AWC お題>鍵>入れ換え (前)   永山



#307/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  07/04/23  00:37  (251)
お題>鍵>入れ換え (前)   永山
★内容                                         07/04/27 20:38 修正 第2版
 私は推理作家だ。
 推理作家たる者、執筆時以外でも推理作家でなければならないと思って生き
てきた。可能な限り、実践してきたつもりだ。
 そんな“人生推理作家”男の私が、人を殺してしまった。
 実にまずい。何がまずいって、計画殺人ではなく、弾みで殺したことがまず
い。
 推理作家がトリックを用いることもなしに、殺人を犯したなんて世間に知ら
れたら、いい笑いものになるに違いない。絶対に避けねば。
 という訳で、今、死体を前に知恵を絞っている。
 名誉のために断っておくが、小説用のトリックならたくさんストックしてい
る。現在、私が置かれた状況にぴたりと当てはまるうまいトリックも、二つ三
つあるのだ。
 だが、それらの素晴らしいトリックを、こんな偶発的な犯行に使っていいも
のだろうか。金をどぶに捨てるような気がしてならない。優れたトリックは無
駄に使わず、小説として発表することが、推理作家としての使命であり、ミス
テリファンのためである。
 いくらピンチでも、この現状で名トリックを実際に使っては、私は推理作家
失格だ。しょぼいトリックで済ますべきだ。
 ところが私の頭脳は、普段でもトリック案出能力に優れているが、窮地に直
面してさらに冴え渡り、即興で次々と浮かぶトリックですら、もったいなくて
使うには惜しい物ばかり。
 さあ、困った困ったと唸ること十五分。ようやく、この殺人にお似合いのト
リックを思い付いた。ほっと胸をなで下ろす。
 分類すると、密室トリックになる。今や、ただ単に密室というだけでは、読
者を惹き付けがたくなった。思い付いたトリック自体、たいしたアイディアで
はない。だったら、この場面で使ってもかまうまい。
 そうと決まれば、行動開始だ。私はまず、死体の懐を探ると、この家の鍵を
見つけた。

           *           *

 刑事の飛井田(ひいだ)は、同僚に確認を取った。
「玄関の内側に貼り付けられていた鍵は、ここのじゃないっての?」
「ええ。玄関、勝手口は無論のこと、各部屋やトイレのドア、鍵の掛かる収納
棚にアクセサリー入れなど、この家の全ての鍵穴を試しましたが、どこにも合
いません」
「車、バイクは持ってないんだったねえ。第一、この鍵はいかにも家の鍵って
造りをしている。他に考えられるのは、職場か恋人宅、実家といったところか。
自宅が仕事場を兼ねていたそうだから、職場はない、と」
 飛井田は、キーホルダーをつまみ上げながら、鍵をしげしげと見た。玄関ド
アの室内側にセロハンテープにより、がちがちに固く貼り付けられた状態で発
見されたのだ。キーホルダーは平べったい楕円形で、塩化ビニール製と思われ
る。黒地のそれに、漫画に出てくる毒薬の瓶にあるような髑髏マークが、白く
プリントされている。
「女性が持つようなデザインじゃない。実家の鍵って感じでもないなあ。男か
ら預かった鍵という可能性が高そうだ。ま、その辺は追々調べるとして――こ
の家の鍵はどこだい?」
「えっと、まだ見つかりません」
 被害者は木崎優香(きざきゆうか)、二十九歳。ファンシーな絵で知られる
イラストレーター。人気キャラクターを案出したことで早くから売れっ子にな
り、現場となった一戸建の自宅も彼女自身の稼ぎで建てたという。
「犯人が施錠後、鍵を持ち去ったんじゃないですかね」
「そのようだ。にしても、犯人はどうしてわざわざ、犯行を知らせてきたんだ
ろうな」
 第一発見者となる雑誌編集者へ、木崎優香殺しを電話で伝えた者がいる。そ
の通話は、「木崎優香を殺した。彼女の自宅に行ってみろ」と言ったきり、一
方的に切れた。十二時四十五分頃のことだった。
 編集者の佐々謙太(ささけんた)は携帯電話を見つめ返し、木崎優香本人の
携帯電話から掛かってきたことを再確認した後、こちらから掛け直してみた。
が、最早つながらない。いたずらの可能性がよぎったが、万一を考え、木崎宅
へ駆け付けたという。
「玄関も勝手口も鍵が掛かっていたので、庭に回ってフランス窓から覗くと、
レースカーテン越しに、胸元を赤くした木崎先生が仰向けに倒れているのが見
えて……少し迷いましたが、窓ガラスを割って入ったんです」
 佐々はそう証言している。
「犯行現場に鍵を掛けた行為と相反する。遺体発見を遅らせたかったのか、早
めたかったのか」
 つぶやいた飛井田に、外にいた警官が近寄り、報告した。
「第一発見者が、思い出したことがあるのでお話ししたいと」
