AWC 夜明けのうた 上     つきかげ



#342/598 ●長編
★タイトル (CWM     )  09/04/26  17:40  (462)
夜明けのうた 上     つきかげ
★内容
「ねえ、何しているの」
その言葉に僕は、はっと顔をあげる。
ゆっくりと。
水の底から浮上してくるように。
焦点が合っていなかったカメラの映像が、次第にクリアになってゆくよう
に。
僕は現実を取り戻していく。それは僕の皮膚から否応なく染み込んで、僕の
意識を支配してゆく。
ひとびとの語り合う声。
どこかで流れる音楽。
歩いてくるひと、立ち去るひとの足音。
音、音、音が少しずつ僕の意識を覚醒させる。そして、それに合わせて色彩
が。
僕のこころに届いてくる。
そこは。
駅の構内にある喫茶店だ。
目の前には彼女がいた。
あなたの妹だと名乗って僕の前に現れた女の子。まるで物語に出てくる妖精
みたいに。少し現実離れした美貌を持つ少女。
僕はゆっくりと首を振る。
「何をしているって」
僕は自嘲気味に口を歪める。
「思い出していただけだよ。昔のことを」
あなたのことを。
思い出していた。
そうは言わなかったけれど、彼女にはそう判ったらしい。
「何にしてもまだ時間はある」
僕は携帯電話を取り出し時間を見る。
僕らが乗る予定の夜行列車が出発する時間まで、まだもう少しあった。
彼女は。
ぐいっと。
僕の袖をめくりあげた。
そこには、傷痕が文字となって並んでいる。
あなたが、僕に残した聖痕。
皮膚の下に描かれた紅い文字。

 2011.4.5 5:12

彼女は冷めた美貌に薄く笑みを浮かべる。
「そうね。約束の時間までまだ随分あるわ」
僕は。
ゆっくりと。
再び記憶の海へと沈んでゆく。

その部屋は。
薄暗く、幾つもの電子機器が並べられており。
病院の一室というよりは、何かの研究室か実験室のようで。
並んだ液晶ディスプレイが放つ仄かな光の中に、その女医は佇んでいた。
彼女がかけた紅いフレームの眼鏡は、医者らしからぬ艶かしい雰囲気を持っ
ていたが。
彼女が身に纏ったものは、法廷にのぞむ裁判官みたいな厳粛さであった。
僕とあなたは。
白衣の女教皇みたいな女医の前に腰を降ろしていた。
あなたにはもう身寄りとなるひとが誰も残っていなかったので。
僕だけがあなたのそばに居ることになった。
女医はそして。
厳かに語り始める。
あなたはどこか。
授業を受ける女学生みたいに好奇心で瞳を輝かせ楽しげであった。
「この症例はだいたい2年前、そう2009年くらいから報告されるように
なったわ」
女医は。
表情を変えず、どこか事務的ですらある調子で語りつづける。
「TSD(Time Sense Disorientation)という奇妙な名称で呼ばれる
病 」
「知ってるわ」
その言葉に僕は驚いてあなたを見つめる。
「時間識失調症でしょ。わたし、2年前。その病でつきあってた彼をなくしたもの」
僕があなたと出会う前。
そのころの話を聞いたことはなかったので、知らないのは当たり前なのだ
が。
女医は満足げに頷いた。
「時間というものは、何か。それは物質のように意識から外在的に実在する
ものではなく、それ自体がそもそもひとつの脳の機能といえるわ。つまり
ね。脳の機能が正常に動作しなければ時間というもの自体が正常に流れなく
なる」
「ええ」
あなたは、朗らかに笑いながら語った。
「この病にかかると正常なひとたちとは別の時間が流れる世界にシンクロし
てしまい。この世界からは消えてゆくのでしょう」
女医は。
判決を下すように。
薄く笑みを浮かべて、頷く。
「そうね。例えてみれば。私たちの住んでいる世界が時速50キロで走る電
車の中にいることだとすれば。TSDを発症したひとは時速500キロの電
車に乗り換えるようなもの。つまりね。私たちからは認識できない世界へと
入り込んでしまうのよ」
僕は何か。
全てが非現実であるような。
粘液質の皮膜がその部屋全体に覆いかぶさっているような、奇妙なとても奇
妙な幻惑を感じながら。
あなたと女医のやりとりを聞いていた。
「わたし。あとどのくらいこの世界に留まれるのかしら」
「いくらか遅らせる方法はあるのだけれど。精一杯やって2ヶ月というとこ
ろかしら」
あなたは、
僕に微笑みかける。
「春まではもたないみたいね」

