を置いてエントランスに戻ると、留美の姿はなく、代わりのように新た
な来訪者がちょうど玄関ドアを開けるところだった。日本人男性とアメリカ合
衆国の白人男性の二人組だ。
「まあ、砂辺さんにサンドストロームさん。お待たせしてすみません」
「着いたばかりですよ。今年の雪は、また格別ですな」
砂辺時夫(ときお)が、その大きくない体躯で胸をせり出すようにして声を
張った。玉の汗をかいているが、元気そうである。塾講師の彼が、この時期休
みを取れるのは三年に一度がせいぜいで、滝田もこの会合で顔を合わせるのは、
まだ二度目だ。
「初めてここに来たときを、思い起こしますか」
滝田が微苦笑を浮かべながらそう言葉を向けると、砂辺は受け取ったタオル
を顔表面一周させてから、これまた微苦笑を浮かべた。
「あのときは来たというよりも、迷い込んだ、ですからなあ。疲労の程度が全
然違う」
その場に居合わせた訳ではないので、滝田は話に聞いただけだが、砂辺とハ
ーレイ・サンドストロームが謎求会に入るきっかけは、迷い子だった。地質や
植生の調査で日本に来たというサンドストロームは、元からの知人であった砂
辺を通訳とし、この地を訪れ、森の中へ分け入った。冬とはいえ、珍しいほど
の大雪に見舞われ、方角は分かるのに進むべき道を見失う失態。果ては気力も
体力も低下してきたとき、森が急に開けたかと思うと斉藤家の屋敷が目に飛び
込んできた。一も二もなく、助けを求めて駆け出したという。
「あのときのスープの味は、今でも忘れられないうまさだった」
当時まだこの屋敷の家政婦だったトメは、突然の来訪者にも慌てることなく、
あり合わせの材料――ベーコンとポテトとトマトとタマネギ――を使ったスー
プを手早く作り、二人に供したとのことだ。
砂辺がそのときのことを話しているとの旨、サンドストロームに英語で聞か
せる。相手は鼻髭を一つこすり、「そうそう」と日本語の発音で応じた。ハー
レイ・サンドストロームは何度か日本に来ているが、日本語はほとんど解せな
い。話すのは片言にも達しておらず、読みは仮名のみ、書くとなるとからっき
しだ。
「それでは、今度の滞在中も、同じ物を出しましょうか」
「ぜひぜひ。こちらからお願いしたいほどだ」
味を思い出したか、手のひらをこすり合わせる砂辺が、案内されて行く。サ
ンドストロームも続いた。
滝田は彼らを見送ると、留美の居所を探して屋敷奥へ向かい、洋室の広間を
覗いてみた。
「やっと来たわね」
留美がグラスを掲げ、歓迎する。透明なガラス製のテーブルを挟み、真向か
いのソファに収まる滝田に、彼女はいきなり問い掛けた。
「殺人トリックで、こういうのはどうかしら。孤島で探偵能力を競う大会が催
される。百名の参加者は外部との連絡禁止。もちろん、携帯電話を始めとする
機械の類は取り上げられ、主催者が一括して保管する。何日目かの朝、主催者
が携帯電話に埋まるようにして死んでいるのが発見される。目立った外傷はな
く、毒を盛られた形跡も見つからない。後の検査で心臓発作と判明するのだけ
れども、これが他殺だとしたらどのようにして犯人はなし得たのか?」
「……もしかして」
馬鹿々々しい発想だと思いつつ、正解だった場合に備え、その感想は口に出
さない滝田。
「百台前後の携帯電話全てをマナーモードに設定し、一斉にメール送信した、
とかですか? 一つ一つは小さな振動でも、慣れない内は結構びくっとなりま
す。それが百ともなれば、通常の携帯電話の振動とは認識でないでしょう。恐
怖を喚起させるのに充分かもしれない。死に至るかどうかは、分かりませんけ
どね。主催者の健康状態次第かな」
「瞬殺ね。当たりよ」
身体をソファに預け、留美はグラスの残りを煽った。