「そうかい。では……こっちから行こう」
 搬出がまだの遺体を見下ろしつつ、家の外に出た飛井田。佐々はパトカーの
中で待っていた。
「刑事さん、鍵のこと、思い出しました」
 車から出て来ようとする相手を制し、飛井田は乗り込んだ。隣に座って話を
聞く。
「どこの鍵か、分かったと?」
「どこのというか、誰のというか……。木崎先生と付き合いのある男性で、氷
室文人という小説家の先生がおられて、確かその人の持っていた鍵ではないか
と」
「ん? 話が見えませんな。その氷室なる人物は、木崎さんと具体的にどうい
う関係で?」
「一応、男女の仲と伺っていました。だからと言って、鍵を渡されるなんてい
うことはなかったと思うのですが。あの髑髏マークのキーホルダーは、氷室先
生が自宅用に使っていたはずです」
「佐々さんは氷室氏と面識がおありなので?」
「はい。氷室先生の小説に、木崎先生が挿絵を描くことが昔ありまして。反対
に木崎先生のイラストを元に、氷室先生がイメージを膨らませ、短い物語を作
るという企画もありました。そういった折に、顔を合わせています」
「なるほど。氷室氏を呼んで――いや、こちらから出向いて、鍵を確認する必
要がありそうだ」
 飛井田は決断すると、早速行動を起こした。

 車で飛ばすこと二十分。氷室文人の住むマンションへ同僚と二人で急行した
飛井田は、管理人に話を通し、案内させた。1313号室だという。
 十三階でエレベーターを降り、廊下に出ると、とある部屋のドアの前に、途
方に暮れた様子で首を傾げる男を認めた。近付くに従い、そこが1313号室
と知れる。
 男は外見が三十代半ば、くたびれた感じのシャツに紺のジャケットを羽織り、
下は洗いざらしのブルージーンズという出で立ち。黒光りする革靴がいささか
不似合いだ。それ以上に浮いているのが、ジャケットの左胸ポケットに差して
いるペンらしき物。通常より細長く、円形の突起が付いているせいで、子供っ
ぽく映った。
「失礼。1313号の住人に用があるんだが、あなたは?」
 緊急事態の可能性を脳裏に、飛井田が警察手帳を示しつつ、誰何する。
 相手はびっくりしたように振り返り、ぼさぼさ頭をかきながら自己紹介をし
た。
「この部屋の者です。氷室文人」
「あなたが氷室さん? では、どうして部屋に入らないでいるのです」
「同居させている曽我(そが)って奴が、中からロックした上、チェーンまで
掛けている。呼ぼうが、電話をしようが、音沙汰なしだ。頼まれて部屋を出て、
戻ってみると、この有り様でして」
 氷室はドアノブを引き、チェーンが掛かっていることを示した。
「どうやって開けたんです?」
「どうって、鍵を持ってますから」
 ジャケットのポケットに手を突っ込むと、鍵を取り出す氷室。髑髏のプリン
トされたキーホルダー付きだが、こちらは黒地に赤である。
「氷室さん、これに見覚えはありますか」
 飛井田は、木崎優香殺害現場で見つかった鍵を手のひらに載せ、若干、前に
傾けた。
「それ……スペアキーだ。どこにありました? 曽我に渡したはずだが」
「詳細はあとで話します。中にいるあなたの同居人、曽我さん? その人の身
の安全を確認する必要がある」
 飛井田が尋ねる間に、同僚が管理人にチェーンカッターがあれば持って来る
よう、要請した。中年の男性管理人はきびすを返すや、慌てた足取りで掛け出
した。
「フルネームは曽我博樹(そがひろき)といって、学生時代からの知り合いで、
今は弟子――」
「その辺の話は後回しでいい。――曽我さん!」
 ドアの隙間に口を近付け、室内に向かって叫ぶ。耳を澄ませたが、先の氷室
の言葉通り、反応は返って来ない。
「曽我さんと別れて、どのぐらいの時間が経過した?」
「部屋を三時間空けてほしいと頼まれ、いくらか余裕を持って帰って来たので、
およそ五時間になりますね。この部屋の前に着いてから、三十分ほど経ってい
るんで、実際に出掛けていたのは四時間半ですが」
 刑事の発する緊迫感がまだ理解できないのか、氷室は比較的のんびりした口
調で答えた。
 飛井田は腕時計で時刻を確かめた。午後三時ちょうど。
「曽我さんは誰か、たとえば恋人でも呼ぶような感じでしたか」
「いえいえ」
 何がおかしいのか、苦笑混じりに返事した氷室。
「そんな大それた行為は、弟子の立場で無理ですよ。あいつはトリックの実験
をしたいと言っていました」
「……やはり今、詳しく聞かせてもらえますか、曽我さんのこと」
 道具を手に走って来る管理人の姿を視界の端で捉え、飛井田はドアを破る作
業を同僚と管理人に任せた。自らは、氷室への聴取に身を入れる。
「氷室さん、あなたは作家だと聞いています。曽我さんは弟子ということは、
つまり……?」
 周囲を気にしつつ、質問を開始した。昼間は住人がいないのか、それとも極
端に無関心なだけなのか、野次馬はゼロである。
