AWC 白き翼を持つ悪魔【01】            悠木 歩



#272/598 ●長編
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:45  (400)
白き翼を持つ悪魔【01】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:20 修正 第2版

 何か夢を見ていたような気もするが、思い出せない。いや、夢など見てはいな
かったのだろう。
 深く暗く、膨大な質量を持った闇。そこから太古の海に突然湧いた最初の生命
の如く、微小な意識が芽生える。
 芽生えた意識が最初に捉えたのは音だった。
 ちゃぷちゃぷと響く音、水音のようだ。
 まるで海水の流れ込む洞窟で聞くような音が、遠くから微かに響く。次第に音
量を増す水音にあわせ、漠然としていた微かな意識もその存在を大きくしていく。
そしてついに、意識を外界と闇との二つに隔てていた岩戸、瞼が開かれた。しか
し、光源を持たない外界は意識の闇との境を曖昧にしている。
 暫しの時を経て、ようやく暗さに慣れた目は水音の正体を意識に知らしめる。
 初めに見えたのは、視界を分かつ垂直な線。その線が規則的に揺れている。
 水面だ。
 彼は水に浮かんでいた。
 顔の右半分を水面に出し、浮かんでいたのだ。
 それだけでもただならない状況であったが、彼は取り乱すことはなかった。と、
いうより何も感情が湧かない。それがごく当然であるかのように、生まれた瞬間
からそうであったかのように。
 別段、呼吸が苦しい訳でもない。恐怖感もなく、特に不自由にも思わない。彼
にはその状況を脱しようという考えが浮かばない。それどころか、顔半分だけを
水面に浮かべた姿勢を変えようとすらしなかった。
 ただ周囲の状況については、多少ながら関心を持った。もっとも積極的に把握
しようと試みたのではなく、目の慣れに従い飛び込んでくる映像を漠然と捉えた
だけだったのだが。
 彼は狂っていたのかも知れない。
 そうでなければ、己の置かれた状況を知ってなお、心動かさずにいたことの説
明がつかない。
 最初に存在を示した聴覚、漠然とした意識と朧気な視界。遅れて機能し始めた
嗅覚が、鉄錆臭い匂いを鼻に届ける。その正体をようやくやる気を出そうかとい
う意識に知らしめたのは、視覚であった。
 闇の中、黒い水面。しかしその認識が誤解であることを、徐々に明瞭化して来
た視界が捉えたのだ。
 水面の色は赤。
 乏しい光源の中に在っては判断が難しい。が、彼の浮かぶ水面は濃い赤色をし
た、異様に粘性の強い液体によって作られていた。
 匂いから察して、血である。
 彼は血の海に身を浮かべていたのだ。
 一体どれほどの人間、あるいは獣が流したのだろう。人一人を浮かばせるほど
の量。少なくとも彼の足が底に着かぬほどに湛えられた血は、夥しいと表現され
る量を遥かに超越していた。
 しかしそれは彼の置かれた異様な状況の全てから見れば、取るに足らない、ご
く些細なことであった。
 身を捩ることすら億劫に、彼は視線のみを巡らせ、更に周囲の状況を知ろうと
する。
 そこに血の海の範囲を知らしめる岸はない。
 大きさを知らしめる水平線もない。
 そのどちらかは、存在していたのだろう。だが、彼には見えない。片目だけを
水面上に浮かべていたため、視界が狭くなっていたせいもある。しかしそれ以上
に、彼の視界を遮るものが存在していたのだ。
 彼を取り囲むような、いくつもの浮遊物。赤い血の海に出来た無数の瘤にも思
えたそれらが、自分同様の漂流者であると知れるまでには、幾ばくかの時間を必
要とした。
 漂流物の一つ一つが人として認識されると同時に、彼はある間違いに気づく。
 それらが自分同様の人である、と思えたのが間違いであったと。
 いまだ体勢を変えない彼から見えるそれらは、この血の海に浮かぶ者たちのご
く一部であると想像される。しかしそのどれ一人、彼同様に目を開き、周囲の状
況を知ろうと努める者はなかったのである。いや、それどころか開く目を持たな
い、即ち首から上を有しない者さえあったのだ。
 それら全て、亡骸であった。
 どれほどの広がりを持つのかさえ、定かでない血の海。
 累々と浮かぶ無数の亡骸は、半数、いやそれ以上の者が固体としての形を維持
することさえ困難なほどに、腐敗が進んでいた。
 そうか、ここが、というものなのか。
 虚ろな意識の中、彼は得心する。と、同時に更なる疑問も生まれる。
 はたして死者の魂が集まるという地獄で、亡骸が存在するものなのだろうか。
 そしてその中、ただ一人自分だけが生きているのはなぜなのだろうか。
 いやここが地獄であるのなら、自分だけが生きているというのは正しくない。
では、自分はいつ死んだのだろう。そもそも、自分は何者であるのか。
 思い出せない。思い出す努力をする気にもならない。
 恐怖感はない。
 絶望感もない。
 彼にとって、全てがどうでもいいことであった。
 「生」に対する執着心がまるでないのである。それが彼の資質なのか、あるい
は既に死者となっていたがためであるのか分からない。
 相変わらず右半身のみを赤い水面に浮かべた姿勢のまま、彼は目を閉じる。血
の海に没し、二度と意識が甦らないかも知れない。そんな考えもちらりと脳裏を
横切った。それならばそれでいい。
 彼は自分が存在することへの意義を、何一つ感じていない。
 思い出せない。
 わずか数秒の後、彼が再び瞼を開いたのは、死者らしからぬ生への執着心に目
覚めたためではない。
 誰かに身体を揺すられたような感覚。
 見開かれた目は、それが波の悪戯だと彼へ知らしめる。幾重にも重なった小さ
な波が、彼の無気力なる眠りを妨げたのだった。
 彼の目は、波を遡る。その発生源を見極めるべく。
 しかし暗さに慣れた目を以ってしてもなお、先を見通せぬ闇がそこにはあった。
 いや、闇ではない。それは大きな波だった。
 彼と同様の境遇、あるいは彼より先に永久なる眠りを迎えた者たちを取り込み
ながら巨大な波が聳え立つ。
 一瞬の浮遊感。
 もとより水の───正しくは血の浮力によって軽減されていた体重が完全に消
失する。それが巨大な波に飲まれた結果であったと知らしめたのは、全身を包む
水圧だった。
 自覚する間もなく、酸素を欲した肺が手足を動かせる。水を掻く感覚はなかっ
たが、彼の要望は叶えられた。
 水面を突き破ると同時に、彼の口と鼻腔は極限まで広げられ、欲していた酸素
を充分に肺へと送り込む。
 だが、安堵の間はない。
 彼の視界には、先刻の波に代わり別のものが飛び込んで来る。
 やはり巨大で白い、やや赤みがかったものが、こちらへと迫っていた。
 迫っていた。そう、先ほどの波とは違い、それは自らの意思で彼の方へと迫っ
ていたのだ。あまりの巨大さゆえ、すぐには認識出来なかったがそれは生き物で
あった。
 水面にもたげた部分だけで、ビルの三、四階ほどの高さがあるだろうか。胴回
りも象二頭分はありそうだ。自分が何者か、なぜここに居るのかも覚えていない
ようでは怪しいが、そんな彼の記憶に、これほどのサイズを持つ生き物などない。
あるいは海に棲む巨大な鯨が匹敵するかも知れないが、実物を目にしたことはな
い。もちろん、「たぶん」と断りがつくのだが。
 サイズこそ尋常ならざるものであったが、その生き物自体は彼の頼りない記憶
にも残されていた。ただ、おそらくはこれまで数えるほどにしか遭遇していない
こと、そして彼の知る矮小さとのギャップに、生き物の正体を特定するのに多少
の時間を要した。
 蛆虫。
 糞尿や腐肉に湧く、大抵の者がおぞましいと感じる虫。それが眼前に迫る、巨
大生物の正体であった。
 ある種の研究家でもない限り、蛆虫をその細部が認識出来るほどに接近し、観
察した経験を持つ者はいないだろう。従って彼が見て取った巨大生物のディテー
ルが、矮小な蛆虫とどれほど一致しているのか断定は難しい。まして彼の曖昧な
記憶に比較するとなればなおさらのことである。だがその曖昧さを以ってしても、
巨大な蛆虫の姿は異様であった。
 目も耳も、あるいは鼻に該当するような器官は何も見受けられない。白くのっ
ぺりとした躰を数本の筋が仕切っている。唯一確認できる器官は、そののっぺり
とした体躯の先端、すなわち頭部と思われる部分にぽかりと開いた穴だけであっ
た。穴の円周に沿って三角形の白い物体がぎっしりと並んでいる。
 白い物体は歯、穿かれた穴は口。
 ヤツメウナギを連想させる歯を持つ蛆虫が、何かしらの肉を主食としているだ
ろうことは、容易に推測できる。いや、推測するまでもない。彼は穿かれた穴の
中に、己と同類である死者たちの姿を無数に確認していたのだから。
 巨大蛆虫にとって、その生死は関係ないらしい。鋭い歯を持つことの必然性を
感じさせないほどに大雑把な咀嚼のみで口内の死者たちを飲み込むと、次なる獲
物、すなわち彼をもまた食すべき対象として距離を縮めつつあった。
 そのスピードはサバンナに生息する肉食獣にも劣るものではない。あるいは遥
かに凌駕していたかも知れない。
 非現実的な光景の中、非現実的な者によって、現実的な死が彼へと迫る。
 如何なる死であっても同じ。彼にとってそれを拒む理由は見つからない。わず
かな時間ではあったが、彼はそれを迎え入れようとも考えた。
 だが………
 水中に没したとき、無意識のまま酸素を欲したように、いやそれよりも明確に
彼の内なる意識は生を求めた。
 既に蛆虫と彼の距離は十メートルを切っている。
 徒手空拳の身に抗う術はない。
 それでも彼は生を欲した。
 ここが地獄であるなら、彼はとうに死者である。彼自身、そう自覚していた。
先刻まで生に対する執着など、微塵も己の中に感じてはいなかった。
 だが具体的な死を運ぶ者の存在により、彼は強く生を求めた。
 初めに彼は相変わらず顔の右半分だけを水面に浮かべた体勢を、立て直そうと
努める。巨大蛆虫に対抗する手段が見つかった訳ではないが、相手を正視するこ
とがまずは必要であると考えたのだ。
 この作業は想像以上に困難を窮めた。血の海の浮力の関係であろうか。体のバ
ランスが異常に悪い。しかし苦戦しながらも、蛆虫の接近より先に体勢を整える。
 後になって考えてみれば不思議なことであるが、彼は水面に立っていた。それ
はさながら、一昔前の劇画に登場する忍者のようであった。
「ああっ!」
 と彼の口から漏れた、驚愕とも感嘆とも取れる声は、そんな些細な事柄ゆえで
はない。
 彼───、いや、以後この呼び方は改めよう。その目は己の胸に少し小振りで
あったが、緩やかな丘陵を見取ったのだ。
 彼女は初めて自分が女であると知った。
 だがこれもまた、先刻、その唇から発せられた声の理由ではない。自らの性の
認識が誤っていたことさえ、もう一つの事実の前においては驚くに値しない。
 彼女には右半身しかなかったのだ。
 何か鋭い刃物、巨大な鉈を振り下ろされた直後のように、彼女の左半身は欠落
していた。
 目の錯覚か、あるいはただ見えないだけなのか。確認のため、彼女はそっと右
手を、左半身の本来なら脇腹があるはずの場所へと伸ばしてみる。が、指先に触
れるものはない。
 失われた半身の断面がどのようになっているのか、自らの目で確認することは
出来ない。いまの彼女には、その必要もない。
 やはり己は人では───少なくとも生きた人ではない。
 それが分かっただけで充分だった。己が死霊悪霊、魑魅魍魎の類であったとし
ても、迫り来る危機に対し、それを容認する理由にはならないのだから。
 何か武器が欲しい。
 ただでさえ半身がないことは、彼女を脅かそうとする者と対決するには不利で
ある。せめて武器の一つもあれば。
 そんな彼女の願いが天に通じたのだろうか。
 いや、決して祝福された存在とは言い難い半身の身に、神の加護などあろうは
ずはない。ならばそれは、悪魔の仕業であったのかも知れない。
 徒手空拳であったはずの掌に、感触を覚えた彼女は、ちらりと視線を送る。い
つの間にか、手の中に朱色の細く長い棒が握られていた。
 冷たい金属質、と言うよりガラス質の感触を目で追う。その先端に大きく弓形
を成す刃が赤色の輝きを放っていた。彼女の手にした得物は鎌だった。
 それはさながらタロットカードに描かれた、死神が手にするもののようである。
生者としての、いや人としての姿を持たない自分には、とても相応しい武器であ
る。彼女はそう思った。
 無意識のうち、口元より笑みが零れる。自分に相応しいと思われる武器を得た
ことで、不思議な自信が彼女の半分だけの全身にみなぎる。既に生臭い息が掛か
るほどに接近していた巨大蛆虫に対して、恐怖も、敗北の予感も感じない。頭の
中に浮かんだ勝利のイメージを数千分の一秒遅れで、実際の行動に変える。
 片手だけでも鎌は重さを感じさせない。まるで失われた、あるいは初めから存
在していない左腕がそれであるかのよう、鎌は彼女の意のままの軌道を空に刻む。
 猪突猛進をする蛆虫は彼女を、正しくは彼女の振るった鎌を中心に、その進路
を二手に分かつ。
 どれほどの鋭さを持とうと、その刃渡りは巨大蛆虫の体高に及ばない鎌である。
しかし常識外の出現を遂げた得物は、やはり尋常ならざる力を秘めていると言う
のか。激流のごとき勢いで彼女を襲った蛆虫は、同じ勢いのまま二つの塊と分か
たれ、彼女の後方の海へ落ち、沈んで行く。
 背に水飛沫を浴びながら、当面己の存在への脅威が去ったことを知る。もっと
も半身の、自らの生死さえ定かでない身で、何が脅威なのか。そう考えた彼女の
口元には、自嘲的な笑みが浮かぶ。
 まず彼女はその手にした得物、死神の鎌がどこから出現したのか探ろうと試み
た。そしてそれは、さほどの時間と労力を費やすことなく、容易に知れる。




 巨大蛆虫を両断した刃には、軽く一瞥を遣っただけですぐに視線を落とす。ガ
ラス質の柄はその感触に間違いはなく、濃い赤色をしていたが透き通っている。
さらに柄の尻からは柄と同じ赤色の糸、と言うより溶け出した飴のようなものが
延びていた。そして紐状の飴は、彼女の身体───何者かが彼女を左右に切り分
けた、その切断面へと続いているようであった。ただ、これは人が己の右目を左
目で見ることが出来ないように、失われた半身の切断面を彼女自ら視認したので
はないが。だが彼女の推測も、あながち間違いではなかったようだ。ふいに手中
の質感が失われたかと思うと、鎌は飴状の紐に引かれるようにして彼女の切断面
へと消えて行った。あるいはあの鎌は、彼女の血が形状を成したものだったのだ
ろうか。
 「死神が手にするもののよう」と鎌を形容したが、それは間違いではないだろ
うか。
 彼女は思う。
 あれは死神の鎌のようなものではなく、死神の鎌そのものではなかったのか。
 すなわち、彼女自身が死神、あるいは悪魔そのものではないのか、と。
 巨大蛆虫を倒し訪れた静けさの中で、己の正体について想いを巡らせる彼女で
あったが、そんな時間は長く続かない。
 ふいに朱色の水面が小刻みに震え、まるで下ろし金の歯にも似た波を立てる。
 同様に空気が振動するのを感じると、それにやや遅れて不快なモーター音のよ
うなものが届く。
 咄嗟に彼女はヘリコプターの接近を予感した。音と振動を、高速で空気を裂く
プロペラによるものだと判断したためである。
 ヘリコプターの接近を感じながら、彼女は躊躇していた。人外の者なる姿(正
しく言えば半分だけは人の姿であるが)を人前に晒すべきでない。そのように考
えもした。しかしそのような考えは杞憂であったとすぐに知れる。
 もとより地獄を思わせる血の海。
 非常識なサイズの蛆虫。
 そして半身で生きる人間。
 これらが混在する場所に、まともな者が現れると想像したこと自体、間違いだ
ったのだろう。大体、接近して来るものをヘリコプターだと考えたことに無理が
あったのだ。
 その正体を悟った時にはもう遅かった。
 巨大な錨を思わせる鉤爪が、彼女の半身の肩を鷲掴みにした後のことである。
 鷲掴み、と言うより肩に突き刺さったと表現するほうが正しいだろう。肩に痛
みを感じるとともに、己の身体が意思に反し空に浮かぶ。抗う間さえなかった。
 寸刻後、鉤爪の持ち主を確認したとき、彼女の身体は血の海の遥か上空に在っ
た。
 それは巨大な蝿であった。
 彼女にヘリコプターと勘違いさせた音は、巨大な蝿の巨大な羽から発生するも
のだったのだ。
 その大きさは、ヘリコプターほどあるだろうか。実際のヘリコプターを、少な
くとも現在持ち合わせている記憶の範囲では間近に見た覚えがないので、あくま
でもイメージ内での比較になるのだが。いや、ヘリコプターより、さらに一回り
大きいかも知れない。黒光りする巨大な胴体は、広い造成地を走る重機を思わせ
る。
 この蝿は、彼女の倒した巨大蛆虫の成虫なのだろうか。自分の子供を殺した彼
女に対して、憎しみの炎を燃やし、復讐を遂げようと言うのだろうか。
 ただその「巨大さ」こそ共通しているものの、蛆虫に比べればこの蝿は些か小
さい気がする。それに昆虫の類に親子の情愛が存在するものなのか、彼女は知ら
ない。
 はたして巨大な蝿が如何なる意図を持って彼女を捕らえたのか、いまはまだ分
からない。しかし巨大蛆虫が突進して来た時と比べ、彼女の危機感は薄かった。
蛆虫と同じように血の鎌を呼び出し、巨大な蝿を葬ることも出来るだろうが、そ
の必要性を彼女は感じない。
 もしここで蝿を殺してしまえば、彼女は再び血の海へと落下することとなる。
蛆虫を撃退したときのように再び自らの力で宙に浮くことが可能であるなら、い
やそれ以前に彼女が死者であるのならば恐れる必要もないだろう。ただ遥か上空
より、何百メートルも下へと落ちてゆくのは、あまり気分のいいものではなさそ
うだと判断したのだ。
 遥か上空。
 この表現は、あくまでも彼女の感覚によるものである。
 実際のところは、彼女を捕らえた蝿がどれほどの高さを飛んでいるのか、よく
分からないのだ。眼下に見えるのは、先刻まで彼女がその身を置いていた赤色の
海。赤にちりばめられた胡麻粒のように見えるものは、皆、亡骸であろう。その
大きさから、彼女は自分が遥か上空に在ると感じたのだった。
 そしてそれ以外、胡麻粒ほどの大きさに見える骸たち以外、彼女がいま、どれ
ほどの高さに在るのか判断するための、比較対照物は一切なかった。
 山も川も森も、無論、何ら建物も、水平線までも、である。

 はたしてどれほどの時間、快適とは言い難いフライトが続いたのだろう。
 突如前方に城が出現したことにより、彼女を捉えた巨大な蝿が低空飛行してい
たのだと分かった。いつからか血の海に浮かぶ亡骸も完全に途絶えてしまい、た
だひたすら彼女を包む世界は赤い色の他、存在しなくなっていた。そのため、彼
女は自分の存在している高さがどれほどのものかを見失っていたのだ。
 それは言葉通り突然に出現した。
 あるいは認識できる限りの全てが、単色に支配された中で彼女の五感が停止し
ていたため、そのように思えたのかも知れない。
 とにかく彼女が気づいたとき、巨大な城が目の前に聳えていた。
 赤い海の上に城は在った。
 城が建つべき大地は存在していないのに、である。
 その土台はどれほどの深さに築かれているのであろう。どちらにしても、血の
色をした海面の下にあることは間違いない。ヨーロッパの古城、あるいは絵本に
登場する魔王の城を思わせる佇まいで、それはそこに在った。
 渇水の季節、湖の底から現れたいにしえの都市の名残。そんな喩えがあってい
るかも知れない。ただ、赤い血の海に渇水した様子などは、微塵もないが。

 蛆虫に蝿、巨大な存在に対していい加減慣れてしまった感のある彼女ではあっ
たが、それでもなお、城は「巨大」であった。
 跳ね橋、堅固な門。そういった外敵の侵入を妨げるものは一切ない。しかしそ
の入り口は赤い海面より目算で五〜六十メートルほどの高さにあり、空を飛ぶこ
とが出来ない限り、侵入は困難であると思われる。そう、たとえばこの蝿のよう
に。
 蝿は正面、と言うより宙にぽっかりと開いた入り口をくぐる。遠くからでも充
分見て取れたが、中に入り改めて彼女は城の巨大さを認識させられた。
 重機ほどもあると思われた蝿だったが、それが勘違いではないのか。自分がそ
の蝿に吊るされて飛んでいると言う現実があってもなお、彼女はそう考えてしま
う。
 巨大な蝿が、ごく普通の蝿であるかのように錯覚してしまう。それほどに、城
の内部もまた巨大に造られていた。
 蝿は高速で飛んでいた。
 見渡す限りの全てが赤一色の世界の中では、如何に高速で移動が成されていて
も実感することは難しい。強く身体に当たる風の強さだけが、それを彼女に告げ
ていた。しかし城の内部では視界の中に対象物が存在した。ほとんど幾筋もの線
にしか見えない壁の流れで、蝿がその巨体に似合わない速度で移動しているのだ
と教えてくれる。
 城の内部は巨大蝿を通常のサイズ、あるいはそれ以下に錯覚させるほどに広い。
真横の壁こそ流れる筋でしかなかったが、視線をやや遠くに移せば間近よりも若
干落ちる速度の壁を朧気に見て取れた。
 壁の表面には無数のおうとつが確認出来る。細かいディテールは不明だが岩を
削った痕のようにも見えた。察するに、この城は王族や貴族、領主といった者が
住まいとする居城でなく、出城としての性格を持つものではないだろうか。
 ふいに視界が開ける。蝿は広い部屋のような場所に出たのだ。
 と、同時に彼女の自由を束縛していた鉤爪が肩から外れる。巨大な蝿が彼女を
解放したのだ。
 ぶぶぶ、とディーゼルエンジンにも似た音を残し、蝿はいま来た道を戻って行
く。その音だけを耳で追いながら、彼女は巨大な蝿が彼女に対し、何ら敵意を持
っていなかったのではないかと考えた。彼女が片足で立っているのは、やや赤み
を帯びた黒色の冷たい床の上。光沢を持つ石で出来ていた。
 周囲を見回すと、壁が随分遠くに感じられる。室内には、はっきりそれと分か
る光源らしきものはなかったが、さほど暗いとも思わない。彼女の目が暗さに慣
れきったせいもあるが、床の石が幽かに光を放っているようでもあった。
 その仄かな光の中、彼女は先ほど蝿に運ばれながら見た、壁のおうとつの正体
を知る。
 骨、であった。頭蓋骨、胸骨、上腕骨、大腿骨………幾千、幾万、あるいはそ
れ以上、目算では計り知れないほどの人骨が壁や柱、天井にと塗り込まれている。
 彼女は確信した。やはりここは地獄であるのだ。
 ならばこの城の主は地獄の王ということになるのだろう。と。
 そして間を置かずして、彼女は城の主と対面することとなる。
「よくぞ参った、生き残りし者どもよ」
 地の底より響き渡るような、重々しくも禍々しい声。その声にそれまで、恐怖
らしい恐怖を感じなかった彼女が、初めて手足に震えを覚えた。それは存在しな
いはずの右半身にまで及ぶように思えた。
 にわかに床の光が強まった。同時に彼女は部屋の奥へ、声の主らしき椅子に鎮
座した人影を見出す。
 床の輝きがわずかに増したとはいえ、まだ薄暗いことに変わりはない。しかし
彼女から相当の距離を残してもなお、この人影もまた尋常ならざる巨大さを持つ
ことが容易に見てとれた。
 これも薄暗さのために細部は不明だったが、人影が腰を下ろしている椅子もま
た巨大で無数の宝玉が散りばめられ、細工が施されているようだ。察するにあれ
は玉座というものであろう。人影、その声から男であることは間違いない、は、
この城の主なのか。するとここは城の広間、または謁見の間と呼ばれる類の場所
と想像出来る。
「お前たちは選ばれた」
 再び男が声を発す。全身の毛が逆立つ響きは、男が決して人間などではないこ
と証明しているかのようであった。
 お前たち。
 ふと彼女は、自分に向けられたのであろう男の言葉が、複数形だったと気づく。
ようやく暗さに慣れつつある目を凝らし周囲を見渡す。と、一人二人、五人六人、
確認出来るだけで十人弱の人影が見とめられた。彼女から死角になる場所を含め
れば、それを少し超えるだけの人間がいるのかも知れない。
 「人間」とする表現は、必ずしも正しくはない。もし彼女が正常な精神の持ち
主であれば、恐怖のあまり気が触れていただろう。だが既に彼女は、己がまとも
な「人間」ではないと悟っている。自分が半身だけの存在であることを、もう当
然であるかのように受け入れていた。
 そんな彼女から見れば、周囲の者たちは「人間」と呼ぶには疑問を残すものの、
自らの同類と認識するには、何の不都合もなかったのだ。
 そう、地獄の王の間に集いし者たちは皆、彼女同様、半身だけの存在であった。
事故か病か、如何なる経緯にてそのような姿となったのか。皆が皆、生存するこ
とがとても困難に思えるほどに、身体の大半を欠いていた。ただし、それが各々
の個性であるかの如く、身体の欠き方は違っている。彼女と同じく左半身を持た
ない者もいれば、逆に右半身を欠いた者もいた。あるいは下半身だけ、上半身だ
けの者もいる。
 まさしく地獄絵図とも呼べるおぞましき風景であったが、彼女にとってはもう
驚くに値しない。たとえ彼女自身が正常な身体を持ち合わせていたとしても、こ
れだけ異様な光景が連続すれば、それが通常のものとなる。ただ一つ、その場に
彼女の関心を惹くものがあるとするなら、それは地獄の王が発する言葉のみであ
ろう。
 これから地獄の王が語るのであろう言葉が、彼女の存在理由、正体を明らかに
してくれる。そう思えたのだ。しかし―――。
「人の世に行き、己の成すべき事をせよ」
 禍々しくも荘厳なる声が語ったのはそれのみであった。待てども、それ以上の
言葉はない。
 人の世?
 成すべき事?
 半身しか持たない自分が、人の世に行って何が出来ると言うのだろうか。彼女
がそんな疑問を地獄の王へと投げ掛けようとした時であった。
 彼女の身体の切断面に何か冷たいものが触れる。両眼とも備わっていたのであ
れば「寄り目」と呼ばれる状態で彼女はその正体を探った。そこにあったものは
失われたはずの、あるいは最初から持ち合わせていなかったはずである、彼女の
左半身だった。
 しかしそれが実体でないと知れるまでは、幾らも時間を要さない。初めて確認
した己の半身に触れようとして伸ばした右手を、彼女の意思に反し同じように伸
びてきた左手が遮る。硬く、冷たい触感がその右手にも伝わって来た。
 鏡である。
 顕微鏡のレンズの下、プレパラートに乗せられた検体のように、右半分だけの
彼女の身体は、本来中心であるべき部分に鏡を置いていた。つまり、あるかのよ
うに見えた左半身は、鏡に映った右半身の像だったのだ。
 それはひどく脆い鏡であったらしい。押し合う左右の手は、右の力が勝る。そ
の結果、鏡は粉々にと砕け散った。
 だが、像は残る。
 彼女は右半身を得て人間の女性の身体となった。ただしそれは鏡によって造り
出された見せ掛けだけの姿に過ぎなかったのだが。
 そう言えば、「蝿の王」と呼ばれる悪魔の話をどこかで聞いた気がする。そん
なうろ覚えの記憶が頭に浮かぶと同時に、彼女の意識は遠のいて行った。




#273/598 ●長編    *** コメント #272 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:46  (400)
白き翼を持つ悪魔【02】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:17 修正 第2版

 蘇った意識が捉えたものは、おぞましき血の海の光景に勝るとも劣らない。
 耳障りな電子音が奏でる音楽。無数の靴音。身勝手に鳴らされるクラクション
と整備不良を思わせるエンジン音。
 強い整髪料に香水、そして防虫剤の匂い。埃と排気ガス。それによって食欲を
そそられる者が在るのか甚だ疑問となる、屋台からの安っぽい香り。
 統一性もなく、各々が目立つことばかりを考えた看板群。その奥には巨大さ、
豪華さを競いながら冷たさ以外には何も感じられないビル群。
 そして彼女の周囲には人、人、人。
 彼女は立体交差点の中央に立っていた。
「人の世に行き、己の成すべき事をせよ」
 直前、あるいは遥かな昔に聞いた言葉を呟く。そして彼女は悟った。
 自分はあの地獄の王の僕なのだと。
 地獄の王の僕――それはすなわち、彼女自身が悪魔の眷族であることを意味す
る。
 と、なれば「己の成すべき事」も見えてくる。
 彼女はゆっくりと、周囲を見渡した。
 足早に交差点を渡って行く人々。歩道を行く人々。彼女から見ることは出来な
いが立ち並ぶビル群の中にも沢山の人が居ることだろう。
 もしここで、と彼女は考える。
 あそこで信号待ちをしているタンクローリー車が、突然爆発炎上をしたならば。
交差点の向こうの、一際高いビルが倒壊したとすれば。いま上空を過ぎようとし
ている飛行機が、ここに墜落して来たとすれば。さぞかし多くの人間が犠牲とな
るであろう。
 妄想などではない。
 まるでそれは反社会的なテロリストや、世の中を嫌悪し始めた思春期の少年に
よる空想のような話であったが、彼女が望み、強く願えばすぐさま実現される。
何の根拠も、試したこともないはずであったが、彼女には自信があった。超能力、
あるいは魔力といった類のものであろう。そうした特殊な能力が備わっているか
らこそ、地獄の王は自分をこの世に遣わしたのだろう。
 暫し、彼女の視線は浮遊を続ける。
 より効果的に惨劇を引き起こせる対象を探して。
 結果的に何も起こさなかったのは、彼女が自分の能力に不安を持ったからでも、
人間らしい良心に抑制されたからでもなかった。ここで惨事を起こすことが地獄
の王の言う、「己の成すべき事」ではない。そう考えたからである。
 多くの人間の生命を奪うよりも、もっと何かするべきことがあるはず。理由は
なかったが、彼女はそう感じられた。
 ふと気づくと、彼女の周囲から人影が消えていた。その理由を知るよりも先に、
激しい不快感が彼女を襲う。続いて、目に映る風景が横に流れ始めた。何者かが
彼女の左腕を引いたのだ。
「危ないなあ、交差点のど真ん中で、何ボーッとしてたのさ」
 背筋に悪寒が走る。知能程度の低さを窺わせる軽薄な声。それは地獄の王にさ
え恐怖しなかった彼女をも震えさす。
 声の主は典型的東洋人の顔立ちに、滑稽なまで不釣合いな茶色の髪をした若い
男。傍らに立つ男もその仲間であろう。右瞼の飾りは、何か宗教的な意味でもあ
るのだろうか。極彩色という以外、統一性もデザイン性も感じられない服装まで
含め、何もかもが彼女の癇に障った。
「ねえ、彼女、ヒマなんでしょ? 俺らと一緒に遊ぼうよ」
 と、こちらも不快感しか残さない声を発したのは長い髪にニット帽を被った男。
この二人に手を引かれ、彼女は立体交差点の中央から歩道へと移動させられたの
だった。
 自分の身に起きた事態さえ理解出来れば、男たちには興味もない。彼女は一瞥
をくれることもなく、その場を去ろうとした。
「ちょっと、シカトはないんじゃない」
 ニット帽の男が左腕を掴んで彼女を引き止めた。それが男たちの声や服装以上
に、彼女に不快感を与える。
「私に触れるな、クズが!」