謎求会では、こんな風にメンバー間でミステリ絡みの問題を出し合うのが、
日常になっていた。むしろ、これが楽しみで会合に出席する者も多かろう。出
来のよいトリックやストーリーを思い付けたら、有志で合作する計画があるた
めか、出し惜しみする雰囲気はない。
「普段、多忙な赤井さんらしい思い付きだからこそ、すぐに分かったんですよ」
「慰めてくれてありがと」
会話を楽しんでいると、トメがお茶を持って入って来た。広がる香りで、滝
田の好きなコーヒーだと分かる。礼を述べた彼に、トメが付け加えた。
「お腹が空いてましたら、夕食まで時間がありますし、何か作りましょうか」
「いただきたいところですが、夕食を存分に味わいたいので。今は――」
と、コーヒーカップに添えられた、棒状の菓子を手に取る滝田。
「――これで充分。……ん?」
菓子の銀色をした袋を破こうとして、滝田の手が止まる。
袋は元はいくつかが縦に連なっているタイプで、その一つをちぎり取った物
が、滝田の手の中にある。
「端が上下ともぎざぎざですね。トメさん、習慣を変えたんですか? お客さ
んに出すお菓子は、その日開封した物をと言っていたはず」
「いいえ」
にこにこしながら首を横に振るトメ。
「以前と同じですよ」
「それじゃあ……」
滝田は留美をちらりと見た。
「まさか赤井さんに、お菓子を出した?」
「冗談! 私は甘い物は、食後のデザート以外には食べない。宗旨替えしてな
いわよ」
トメより早く、留美自身がまくし立てるように答えた。滝田はあごに手を当
てた。
「ということは……トメさん、赤井さん。お二人、私に嘘をつきました? 雪
をかき分け、やっと到着して一息ついたばかりの私に」
ずばり尋ねると、トメは口元を手で隠し、ほほほと小さな笑い声を立てた。
「私は積極的には嘘をつかなかったつもりですが……お気付きになりました?」
「ええ、まあ。私の来る前にどなたかが――赤井さんの他にも、誰か来客があ
ったんですよね」
「はい。来客というよりも、メンバーの方々ですけどね」
変わらぬ笑みで認めるトメ。対照的に、留美はちっと舌打ちし、表情をゆが
める。
「どうして感付いたの、滝田さん?」
「以前、これと同じ菓子を出されたときのことを、覚えていましたから。一番
乗りだった私に出たそれは、袋の片方の端が平らだった。つまり、いくつか連
なった菓子の最初と最後の一箇だけが、平たい端を持っているものと推測でき
る。対して今、私に出された菓子は両端ともぎざぎざでした」
「あら、嬉しい。こちらの意図した通り、読み取ってくれて」
トメが空になったお盆を小脇に抱え、手を叩く。何のことやら理解できない
滝田は、留美に向き直った。留美は留美で、「だから、ヒントを出さずにやり
ましょうって提案したのに」云々と、不平そうだ。
「事態が飲み込めませんが、“私の知らないところで不正が行われている”っ
て気がするなあ」
滝田が呟くと、女性二人はようやく説明してくれた。
「まず、滝田さんよりも早くここへ到着したのは、留美さんの他に、お三人い
ました。沖島(おきしま)さん、中立(なかだて)さん、世羅(せら)さん」
「この屋敷なら、隠れ場所には事欠かないでしょうね」
呆気に取られつつ、平静を装い、応じる滝田。コーヒーが冷めるのも気にせ
ず、三人の顔を思い浮かべた。
沖島志貴雄(しきお)は、見た目は骨張った痩身で、穏やかな表情と相俟っ
て頼りなげだが、空手の先生をしており、腕っ節は強い。よって好みの推理小
説もハードボイルドかと思いきや、学園ミステリだというから分からない。
中立は下の名を中(あたる)とするペンネームで活躍するイラストレーター。
本名は麗子(れいこ)といい、文字通り、見目麗しい顔をしている。首から下