「弟子は名目上で、具体的に小説の書き方を教えていた訳じゃありませんよ。
彼とは学生時分からの仲間なんです、ミステリ研究会で知り合ったのが縁で。
二人とも推理作家志望で、幸運にも私は学生時代、プロデビューでき、やがて
一本立ちできた。曽我の方はデビューできず、日常生活で不幸が重なったこと
もあって、定職に就けずにプロデビューを目指す形に。あいつの才能は私が一
番理解しているし、少なからぬ恩もあるので、私から誘って共同生活を送るよ
うになった訳です」
「推理作家ですか。それでトリックの実験を」
「推理作家なら全員が全員、トリックを実験して試すなんてことはありません
よ。曽我は特別な部類で。部屋を空けてくれというのは初めてでしたが」
「どんなトリックを試すのか、具体的に言ってましたか」
「それはなかった。私が考えたトリックと偶然にでも似ていたら、お互いに嫌
な気持ちになりますからね」
 その返答に飛井田がうなずいたとき、チェーンが切られ、ドアが開いた。覗
き見たがる管理人を、道具を元の場所に戻すようにと追い払う。それから飛井
田は、氷室の相手を同僚に任せ、中に入ることにした。手袋を装着する。
「氷室さんも廊下でお待ちください。我々が許可をするまで、絶対に入らない
でいただきたい」
 強く念押しし、主を部屋から遠ざけた。
 飛井田はドアを開けると、まず、その裏側に視線を飛ばした。
「畜生」
 嫌な予感が的中したことを悟る。鍵が貼り付けてあった。その上にテープが
何重にも巡らされ、固められている。現時点で確認する術はないが、鍵は木崎
優香宅の物である可能性が高い。
 飛井田は念のため、扉を閉め、鍵を掛けた。何者かが室内に潜んでいて、隙
を見て脱出を試みるケースを想定したのである。鍵は、内側からは、ノブの上
にあるつまみを横に九十度倒すことで施錠される仕組みだった。
「曽我さん!? 警察の者です! 誰かおられませんか」
 空間に呼び掛けながら、部屋を順に巡り始める。予想以上に広いが、このマ
ンション自体、かなりの富裕層向けなのかもしれない。室内のドアはどれも開
けっ放しになっていて、行き来しやすいが、何とはなしに奇妙な感じだ。
 無反応を怪訝がりつつも、チェーンが掛かっていたのだから、誰かいるのは
間違いない。そう信じて捜索を続ける。
 やがて、書斎らしき部屋に足を踏み入れた。カーテンが引かれており、部屋
は明るくないが、闇と言うほどではない。軽く目を凝らすと、全身から力が抜
けたように、床にへたり込む人影を見つけた。
 ひどくうなだれていて、表情はよく窺えない。手を左右とも腰の後ろに回し、
両足を投げ出した格好は、監禁されているようにも見える。警戒しながらその
人物――男の背後に回った飛井田は、両手に手錠がはめられていることを見て
取った。ただし、手錠自体が家具等に結び付けられている訳ではないため、拘
束されていたとの断定はしがたい。
 飛井田はなおも曽我の名を呼びつつ、男の肩を揺さぶった。――反応がない
どころか、押されるがまま、倒れてしまいそうになった。
「こいつは……」
 飛井田は男の肌に触れ、脈を診た。鼻のすぐ下に指をかざしたり、胸に手を
当ててみたりもした。最後に、目を見た。
 手遅れのようだった。

「江東(えとう)君。君は推理小説好きだと聞いているが、作家にも詳しいか
ね」
 飛井田は顔見知りの若い女性刑事をつかまえ、そう聞いた。氷室文人と本格
的に渡り合う前に、予備知識を仕入れておこうと考えたのだ。
「推理作家でしたら、若い人を中心に、それなりに――」
 女性にしては大柄な江東は、腰に手を当て、胸をせり出すようにして考える
ポーズを取った。と、すぐに察し、視線を飛井田に真っ直ぐ向ける。
「氷室文人のことですか。そうなんですね?」
「うむ。作家ってのは、嘘を書くのが商売だろ。人となりは無理にしても、作
風ぐらいは知っておいた方がいいんじゃないかと思ってね」
「氷室文人が怪しいんですか。怪しいんですね?」
「何とも言えない。君も先入観なしに話してくれよ」
「えー、でも、密室だったんでしょう? 自殺に偽装した訳でもないのに、そ
んな小細工をする殺人犯なんて、普通じゃないですよ。推理作家の犯行なら、
まだ分からなくもないって感じですね」
「その、なんだ。氷室は小説の中で、密室トリックをよく使うのか」
 調子を合わせるのに苦労しながら、その感覚は顔に出さず、飛井田は重ねて
聞いた。
「使いまくっています。なくてもいいのにわざわざ密室殺人を入れてるって感
じの作品も、いくつかあるくらい。元々、本格派に分類される作家ですから、
不思議なことではないですけど」
「本格派というのは、凝ったトリックを盛り込んだ推理小説を書くタイプだな、
確か」
「はい。それだけじゃありませんけど。ロジックも――」
「定義はもういいよ」
「そうですか。でも、デビュー作となったディテクティブストーリー大賞受賞