夜は。
物理的な重さを持って、僕らの上にのしかかってくるかのようだった。
夜行列車は夜の闇を走っている。
列車は絶え間なくリズミカルな律動を生み出している。とても単調でシンプ
ルな音楽みたいに。
それは時間を作り出していた。
僕らの生きる時間。
そして、あなたがとどまり続けることができなかった時間。
列車は。
高く聳える山の狭間を走ってゆく。
山は漆黒の巨人となり僕らの両脇に佇んでおり。
その狭間から見える空は。
深淵への裂け目のように黒く横たわっている。
僕は。
その闇の世界に、なぜか安心する。
深くて黒い闇は、僕のこころにも横たわっており。
世界が闇に塗り潰されれば、僕のこころと同期がとれる。
彼女は。
僕の向かい側に座っている。
切れ長の少しつりあがった。
夜の宝石みたいに美しい瞳で僕を見つめている。
唐突に。
彼女は口を開いた。
「姉は、どんな感じだったんでしょう」
僕は、思い出したように彼女を見つめる。
「この世界から去る前の姉は。どんなだったのでしょうか?」
僕は、ぎこちなく笑ってみせる。
そして。
ゆっくりと語った。
「普通だったよ」
僕は闇に潰されたこころの底から、記憶を取り出す。
「とても。普通だった」

そこも。
病室というよりは、電子機器で武装された要塞のような。
あなたは。
その青白い光を放つモニターの群と、冷却ファンがノイズを放つプロセッサ
の城壁に取り囲まれ。
無数のケーブルが繋がったヘッドセットを頭に付けていた。
まるでガラスで出来た仮面を付けているような。
そして、僅かに口元だけが露出しており。
あなたは、その口元を子供っぽい笑みで歪めると。
「えへへ、こんなんなっちゃった」
と僕に語りかける。
あなたは、無数のセンサーやチューブで機器に接続されていたため、ほとん
ど機械の一部になっているように見えた。
ただ舞い落ちた花びらみたいな紅い唇だけが。
あなたが、まだひとであることの証だと思う。
「なんかね」
あなたは。
ごく自然な調子で。
まるで今日のお天気がどうだということを話すみたいに。
僕に語りかける。
「TSDを発症するとほら。わたし、別の流れにある時間の中へ意識を飲み
込まれていくじゃない」
僕は、そんなあなたをただ見つめていた。
「この機械は、わたしの意識をね。この世界につなぎ止めることができるら
しいの」
あなたの脳は。
女医が言っていたところの時速500キロの世界へと向かってブーストをか
けられている。
TSDは着実にあなたのこころを、意識を、蝕んでいっているはずだった。
でも。
あなたは、幼子のように笑っている。
僕はあなたの隣に座った。
「TSD特別障害年金の手続きができたよ。大した額ではないけれど、」
突然。
あなたの唇が、僕の唇へ押し当てられる。
優しく、まるで風が撫でるみたいに。
あなたは僕に口づけをした。
「ほら、こんなんなってもちゃんとキスできるんだよ」
僕は。
涙をこぼした。あなたは、困ったように微笑む。
「ねえ。大丈夫だって。そりゃあお外を並んで散歩はできないけどさ」
あなたは、くすりと笑う。
「どっちにしても外はまだ寒いじゃない。こうして手をつなぐのよ」
あなたは。
僕に手を預ける。
「そうすれば、お部屋の中で並んで座って手をつないでるのよ。いつもとお
んなじ。ね。泣いたらおかしいよ」

その夜、僕はあなたのそばで一夜を過ごした。
TSDを発症したひとは、異なる時間の中へ飲み込まれてゆくときに、身体
が光につつまれる。
まるで。ホログラフでできた映像みたいに現実感を無くして細かな光の粒子
に分解されてゆく。
僕は暗くなった夜の部屋で。
魔法の森に咲く花のように神秘的な光を放つあなたの身体を眺めながら。
その手をぎゅっと。
握りしめていた。
現実感を無くしていくあなたをそうすれば、この世界につなぎ止められると
いうかのように。

それより2週間前のこと。
僕ははじめてあなたの病に気がついたときのことを、思い出す。
そう、それは。
夜明け前の出来事だった。
僕とあなたは、ひとつの部屋の中でまるで子宮の中で微睡む双子みたいに。
肌をよせあい、互いの息を感じながら。
薄く次第にはぎ取られて闇の中で抱きあっていた。
はじめ僕は、夜明けの光があなたに訪れたのかと思ったのだけれど、そうで
はなく。あなたの身体は。そう。世界から剥離していくことの象徴みたい
に。
薄く光輝いていることに気がついた。
僕は思わずあなたを揺すり起こしたのだけれど。
あなたは、自分の身体が現実離れした光を放っているのにただ微笑みを見せ
ただけで。
母親が子供を抱きしめるみたいに、いやあるいは子供が親にしがみつくみた
いにぎゅっと。
そう。
ぎゅっと。
僕の身体を抱きしめてくれた。
そのときが、はじまりだった。
そして、そのときあなたは。
それから何が起こるのかを全て理解していたのだ。
僕が不安に喘ぎながら夜明けの光の中で蒼ざめているときに。
あなたは全てを知っていたのだ。
僕はあなたの肌にふれ手を繋ぎ、日々を過ごしていて。
いつの間にかそれが永遠のものだと思ってしまっていたのに。
あなたは、それに終わりがあることを知っていた。
知っていたんだ。