 街の喧騒の中にあって、決して周囲に響き渡るような声ではなかった。むしろ
その言葉を向けられた二人に辛うじて届く程度ものだった。
 一瞬、ほんの一瞬、二人の男は身を退く。半歩の更に半分ほどの後ずさり。
 彼らがもし、草原で草を食む獣であったのならば、間違いなくそのまま逃走し
ていたはずだ。いや、これが百獣の王と謳われるライオンだったとしても、いつ
までも彼女の前に身を晒すような愚かな真似はしなかったであろう。
 それほどまでに、彼女の言葉には迫力があった。だが悲しいことに、男たちは
野生ではない。弱肉強食の世界で、命を繋ぐ術を知らない。短い言葉の中、これ
ほど明確に現れている、己と相手との力量の差を読み取ることが出来ない。
「おい、あんま、イキがんじゃねーぞ」
 男は凄んでみせた。
 それが昼寝している猛獣の尾を、わざわざ踏み付けて起こす行為にも等しいの
だと、理解する知能も持たずに。然したる知識も理性もないその頭には、性的な
期待しかない。と、彼女には容易に知れていた。
 三秒。
 それだけあれば、充分であった。たかだか二つの首を落とすのに、それ以上の
時間は必要ない。数分前、数百人単位での殺害を思い止まった彼女であったが、
不快極まりない二人に理性は失われていた。巨大蛆虫を撃退した力を、再び放と
うとして二秒が経過したときであった。
「こんなところにいたんだ」
 突如割り込んで来た二人とは別の男の声に、彼女は機先を制される形になる。
「なんだ、お前」
 と、ニット帽の男。二人の関心は彼女から、第三の声の主へと向けられた。
 それはまた、何とも冴えない青年であった。
 間違ってもブランド物とは思えない、少し青み掛かったブルゾン。相当の年期
が入ったものと容易に知れる。元は黒一色だったはずのズボンも、膝の辺りに白
い色が見えている。
 二人の男に比べればまともな、しかし工夫も面白みもない短髪の下に笑顔らし
き表情があったが、それも酷く弱々しい。
「こいつ、ぼくの妹なんです」
 青年は軽く動かした顎で、彼女を指しながら言った。元々身長のある青年では
なかったが、少し腰を折り、上目遣いで男たちを見ているため、一層矮小に感じ
られる。
 勇ましい訳ではない、と言うよりむしろ気弱な性格なのだろう。それが何ゆえ、
知性の低さに反比例した凶悪さを持つ男たちに対し、見え透いた嘘を以って割っ
て入ったのだろうか。好意的に判断すれば、悪漢に絡まれた女性を救わんとして、
また穿った見方をすればライオンの獲物を掠め取ろうとするハイエナの目論見で
あるのか。
 いずれにしろ、青年の意図など彼女には興味がなかった。
 ただ一瞬の感情で、男たちの命を断とうとしていた彼女である。「人の世に行
き、己の成すべき事をせよ」と語った地獄の王の言葉に従おうとする彼女にとっ
て、青年は大局的に見れば、恩人になるのかも知れない。
「はっ、妹だと」
 薄ら笑いを浮かべたのは茶髪の男であった。当人にしてみれば、威嚇の表情な
のであろうが、彼女の目には不細工且つ、滑稽にしか映らない。
「あの、何か妹がご迷惑をお掛けしたみたいで………ほら、お前もちゃんと謝っ
て」
 腰を低くしたまま、青年は彼女へと歩み寄る。そして小声で「走って」と耳打
ちをするや否や、彼女の手を取り駆け出した。
「あ、この、待て!」
 二人の男も、すぐにその後を追おうとする。が、決して追いつけはしないだろ
う。
 駆け出した背後で起きたこと故、青年は気が付かなかったであろうが、二人の
男は派手に転倒をしたのだった。彼女の仕業である。
 既に二人の命に興味を失った彼女にしてみれば、青年と共にこの場を逃げるこ
とが最善の策であると思えた。もし、青年もまた男たち同様、彼女に対し邪な期
待を持ち合わせていたとしても、その時はその時である。相手が一人であるなら、
いかようにも出来るだろう。
 時間にして三分程度、走ったであろうか。
 青年と彼女は先ほどの雑踏がさほど遠くない場所にあるとは思えない、静かな
路地にいた。
「いやあ、やっぱり普段、運動、してないと、きつい、や」
 膝に手を置き、切れ切れの息で言う青年。腹に何か一物を持つ者ならば、間も
なくその本性を見せるであろう。特に恐れる必要もない彼女は、静かに青年の動
向を待った。
「キミ、すごいね」
 青年の発した言葉に、その意味が分からず、彼女はわずかに眉を歪めた。それ
に気づいたのだろう、青年はすぐに補足する言葉を続けた。
「いや、これだけ走って、息一つ、切らしてないから」

「なんだ、そんなことか………」
 愛想ない彼女の応答に、青年は軽く笑みを浮かべる。それから少しの時間、黙
って彼女を見つめた。その表情からは、悪意らしきものを感じ取ることは出来な
い。何かを愛しむ、と言うり懐かしんでいるようでもあった。
「たぶん、キミ、強いんだろうけど。あんまり無茶しないことだよ。女の子、な
んだから」
 そう言って青年は彼女に背を向けた。そしてそのまま彼女を残し、路地の出口
へと、一人歩き出す。
 それでは、青年の行動は本当に、ただ彼女を救おうとしただけのものだったの
か。
「おい、待て」
 そう思うことが、彼女を酷く不快にさせた。自然と青年に掛ける声も、あの二
人組へ向けたもの以上に乱暴になる。
「ん、どうかした?」
 足を止めて青年は振り返る。
「なぜ私を助けた。何か目的があったんじゃないのか?」
 詰問口調、と言うより完全な詰問だった。彼女は真っ直ぐ、青年の目を見据え
る。その気迫に圧されたか、あるいは己のやましさを恥じたのか、わずかな間の
後、青年のほうからそっと視線を外した。
 瞬間、彼女は確かに見た。いや、感じたとするのが正しいのか。
 青年の中、心の奥に何か揺らめくものがあるのを。
 それはコンピュータ内の重要情報さながらに、幾重にもプロテクトを掛けられ
ているようだった。彼女の特殊な力を以ってしても全てを窺うことは出来ない。
そのためはっきりと断定しきれないが、巨大な悪意のようであった。先ほどの二
人組の、本能のみに支配された刹那的欲望による悪意とは違う。もっと巨大な、
根の深い何か、であった。
 俄かに、この冴えない青年に対して、彼女の中で興味が生じる。そう、青年の
心の奥底にある何かが彼女の「成すべき事」に繋がっているのだと直感したのだ
った。
「べ、別に目的なんか………」
 随分と遅れて青年の口から出てきたものは、先刻の彼女の詰問に対する答えで
あった。だが、もう彼女にとって、そんなものはどうでもよくなっていた。
「責任をとれ」
 大股で青年との距離を詰め、彼女は言った。あまりにも接近し過ぎたため、彼
女は言葉とともに吐き出された自分自身の息が、青年に当って返るのを感じる。
 ここまで近づいて、彼女は初めて青年の背が、当初の印象より高いことに気づ
く。二人組の前で腰を低くしているときには、矮小に感じられた青年だったが、
こうして見ると彼女よりちょうど頭一つ分高い。そのため、青年の目を見据えよ
うとする彼女は、随分、首に負担を掛けることとなった。
「責任って言われても………ぼく、キミに何か悪いことしたかなあ」
 やや臆したように、軽く顔を横に逸らし、青年は彼女からの視線を切る。その
様子から、青年が女性に対し、不慣れであると察しがつく。少なくとも、二人組
から彼女を救い出したのには、何かしらの打算があったと考えるのは間違いのよ
うだ。ただそれを知ることで、彼女はかえって不快になった。同時にいまはもう、
完全に感じられなくなった、青年の心の中にある何かに、強い関心が湧く。
「私にはあてがない」
「えっ?」
「行く当てがないのだ。だから、お前の住まいに案内しろ」
 彼女の言い分は、まるで正当性のないものであったが、青年から抗議の言葉は
なかった。正しくは呆気に取られ、抗議することも忘れていたのだろう。しばら
く何かを言い返そうと考えているようでもあったが、彼女には青年が言葉を見つ
けるまで待つつもりなどない。
「ほら、早く」
 彼女は立ち尽くす青年の横を抜け、先ほど彼が立ち去ろうとしていた方角へと
歩き出す。
 狭い路地だったせいもある。横を通り抜けようした一瞬、互いの肩が微かに触
れた。同時に何か声が聞こえたような気がして、彼女は青年を振り返った。
「何か言ったか?」
「いや………何も」
 青年が呆けたような表情をしているのは、彼女の問い掛けに対してだけではな
いだろう。その前からの言動全て、人を驚かすのには充分なものであったのだか
ら。
 とにかく青年が嘘をついたり、惚けたりしているのではないらしい。そうする
理由がない上、余裕もなさそうだ。

 あるいはどこからか聞こえて来た、別の者の声か。それともまた青年の心の奥
底にあるものが、今度は声として聞こえたのだろうか。
 そのどちらでもない。
 それは確かに彼女の近くから聞こえて来た、女の声であった。
 彼女はそれ以上、声の正体について追及するのを止める。知ったところで、意
味もないことだと思えたのだ。「成すべき事」に無関係であれば、興味を持つ必
要もない。

 彼女はわずかに首を振ることで、青年に対し急ぐよう促し再び歩を進める。
「お願い、助けてあげて」
 そんな声が聞こえたことは、もう忘れていた。



 それはあまりにも慎ましやかなものであった。
 玄関の引き戸を開けると、薄暗い廊下の左右にドアが計六つ。手前右側の一つ
だけやや奥まった造りになっており、そのドアには「TOILET」の文字が見
える。他の五つのドアが、それぞれ別の店子の住む部屋となっているのだろう。
 青年の住む部屋は、おそらく前の元号時に造られたこの古いアパートの、ぎし
ぎしと軋みを上げる階段を上がった二階の一番手前にあった。
 共同の玄関同様、ただし材質は異なった重い引き戸を開けると、いきなり畳半
分ほどもない台所が現れる。その横、わずか一間の空間が、青年の生活の場であ
るようだ。
「ま、まあ、座って。楽にして」
 青年に勧められるのを待たず、彼女は室内に一枚きりの座布団に着座していた。
 しばらくは所在無さげに立ち尽くしていた青年だったが、意味もなく左手で頭
の後ろを掻きながら彼女から距離を置いた、窓の前に腰を下ろす。
「えっと、テレビでもつけようか………」
 手を伸ばし、彼女の前にあった座卓よりテレビのリモコンを取って青年が言う。
「構わなくていい」
 一言発し、彼女は部屋を見回した。
 六畳一間に半畳弱の台所。世辞にも広いとは言えない部屋であったが、しかし
そのわりに狭くも感じない。室内に置かれた物が極端に少ないためである。
 彼女のすぐ横に、食事用のテーブル及び机としての役割を兼ねているのであろ
う座卓。その正面は窓となっている。アパートの側が厚くなっているためか、出
窓のような空間があり、そこに小型のテレビが置かれていた。
 彼女の向いた正面、青年の後ろにも窓があった。通常アパート内、全ての部屋
が同じ造りになっているはずだが、ここには角部屋ということもあり、窓が一つ、
余分に設けられているのだと思われる。故に部屋はかなり明るく、その点でのみ
恵まれていると言えよう。
 その他には、壁の桟にハンガーで掛けられたコート。台所横の空間が押入れと
なっており、中に青年の布団ぐらいはあるのだろう。それからドアの横、台所の
斜め前に、玩具と見紛うほど小さな冷蔵庫。さらにその横には暖房器具らしきも
の。上部に「セラミックファンヒーター」の文字が見える。薄っすらと埃を被っ
ているところを見ると、光熱費節約のためか、使用頻度は低そうだ。
 これが青年の家財道具の一切であった。ただ生きていくだけならば問題ないが、
現代人の生活としては、質素極まりないものであった。
「寒かったら、つけるけど」
 彼女の視線が暖房器具で止まったのに気づいたようだ。青年が声を掛けてくる。
「構うなと言った」
 答えながら、彼女はふと思った。
 部屋に置かれた暖房器具。「寒かったら、つけるけど」と言った青年。
 そうか、いまは冬なのか。
 彼女は視線を落とし、自分の着ているものを確認する。
 目に飛び込んできたのは、彼女に相応しい闇色。黒の一色。
 黒のソックスに、黒く細いズボン。そのズボンを膝下辺りまで隠すのは、身体
のシルエットをあまり隠さない、黒のコート。首に柔らかく触れているのは、ボ
アの付いた黒い襟であった。
 彼女自身、暑いとも寒いとも感じない。そのことについては、特に不思議だと
思わなかった。
 悪魔の眷属であるから。
 その一言だけで、彼女の中では充分に説明がつく。
 しかしまだ疑問は残る。
 部屋の様子から、青年の暮らしぶりが決して豊かなものでないと知れる。だが
知れる、と言うのは比較する別のものを彼女が知っていてのことである。そう、
彼女は知っていた。人の暮らしぶりと言うものを。
 これは教えられた、あるいは書物から学んだ知識とは異なる。たとえば水がH
2O、二つの水素原子と一つの酸素原子から構成されている、ということは学ん
だ者であれば当然の知識として持ち合わせている。だが水を見て、それを実感す
る人間はまず存在しない。
 しかし彼女は、青年の暮らしぶりが豊かなものではないと、実感することが出
来る。これは彼女が比較する人の暮らしぶりを幾つか、体感的に持ち合わせてい
る証と思えた。
 かつて彼女は人として生きていた。
 そう考えれば説明はつく。
 悪魔に魂を売る、そんな言葉がある。
 あるいは、昔話に人が鬼になった物語を聞いたことがある。
 強い怨念を持って死んだ者は、地獄の王の配下となるのだろう。もとより血の
海の中、半身のみで浮いていた自分が、安らかなる死を迎えていよう筈もない。
 彼女はそれ以上考えることを止めた。
 おぞましき姿で目覚めた、あの時以前の自分を探ってみても仕方ない。それが
「己の成すべき事」へのヒントになるとは思えなかったのだ。
 かつての自分が何者であったかよりも、いまの彼女には「己の成すべき事」の
方が遥かに重要であった。それを成した後、何があるのか、己がどうなるのか、
関心はない。と言うより地獄の王の命に従う以外、彼女には自分の存在理由を見
出すことが出来なかったのだ。
 身体半分しか持たず、それを鏡に映した偽りの半身で隠す彼女にとって、地獄
の王に与えられた使命のみが全てだった。
――コンコン――
 と、二回、戸を叩く音。正確に表現すれば「コンコン」などと小気味いい音で
はない。安手の合板木材と薄い曇りガラスが緩くなった戸は、些か乱暴な拳によ
って磨り減った敷居の上を震え、不快な軋みを響かせる。
「ケンちゃんいるぅ?」
 次に聞こえたのは、女の声。その媚びた響きには、声の主の善からぬ企みを推
し量るのに何の障害もなかった。
 一瞬。
 また一瞬のことである。
 あまりの短さに、はっきりとした姿を捉えることは出来なかったが、青年の心
に一瞬の揺らぎが生じたのを、彼女は見逃さない。地獄の王の眷属たる彼女にと
っては心地よい、禍々しい感情を。
「ああ〜よかったあ。ねぇ、ケンちゃん、お願いっ、助けてぇ」
 部屋の主が答えるのも待たず、乱暴に戸が開かれる。続いて現れた女の姿に、
彼女は反吐が出そうになった。交差点で声を掛けてきた二人組といい、この女と
いい、人の世とは彼女の癇に障る存在の何と多いことであろうか。こうした輩と
同じ空気を吸って過ごすこれからの時間を思えば、血の海で漂っていた地獄での
時間の方が、遙かに快適であった。
 戸の開け方一つで、育ちの悪さは充分に窺い知ることが出来たが、それに容姿
を付け加えると、全く女には救いがない。
 本人はファッションのつもりなのだろう。部分的に染められた紫の髪は、見た
目にも汚らしく、いまにもそこから虫が飛び出して来そうであった。尤もどんな
虫が飛び出して来ようと、それがたとえ血の海で会った巨大蛆虫や蝿であったに
しても、彼女にして見ればその女自体よりよほど可愛らしく思えたであろう。
 白地に黒という、あからさまに模造毛皮と知れる豹柄のハーフコート。やけに
光沢のあるレザーの黒いスカート。短いスカートから伸びる二本の脚は扇情的と
いうより、女の羞恥心の乏しさを周囲に知らしめているだけであった。
 如何にも愚鈍そのものを絵にしたような女であったが、生き物として最低限の
直感は有していたのかも知れない。それとも単に偶然であったのか。ただ悪意の
みを持って見つめる彼女と女との目が合う。
 突然の静寂。
 がさつな立ち居振る舞いで、指一本動かすのにさえ騒音を伴いそうな女が、彼
女と視線を合わすと同時に動きを止めたのだ。
 特別隠してはいないが、彼女にはそれほど明確な形で悪意を女に向けたつもり
はない。尤もそうしていたところで、それを感じ取ることが出来るような繊細さ
を女が持ち合わせているとは思えない。
「あっ、彼女、ぼくのいとこなんだ」
 女の様子に気づいたのか、青年が偽りの説明をする。
「ふうん、そう」
 偽りの説明を受けると、女はもう、彼女への関心を失ったようだった。しかし
先刻のけたたましさは幾分抑えられ、ゆっくりと青年へ向き直る。
 青年に比べれば、女の感情は読みやすい。
 恐怖。あるいは驚愕、恐慌と言ってもいい。
 細部まで読み取ることは叶わなかったが、彼女を見た瞬間の女の感情は驚きで
あった。それも自分の恋人の部屋で見知らぬ若い女性を目撃した際の嫉妬、と言
った類の驚きではない。恐れを伴う感情。女は瞬間、彼女に対して恐怖を感じて
いた。
「お願い、ケンちゃん」
 彼女に恐怖感を抱いた記憶さえ、もう失ったのだろうか。女は青年の前で膝を
突くと、両手を胸の上で合わせ、拝むような形を見せた。青年を見つめる媚びた
目つきは手馴れた感がある。どうやら女には、男にこのような仕草を見せること
が、習慣的にあるらしい。
「お母さんが急な病気で入院しちゃって、私………どうしたらいいのか」
 見え透いた、と言う言葉がここまで当てはまる例は他にないだろう。続く台詞
を聞くまでもなく、女がここを訪ねた訳は容易に想像がつく。
「金の無心か」
 女の目論見を妨害するつもりはなかった。青年を助けるつもりもない。敢えて
理由をつけるなら、彼女にとって女が癇に障る種類の人間であったから、だろう。
思ったことが、そのまま彼女の口をついて出た。
 小さく、微かに舌打ちをする音が聞こえた。一瞬たりとも彼女を振り向くこと
はなかったが、女のしたものに違いない。
「大変だったね、お金、いるんだろ?」
 穏やかに、同情を込めた青年の声。この狭い部屋の中で、彼女の言葉や、微か
な音ではあっても女の舌打ちが、耳に届いていない訳はない。それでも青年の声
には、女の無心に応えようという意思が見て取れる。
「あっ、ほら、交通費とか、入院保証金とか、他にもいろいろ………三十、うう
ん二十万円くらい」


 事は女の思惑通りに進む。
 予め用意してあったのか、あるいは即興で作られたものなのか。まるで学芸会
の芝居を観るような女の台詞。女と青年の間で交わされる会話に、彼女の存在は
まるで無視されていた。
 もともと二人の間に介入する理由はない。彼女は黙って成り行きを見ることと
した。
「ごめん、いまこれしかないんだ」
 青年は机―――座卓の引き出しの奥から封筒を取り出し、女へと手渡した。女
は躊躇いや、遠慮の間を置くことさえなく封筒を受け取ると、中の一万円札を抜
き取り扇状にして数え始める。全部で十二枚。念を押すかのように、二度に渡っ
て数え直した女は一万円札だけを、コートのポケットへとねじ込んだ。女の関心
を得られなかった封筒が、畳の上へと落とされた。
「ありがとう、助かったわ。あとはなんとかするから」
 礼を述べる言葉に感謝の気持ちは微塵も感じられない。そればかりか、金を受
け取ったことにより、青年に対しての興味を完全に失ったようである。こんな場
所に長居は無用とばかり、踵を返しまるで走るようにして部屋を出て行ってしま
った。
 女が現れ立ち去るまで、わずか五分にも満たない時間であった。
 この間のやり取りを見れば、彼女の特別な能力を使うまでもなく、二人が恋人
同士の関係にあるとは思えない。少なくとも、女の方は男に特別な好意を抱いて
はいない。それを確認するため、女の後を追ってみることにした。
 それは文字通り、女の後を着けて行く、と言うことではない。軽く瞼を閉じ、
耳を澄ませ、部屋を立ち去る際の女の足音を思い浮かべる。記憶を辿る作業のよ
うでもあるが、彼女の行うそれには曖昧な部分も、想像力に頼る部分もない。耳
に蘇った女の足音は、彼女の視覚に映像を伴わせる。まるで女の横に立ち、一緒
に歩いているかの如く。

「だーめ、あいつ、全然シケてやんの」
 と、少々不機嫌に女は言う。
 青年のアパートからわずか数十メートル、路上に停められたダークブルーの車。
その助手席に乗り込むと同時に発せられた一言であった。
「で、いくら?」
 そう言ったのは運転席の男。短い髪をハリネズミのように立てている。豹柄の
ハーフコートは女とお揃いのつもりか。コートの下から覗いているのはストライ
プ模様のタンクトップ。首、そして両方の手首にはメッキか、あるいは本物なの
か金色のチェーンが巻かれていた。全体的に男の着こなしは毒々しいと言うより、
滑稽であった。
 女と並んだ姿は、まるで売れないコメディアンである。
「んー」
 男の問いに女は動きで応ずる。無造作にポケットから握り出された一万円札。
それを、男もまた乱暴に掴み取り、枚数を確認した。
「ふうん、まあまあ、ってとこか。んじゃまあ、あんまり贅沢は出来ねぇけど、
こいつを持って出かけますか」
 言うや否や、男は一万円札をダッシュボードに投げ出し、その勢いのままシフ
トレバーへと手を移動させる。
 けたたましいエンジン音と、タイヤが路面を激しく擦る音を残し、車は走り去
って行った。





#274/598 ●長編    *** コメント #273 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:48  (452)
白き翼を持つ悪魔【03】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:31 修正 第2版

「お前はバカか?」
 どれほど無能な作家であっても、ここまで見え透いた脚本を書いたりはしまい。
そんな女の手口にいとも容易く金を手渡してしまった青年に、彼女は一瞬の逡巡
もなく言い放つ。腹が立つ、というより愚かな青年へ呆れてしまったのだった。
「あいつの話は全部嘘だ。まさかそれも見抜けないほど、愚か者なのか、お前は?」
 侮蔑の念もあからさまに彼女は言う。青年の感情を波立たせることが目的であ
った。彼女にとって「成すべき事」を成すためには、青年の心の中、揺らめくも
のの正体を少しでも把握しておきたかった。青年の過ぎるお人好しさ加減に少々
腹立たしさを覚えたのも事実である。
 しかし青年は答えなかった。彼女の言葉に対し、短く「はは」と笑うだけだっ
た。
 それから暫く沈黙が続く。彼女にして見れば、自分の使命を果たすまでに定め
られた時間があるわけではない。青年の心の奥底にあるものを、いまこの場で強
引に探り出す必要はないのだ。
「分かっているさ」
 虫の足音にさえ、かき消されてしまいそうなほど、小さな声が返って来たのは、
だいぶ時間が経ってからのことだった。「分かっている」それが、女の話が嘘であ
るということ指しているのか、それとも彼女が「愚か者」と呼んだことに対して
なのか。彼女は再び問いはしない。青年もそれきり、言葉を続けはしなかった。



 冷たい風が吹き抜けて行く。
 朧気な明かりの中、葉を落とした木々の枝が不気味な踊りを見せた。その姿は、
まるで肉体が滅んだ後も死にきれず、もがき苦しむ骸骨たちのようでもある。
 幽霊や妖怪、物の怪の類など存在しない、怖くない。そう豪語する者でも些か
不安な気持ちになっても不思議ではない光景だった。
 が、むしろ彼女にとっては心落ち着く環境と言えた。
 不快極まりない人ごみもない。おぞましい血の海もない。
 寒さは彼女に辛さを与えるものではなかった。もとより、彼女は「寒い」と感
じることがない。
 彼女はいま、青年のアパートからそう遠くない公園にいた。
「えっ、あ、だけどきみ、行くあてがないって」
 部屋を出ようとした彼女に掛けられた、少し驚いた様子の青年の声。
「あれは冗談だ」
 短く彼女が答えると、青年の表情に微かな安堵の色が浮かぶ。同時にどこか寂
しげでもあった。
「なに、どうせまたすぐ会える」
 そう一言残すと、彼女は青年の反応を確認することなく、部屋を後にした。

 青年は彼女に対し、少なからず好意を抱いていた。これは別に彼女の自意識過
剰によるところの思い込みではない。彼女にはそれが分かるのだ。
 ただ彼女が部屋を出ようとした時に、安堵の表情を見せたことから、青年が女
に対し免疫を持ち合わせてはいないのだと窺える。身体を開き、男を魅了し手玉
に取るなど、さして難しいとは思わない。目的のためならば、どんな男にでも抱
かれるのに抵抗はない。
 だが青年に対して、それは効果的ではない、と彼女は判断した。
 客観的に見れば、女に騙され、いい様に金を貢がされているだけの馬鹿な男。
そうであるならば、これほど扱いの容易い相手はないだろう。身体を開くことで、
いや、彼女にその意思があるかのように匂わすだけで、どうにでも動かせるであ
ろう。
 しかし青年は女に、ただ手玉に取られている訳ではない。何か思惑があっての
ことだと、彼女には感じられた。それは彼女が青年と出逢った直後、その心の奥
底に感じた「何か」と深く関わりがあるように思える。
 青年の心の奥にあるもの、それを彼女は利用したい。それこそが彼女の「成す
べき事」と判断したからである。
 彼女には青年の心の中の奥、揺らめくものの正体を知る必要があった。そのた
めには、性急な接近はかえって逆効果である。時間を掛け、彼女は青年と親しく
ならなければならい。幸い、「成すべき事」を成すために、時間の制限は課せら
れていない。青年も彼女に何かしらの好意を持っている。ただ一つ不安材料があ
るとしたなら、青年が彼女に対して持つ好意が、必ずしも異性に対してのそれで
はないことぐらいだった。
 まずは無理なく、自然に青年へと接近するため、一旦部屋を後にしたのだった。
「さしあたっては、金、か」
 人の世で暮らして行くのには金が必要である。さすがに彼女も錬金術は使えな
い。金を手に入れるためには、何かしらの手段を講じなければならない。どこか
金のある場所から頂いて来ることが最も簡単な方法ではあるが、「成すべき事」
を成す前に目立つような真似は避けたい。
 無意識のうち、彼女の口元に笑みが浮かぶ。
 もしその笑みを、危険を避けるための最低限の能力を持ち合わせた者が見てい
たのであれば、他の何事より先にその場から逃げ出すと言う選択肢を選ぶであろ
う。
 それほどまでに凶悪な笑みが浮かぶ。
 しかし、近くの外灯が彼女の姿を照らし出してはいたが、相手が彼女の笑みを
認識するには光量が不足していたし、些か距離もあった。
 何より彼らには光量よりも、知恵というものが不足していた。
 先に彼女の存在に気がついた男が、もう一人の男を肘で軽く突く。
 二人の男の視線が、彼女へと向けられる。
「あれ、あの女、昼間の」
 風の途切れた中、明かりは不足していても声はよく通る。一人の男がもう一方
に耳打ちしたつもりの言葉は、彼女の耳にも届いていた。
 突然男たちは、小走りとなる。逃がすまいとしてのことであろうが、彼女に逃
げる意思はない。むしろ男たちの接近を歓迎して待っていた。
「よう、また会ったな」
 彼女の前に立った男が言う。その間に、もう一人の男が彼女の背後へと回った。
退路を断ったつもりらしい。
 既に分かってはいたが、接近によって男が何者であるのか、肉眼でも確認され
る。彼女の前に立ったのは、昼間、スクランブル交差点で出会った、ニット帽の
男であった。後ろにいるのは、茶髪の男であるのは間違いない。
「なんだい、一人かよ。お兄ちゃんは、どうしたんだ」
 だらしない笑みを浮かべながら歩み寄る姿は、白痴そのものである。夜の公園、
他に誰も居ない中、数の上で勝るというだけで自信を持っているのであろう。あ
るいは絶対に男の方が女よりも力に勝っていると思い込んでいるのかも知れない。
確かに彼女が普通のか弱き女性あれば、逃げ出すことの叶わない距離にまで男た
ちは詰め寄っていた。それが自分たちの命取りになるなどとは考えもせずに。
「けど、また会えるとはな。俺たち、よっぽど縁があるんじゃない」
 前に立ったニット帽の男が彼女の手首を掴む。
「なあ、今度こそ俺らに、付き合ってくれるよね」
 茶髪の男が、後ろから彼女の肩を抱いて言った。それは明らかに彼女の意思を
確認するためではなく、脅迫を込めてのものであった。
「私もまた会えて嬉しい」
 彼女が短く言葉を返すと、男たちはそれぞれに掴んでいた手首、抱いていた肩
を離す。他に見る者もない中、彼女には自分の力を抑える必要がない。短い言葉
の中にも、それまで以上の凄みが溢れていたのだ。さすがに愚鈍な男たちも、感
じ取ったらしい。たが悲しむべきことに、男たちにとって行動を司る最も基本的
ものは「欲望」であった。目の前に存在する彼女を、己の生命にとって危険なも
のとして認識するより先に、性的欲望の対象として捉えていたのだった。