作は、トリックとロジックが絶妙にブレンドされた傑作で、評価が高いんです
よ。氷室文人がこの賞のハードルを初回にして非常に高く設定した、とまで言
われて」
「初回? つまり、新設された賞だったのか」
「はい。氷室文人本人も、第一回の大賞受賞者になったことを誇りにしている
らしくて、受賞者だけに贈られる特製のペンを大事に持ち歩き、サインもそれ
でするんだとか」
「ほう。そのペン、もしかすると、円の形をした飾りが付いている?」
 氷室が胸ポケットに差していたペンらしき物の形状を思い起こしながら、飛
井田は聞く。江東はお下げ髪を揺らし、大きくうなずいた。
「ええ、ええ。虫眼鏡を象っているんだそうです、あれ。ホームズ以来の伝統、
探偵の七つ道具の定番という意味合いで」
「ルーペだったのか」
 円盤形の飴に見えた、とは口にしなかった。
「それで、氷室の書く推理小説、最近はどう? 荒れているとか、作風が劇的
に変化したとか……」
「いいえ。まるで正反対。最新作はまだ読む暇ありませんが、トリック優先だ
ったのが、少し持ち直したっていうのが、専らの評判です」
「そうか」
 もしも殺人を犯すような心境なら、前段階で作品に現れるかもしれないと期
待したが、そう単純なものではないらしい。
「いや、ありがとう。参考になった。もし何か気付いたことがあったら、また
教えてくれ」
 随分と年下の江東に礼を述べ、飛井田は得た情報をどう活かすかの算段に入
った。


――続く




#308/598 ●長編    *** コメント #307 ***
★タイトル (AZA     )  07/04/23  00:38  (323)
お題>鍵>入れ換え (後)   永山
★内容                                         07/08/24 10:16 修正 第3版
「曽我博樹が木崎優香を殺害後、自殺したとの見方が強まりまして、今日はそ
の報告がてら、氷室さんのご意見を伺えたらなと」
 一人で現れた飛井田刑事を、氷室は歓待した。ジャケットの裾を翻すほどの
大きな身振りで招き入れ、ソファを勧めると、てきぱきとコーヒーまで用意す
る。
「書店でサイン会をやっているところへ来られたときは、私の愛読者のために
ならないからと追い返しましたが」
 飛井田に微笑みかけ、前にコーヒーカップを置いた。
「実は待ち侘びていたんです。近頃はプライバシーに配慮というやつなのか、
詳しい報道がされない。付き合っていた女性が殺され、同居人も不審死を遂げ
たというのに、警察から私に与えられた情報は、満足の行くものじゃなかった」
「ほう。興味津々のご様子ですな」
「作家的興味もあってね。もしかしたら、新しい密室トリックのヒントが得ら
れるんじゃないかと、期待してしまって」
 身近な者を二人亡くした割には、明るい調子で応じる氷室。
「ああ、そいつは職業柄、仕方ありませんな。では、説明を……っと、その前
に、氷室さん、サインをいただけませんか。うちにも推理小説好きなのがいる
んですよ。刑事のくせに、と言っちゃあいかんのでしょうな、やっぱり」
「ほほう、それは珍しい。喜んでしましょう」
 持って来た氷室の最新刊を作者に渡す。相手は、背後のデスクに向かうと筆
立てからサインペンを抜き取り、気軽にサインをした。
「宛名は?」
「江東蘭子(えとうらんこ)さんへ、でお願いできますか。字は――」
 売れっ子作家の横顔を見つめながら、漢字の説明をする飛井田。氷室は一度
確認したあと、宛名を書き終えた。
「女性の刑事さんですか。ますますもって、珍しい。いえ、女性ファンは多い
が、女刑事のファンは初めてですよ。――これでいいですか」
「どうもすみません。きっと喜びますよ。密室だのアリバイだののトリックが
好きだと言っているが、私が思うに、偉そうな刑事がピエロの役回りをさせら
れるのが、快感なんじゃないかと。上司と重ね合わせてね。まあ、このサイン
本のお力で、しばらくは押さえ付けてやれる」
 本を返してもらった飛井田は、その表紙を撫でつつ、笑み混じりに無駄口を
叩いた。が、不意に真顔に戻る。
「では、これと引き換えという訳でもありませんが、捜査本部の下そうとして
いる結論を、お話しするとします。すでにご存知の点も出て来ましょうが、ど
うかご勘弁を」
「ええ、ええ。かまいやしません」
 氷室がうなずき、飛井田は一旦、唇を湿らせてから口を開いた。
「この部屋の鍵が木崎さん宅で見つかり、木崎さん宅の鍵はこの部屋で見つか
った。そのどちらも鍵が掛かった、いわゆる密室状態だった。鍵はいずれも複
製は非常に困難とされるタイプで、事実、複製が試みられた様子はない。
 木崎さんは朝七時から九時、曽我さんは同日十一時から十三時の間に死亡し
たと推定されています。発見がより早かった曽我さんは、正午前後に死んだと
見てほぼ間違いありませんが、念のために幅を持たせたとか。被害者お二人の