は職業上の理由から来る運動不足でぽっちゃりしており、前回会ったときは、
トレーニングに付き合ってくれる彼氏募集中だと公言していた。
世羅永邦(ながくに)は白髪頭が見事な内科医で、屋敷の主人、斉藤一栄を
診たのが縁で、謎求会に加わった。病院の方は息子に任せ、趣味を満喫してい
る。“健康を気にしない医者”を自任していて、息子に代を譲ってやっと存分
に喫煙できるようになったと苦笑混じりに語るのが口癖だ。
「で、五人で私を引っかけようとしていた?」
「五人じゃなく七人よ」
留美が嬉しそうに訂正した。二人増えたということは、あとから到着した砂
辺とサンドストロームも、一味の仲間らしい。
「嫌われてる訳じゃないから、安心して。この間の犯人当てで優秀すぎる成績
を残したあなたを、一つやっつけてみようって相談がまとまったの」
この会合を謎求会の冬のメインとするならば、夏のメインは犯人当てだろう。
メンバーが順番に出題を担当して犯人当て小説を作成、各会員のもとへ事件篇
が郵送される。出題者以外の面々は探偵を気取り、夏の終わりまでに推理を文
章にまとめた物を送り返すのだ。
今夏は斉藤一栄が力作でもって挑戦してきた。結果は、滝田以外の者は何が
手掛かりかさえ掴めず、白旗を掲げた。逆に滝田は一栄の仕掛けを悉く見破り、
完膚無きまでにねじ伏せた。
そんなことがあって、皆は滝田の推理小説能力(推理力ではない)を讃えつ
つも、能力の再確認という名目で団結、冬の会合にて計画を決行することにな
ったという。
「私が思うに、本格ミステリにはフェアプレイの精神がなければいけません」
トメが言う。
「滝田さんを試すために、嘘の殺人事件を起こすのであれば、まず『これから
起きることはお芝居ですよ』というシグナルを発して差し上げるのが、フェア
プレイというもの。そう提案し、皆さんに承諾していただいたのですよ」
「渋々だけれどね」
留美が付け加えた。右手で、空にしたグラスをもてあそんでいる。
「しっかし、まさかこうも簡単に見破られるなんてね、予想外。やっぱり最後
まで反対しとくべきだったわ」
「それは悪いことをしたなあ」
滝田はコーヒーにやっと口を付けた。
「準備していた皆さんに申し訳ない。気付かないふりをして、このまま続けま
しょうか」
「そういうのはちょっと……」
返答に困る様子のトメに、滝田は続けて言った。
「さっき言っていましたよね、殺人事件を演じるつもりだと。私はそれがお芝
居と知っただけで、内容に関してはまだ一切知りません。推理劇を観るつもり
で、挑戦したい気持ちがふつふつと。折角の準備を無駄にするのも何だし、全
員、状況を把握した上で、フェアにやりませんか」
「そうおっしゃってくれるのなら……どうしましょう?」
留美に話を向けるトメ。即座に、別にいいんじゃない?という返事があった。
* *
いきなり、二人の犠牲者を出して、事件は幕を開けた。
犠牲者の一人は、ハーレイ・サンドストローム。あてがわれた部屋で、床に
仰向けに倒れて死んでいた。朝の八時過ぎ、いつまで経っても食堂に姿を見せ
ない彼を起こしに、トメが部屋まで行き、見つけた。死亡推定時刻は、世羅医
師の見立てによれば、午前0時から二時までの間。死因は腹部を鋭利な凶器で
刺されたことによる失血死。凶器とおぼしき文化包丁が、遺体のそばに落ちて
いた。この包丁は台所の棚にあることを誰もが知っており、また、誰もが持ち
出せた。
いま一人の犠牲者は、赤井留美。彼女もまた朝食の場に現れないのを不審に
思われ、トメが呼びに行ったが、前述の通り、トメはサンドストロームの遺体
を見つけたため、それどころではなくなった。無事を確認すべく留美の部屋に