女医は。
電子機器に囲まれたシャーマンのように。
妖しげなひとみで僕を見つめた。
「で、あなたは何を知りたいの」
なぜこの病院はどこに行ってもこう機械に満ちあふれているのか。
ここでは誰も彼もが、機械に接続され駆動されているみたいだ。
僕はふうとため息をつくと。
こう言った。
「TSDを発症したひとは、最後はどうなるんですか?」
「言ったはずよ。わたしたちの世界から消えてゆく」
女医は。
月と氷が支配する世界に佇む女王のように。
ディスプレイたちが放つ仄白い光を浴びてふっと微笑む。
「その答では満足できないのね」
「ええ。だって、異なる時間に飲み込まれていくのでしょう。つまり別の世
界に行くということではないのですか?」
「死ぬことだって」
女医はどきりとするような冷たい眼差しで、僕を見る。
「別の世界へ行くようなもの。そうじゃあないかしら」
「ではTSD患者は死ぬのと同じだと」
「うーん。ちょっと違うかな。少し待って」
女医は振り向くと、ディスプレイのひとつに向き合って、キーボードを操作
し始める。
「あのね。TSDの発症例は全部で1300くらいある。そのうち一例だ
け。戻ってきたひとがいるの」
「戻ってきた?」
僕は。
息が止まるかと思った。
「そんなことが」
「ただ、戻ってきたひとはほとんど別人になっていたのだけれどね。そのひ
とにインタビューしている映像がストレージのどこかにあったはずなんだけ
れど」
女医の手が忙しく動く。
「どいういう訳か、戻ってきたひとの情報はほとんど組織が非公開にしてし
まったから」
「組織?」
僕は女医の言葉にひっかかりを感じて問いかける。
「ああ、TSDの調査組織のことよ」
突然、ディスプレイのひとつに男の映像が浮かび上がった。
猛禽のように見開かれた瞳。蛮族のように長く乱れた髪。そして、狼のよう
に痩せ細り、餓えた笑みを浮かべて。
男は語り始めた。

「もうすぐ、夜が明ける。
 黄金に輝く太陽がやってくるんだ。
 おれたちは。
 夜と月に属する一族だから。
 彼女らのように光輝く世界の中では、
 存在していくことはできない。
 そう。
 嵐が地上を蹂躙するみたいに。
 光が世界を押し潰す。
 そこでは太陽の娘たちだけが、息をするのを赦される。
 彼女らは喜びに満ちあふれ、夜明けの歌をうたう。
 ああ。
 おれたち夜と月に属するものは。
 消えてゆく。
 消えてゆくんだ。
 けれど、決して哀しみとともに消えるのではなく。
 太陽の娘への祝福と喜びに満たされて。
 消えてゆくんだ。
 ああ。
 もうすぐ、夜が明ける。
 あなたは光輝く黄金の光に抱かれて。
 喜びに満たされるんだ」

少し粗雑なその映像は、唐突に打ち切られた。
女医は謎かけのような笑みを僕に向ける。
「どう思う?」
「どうっていうか」
「もちろん、きちがいの戯言として片付けてもいいと思う。でもね」
女医は、シャーマンの笑みを見せると厳かに言った。
「きちがいは、別の世界に属した内的論理に従って語っているのよ。判るか
しら」
僕はふっと。
甦る記憶の中に飲み込まれた。

僕とあなたは。
夜の部屋の中で固く抱きあっていた。
まるでそうすることによって。
お互いの肌が溶けあって混ざり合わすことができるというかのように。
お互いがひとつのものに、なれると思っているように。
固く、しっかりとたがいに抱きあって。
夜が明けるのを待っていた。
傲慢な光の刃が、薄暗い部屋の闇を切り裂くのを。
待っていた。
期待とともに?
不安とともに?
恐れとともに?