遺体に、動かした形跡はともになかった。
 死因は、木崎さんが胸に細い棒状の物を突き立てられたことによる失血死。
遺憾なことに、凶器は未発見のまま。曽我さんはニコチンによる毒死。毒を体
内に入れるのに使ったと思しき針が、流しの網に引っかかっていた。針の刺し
傷は確認できていませんが。ニコチンの入手経路は、曽我さんが約二年前、殺
虫剤メーカーに勤める友人に頼み込んだ物と判明。恐らく、トリック実験のた
めに手に入れたのだろう……とは、氷室さんの推測でした」
「でしたね。その辺の真相は明らかになりましたか」
「いえ。あなたの推測にしても裏付けはまだでして、毒物を使ったトリックの
実験となると、小動物の犠牲を伴いそうなものなんだが、この二年、そういっ
た通報は確認されていない」
「ふむ。まあいいでしょう。続きを聞かせてほしい」
「動機探しや目撃者捜し等は、この際、省きます。苦労話を聞かされても、つ
まらんでしょうからな。第一、私が受け持ったのは、入れ子状態の密室を解き
明かすことでして」
「入れ子状態……ふふ、なるほどねえ。なかなか洒落た表現をするもんだ、警
察も」
 愉快そうに目元で笑い、コーヒーを一口飲む氷室。
「もし、トリックが作品に使えそうなら、タイトルにいただけますかね」
「かまやしません、使えるものなら。――で、ですな。両者とも他殺となると、
密室なんて作れそうにない。だから、どちらかが他方を殺した後、自殺をした
のだと考えるに至った」
「思い出しましたよ」
 くすくす笑いながら、氷室は飛井田を指さした。
「チェーンを掛けた状態で、外からドアの隙間に手なり棒なりを通し、ドアの
内側に鍵を貼り付けられないか、躍起になって実験していらした」
「ああ、あれは自殺説を採る前の話でして。隙間が狭すぎますな。そもそも、
テープでちょんとくっつけるのなら、何かのタイミングでうまくいくこともあ
りそうだが、あんながちがちにテープで固めて貼り付けるのは、隙間からの操
作では土台、無理ってもんです。早々に気付くべきだった」
「ミステリとして書くのなら、敢えて、ちょんと貼り付ける程度にしておく方
が、容疑者を増やせそうだな。ま、いいや。それで、自殺説を採るとどうなり
ます?」
「木崎さんは自殺ではあり得ない。現場に凶器がなかったので。一方、曽我さ
んは自殺とも見なせる死に方だった。毒を塗った針は室内で見つかったし、手
錠――よくできたおもちゃですが、頑丈な造りでした――だって、自らはめる
ことが可能。
 彼の死が自殺と仮定すると、事件の流れはこうなります。曽我さんは早朝か
ら木崎さんを訪ねると、何らかの凶器を使って殺害。自宅の鍵を木崎宅の玄関
ドアに貼り付けると、彼女の持つ鍵を奪う。外に出て、施錠してから、マンシ
ョンに帰る。マンションに防犯カメラが設置されていれば、証拠になったんで
すがね」
 氷室の暮らすマンションは、富裕層および有名人向けで、プライバシー保護
の観点から防犯カメラは設置されていない。マンション一階の玄関ドアでチェ
ックが行われ、部屋別のIDとパスワードを知る者のみが入れる。
 なお、どのIDやパスワードが入力されたかの記録も残らない。
「氷室さんと違い、曽我さんは車を持っていないから、移動にはタクシー等を
利用したと考えられる。その辺を当たってみてはいますが、こちらもまだ成果
は上がっていません。
 ともかく、続きを描いてみましょう。曽我さんは、自身の帰宅からさほど間
を置かずに、夜遊びから戻ったあなたを、理由を付けて追い出すことに成功す
ると、密室トリックの仕上げに掛かった。持ち去った鍵をドアの内側に貼り付
け、施錠し、ドアチェーンも掛ける。そして台所に立つと、ニコチンを針に塗
って、自分の身体を刺す。針を流しの排水孔に落とすと、自ら手錠をし、監禁
されていたかのように床にうずくまる。あとは死を待つだけ……」
「筋は通る。トリックが成り立つという意味での筋が」
「はい。ところがですな」
 飛井田が言うと、氷室は怪訝そうに眉を寄せた。
「何か問題でも? 動機なら、将来を悲観した曽我が、成功を収めた私への嫌
がらせから木崎優香を巻き添えに殺し、曽我自身の命と引き換えに密室を作っ
た――いかにもミステリマニアらしい死だと思う」
「そんな曖昧なことではないんですよ。もっと具体的な疑問がある」
「へえ? 気付かなったかな」
「本当に? プロの推理作家らしくないなあ。私なんかに後れを取る人じゃな
いはずだ、あなたは」
「それは買い被りというもの。捜査のプロの刑事さんにかなう訳がないじゃな
いですか」
 下手に出つつ、探る口調の氷室。飛井田は氷室が本当に気付いていないのか
どうか判断しかねたまま、手の内を明かした。
「電話ですよ。これだけが悩みの種でして」
「電話というと……あっ、編集者に掛かってきたという、あれか!」
「さようで。時間がおかしいんです。正午頃に死んだのがほぼ確実な曽我さん