「へへっ、な、なんだ………意外と話が分かるじゃんか」
 彼女の言葉の意味を誤って理解した男の口元が緩む。
「じゃ、よ。こんな公園で、ってのもナンだからさ。俺、いいとこ、知ってんだ
よ。な、一緒に行こうぜ」
 ニット帽の男が、再び彼女の肩へと手を伸ばす。しかしその手が彼女の肩に触
れることはなかった。
 突風。
 突然吹き抜けた強い風に、二人の男は倒れこむ。
 吹き抜けた―――と言うには、少々不自然な風である。舞い上がった木の葉が、
その不自然な軌道を浮かび上がらせていた。
 螺旋。風は彼女を中心に、螺旋の渦を描いて吹き抜けたのだった。
「行き先は決まっている」
 男たちを見下し彼女は言った。その声は恐ろしく冷たい響きを持っていた。こ
の頃になり、男たちはようやく彼女の尋常ならざる様子に気づく。
「お、おい………待てよ。金、金だろう。持ってるぜ、ほら、これやるから」
 いきなり焼けたアスファルトへ落とされた芋虫のように身を捩り、茶髪の男が
ズボンの後ろのポケットから財布を取り出す。相当な厚みがある。数十万円単位
の金が入っていそうだ。
 しかし彼女は財布に対し、特に一瞥をくれることもなかった。彼女はいま、金
を必要としている。あの青年に近づき、自然な形で彼の心の奥底にあるものを探
り出すためにも金を欲していた。だが、慌てて奪わずともよい。男たちを片づけ
た後、ゆっくりと頂けばいい。
「行き先は、地獄だ」
 言い放った彼女の顔に笑みが浮かぶ。底知れぬ恍惚感が全身を駆け抜けて行っ
た。
 男たちは惚けた表情で彼女を見つめている。唐突な彼女の言葉の意味を解さな
かったのか、あるいは冗談だと思ったのであろうか。しかし彼らは自分たちの置
かれた、絶望的状況をすぐに知ることとなる。
 すうっ、と身体の横に伸ばされた腕。黒いコートの袖の先、白い手が闇に浮か
ぶ。
 目を瞬かせるニット帽の男。痴呆のように開いた口が閉じなくなった茶髪の男。
 彼らの目の前で起きているのは、SFXを駆使したホラー映画の中でしか登場
することのない光景だった。
 ゆらゆらと、陽炎越しに見るかのように、彼女の左半身だけが歪む。もちろん、
それが偽りの身体であると、男たちは知らない。歪んで形を失った半身は赤く色
を変え、まるで血が流れるようにして、彼女の右手へと移動をする。そしてそれ
はそこで再び形を成す。一振りの巨大な鎌へと。
 血の海の中、ビルほどもある化物蛆虫を葬った彼女の武器である。たかだか人
間の男二人を始末するのには充分過ぎる、いや余るものだった。まして男たちは
限度を超えた恐怖に、身体の自由を失っていた。ゆっくりと行動を執る彼女に対
し、男たちにその場から逃げ出す時間的な余裕は充分あったはずである。それに
も関わらず男たちは操演者を失ったマリオネットの如く、地に転がり、呆然と彼
女を見つめていたのだった。たとえ身体の自由が利いていたとしても、男たちが
逃げ出すのを許す気など、彼女にはなかった。
 鎌の柄を握る手に、少し力を入れる。冷たく、確かな感触が伝わって来る。鎌
を振るい男たちの命を絶つ瞬間を思うと、彼女は恍惚とした気分になった。今、
改めて実感する。やはり自分は悪魔の眷属なのだと。恐怖に引きつる男たちの表
情が、彼女を心地よくさせる。動かぬ手足を必死に動かし、わずか一ミリにも満
たない後ずさりをする男たちが、あまりにも滑稽で吹き出してしまいそうだ。
 殺すことは簡単である。それより、死までの時間を長引かせることで、男たち
により多くの恐怖を与えることが楽しかった。しかし彼女にとって、男たちの殺
害が本来の目的ではない。「成すべき事を成す」ための、ほんのついでに過ぎな
い。ここで時間を掛け、万が一にでも他の誰かに見られたりすれば面倒だ。もっ
ともいま完全に彼女の支配する空間と化したこの公園に、無関係な第三者が入る
のは不可能な筈である。しかしリスクは少ないに越したことはない。
 すうっ、と軽い動きで、鎌を背後へと引く。次の瞬間、勢い良く振るうために。
「ふふっ」
 彼女は背中に熱を感じ、微笑する。彼女の意思に呼応し、鎌が熱を帯び始めて
いたのだ。それは温かいと表現される程度のものではない。生身の身体であれば、
鎌を持つ彼女すら無事ではいられないほどの高温にまで達していた。
 数秒後、繰り出された鎌はその熱を以って男たちを焼き尽くし、灰すら残さな
いであろう。それからは二度と、彼女が男たちを思い出すことはない。人が三年
前の夏、潰した蚊を記憶に留めてはいないのと同じように。

 だがその瞬間は訪れない。振り上げられた鎌はもう一分近く、彼女の背中でそ
の位置を保ち続けていた。
「ぐっ」
 噛み締めた奥歯から、くぐもった声が漏れる。
 躊躇しているわけではない。躊躇するはずがない。しかし鎌は彼女の意思に反
し、その場から一ミリたりとも動こうとはしないのだ。
 鎌を握る手に、更なる力を込める。が、結果は変わらない。
「おのれ、糞が」
 誰に対して吐いたのか、彼女自身、意識していた訳ではない。汚い言葉が口か
ら零れ出る。
 どれほどの時間が過ぎただろうか。長くも感じられたが、実際には三分と経っ
てはいないだろう。しかし地べたを這いずり回ることさえ敵わなかった男たちに、
生き延びる機会を与えるには充分な時間だったようだ。ほんの少し前まで、ミリ
単位さえ思うようにならなかった後ずさりが、今ではセンチ単位にまで及んでい
る。そればかりか、身体を起こそうと懸命に手足へ力を入れている。このままで
は、あとわずかな時間でその努力が報われてしまうだろう。
「させるものか」

 今度は穏やかなものだった。先ほどの言葉の中には見えていた焦りが、再度開
かれた彼女の唇からは消えていた。
 くくっ、と、まだ滑らかと表現するには程遠い動きであったが、鎌を握る腕が
前へと進み始める。これならば男たちが身体の機能を取り戻し、逃げるよりも先
にその命を絶つことが出来る。彼女がそう確信した時だった。
(………ちが………)
 誰かの声が聞こえた。
 もちろん彼女のものではない。まして男たちのものでもない。別の誰か、女性
のようであった。どこかで聞き覚えのある声ではあったが、詮索は鎌を振り終え
た後でいい。
(の………成すべ…は……じゃない……)
 再び声がする。
 それと同時に、彼女の目に映る全てが白一色に染まった。
 強い光が彼女の視界を遮ったのだった。
 それが声の主の仕業と、彼女が考えるのは自然なことであろう。視界を遮られ、
男たちの姿を見失ってしまったが、慌てる必要はない。多少、動きを取り戻しつ
つあったとはいえ、彼女の鎌は、確実に男たちを捉えようとしていたのだ。繰り
出した鎌が目標に達するまで、瞬きに要する時間ほども掛かりはしない。それこ
そ、風よりも速い動きをしないかぎり、男たちが難を逃れる道理はない。



 しかし鎌は空を切る。
 光が消え、暗闇が帰った中で彼女の瞳に映ったものは、自分の右腕だった。光
が消えると同時に、鎌も消えていた。そればかりか、男たちの姿さえ残っていな
い。
 ゆっくりと周囲を見渡してみる。やはり男たちの姿はない。近くの樹木やベン
チといった場所に姿を隠したのかとも思われたが、その気配は感じられない。悪
魔の眷属たる能力を使い公園内を隈なく探ってみても、どこにも男たちが潜んで
いる気配はなかった。
 しばらく、彼女はその場に立ち尽くす。焦りはない。
 逃げた男たちが彼女のことを誰かに話したところで、まともに耳を傾ける者は
ないだろう。万一、仲間を引き連れ、再び彼女の前に現れようとも、それは脅威
となり得ない。あの程度の男たちであれば、二人が百人、千人になったとしても
大差ない。もっともあの男たちに、たとえ軍隊の後ろ盾を得たとしても、もう一
度彼女の前に立つ度胸があるとは思えない。
 いま彼女が考えているのは、あの声の主についてであった。
「ふん、そうか」
 どこかで聞き覚えのある声だと感じていたが、ようやく思い当たった。
 青年と初めて出会ったとき、聞こえた声である。
 あの時は、漠然と「聞こえたような気がした」だけの声であったが、今度は確
実に彼女の耳が捉えている。
 どうやら声の主は少なくとも、青年と出会ったときから先ほどまでの間彼女を
監視していたものと思われる。彼女に気取られることもなく。いや、あるいは監
視はいまもなお続いているのかも知れない。
 それはとてつもなく不快極まりない想像であった。
 たったいま妨害を受けたばかりである。声の主が彼女の味方であるとは到底考
えらない。他の何者が彼女の前に立ち塞がったところで、それを脅威と思いはし
ないが、この声の主だけは違う。もしこの世に彼女の「成すべき事を成す」ため、
妨げになる者があるとしたなら、それはあの声の主のみ。彼女はそう直感してい
た。
「何者かは知らぬが、これ以上邪魔をするのならば、ただではおかない」
 背後に何者かの気配を感じ、振り返った彼女は恫喝の言葉を放つ。しかし誰も
いない。代わりに彼女は地面の上に、何か白いものを見つけた。
「なんだ?」
 白いものの正体を確認するため、歩を進めようとした時であった。それまで闇
と、闇を支配する彼女に遠慮してか、止んでいた風吹き抜ける。風に煽られた白
いものは、宙に舞い、軽やかな動きで彼女の元へと向かって来た。
 彼女は両の手を、まるで水を掬い取ろうかとするような形で、前へ差し出す。
 手乗りの小鳥。
 もしその様子を見る第三者があったとするなら、そんなものを連想したであろ
う。宙を舞う白いそれは、自らの意思を持つ生き物の如く、彼女の掌の上へと降
り立った。
 一枚の羽根であった。
 彼女は根元を指で摘み、それを外灯にかざして見る。
 白く細い、無数の筋が光を受け、きらきらと輝いた。
 美しい。
 血の海の中で目覚めてからの記憶しかない彼女にとって、それは初めての感情
であった。
 どんな鳥の羽根であろう。小さなものではない。街中で見られる大型の鳥とい
えば、鳩や鴉となろうが、羽根はもっと大きい。あるいはどこからか迷い込んだ
鷹のものだろうか。鳥についてさしたる知識を持たない彼女であったが、それで
もまだこの羽根の大きさには足りなく思えた。
 天使。
 ふと浮かんだ一つの単語に、彼女は首を横へ振る。
 馬鹿げている。夢見がちな乙女の空想でもあるまいし、天使などいうものが実
在する訳がない。ほんの一瞬でも、愚かしい発想をしてしまった自分が滑稽で、
彼女の口元に笑みが浮かんでいた。
 彼女にとって、悪魔は当然の如くこの世に在るものでも、天使は存在し得ない
ものなのであった。
「まあいい」
 その一言で全てが片付いてしまった。
 邪魔をしたのが何者であっても、これ以上関わって来るのなら何れ正体も知れ
よう。そうなれば、幾らでも対処のしよう、始末のしようもあるだろう。
 そう考えた彼女の頭の中からはもう、逃げた男たちのことも、羽根の持ち主へ
の興味も完全に消え失せていた。



 彼女は苛立っていた。
 運がいい。ついている。そう考えれば、もっと楽な気持ちにもなれただろう。
しかし、こうも物事が思うように進むと、却ってそれが面白くない。

 公園を後にした彼女は、その手に羽根を持ったままであることに気がついた。
すぐに片手で折って捨てようとした。が、そうはしなかった。
 何かの役に立つかも知れない。天使の存在こそは否定したが、この羽根は彼女
を妨害・監視する者が落としていった可能性もある。いずれその者を見つけ出す
ための、ヒントとも成り得る。と、これは後から自分を納得させるためにつけた
理屈だった。本当のところは、理由もなくただ捨てられなかったのだ。
 彼女は羽根をコートの内ポケットへとしまう。と、その時彼女はポケットの中
に他の何かがあるのに気づく。羽根をしまった手が、冷たく固いものを掴む。内
ポケットから抜いた拳を広げてみると、それは小さな鍵であった。どうやらコイ
ンロッカーの鍵であるようだ。二桁の数字が記されたプレートが付いている。
 当然、彼女はその鍵に覚えがなかった。もっとも血の海に裸で漂っていた時か
らの記憶しかない彼女には、いま身に着けているもの一切に覚えがない。これま
で、彼女を人の世へと送り出した城の主が与えたものだろう、とその程度にしか
思っていなかった。しかしたとえあれが「悪魔の王」だとしても、無から有を生
み出すことが可能だとは考え難い。だとするならば、このコートには彼女以前に
所有者がいたとしても不思議のない話である。鍵はおそらく、その所有者のもの
であろう。
 彼女はコインロッカーを探して見ることにした。
 あるいは、コートの前所有者も彼女と同類の者なのかも知れない。彼女と同じ
ように「成すべき事を成す」ため、人の世に現れた者。ならばこの鍵に合うロッ
カーには、彼女が目的を果たすにあたり、役に立つものがあるかも知れない。そ
う考えたのだ。
 だが、コインロッカーがこの世にどれほどの数、あるのだろうか。
 いや、この街と限定しても数十では済まないだろう。ましてこの街にあるとい
う根拠は何もない。ところが、である。それはいとも容易く見つかった。
 それは彼女がこの街で最初に目にした交差点から程近い、駅にあった。改札口
の脇、証明写真の機械横に並んだロッカー群の一つが、その鍵と一致したのだっ
た。
 思案や、迷う、といったことは全くない。ただなんとなく足を運んだ場所のコ
インロッカーが、彼女の持つ鍵と合ったのだ。それもまた、「成すべき事を成す」
ため、頭の奥底に刷り込まれていた記憶によるものだろう。彼女はそう理解しよ
うとした。
 差し込んだ鍵は簡単に回る。料金の不足はない。もしこのコインロッカーを、
彼女の前に「成すべき事を成す」ためこの街にやって来た者が使用していたのな
らば、その者がこの地を去って、いくらも時間が経っていないということだろう。
 コインロッカーから出て来たのは、通帳と印鑑、キャッシュカードの三点であ
った。
 通帳を開き、残金の確認をする。大金ではないが、数日、この地に滞在するに
は充分な額がある。と、そこで彼女は合点のいかない事実に気づいた。通帳に記
されているのは入金ばかりで、引き出しの記録が一切ないのだ。しかも最後の入
金は随分昔になっている。コインロッカーの中身を手にした彼女は、その足で近
くのコンビニエンスストアーへ向かった。そこのATMでカードを使い、口座の
残高を確認するためである。
 画面の指示に従い、四桁の暗証番号を思いつくまま適当に入力した。少しばか
りの待ち時間は要したものの、機械は問題なく彼女の操作を遂行すべく作動し始
める。そのことに驚きはない。コインロッカーが容易く見つかった時点で、これ
は自分のために用意されたものだと彼女は考えていた。暗証番号を適当に入力し
たのも、それを再確認するためであった。ほどなくして機械が示して来た口座の
残高は、通帳に記されたものと一致した。
 それは彼女を不快にさせる。
 コインロッカーの発見、適当に押した暗証番号。
 これらのことから、この口座は予め何者かが彼女のために用意したものと推測
出来る。それが最初の予想通り、彼女の前任者であるなら問題はない。しかし引
き出しの記録がない以上、彼女の前任者という考えは難しくなった。しかも最後
の記録が数年前というのも得心がいかない。少なくともこのカード等がコインロ
ッカーに入れられたのは、ごく最近であるのは間違いないのだから。
 では、一体何者が?
 地獄の王が銀行口座を開設する姿など考えられない。だが他の心当たりなど、
彼女にあろう筈もない。
 ―――あるいは。と、彼女は思う。
 公園で男たちの始末を妨害した何者かが、彼女に与えたものなのだろうか。妨
害を受けた直後、鍵に気がつき、ここまで来た流れを思えば、その何者かに導か
れたようにも見える。いや、しかしそれこそ考えられない話である。一度邪魔を
しておきながら、次は彼女の手助けをするなどとは、不自然過ぎる。
 考えながらも、彼女の手は休むことなく次の作業を終了させていた。やがて機
械は、彼女の希望した金額を吐き出す。
 当面必要な現金を手に入れ、彼女はコンビニエンスストアーを後にした。口座
の元の所有者が誰であろうと、いまこうして彼女は現金を手にした。これで人間
として社会に潜み、青年に近づくという、「成すべき事を成す」ため準備に取り
掛かれる。急ぐことはない。妨害する物が在るなら、ゆっくりと正体を暴き始末
すればいい。
 だが彼女は忘れていた。
 いや、考えつくことが出来なかった。
 彼女の手に渡った銀行口座の、元の所有者についてもう一つ可能性があること
に。



 まるで耳が自分のものでは、なくなってしまったようだ。
 吹き荒ぶ風が、街路樹の枝を激しく揺すり、けたたましいと表すのに不足ない
音を立てる。冬の最中に在っても、まだ葉を残している木々の揺さぶられる音は、
常軌を逸した喧騒を生む。おそらく、この葉も夜が明ける前には全て落ち切るこ
とだろう。
 風の冷たさは限度を超え、耳が感じるものは痛さとなっていた。いや、痛さも
超え、もう耳の感覚は失われつつある。しかしまた、最も感覚を刺激されている
のも、耳であった。
 この日の寒波は、数年に一度という強い勢力を持つらしい。今朝方、テレビの
中で繰り返し強調していた気象予報士の言葉も、大げさではなかったようだ。
 強い風が吹く度、腕にぶら下げた白いビニールの買い物袋が飛ばされ掛けてし
まう。そのつど足を取られそうになる自分に、青年は苦笑した。以前テレビで見
た、音速を超える車がブレーキを掛けるのにパラシュートを使う姿と、自分と重
ねていたのだった。
 袋は重いものでもないのだが、中身のサイズに対してかなり大き目だったため、
風を受け飛ばされそうになる力も相当に強くなる。
「これじゃ、部屋に着く前に、本当に飛ばされるかもな」
 買い物袋だけではなく、一緒に自分が飛ばされていく場面を想像し、青年はつ
いに声を出して笑ってしまう。風の音に隠され、夜の街に響き渡るような声では
なかったが、自分自身を驚かせるのには充分であった。
 笑ってはいけない。小さく呟いた。
 口元をぐっと引き締める。笑うのは、その必要があるとき。他人に対し、自分
を愚か者と思わせるためだけでいい。心の中で己に言い聞かせながら、青年はふ
と昨日逢った少女を思い出していた。
 あの娘には、本当の笑顔を見せてしまった。そもそも性質の悪い連中に絡まれ
た少女を、なぜ助けようという気を起こしたのだろう。目的を達する日まで、目
立たず、他人とは関わらないと決めていたはずのなに。現にいままでは、そうし
て来たではないか。それが、あのときに限って無視出来なかった。
 まあ、いい。やってしまったことは仕方ない。昨日のことは忘れよう。
 襟を立てコートのジッパーを限界まで引き上げる。風に飛ばされないよう、袋
を腕に巻きつけた。中身はコンビニエンスストアーで買ったカップ麺とにぎり飯
が一つ。麺を食べ終えた後、にぎり飯を残ったスープにつけ、おじやのようにす
る。そうやって食べるのが、青年の数少ない楽しみの一つだった。
 一段と強い風が吹いた。枯れ葉や小石が顔に当たって痛い。早く部屋に帰って
熱いお湯をカップ麺に注ごう。それを食べれば身体も温まる。青年は家路を急ぐ
足を速めた。

 大通りには今風の洒落た造りの建物が目立つが、一歩路地に足を踏み入れた途
端、突然時代が逆行する場所があった。まるでフォークソング全盛期を思わせる
街並みが現れる。情緒のある、と言えば聞こえがいいが、その実、時代の波に取
り残されただけのことである。青年のアパートは、そんな一角に建っていた。
 そのまま時代劇の撮影に使えそうな古い店構えの酒屋。その横、やや奥まった
所に木の引き戸があり、そこを潜って五・六歩進むとアパートの玄関へと到達す
る。昼間は木戸と玄関の鍵は開けられているのだが、さすがに夜は無用心という
ことで施錠されていた。しかし今夜は先に帰宅した住人が掛け忘れたのか、木戸
の鍵は掛かっていなかった。
 開錠のため手にしていた鍵を拳に握り締めたまま、いま抜けてきた木戸を施錠
する。当然内側からは鍵を使わず錠を掛けられる訳だが、まだ玄関、そして自室
と使うべき場所が残っている。従って鍵をいちいちポケットに仕舞うのは面倒な
のだ。
 薄暗い中、手にした鍵に目を遣りながら歩いたので、前方への注意が疎かにっ
ていた。そのため、玄関前に立つ人影に気づいたのは、お互いの息が直接顔に掛
かるほどまでに接近してからのことであった。
「うおっと」
 自分でも情けないと思うような声が出る。複数の人間が住むアパートだ。玄関
先で他の住人と鉢合わせになるのも、そう珍しくはない。しかし手元の鍵に気を
取られていたとはいえども、そこに在った人影は青年にとってあまりにも予想外
であった。
「驚かせたか。すまない」
 些かぶっきらぼうな口調で、相手の方から先に詫びて来た。どこかで聞き覚え
のある、女の声だ。
「いえ、こちらこそちゃんと前を見ていなかったものですから………変な声を出
してしまって」
 誰か他の住人の恋人だろうか。このアパートを女の人が訪ねて来るのはあまり
記憶にないな、そう考えながら青年は初めて女性の顔を直視する。
「あっ、君は」
 声に聞き覚えのあるはずだ。そこに立っていたのは、昨日、駅前の交差点で出
会ったあの少女だったのだ。
「ずいぶんと、遅かったのだな」
「ん、えっ、ああ。残業で」
 昨日の少女が、再び目の前に現れた。そのことに酷く狼狽した青年は、自分の
声が震えるのを感じていた。
 ちらりと、腕時計に目を遣る。間もなく午後十一時になろうかとしていた。
「君は、なんでここに?」
「お前を待っていた」
 相変わらず少女の言葉遣いは乱暴なものであった。しかし昨日に比べれば、少
し口調は柔らかく感じられる。
「ぼくを?」
「ん」
 突然突き出された彼女の手には、大きな紙袋があった。青年はそれを、反射的
に受け取る。ずしりとした重みがあった。
「昨日の礼だ。迷惑だったら、捨ててくれ」
 青年の手に紙袋が渡るとほぼ同時に、彼女はもうその場を去ろうと歩き始めて
いた。
「ちょっと待って。君、家は近いの? 送っていくよ」
「いらん」
 無愛想な返事をよこす彼女の姿は、既に木戸の向こうへと消えていた。
「そうはいかないよ」
 持っていたコンビニエンスストアーの袋を、紙袋へと押し込む。その際見えた
紙袋の中身は、大きな段重ねの弁当箱だった。




#275/598 ●長編    *** コメント #274 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:49  (353)
白き翼を持つ悪魔【04】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:34 修正 第3版
 すぐに走って追いかけたはずではあったが、彼女の足は思いの外速かった。あ
と三秒ほど遅れていたなら、彼女がどの角を曲がったのか、完全に見失っていた
だろう。もっとも、追いつきはしたものの実際に彼女と歩いた時間は二分にも満
たない。青年のアパートに程近い、モダンな造りの建物。それが彼女のアパート
なのだと言う。
 アパートと称されてはいるが、青年の住いとはかなり異なる。青年のアパート
は築三十年を超える木造であったが、こちらは近年急成長を遂げた不動産会社が
経営する最新モデルの独身者用住宅だった。今年の春先に出来たばかりで、確か
週単位、月単位での入居も可能なものである。
「ここまでで、充分だろう。早く帰れ」
 木戸を抜けてから、初めて聞く彼女の声に、青年は自分が阿呆のように玄関先
で立ち尽くしていることに気づいた。
「これ、ありがとう」
 弁当箱の入った紙袋を持ち上げて声を掛けるが、彼女は振り向かず玄関へと入
っていく。
「あの、ぼくは笠原健司。君は?」
 名前を尋ねようとする青年の言葉は、その耳に届かなかったのか、彼女の姿は
アパートの中へと消えて行った。か、と思えたが寸前で足を止める。そして。
「田嶋優希だ」
 背中を向けたまま短く答えると、今度は本当にアパートの中へ消えた。




 部屋に戻った彼女が最初にした行動は、誰もがそうであるように、明かりを着
けることだった。もっとも彼女にとって、明かりなどなくても不自由はない。た
だ目的を達するその日まで、極力人間らしく振舞おうと意識的に執った行動であ
った。
 六畳ほどのリビングに、さして広くはないダイニングキッチン、そしてトイレ
とバスルーム。テレビや冷蔵庫、オーブン電子レンジ、炊飯器にエアコン。およ
そ標準的な生活を送るに必要と思われるものは、一通り部屋に備え付けられてい
た。当面ここが、彼女の「成すべき事を成す」ための足場となる。
 田嶋優希―――青年に告げた、そしてこの部屋を借りるに際し名乗った名前で
ある。それが昨夜手に入れたカードの名義人でもある。あのカードが彼女のため
に用意されたものであるとしたなら、その所有者の名前を使うことが一番無難で
あろう。
 今日のところは上手くいった。そう考えてよさそうだ。たかだか弁当の一つで、
笠原健司と名乗った青年の心に入り込めたとまでは思わない。だが、きっかけく
らいには出来よう。
 コートを脱ぎ、クローゼットへ入れると彼女は強い空腹感を覚えた。それは血
の海の中で目覚めて以来、初めての感覚である。
 悪魔の眷属とはいえども、食べなければ生きていけないのだろうか。しかし生
者とは思えない自分が食事を摂らず、餓死する事態などあり得るのだろうか。そ
んなことを考えながら、キッチンへと向かう。
 悪魔は人の魂を喰らう。どこかでそんな話を聞いた気もする。しかしいま彼女
が欲しているのは、人の魂ではない。彼女の胃が求めていたものは、ガスコンロ
の上にあった。鈍く銀色に輝く鍋の蓋を開けると、白色の湯気が勢い良く立ち上
る。まだ充分に温かそうだ。ホーロー引きの鍋の中身はクリームシチュー。それ
ほど難しい料理ではないとはいえ、出来栄えには自信がある。少なくとも、彼女
の舌が人間とよほどかけ離れた味覚を持っているのでない限り、作りながら再三
行った味見には満足していた。あるいは、半欠けの姿になる以前、作った経験が
あるのかも知れない。
 炊飯器にも一膳分程度のご飯が残っている。他にも冷凍物を中心に、弁当箱に
入りきらなかったおかずが残っている。彼女一人の腹を満たすのに、不足ない。

 エアコンより出る温風は、ほど良く部屋を暖めていた。食事の支度をするため
に動いたことで、却って寒さを感じた彼女が着けたのだ。
 さらに食事を済ませると、身体の中からも温まってきた。
 まだこの街へきて二日目だというのに、妙に人間臭くなってしまったものだ。
しかしその方が都合いいこともあるだろう。それより明日以降、自分はどう動く
べきか、考えなくてはならない。
 そう思いながらも、彼女の意識は強く、眠りの世界へと導かれて行った。



 中途半端に閉められたカーテンの隙間より射し込む光が、青年を優しく目覚め
させた。耳には雀たちの囀りが聞こえる。窓の外の電線に目を遣ると、羽を膨ら
ませた一羽の雀が毛繕いをしていた。その横で、もう一羽の雀が落ち着かない様
子で毛繕いする雀にちょっかいを出してみたり、電線の上を横に行ったり来たり
している。夫婦なのか、あるいは母子なのだろうか。
 視線を枕元へ移すと、今朝は役目を免除された目覚まし時計が七時を指してい
る。
 緩慢な動作で半身を起こし、右手で頭を掻いた後、自分の顔を二度三度と叩い
てみる。寝ぼけた意識を覚まそうというより、感じた違和感を正そうとしての行
動だった。
 ああ、そうか、と独り呟く。
 毎晩の如く見ていた夢を見なかったのだ。
 夢。ある日を境に始まったその夢は、笠原健司にとっての、生きる原動力にな
っていた。ただし、それは健司を負の方向へと導くものでもある。
 悪夢、と呼んでもいい夢を見ずに目覚めた朝。心地よい朝といってもいいはず
だった。しかし健司は決して爽やかな気分にはなれない。清々しさ、それは健司
が意識的に避けていたものである。
 視線は狭い台所へと移動する。そこには昨夜のうちに洗っておいた黒い段重ね
の弁当箱があった。その弁当を作った少女こそが、こんな複雑な気持ちを健司に
与えた原因である。

 十分近くはそうしていただろう。
 その名を聞いた後、健司は彼女のアパート前で立ち尽くしてした。健司を我に
返したのは、アパートに帰宅して来た女性住人の怪訝そうな視線であった。気づ
いて見れば、アパートは女性専用となっている。あるいはいまの住人に、変質者
やストーカーの類と思われてしまったかも知れない。
 再び自分のアパートへと向かう短い帰路の中、健司の思考は激しく波打ってい
った。それは自室に着いてからもなお続く。
 田嶋優希。
 それは健司の知っている、いや知っていた女性と同じ名前であったのだ。それ
もただ単に、「知人」と括られる程度に知っていたのではない。健司にとり、田
嶋優希はその名を耳にしただけで、感情を大きく揺さぶられる存在だった。
 まさか彼女はそれを知って、名前を偽ったのだろうか。だが、そんなことをし
て彼女に何の得があるというのだろう。何より、少々言葉遣いこそ悪いが、人を
騙したりからかったりをするような性格には見えない。
 思えば。
 彼女の名を知ったいまにして思えば、である。
 性質の悪そうな連中に絡まれている彼女を見掛けたとき、つい助けに入ってし
まったのは「田嶋優希」の面影を感じ取ったためではないだろうか。
「偶然、偶然だよ」
 独りの部屋で、わざわざ声に出して自分を納得させる。
 考えてみれば、田嶋優希などという名前は、取り立てて珍しい名前でもない。
たまたま同姓同名の女性と出会ってしまったからといって、驚くこともない。
 そう考えることで、健司は少し落ち着きを取り戻した。落ち着いたことで、自
分が空腹であったと気がつく。
「せっかくだから」
 カップ麺は保存が利く。握り飯は明日の朝食にしてもいい。それよりも、わざ
わざ彼女が手間をかけて作ってくれたのだから、その弁当を食べよう。
 健司は紙袋から段重ねになった弁当箱を出し、開けた。
 蓋を開けると同時に、息を飲む。わずかな間ではあったが、まるで時間が止ま
ってしまったかのように健司は動けなくなった。それから、ややあって、目から
止めどなく涙が溢れて来る。
 胡麻の掛かった白いご飯。男言葉を使う少女からは想像が付かない、彩りを気
にした食材の配置。
 しかし健司の涙を誘ったのはそれらのものではない。
 およそ弁当にするには、あまりそぐわない食材。クリームシチューだった。
 それは健司の知る「田嶋優希」の得意な料理でもあった。
 弁当箱には箸とまるで幼子が使うような、小さなスプーンが添えられていた。
健司はスプーンを手にし、恐る恐るシチューを口へ運ぶ。白く湯気を立てたクリ
ームシチューの温かさと甘い味が口一杯に広がる。懐かしい味だった。それは健
司の古い記憶にある味と一致していた。
 健司はついに嗚咽を上げて泣いた。

 大きく吸い込んだ息を、ゆっくりと吐く。同じ行為を五度、繰り返した。それ
から布団の上で胡座を掻き、目を閉じる。
 昨夜のことを思い出し、頭の中で一つ一つ整理してゆく。その結果、健司は全
てが偶然であると結論付けた。
 この世に同姓同名の人物など、いくらでもいる。そう、試しに電話帳を開いて
みれば同姓同名が、どれほど並んでいるだろう。
 クリームシチューもそうだ。市販されている素を使うのであれば、誰が作った
にしても味に大差は付かないのではないか。いや仮に多少の違いがあったとして
も、先に名前のことで動揺していた健司に、その差は感じ取れなかった。ただそ
れだけのこと。
「とにかく、あの子とはあまり関わらないほうがいいな」
 健司の言葉は彼女を訝しんだり、嫌ったりしてのものではない。むしろ、まだ
ほんの微かにではあったが、好ましく感じていたからこそのものであった。関わ
ることで、これから健司の成そうとすることに巻き込みたくはない、と考えてで
あった。