待っていた。
僕とあなたは、ふたりで夜明けを。

でも。
僕はなぜか夜に留まることを選んでしまった。
そういうことなのだと思えた。

夜行列車がその駅についたのは、真夜中の少し前だった。
大体4時間ほど列車に乗り続けたことになる。
夜の闇を抜けた末にたどりついた北の地にあるその駅は。
思ったより大きな駅だったのけれど。
既に終電車も終わってしまった時間で、バスも終わりタクシーも出払ったら
しく。
まるで廃墟のように閑散としていた。
僕と彼女は並んで駅の外へ出る。
太古の遺跡のように大きなビルが立ち並ぶ人気のない北の街。
ひとつよいことは、いつの間にか空が晴れたらしく明るい月が輝いているこ
とだ。
「どうやって行くつもりなの?」
彼女の問いに僕は笑って答えた。
「もちろん、歩くのさ。4時間も歩けばつくよ。約束の時間には余裕で間に
合う」
彼女は何も言わずに、僕とともに歩きだした。
大きなビルの立ちならぶ街並みは30分も歩けば様がわりして。
気がつけば周りは寺院や、墓地がならぶ土地となった。
荒涼とした暗い土地が延々と月明かりの下に広がっており、死霊達が這い
まっわっているような静かではあるが濃厚な死の気配が漂う場所だ。
まるで、冥界を歩いているようだった。
僕は、その場所を歩きながらとても馴染んでくるのを感じる。
まるで、ここが自分自身の場所のように。
その考えに、僕は思わず苦笑する。
彼女は、その様子を怪訝そうに見て声をかけてきた。
「あなたがその刻印を受けた場所がこの先にあるんですよね」
僕は頷いた。僕の腕、皮膚の下に刻まれた紅い血の文字。
「そうだよ。君のお姉さんがこの世界から消え去る3日前。今から大体一ヶ
月ほど前のことになる」
僕は輝く月の下で白々と輝き荒野を貫く道を歩きながら、遠くを指差す。
「この向こうにある森の奥。そこの建物で約束の刻印を受けた」
僕は。
一ヶ月前、とても奇妙な場所で目覚めた。
そして目覚めた僕の腕には、聖痕が刻まれていたのだ。
約束の時間を示す、血の刻印。
僕らは、その約束の場所へ約束の時間にたどり着くよう向かっている。
月の光に照らされ白く輝く道を抜けて。

その日いつものように病室に入った僕は、驚きのあまり息をのむ。
あなたが居ない。
機械に接続されかろうじてこの世界に繋ぎとめられていたはずのあなたが、
消え去っていた。
残り少ないとはいえ、後数日は残されていたはずなのに。
突然。
僕はあなたに抱きしめられた。
あなたは、扉の影に隠れて僕が来るのを待っていたのだ。
いつもの仮面は脱ぎ去り、空色のワンピースと濃紺のカーディガンを着て。
華やかといってもいい表情を僕にみせてくれていた。
「ねぇ、驚いた?」
僕は言葉を失いもあなたを見つめる。
あなたはそんな僕を見て上機嫌に微笑んでいたが、急に切なそうな目で僕を
見た。
「さあ、行きましょう」
僕は、驚いて聞き返す。
「え、どこに行くというの?」
「わたし、この世界から消えてどこにゆくか判ったの。だから」
あなたは笑みを浮かべ、僕の手を引く。
「あなたにもその場所を見ておいて欲しいから」
あなたは、僕の手を引き廊下に出る。
不思議と今日に限って人気のない廊下を駆け抜けると、あなたは壁の一箇所
を押す。
壁の一部が開き、奥に部屋が現れた。僕らはその薄暗い部屋に入る。そこは
パイプやダクト、ケーブルが縦横に走り点検用と見られる機器の取り付けら
れた鉄骨の柱がむき出しになった場所だ。
僕とあなたは、鉄製の階段を下ってゆく。まるで鋼鉄の迷宮みたいなその場
所を僕らは、下へ下へと降りていった。
あたりには金網のフェンスや轟音を立てて稼動している機械があり、鉄骨や
コンクリートがむき出しになって迷路を構成している。
気がつくと、そこは最下層らしくコンクリートの床がある場所へ立ってい
た。僕らは内臓のように複雑にケーブルやパイプの絡み合った廊下を駆け抜
けてゆく。
そして。
あなたは、また壁の一箇所を押す。
僕らがたどり着いたその場所は。
駅のホームだった。
「一体?」
僕はあたりを見回す。
恐ろしく古い、壁にはひびが入りあちこちから水が染み出して滴っておりま
るで自然の洞窟みたいでもあったが。
間違いなく駅のホームらしく、プラットホームの向こうには線路が走ってい
る。
「もうすぐよ」
あなたのどこか無邪気な声に呼び出されたように。
列車が姿を現した。
黒くて大きな獣を思わせる巨大な乗り物は、ごうごうと音を立ててホームに
入ってくる。
その列車が立てる音は獣の雄たけびみたいだと僕は思う。
その列車は僕らの前に止まった。
開いた扉の向こうへ、当然のようにあなたは乗り込む。
僕は慌ててあなたの後に続いた。
僕らはベンチシートに腰を下ろす。ため息みたいな音をたてて列車の扉は閉
まり。
ごうごうと音を立てて再び走り始めた。