が、その四十五分後に、佐々さんに電話を掛けるのは不可能だ。幽霊じゃある
まいし」
「……その電話、一方的に切れたと聞いたが、ならば録音した声を、何らかの
機械的な仕組みで、死後、発信したとも考えられる」
「それはないと思いますよ。そんな細工をしたら、痕跡が残るはず。曽我さん
が生きていたら、始末もできましょうが、そうじゃない」
「ふ……ん」
 背もたれに身体を預け、考える素振りの氷室。右頬に当てていた手を、飛井
田の方へ振った。
「誰かに電話してくれるよう、頼んだんじゃないか。背景を知らされぬまま電
話するぐらいなら、引き受ける知り合いはあいつにもいただろう」
「今のところ、そういう人物は見当たりませんな。頼まれてニコチン毒を持ち
出したばか者が怪しかったが、第三者によるアリバイが証明された。それにね、
明らかに曽我さんの物でないと分かる携帯電話を渡された上で、そんなことを
頼まれたら、まともな人間なら拒否するものではありませんかな」
 飛井田は、共犯の線を全く考えていないことを表明した。ちなみに、犯人が
使った木崎優香の携帯電話もまた、未発見である。
「……刑事さん。あなたは別に考えていることがあるんだろう。そいつを是非、
聞きたいね」
「よくお分かりで。しかし、聞けば不愉快な思いをなさるかもしれないんで、
気が進まんのですが」
「勿体ぶらずに、早く頼むよ。忙しい私が、こうして時間を割いてあげている
のだから」
 待ち侘びていたという最初の言葉とは裏腹なことを吐いて、彼は鷹揚に手を
振った。努めて、余裕の態度を取ろうとしている感がなきにしもあらず。
 飛井田は初めてコーヒーカップに手を伸ばした。だが口まで運びはしない。
時間を取るためにやったことだ。
「それじゃあ、私が喋り終わるまで、ご静聴願えますか」
「いいですとも」
「では……。曽我さんが犯人で自殺した説を引っ込めるとなれば、第三者によ
る連続殺人を考えるのが自然だ。問題は振り出しに戻り、密室の作り方を考え
直さねばならない。木崎さんについては、一緒だと思うんですよ。被害者に直
に接触することなく、刺殺するのは非常な困難を伴う、というよりも不可能に
近い。やはりポイントは、毒殺された曽我さんの方。毒殺なら、直接触れなく
ても遂げる余地がある」
「まあ、同意だね。――相槌ぐらいはかまわんでしょう?」
「ええ。で、調べてみると、ニコチンてのは、針なんかで入れなくても、とに
かく体内に入れば、命に関わるそうですな」
「それは私に答を求めているのかな? 経験したことはもちろんないが、知識
としてそう記憶している」
「結構。体内に入るのは、傷がなくてもかまわない。肌から浸透していく、と
いう形でもいいらしい。たとえば、筋肉痛の塗り薬のような具合で」
「不愉快どころか、逆に面白くなってきた」
 氷室が身を乗り出した。飛井田はポケットからメモを取り出し、それを見な
がら続ける。
「ええっと、専門的には……ジメチルスルホキシドとかいう化学物質が、皮膚
から体内への浸透をしやすくするそうですが、この物質自体を手に入れる必要
はない。さっき言った筋肉痛の薬、あれにニコチンを混ぜてやれば事足りる。
そうやって作った毒の溶液を、手で触れそうな場所に塗っておくと、知らず知
らずの内に大量のニコチンを摂取することになる。曽我さんは与えられた部屋
を書斎とし、ほとんど籠もりきりだったから、犯人が見られることなく毒を塗
るのは容易い」
 メモを適当に折り畳み、仕舞ってから再び話し始める。
「曽我さんは犯人から、こう言い含められたのではないか。『後ろ手に手錠を
された状態で、どの程度行動できるか、実験したい。万が一、手に怪我を負う
と仕事に差し支えるから、代わりにやってくれないか』と。その想定の上、曽
我さんがよく触る場所、あるいは触らざるを得ない場所として私が思い浮かべ
たのは、まず、玄関ドアの錠、つまみですな。それにドアチェーンも。これら
は犯人に指示されるがまま、曽我さんが自ら掛けたと思われるからです。
 あとは、各部屋のドアノブ。電灯や家電のスイッチ類。水道のカラン。ガス
コックやコンロ。コップ。そして電話といったところか。
 電話は曽我さんから犯人へ、定時連絡を入れるために、何度か利用されたは
ず。三十分おきぐらいでしょうか。定時連絡が来なくなったら、それは曽我さ
ん死亡のカウントダウンが始まった合図。しばらく待って、今度は犯人の側か
らここへ電話を掛け、出ないことを確かめたあと、駆け付ける」
 飛井田は言葉を切り、相手の反応を見守った。
 氷室は「反論してもいいのかな」と言った。
「どうぞ。ああ、証拠がないというのは、なしで。物的証拠はこれから調べる
つもりなんで」
「私を犯人と見ているようだが、曽我がそこまで言いなりになるかな」
「実質的に、曽我さんはあなたに食わしてもらってる立場だったんでしょう? 