 計画した上で、であるならそれは偶然ではない。だが、あくまでも偶然を装っ
て行う。
 彼女が青年と出会ったのは、一昨日と同じ駅に程近い交差点で、信号待ちをし
ている時であった。
「あっ」
「おまえは」
 ほとんど同時に二人の声が上がった。
 お互い驚いたような顔をするが、当然彼女のほうは芝居である。初めからこの
場所で会うように計画していたのだから。
「昨日はありがとう。美味しかったよ」
 歩行者用信号が青へと変わり、二人は並んで歩き出す。いや、正しくは彼女の
ほうが半歩ほど先行する。
「そうか」
「あの弁当箱、どうしようか」
 些か青年の言葉からは、よそよそしさが感じられた。出来るだけ彼女との関わ
りを避けたいという気持ちの現れだろう。しかしこれは彼女の予測の範囲であり、
むしろ好ましい反応でもあった。それだけ青年が彼女を意識している証でもある
のだから。
 もちろんここで関わりを断つつもりなど、彼女にはない。だからこそ弁当箱が
青年の元に残るようにしたのだ。生真面目な青年は、必ずそれを返そうとする。
「そのまま使ってもらっても構わないが」
「えっ、いや、でも」
「明日、取りにいく。都合は?」
 人の流れに乗り、思ったより早く駅に到達した。
「あ、ああ。僕は休みだからいつでも」
「じゃ、夕方、六時」
 改札口の前を通り過ぎ、彼女はそのまま駅の反対側へ抜けようとする。そこへ
後ろから声が掛かった。
「君、たじ…まさん、電車に乗らないの」
「バスだ」
 嘘である。学生でもなく、勤めているわけでもない彼女に通うべきところなど
ない。青年との約束を取り付けたことで、今朝の目的は果たされた。
 駅を抜け、五十メートルほど歩き、彼女はようやく足を止める。振り返ると、
こちら側には高校があるのだろう。駅から出てくる乗客に、詰め襟姿が目立った。
 確認はしなかったが青年は改札口を通り、電車に乗ったようだ。
「明日か、それまでは暇になるな」
 ふざけ合って走る学生の一人が肩にぶつかって行ったが、気にも留めず彼女は
呟く。
 今日、ではなく明日にしたのは、その日その時間に会えば面白いことになる。
そう予感したからであった。そしてそれは必ず、彼女の「成すべき事を成す」大
きなきっかけとなる。それはもう予感というより、確信に近いものであった。
「ちょっと待ってよ、ゆうきちゃん」
 どこかで子どもの声がした。思わず彼女は周囲を見渡す。やや離れたところで、
懸命に走る男の子を見つけることが出来た。小学二、三年生といったところか。
背負ったランドセルが、かたかたと鳴って賑やかだ。
 男の子の走る先に目を遣ると、同じ年頃と思しき女の子が腰に手を充て、少々
生意気なポーズを取っている。この女の子が「ゆうきちゃん」なのだろう。
 彼女はつい、吹き出してしまった。
 子どもたちの様子にではない。自分に対して、である。
 男の子の声を聞いた瞬間、自分が呼ばれているかのように錯覚してしまった。
彼女が田嶋優希を名乗ったのは先日からのことである。しかも青年の他には、部
屋を借りるに際して不動産屋の書類に書き入れただけだ。それ以外の人間から優
希と呼ばれるはずはない。まして彼女自身、その名にまだ馴染んでいないのに、
だ。
 そんな自分が滑稽で、おかしくてならない。人間に混じり、人間の世界で過ご
すことによって、その愚かさが自分にも影響してしまったのだろう。
 彼女は口元を引き締める。
 時間はいくらでもあるが、あまりゆっくりと構えていてはいられない。そう感
じていた。
「ゆうきちゃん、はやすぎるよ」
 追いついた男の子が、女の子へと抗議を試みる。
「あんたが遅すぎるの。せっかくわたしが迎えにいってあげてるのに、まーだね
てるなんて、あきれるわ」
 女の子には抗議を受け入れる気など、毛頭ないようだ。それどころか、さらに
早口でまくし立てる。
「ほらほら、いそがないと遅刻しちゃう。走るわよ、けんじ」
 走り去る子どもたちを見送りながらも、彼女の意識はその姿を捉えていない。
彼女の意識―――思考は女の子が最後に言った名前を聴覚が捉えた瞬間、五感を
停止させてしまった。
 「けんじ」と「ゆうき」
 これは偶然なのか。少しばかり、出来過ぎている。
 突然、何かを思い出して、彼女は子どもたちの走り去った方向へ視線を送った。
人混みに飲み込まれたのか、角を曲がったのか、もうその姿はどこにもない。し
かし見えなくなったはずの姿が彼女には見えた。いや、知っていたというのが正
しいのだろうか。

「えーっ、ぼくもう走れないよ」
「ごちゃごちゃいわないの」
 渋る男の子の手を引いて、女の子は走り出す。足には自信があった。同じ学年
の女の子にはもちろん、男の子たちにも徒競走で負けた覚えはない。そんな女の
子は、強引に男の子を自分のペースで走らせる。
 だが、男の子の手を引いていることで、どこかバランスが崩れていたのかも知
れない。あるいは注意力も散漫になっていたのだろう。
「きゃっ」
 何かに躓き、女の子は前へと倒れこむ。咄嗟に掴んでいた男の子の手を離し、
その手を突いて転ぶのを防ごうとする。しかし遅い。目の前が暗くなったかと思
うと、次の瞬間、強い衝撃が女の子を襲って来た。
「だいじょうぶ、ゆうきちゃん?」
 視界を暗くしていた地面から頭を上げると、そこには心配そうに女の子を覗き
込む男の子の顔があった。
 手を振り解いた後、女の子が転ぶと分かった男の子は、背中を掴んでそれを止
めようとした。けれど間に合わず、せめて慣性のままに女の子を踏みつけないよ
うにと、上を飛び越えて行ったのだと聞いたのは、それからずいぶん後になって
からだった。
「立てる? けがはしてない?」
「へいきよ、これくらい」
 痛みは感じていなかったが、それよりも転んでしまったという驚きで、誰の目
もなければ泣いていただろう。けれど男の子の手前、強がってしまう。本当は自
分の方が年下なのだが、いつも女の子は男の子に対して「姉」を気取っていた。
男の子の見ているところでは、プライドが先に立つ。
「いた………」
 立ち上がろうとすると、それまでなかった痛みを感じた。驚きのため鈍ってい
た神経が、転倒から時間を置き、その機能を取り戻し始めていたのだ。
「あっ、ひざ」
「えっ」
 男の子の言葉に促されるようにして、女の子は自分の膝へと視線を落とす。右
膝が擦りむけて、血が滲んでいた。
「う、うわん」
 堪えきれなくなって、女の子は声を上げて泣き出してしまう。
 血を見たことで、神経が活性化されたのだろう。痛みが一気に押し寄せて来た
のだ。痛みによってプライドは、脆くも崩れ去ってしまった。
「ど、どうしよう。おうちに戻って手当てしなきゃ」
 普段、気丈な女の子の涙に、男の子も狼狽しているようだ。そんな男の子に、
女の子は首を横に振って見せる。
「だめ………そしたら、ちこく……しちゃう」
 入学してから一度も、遅刻・欠席のないことも、女の子の自慢だった。泣きじ
ゃくりながらも、遅刻したくないという気持ちは強い。
「じゃ、じゃあ、保健室にいこう。先生には、ぼくがいっておくから。そしたら、
遅刻にならないだろ」
「もう、だめだよぉ。わたし、走れない………ちこく、だよ」
 遅刻、と口にした途端、痛みに悔しさと悲しさも加わり、女の子の涙は更に量
を増した。
「だいじょうぶ、ほら」
 男の子はくるりと背を向けて屈み込む。背中に乗れという合図だ。
 女の子は男の子の肩へと手を伸ばすが、途中で動きを止めてしまう。
「けんじには、むりだよう」
「だいじょうぶさ。これでも、ぼく、男だもん」
「えっ、あっ」
 躊躇う女の子を強引に背負い、男の子は立ち上がった。そして勢い良く走り出
す。
「ゆれるけど、けが、いたまない?」
 風を切って走る男の子の声は、ややくぐもって聞こえた。
「へいきだけど………」
「えっ」
「へ・い・き」
 聞き返されて、女の子は大きな声で答える。
 本当は男の子の走る振動が少し傷に響いた。しかし戸惑いと驚きは、痛みに勝
る。
 幼馴染として、二人は毎日のように顔を会わせていた。特に男の子は早くに父
親を亡くしたため、代わって母親が勤めに出るようになった。その間、男の子は
女の子の家に預けられていた。そのためお互いに家族と過ごす時間よりも、二人
でいる時間の方が長いくらいである。だから、女の子にしてみれば、男の子の性
格はよく承知しているつもりであった。
 気弱で自分の思っていることを、はっきりと言葉に出来ない。何をするときで
も、人の顔色を窺い自分から先に行動することがない。気の強い性格の女の子か
らは、いつも歯痒く見えた。実際の年齢とは逆に、手の掛かる弟のように思えて
いた。
 そんな男の子が、初めて逞しく見える。
「けんじって、男の子なんだ」
 ぽつりと呟く。
「えっ、どうしたの。やっぱり痛い?」
 女の子の独り言に男の子が足を止める。
「なに止まってんのよ。遅刻するでしょ。そしたら、けんじのこと、ゆるさない
からね」
 聞かれてしまったかも知れない。そんな恥ずかしさに、女の子は思いとは別の
態度をとってしまう。まるで馬を進めようとする騎手の如く、両足でぽん、と男
の子のわき腹を蹴った。
「わ、わかったよ」
 再び駆け出した男の子の背中で、女の子は風を心地よいと感じていた。

「なんだ、これは」
 通勤通学のピークは過ぎたようだ。気がつけば、行き交う人の数も少なくなっ
ている。
 青年の元に金の無心に来た女の時とは違う。彼女が意識的に子どもたちの後を、
その能力で追った訳ではなかった。それでは、何であったのか。彼女は暫しその
場に立ち尽くし、考え込んだ。過去を持たない彼女が、結果に至るまでには随分
と時間を要したが、それは思い出すという行動に近いと気づく。
 子どもたちのやり取りの中、彼女の意識は女の子のものと重なっていた。つま
りあの女の子が、幼い日の彼女の姿であったのだ。
「馬鹿げている」
 声にして、自らの導き出した結論を否定する。会社員風の中年男性が足を止め、
彼女を怪訝そうに見ていた。しかし彼女と目が合うと慌てて視線を逸らし、何事
もなかったかのように歩き去って行く。
 数分前、いまの中年男性と同じように、あの子どもたちは彼女の目の前を通り
過ぎて行ったのだ。それが彼女の、あるいは青年の過去の姿であろうはずもない。
 ふと彼女は自分の胸元が温かくなっていることに気がついた。ちょうど、女の
子が男の子の背で、その温もりを感じていたように。しかし自らを悪魔の眷属と
信じる彼女は、それを心の感じる温もりとは考えない。もっとも、確かにそれは
心などという抽象的な温かさではなく、もっと具体的なものであったのだが。
 胸元、コートの内ポケットへ手を入れると、その原因はすぐにみつかった。
 一本の白い羽根。先日、夜の公園で拾ったものである。手にしたそれは、微か
に熱を帯びていた。
「また貴様か………」
 誰とも知れぬ相手へ、毒づく。
 公園で彼女の企てを邪魔した何者かが、今度は子どもたちの幻影を見せたのだ
ろうか。確証などないが、他には考えられもしない。
 よかろう。信じてやるよ。
 彼女は思った。
 少なくとも彼女の成そうとしていることを、快く思わない存在があるのは確か
なようだ。信じてはいなかったが、悪魔に対立する存在といえば神か天使と相場
が決まっている。ならば、それを天使として認めてやろう。そう思ったのだ。
 彼女は手の中で羽根を幾重にも折り、丸めて行った。やがて羽根はすっかりと
拳の中へ収まってしまう。
 たとえ相手が天使であったとしても、臆する理由などない。
 まして光を放ってみたり、くだらない幻覚を見せるだけで、自らの姿は現さな
い相手である。その程度は、高が知れよう。
「見せてやるさ」
 彼女の言葉に応じるようにして、握った拳が熱を持つ。行き交う人々は誰も気
づかないが、もし誰かその拳に触れる者があれば、大きな火傷を負っていたであ
ろう。
 天使が何を望んでいるのかは知らない。
 彼女の目的を妨害したいのか、青年を救いたいのか。あるいは別の何かであろ
うか。いずれにしたところで、彼女の計画は進行中である。何者にも邪魔などさ
せるものか。
 彼女の唇の端が醜く歪み、怖気立つような笑みが浮かぶ。
 ゆっくりと拳を解くと、そこにはもう羽根の姿はない。代わりに黒い灰が零れ
落ち、風の中に消えて行った。




#276/598 ●長編    *** コメント #275 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:50  (388)
白き翼を持つ悪魔【05】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:36 修正 第2版


 憂鬱さと期待感の入り混じった複雑な心境であった。
 たいして物がある訳でもないが、それでも出来る限りの片づけはした。一度は
見られた部屋であるが、綺麗にしておくに越したことはないだろう。
 時計に目を遣れば、約束の時間まであと十分と迫っていた。
 こうやって準備を整え、来客を待つなどとは、いつ以来のことであろう。
 一昨日の朝から、健司の思考はどれほど激しく巡らされたことか。
 極力関わりを避けようと決意した直後であったが、彼女の言葉を断れなかった。
いや、関わりを避けるとは言いながら、心のどこかではこうなることを期待して
いたのかも知れない。
 やはり断ろう。そうだ、彼女の所に直接弁当箱を持って行けばいい。それで事
は済む。いや、しかし彼女のアパートは女性専用だ。身内でもなく、特に親しい
間柄でもない自分がのこのこと出向いていい場所でもないだろう。周りの住人、
そして彼女にも怪しまれるかも知れない。そもそもそどこであったにしても、女
性の一人暮らしする住まいに男が訪ねて行くというのは礼儀に反している。
 第三者に話したとしたら、「下らない」の一言で片づけられてしまうであろう
考えを、幾度となく繰り返す。
 健司自身まだ気づいていなかったが、その間ここ数年来彼を支配し続けていた
思考は、完全に忘れられていた。
 彼女が来たら、何を話せばいいだろう。いや、弁当箱を渡したら、早々に帰っ
てもらおう。しかし多分、彼女の顔を見てしまえば、早く帰ってくれとは言えな
いだろう。
 関わりを持つまいと思う一方、健司の中で彼女の存在は少しずつ、その大きさ
を増してゆく。それはかつて同じ名を持つ女性に対し、抱いていた感情にもどこ
か似ている。ただ、健司自身はそれを認めたくなかった。認めてしまえば、いつ
の日か、果たさなければならない誓いが失われてしまう。その自らへの誓いこそ
が、今日まで健司を支えてきたものなのだ。いまさら捨てられはしない。
 こんこん。
 軽く二回。健司の思いを中断させるかのように、部屋の戸がノックされた。
「いるか?」
 と、彼女の声。時計を見ると、時刻は約束の二分前であった。
「あ、鍵は開いてる………」
 言いながら健司は立ち上がり、戸を開けようとする。だが健司を待たず、戸は
訪問者の手によって開かれる。そしてそこには、相変わらずどこか不機嫌そうな
彼女の顔があった。
「ああ、弁当箱だよね。ちょっと待ってて」
 奥、と言うほど広くない部屋の、戸とは反対側に用意していた弁当箱を取るた
め、健司は踵を返す。裸で返すのも無礼かと、風呂敷に包んでおいたのだ。昔、
母に習った風呂敷の使い方が役に立った。
「後でいい。それより、キッチンを借りる」
 突然の申し出に戸惑う健司だったが、彼女の方はその返事を待たない。案内も
必要はない。戸を開けた目の前が、「キッチン」などという言葉が仰々しく思え
る、小さな台所であった。
 彼女は何やら少々大きめのリュックサックを背負っていた。台所に立つと狭い
場所で、窮屈そうにリュックサックを下ろす。
「この部屋には電子レンジがなかったから」
 そう言いながらリュックから取り出したのは、食品用のタッパーだった。健司
の位置から中身の確認は出来なかったが、食べ物であるのは間違いないだろう。
「温めなおすだけだ、時間は掛からない」
 彼女は手際よく、一つしかない小さな鍋に中身を移し変えて作業に取り掛かる。
 早々に帰ってもらう。その選択肢を言葉にする間は、与えられない。健司は呆
然と彼女の作業を見守るだけだった。

 程なくして、室内に懐かしく、空腹感を煽る香りが漂って来る。もう彼女に帰
ってもらう、そんな選択肢を健司が忘れてしまった時であった。
 どんどん、と彼女の背後で激しい音が響く。誰かが戸を叩いたのだ。
 続いて。
「ケンちゃん、助けてぇ」
 露骨なまでに媚びた声。更に、部屋の主の許可も得ないうちに、勢いよく戸が
開かれた。
「ケンちゃん、えっ、ああ?」
 磨りガラス越しに映る影を健司だと思っていたのだろう。彼女を見た来訪者は、
奇妙な声を発した。
「ああ、驚かせて悪い。今日はちょっと彼女が………あの、夕食を作ってくれる
って……ほら、この間、君も会ったろう」
 来訪者は健司のよく知る女であった。本来この女の前で健司は、作った自分を
演じる。しかし今日に限ってそれが上手く行かず、声が明るく響いてしまったこ
とに、健司自身は気がつかない。
「どうしたの、今日は?」
 聞かなくても女の目的は分かっている。前回訪ねて来た時も、彼女と鉢合わせ
ていたな、と健司は思い出していた。
「それが、お母さん、入院したのはいいんだけど、いろいろ検査したら………」
「浅ましいな、いい加減にしたらどうだ」
 女の言葉を遮ったのは彼女だった。
「なっ………」
 絶句しつつも、女は恐ろしい形相で彼女を睨む。その表情には男である健司も
怯んでしまうが、彼女は全く臆する様子もなく言葉を続けた。
「お前の母親は元気にしているはずだ。それでも話が本当だと言うのなら、入院
先とやらを教えてもらおうか? 電話で確認してやる」
 一瞬、女の顔から血の気が失せる。しかし間を置かず、今度は赤黒く変色して
行く。
「テメェ、フザケンジャネェゾ、ブッコロシテヤル」
 少し前までしなを作り、媚びた声色を出していたのと同じ女とは思い難い。怒
号、というよりその声は獣の咆哮にも似ていた。おそらく、狭いアパート中、い
や付近一帯に響き渡ったのではないだろうか。
 女は拳を握り、その腕を振り上げる。彼女を殴ろうとしているのは明らかだっ
た。
それは彼女にも分かったはずだが、避けようとする気配もない。
「ごめん、彼女、口は悪いけど………その悪気はないんだ」
 このままでは大事になってしまう。そう判断した健司は、二人の間に割って入
った。そのため、狭い入り口から廊下へと女を押し出す形になる。

 まだ慣れていないせいもあるが、彼女を名前で呼ばなかったのは、健司の知る
別の「田嶋優希」を女もまた知っていたからである。
「話は今度、彼女のいないときに聞くから」
 健司は小声で言いながら、左手を顔の前に持って行き、拝むような形を作った。
怒りで歪んでいた女の顔が、少しだけ平静さを取り戻したかに見えた。女にして
みれば金蔓である健司の前で、いつまでも取り乱しているのは得策でないと分か
っているのだろう。
「うん、ごめんなさい………ちょっと興奮しちゃって。そうね、また今度、お願
いするわ………まだ二・三日ぶんのお金なら、なんとかなるし」
 先ほどの話を、彼女に指摘された通り嘘であるとは認めない。それでもすぐに
いつものような、媚びた仕草へと瞬時に戻る姿は見事であった。
「私、帰るね。じゃ、また」
 そう言って背中を向けた女であったか、わずかに肩が震えているのは健司にも
見て取ることが出来た。しかし振り向く一瞬の間に、彼女へと飛ばされた視線に
まで、健司は気づくことがなかった。

 幸福感とは、実にささやかなことで得られるものである。
 騒ぎの後も彼女に動じた様子は全くなかった。あれから五分と経たないうちに、
座卓の上には流れるような手つきで、中身の盛り付けられた食器が並んで行く。
食器は以前、田舎の母親が送ってよこした物だが、実際に使用されるのは初めて
である。コンビニエンスストアーの弁当や惣菜が中心の食生活では、食器類に活
躍の場が与えられる機会などない。
 並べられた品々は、決してご馳走と呼べるほどに豪華なものではなかった。肉
じゃがにポテトサラダ、豆腐とワカメのみそ汁。そして湯気の立つご飯。白菜の
漬け物。今時、スーパーの惣菜コーナーやインスタント食品で入手可能なものば
かりである。
 あるいは要領のいい主婦であれば、購入して来た惣菜を容器だけ移し替え、さ
も自分が作ったかのように振舞うかも知れない。だが一口食してみれば、彼女の
用意した品々が出来合いのものでないことは、すぐに分かる。それは出来合いの
惣菜より、遥かに旨いという訳ではない。いやただ味の良し悪しのみを比較する
なら、出来合いの惣菜の方が上であるかも知れない。彼女の作ったものは、塩、
醤油、砂糖といった調味料のバランスに少々おかしなところがある。それにも関
わらず、健司には幸福感と安心感を与える味であった。
 そう、それは先日のクリームシチュー同様であった。
「作ってから少し、時間が経ったからな」
 その声に健司は顔を上げた。
「口に合わなかったか」
 元々がそうなのだろう。いつも変わらない、不機嫌そうな声。言われて健司は、
自分の箸が止まっていたことに気づく。
「いや、美味しいよ。ちょっと感動しちゃって」
 世辞のつもりはない。
「そうか」
 やはりどこか不機嫌そうなまま、変化のない彼女の表情だったが、健司には安
堵しているように見えた。
 健司は箸を進める。時折彼女へ声を掛けても、返って来るのは「ああ」「そう
か」と短い単語だけだった。しかしそれでよかった。何かとても懐かしい気持ち
だった。
 それは思い出せないほどの昔、失われもう二度と味わうことがないだろうと思
っていた気持ち。もう一人の田嶋優希と共に過ごした時間であった。
 健司は長く長く、心の奥底にあった冷たい塊が溶けて行くのを感じていた。

 失われた時は戻らない。今日まで健司は、失われた時の中を生きようとしてい
た。しかし初めて、未来へ向けて歩を進めてもいいのかも知れない、と思えた。
 食事を終えた後、これもまた全て手際よく片づけを済まし、彼女は帰ってしま
った。終始不機嫌そうな表情に変化はないままだったが、それにもまた、健司は
安らぎを覚える自分に気づく。それはかつて、怒ってばかりの少女に感じていた
ものと似ていた。
 あるいは、と思う。
 彼女との出会いは、少女の導きなのだろうか。
 あの時から歩むことを止めた健司に、もう進んでもいいよと背中を押してくれ
ているのかも知れない。いや、あの子のことだ。こんな所で、何をぼうっとして
いるんだ。さっさと前に進めよ、と怒鳴っているのかも知れない。
 健司は窓を開けて空を見た。
 冷たい夜風が身を刺すようであったが、不思議と心地いい。いつになく、星が
よく見える。この街にも星は出ていたのだと初めて知った。
 今頃もう、彼女は部屋に着いただろうか。送って行こうとした健司だったが、
それは彼女に軽く拒否された。近くとはいえ、夜道を女性一人で帰すのに抵抗を
感じる健司だったが彼女の「子どもではない」の言葉には逆らえなかった。
 彼女は自分をどう思っているのだろう。
 嫌われてはいないと思う。今日で二回、彼女は自分のために食事を作ってくれ
た。ある程度、よい感情を持っていなければ、そんなことをしてくれるはずはな
い。男たちから助けた件の礼だとしても、それなら一度で充分だろう。それとも、
自分が考えている以上に彼女は律儀な性格なのだろうか。
 窓を開けていることすら、もう忘れてしまった。暖まった心は、身体をも暖め
る。
 健司の心には彼女に対する好意が芽生え始めていた。それはまだ一人の女性と
して彼女を「愛する」という所までには及ばない。しかし共に同じ時を重ねて行
けば確実に「愛」に変わっていくであろう感情だった。
 かたん。
 突然の物音に、健司の意識は室内へ戻る。
 風が吹いたようだ。風に飛ばされ、部屋の中で何か落ちたらしい。見れば畳の
上にペンが一本、転がっている。拾おうと手を伸ばした健司は、近くの風呂敷包
みに気がついた。
 先日の弁当箱だ。今日返すはずだったのだが、彼女は何も言わなかったし、健
司も忘れていた。
 今からならば、まだ追いつくだろうか。丁度いい、食後の運動にもなる。
 健司は風呂敷包みを手に、部屋を出た。



 全ては彼女の計画通りに進んでいた。
 所詮、人間など単純な存在である。彼女が軽く背を押してやるだけで、思い通
りの方向へと向かって行く。
 二度ばかり食事を与えたことで、青年は彼女に心を許し始めている。動物を手
懐けるより、簡単であった。お陰で、その心の奥底に在ったものも、朧気ながら
見えて来た。それを心の奥底から、表へとどうやって引きずり出してやるかであ
るが、伏線は既に張ってある。後は役者の登場を待つばかりであったが、これも
彼女の期待が裏切られることはなかった。
「ちょっと、アンタ」
 一人夜道を歩く彼女へと、背後から声が掛かった。
 声の主が何者であるかは、そう仕向けた彼女自身承知しているのだが、一応振
り向き確認をする。
「アンタ、何者なんだよ」
 彼女を威嚇しているつもりなのだろう。腕を組み、大股を開いて仁王立ちする
女がそこにいた。青年の部屋に金の無心に来た女である。
「アタシはね、健司をガキの時から知ってるんだ。アンタみたいないとこがいる
なんて、聞いたことがないんだけどね」
 所謂、ドスを利かせた声を発する女であったが、彼女には臆病な座敷犬が無意
味に吠え立てる姿にも似て滑稽にしか見えなかった。しかしそれを態度に出すこ
とはしない。
「私は田嶋優希だ」
「ふざけんじゃねーよ」
 彼女の答えに、女の平手が飛んで来た。あまりの遅さに、避けずにいるのは困
難であったがそれを堪え、彼女は頬に女の平手を受ける。
 ぱんと、大きな音が響き渡った。大した痛みはなかったが、彼女の足はわずか
によろめく。
「テメェ、うざいんだよ。いいか? 警告だ。今後、健司の周りをうろつくんじ
ゃねぇぞ」
 耳障りな声で女は咆えた。もちろん彼女は恐怖などを感じはしないが、顔に掛
かる女の唾と口臭が気になり、袖で拭う。
「指図される覚えはないが?」
 余程知能程度の低い者でない限り、はっきりと分かるように蔑みを込めた目で
女を見つめた。女を怒らせ、更なる暴力を振るわせるためである。自分が痛めつ
けられることこそが、今の彼女の目的であった。ただどれほど粗暴な性格ではあ
っても、女の力は然したるものではない。
「後悔するよ? アタシにそんな口利いてさ」
 彼女の希望も知らず、女はにぃっと笑った。青年に媚びる顔、怒った顔、そし
て笑った顔、どれを取ってもつくづく不細工な女だと、彼女は思った。
「ねぇ、出てきてよ」
 彼女へ、ではない。女は路地の、外灯の明かりが届かない闇に向けて声を掛け
る。
「はっ、やっと出番か」
 闇から声が返る。それから、己の登場を演出しているつもりなのか、ゆっくり
とした足取りで男が現れる。男の潜んでいたことなど、初めから知っていた彼女
は、そのつまらない段取りに内心辟易としていた。
「平和的に解決しようと思ったんだけどさ、コイツ物分りが悪くて。ヤッちゃっ
てよ」
 そう言いながら女は顎で彼女を指し示す。女の僕らしき男は、これもまたゆっ
くりとした足取りで彼女の元へと進んで来た。
「へえっ。なんだよ、えれぇ可愛い子じゃん」
 湿り気を帯びた息が掛かる距離で、少し鼻の詰まったような声がする。
 さすがにもううんざりして来た。人間の、特に若い男には、知能の低い者しか
いないのだろうか。いま彼女の目の前に立つ男は、以前絡んできた二人組と変わ
らない愚かさを隠すことなく、全身に滲ませていた。世の中に男のような者ばか
りであるなら、わざわざ彼女等悪魔の眷属が手を下さなくとも、人間たちは勝手
に滅んで行くことだろう。
 当然、初対面であったが、彼女は男を知っていた。
 彼女が最初に青年の部屋を訪ねた折、やはり金の無心に来た女を意識だけで追
ったことがある。その際に女を車で待っていた男だ。
「なあ、梨緒。こんな可愛い子、痛めつけるなんて、俺、出来ないぜ」
 その言葉が本心でないのは、何も彼女同様の能力を持っていない者にでも容易
に知れる。
 りお、というのが女の名前らしい。もっとも彼女にとって男も女も、その存在
自体に大した意味はなかった。道具に過ぎない者たちの名前を覚える必要はない。
「不細工な顔を近づけるな。気分が悪くなる」
 愚者の行動は特に読み易い。男に次なる行動を取らせるため、悪意を込めて言
葉を放った。
 単純な人間ほど操作が簡単なものはない。低能という言葉を具現化したかのよ
うな男の顔に、醜さの極限にまで達した笑みが浮かんだ。次の瞬間、彼女は腹部
に鈍い痛みを感じる。アッパーカット気味に繰り出した男の拳が、彼女の胃袋を
捉えたのだった。
 金属的な酸味を帯びた液体が喉を逆流して来る。その勢いは強く、とても口腔
内に留めておけるものではなかった。先刻食したばかり夕飯が、胃液と共に吐き
出された。
「ギッハハハ。何コイツ、ゲロしてやんの! ねぇ」
 前屈みの姿勢になった彼女の耳に、女の汚い笑い声が届く。彼女は更に女たち
を激昂させるための言葉を放とうとするが、必要はなかった。
 屈み込んだ彼女は左側頭部に強い衝撃を受け、吹き飛ばされるように倒れた。
男が回し蹴りをして来たのだ。
「アンタ、口の利き方が成ってないからよ。俺が教育してやるよ」
 倒れた彼女の顔を、男が体重を掛けて踏み付ける。
 もう焚き付けるため、彼女が言葉を使う必要はない。容赦のない男の暴力と、
耳障りな女の嘲笑が続く。
 愚かな連中だ。夜間とはいえ、これほど派手に騒ぎを起こし、誰も出て来ない
ことに全く疑問を持たない。一つ間違えば、警察沙汰になってしまうとは考えが
及ばないのであろう。邪魔が入らないよう、この場が彼女の作り出した結界に守
られていようとは、万に一つも連中に悟られる心配はない。
 もっともここまで愚かしい連中だからこそ、彼女の期待通りに行動してくれる
のだ。ただ一つ、彼女にとって計算外なものがあった。


 痛み、であった。
 右半身は当然のこと、偽りであるはずの左半身へ受けた暴行にさえ、彼女は痛
みを感じる。加減を知らない男の暴力行為は、相当の痛みを彼女に与えた。普通
の人間であれば失神、最悪の場合死に至っても不思議ではない。
 しかし人間ではない彼女が、失神することはない。
 死に至ることもない。
 苦痛に耐え、ひたすら男の暴行を受け続けるだけだった。



 遠くから微かに、焼き芋屋の売り声が聞こえて来る。
 ただそれだけのことに、健司は誰も居ない夜の街に、人の生活を感じた。
 右横の明かりの消えた家。旅行中なのだろうか。あるいは何か特別なことがあ
って、家族揃って外食をしているのかも知れない。
 斜め前の家からは、テレビの音が聞こえて来る。時折、子どもの笑い声がした。
きっと夕飯を済ませ、家族で団欒のひと時を過ごしているのだろう。
 見えない家々の中の事情を想像して歩くのが楽しい。時折吹き抜ける夜風さえ、
まだ少し遠い春の薫りを感じてしまう。それは健司にとって初めての経験だった。
 小走りする腕の中で、弁当箱がかたかたと音を立てた。それがまるで、何かの
リズムを刻むかのように聞こえ、健司は知らず知らずのうち、口笛を奏でていた。
「やっぱり追いつけなかったな」
 彼女のアパートまであと二・三十メートルと言ったところまで来てしまった。
確か玄関の所に各部屋に繋がるインターフォンがあったはずだ。手間を取らせる
のは気が引けるが呼び出して、外まで出て来てもらおう。ああ、そう言えば彼女
の部屋の番号を知らなかった。ネームプレイトに書き込まれていればいいのだが。
 そんなことを考えていた健司だったが、ふと何か気配を感じて立ち止まった。
「……ぅ…」
 微かな声がした。犬か猫でもいるのだろうか。健司は周囲を見回した。
「うっ………」
 今度ははっきり、人の声だと分かった。それも女性のものである。脇の路地か
らだった。
 健司の全身に緊張感が走る。暗がりの中、何か壁にもたれ掛かったものが見え
た。それが呻き声の主であると気づくまで、さほどの時間は要さない。
 事件か事故か、あるいは急な病の発作であろうか。
 わずかに恐怖を感じたものの、躊躇している場合ではない。健司は意を決し、
影の下へと走り寄った。
「………っ」
 声にならない声を発したのは、健司の方だった。影の正体を視認して、愕然と
なる。
「ふふっ………無様なところを見られてしまったな」
 健司に気づき、力なく笑う姿があまりにも痛々しい。そこに居たのは、田嶋優
希であった。いや、実際には健司がその人物が彼女であると確認するまで、少々
時間を取っていた。
 おそらく、彼女の親兄弟であっても即座に見抜くには困難を極めたに違いない。
彼女の顔立ちは健司の感情を抜きにしても、かなりの美形と言える。しかしその
面影は微塵もない。彼女の顔面は、元の二倍近くにまで腫れ上がっていた。
「ちょっと待って、いま、救急車を呼ぶから」