規則正しい律動を列車は僕らに伝えてくる。
ただ。
そのリズムはどこか奇妙だった。
列車の生み出すリズムは、時間を作り出す。
ただ、その時間は今まで僕らのいた場所のそれではなく。
あなたがこれから行くはずの場所に属する時間。
ブーストをかけられ僕らの意識が到達できなくなるはずの高速で流れる時間
を、作り出しているようだ。
巨大な鋼鉄の獣はごうごうと咆哮して。
僕らの属する時間を抜け出して、別の時間が流れる別の世界へと向かって
行った。
あなたは。
もう僕を見ておらず、窓の外を流れててゆく地下の照明を見つめていた。い
や。何も見ていなかったのかもしれない。自分の内に流れる異質な時間以外
は何も。
そして。
列車は厳かに停車した。
何かの終わりを告げるような轟音と振動が響き渡り、列車は完全に止まる。
扉が開き。
僕はあなたの後を追ってホームに出た。
あなたはホームを急いで駆けてゆく。
まるで、何かに追い立てられるように。
僕は慌ててあなたの後を追った。
階段を駆け上り、いくつもの廊下を走り抜けてゆく。
僕は地下世界でうさぎを追うアリスみたいに。
息を切らしてあなたの海の底みたいに青いカーディガンを追い求める。
それでもいつかあなたを見失い。
気がつくと僕は行き止まりの廊下に迷い込んでいた。
その突き当たりには鋼鉄の扉がある。僕は、その重くて頑丈そうな扉を開い
た。
扉の向こうには。
巨大な機械が立ち並ぶ、薄暗い場所だった。
天井はとほうもなく高く、備え付けられている機械たちもまるで小規模のビルみたいに
高く聳えている。
機械についているらしい無数のLEDパネルが光を放っており。
まるで、照明が星のように煌く夜の街を眺めているみたいな。
あるいは宝石が瞬いている、地下の洞窟に迷い込んだような。
そんな気持ちになって、巨大な機械の谷間へ入り込む。
ごおんと。
空調や、冷却ファンの立てているノイズが僕を包み込む。
そのノイズは僕のこころから思考を奪い取り。
あなたを見失った不安さえも麻痺させていった。
気がつくと僕は壁沿いに上ってゆく階段を僕は見出す。
僕はその延々と続く階段を上ってゆき、天井近くにある扉をひらいた。
そこには真っ直ぐ廊下が伸びていて。
突き当たりには巨大で城壁みたいに聳える扉があり、少しだけ隙間が開いて
いる。
僕はその扉の隙間から奥の部屋へと入った。
そしてそこに。
あなたが居た。




#343/598 ●長編    *** コメント #342 ***
★タイトル (CWM     )  09/04/26  17:42  (366)
夜明けのうた 下     つきかげ
★内容
そこは。
広々とした場所だった。
体育館か講堂のように天井も高くスペースも広い、しかしがらんとした場
所。
薄暗く、薄墨色の空気に満たされているようなしんとしたところ。
その場所のずっと奥に。
あなたは居た。
あなたは。
天使のように巨大な翼を壁に貼り付け。
いや。
あなた自身が化石となって岩壁に埋まっているように。
つきあたりにある広大な壁の中に、身体の半ばを塗り込められていた。
あなたの翼は。
羽根はなく金属でできた骨格だけのようだったけれど。
広々とした壁全体を覆うことができるほど巨大なものだった。
金属の糸で出来た蜘蛛の巣にいるようにも見え。
病室で様々な機器に接続されていたときと同じように。
得体のしれぬ翼のような機械を身体に組み込まれているようにも思えた。
あなたの瞳は閉ざされており。
息をしている気配も感じられなかったため、オブジェかあるいは剥製のよう
に思え。
僕は恐ろしくて近づくことができなかった。
本当に、本当にあれはあなたなのだろうかと何度も何度も自問したのだけれ
ど。
固く目を閉ざしたその顔は紛れもなくあなたのものであった。
僕がその広々とした部屋に立ち尽くしている間に。
いくつもの人影が現れて、あなたのほうへ向かって行った。
そのひとびとは。
皆、男性のようであり全身に刺青を入れていた。
その刺青はまるで身体を覆う回路図のように見え、幾何学的なラインが青白
い光を放っており。
その男たちの身体内部で何か光輝くものが燃えさかっているかのように思え
た。
男たちは、まるで僕が存在しないように僕のそばを通り抜けてゆく。
多分。彼らには僕が見えていない。
僕はまだ彼らとは異なる時間に属しているためだろうと思う。
男たちはあなたを取り囲むように、佇んでいた。
僕は男たちの声を聞くことができた。
(なぜオメガは目覚めない)
(このままでは間に合わないな)
(もう時間がない。このままオメガが目覚めぬのであれば)
(夜明けは訪れないのかもしれぬな)
男たちは、吹き抜ける風のように囁きあい。
やがて。
現れたときと同じように静かに立ち去って行った。
ひとりの男だけを残して。