推理作家としてトリック実験には理解を示すに違いないし、手に怪我をされた
ら執筆に悪影響が出る、つまりは稼ぎに響きかねないこともよく理解できた。
応募締め切りが差し迫ってスパートを掛けていたというのならともかく、そう
でなければ素直に従うと思いますがね」
「玄関の内側に張られた鍵は? 手錠を掛ける前に張らせるにしても、犯人で
ある私はどういう風に説明したのだろう?」
「曽我さんが犯人で自殺した説の場合に、お話しした密室トリック。あれをそ
のまま曽我さんに伝えたんではありませんか。トリックのために必要だと言わ
れれば、やるでしょう」
「ふむ……」
 息をつき、しばし沈黙する氷室。反論の矢を補充する時間は、二分近くにも
なった。
「あなたの説だと、編集者への電話も私がしたことになる」
「ええ」
「何でまた、曽我がすでに死亡していた可能性が高い時刻に、電話をしたとい
うんだね?」
「誤算でしょう」
 飛井田は用意していた返答を素早く繰り出す。
「誤算?」
「犯人は、ニコチンで死に至るには最低でも五、六時間を要すると踏んでいた。
だが、ニコチンは致死量が甚だ曖昧だ。摂取してから死亡するまでの時間も、
摂取量および個人の体質や体調その他で大きく変わる。恐らく曽我さんは、正
午の定時連絡を犯人に入れた直後、死亡した。犯人はその次の定時連絡が入る
はずだった十二時半に、電話が掛かってこないことで、曽我さんの死亡を知る。
折り返し電話をし、曽我さんの死の確信を得るのに十五分近くを要した。それ
から佐々さんの携帯電話に、木崎さんを殺したことを伝えた」
「複雑なトリックを考案した犯人にしては、らしからぬミスだな」
 苦々しげに吐き捨てた氷室。飛井田は首を横に振った。
「いえいえ。念には念を入れた結果、毒が過剰に作用したってだけじゃないで
すかね。犯人はあちこちに毒を塗った。あまりにもあちこちにね。曽我さんの
体調もよくなかったんだと思う。投稿のために外出はほとんどせず、執筆に大
部分の時間を割いていただろうから、体力が落ちていたと推察できる。我々捜
査員は、幸いにも手袋をしていたから影響を受けずに済んだ」
「……証拠の有無に関しては、触れてはいけないんだったね。動機は?」
「木崎優香さんを殺したのは、突発的なものだとにらんでいます。それについ
ては後回しとして、先に曽我さん殺しを。ところで、氷室さん。あなたの作品、
いくつか読ませてもらいました」
「うん? そりゃどうも」
「トリックそのものは、奇抜で、感心させられることもあった。ですが、デビ
ュー作からこっち、段々と無理矢理にトリックを詰め込んでいるように思えた。
トリックを誇りたくてしょうがないという風に」
「こいつは手厳しい」
 苦笑混じりに応じた氷室へ、飛井田は淡々と言葉を重ねる。
「最近は持ち直してきた風だと、同僚から聞きましたがね。勝手な想像をさせ
てもらえるなら、ストーリーは曽我さんが考えていたんじゃないかと。そこへ
あなたが自前のトリックを当てはめ、作品にしていた……違いますか?」
「……」
「沈黙は認めたと見なしてよろしいので? 事実なら、動機につながってきそ
うですな。弟子として見下していた男に助けられる屈辱。曽我さんを殺せばス
トーリー作りに困るかもしれないが、いずれスランプを脱するだろう、と。
 あ、これは殺害の動機。もう一つの動機、トリックを使った動機にも言及し
ませんとな。トリックを使った理由と言うべきでしょうか。
 先ほど述べたように、あなたはトリックを誇りたいという気持ちが強い。そ
れが高じて、現実の事件でも使いたくなった。いや、これは語弊がありますな。
現実の事件で使うなら、適当なトリックでお茶を濁そうと思った。何故なら、
現実の事件ではトリックの種明かしができない。言い換えれば、自慢できない」
 これにも氷室は沈黙でもって応じるのみ。
「刑事がこんなことを言うのは問題ありかもしれないが、氷室さん、あなたね
え、トリックの使いどころを完全に間違ったよ。小説で使ったトリックは、ス
トーリーからは浮いていても、難解な物だった。とても私なんかには解けそう
にない。それを使わず、わざわざ簡単なトリックを使ったのは、警察をなめて
いたのか。いや、あなたの性格のなせる行為だと、私は判断した」
「独り善がりの理屈もここまで来ると、あなたの決めたルールに従う義務はな