 携帯電話を持たないことが悔やまれる。
 この辺りに公衆電話はあっただろうか。いや、公衆電話を探すより、近くの家
の者に頼み、一一九番通報して貰う方が早い。
 だが健司は動かなかった。動けなかったと言うのが正しいだろう。
 電話を探すため、一旦その場を離れようとした健司だったが、足を掴む手によ
って、その動きは止められてしまう。
「……頼む。騒ぎには………したくない」
 ズボンの裾を掴む手と同様に力ない声が懇願した。

「迷惑を掛けた」
 ベッドに腰掛けた彼女が言ったのは、健司が救急箱の蓋を開いたのと同時だっ
た。
 初めて一人暮らしの女性の部屋へ上がる。本来なら多少なりとも緊張する場面
を健司は意外な形で迎えることとなった。
 救急車を呼ぶことばかりか、医者に掛かるのさえ彼女は強く拒んだ。仕方なく
健司は彼女の望むまま、肩を貸して部屋へと運び込こんだのだった。
 しかし困ったことに彼女の部屋には救急箱どころか、薬一つ、絆創膏一枚すら
ない。あるいは管理人室で借りられるかも知れない。だが彼女は怪我を人に知ら
れたくない事情があるらしい。仕方なく健司は一度自分のアパートに戻り、救急
箱を持って再びこの部屋を訪れたのだった。
 健司は救急箱より膏薬を取り出す。効能書きの「打ち身」の文字を確認して封
を開ける。が、いざそれを貼ろうと彼女の顔を見て動きを止めた。部屋の照明の
下で改めて見ると、脹れは当初考えた以上に酷い。
「これ、そこのコンビニで買っておいたんだ。しばらくこれで顔を冷やした方が
いいと思う」
 健司は保冷剤をタオルに包み、彼女へ手渡した。
「すまない」
 彼女が返す言葉はいつも通り無愛想なものだった。特に苦痛に顔を歪めたりは
しない。しかし健司には、いつになく彼女が弱々しく感じられた。


「あの、それから、身体のほう………服の下とかの傷はどうしょう」
 顔の腫れだけとは思えない。おそらく全身に何かしら傷を負っているはず。
「すまないが、見てもらえるか」
 言うや否や彼女は服を脱ぎ出した。
 戸惑い、健司は顔を背けようとしたが出来なかった。まるで何かの呪術にでも
掛けられたかの如く、健司の視線は彼女の裸身へと釘付けになる。ただしそれは
通常の男性が若い女性の裸体に対して持つ関心からではない。その痛ましさ故で
ある。
 若い女性の顔が腫れ上がる。それだけでも充分に痛ましい。
 しかし服の下に隠れていた身体には、まるで腫れた顔とのバランスを取るかの
ように無数の傷痕が刻まれていた。
 そこからしばらくの時間、言葉は消えた。
 健司も、そして彼女も。
 健司は無言で傷の手当てをする。これだけの傷を果たしてどれほど適切に処置
出来るか自信はなかった。それでも可能な限りのことはする。打ち身は打ち身の。
擦り傷には擦り傷の処置を施す。
 これだけの傷だ。痛みも相当なものがあるはず。薬を付けるのにもさぞかし、
沁みることであろう。何箇所か骨折していたとしても不思議はない。
 それでも彼女は声を出さない。
 眉ひとつ、動かすことはない。

 彼女は何者かに暴行を受けた。そう考えて間違いないだろう。
 全身の傷は、たとえば転んだくらいで出来るものではない。数が多すぎる。車
による事故とも思えない。何者かが連続的に、殴ったり蹴ったりという行為を繰
り返した結果と見ていいだろう。
 彼女への処置を続けながら、健司の心に黒い感情が頭をもたげつつあった。そ
れは一旦、封印され掛かった感情である。
 出会ってまだ日の浅い彼女の人間関係を、健司は知らない。しかし彼女へ悪意
を持っている可能性がある人物については、一人心当たりがあった。
 その見当が外れていないのならば、全ては自分に責任がある。
 あいつは、こんな真似を平気で出来る人間だ。それは分かっていたはず。それ
なのに自分は浮かれた心で、それを忘れていた。もっと注意深く振舞っていたな
ら、彼女がこのような仕打ちを受けずに済んだのだ。
 己を責める気持ちは、黒い感情の逆流に拍車を掛ける。心は決まった。




#277/598 ●長編    *** コメント #276 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:54  (432)
白き翼を持つ悪魔【06】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:43 修正 第2版

「一応の手当ては済んだけど、やっぱり医者に行ったほうがいい」
 救急箱の蓋を閉じて、健司は言った。彼女の顔は見ないで。
「ああ、本当にすまなかった」
 たぶん彼女も健司を見ていないだろう。あるいは健司を恨んでいるのかも知れ
ない。迷惑を掛けた、すまない、とそれしか言わない彼女が自分を責めてくれれ
ば、いくらか心が救われるだろうに。健司はそう思っていた。
 もうこれ以上、ここにいてはいけない。
 静かに立ち上がった健司は、玄関へと歩き始める。何も言わず、部屋を出るつ
もりだったが、ドアの前で足が止まった。やはり一言、彼女に言葉を掛けておき
たいと思ったのだ。
「こんなトラブルは迷惑だ。もう、二度と会うのは止めにしよう」
 三十秒以上費やして、ようやく出た言葉だった。
 自分には、つくづく文才がないな、とその口元に笑みを浮かべながら。
 言霊、というものを聞いた覚えがある。確か言葉には魂が宿っており、口にし
た言葉が現実となる。
 そんなことを唐突に思い出したのは、いま口にした言葉が現実になると知って
いたからだった。
 彼女の返事も、反応も待たない。健司はそのまま、部屋の外へと出て行く。
「ありがとう、楽しかった」という言葉を彼女に聞こえないように発しながら。



 後は待つばかりである。
 立ち去る青年の背中を見送り、彼女はほくそ笑んでいた。
 出会った当初、彼女の感じ取った青年の心の奥底にある何か、その正体はおお
よそ分かっていた。青年の感情を揺さぶることで、甘くなった扉の隙間から、彼
女の能力なら容易に覗き見ることが出来たのだ。
 あとはそれをどう動かすかである。しかしそれはさして難しいことではない。
 青年の心の中にあったものは、いつでも外に出ようと機を待ち続けていた。そ
れを後押ししてやればいいだけである。唯一、青年の持っていた優しい記憶。そ
こに少し傷を入れてしまえば、心の堰は簡単に崩壊するだろう。
 彼女の予想通りだった。

 堰を切り、流れ出した水は誰にも止められない。
 動き出した青年の心は、もうきっかけを作った彼女にすら、止めることは不可
能であろう。
 おそらく、明日の朝からでも青年は行動を起こすはずだ。彼女はただ、その結
果を待つだけでいい。
 彼女はその身をベッドに横たえた。「成すべき事を成す」ためとはいえ、少し
ばかり無理をし過ぎたようだ。身体中が痛く、そしてだるい。
「思った以上に、厄介なものだ………」
 一人呟く声も、かすれていた。
 彼女の本体である右半身ばかりか、仮初めでしかないはずの左半身にも痛みは
及ぶ。人の姿を取るということは、その機能まで等しくなるのだろうか。常人で
あれば、悶絶するほどの痛みの中、彼女はただそれを不便に感じるだけであった。
 一晩眠れば、痛みも消える。
 何も根拠はなかったが、そう信じ、彼女は瞼を閉じた。

 その夜、彼女は高熱を発した。
 夢なのか、現実なのか、定かではない意識の中で彼女は自ら奇妙と感じる思考
を繰り返していた。
 間違ってはいない、間違ってはいない、間違ってはいない………
 同じ言葉を、まるで自分に言い聞かせるかのように続ける。ただ何が間違って
いないなのか、自分でも分からずに。
(間違っている)
 突然、意識の中に繰り返す彼女を否定する、別の声が割り込んで来た。どこか
で聞いた覚えのある声だった。
 誰だ、と誰何する彼女の視界は、白色の光に包まれる。愉快な感じはしないが、
夢か現実か区別出来ない状態では、特に不便もない。
 また貴様か。
 彼女の口からは、ため息の混じった笑みが零れる。
 彼女を監視し、妨害する者。人が天使と呼ぶ存在。
 声を耳にするのは、これで三度目となるか。朦朧とした意識の中ではあったが、
今までになく、その声ははっきり聞こえていた。
(間違っている)
 同じ言葉を繰り返す。その声は、悲しげであり、苦しげでもあった。
 彼女は確信する。その者が天使であろうと、なかろうと、全く以って無力な存
在なのだと。
 ほざけ。
 侮蔑よりも、哀れみを顕に彼女は言った。
 間違っていると言うのなら、行動で正してみろ。貴様の姑息な力でも、私の計
略を邪魔する程度のことは出来ただろうに。そうだ、あの時、公園でしたように。
 今日の彼女の行動には天使の立場からすれば、妨害する機会は幾らでもあった
はずだった。彼女が青年の部屋を訪ねること。そこへあの女が現れること。故意
に彼女の忘れて行ったものを、青年が届けようとしたこと。更には女が男を伴い、
彼女の前に現れたこと。
 もしその何れかを公園の時のように止められていたならば、彼女の計画は成り
立たなかった。しかし、計画は予定通りに行われている。どうやら、いま彼女に
話し掛けている天使は、ごく限られた能力しか持たないようだ。ただ光を放って
みたり、こうやって姿を見せずに話し掛けてみたり、という程度のものである。
いまにして思えば公園での一件は、ただ突然の光に、彼女が怯んでしまっただけ
のことではないだろうか。実際には身体の自由は利いていたのに、彼女自身が勝
手に動かないものと思い込んでしまった。そう考えれば辻褄は合う。
 その証拠に天使はこれまで一度も、物理的な方法で彼女の前に立ち塞がったこ
となど、ないではないか。あるいは実体すら持たない存在なのかも知れない。い
や、こうなるとそれが天使であるかどうかも、疑わしい。
(私に出来ることは………)
 投げ掛けた言葉に答えてか、あるいは彼女の心を読んだのか、どこか苦しそう
な声が響く。それだけで、彼女は相手に対し、自分が有利な立場に在るのだと感
じた。

(私に出来るのは、あなたの望むことだけ)
 はあ? 何を言うのだ。
 思いもかけない答えに、彼女は呆れてしまう。失笑すら出ない。
 無能な者は、言い訳する才能も持ち合わせてはいないらしい。もう彼女の計略
が完了するまでの間、天使がその妨げになる心配は全く必要ない。同時にほんの
一時、ほんのわずかにでも天使に警戒心を持った自分が、可笑しくてならなかっ
た。
(思い出して)
 今度は懇願する声に変わっていた。彼女を敵わぬ相手と悟り、媚を売るつもり
だろうか。
 彼女の方も、ようやく光に目が慣れつつあった。暗闇に在っては決して失うこ
とのない視界も、光の中では思うようにならない。存外、悪魔というのも不便な
のだなと感じる。
 彼女は眩い光を背にして立つ影を確認した。それは、予想していたものより、
随分と小さい。子どものようだ。
 妙だな。
 彼女は呟く。
 いままで彼女が聞いていたのは、若い女性の声ではあったが子どものものでは
ない。
(思い出して)
 逆光であるため、表情までは見て取れなかったが、影の口元が言葉に合わせて
動くのは分かった。
 こいつ、どこかで………
 見覚えがある。まだ輪郭すら朧気にしか見えない状態だったが、どこかで一度
その少女とは会っている。そう彼女は感じた。
 もっと近寄って顔を確認しようか。そう考えて動きかかった足だったが、ふと
思い止まる。代わりに額へと手を翳して目視にての確認を試みた。
 光に対し、眩まない程度まで慣れてきた彼女の目は、遂に少女の顔貌を捉えた。
 お前は。
 わずかに驚く彼女だったが、なぜか納得する心のほうが大きい。
 あれは先日、駅の近くで見かけた少女。確か名前は「ゆうき」と呼ばれていた
か。と、思い出したところで、彼女の意識はこの夢か現か定かでない空間を後に
することとなった。


「いまのは夢………だったのか?」
 呟く声は掠れていた。激しい喉の渇きを覚え、彼女はゆっくりと身体を起こす。
完全に、とまでは行かないが、昨夜に比べ痛みは和らいでいる。
 ベッドの横のカーテンを指でそっと捲る。夜の名残を残しつつも、外は仄かに
明るくなり始めていた。新聞配達だろうか、どこからかバイクのエンジン音が聞
こえる。
 室内に目を戻し、時計を見た。
 午前四時二十分。
 それからキッチンへと向かう。蛇口が視界に入った途端、喉の渇きが極限へと
達する。
 グラスを出す間さえ惜しかった。勢いを最大にした水の流れに、両の掌を充て
て喉へ送り込む。しかし飲むほどに渇きは増し、遂には蛇口に直接口を充てて水
を飲み始める。
 数分間、地獄の餓鬼にも勝る勢いで水を飲み続けたが、カルキ臭い味に飽きて
ようやく口を離した。口内に収まらなかった水が、口元から喉へ、喉から胸へと
滴り落ち、下着を濡らす。
 ぜいぜいと鳴る息遣いを聞きながら、彼女は自分を浅ましいと感じた。
 息が整うのを待って次は洗面所に向かった。鏡を見るためである。
 痛みが和らいだとはいえ、顔にはまだ昨夜の暴行の跡がはっきりと残されてい
た。腫れは大分引いていたが、痣はまだ目立つ。それでもすっかり変形していた
顔が、ほぼ元の状態に戻っているのは、驚異的な回復と言っていいだろう。もし
あの後、病院に運び込まれていたならば、さぞかしその回復力は医者を驚かせた
だろう。
 頬の膏薬をはがし、そこに前よりも鋏で小さく切ったものと貼りかえる。多少
目立ってしまうが、痣をそのまま晒すより幾分いいだろう。彼女は外出を予定し
ていた。
 彼女が直接手を下すべきことは、もうない。これからは、青年が全てを勝手に
行ってくれるはず。彼女はただ待っていればいい。
 だが彼女は、それを自分の目で直に見届けなければならない。そんな気持ちに
急き立てられていた。昨夜見た、夢のせいであろうか。無力な天使に水の流れを
止められるとも思えないが、万に一つの可能性も見捨てては置けない。
 それからもう一つ、彼女を動かそうとする事実があった。悪魔の眷属であるは
ずの彼女自身、意識的に無視をする事実があった。
 目覚めた時から、いま尚続く激しい鼓動。目眩を起こしそうなほどの動悸が彼
女を駆り立てていた。



 規則的な揺れと規則的なリズム。
 窓から射し込む暖かな光。

 座席に着いていたなら、眠ってしまいそうな陽気であった。
 笠原健司は故郷へ向かう列車の車中に在った。
 乗客は定員の三割にも満たない。空席の多い中で、健司はドアの横に立ってい
た。眠らないように、それだけが立っている理由ではない。
 少ないが、皆無でもない。自分以外にも乗客はいる。健司はなるべく、他人と
空間を共有したくない気分だった。いまならまだ、後戻り出来る。しかし健司の
頭の中にはもう、後戻りするという選択肢はない。突き進む以外、道はないのだ。
いや、むしろ前に進むには遅すぎたくらいである。

 半年前、健司にとって唯一の身内である母が他界した。健司が心の奥に隠した
計画を遂行すれば、最も悲しみ傷つくであろう母。母を亡くしたあの日、計画を
躊躇う理由もなくしたはずだった。
 自分に意気地がなかったからだ。健司は思う。
 意気地さえあったなら、とうに全ては終わっていた。全てを終えていたなら、
彼女を昨夜のような目に遭わすこともなかった。
 いつしか車窓から見える風景に、高い建物の姿が極端に減っていた。代わって
田畑や林、瓦屋根の民家が目立ち始めていた。
 それではもし、彼女と出会っていなければどうなっていただろう。健司は心の
奥に黒い感情を抱いたまま、それを解放する日を夢見るだけで一生を過ごしてい
たのかも知れない。
 ふと思う。田嶋優希の名を持つ彼女と出会ったのは、単なる偶然だったのだろ
うか。あるいは計画するばかりで、いつまでも実行に移す気配のない健司を促す
ため、もう一人の田嶋優希が導いたのではないだろうか。
「まさか、な」
 つい、言葉を口に出してしまった健司に、怪訝な視線をくれる者がいた。次の
停車駅で降りるつもりなのだろう。ギターケースを抱えた若い男が半ば喧嘩を売
るような目でこちらを見ていた。だが特に問題がある訳でもない。健司は男を無
視する。男も少しの間視線を向けてはいたが、すぐに到着した次の駅で、何事も
なかったように降りて行った。
 そして再び電車は走り出す。
 いずれにしろ、彼女には申し訳ないことをしてしまった。健司は田嶋優希と同
じ名を持つ彼女に心が惹かれて行くのを感じていた。しかしいま、冷静になって
思えばそれは単に彼女に田嶋優希の代用を求めていただけに過ぎなかったのだ。
そのために彼女をあのような目に遭わす結果になってしまった。
 もう二度と会わない。
 そう誓ったものの、彼女の容態が気に掛かる。あれだけの大怪我だ。今朝もま
だ痛みは続いているだろう。あるいはまだ、ベッドの中で苦しんでいるかも知れ
ない。やはり彼女に拒まれようと、昨夜のうちに病院へ連れて行くべきだった。
それだけが後悔されてならない。たぶん、この気持ちは健司が生きている人間に
対して向ける、最後の思い遣りとなるだろう。
 やがて電車は目的地へと到達した。



 驚異的な回復を見せたとはいえ、完璧に治った訳ではない。若い女性の顔に残
された傷痕は、人込みに在っても目立つものであるようだ。時折、すれ違う人間
の中には足を止め、驚きの視線を投げてよこす者もいた。鬱陶しくはあったが、
いちいち相手にする価値もない。彼女は無視を決め込み、ただ進む。
 飛び乗った電車は、凶悪なまでの混雑を見せていた。それは彼女が初めて街に
立った時の交差点など比較にはならない。立錐の余地もない、とはこのことであ
ろう。四方、八方全ての方向に立ち並ぶ人間たちに、隙間というものが全く存在
しない。香水やオーデコロン、すえた汗や体臭、その他正体不明の臭いが狭い空
間に充満する。それらはかつて、彼女の眼前にまで迫った巨大蛆虫の吐く息以上
に不快なものであった。加えて、電車が揺れる度、あらゆる方向から押し寄せる
圧力には殺人的な勢いがあった。脆弱な人間が、よくもこのような場所で死者を
出さずにいられるものだと感心してしまう。あるいは彼女が知らないだけで、数
名の死者が出ているのだろうか。
 しかし凶悪な混雑も、巨大なターミナル駅を過ぎた途端、その名残すら感じら
れぬほどに緩和された。そこからさらに三つ目の駅を過ぎた辺りで、車両内の乗
客はほとんどが姿を消す。
 この状態で立っている理由はない。彼女はボックス型に並べられた座席に、進
行方向を向いて腰掛けた。

 流れる車窓からの風景を眺めていると、わずか十分ほど前までの混雑が、錯覚
であったかのようにさえ思えてしまう。窓ガラスを通して射し込む陽の光は暖か
く、ぼんやりとしていたなら、眠気を誘っていただろう。しかし緊迫感を持った
彼女は、睡魔に負けることはない。
 彼女がこの電車に乗ったのは、青年の後を追うためである。後を追って、全て
をその目で見届けるためであった。もちろん青年がどこに向かったのか、彼女は
聞いていない。それどころか、実際に青年が街を出たのか、いや、アパートを出
たのかも確認していなかった。彼女は何もかも、自分の勘を頼りに動いているに
過ぎない。もっとも彼女はその勘を疑う必要がないと知っている。悪魔の眷属で
ある彼女の勘は、彼女を目的のため常に正しい方向へ導いてくれることはこれま
でに立証されていた。
 特別な能力でもある彼女の勘は、青年の背中を押した時点で「成すべき事を成
す」と言う、目的の成功を確信していた。妨害者である天使も、それを止めるだ
けの力を持ち合わせてはいないと教えてくれた。
 だがそれでもなお、突然芽生えた不安を拭いきれない。
「田嶋優希………」
 呟く名前。あるいは芽生えた不安の、一番大きな原因はその名前なのだろうか。
 青年の古い知人の名であり、彼女が名乗った名前でもある。彼女がその名を使
ったのは、たまたま手にした通帳とカードに記された名前だったからだ。
 初め、その通帳は悪魔が彼女のために用意したものだと考えた。確かに田嶋優
希の名前は、青年に近づくため都合のよいものであった。しかしいまではそれも
怪しく思える。
(思い出して)
 そう叫んだ夢の中の天使。その言葉の意味が、彼女を不安にさせる。
 意味などはない。苦し紛れの捨て台詞に過ぎない。そう結論付けるのが妥当で
あろう。ただ、叫ぶ天使の姿が幼い田嶋優希であったことで、その結論が彼女の
中で肯定されない。
 もしあのカードと通帳が、天使の用意したものであるとしたなら、話は違って
来る。
 青年との出会い。その心の奥底にあるものを感じ取って練り上げた計画。そし
て遂行するに至るまでの全てが、天使の導きであった可能性も生まれる。
 天使には彼女の行動を物理的に妨害する力はない。公園での一件については、
些か説明のつかない部分もあるが、それはまず間違いない。しかし間接的な方法
で、彼女を誘導することまでも不可能とは言い切れない。
 朝から感じている焦燥感は、そんな不安があるためだ、と彼女は考えていた。
 だから、このまま青年の後を追って全てを見届けよう。彼女が思い描く通りの
結末を迎えればよし。もしそうでないのならば、力ずくでも予定した結末に向か
わせればいいのだ。何者の導きであろうと、どんな妨害があろうとも、必ずや成
すべき事を成してやる。彼女は、固く心に誓っていた。
 そうすれば。
 ふと思う。
 そうすれば、どうなるのだろう。
 成すべき事を成した後、自分はどうなるのだろうか。
「成すべき事を成せ」
 その命に従い、これまで動いてきた。しかし命を果たした後、自分はどうなる
のか、地獄の王は何も言及していない。なおも人の世に留まり続けるのか、地獄
に帰るのか。悪魔として存在し続けるのか、あるいは消滅してしまうのか。何も
聞かされていない。
「まあいい………」
 漏らした言葉は、決して強がりなどではなかった。本心である。
 血の海の中、右半分だけの身体で浮いていた彼女。命ある者としては不条理な
姿で、命ある者のように考え動く彼女には、王に与えられた命令のみが己の存在
理由だった。従い、行動する他に、欲求などない。未来へ希望するものなどない。
 たとえ成すべき事を成した途端、陽の光を浴びた吸血鬼のように、その身体が
灰となり崩れ落ちるのだとしても構わない。自分の存在が失われること、死への
恐怖はない。命を持ち、それを守るのに懸命となる人とは違う。
 そんな考えも、意識も遠くなって行くのを、彼女は気づいていなかった。
 窓から射し込む暖かな陽光。
 心地よい電車の揺れと音。
 彼女は眠りに落ちて行く。
 疲れ果てた人のように。

 何か音が聞こえる。
 朦朧とした意識ではあったが、わずかに覚醒しつつある聴覚がその音を探ろう
とする。

 ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷ………
 規則的に聞こえる音。水音のようだ。
 まるで海水の流れ込む洞窟で聞くような音が、彼女の耳孔を木霊する。
 何だこれは、確か前にも一度………
 聞いた覚えがある。漠然とした思考では、記憶を辿るのにも困難を極めた。し
かし暫しの時を経過すると共に、眠っていた意識、五感がそれぞれの機能を取り
戻して来る。
 岩戸の如く、重く閉ざされていた瞼が、一気に開かれる。彼女の目に飛び込ん
だ風景は、瞬時には理解し難いものであった。
 塊となった闇とゆらゆらとうねる光の帯。光のうねりに合わせ、自分の身体も
揺れているのが分かる。
 そうか、自分はいま水中に居るのだと彼女は気づいた。彼女の視線の少し上に、
幾つもの歪な輪と、粒になった光が見える。それが水面なのだろう。
 彼女はいま、水の中に漂っているのだ。
 戻ってしまったのだろうか。
 彼女は再び、瞼を閉じた。
 最初の場所。彼女にとって一番古い記憶の場所である、血の海の中にまた戻っ
ていたのだった。
 いや、違うのかも知れない。
 戻って来たのではなく、彼女はずっと血の海を漂い続けていたのではないだろ
うか。これまで見て来たもの、行って来たことの全ては、血の海の中で見続けた
夢。そうだったとしても、些かの不思議もない。
「違う!」
 もう一度、瞼を開く。
 大きく目を見開き、視線を巡らせる。
「やはり違う………」
 違和感の正体に気づき、彼女は心の中で呟いた。
 いま彼女が漂う水中には、赤い色が見られない。血の海ではないのだ。更には、
水のうねりに合わせ、揺らめく光の柱がある。光、それはあの地獄の世界で、見
かけることのなかった存在だった。
 そして何より、水と光、それらのものを見ている彼女の目が問題なのだ。
 彼女の身体は、かつて血の海の中で目覚めた時と同じ姿勢にあった。すなわち、
身体を左側に傾ける形で水中に在った。
 あの時、最初に彼女の視覚が捉えたのは、黒い水面であった。だがいまの彼女
の目に映っていたのは、水中の風景である。
 彼女は左手を動かそうと試みた。試みは容易く実行される。所有者の意思に従
い、左手は掌で彼女の視界を遮る。彼女の目は闇に閉ざされ、何も映さない。少
し間をおき、掌を目の前から除けると、また水中の光景が映された。
 これで間違いはない。彼女はあの時間、あの場所に戻った訳ではなかった。そ
れは何も目に映る光景ばかりで判断したのではない。あの時とは決定的に違って
いるものがあった。
 彼女は左手で自分の視界を遮った。掌を左の目に充てて、だ。
 そう、あの時の彼女には右半身しかなかったはずである。彼女の左半身は鏡に
映った偽りの存在。地獄の王の手によって作られた。地獄の王と出会う以前、血
の海に漂っていた彼女に有るはずのないものだった。
 偽りの半身で、彼女は水中の光景を見ている。それでは、真の彼女である半身
は、どうなっているのだろうか。それを確かめるため、彼女は右腕を動かそうと
した。

 確かな手応えを、右手と右の頬とで同時に感じる。顔を上げた彼女の目に飛び
込んで来た光景は先ほど見たものとは異なっていた。眩しい陽を受け、光の粒を
幾つもに乱反射させる海。その右側に、まるで心霊写真の如く、微かに浮かび上
がる女の顔。
 それは車窓に映し出された光景であった。そこに浮かぶ女の姿は、ガラスに映
る彼女自身の顔だった。
 夢であったのか。
 一人、得心する。
 まさか車窓から見える海に影響されて、あんな夢を見た訳ではあるまい。しか
し悪魔であっても人のように無意味な夢を見ることもあるのだな。そう考えると
奇妙な気分になる。今朝ほどの夢とは違う。天使とも、あるいは悪魔とも、彼女
以外の第三者による意図が全く感じられない夢であった。
 ふと気づくと窓ガラスに映る女の顔が、彼女の知らない表情を見せていた。
 微笑。
 何かを企んでいるのではない。
 誰かを嘲笑しているのでもない。
 窓の向こうの彼女は、穏やかな笑みを浮かべている。そう言えば、顔の腫れも
朝より幾分、良くなっているだろうか。
 疲れていたのだろう。
 彼女が何者であろうと、どれほどの能力を持っていようと、この数日間「成す
べき事を成す」ため無意識の緊張が続いていた。まして昨日は様々な出来事があ
り過ぎた。疲労も蓄積していたに違いない。少しばかりの睡眠であったが、それ
が疲労を和らげたに違いない。自分が初めて作った表情の理由を、彼女はそう結
論付けた。
 そして車内には、彼女の降りるべき駅の名がアナウンスされた。



 海からの風は凪いでいた。
 白い煙は真っ直ぐ、天に向かい伸びて行く。
 柄杓からの水を受け、石は黒く光っていた。
 石の前には質素な花束と、赤く艶やかな苺。少女の好きだった果物が供えられ
ている。
 静かに目を閉じ、手を合わせた健司は、もう五分以上そこでそうしていた。も
し思い出したように吹き抜けた風が、髪や衣服を靡かせていなければ、そこに居
合わせた者は健司も墓石と対になったオブジェと信じただろう。
 健司が動きを取り戻したのは、背中越しに掛けられた声のためであった。
「ケンちゃん………笠原健司くん?」
「おばさん」
 振り向いた先に居たのは、健司の見知った女性であった。まだそれほどの歳で
はないはずだが、前に会った時よりまた老け込んで見える。白髪が増えたようだ。
「ご無沙汰しています」
 健司は深く頭を下げた。墓石に向かうより、さらに神妙な面持ちで。
「そう、お参りしてくれたのね。ありがとう、あの子もきっと喜んでいるわ」
 女性は微笑みながら言った。健司の知る、他の誰よりも優しい表情であった。
しかし他の誰よりも切なく見えた。
「いえ、母の………ついでですから。今日は優希の月命日だったんですね」
 言いながら健司は墓石を見遣る。
 お転婆でよく笑っていた少女も、いまでは言葉を発さぬ黒い石の塊となってし
まった。健司はそれが悲しいと言うより、悔しかった。
「健司くん、今日はあの家に? そうだ、よかったらおばさんの家に、ご飯食べ
に来てちょうだい。うん、そうよ、こっちに居る間、おばさんの家に泊まるとい
いわ」
 にわかに女性の表情から翳りが消える。
 いかにも名案を思いついたとばかり、胸の前で両手を合わせる仕草は幼い少女
のようだ。その姿が健司の後ろ、墓の下で眠る少女の面影と重なる。
「ありがとうございます。でも今日はちょっと用事があって」
「そう………でも、しばらくこっちに居るんでしょう。だったら明日でも………」
「本当にごめんなさい。今回はゆっくりしていられなくて、すぐにここを出るこ
とになりそうなんです」
「まあ、残念だわ」

 女性の顔にまた翳りが戻った。その様子から、女性が決して社交辞令でものを
言っているのでないと分かる。健司が物心のつく前より、実の母以上に面倒を見
てくれた人だ。いまでも実の子のように健司を思ってくれているのだろう。健司
もまた、死んだ母以上に女性を思っていた。
 心の整理は既に着いている。ただ健司が全てを成し終えた後、きっとこの女性
は悲しむのだろうと思うと、胸が痛む。
「この次………この次は必ず。おばさんが駄目だと言っても、お邪魔しますから」
 まさか自分の計画が悟られるはずもない。そう思いながらも妙に緊張をしてし
まう。それを誤魔化すため、健司は精一杯の笑顔を作る。
「約束よ」
 そう言って差し出された手に、健司は一瞬戸惑った。だがすぐにその意味を悟
り「ええ」と答えて右手の小指を、女性の小指と絡ませた。
「それじゃ、また」
 恐らくこれが永久の別れになるだろうと知りつつ、近いうちの再会を約束して
健司はその場を後にした。丁度、海に向かって歩いて行くことになる。
 墓は高台に作られていたため、遮るもののない視界に飛び込む海は、とても大
きかった。こうして歩いていると、まるで海に吸い込まれて行くような気分にな
る。気分だけでなく、このまま本当に海に飛び込んでしまえば、どれほど楽であ
ろうか。あるいはほんの少し前の健司であったなら、本当にその道を選んでいた
かも知れない。
 しかし昨夜の事件をきっかけに、健司は変わっていた。いや、正しくはあの日
から偽り続けていた自分を捨て、心の奥底に隠していた真実の姿に返ったと言う
べきだろうか。
 何かを小さく呟く顔に、凶悪な笑みが浮かんでいた。