ひとりだけ残ったその男は。
他の男たちがそうだったように、逞しい身体を持っている。
その身体は、ギリシャ彫刻やボディビルダーのような均整のとれたものでは
なく。
野生の猛獣が持つ。
しなやかさと獰猛さを兼ね備えた。
自然に身についた威圧感を持つ肉体である。
そして、その肉体には縦横に亀裂のような刺青が走っており。
体内で燃え盛る光が漏れ出るように。
輝きを放っていた。
その男は僕を見つめている。
その男だけには、僕が見えているようだ。
男は語りかけてくる。
「おまえは、ブレーンワールドから来たものだな」
僕は、首をかしげる。
「判らないか。まあいい。この世界は16次元空間。バルク空間だ。お前た
ちの世界は、高次元が圧縮され皮膜化したブレーン(泡)の世界。おまえは、
このオメガに連れられてここに来たのだろう」
僕は頷く。
「そうです。あなたには僕が認識できるのですね」
「ああ。おれの名はアルファ。そこにいるオメガのパートナーだ。おそら
く、オメガと認識を共有しているためおまえが見えるのだろう」
「パートナー?」
アルファと名乗った男は。
無言で振り返ると、歩き出した。
「ついてこい。おれたちが何をやっているのか見せてやる」
僕は、アルファの後ろに続く。野生の獣みたいな滑らかな動きで歩くアル
ファは、部屋の扉を開き外に出た。
そこは、広々とした屋外ステージのような場所だ。
眼下には荒廃した大地が広がっており、頭上には深い深い青に染められた空
がある。
アルファは。
その空の彼方を指差した。
「見ろ。あそこにおれたちがフェンリルと呼ぶものがいる」
アルファが指差す先には。
黒い。
おそらく死、そのものみたいな闇につつまれた。
巨大な。
空の一角を支配してしまうくらいに巨大な。
漆黒の塊があった。
それは、切り取られた夜のようでもあるが。夜よりなお深く絶望と哀しみに
満ちており。
見るもののこころを暗澹とさせる力があった。
「フェンリル、あれこそが世界の終わりだ。そして」
アルファは、今度は頭上を指差す。
「戦闘妖精たちが、フェンリルへ向かう。見ろ」
この世のものとは思われない純粋な青に染められた空を。
女たちが翼を広げてとんでいく。
彼女らの翼には羽根はなく、金属の骨格だけのようであったが。
その骨格の間に菫色の光が輝いていた。
彼女らは、菫色の羽を持つ蝶にも見えた。
「彼女らが抱いているのが、パートナーだ」
戦闘妖精と呼ばれた彼女らは、大きな繭を持っている。その中に男たち、つ
まりパートナーが入っているということなのだろうか?
フェンリルと呼ばれた黒い塊は、近づいてくる彼女らに光の矢を放つ。暗黒
の雷雲が雷を地上に向かって放出するように。
空を飛翔する乙女たちに向かって光の刃は容赦なく、襲いかかってゆく。
獰猛な輝きを放つ光が彼女らに触れると、彼女らはあっけなく炎につつまれ
墜ちていった。
「彼女たちは戦っているのですか?」
僕の言葉に、アルファは首を振る。
「誰も自分の死と戦うことなぞできはしない。受胎させようとしているのだ
よ」
「受胎?」
「そうだ。彼女らの持つ繭。あの中には溶解したパートナーが入っている。
溶解したパートナーは卵となり、フェンリルの中に投じられるとフェンリル
を受胎させる」
僕は驚いて。
アルファを見つめる。
「受胎したフェンリルは、夜明けとなる。つまり」
アルファは微かに笑みを浮かべたように思えた。
「世界の始まりとなるのさ」