いように思える。証拠は? すぐに示せとは言わない。どこを調べれば、証拠
を掴めると考えているんだろう? 今さら、ニコチンが検出されるとでも?」
「抜き取ったつもりでも、案外残っているもんですよ」
「微量なら、それは殺人の証拠にはなるまい。何せ、この家にニコチンが以前
からあったことを、私は認めているのだから」
「なるほど。そう来ましたか……」
 顎に片手をやり、首をひねる飛井田。
「じゃ、仕方がない、とりあえず、木崎優香さん殺害の件で、有罪の証拠を探
すとしましょう」
「だから、何をどう調べれば、証拠になるんだね」
「――氷室先生。私にもサインをもらえませんか」
「何?」
 意表を突かれた風に、氷室が目を見開く。加えて、腰を浮かせていた。
「あなたの小説、嫌いじゃありません。残念ながら御本は持って来てませんか
ら、手帳にでもサインしていただけると、ありがたいのですが。ただし、これ
までファンの方にしてきたように、ディテクティブストーリー大賞受賞記念の
ペンで、お願いします」
「な……」
「だめですか? サイン会でお気に入りのペンを使わなかったのは、大人数だ
からかとも考えたんですがね。最前、うちの江東へのサインを頼んだときも、
別のペンで書いていた。一応、調べさせてもらいましょう。その胸ポケットの
ペンが、今もちゃんと書けるのかどうか」
「……何のために、調べるつもりだ?」
 推理作家の動揺ぶりから、飛井田はすでに確信を得た。ゆっくりと答える。
「そのペンが、木崎優香さん殺害の凶器であることを確かめるために」
「拒否……したらどうなるのかな」
「重要参考人として、あなたを引っ張るしかないでしょうな。出直していたら、
記念の大事なペンでもさすがに処分されるかもしれない。尤も、被害者の血痕
がポケットの内側にわずかでも付着しているのは、ほぼ間違いないと思います
がね」
「……参ったな」
 自嘲の笑みを浮かべ、氷室はジャケットの胸ポケットから、細長いペンを抜
いた。ペン先が多少歪んでいるように見えるのは、使い込んだせいだけではあ
るまい。
「そんな大事な物を凶器にするなんて、やっぱり、木崎さんを殺したのは衝動
的だったんですねえ」
「……刑事さん。これを渡す前に、教えてほしいことがある」
「はい?」
「何故、あなたは曽我自殺説で納得しなかった? もちろん、編集者への電話
の時刻には若干のずれがあったかもしれないが、許容範囲だろう。第一、私に
目を着けるのが早すぎる」
 今や立ち上がった氷室に合わせ、飛井田も腰を上げた。少しだけ考え、言葉
を組み立ててから答える。
「我々二人が初対面の折、作家の弟子とはどういうものかってなことを、こっ
ちが質問したの、覚えてますか」
「あ、ああ。覚えている」
「じゃあ、ご自分がどう答えたかは?」
「うん? えっと、何だったかな……」
 唸っては首を傾げるを繰り返した氷室。目の前の刑事に分かって、自分が気
付かないミスがあったのか? 信じられない!といった気分から、焦りが生じ
ているのかもしれない。
 飛井田は深呼吸し、一気に喋った。
「氷室さんは、『小説の書き方を教えていた訳じゃありませんよ』と言った。
『教えていた』、過去形です。いくら否定するための話でも、過去形は変だ。
『教える訳じゃない』が正確な表現では? プロの作家、しかも売れっ子の氷
室さんが、言葉を疎かにするとは思えない。私ゃそれで、この人どこか変だぞ
と感じた次第でして」
「ああ……そういうことか」
 氷室は俯き、手の中のペンをじっと見た。そして面を上げると、
「刑事さん。私は本当に、トリックの案出にだけは自信があるんですよ」
 と冷めた調子で言った。
「でしょうな。作品をちょっと読んだだけで、分かりました」
「本気になれば、泉のごとく湧いて出て来る。そう、現在のこのピンチを脱す
ることを可能にする、素晴らしいトリックもね」
「え?」
 飛井田は目をしばたたかせた。ぽかんとする間もなく、人ひとりの血を吸っ
たペンが、鼻先に迫り――。
「冗談ですよ」
 氷室が言った。
「潔く、物証を差し出しましょう。私にとってもあなたにとっても鍵となる、
大事な大事なペンだ」

――終




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