#278/598 ●長編    *** コメント #277 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:56  (479)
白き翼を持つ悪魔【07】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:45 修正 第2版


 田舎、と一言で片づけてしまってもいいだろう。駅前の風景はこの数日間、彼
女が過ごして来た街とはあまりにも異なっていた。

 改札口の前は心ばかりのロータリーになっていたが、車の通りは殆どない。今
しがた軽自動車が一台、通ったきりだ。へこみ、折れ曲がり、すっかり錆びだら
けとなった看板に、辛うじて「タクシー乗り場」の文字が読み取れたが、果たし
て本当にタクシーが来るのか怪しいものである。
 駅周辺には高い建物が見当たらない。何の商売をしているのか不明だか、三階
建ての店舗を兼ねた建物が一件あるだけだ。しかし店の方は看板もなければ、入
り口はガラス戸で閉ざされており、商売をしている気配も感じられない。さらに
隣にも平屋の建物がある。こちらはどうやら、銀行のATM機のみが設置されて
いるようだ。
 当然人の姿も見られない。もっとも高層ビルはなくとも、見渡す限りの野原と
いう訳でもない。朝夕に賑わうのかどうかは別としても、ゴーストタウンではな
いだろう。
 吹く風が潮の香りを運んで来た。
 車窓からも見えたが、海が近い証拠である。潮の香りに微かではあるが生臭い
匂いも混じっていた。どこかに漁港があるのだろうか。
 真の目的地までは、駅からまだ距離がある。確か少し先にバス停があったはず。
記憶が導く方へと数歩進めた足を、ふと止めた。
 半身のみの身体を偽り、人の社会に降り立ち、わずかに数日。人の世での経験
ということにおいて彼女は、よちよち歩きの赤子にも劣る。それが初めての場所、
初めての街でも迷うことなく行動が執れるのは課せられた使命と、まるで野性動
物の本能の如く彼女に備えられている記憶によってであった。
 彼女はそれを悪魔に与えられたものと考えていた。しかしいま、彼女の足をバ
ス停へと向かわせた記憶は、どこかそれとは異なる。
 具体的に何が、と問われても彼女自身、明確に答えられる訳ではない。それで
も無理に説明をするのであれば、前者はコンピュータのディスクに刻まれた記録
と似ている。誰かが作ったデータを、コンピュータである彼女はただ読み取るだ
けに過ぎない。一方後者は、人が経験によって得る記憶であった。つまり彼女の
足を動かしたのは、その方向にバス停があるのだという情報ではなく、バス停が
あったはずという経験による記憶。
 既視感、俗にデジャヴーと呼ばれる現象に近い。所謂前世の記憶というものだ。
だが多くの場合、かつて見た写真や映像と風景が一致した時、思い込みによって
起きる現象だとも言われる。もし人が一生を終え、再び生まれ変わることがある
のだとしてもその間に街並みは大きく変化しているだろう。たとえば明治時代を
生きた者が、平成の世に生まれ変わってもその目が見る街並みが一致するはずは
ない。
 もっとも彼女の場合、まだ人の世で過ごした時間は短い。たとえば血の海の中
で目覚める以前、人としてこの場所に来ていたとしたならば、そんな考えが浮か
ぶ。
 半身だけであったが、彼女は獣ではなく、まして古い絵に描かれているような
悪魔の姿でもなく、人の姿をしていた。これは彼女がそれ以前、人間であった証
ではないのだろうか。そうであるのならば、彼女が名乗ることになった田嶋優希
の名も偶然ではないかも知れない。
「馬鹿な………」
 彼女は首を横に振る。
 こんなことを考えてしまうのは、あいつのせいだ。
 今朝方の夢に振り回されているのだ。
 一度は無力と判断したが、案外これが天使なる者の力なのだろうか。物理的な
影響力こそ持たないが、こうやってこちらの精神を蝕むことこそが狙いなのかも
知れない。ならば、悪魔である彼女より質の悪い存在だ。
 遠くから聞こえて来たバスの音に、彼女の思考は中断させられる。他に走る車
のない道だ。特別な力を使うまでもなく、少しばかり距離があっても接近してく
るバスの音は充分聞き取れたのだ。
 このバスを逃せば、次までは一時間近く待つことになってしまう。彼女はバス
停へと急いだ。

 駅から二十分ほど走った所で、彼女はバスを降りた。ここも駅同様、いやそれ
以上に何もない場所であった。走り去ったバスの進行方向右手、ガードレールの
先に海が見渡せた。海の右側から細長い陸地が突き出ていたが、それが島なのか
どうか定かではない。ガードレールの向こう、海の手前が崖となっており、そこ
に生えた松により陸地の更に右側が視認出来ない。しかし眼下の海には早い流れ
があるようだ。陸地に囲まれた湾、ではないと想像出来る。
 もっとも彼女にはそれを確認しようとする意思はなかった。確認したところで、
それが目的のため役に立つはずもない。それにまだ目的の場所に到達してはいな
い。ここで足を止めている理由はなかった。
 しかし急ぐ理由もなかった。
 青年が彼女の求める動きを起こすまでには、まだ時間がある。彼女の目で直に
確認したいのであっても、急ぐ必要はなかったのだ。
 それが接近して来るバスの音につられ、いやそれ以前に明け方の夢に急き立て
られ、ここまで来てしまった。どこかで時間を潰さなければならない。
 とは言っても、田舎町のことである。デパートや喫茶店といった類のものがあ
るとも思えない。少なくとも停留所周辺からは、民家すら見当たらない。他に興
味を惹くものもなく、彼女は海を見続けた。
 思えば開けた風景を目にするのは、彼女にとって初めての経験だった。青年と
出会った街は大小の建物がひしめき合い、空間というものを感じさせない。彼女
の中で最も古い記憶である血の海は、確かに開けた空間だったかも知れない。し
かし、血の赤と、闇とが充満した世界には深さを感じさせることはあっても、広
さを感じさせることはなかった。
 この地に着いて以来、いや電車がこの地に近づいたときから彼女の鼻腔に届い
ていた潮の香りも、決して不快ではない。むしろどこか鉄錆臭い朱色の海より、
よほど心地よい。
 そうか、人の世界の海は青い色をしているのだな。
 興味がなかったはずの眺めに、彼女は感想を零していた。
 緩やかな弧を描く海の果て。いや、あれは果てなのではない。あの先も更に海
は続く。そしてその更に向こうには自分の知らない土地がある。いつかきっと、
この海を越えて行ってみよう。それが幼い日からの夢だった。
「なに?」
 いつの間にか、風景に惹き込まれていた彼女が我に返る。
 彼女にとって覚えのない記憶と思考。しかしそれは確かにいま、彼女の中にあ
った記憶と思考だった。
「お前は………」
 彼女の横に一人の少女がいた。彼女と同じように海を見つめていた。
 いくら風景に見入っていたとしても、他者の接近に気づかない彼女ではない。
しかしいまこの瞬間まで、彼女は少女の存在を感じていなかった。だがそれより
彼女を驚かせたのは、その少女に見覚えがあることだった。
「お前は、私と同類なのか? それとも対峙する存在なのか」
 小学校の二、三年生くらいであろうか。外見上は明らかに年下の少女に対し、
彼女は対等の物腰で問い掛けた。

 答えは返らない。あるいは彼女の声が耳に届いていないのかも知れない。どこ
か物憂げな表情で海を見つめていた。
 海からの潮風に少女の髪が舞う。
 幼子の細い髪は、陽の光を受けて透明に輝く。
 それは幻想的な眺めであった。幼さに似合わぬ真剣な眼差しと合わせ、少女を
非現実的な存在とさせていた。
「やはりお前は、現実の者ではないのだな」
 彼女は得心する。あの時もいまも、少女はその場に存在していなかったのだ。
 以前、街の駅近くで見かけた少女。あの時は少年と二人、彼女の前に現れた少
女が、いまは一人で現れた。

 夢、幻、あるいは幽霊。この世に留まった、死者の想いというものなのか。い
ずれにせよ、実体のないただ影だけのようなものなのだ。
 朧気ではあったが、彼女は全てが見えてきたように思えた。
 今朝方の夢に現れたのも、この少女だ。そればかりではない。これまで幾度か
天使として、彼女の行動を妨げて来た存在はこの少女だったのだ。
 少女もまた、彼女と同じなのだろう。
 何かしらの使命を帯びて人の世にやって来た。おそらくその使命は、彼女とは
相反するものなのであろう。そして少女は少女なりに、「成すべき事を成す」た
め努めて来た。そしてその成果を確かめるべく、ここに居るのだろう。
「もうすぐ決着だ」
 彼女も海を見つめる。
 波打つ海面がきらきらと輝く。どこかで見た光景だ。
 彼女は思う。
 ああ、そうだ。ここに来る途中、電車の中で見た夢だ。
 いや、違うな。
 あの夢では、彼女は海の中にいた。いまは高い場所から海を見ているのだ。
 それではいつ見たのだろう。
 まあ、いい。古い記憶を探ってみても詮ないことだ。それよりいまは自分の計
画が無事完遂されるか、あるいは少女に敗れるか、そちらの方が肝心だ。


 半ば幻に近い形ではあったが、少女が具体的に彼女と対峙するのは初めてのこ
とである。しかし彼女は、ここで直接少女と決着をつけるつもりはなかった。
 もちろん少女がこれから更に動きを見せるのであれば話は別だが、互いにやる
べきことは既に終えている。勝者がどちらであるかは、あと少しの時間を待てば
結論が出るのだ。
 もっとも彼女は自分の勝利を確信していた。確かに不安があったからこそ、こ
の地まで来た。だが、ここで少女と会ってその不安は払拭された。
 もともと人の感情は正の方向より、負へと向く時、強く働く。一度動き始めた
感情は、たとえ何者であっても容易に止められるものではない。決壊したダムか
ら溢れる激流を、人の手で止められはしないだろう。それと同様だ。
 何よりこれまで姑息な手段を用い、彼女を邪魔立てして来た天使がこうやって
姿を見せた。覇気ない表情でただ海を眺めているのは、自らの敗北を悟ったから
こそであろう。
 彼女は横に並ぶ敗北者の顔を、もう一度見ようとした。
 しかしそこに彼女の期待したものはない。
 現れた時と同じように、突然姿を消していた。
 先の見えた勝負に、立ち会う気力も失せたのだろう。彼女は唇に微かな笑みを
浮かべ、海へと視線を戻そうとした。だが視界の端に何かを捉え、その正体を確
認すべく海とは反対側を見遣った。
 少女はそこにいた。
 相手に気配を感じさせない。この一点についてだけは、彼女も敗北を認めざる
を得ない。彼女に気取られることなく、いつの間に道路の向こうに移動していた
らしい。もっとも少女が彼女と同じように、仮初めであっても身体を持っていた
なら、決して後れを取りはしない。
「何の真似だ」
 心に余裕を感じつつあった彼女の眉が、歪む。
 移動した少女の姿に、不可解な変化があったのだ。
 彼女の横で海を見ていた少女は、小学校の二・三年生くらい。ところが、道路
の反対側に立ち、こちらに寂しげな視線を送る少女の姿はそれより若干、成長し
ていた。
 小学校の五・六年生といったところか。頭一つ分以上は、背丈も伸びている。
どこか憂いを秘めた表情に、大人びた気配が感じられた。
 幻だからこそ出来る芸当であろう。命ある肉体を持つ者であれば、ほんの一つ
二つ瞬きをするほどの時間で目に見えた成長を遂げるはずもない。
 ただその意味が不明である。
 あるいは普通の人間相手であるなら、こけ脅し程度にはなるだろう。しかし血
の海に生まれ、巨大な蛆虫や蝿を相手にしてきた彼女には、大道芸ほどにも驚き
を与えない。そのくらいのことは、少女とて理解しているはずだ。
 彼女に向けられていた視線が外された。そして少女は歩き出す。
 少女のいる方、つまり、道路を挟んだ彼女の反対側は山の登り斜面になってい
た。落石、あるいは崩落を防ぐためのブロックが貼られていたが、そこに階段が
設けられている。少女はその階段をゆっくりと登り始めた。
 階段を上がって行く少女を目で追いながら、彼女は苛立ちを覚えていた。
 ただ彼女の前から立ち去ろうというのであれば、文字通り消えてしまえばいい。
それをわざわざ、ゆっくりとした動作でこれ見よがしに移動して行く姿には、意
図的なものが感じられる。
 少女は彼女を誘っているのだ。
「口が利けない訳ではないだろうが」
 相手の思惑に乗るのは面白くない。何かまた、姑息な罠を用意していないとも
限らない。もっともお互いに生者ではない身だ。彼女に恐れる死はない。それに
いまさら相手がどのような手段を講じようとも、彼女の勝利は揺るがない。なら
ば相手が最後にどう足掻くのか見届けてやるのも一興だろう。どうせ時間はまだ
あるのだ。
 彼女は敢えて相手の目論見に乗ってやることにした。

 階段はかなり急な勾配を持っていたが、長くは続かなかった。道路から五メー
トルほど上がった所で階段は終わる。それから先は、緩やかな坂が続く。道幅は
三メートル弱といったところだろうか。舗装されてはいないが、まるで獣道とい
うのでもない。そこそこに利用されてはいるのだろう。しっかりと踏み固められ
ており、歩くのに不自由はなかった。
 少女は彼女より五メートルくらい先を行く。彼女は時折歩く速度を速めたり、
逆に緩めてみたりするが、その距離が変化することはなかった。これで少女が彼
女を何処かへ導こうとしているのが明らかになった。初めから彼女も承知の上で
はあったが、まだ気に入らないことがある。階段の下で彼女から視線を外して以
来、少女は一度たりとも後ろを振り返っていなかったのだ。
 最初から、彼女が着いて来ると確信していたのか。彼女も少女も対極にあるが、
お互い人成らざる存在である。彼女が任意の人間の気配や行動を的確に捉えるこ
とが可能であるように、少女にも同様の能力が備わっているのかも知れない。た
だこれまで、彼女は寸前まで少女の接近を感じ取ってはいない。それならば一部
の力においては少女の方が彼女を上回っているのだろうか。
 いや、それはあり得ない。
 勝利者は彼女である。敗者が勝利者に勝る理屈はない。少女には実体がないが
ため、気配が掴みにくいだけのことである。
 彼女は何かと根拠を探しては、繰り返し自分が勝者であるのだと確認していた。
それは無意識のうち、心に生じた焦燥感を打ち消そうとしていたのだった。
 朝から続く動悸はいまだ治まらない。寧ろ少女と出会い、激しさを増したくら
である。
 そして更に、彼女を苛立たせる要素がもう一つあった。

 小学校の低学年から、高学年へと理由の定かではない変化を見せた少女の姿は、
それだけに留まらない。こうして歩きながらも、真似事の成長を続けていたのだ
った。
 小学校の高学年、それから中学生。丁寧にも着ている物まで、学生服へと変わ
っていた。多少距離があるため、断定は出来ないが身長も既に彼女と大差ない。
 その成長にどのような意味があるのだろうか。単に彼女をからかっているだけ
のようにしか思えなかった。
 階段を昇り始めてから計って五分を越えた辺りか。まだ十分は経っていないだ
ろう。先を歩いていた少女の姿が消えた。山に沿って急なカーブをする道で、影
に隠れたのだ。一本道であるため、見失う恐れはない。ところがカーブを抜け見
通しのいい場所に出ても、少女の姿はない。彼女は少し足を速めて進んだ。しか
しいくら歩こうと、少女の姿は一向に見えて来ない。彼女の左側は草むらになっ
ていたが、その背は低く身を隠すのに適しているとは思えない。目測でここから
百メートル以上離れているであろう場所に、民家が見えた。右側は切り立った崖
で、高さは三メートル強あるだろう。無理をすれば登れなくもないだろう。ただ
あの少女がそれをするのかは疑問であった。
 もともと実体を持たない少女である。突然姿が文字通り、跡形なく消えたとし
ても不思議はない。しかしそれならば、何故彼女をここまで導いたのだろうか。
ここは帰り道を見失い、さ迷うような場所ではない。たとえ樹海の真ん中に放り
出されたとしても、彼女が迷うことはない。それは少女も分かっているだろう。
所詮、敗者の無意味な嫌がらせだったのだろうか。
 果たして少女の思惑が何であったにせよ、彼女はその場に足を止めて少しの時
間迷うことにはなった。当然、道に迷ったのではない。これからどうしたものか
と思案していたのである。
 結局、彼女はこのまま進むことを選んだ。時間はまだある。戻ったところで、
特にやるべきこともない。途中で消えてしまったが、この先に少女が導こうとし
ていた何かがあるのかも知れない。なければないでも構わなかった。時間さえ潰
せれば、どうでも良かったのだ。
 少し歩くと、黒い瓦屋根の建物が見えてきた。民家の屋根にしては些か大き過
ぎる。たぶん寺のものだろう。もしそこが、少女の導こうとしていた場所ならば
どうにも滑稽である。天使と寺、という組み合わせなど聞いたことがない。
 寺からの帰りだろう。前方からこちらに向かって来る女性の姿があった。あの
少女とは関係ない、ごく普通の人間、中年の女性であった。思えば、この道に入
って人とすれ違うのは初めてだった。



 横になってしばらく目を瞑ってみたが、眠れない。けれど起き上がって何かを
する気にもなれない。健司は薄暗い室内で、ただ天井を見つめているだけだった。
 柱の時計は十時二十三分を示している。果たしてそれがいつの十時二十三分な
のか、停止した振り子から推測するのは不可能であった。
 母を弔って以来、半年振りに訪れた実家は、健司にとってくつろげる場所では
なかった。よく知っているのに、どこか見慣れない感じがする。まるで他人の家
に無断で上がり込み、横になっているような感覚だった。
 半年という時間は、まだ家を朽ちさせるには足りないのだろうか。見る限りで
は、目立った傷みはない。室内では埃も積もっていなかった。たぶん、先刻墓地
で出会った女性が、時折掃除してくれているのだろう。
 健司には母以上に母のように思える女性の心遣いは有り難いものだった。きっ
といつか健司がこの地に戻って来る日のため、この家を守ってくれていたのだろ
う。しかしそれは間違いなく徒労に終わる。
 健司は今日を最後に、二度とこの地に戻って来ることはないだろう。こんな田
舎である。ましてや犯罪者の育った家となれば、売りに出したところで買い手が
つくとは考えられない。そうなればやがてこの家には朽ち果てる以外の未来はな
い。
 自分が生まれ育った家だ。それなりに思い出はある。
 健司は幼い頃に父を亡くしていた。従って家計を支えていたのは母だった。朝
早くから夜遅くまで働いていた母。女手一つで子どもを育てる苦労は、想像に難
くない。ただ苦労した母に申し訳ないが、共に過ごす時間と比例して、母との思
い出は少なかった。代わりに、健司の思い出の大半を占めるのは一人の少女だっ
た。
 田嶋優希、それが少女の名前である。
 母親同士が古くからの友人であり家も近く、優希とは物心つくより前からよく
遊んでいた。所謂、幼なじみだった。
 父の死後、働きに出た母に代わって健司の面倒を見てくれたのが優希の母親だ
ったのだ。そのため健司と一つ年下の少女は実の兄妹のように育った。
 成長して行くに従い、健司の世話を焼くのは母親から少女の役目となる。大人
しい健司に対し気の強い少女は、妹というよりも姉のような存在であった。

 何か音が聞こえた。
 家鳴りではない。
 健司の他に、家の中には誰も居ない。
 空耳である、と分かっていた。
 分かっていながら、健司は音につられ台所へと目を遣る。

 とんとんとん、ととん、と、とんとと。
 包丁がまな板を叩く音。
 母親に比べて、お世辞にもリズミカルとは言えない。それどころか少々乱暴に、
音の高低が変化していく。
 よくもあんな包丁さばきで怪我をしないものだと感心していた矢先であった。
「痛っ!」
 短い言葉を発すると同時に左手の指が口元近くへと運ばれる。どうやら包丁で
指を切ったらしい。
「ほら、だから言わないこっちゃないんだ」
 健司は茶箪笥の上から薬箱を取ると、台所に急ぐ。
「何が言わないこっちゃよ」
 心配して来たというのに、健司は制服姿の少女から厳しい視線を投げられる。
振り向き様、束ねた長い髪が鞭のように健司の顔を叩いた。
「弘法筆を選ばず、よ」
 少女は健司から、引っ手繰るようにして薬箱を取った。
「弘法も筆の誤り、じゃないのか?」
「あーっ、いちいちうるさい、うるさい」
 少々ヒステリックな声が少女の口から放たれると、健司はつい、尻込みしてし
まう。少女はこの春中学校へ上がったばかり。健司は二年生になった。歳相応に
青年の体格に近づきつつある健司に対し、少女はまだ大分幼さを残している。だ
が小さい頃から刷り込まれて来た上下関係は、そう容易く覆るものではなかった。
 健司が黙るのを待って、少女は絆創膏を指に貼る。しかしその間中、睨みつけ
るような視線は健司に向けられたままただった。
 頭にはピンク色の格子模様が入った三角巾。制服の上から同じ模様のエプロン
を着けていた。エプロンの中心、お腹の辺りには仔猫の人気キャラクターが描か
れている。よく見れば、格子模様の間にも同じキャラクターの顔が無数に描かれ
ていた。
 男勝り、の言葉をそのまま具現化したような少女にはおよそ似つかわしくない、
可愛らしいデザインである。もっともこの感想は健司の心の中に留まり、決して
口に出されることはない。それほど健司は愚かでない。
「だいたい、あんたねぇ」
 薬箱を健司につき返しながら、少女は言った。
「さっきから、うだうだ文句ばかり言ってないで、少しは感謝の気持ちってもの
を態度に出したらどうなのよ。こんな美少女がアンタの晩ご飯を作ってくれてい
るのよ」
 その台詞の中、殊更「美少女」の部分が強調されていた。
「よくもまあ、恥ずかしげもなく自分のことを、美少女なんて言えるよ」
 とは思いながらも、当然これも言葉にはしない。
 小さい頃、つい少女に口答えをしてしまい、その直後散々な目に会わされた経
験が生きていた。
「だから手伝うって、何度も言ってるだろう」
 代わりに無難な言葉を返す。
「それは絶対にダメ。男の人を台所に立たせたら、私がお母さんに叱られるもの」
 母親の躾なのだろうが、こうしたところは妙に古風である。出来るものならば、
男である健司に暴力的な態度を執るのも止めて欲しいところだ。
「さあさ、用事が済んだら、出て行きなさい」
 薬箱を持った健司を突き飛ばすようにして台所から追い出すと、少女の手にし
た包丁は再び不規則なリズムを刻む。指を切った後に、何がそんなに楽しいと言
うのだろうか。少女は鼻唄を歌っていた。三年ほど前に流行った歌だ。優しい歌
だ。
 包丁の不規則な音と、澄んだ歌声。
 アンバランスな組み合わせだった。
 台所を追い出された健司は、特にすることもなく、ただその歌声を聴いていた。

「さあ、召し上がれ」
 芝居じみた動作で手が差し出される。

 少女の顔には誇らしげな表情が満ち溢れていた。
 きちんと正座し、期待を込めた眼差しでこちらを見つめている。自分の料理に
対する、健司からの評価を待っているのだ。
 黒光りする木製のテーブルに並べられた品々には、少なくとも賑やかさだけは
ある。茶碗に盛られた白いご飯は電気釜の手柄だろう。ただ山のように盛られた
姿はこれまで漫画でしか見たことがない。昆布の佃煮は少女の母の作。その味に
間違いのないことは充分に承知している。小鉢の梅干しもやはり少女の母親が漬
けたものだった。
 当の少女の作品と呼ぶべきものは二品。一つ目は豆腐とワカメのみそ汁だった。
豆腐の大きさが少しばかり不揃いであったが、味に与える影響はないだろう。汁
の色が濃いのも気に掛かるが、飲んで命を落とすほどでもあるまい。試しに一口
啜ってみると、予想に違わず辛かった。ただこれを褒めるのは、どうにも白々し
く思える。
 もう一品はクリームシチューだった。
 みそ汁があるのだから、なにも汁物を重ねなくてもいいだろうと思うが、勿論
口には出さない。だが褒めるのであれば、こちらの方が都合が良さそうだ。並べ
られた品々の中でメインと呼べる存在である。当然、少女の期待もこれに寄せら
れているのであろう。
 健司は両手を添えて、クリームシチューの器を寄せる。出来立てとあって、器
を通し温かさが手に伝わった。
 こちらの色は悪くない。メインと言っても市販の素を使って作ったものだ。よ
ほど大きく分量を間違いでもしない限り、失敗する可能性は低い。
 健司は右手に蓮華を取る。スプーン代わりに用意されていたものだ。
 ジャガイモに人参、玉葱、緑色はブロッコリーだろうか。マッシュルームらし
き姿も見える。まずはジャガイモへと狙いを定め、健司はクリームシチューに蓮
華を差し入れる。しかし大胆なサイズにカットされたジャガイモは、狭い蓮華の
上に収まりきれず、汁だけが掬われた。仕方なく健司はそれを啜った。
「あっ、美味い」
 相手には、聞き取るのに困難さを強いるほど小さな声。
 ため息のような感想が健司の唇から漏れた。
 小さな声であったが、少女の耳にはしっかり届いたらしい。そしてそれは声を
張り上げて絶賛するよりも少女を満足させたようだ。珍しくこちらの言葉に乗っ
て自慢話、苦労話を始めることこそなかったものの、満面の笑みが少女の気持ち
を物語っていた。
 それを見た健司は内心、しくじったと思う。

 美味いとは、食する前にある程度の覚悟を決めていたからこそ漏れた言葉だっ
た。予想外に普通の味だったため思わず声が出た。しかし健司には少女のクリー
ムシチューを絶賛する意図などない。
 願わくは二口目以降、問題が発生しないことを祈るばかりであった。
「うん、これもいい」
 これは意識して言葉にした。
 蓮華で小さく切って口に運んだジャガイモへの感想である。
 サイズの不揃いさ、形の不恰好さは気になるものの、火は芯まで通って柔らか
い。他の具材にも問題はなかった。
 健司も食べ盛りの年齢である。味に問題がないとなれば食は進む。ところが器
の中身もあとわずかのところへ来て、一つの問題に気づいた。
 残り少なくなった汁を掬うため、器の底を擦るようにして蓮華を動かす。蓮華
を通し、じゃり、とした感触が伝わって来た。どうやら、汁の底にクリームシチ
ューの素が溶けきらずに残っていたらしい。
 引き上げた蓮華が掬ったものは、液体ではなかった。良く言えばペースト状、
悪く言うならば泥状になったシチューであった。
 健司は上目遣いで少女を見遣った。相変わらずの笑顔。
 元々喜怒哀楽の激しい少女ではあったが、これほどまでに上機嫌な表情を見せ
るのは珍しい。クリームシチューの素が溶けきらずに残っていた。そんな些細な
ことをわざわざ指摘して、機嫌を損ねる必要もない。健司は、蓮華の上のものを、
黙って口へと運んだ。

 薄暗い部屋の中で、目が覚める。
 健司は潰されたバネが勢いよく戻るかのように、飛び起きた。そして台所へと
視線を送る。しかしそこに求めた姿はない。まな板を叩く、不規則な音はない。
 ああ、そうか。
 声もなく呟く。
 少女はもういないのだ。
 些細なことに憤慨しては、健司に向けられた怒鳴り声はもう聞こえない。
 恥らうことなく、大きく笑う声はもう響かない。
 あるのはただ、紫色の闇。
 あの日、少女の全てが消えたときのまま、止まった時間。
 失ったものの大きさは、時が経てば経つほどに増して行く。身近すぎて疎まし
くさえ思うことのあった存在が、自分にとって如何に大切であったかを、いまに
なって知る。
 健司は人気のない台所を見つめ、幻の少女を思い浮かべた。
 ひい、ふう、みい。
 台所を見ながら、健司は指を折る。
 少女が自分のためにクリームシチューを作ってくれた回数を数えたのだ。

 初めてのクリームシチューから、その後幾度となく少女は食事の世話をしてく
れた。何もクリームシチューばかりを作っていた訳ではない。いろんな料理へと
挑戦をしていた。失敗も多かったが、中には出来栄えの良かったものも沢山あっ
た。しかし何故だかクリームシチューは健司にとって特別な存在になっていた。
少女が初めて作ってくれた料理、ということもあるだろう。健司の中で、クリー
ムシチューの味は少女の思い出と一体化していた。
 そのためもあってか、他の料理は忘れてしまったが、少女がクリームシチュー
を作ってくれた回数だけは明確に覚えている。
 あれは落雷を伴った夕立のあった日だった。
 あれはその冬一番の寒波が訪れた日だった。
 あれは中間テストの二日目だった。
 一本一本、その日の出来事を思い起こしては指を折る。が、少女との記憶のな
い一本を折っていたことに気がつく。
 少女と同様、健司にとり特別な食べ物となっていたクリームシチュー。少女が
消えたとき以降、口にすることはなかったはず。
「ああ……」
 少し考えて、健司は折ってしまった指の理由を思い出した。わずか数日前、少
女と同じ名を持つ彼女が作ってくれた、クリームシチューを。



 たとえれば道端に転がっている石ころ。あるいは空き地に生えている雑草。
 彼女の目的には何の関わりもない。気に掛ける必要性は全くない。
 それがそこにあるということにさえ、気づきもせずに通り過ぎる。彼女にして
みれば、中年女性はその程度の存在に過ぎない、はずだった。街中で出会った者
たちの、殆ど全てとの関係がそうであったように、一瞬の間にすれ違い二度と会
うことはない。思い出すどころか、記憶の片隅にも残らない。それだけの関係に
終わるはずだった。
 しかし中年女性が発した小さな叫び声は、彼女の足を止めさせる。それは明ら
かに、彼女の顔を見て発せられたものであったからだ。
「何か?」
 彼女は女性へと問う。
 別に訝しんでのことではない。
 目的には全く関係のない者が、自分に対して何を思おうと興味などなかった。
足を止めたのも、声を掛けたのも彼女の単なる気まぐれからだった。
 返答はなかった。
 それ以前に、彼女の声も耳に届いていないようである。女性は目を見開き、惚
けたような表情で彼女を凝視していた。
 震える唇から、微かに声が漏れる。
「………ゆうき……」
 聞き取りにくい声ではあったが、確かにそう聞こえた。
「何か?」
 耳に届いた声を無視するかのように、彼女は問いを繰り返す。中年女性が口に
した名前に答えると、何か面倒になりそうだ。と、直感したのだ。
「あっ、ごめんなさい」
 ようやく我に返った女性は、深々と頭を下げた。そして微笑む。しかしその微
笑は、どこか寂しげだった。
「あなたが、知っている人と、あまりにもそっくりだったから。本当にごめんな
さい」
 再び女性は頭を下げる。
「人違いでしょう。私はあなたを知らない」
「え、ええ。分かっています。その人はもう、この世にはいない人ですから」
「そうですか………」
 これ以上、女性と関わる必要もない。彼女は短い会話をそれまでとして、止め
ていた足を動かそうとする。
「本当にごめんなさいね」
 三度、女性が頭を下げた。