僕は、アルファと別れ。
あなたのいる部屋へと戻ってきた。
僕は膝をつき、首を項垂れ、祈るように。
あなたの前で。
幾度も自問する。
あなたは。
あの世界の終わりを見せたかったのだろうかと。
あなたがいずれ赴く。
あの黒く哀しく、そして凶悪な。
世界の終わりを僕に見せたかったのだろうか。
僕は。
その問いかけを自分に繰り返しながら。
あなたの前で跪いている。
突然。
あたりが菫色の光につつまれた。
僕はあなたを見上げる。
あなたの翼が光を放っていた。
夜明けの空のような、菫色の光。
そしてあなたは瞳を開くと、壁から抜け出して僕の前に立つ。
あなたは。
両手で僕の顔を抱き。
「ねえ」
唇を僕の頬へよせ。
「あなたが、好きなの。大好きなの」
あなたは。
口づけを僕の瞼へ、額へ、頬へ、
そして、耳へ、鼻梁へ、唇へ、
そよぐ風のようにやさしく。
「とても好きなの。とても、とっても。大好きなの」
そういいながら
口づけを。
僕は、あなたの腰に腕を回して抱きしめる。
「あなたを、無くしたくない。離れたくない」
あなたは、僕の顔を手で支えると微笑みながらもう一度口づけをする。
「大丈夫なの。心配しなくていいの。大丈夫なのよ。それを伝えたかった
の」
あなたは僕から少し離れて立つと、輝く翼を大きく開いた。
あなたの下腹部に暗い穴があく。
海の底みたいに暗いその穴から、銀色の糸が放出される。
その糸は瞬く間に僕の身体を覆った。
僕は繭の中にいる。
(僕はこの中で溶けて卵になるの?)
「いいえ、あなたはパートナーではないもの。そうはならない」
僕らは空へと舞い上がる。
青い青い空。
僕はその天空の景色を、あなたの瞳を通して見ていた。
繭の中にいる僕は、あなたとこころが繋がっており、あなたの見るものが僕
にも見ることができた。
あなたは高速で空を飛翔する。
漆黒の塊であるフェンリルが瞬く間に近づいてきた。
あなたは。
巧みにフェンリルが放つ光の矢を躱しながら、黒い闇へ近づいてゆく。
やがて、僕らはフェンリルの真上へ来た。
真上から見たフェンリルは、金色と銀色の光が渦を巻いており。
そしてその中心には、黄金に輝く球体があった。
それは。
永遠の輝きのように、荘厳な光を持っており。
とても美しく。
とても神秘的で。
宇宙の果てから訪れたかのように、異様な力を内に秘めており。
神の創りたもうた永遠の安息みたいに安らかで。
怖れをもたらし。
哀しみをもたらし。
僕のこころを嵐のように揺さぶって。
僕は涙した。
あなたは僕に囁きかける。
(忘れないで。何も失われない。何もつけ加えられない)
あなたは、フェンリルの中心にある黄金の球体めがけて急降下する。
僕らの回りで、黒と金と銀の渦が激しく回転した。
美しかった。何もかもが。涙がこぼれるほどに。
そして。
僕らは喜びに包まれながら。
黄金の球体へと突入する。
(忘れないで。全ては変わってゆくだけなの)

僕と彼女は。
その森のはずれについた。
おそらく約束の場所である。
建物がある場所。
そこはかつて学校であったようだが、今は廃校になったらしくひどく荒廃し
ている。
僕は、あなたとともにフェンリルへ飛び込んだ後。
その廃校となった校舎の屋上で目覚めた。
一ヶ月前のことである。
一体どうやってそんな北の地にたどり着くことができたのか、なぜそんなと
ころにいったのかは全く判らなかった。
けれど、僕は自分の腕に刻まれた文字を見出す。紅い血で刻まれた文字。

 2011.4.5 5:12

その日付が今日だ。あと一時間ほどでその時間が訪れる。
おそらくそれはあなたが僕にくれた約束のメッセージ。
約束の場所と約束の時間。
それがあったから。
僕はあなたがこの世界から消え去ったときにも耐えることができた。
あなたがもう一度。
おそらくあと一度だけ僕に会いにきてくれるという予感があったからだ。
僕と彼女は。
隠遁した賢者のような、今にも崩れ落ちそうな感じのする建物の中へと入っ
てゆく。
暗い階段を登り黄泉の世界みたいな建物の中をとおりぬけると。
屋上へでた。
東の空は微かに白みはじめており。
夜が明ける予兆で空気が震えているような気がする。
ああ。
夜が明けるのだ。
夜と月は消え、光が世界を支配する。
僕は、ただずっと東の空を眺めつづけていた。
彼女が唐突に口をひらく。
「あと、10分ほどね」
僕が彼女を見たとき。
あたりが轟音に満たされた。
轟く爆音と風が吹き荒れる。巨獣のようなボディを持つ軍用ヘリが姿を表し
た。
ライトが凶暴な圧力を持って僕らを照らし出す。
2機の軍用ヘリは屋上に風を巻き起こしながら着陸すると兵士たちが降りて
きた。
ひとりの兵士が彼女に大きな軍用拳銃を渡す。
「一体あなたは何ものだい」
「わたしたちの組織は」
彼女は僕に拳銃を向けると言った。
「ずっと、TSDの研究を続けてきた。あなたがバルク空間に行ったときに
乗ったあの列車は、わたしたちが開発したもの。あなたは戻ってきたひとの
映像を見たのでしょうけれど、戻ってきたものは彼だけではない。わたしも
また」
僕は息をのんだ。
「そんな」
「戻ってきたのよ。そして、世界を滅ぼさないために。組織に協力して戦う
ことにした」
「世界が滅ぶ?」
「わたしたちは夜の生き物。夜明けに耐えることはできないのよ。あなた
も、わたしも。ブレーンワールドのものはみな。わたしたちは夜という皮膜
に貼りついて生きている。夜明けがくると泡は弾けて消えてしまう」
突然。
空が菫色の輝きに満たされる。
夜明けの光が頭上に出現した。
あなたが。
戻ってきたのだ。