駆けつけたのは、滝田自身と砂辺であったが、そこはもぬけの殻。ならばとそ
のまま二人揃って探し続けた結果、一階の図書室で後頭部から血を流し、絶命
した留美の発見に至る。こちらは撲殺であったが、凶器は未発見。世羅医師は
死亡推定時刻を、午前一時から三時までと見積もった。
それぞれの事件について、全員のアリバイ調べが行われ、第一の殺しでは、
アリバイのある者はなく、第二の殺しでは、トメと滝田のみ、アリバイが成立
した。
そして、二人の被害者には、共通点があった。
ダイイングメッセージを残していたのである。
* *
――続く
#349/598 ●長編 *** コメント #348 ***
★タイトル (AZA ) 09/08/24 00:02 (271)
お題>スイス 2 永山
★内容 24/04/29 02:45 修正 第3版
「――私とトメさんだけ、深夜のアリバイが成立するとは、かなり無理のある
設定ではないかと」
滝田は苦笑を交え、感想を述べた。
謎求会メンバー全員が了解の下、ゲームは始められた。さすがに芝居全てを
行うのはもやは白けるだけと言うことで、筋書きのほとんどが朗読の形で滝田
に伝えられた。問題に挑戦する滝田は、動機は勘案しなくてよい(一応、用意
されている現実の人間関係とは異なっており、想像のしようがないので)、医
師の見立てに嘘はないという条件を頭に入れ、全てを聞き終わった。
「まあ、そこはそれ」
沖島が陽気な口ぶりで言う。
「夜中に眠れず、自室を抜け出てぶらぶらしていたら、廊下でたまたま出くわ
し、話し込んだということにでもしておいて」
「了解しました。それにしても……今どき、ダイイングメッセージですか」
滝田はサンドストローム、留美の二人に向けて呆れ声を発した。
この発言に対し、サンドストロームは砂辺の通訳に耳を傾ける。一方、留美
は間髪入れず、反駁を。
「私が考えたトリックじゃないからね」
「それでも、ダイイングメッセージを残す死体役を演じる者として、少しは抗
議したんでしょうね? 極論すれば、ダイイングメッセージは答合わせができ
ないトリックだから、決め手になりませんよ。作家にとっちゃ、作りやすくて
便利かもしれませんが、乱用はいただけない」
「死にかけていたら、必死になって助けを呼ぶのが普通であり、ダイイングメ
ッセージを残すはずがない、という考え方もありますしね」
トメが取りなすように言う。メンバー各人のグラスが、空になっていないこ
とに目を配った後、言葉を重ねる。
「でも、ここにいる私達は、全員、普通の人ではありません。ミステリマニア
です。つまり、死にかけたら、ダイイングメッセージを残すような人種でなく
て? 推理小説に慣れ親しんだが故の習性です」
「……分かりました。ダイイングメッセージへの一般論的批判は、引っ込めま
す。それで、えっと、何でしたっけ。サンドストロームさんが、カットしたト
マトを掴んでいた、と。これはサンドストロームさんから寝酒のつまみを頼ま
れたトメさんが、簡単なサラダをこしらえて前日の午後十一時五十分頃に、部
屋に運んだ物でしたね」
「ええ。トマトとキュウリと赤ピーマン、オニオンスライスににんじん、そし
てチーズを使ったサラダです」
「どうも。一方、赤井さんが手にしていたのは、地図帳。ヨーロッパのページ
が開いており、あなたの指先はスイスの辺りを示していた」
「地図帳は図書室に元々あった物、よ」
「そうでしたね」
留美自らのフォローに、滝田は少し苦笑を浮かべた。『死んだ被害者』が証
言できるのなら、いっそ、犯人に関して語ってほしいものだ、と思わないでも
ない。
「トマトにスイス……いかにも、ですねえ」
「いかにも、とは?」