#279/598 ●長編    *** コメント #278 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:58  (494)
白き翼を持つ悪魔【08】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:48 修正 第2版
 予想に反することなく、彼女は寺に到達した。ここはかなりの高台らしく、海
がよく見渡せる。強い潮風が、彼女の髪を踊らせた。
 顔に掛かった己の髪を払おうと、右手を遣った。しかし風の中、払った先から
また髪は顔に掛かる。風が止むまでは無意味と知りつつ、再度髪を払おうとして
手を動かす。だが、風が止まるより先に、手が止まった。
「これは?」
 上げ掛けた手を、彼女はじっと見つめる。その指先は濡れていた。
 指先を濡らした原因を探るべく、反対側の手を顔へと運ぶ。指先は額から眉に
掛けて舐めていく。さらに目から頬へと移動し、そこで止まった。
 頬が濡れていた。
 ややあって、濡れた指を顔から少し離す。目で確認した後、今度は鼻に近づけ
る。潮の香りがした。
「涙、なのか」
 彼女の他、誰もいない中で、問うように呟く。
 天を仰げば、陽の光が眩しい。雨に濡れたのではない。
 強い風に、海水が運ばれて来たのだろうか。もう一度頬に触れさせた指で、そ
の源を辿る。それは確かに彼女の目から、零れたものであった。
 彼女は指を広げて、両の目より溢れる涙を拭う。
 人は感情の昂ぶりによって涙を流す。
 嬉しいとき、悲しいとき、悔しさに打ち震えるとき、怒りに満ちたとき。人で
はない彼女だが、人の姿を借りている以上、感情の動きで涙を流すこともあり得
るだろう。だが彼女には、涙を流すほど感情を動かした覚えなどない。また、目
にゴミが入る、どこかに傷を負う等の外的刺激を受けた記憶もない。もちろん外
的刺激を受けて全く気がつかないでいるほど鈍くもない。
 彼女は周囲を見渡した。
 涙についての詮索はもう忘れていた。自分に思い当たる節がない以上、詮索し
ても答えの出しようもないだろう。
 それよりも少女が自分をここに導いた理由に、彼女の興味は向いていた。
 周囲に人影はない。寺の中に入れば誰かいるのだろうが、まさか住職の説法を
聞かせることが少女の目的ではあるまい。
 寺の周りには墓地が広がっている。これもまた、別段珍しい光景ではないだろ
う。
 特に感じるものも見つけられないまま、彼女は墓地の方へと足を運んだ。


 比べる他の場所を知らなかったが、手入れの行き届いた墓地であった。それが
住職によるものなのか、頻繁に墓参りする者が在るためなのかまでは分からない。
とにかく周りに生えた雑草は少なく、古びた感はするものの汚れた墓石はほとん
どない。花や酒、菓子類と、供物も目立った。どうやら墓参りする者が少なくな
いようである。ただ、彼女の他に人の姿がないのは偶然か。いや、盆暮れならい
ざ知らず墓参者が多いとは言っても賑わう場所ではない。また何時間も長居する
ような場所でもない。こんなものなのであろう。
 目的もなく歩くうち、一際見晴らしのいい場所に出た。墓地の端まで来ていた
のだ。
 先刻、バスを降りた場所での眺めも悪くなかったが、こことでは比較にならな
い。海の広さをまさに体感出来る場所であった。
 ここが高台に位置することに加え、彼女の立つ場所より数歩先が崖になってい
るため、眺望を妨げる物が存在しない。緩やかに弧を描く水平線が、はっきりと
見て取れた。人に教えられずとも、地球は丸いのだと理解される。どこまでも広
い海を見つめていると、風景の全てが自分に覆い被さって来るかのような錯覚に
捕らわれる。
 もしリゾート開発会社の役員がこの風景の前に立たされたとしたなら、墓地を
潰し巨大ホテルの建設を目論むことだろう。
 何事にも心動かすことのない彼女であったが、この風景の前にはしばらく立ち
尽くした。
 ややあって、潮の香りとは別の匂いに促され、彼女は我へ返る。そしてゆっく
りと首を振り、香りの出所を探した。
 香りは彼女から一番近い墓の前から、白い煙と共に発せられていた。墓前に供
えられた線香のものであった。
 何をする、という気持ちも考えもなく、彼女はその墓前へと進む。
 赤く艶やかな苺と小さな和菓子。コミカルなキャラクターが印刷されたパッケ
ージのチョコレート菓子もある。墓の主は子どもだろうか。左右には少々窮屈な
形で束になった花。
 いままさに煙を立ち上らせる線香が一束。もう一束分の灰も、まだ線香の形を
留めているところから、今日のうち二人、あるいは二組の墓参があったのだろう。
 彼女にはそのうち一人について、思い当たる者があった。
 寺に着く直前、出会ったあの中年女性である。
 あの道は寺に続く以外、行き先はなかった。従って女性は寺から出て来たばか
りと考えて間違いない。広い墓地の全てを周った訳ではないため、断定はしかね
るが他に線香の煙は見当たらない。あの女性はこの墓に参った帰りだったのだ。
 もちろん何処か用事を足しに向かう寺の住人、とも考えられる。あるいは彼女
が見ていない、別の墓を参ったのかも知れない。だが彼女は、あの女性がこの墓
を参ったのだと確信した。
 根拠はない。それに女性が何者であり、ここで何をしていたのであっても彼女
には何ら関係ない。
 そう思いつつも、何か身体の奥から沸き起こる興味に押され、彼女は墓石に刻
まれた文字を読んだ。そこには墓の下で眠る者の俗名が記されていた。
「田嶋優希………」
 それは人の姿を借りる彼女が名乗る名前。そして青年の心の中にあった名前だ
った。
「思い出してくれた?」
 背後からの声に、彼女は緩慢な動作で振り返る。
 そこにはあの少女がいた。中学生くらいと思われる姿をしている。
「お前か、お前がここに私を導いたのか」
 彼女の言葉に、少女は答えない。ただ何かを期待する眼差しを、彼女へと向け
る。
 少女が何を期待しているのか。何を目論んでいるのか分からない。何れにして
も悪足掻きに過ぎないだろうが、どんな微々たる結果であろうと少女の期待に沿
うつもりなどない。彼女は少女を睨みつけた。
「私じゃない」
 やがて期待した結果を得られないと悟ったのか、少女は首を横に振りながら呟
くように言った。
「なに?」
 まるで悪戯の現場を見つけられた子どもの言い訳である。少女の言葉に、問い
ただす彼女の語気も荒くなる。
「ここに来たのはあなたの意思よ」
 少女の言い分は間違いではない。確かに少女が彼女へ、着いて来いとは一言も
発していなかった。だがそれは屁理屈でもある。敗者の悪足掻きはもはや、相手
にする価値が皆無となったようだ。
「お前が、田嶋優希なのだな」
 素直に答えが返ると思わなかった。しかし彼女の考えに間違いはないだろう。
 少女は天使などではない。田嶋優希なのだ。
 青年の心に、深く存在を刻んだ少女。青年とは幼馴染であり、既にこの世の者
ではないとまでは分かっていた。如何なる理由で少女が命を落としたのか、そこ
までは閉ざされていた青年の心を読むには至らなかった。しかしその死が青年を
歪ませた。だからこそ、彼女はその名を利用し、行動を躊躇していた青年の背中
を押してやったのだ。
 いや、それは少し違うかも知れない。
 名前は利用した。だがそれには手助けをしてくれた者の存在が大きい。
「これもお前のものだな」
 彼女はコートの内ポケットから取り出したものを、少女に見せた。「田嶋優希」
名義の通帳とカードである。
 少女はこくりと頷く。
「お小遣いや、お年玉を貯めたもの」
 これで少女が田嶋優希であると決まった。
 死した後も何らかの理由で田嶋優希の魂は、この世に留まった。幾度か彼女の
妨害をしたことから推測すれば、青年を守りたかったのだろうか。しかし所詮は
人の魂。俗に幽霊と呼ばれる存在が、魂をも喰らう悪魔に敵うはずはない。少女
が守ろうとした青年は、間もなく鬼畜道へと落ちる。
 ただ少女の正体が分かっても尚、疑問が残った。
 もし少女が青年を守りたいがゆえにこの世に留まっていたとするなら、なぜ彼
女にこの金を託したのだろうか。
 彼女が青年に近づいたのは、「成すべき事を成す」ためである。悪魔の眷属で
ある彼女が成すべき事とは、青年を守ろうとする少女とは当然相反するものだろ
う。だが金を与えたことにより、青年を破滅の道に誘おうとする彼女を、結果的
には手助けしているのだ。
 あるいは、少女もまた彼女側の存在なのだろうか。
 青年を歪ませた少女の死には、何か深い事情があるのだと推測するのに容易い。
それならば命を落とした当人、すなわち少女自身、この世に怨みを残していたの
だとしても不思議はない。少女はその怨みを晴らすため、彼女を利用したのだろ
うか。
「誰も傷つけたくなかったから」
 彼女の思考に呼応するかのようなタイミングで、少女は言った。しかしその言
葉の意味を彼女が理解するのには、幾らかの時間を必要とした。
 二人の男。あまりにもその存在の矮小さゆえ忘れていたが、彼女は金銭を得る
ため彼らの命を奪おうとしていた。少女の妨害によって逃がしていたが、もしも
その後通帳とカードを手にしていなければ、再び彼らか別の者の金と命を奪って
いただろう。
「もう時間がないの」
 その言葉の示すところは、彼女にもすぐ理解出来た。少女は青年が最後の行動
を起こすまでの、残り時間を言っているのだ。しかし敗北の決まった者が時間を
気にしても無意味であろう。もう彼女は何もしなくていい。するつもりもない。
ただその時が来るのを待つだけでいいのだ。
 相手への侮蔑と勝利への確信に満ちた笑みを、彼女は隠そうともしなかった。
そんな彼女に対し、少女は悲しげに目を伏せる。
「まだ思い出せないのね………ここに来れば、全部思い出せると思ったのに」
 また発せられた意味不明の言葉。いや、初めから意味などないのだろう。抗う
術を失った少女の、悪足掻きに過ぎない。さも意味ありげな戯言で彼女を惑わそ
うとでもいうのだろう。その結果は徒労に終わる。
「見苦しいな。これ以上お前に付き合ってはいられない」
 気がつけば太陽は随分と低い位置へ移動していた。潮の香りを伴った風も、こ
こに着いた当初より冷たさを増している。
 彼女は踵を返し、この場から立ち去ろうとした。その途端のことである。
「あっ………うっ」
 突然の不調が彼女の身体を襲う。
 朝からの動悸が激しさを一層増す。偽りであるはずの左胸に痛みが走る。上手
く呼吸が出来ず、喉が奇妙な音を立てた。
 彼女は膝から、地面へと崩れ落ちた。両手を突き、顔面が地に直撃するのを防
ぐ。
 頭が割れるように痛い。頭痛の影響か、視界まで霞んで来た。目に映る地面が
急速に遠のいたり、近づいたりを繰り返す。
 それは彼女が初めて経験する苦痛であった。昨晩、女たちによって受けた暴行
すら比較にはならない。
「お、ま……え、の………」
 お前の仕業なのか。声にならない声で、少女を問いただそうとした。答えが返
るまで待たず、彼女は重たい頭を上げ、霞む視線を少女へ向ける。
 答えが返らないはずである。
 そこに少女の姿はない。しかし今度は消えたわけではなかった。彼女の向けた
視線が、少々高すぎる位置にあったのだ。
 やや視線を落とすと、少女はそこにいた。
 彼女と同様、両膝と両手を地に着けて。
 霞む視界の中、はっきり見て取ることは叶わないが地に向けられた少女の顔か
ら、雫が垂れ落ちる。汗なのか、涙なのか、あるいは涎であるのか。
 突如彼女を襲った苦痛は、同時に少女をも襲ったらしい。
 この苦痛は少女がもたらしたものではないのか。だがこのタイミングで彼女と
少女が同時に、体調や病から苦痛に襲われるという偶然は考えにくい。それ以前
に、悪魔である彼女と、幽霊である少女が身体的な理由から、苦痛を受けるはず
はない。
 あるいは他の第三者の仕業なのか。
 これには思い当たる節が全くなかった。いや、もし彼女が冷静に思考を働かせ
ていたなら、何か原因を特定出来たかも知れない。しかし一秒毎に激しさを増し
ていく苦痛に、思考力は著しく低下していた。
 上半身を支えていた両腕も、もはやその力を失った。そのまま彼女は、顔面か
ら地面へ落ちてしまう。口や鼻に土が入り苦しいとは感じるが、それを認識する
能力も失われていた。
(たすけて………)
 声は出ていない。掠れていく意識がうわ言のように助けを求めていた。その言
葉は、彼女の脳裏に浮かぶ一つの顔に投げられていた。
 地獄の王ではない。
 青年でも少女へでもない。
 彼女が助けを求めた顔は、これまで関わりらしい関わりを持っていない人物の
ものだった。それは先刻、ただすれ違っただけの、中年女性の顔だった。



 ふいに意識が戻る。その視界が最初に捉えたものは、くっきりと木目の浮かん
だ板であった。
「ここはどこだ?」
 うつ伏せに倒れ込んだはずが、いつの間にか仰向けになっていることに気づく。
彼女が見ていたのは天井の板だった。
「てんじょう?」
 墓地に何故天井があるのか、理解出来ない。彼女は自分の置かれた状況を把握
しようと視線を巡らす。
 どうやら彼女はどこかの家に居るらしい。その一室で、布団に寝かされていた
のだ。
「よう、目が覚めたみたいだな」
 頭の方から、男の声がする。
 声の出所を求め、彼女は顔を動かそうとしたが、思うようにならない。身体が
重く、自由が利かない。そんな状態を察したのだろうか、声の主の方から、彼女
の目の前に顔を動かして来た。
「お前は………」
 声の主は笠原健司であった。
 いや、しかし何か違和感がある。
「何だ、どこか痛いのか?」
 違和感の正体を付き止めようとする彼女は、無意識のうち、眉間にしわを寄せ
ていた。相手はそれを苦痛の表情と勘違いしたらしい。覗き込む青年の顔を見つ
め、ようやく彼女は違和感の正体に行き着いた。
 青年、いやいまは寧ろ少年と呼ぶ方が相応しいかも知れない。目の前にある笠
原健司の顔は、彼女の見慣れたものより若い、あるいは幼いのだ。
「お前は笠原健司なのか?」
 少し声を高めたつもりだったが、掠れてしまい大きくはならない。
「バカなこと言ってないで、ちゃんとケンちゃんにお礼、いいなさい」
 彼女に答えたのは青年ではない。別の、女性の声だった。彼女は声の主を求め
る。今度はそれほどの労力も必要なかった。首をわずかに右へ向けるだけで済む。
 そこには清潔感のある白いエプロンをした女性が立っていた。女性の手には丸
い盆があり、飾り気のないグラスと黄色い小さな箱が載せられている。
 その女性にも見覚えがあった。墓地の近くですれ違った、あの中年女性だ。こ
ちらも青年同様、先刻会ったときよりも若く見える。
「あなたは誰?」
 自分の置かれた状況が、全く理解出来ない。彼女にしてみれば、これまでに使
った覚えのない丁寧な口調で女性へと尋ねる。
「あら、この子ったら寝ぼけているの? 自分の母親に向かって」
 女性は彼女の横で腰を下ろし、正座した。それから盆を脇に置くと、左手を彼
女の額に、右手を自分の額へと宛がった。
「うーん、まだ熱っぽいわね。身体、起こせるかしら?」
 女性に逆らうつもりはない。気力もない。彼女は小さく頷くと、言われるまま
に上半身を起こそうとした。そんな彼女を助けるため、背中に女性の手が回され
た。しかし上体を起こそうとする彼女の行動は、自らの意思で中座させられる。
「あっ………」
 ふいに湧き上がった感情。彼女は一瞬、健司の方に目を遣り、すぐに女性へと
顔を向け直す。
 女性は彼女の感情をすぐに察したようだ。口元をわずかに綻ばせると、健司へ
言葉を掛ける。
「ごめんなさい、ケンちゃん。ちょっと外してくれるかしら」
「えっ、あ、ああ。分かりました」
 女性に促され、健司は立ち上がった。

 彼女は恥ずかしかったのだ。
 異性に寝姿を見られていたのだと思うと、顔から火が出るほどに恥ずかしい。
さらに上体を起こせばパジャマ姿を曝すことになる。親しい間柄であっても、そ
れには強い抵抗感があった。
(親しい?)
 彼女は自らの思考に疑問を持つ。
 確かに地獄からこの世へやって来て、最も深く関わりを持った人間は笠原健司
であった。しかしそれは彼女の目的を果たすためであり、見せ掛け上はともかく、
健司に親しさを感じたことなど一瞬たりともない。それなのにいま、健司を親し
いと感じることに何ら抵抗はなかった。
 健司が部屋を出るのを待って、女性は彼女が起き上がるのを手伝ってくれた。
そして傍らに置いた盆上の箱を取る。市販の薬であった。中からカプセル薬を出
すと、彼女へ飲むようにと促す。彼女は素直に従い、カプセルを口に含むと続い
て手渡されたグラスの水で喉に流し込んだ。
 どれだけ効果の高い薬であったとしても、この短時間で効くはずなどない。だ
が再び布団へと横にさせられた彼女は、身体が随分楽になったような気がする。
「少し汗をかいたみたいね、食事の後で着替えましょう。いまお粥を作っている
から、ね。食べられるわね?」
 優しく幼子に語り掛けるような女性の声は、彼女の心を落ち着かせる。彼女は
ただ、うん、と短く答え頷いた。
「おばさん、優希も気がついたし、ぼく、もう帰ります」
 奥から健司の声がした。あるいは彼女を気遣っているのか、少し距離があるの
にも関わらず、大きさを控えた声である。
「あっ、待ってケンちゃん。夕ご飯、食べて行ってちょうだい」
「いえ、今日は母さん、早く帰って来るんで」
 とんとんと、何かを叩く音。たぶん、玄関で足を靴に押し込む音だろう。続け
ざまにドアを開ける音、閉める音。まだ何か言おうとしていた女性の言葉を待た
ず、健司は帰ってしまった。
「気を使ってくれたみたいね」
 と、ため息にも似た女性の微笑み。それから彼女を見つめて言った。
「あなたケンちゃんにまだ、お礼言ってないでしょ? あとで、ちゃんと言わな
くっちゃね」
「私………どうしたの?」
 墓地で倒れているところを運ばれた、というのではないだろう。状況を知るた
めに彼女は尋ねた。
「あら、本当に覚えてないの。あなた、学校で倒れたのよ。風邪で熱を出したみ
たい。勉強もいいけれど、夜更かしのし過ぎよ。それでね、ケンちゃんが負ぶっ
て、家まで運んでくれたの。寒いのに、自分はシャツ一枚になって、学生服とコ
ートをあなたに被せて。ん、そろそろいい頃ね」
 話の途中で女性は立ち上がった。どこからか、いい匂いがして来る。粥の煮え
る香りだ。耳を澄ますと、ことことと鍋の音も聞こえる。
「玉子、入れるわよね?」
「うん、入れて」
 台所へと向かう女性の背中を見送りながら、彼女は頭の中で状況を整理する。
 いまの自分は田嶋優希なのだ。それは勿論、成り行き上名乗った名前ではなく、
本物の田嶋優希なのだ。それも過去の、何年前が定かではないが、中学生くらい
の田嶋優希であるらしい。
 そしてあの女性はその母親なのだ。
 なぜ時間を遡り、彼女が田嶋優希となったのか。考えても分からない。悪魔の
眷属である彼女にも、試したこともないがそんな力はない。ましてや、たかが幽
霊でしかないあの少女―――田嶋優希自身に成せる業ではないだろう。
 しかし、そんなことはもうどうでも良くなっていた。
 成すべき事を成す。これまで行動の全てを司って来た目的も、いまは彼女を駆
り立てようとしない。このまま田嶋優希として、この時間を生きるのも悪くない。
台所で仕事をする女性の背中を見ながら、彼女は経験したことのない、穏やかな
気持ちになっていた。
 部屋の隅で、ストーブの上のヤカンがしゅうしゅうと鳴っている。
 やがて玉子粥の香りが漂って来た。
 彼女は軽い空腹感を覚えた。



 夢の終わりとは、唐突なものである。
 待ちかねた玉子粥を彼女が口にすることはなかった。当然であろう。一体どこ
の誰が、墓地まで玉子粥を運んで来ると言うのだろう。
 彼女が横になっていたのは、暖かい布団ではなく、冷たい土の上であった。
 ゆっくりと彼女は立ち上がる。それから、口の中の土を、唾と一緒に吐き出し
た。辺りの風景に変化はない。唯一あるとしたなら、空の色が夕刻のそれに変わ
っていたことくらいである。
「当たり前だな」
 彼女は自嘲の笑みを浮かべた。
 何者であろうと、時を戻すことなど出来るはずはない。まして遡った時間の中
で別の人間に生まれ変わるなどとは論外だ。それが悪魔だろうと、天使だろうと
である。
 有り得ない時間の中で、愚かな考えを持った自分が滑稽で仕方ない。
「いまのは、お前が見せたのではないのか?」
 見れば彼女同様に倒れていた少女も、いま起き上がるところであった。
「いいえ」
 身体に付いた土を払いながら、少女は否定する。
 幽霊であっても汚れるものなのかと、彼女は不思議に思った。
 少女は否定したものの、同時にあることを彼女に伝えていた。彼女の見た夢を、
少女も知っているのである。
「あれはあなた自身の記憶」
 全く予想もしていなかった答え、ではなかった。あるいは、と思ってはいたも
ののあまりにも馬鹿げたことを平然と言ってのける少女に、彼女の顔から笑みが
消える。
「私の記憶だと? 私が本物の田嶋優希だと言うのか。はん、それではお前は何
者だ」
「私は、あなた」

 答えに窮したり、言い澱んだりはない。どこかでシミュレーションを重ねて来
たのではないだろうかと想像されるほど、少女の言葉はスムーズであった。
「なるほど、私もお前も田嶋優希と言うわけか」
 彼女は首を横に振る。
 気になることは多いが、少女と話を続けていても満足の行く答えは得られそう
にない。時間はもう、それほど残されてはいない。今度こそ、彼女はこの場を立
ち去ろうとした。
「あなたは、はんぶんの私」
 背中から聞こえる声に、彼女は無視を決め込む。
 だが少女はそれを許す気がないようだ。

「私は、はんぶんのあなた」
 続く声は前方からであった。相手が幽霊であるならば、不思議はない。少女は
瞬間的に、彼女の前に移動したのだった。
「思い出して! いいえ、もうあなたは分かっているはず。さっき、倒れる前に、
あなたはお母さんの顔を思い浮かべたでしょう」
「黙れ」
 すがるような少女の目は、彼女を苛立たせる。
「もう時間がないの、ケンちゃんを止めて!」
「止めたければ、自分で止めるがいい。もっとも私がそれを許しはしないがな」
「止められるのはあなただけなの」
「黙れ、退け! これ以上邪魔をするな」

「あなたは、はんぶんの………」
 もはや彼女の怒りは、頂点へと達していた。少女が言い終えるのを待たず、そ
の口を塞ぐための行動に出ていた。
 巨大な朱色の鎌を振るっていた。
 己の武器が、幽霊に通じると予測した上の行動ではない。だが少女の身体は頭
の中心から股間へと一直線に裂ける。あるいは先刻土の汚れを払っていたところ
を見れば、幽霊とは言っても少女は何らかの実体を持った存在なのだろう。
 二つに裂かれた少女の半身は、光の粒と変わり、夕暮れの中に消えて行く。そ
の様子はまるで季節外れの蛍のようであった。
 しかし半身は残される。
 身体の中央から左半分だけの姿となって、その場に立っていた。
「私は、半分のあなた」
 左半身のみの異様な姿となっても、少女はそれ以前と変わらない調子で言葉を
綴る。そこには半身を斬り捨てた彼女への怨み、憎しみが込められた様子もない。
 寧ろ少女を半分に斬り捨てた彼女のほうに、動揺があった。
「左、半分だと」
 目の前に立つ少女の姿に、覚えがある。それは他ならぬ、彼女自身の姿であっ
た。
 頭の中で何かが割れる音が、聞こえたような気がした。次の瞬間。
 少女の半身が四散したように、彼女の半身も風に融けて行く。そして右半分だ
けが残された。
「まやかしか」
 叫びに近い声を上げ、彼女は再度鎌を振る。真横に少女を斬り裂こうとして。
しかし鎌は空を斬るだけであった。一度は斬れた少女が、二度目は斬れない。彼
女は三度、次は斜めに鎌を振るったが、やはり少女の身体を素通りするだけであ
った。
「もうあなたも分かっているはずよ。私も、あなたも、田嶋優希。あの時、一人
の心が二つに分かれてしまった」
 少女はゆっくりと歩み寄る。左半分だけの身体には、当然左足しかない。それ
でも跳ねたり飛んだりするのではなく、まるで両足で歩くのと変わらない動きで
彼女へと近づいて来る。
「ああ」
 これ以上は無駄と知ると、彼女は鎌を手放した。手から離れた途端、鎌は形を
崩し彼女の身体へと吸い込まれるように消えた。
「あの時とは、何のことだか分からないが、確かに私も田嶋優希らしい」
 彼女の言葉は、少女の顔に笑みをもたらした。安堵の表情を浮かべた少女は、
彼女へと手を差し出す。
 だがすぐに少女の顔から笑みは消え、その表情は曇る。差し出された手を、彼
女が振り払ったのだ。
「つまりは善と悪の心に別れた、と言うことだろう。悪の心は地獄に堕ち、悪魔
となった。それが私だ」
「違うの! そうじゃ………」
 少女の言葉は待たない。
 彼女は力を放った。いや、正しくは心を放ったとでも言おうか。
 少女を「拒否する」と言う感情を放ったのだった。
 感情は激しい風となる。しかし物理的な力は持たない風である。
 草木は揺らさない。
 土埃は舞わない。
 だが少女は押し戻す。
「だめ、このままじゃ、ケンちゃんが………」
 髪も服も、激しく後方へ流れる中、少女は懸命にその場に留まろうとしている。
彼女は放つ力を更に強めた。
「私の目的は、その笠原健司を滅ぼすことだ」
「どうして」
 少女は泣いているようにも見えた。しかし何一つそよがすことない風だが、彼
女が拒む少女の涙は吹き飛ばされ、姿は見止められない。
「元が何であれ、私は悪魔だ。今更、田嶋優希に戻れるものか。私は私の『成す
べき事』を成すのみ」
 咆哮にも似た彼女の言葉が、少女の耳へと届いたのかは分からない。全てを言
い終えるより先に、力尽き、少女は何処かへと飛ばされて行ったのだ。
 そこは薄暗い墓地。

 少女が消え、彼女の他人影はない。
 時計を持たない彼女に正確な時間は分からなかったが、目的が達せられるまで
はあとわずかであろう。そろそろ、その場へと向かおうと考えた。
 気がつけば彼女の左半身も、元に戻っていた。
「私は悪魔だ」
 呟く彼女の目には、涙が溢れていた。


 夜もだいぶ更けてきた。
 目的の時刻が迫る中で、健司は最後の寄り道をしていた。
 この町ではどこに居ても、そこは思い出の場所であった。
 降り立った駅、バス停、家も寺も、田も畑も、道端にすら優希と共有していた
時間の思い出がある。
 その思い出の途切れた場所に、健司は来ていた。
 月が綺麗だ。今宵は十五夜だったか、十六夜だったか。別段、花鳥風月に親し
む習慣のない健司だったが、どこか風流な気分になってしまう。
 海に朝陽夕陽の絵はよく目にするが、月も悪くない。笠原健司は海岸に来てい
た。
 さくさくと音を立てながら砂浜を歩く。月の明かり以外、何もない中でも砂の
白さは、はっきり見て取れた。
 町とは名ばかりで、何もない田舎である。
 近代的な高層建築は当然、名所旧跡といった観光の対象になるものもない。た
だ唯一、健司が誰かに故郷自慢をするならば、この海岸の話をするだろう。
 岩場と岩場の間に挟まれ、それほどの広さはない。しかしゴミ一つない白い砂
浜の美しさは、有名な観光地にも劣らない。
 ただ数年前、この砂浜に一つの漂着物があった。
 それが笠原健司の幼馴染みである、田嶋優希の亡き骸であった。
 砂浜の半ば、波打ち際近くで健司は足を止める。ちょうどこの辺りに、優希の
冷たくなった身体が横たわっていたのだ。
 屈み込み一握の砂を手にする。すぐに立ち上がり、真っ直ぐに伸ばした拳をゆ
っくりと開く。
 手から零れた砂が、潮風に流され、落ちていく。
 あの日のことは、忘れたことがない。いまでも昨日のことのように覚えている。

 優希が無断外泊をするなどとは考えられない。幼馴染みの健司と優希である。
互いの家で寝泊りすることは何度かあったが、当然それは親も承知の上であった。
大きくなったとはいえ、まだ中学三年生、まして母親思いの優希が連絡の一つも
なく遅くまで家に帰って来ないのだ。何か尋常でないことが起きたと思うのは当
たり前だろう。
 健司が優希の母親から電話を受けたのが、夜の八時を少し回ったくらいの頃だ
った。
 その時はまだ、健司も切迫したものを感じはしなかった。テニス部に所属して
いた優希の帰りがその位の時間になるのは、珍しくなかったのである。高校受験
を控え、既に引退していたものの、面倒見のいい優希は度々部に顔を出しては後
輩を指導していた。
 今日も多分、そんな理由なのだろうと健司は考えた。それは優希の母親も同様
であったろう。だがその判断は間違いであったと、後になって分かる。
 次に電話があったのは、九時半だった。
 優希はまだ帰らず、連絡もない。念のため、学校に電話してみたが誰も出ない
とのことだった。
 そこで健司も不安を覚えた。
 一応、ぼくが学校を見てきます。おばさんは心当たりに電話してみて下さい。
優希の母親にそう告げて、健司は受話器を置いた。
 そのまま玄関に向かう健司に、隣の部屋で会話を聞いていたのだろう。母親が
コートを手渡してくれた。
 健司の母校であり、優希の通う中学校までは、自転車で十五分ほど掛かる。夜
間は車の通りもほとんどなく、注意しつつも目一杯速度を上げた自転車は、十分
を大幅に切る時間で中学校に到着する。
 しかしそこで優希の姿を見つけることは出来なかった。校庭側から見る校舎に
明かりはない。その夜は空に月も星もなく、闇に聳える築後五年、三階建ての校
舎は不気味な佇まいを見せるだけであった。
 まさかとは思いながらも、健司は校舎の裏手へと回る。通用門の前に立つと、
備え付けのインターフォンを押してみた。しばらく待つが応答はない。もう一度
押してみるが、やはり誰も出ない。もともとこの中学校では宿直を置いていない。
諦めてその場を離れようとした健司だが、振り返り無人の校舎に目を凝らして見
た。微かに赤い光が見止められたが、あれは非常灯のものだ。
 自転車に跨った健司は、この後の行動について思案する。とりあえず学校には
居なかったと優希の母親に連絡するべきなのだが、生憎携帯電話は持っていない。
近くに公衆電話もない。そうだ、テニス部の顧問でもある教師の自宅が、学校か
ら近い。まさかこの時刻に、優希がそこにいるとは思えないが、何か分かるかも
知れない。
 健司は、自転車のペダルを強く漕ぎ出した。




#280/598 ●長編    *** コメント #279 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:59  (470)
白き翼を持つ悪魔【09】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:52 修正 第2版
 同じ町内であっても、この辺りには滅多に来ない。ただ健司も中学生時代、テ
ニス部に籍を置いていたため、その教師の自宅は数度訪ねたことがある。多少迷
うだろうかと思われたが、予想以上スムーズに辿り着けた。