あなたは。
夜明けの光で輝く翼を背負い。
屋上に降り立つ。
地に立つと同時に翼は光を失い、金属でできた骨格みたいな翼は折り畳まれ
てゆく。水晶の破片が触れ合うような音をたてながら。
彼女は。
僕の腕をとらえると、僕のあたまに拳銃を押し付けた。
あなたは、歌うように語り出す。
「ねえ。これは我儘なの。わたしの我儘なの。あと一度だけ。一度だけあな
たに会いたかったの。とてもとても。会いたかったの。夜明けがくる前に」
「ありがとう」
僕は。
かろうじてその言葉を絞り出すことができた。
「ありがとう」
彼女は、叫ぶ。
「この男を殺されたくなければ、ここに留まりなさい。フェンリルを受胎さ
せてはだめ」
あなたは。
どこか哀しげに首を振った。
「意味はないのよ。何も減らないし何も付け加えられない。あなたもバルク
空間にいたのなら判るでしょう。時間の対称性が破れているのはひとの妄想
にすぎない。全てはあるの。永遠に。永遠に戻ってくるの。何度も何度も
戻ってくるの」
彼女は苦しげに叫ぶ。
「違う。夜明けは永劫の別離だ」
「いいえ。恐れていてはだめ。それすらひとつの変化に過ぎない。全ては永
遠なのよ」
「それこそ妄想だ。知っているのだろう、あのフェンリルこそブレーンワー
ルドの正体なのだと」
あなたは。
笑みを浮かべると。
再び、水晶が触れ合う音をたてながら、翼を広げる。
夜明けの光。
菫色の光が再びあたりを覆う。
ああ。
それはそれは。
荘厳で、清らかで。神秘的でとても哀しい。
この世界の夜明けを示す光であった。
あなたは。
その光の中へと消えていった。
彼女は舌打ちすると、拳銃で僕の顔を殴る。僕は屋上に倒れる。
鼻骨が折れ、僕は激痛でのたうちまわった。
「まったく。なんて役たたずな男なの、あんたは」
彼女は腹立ちまぎれに僕の頭を蹴りとばす。
僕は呻きながら転がって彼女から逃れた。
仰向けになり。
東の空が明るくなってくるのを見た。
そして。
僕は苦痛でかすれる意識の中でそれに気がついた。
空の中心。
もっとも高いところに。
金色の輝きがある。
そうか、あれがそうんなだ。
僕はつぶやく。
「夜明けが始まる」
「ああ。なんてこと」
彼女の呟きのすぐ後に、銃声が響いた。
僕は驚いて彼女のほうを見る。彼女は自分で自分の頭を撃ち抜いていた。
僕は再び。
空を見上げた。
金色の光は大きくなってゆく。
いつかバルク空間でみたときよりも。
遥かにリアルで獰猛で激情を揺さぶりおこす。
美しさと激しさが。
安らぎと激動が。
嵐のように互いを喰らいあいながら激しく回転しており。
それは、空いっぱいに広がる金色の果実みたいに。
大きな大きな輝きは、世界を満たし。
そして。
僕は。
光の中に飲み込まれた。

ゆっくりと。
水の底から浮上してくるように。
焦点が合っていなかったカメラの映像が、次第にクリアになってゆくよう
に。
僕は現実を取り戻していく。
僕は、暗闇の中で手探りでものを掻き集めるみたいに。
記憶を取り戻してゆく。
僕は。
そう、薄暗い病室の中にいた。
ベッドに横たわり。
終わりのときを待っていた。
苦痛を和らげるために投入された薬のためか。
随分長い夢を見ていた気がする。
夜明けにかかわる夢。
あなたが夜明けの向こうへと飛び去る物語。
それは哀しくもあるけれど。
僕を幸せにしてくれる夢でもあった。
僕は。
誰かの泣く声を聞いた気がして。
泣くなんて、おかしいよ。
と言ったつもりだったけれど。
もう、声を出すほどの力は僕には残っていなかったようで。
次第に。
あたりが光に満ちてゆく。
部屋が。
真っ白に輝きはじめ。
僕の意識もその白い光に飲み込まれてゆく。

ああ。
夜が明けるのだと思う。

ねえ、夜明けの歌をうたってよ。


夜明けの歌を聞かせてよ。




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