沖島が心持ちあごを上げ、両手を重ねると指関節をぽきぽき鳴らした。別に
答が気に入らなければ殴ろうという前兆ではなく、彼の癖である。
「トマトとスイスの共通点の一つは、逆に読んでも元と変わらない点です。文
と呼ぶには心苦しいが、いわゆる回文だ。被害者達がその特徴を伝えたくて、
ダイイングメッセージに選んだのだとしたら……犯人にも同じ特徴があると見
なすのが、一般的でしょうね」
「常道ですな」
世羅がうなずき、先を促す。
「それで、滝田さんはどんな推理を組み立てましたか」
「まず、私自身の名字が当てはまる。残念ながら、たきだ、ではなく、たきた、
ですから。次に、沖島さん、あなたの名前もですね」
「さよう。皆さんご存知の通り、名字だけではだめだが、フルネームだと回文
になっている」
沖島には、指摘を受けても慌てた様子は微塵もない。滝田はうなずき、続い
て中立中に顔を向けた。
「あなたも当てはまる。ペンネームの読みではなく、字面が回文になっていま
すね」
「確かに」
中立中は微笑で応じた。
「こんなことなら、他のペンネームにしておくべきだったかな」
「いえいえ、今のままでいいと思いますよ。さて、回文は三人だけ。次に、ト
マトのみに着目すると、真っ先に浮かぶのは赤、じゃないでしょうか」
「赤を連想するのはいいとして、だから私が犯人だと?」
赤井留美が素早く反応する。滝田がこう言い出すのを、手ぐすね引いて待ち
構えていた感すらあった。
「私は殺されていることをお忘れなく」
「無論、忘れちゃいません。あなたがサンドストロームさんを殺害後、別の誰
かに殺害された可能性を言ったまで。ただ、この考え方はなさそうなんだなあ。
赤を言い表したいのなら、サンドストロームさんがわざわざトマトを選び取っ
て握るのは、かなり不自然だ」
用意された“現場写真”に視線を落とす滝田。そこに写ったサンドストロー
ムの手は、サラダからトマトの切れ端だけをつかみ取っていた。
「にんじんや赤ピーマンだって皿に載っているのに、トマトだけを選んだ事実
にそぐわない。刺殺されたんだから、血もあった訳だし」
「じゃ、私は無罪放免ね。死んじゃったけど」
さもおかしそうに笑う彼女だったが、その原因は、自虐的発言にはなく、滝
田を思惑通りに誘導できている優越感にあるのかもしれない。
「他にトマトから思い付くこともないので、今度はスイスを検討することにし
ますと……私なんかが真っ先に連想するのは、永世中立国なんですが、だから
といってこれが中立さんを示すかとなると、苦しい気がします。ましてや、世
羅さんとは」
「おいおい、私がどうして永世中立国と結びつくんだ?」
そう言った世羅は、メモを手から落としてしまった。簡単ながら“検死”の
所見を記したメモ書きだ。滝田の指摘に、本当に驚いたようである。
対照的に、滝田は落ち着き払った口調で答えた。
「名字と名前、それぞれ一文字目を組み合わせれば、永世になるじゃありませ
んか」
そしてにやりと笑ってみせた。外れであるのは承知の上。ささやかな逆襲と
して、できる限り多くのメンバーを容疑者候補に入れてやろう。
「そもそも、いくらミステリマニアだとしても、死にかけている人物がたくさ
んある本の中から地図帳を選び取り、スイスの掲載されているページを探すな
んて、不自然すぎる設定ですからね。襲われた際、たまたま地図帳を手にして
おり、たまたまヨーロッパのページを開いていたなら、あるかもしれませんが。
それよりも」
滝田は別の“現場写真”を取り上げた。
「ここ、図書室に入ってすぐのところにある棚、その五段目かな? 目の高さ
に、細長い物がありますね。これ、砂時計ですか? 私の記憶だと砂時計だっ
たと思うのですが」
「はい。部屋の飾り付けのつもりで置いています。砂の落ちる音が聞こえるく
らいに、静かにしましょうという意味を込めて。実際には、耳をどんなにすま
せても、砂の落ちる音は聞こえませんけれど」
トメが答える。どことなく嬉しそうだ。
「どうも。この砂時計のある棚のほぼ真ん前で、赤井さんは倒れていた。当然、
視界に入っていたはず。ミステリマニアたる者、回文を示唆したいのなら、地
図帳を繰ってスイスを探すよりも、砂時計を握った方が早いと気付くべきだと
思うのですが、いかが?」
「それは……人それぞれよ。確かに砂時計は、上下どちらにしても使えるけれ
ども、気付かない人だっているかもしれない」
「じゃあ、あなたは気付かない人間だと?」
問い詰められて、留美はしばし口をつぐみ、やがて無言のまま首を横に振っ
た。
「赤井さん自身の証言が得られたので、自信を持って言えます。スイスのダイ
イングメッセージは偽装であると。殺人犯によるものかどうかは、まだ断定し
かねますがね。ダイイングメッセージが偽装なら、たとえ殺人犯がこしらえた
ものじゃないとしても、スイスから回文というようなシンプルな連想を起こさ
せるためであり、かつ、それは誤誘導のための手掛かりであると見なすべきで
しょう」
「かいつまんで言うと、名前が回文になってる滝田さんや沖島さん、そして私
は殺人犯じゃないと主張されるんですね」
中立中が口を開いた。ゲームの上とはいえ、疑いが晴れて嬉しそうに振る舞う。
「ええ、そうなんですが、でも」
滝田は首を捻った。
「まだ早計かと。トマトの方の検討が終わっていませんから」
「しかし、トマトだって新しい解釈は何も……」
「いや、ダイイングメッセージを残した人物について、検討がまだです」
「一つ目の事件も、ダイイングメッセージは偽装されたと?」
尋ねたのは世羅。メモは既に折り畳み、仕舞われていた。
「あれはサンドストロームさんによるものと思います。図書室と違って、代わ
りになる物はなかったし、筆記用具も見当たらなかった。強いて言えば、血液
がありますが、サンドストロームさんは日本語ができない。英語で書き残すに
も不安があったのかもしれない。ニュアンスを伝えきれない等のね」
「トマトを握ったのが私自身の意志だとして、そこからどう推理を展開するの
ですかな?――と、サンドストロームが聞いてるが」
砂辺が代弁した。よくぞ聞いてくれたとばかり、手もみする滝田。
「ちょっと考えてみたんです。日本語ができないとしたら、回文を暗示するた
めにトマトを手に取るだろうか。アルファベットで綴ると回文になっていない
し、発音も違う」
「まさか、赤色説を復活させる気じゃないでしょうね」
目尻を上げ、きつい調子で問うた留美。滝田は両手のひらを彼女に向け、ピ
ンボールの羽のように左右に降った。
「そんな期限切れの証文みたいなものは、役立ちませんから捨てましょう。代
わりに、おまじないを唱えてみるのがいいかもしれない。サンドストロームさ
んの立場になって、トマト、トマト、トマト……と繰り返すんだ」
「曲がりなりにも論理的に来ていたのに、急におまじないだなんて」
留美が呆れ口調に転じ、中立中やトメらと顔を見合わせた。男性陣もサンドス
トロームを除き、似たような反応を示す。
「お分かりにならない? いや、分からないふりをしているのだと信じてるん
ですが。折角ですから、サンドストロームさん、繰り返しトマトと言ってくれ
ますか。イギリス風ではなく、アメリカ風に、やや品のない感じで」
砂辺を経て、意図を受け取ったサンドストロームは、大げさに深呼吸をした。
それから周囲を見渡すと、おもむろに言った。
「トォメイトウトォメイトウトォメイトウトォメイトウトォメイトウ――」
「はい、結構です」
滝田が手を打つ。訳さなくても通じたらしく、サンドストロームが静かにす
る。
「サンドストロームさんはトマトを握ることで、人名をそのまま伝えようとし
たんですよね? トォメイトウ、つまりトメ伊藤と」
「私の姓は斉藤ですよ」
トメが否定的反応を示した。この推理が出るのを予想していたらしく、若干、
被せ気味だった。
「でも、今のご主人、一栄さんと結ばれる前は、伊藤でしたよね。そして、サ
ンドストロームさんは、トメさんの結婚を知らなかったから、トメさんの名を
トメ伊藤で覚えたままだったはず」
答えたあと、留美に目を向ける滝田。
「赤井さんて、結構ツンデレなんでしょうか?」
「な、何がよ。いきなり、気味が悪い」
これも芝居の内なのか否か、オーバーアクションで上半身をのけぞらす留美。
滝田は横を向き、思い出す風に上目遣いをした。
「今回、最初に顔を合わせたとき、すぐに言っていたじゃないですか。『文字
通り、“差”を付けられた』とかどうとか。あれもヒントだったんですねえ。
あの時点では、てっきり、既婚と未婚の差だと思い込みましたが、『いとうト
メ』に“さ”が付き、『さいとうトメ』になったってことを表していたんだ」
「解釈は人それぞれ、ご自由に」
そっぽを向いた留美だったが、口元や目尻には、かすかな笑みが乗っている。
手掛かりに気付いてくれて嬉しいのかもしれない。
「とまあ、こういう推理ですが、トメさんがサンドストロームさんを殺した犯
人てことで、いいんですかね? 物証がないのは、あるのに見つけられない私
が間抜けだからかな」
「そこまでは用意していません。あれやこれやと推理する前に、物証が見つか
っては興醒めですもの」
そう答えたトメは、しかし白旗を揚げなかった。
「滝田さん。サンドストロームさんを殺した犯人が私なのは分かりました。で
は、留美さんを殺した犯人は、どなただとお考えですの?」
「その問題が残っていました」
慌てる素振りを見せず、大きく首肯した滝田。さっきの台詞で、単に犯人と
はせず、サンドストロームを殺した犯人と言ったのは、このためだ。
「同じくトメさんを犯人とできたら簡単なんですが、赤井さんが殺されたとさ
れる時刻に、私と一緒にいたというアリバイがあるなら、除外せざるを得ませ
ん。別の犯人がいると考えるしかない。
さて、推理小説のお約束として、通常、連続殺人が起きれば、犯人は一人な
いしは共犯関係にある複数犯なんですが、皆さんが用意されたこのゲームでは、
違うようだ。だが、二件の殺人は時間的に重なるようにして起きている。何ら
かの関係があると見なすべきでしょう。たとえば、一件目が起きたがために、
二件目が誘発された、とかね」
言葉を切り、メンバー達の様子を窺う滝田。顕著な反応は見つけられなかっ
た。
「私が想像したのは、便乗殺人です。サンドストロームさんの遺体とダイイン
グメッセージを発見した何者かが、犯人は名前が回文になっている誰かである、
と判断した。そいつは、『今すぐ赤井留美を殺し、似たようなダイイングメッ
セージを偽装すれば、サンドストロームを殺した犯人に罪を被せられる』と計
算し、すぐさま実行した。夜中に図書室へ呼び出した方法は不明ですが、どう
にかやり遂げた第二の犯人は、いざ、ダイイングメッセージを残す段になり、
手が止まったんじゃないかな。つまり――最初は、目の前にあった砂時計を持
たせようとしたが、『砂時計はまずい、自分が犯人と思われる恐れがある』と
気付き、地図のスイスに変更した……」
滝田はいささか得意がる自分を意識しつつ述べ、メンバーの一人の顔を見つ
めた。そして、
「そんな気遣いをしなければならないのは、砂辺さん、あなただけだ」
ゲームを締めくくるべく、ずばりと指摘する。
相手の砂辺は大きく開いた目で滝田を見上げ、喉仏を動かした。それだけで
何も言わない。隣でサンドストロームがきょとんとした表情をなしている。
やがて、代わりのようにトメがぱちぱちと拍手した。
「お見事。ほんと、素晴らしいわ、滝田さん。最後の最後で私達の思惑通り、
罠にはまってくれて」
「――え。ということは」
「ええ、外れです」
トメの宣告に、額を押さえるポーズをし、手のひらで顔を隠す滝田。これは
恥ずかしい。名探偵が実在するなら、絶対に間違えることはできないなと感じ
た。
「あなたは基本的なことを忘れたようですよ。この推理ゲーム、お芝居は、私
達があなたを見返すためにやったのです。だったら、私達の誰一人として、あ
なたより推理力で劣るような筋書きは作らないと思いません?」
言われてみれば確かにそうだ。各人が、少なくとも滝田と同等の推理力を有
する設定ならば、サンドストロームのダイイングメッセージを正しく読み解け
ることになる。ならば、赤井留美を手に掛けたのが誰であろうと、スイスや砂
時計を用いた偽のダイイングメッセージを実行するはずがない。
「では、いったい誰が……。いや、それよりも手掛かりがどこにあるのやら」
途方に暮れた滝田を、皆が愉快そうに囲む。トメが再び口を開いた。
「敢えて考えなくていいとしていた動機ですが、改めて考えてみてください」
「そういうのはちょっと卑怯な……」
「いいから。狭量なことを言わずに、さあ。罠はあらゆるところに仕掛けてあ
るかもしれませんよ」
「……第二の殺人を起こした犯人は、第一の事件のダイイングメッセージが、
トメさんを示すと分かっていた。だから、第二の事件のダイイングメッセージ
は、故意に間違えたことになる。換言すれば、第二の事件を起こすことで、連
続殺人に見せかけ、回文の示唆する人物が犯人であると思わせようとした。こ
こまではいい。このあとが詰まってしまうんです。回文の示唆する人物が私一
人なら、今トメさんの言った動機を考慮してほしいという意味も、まま、理解
できる。推理ゲームの意図に適っていますからね。だけど、実際は私だけじゃ
ない。砂時計を選ばず、スイスとしたことで、私のみに絞れる訳でもなさそう
だし……」
「逆よ」
ぼそりと留美が言った。素っ気ないアドバイスだが、滝田は懸命に考えた。
「逆というのは、もしかすると……第二の事件とそのダイイングメッセージは、
誰かに濡れ衣を着せるためではなく、事件の混乱を計り、第一の事件の犯人、
トメさんをかばうためだった?」
「一気に失地回復してきましたな」
犯人と名指しされた砂辺が、にやりとした。滝田は、方向性は合っていると
確信を得た。だが、そこからがまた進まない。
「トメさんをかばう動機の強さ……ここにいる皆さんはどなたも同等ぐらいだ
と思いますが」
「微妙な言い回しですが、滝田さんのその見方は正しい。でも、答としては間
違っている」
沖島が手の指関節を鳴らした。各自の反応を比べると、この推理ゲームの筋
書きを主体的にこしらえたのは、彼のようだ。
「謎求会にはトメさんをかばう動機が、他より圧倒的に強い人がいるじゃあり
ませんか」
滝田が黙り込んでいると、中立中が言った。これに反応して、他の面々から
「それはヒント出し過ぎ」というブーイングが上がる。
滝田は一拍遅れて、やっと思い当たった。
「……ああ。『ここにいる皆さん』と『謎求会には』の違いですね。でも、そ
の人は不在だと聞いたんですが。あっ、もしや、不在だというのも嘘?」
滝田が叫ぶのとほぼ同時に、彼の背後から声がした。
「その通りだよ、滝田君」
振り返ると、斉藤一栄の姿があった。
――終わり