「おおっ、笠原じゃないか。どうした、久しぶりだな」
 呼び鈴を押してから、幾らも待たず、気さくな男性教師が姿を現す。
「前田先生、ご無沙汰しています」
 卒業後初めての対面だったが、挨拶もそこそこに健司は用件を告げた。途端に
男性教師の顔から笑顔が消え失せ、代わりに眉の間へ深い皺が刻まれる。
「おかしいな。確かに田嶋は引退後も、よく後輩の指導に顔を出してくれていた
が。今日の部活は休みだ。ほら、試験が近いだろう」
 教師に言われて初めて思い出す。高校に入学してからは部活動に参加していな
かったため失念していたのだろう。あるいは優希のことで、自分が考えている以
上に混乱していたためか。通常、試験前の部活動は休みになるものだ。
「それで、警察には届けたのか?」
「あ、いえ、どうだろう」
「そうか、よし、お前、学校の様子を見に行った帰りだって言ったな。そのこと
も含めて、田嶋の親御さんには俺から電話を入れておこう。それから、校長や他
の先生方にもな」
「なにもそこまで大げさにしなくても………」
 事態を楽観視していたわけではない。健司が心配したのは、無事優希が見つか
った場合、騒ぎが大きくなっていたことで、その後学校で気まずい思いをするの
ではないかと考えたのだ。
「大げさじゃない、普段の素行が悪い生徒ならともかく………いや、これは失言
だ。中学生の女の子がこの時間まで、連絡もなく、家に帰らない。まず、事件や
事故のことを考えておくべきだろう。だとしたら、対策を打つのに一秒でも早い
に越したことはない」
 男性教師の言葉に、健司は自分が如何に頼りないかを思い知らせされる。もし
本当に優希の身に何かが起きたとするなら、それを探す人手も、情報も多いほう
がいいに決まっている。
 男性教師は、既に受話器を手にしていた。玄関前、靴箱の上に電話機が置かれ
ており、横の壁には何か表のようなものが貼られていた。薄暗いせいもあり、は
っきりとは見て取れないが、男性教師の受け持ち生徒及び、テニス部部員の連絡
先が記されているようだ。
「もしもし田嶋さんのお宅でしょうか? わたくし、………中学の教師でテニス
部の顧問をしております前田です。あ、いえ、こちらこそ。たったいま笠原君が
私の所へ参りまして、事情を伺ったところです。それで優希さんは? まだです
か………」
 警察のこと、学校関係者への連絡は男性教師に任せていいだろう。ここにただ
立っていても、何も起こりはしない。健司は門の前に停めた自転車へ戻る。
「お母さん、ちょっと待って下さい。おい、笠原、待て! 時間も遅い。車で送
るぞ」
 男性教師の声が掛けられた時にはもう、自転車は走り出していた。
「大丈夫です」
 答えた声が、果たして相手の耳に届いたのか、確認は出来ない。

 時間は分からない。しかし家を出て学校を回り、男性教師の自宅へとで、だい
ぶ遅くなったものと思われる。
 その間、優希の母親が彼女の立ち寄りそうな友人宅には、連絡を入れているだ
ろう。それでも万一ということもある。
 男性教師から警察という単語を聞かされ、健司は少し焦っていた。
 頭の中で優希と親しかった友人を懸命に思い出そうとするのだが、焦れば焦る
ほど何も浮かばない。
 元々が明るく快活な優希には、性別・年齢に関係なく多くの友人がいた。健司
にしても友人はそれなりにいるが、優希に比べればその数は及ばない。まして学
年が違えばその関係は先輩後輩となりそれ以上のものではなった。つまり一学年
下の優希の友人関係には、健司と共通する部分が少ないのだ。
 それでも何人か頭の中に浮かぶ人物はあった。しかし顔だけで名前の分からな
い者。逆に名前だけで顔の分からない者。あるいはどちらも分かるが、住所は知
らないといったものばかりであった。
 そんな中でようやく一人だけ、顔と名前、おおよその住いに見当のつく女子生
徒が思い浮かぶ。
 室田梨緒。
 優希とはあまり釣り合わない、派手な印象の子だったので記憶に残っている。
確か、学校の西側を流れる川の近くに住んでいると、聞いた覚えがあった。そう
だ健司の同級生が、彼女とは家が近いと言っていたはずだ。少々漠然とした記憶
だが、その周辺をしらみ潰しに探して行けば見つかるであろう。
 健司は川沿いへと自転車を向けた。


 中学時代の同級生の家は分かっている。その近くということで、範囲はかなり
限定出来た。ただ、田舎町で言う「近く」の範囲は都会のそれよりも広い。「室
田」の表札を見つけるまで十分ほどを要した。
 おそらく時間は午後十一時を過ぎているだろう。未成年である女子生徒の家を、
仮にも男である健司が訪ねるには非常識な時間だ。しかし事情が事情だけに、躊
躇はしていられない。
 家には明かりがあった。幸いまだ就寝はしていないようだ。健司は玄関横のチ
ャイムを押す。インターフォンは付いていない。
「はい、どちらさまですか?」
 中から聞こえて来た声は、母親のものだろうか。
 健司は名乗り、自分が梨緒の中学校の卒業生であることを告げる。
「実は梨緒さんの友だちの、田嶋優希さんのことで………」
「あっ、アンタ、ケンちゃんでしょ」
 妙に明るい声がしたかと思うと、玄関の引き戸が勢いよく開いた。
 袖が蛍光色のピンクに染められ、前側には何やら派手なロゴマークの印刷され
たトレーナー。白いパンツスタイルの若い女性。風呂上りなのだろうか。セミロ
ングの少し赤み掛かった髪はしっとりと濡れて見えた。高校生、あるいは大学生
くらいかも知れない。

「あの、梨緒さんは?」
「ヤダ、アタシが梨緒だよ、忘れたのケンちゃん。何度も学校で会ってるじゃな
い」
「ああ、そうか、君が………」
 梨緒とは同じ中学校に通っていたというだけで、直接的な繋がりはない。派手
な印象ばかりが記憶に残り、実のところ顔をはっきりと覚えていなかった。同級
生の女子生徒でさえ、私服を着ていれば気がつかないこともある。学年が違えば、
尚更であった。
 それにしても、特に親しいわけでもなく、しかも先輩である健司に対し、「ちゃ
ん」付けで呼ぶ梨緒には多少腹立ちもしたが、いまはそれを言っている場合では
ない。
「さっきも言ったけど、実は優希のことで………」
「うん、さっきおばさんから、電話があったよ。優希、まだ帰らないんだって?」
「ああ、それでもしかしたら、誰か友だちの家で、試験勉強をしているんじゃな
いかと思って」
「それでアタシのところに? あははっ、ナイナイ。アタシ、テスト勉強なんか、
したことないもの」
 梨緒は笑いながら、少々大げさな動きで手を振り健司の考えを否定した。
 この子は本当に友人なのだろうか。優希の行方が分からず、探している相手の
前で笑うなど、無神経にもほどがある。
「じゃあ、他に心当たりはないかな。ああ、それから君が最後に優希と会ったの
は何時?」
「質問は順番にしてよ。アタシ、いっぺんに答えられるほど、器用じゃないから」
 梨緒の物言いには、どうも緊迫感がない。健司が思っていたほど、優希と親し
くはなかったのだろうか。
「優希と最後に会ったのはガッコーに決まってるでしょ。おんなじクラスだもん。
つまり授業が終わって帰るまでってことね。それから、えっと………心当たりね。
分かんない。アタシ、優希以外の勉強出来る子とは、あんまり仲、よくないし。
だいたいさあ、頭のいい子って………」
 どうやら無駄足だったようだ。これ以上話をしても、梨緒から得られる情報は
ない。
「そうか、ありがとう。夜遅くに悪かったね」
 まだ何か話そうとしていた梨緒の言葉を遮り、健司は退散を決め込む。
「うん、別にアタシはもう少し遅くても平気だけど………じゃあ、バイバイ、ケ
ンちゃん」
 背後からの声は、無神経も極みに達するものであった。後に続けられた「優希、
見つかるといいね」の一言は、単に社交辞令にしか聞こえなかった。

 健司が帰宅したのは、深夜の零時を大きく回ってのことだった。
 帰宅前、明かりがあるのを確認して優希の家に寄ってみた。しかし母親が一人
いるだけで、やはり優希は帰っていない。
 知る限り全て、優希の友人に電話を掛けたが、ついに彼女の消息は掴めなかっ
た。優希の父親は、単身赴任のため、いまはこの家に住んでいない。明日の始発
で、こちらに向かうとのことだった。
 女親一人で、帰らぬ娘の身を案じながら夜を過ごすのは辛いだろう。今夜は僕
も、泊まりましょう、と申し出た健司だったが、それは断られた。
「私は大丈夫よ。それより、ごめんなさいね、ケンちゃん。こんな遅くまで。お
家に帰って、ゆっくり休んでちょうだい。優希なら、心配ないから。あの子、意
外にしっかりしているんだから。
 それにね、前田先生に言われて警察にも電話したから。お巡りさんも来てくれ
るって」
 家に戻っても優希の無事が確認されない限り、ゆっくり眠れそうにはない。だ
が警察の人間が来るのであれば、健司がいても却って邪魔になるだけだ。不承不
承ではあったが、優希の母親の言葉に従う。何か分かれば連絡を貰う約束をして、
健司は自宅へ戻った。
 約束通りに、優希の母親から連絡があったのは、翌朝午前八時を過ぎた頃であ
った。
 今日は高校を休もう、そのための電話連絡をしようと考えていた矢先のことで
ある。
 家中に轟き渡るかのように、電話機が鳴り出した。あるいは人には第六感があ
るというのは真実かも知れない。それとも虫の知らせとでもいうのだろうか。
 機械的に処理された電話の音に、先方が伝えようとする内容によって、変化な
どあるはずはない。だが、健司は電話の音に何か不吉なものを感じ取った。
 自分の勘など、実にいい加減なものである。これまでに予感の当たったことな
ど、どれほどあっただろう。半ば願いを込め、己の勘が外れるのを期待しながら
健司は受話器を取った。

 嫌な勘は当たるものである。しかもよりによって、一番当たってはならない勘
が、である。
 電話は優希の母親からであった。優希の遺体が、海岸で見つかったという最悪
の知らせが告げられた。

 波の音を煩いと感じたのは、生まれて初めてだ。
 陽射しは強かったが、雲が多い。眩しいくらいの照り返しを放つ砂浜が、突如
薄暗く変わったかと思えば、また陽射しに包まれる。そんな天候もまた、不愉快
であった。
 なぜ自分はこんな場所にいるのだろう。
 何か理由があってこの場に来たはずなのに、それが思い出せない。
 健司はゆっくりと視線を巡らす。そして知った顔を見つけた。
「おじさん………」
 誰にも聞き止められることはないほどの声が漏れる。健司が見つけたのは、優
希の父親であった。
「いつ、帰って来たんだろう」
 単身赴任をしている優希の父親は、まとまった休みがなければ帰って来ない。
前回、健司が会ったのは夏休みの時だった。それが平日の午前中、このような場
所にいる理由が分からない。
 半年のさらに半分ほど前に会った優希の父親は、もっと活力を感じさせる顔を
していたはずだ。早くに父を亡くした健司がイメージする父親像そのものだった。
それがわずかな期間に、何があったというのだろう。いま、健司の視線が捉えた
顔には、全く覇気のない、まるでセミの抜け殻を連想させる。
 優希の父親から、少し視線を下げてみた。今度は女性の後ろ姿が目に入る。
 優希の父親に比べ、随分と低い位置に頭があるのは、身長差故ではない。女性
は砂の上に膝を落としていたのだ。
 その後ろ姿にもまた、覚えがある。あれは優希の母親だ。
 砂浜に腰を下ろしているというより、立てないでいるという方が適切だろうか。
両手を前に突き、身体を支えているように見える。項垂れ、肩が小刻みに震えて
いた。
 優希の両親揃って、様子がおかしい。
 何か徒ならぬことが起きたのだろうと推測は出来たが、声を掛けて問うのは躊
躇われる。
 いや、実のところ健司は全て知っていたのだ。
 何故自分がここに来たのか、どうして優希の両親がこの場にいるのか。分かっ
ていながら、忘れていた。思考と五感、記憶と行動のバランスが、健司の中で大
きく崩れてしまったのだ。十六年余の人生で、経験のなかった衝撃が何かを狂わ
せた。受け入れたくない現実に、背を向けさせていた。
 しかし現実は動かない。
 事実から逃れられはしない。
 健司の視線は優希の母親より、更に下へ落とされた。
「ああ………そうだった」
 そこに現実はあった。
 前日まで健司に小憎らしい言葉を吐き続けていた、唇。いまは固く結ばれ、二
度と囀ることはない。
 濡れそぼった長い髪。濡れそぼった中学校の制服。
 田嶋優希が横たわっていた。

 幾分、風は凪いで来た。だが夜の潮風の冷たさに変わりはない。
 砂の上に落とした尻にも、冷たさが滲みて行く。
 健司は横に手を伸ばし、凍えた指先で砂を撫でた。あの時、横たわった優希の
顔があった辺りを。
 世界の人口は、六十億を超えると聞く。
 その中の一人、たった一人の死。
 中学三年生の女の子の死など、世に与える影響は微々たるものである。彼女の
死を心より悼む者も、広い世界の中、一握りと呼ぶほどにさえ満たない。
 しかしそのわずかな人間に与えた影響は計り知れない。
 優希の父親は、勤めていた社内に於いて、大きな期待を掛けられていたらしい。
重大なプロジェクトを任され、その成功まであと一歩と迫っていた。それが娘の
死後、人が変わってしまった。「腑抜け」と陰口を吐かれるまでに気力を失い、
その任を後輩へ譲ることになってしまった。いまではただ机に座り、定年が来る
のを待つだけの存在だと人の噂に聞いた。
 優希の母親は明るい人だった。陽気ではあったが、些か粗忽でもあった娘に比
べ、明るさと優しさを兼ね備えた人だった。実の母親よりも顔を会わせる機会の
多かった健司に、母の温もりを感じさせてくれたのも、この人だった。
 気丈な人でもあった。周りの人への気遣いもあったのだろう。娘を弔った後、
すぐにまた笑顔を見せるようになった。しかしその笑顔は、以前のものと違った。
陽光のように暖かく優しい笑顔が、月光のようなどこか寂しげなものへと変わっ
ていたのだ。その心を思うと健司の胸も痛む。
 そして誰よりも、健司の全てが変わってしまった。
 時には疎ましく思うことさえあったお節介も、自分にとって充実した生活の一
部であったのだと初めて知る。
 笑い、怒り、泣く。紫陽花の花のように目まぐるしく変わる表情も、思い出の
中に閉ざされる。
 あの唇が歌を口ずさむことは、もうない。
 日向の香りがする髪が、風に舞うことはない。
 不器用な手つきで、雨に濡れた仔犬を抱くことはない。
 白く長い脚が、力強く大地を蹴って疾走することはない。
 突然、心臓を抉り取られた、こんな感覚なのだろうか。いや、寧ろそうであっ
たとしたなら、どんなに楽であろう。あの時自分も心臓を抉られ、絶命していた
のなら、こんなに苦しい思いはしなかった。
 冬の夜の砂に、温もりがあろうはずもない。砂を撫でる指先には、ただ冷たさ
だけが残された。
「優希、もうすぐぼくもそこに行くよ」
 見つめた砂へと、笑みを送る。しかし健司は首を振って、自らの言葉を否定す
る。
 少女は天に召されたのだ。自分が同じ所へ行ける訳がない。
「ぼくの行き先は、地獄だ」
 そろそろ時間も近い。
 健司はゆっくりと立ち上がり、尻の砂を払った。



 悪寒、目眩、吐き気。
 最悪の体調のまま、ただ歩くことさえ儘ならない足を、無理に進めていた。
 悪魔、天使、幽霊、そのどれであろうと、既に人としての肉体を持たない存在
には変わりない。それが何故、こんな状態になってしまったのだろう。
 重たい足を引き摺りながら、彼女は考えていた。
 自分は田嶋優希であった。
 それが如何なる死に方をしたためか、心は二つに割れてしまったらしい。たぶ
ん、一つは彼女に付き纏った少女、天使となった。ならば残されたもう一つであ
る彼女は、悪しき者である。
 悪しき心で善行など、行えるものか。その心に相応しく、悪魔となる以外進む
道は考えられない。
 時に苦しみの中で死んだ者は、魂魄と成り果ててさえ、永遠にもがき続けると
聞く。あるいは彼女も、激しく苦しみながら死んだのかも知れない。そうである
とすれば、この苦しみにも説明がつく。
 そうか、人の世を呪うように死んだからこそ悪しき心の方が、善の心に勝った
のだ。
 思うようにならない足を、彼女は懸命に急がせていた。青年の成すことを見届
けるために。

 緩く弧を描き、登って行く海沿いの道。わずかな傾斜が、いまの彼女には大き
な障害だった。幾らもない距離が、遅々として進まない。
 彼女は、ふと思う。自分は本当に悪魔なのであろうかと。
 これはまるで地獄の責め苦ではないのか。
 田嶋優希という、生前の名前を思い出しはしたものの、それ以外の記憶はない。
あるいは田嶋優希は、罪深い生き方をしていたのかも知れない。だからその魂の
一部である彼女が、こうして責められている。彼女は悪魔ではなく、亡者なのだ。
 いや、と彼女は首を振る。
 ここは地獄ではなく、現世である。
 そして彼女は、地獄の王の命を受け、ここまで来たのだ。
 この苦しみは罪として与えられたものではない。もう一人の彼女と接触したた
め、起きたものに違いない。
 坂もあと数メートルという所まで至り、彼女の足が止まる。
 相変わらず苦痛は続いていたが、それが足を止めた理由ではなかった。
 街路灯の黄色い明かり。その向こうには、黒い海。
 彼女は足を止め、海を見つめていた。
 胸の奥で、何かがざわめく。その海に、彼女は見覚えがあった。
 彼女が田嶋優希であるのならば、ここは生まれ育った土地だ。どこに立とうと、
見覚えがあって不思議ではない。しかし、いま彼女の目に映る光景は、単に覚え
があるという範疇に留まらない何かを感じさせるのだ。
 連続してストロボを焚くように、断片的な記憶が浮かんで来る。次第にストロ
ボの間隔は短くなり、一枚絵であった記憶が繋がり、一連のフィルムとなる。
「私は、ここで死んだんだ………」
 そこは田嶋優希が最期を迎えた場所であった。



 終業を告げる鐘と共に、教室は開放感に包まれた。
 田嶋優希も、皆に倣い机の中のものを鞄へと移し変えていた。
 まだ陽の明るい時間に帰り支度をするのは久しぶりで、何やら妙な気分になる。
中学三年生である優希は、この夏、それまで属していたテニス部を引退した。し
かし引退後も後輩に乞われ、部活動に顔を出すことが多かった。そのため、授業
の終了と同時に帰宅するのは何時以来だったのか思い出せない。
 尤もそれは、学期末の試験に向けて全ての部活動が休止されたためである。目
前に迫った試験、更には年が明けての高校入試を思えば、決して楽しい気分には
なれない。
「ねえ、優希」
 荷物もまとめ終わり、席を立とうかとしていた優希の元に寄って来たのは、ク
ラスメイトの室田梨緒であった。
「今日さあ、ダメかなあ?」
 同性である優希に、甘えたような声を出す。
 しかし目は優希を見ていない。視線は指で選り分けた自分の髪に送られていた。
どうやら、枝毛を見つけたらしい。
 髪の赤い色と、軽く掛けられたパーマは天然のものとして、学校には届けてあ
るらしい。比較的、規則には緩やかな学校にはそれで通っているが、事実でない
ことはクラス中での周知であった。いつだったか、中学校を卒業したら、金色に
染めようかと話していたのを優希は覚えている。
「やっぱり、そっちの方が、いいのかなあ」
 ようやく優希へと視線が向けられたが、主語や目的語を省略した梨緒の言葉は
少々難解であった。さらにこちらを向いた視線も、見ているものは優希の目では
ない。どうやら優希の頭を見ているようだ。
「そっちの方って、髪型のこと?」
 優希は「仔馬の尻尾」と称される形に束ねられた髪を、つまんで見せた。
「そうそう、それよそれ」
 優希と梨緒の間にはまだ一メートル半ほどの距離が残されていたが、それが一
気に縮まる。跳ねるようにして、梨緒が距離を詰めて来たのだ。
「ロリコンオヤジって多いのよねぇ。優希がその気になったら、十万や二十万、
簡単に稼げるよ」
 直接息が掛かる距離で、梨緒が真剣な眼差しを以って言う。親交のある優希に
は、それが梨緒流のコミュニケーションであると承知していた。ただそれが多く
のクラスメイトに対し、梨緒への誤解を生じさせる原因でもある。
「それより、何か私に用事があったんじゃない?」
「あ、ああ、そうだった」
 これも梨緒の悪い癖だ。こちらが促してやらなければ、話が本題に戻らない。
「これから街に行かない?」
 既に優希の返す答えが、自分の期待に叶うものと確信しているのだろう。嬉し
そうに破顔し、梨緒は言った。
 それを媚びた笑顔と呼ぶ、クラスメイトの声は優希の耳にも入っていた。しか
し梨緒と付き合ってみれば分かる。大人ぶった言動の影に隠れている本当の梨緒
は、幼いのだ。小さな子どもが周りの大人誰にでも笑いかけるように、梨緒は笑
顔を見せるのだ。
「えっ、これから?」
「ほら、この前、約束したじゃん」
 確かに四、五日ほど前、梨緒にせがまれてそんな約束をした覚えはある。
「だけど、テスト前だよ」
「ああ、アタシなら勉強してもしなくても、同じだもん。優希だって、そうでし
ょう? アタシとは逆の意味でさ」
「うーん」
 優希は頬に手を充てて考え込む。
 付き合っては遣りたいが、今回の試験で優希は、是が非でも良い成績を残した
かった。優希が進学を希望している公立高校は、県下でもその水準の高さで知ら
れている。学年では常に成績の上位グループに近い位置にいる優希でも、合格の
可能性は五分五分と先日、担任教師より言われたばかりだった。
「ねぇ、お願い。買いたい服があって、今日行かないと、きっと売り切れちゃう
の。でも一人だと、心細いしさあ。それにテストが終わった後だと、優希はまた
部活に顔を出すんでしょ」
 また甘えるような声。両手を合わせ、梨緒は優希を拝む。
「やめてよ、私、仏様じゃないんだから」
 つい、笑ってしまう。他の誰がどう言おうと、優希は梨緒を可愛いと思う。
 試験後は受験勉強に専念するため、さすがに部活動に顔を出すつもりはない。
従って、試験後にも梨緒に付き合う時間は取れるのだが、優希の志望する高校の
水準を考えれば、部活動を長く続けすぎた。遅れを挽回するのは、並大抵ではな
いだろう。
 それならば寧ろ、今日の方が多少の余裕はあるかも知れない。今回の試験は範
囲も分かっている。買い物で遅れた勉強は、二、三日睡眠時間を減らせば取り戻
せる。元々今日は駅前に寄る予定もあった。これからのことを思えば、梨緒に付
き合うには今日が最も適した日と言える。
「わかったよ。付き合ってあげる」
「やーん、だから優希って好きよ」
 と、突然、梨緒は優希の首に抱きついて来た。思わず上げた優希の小さな悲鳴
に、まだ教室に残っていた生徒たちの注目が集まる。
「もう、よしてよ、梨緒ったら。私は女同士で、そんな趣味はないんだから」
「ふうーん、そ、なんだ」
 優希に振り解かれた梨緒が、何やら意味あり気な視線を投げ掛ける。しかしこ
こで視線の意味を問おうとすれば、また梨緒の長い話が始まってしまうだろう。
優希は、何も気がつかなかったことにする。
「じゃあ一度家に帰って着替えてから、そうねぇ………駅前に」
 約束の時間を決めようとする優希の腕を、梨緒が強く引く。
「平気よ、このままで」
「えっ、やっ………嫌よ、私。制服のままなんて……」
「だいじょうぶだって、お金なら、貸してあげるし」
 優希の抵抗は無意味であった。笑顔の梨緒は、見かけ以上の強い力で、優希を
引いていった。

 冒険、と言ったら大げさであろうか。
 優希は高鳴る自分の鼓動を聞いていた。
「うん、ばっちり。優希、可愛いよ」
 鏡の中で梨緒が満足そうな笑みを見せる。
 人の話にこういうことをする女子生徒が居る、と聞いた覚えはある。しかし自
分がその立場になるとは、考えもしなかった。
 場所は駅の女子トイレ。
 制服のまま、二人は電車に乗り、隣町の駅へと移動していた。梨緒はまるで平
気な様子であったが、優希は強い抵抗を感じていた。高校生にもなれば、電車通
学も当たり前であろう。だが中学生が制服姿で電車に乗るのは、何かとても悪い
ことをしているように思えたのだ。ましてこのまま駅を出て、賑やかな街中を歩
き回るなどとても出来そうにない。
 その辺りはさすがに梨緒も優希の性格を熟知していたのだろうか。電車を降り
た後、すぐには改札口へと向かわない。代わりにコインロッカーへ立ち寄ったの
だった。
「アタシのだけど、優希のサイズと、そんなに違わないはずだよ」
 そう言って梨緒がロッカーから取り出した紙袋には、二着分の着替えが入って
いた。
「うそ、梨緒ったら、いつの間に」
 学校とは訳が違う。有料のロッカーである。一回の料金はわずかであっても、
長い期間に渡って借りていたのなら、相当の金額になるだろう。いや、一回分の
料金でも優希の小遣いからすれば、決して安いものではない。
「ん、日曜のうちに、ね」
 梨緒は事もなげに答えた。
 すると三日間の料金が掛かっていることになる。
「さ、次はトイレだね」
「えっ」
 言われるまま連れて来られたトイレが、更衣室代わりであった。自分を優等生
だとは思っていない優希であったが、学校の規則に背いた経験もない。授業の終
わった後、自宅を経ないで街に出る。一般の学生からみれば、校則違反であると
の意識すら持たない、些細な行為であった。しかし優希にとってその行為はわず
かな後ろめたさを覚えると同時に、心をときめかせるものでもあった。
「アタシも、そんなに用意してないけど、二万円くらいなら貸せるよ」
 ブランド物のポーチから財布を出しながら、梨緒が言った。
 コインロッカーのこともそうであるが、それほど用意していないと言いながら
二万円もの額が出てくる辺りは、優希と梨緒の金銭感覚のずれが感じられる。
「ん、いい。私も少し、持って来ているんだ」
 優希は自分の財布を見せて言った。
「なんだ、ひょっとして優希も、最初からその気だったんじゃない?」
 ぽん、と梨緒が優希の肩を軽く叩く。
「そういうわけじゃないけど、ちょっとね」
 もちろん梨緒との買い物を見越して、現金を持ち合わせていたのではない。
 優希は毎月、あるいは臨時に収入のあった度、貯金をしていたのだ。特に何か
目的を持っての貯金ではなかったが、いつかきっと役立つことがあるだろうと、
小さい頃から続けて来たものである。先日、単身赴任をしている父親から、受験
を控え、何かと要り様もあるだろうと小遣いが送られ、それを学校帰りに、銀行
に預けるつもりだったのだ。
「ま、なんでもいいか。いこいこ」
 優希が金を持っていた理由を詮索する気など、毛頭ないらしい。小走りにトイ
レから出てゆく梨緒を、優希も追った。

「あーっ、なんか、すっごく満足した、って感じ」
 大きく息を吐きながら、梨緒が言った。
 帰りの電車の中、長椅子に深く身体を預けた梨緒は、まさに精根尽きたといっ
た風である。乗客の数は少なかったが、人目を憚ることない梨緒に対し、優希は
気恥ずかしさを感じる。
 しかし梨緒が疲れ果てているのも、納得が行く。
 梨緒が抱えていた紙袋は全部で四つ。それも最大サイズのものばかりだった。
 いざ目的の店に着いた時の梨緒には、鬼気迫るものがあった。平日の午後とし
てはそこそこに人気はあったものの、決して混雑しているという状況ではない。
それにも関わらず梨緒はバーゲン会場の主婦を思わせる迫力を見せた。梨緒なり
に基準を持って判断しているらしいが、優希にはただ目につく物を手当たり次第
掴んでいるとしか思えない。しかもそれらの物はバーゲン品ではない。梨緒はわ
ずか数十分の時間で、十万円に近い金額を使って見せたのだった。
 更に付け加えると、買い物を終えた後、駅のトイレで制服姿に戻ると、それま
で着ていた物はコインロッカーに再び入れられた。後日、回収するのだそうだ。
「ごめんねぇ、優希。なんか、本当に付き合わせただけみたいになっちゃったね」
 優希の持つ紙袋は一つ。しかも中身には少しばかりの余裕がある。それを見な
がら梨緒が言った。
「えっ、なんで? ああ、そりゃあ梨緒ほど沢山は買わなかったけど、私は充分
満足してるよ」
「そう? それならいいんだけど」
 優希が買い求めたのは、冬物のコートだった。それも今冬向けとしての物では
なく、前年以前の売れ残りだったのだろう。五千円を割る値段で、特価品のコー
ナーに並んでいた物であった。
 梨緒からしてみれば小さな買い物であろうが、優希には大きな決断である。参
考書以外で、千円を超える買い物など、ここしばらく記憶にない。梨緒が十万円
を使うために掛けた時間で、優希は五千円の買い物の決断をしたのだった。それ
も梨緒の付き合いで来ていたからこそ着いた決断で、もし一人でいたなら諦めて
いただろう。
 黒一色の、少し大人びた感じがするコート。自分には似合わないだろうと思い
つつ、人から子どもっぽいと言われるイメージを払拭したくて選んだものだった。
 満足しているよ。
 梨緒には言ったものの、少し後悔もしていた。童顔の自分に、こんな大人びた
物が似合うはずがない。大きな決断を以って買いはしたが、袖を通すことはない
かも知れない。そんな思いもあった。
「うん、それ、きっと優希に似合うよ」
 優希の気持ちを察したのだろうか。呟くように梨緒が言った。




#281/598 ●長編    *** コメント #280 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  23:00  (461)
白き翼を持つ悪魔【10】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:56 修正 第2版
 思っていたよりも、店に居た時間が長かったのだろう。二人が地元の駅に降り
た時、空はずいぶんと暮れ始めていた。
「あー、あと三十分以上あるよ」
 バス停の時刻表と左手首に巻かれた時計とを見比べ、梨緒が言う。
 多い時間帯で一時間に二本。この時間帯だと二時間に一本しか来ないバスであ
る。三十分待つのならば、歩いて帰ったほうが早いかも知れない。優希一人であ
れば、迷わず歩いていたところだ。ただ荷物の多い梨緒のことを考えれば、バス
を待つしかないだろう。
「しゃあない、歩こうよ」
 意外にも、梨緒のほうからそう切り出して来た。せっかちな所があるのは知っ
ていたが、これは優希にとっても有り難い申し出であった。
「うん、じゃあ途中まで一個、持ってあげる」
 梨緒の返事は待たない。あるいは梨緒もそれを期待していたのだろうか。優希
の伸ばした手に、抵抗もなく梨緒の荷物が渡る。

「失敗したかなあ」
 黄色い街路灯の下、漏らすような梨緒の声。バスを待つべきだったと後悔して
いるのだろう。優希にも、ほんの少し同意する気持ちがあった。
 駅から家までの道、短い距離ではないが、ただ歩くだけなら苦痛を感じたりし
ない。荷物があると言っても、それほど重たいものではない。しかし両手に一つ
ずつ持った紙袋は、微妙に脚の動きを制限するのだ。初めは気にならなかったが、
歩数が増えるに従い、少しずつ妙な疲れを蓄積させて行く。
「付き合ってもらったんだから、お茶の一杯もご馳走するべきだったんだよね」
 梨緒の後悔は、優希の想像とは違っていた。
「本当はさあ、喫茶店に誘って話でもしたかったし」
「梨緒って案外、律儀なんだね。けど、気にしなくていいよ。私だって、こうや
って自分の買い物をしたんだから」
 両手が塞がっているため、優希は自分の紙袋を顎で指し示す。
「うーん、そうじゃなくってさ。実は、そっちがメインだったりするわけ」
「?」
 梨緒の言おうとする意味が分からずに、優希は小首を傾げた。
「確かに買い物もしたかったんだけど。ちょっと優希と話がしたくて、誘ったの。
なのにアタシってバカだからさ。ついつい買い物に夢中になっちゃって」
 ぺろりと梨緒が舌を出す。
「話? 良かったら、ここで聞くよ」
「う、うん………」
 優希が足を止める。続いて梨緒も足を止める。
 海沿いの坂道を、もう少しで上り切るという辺りであった。
「アタシ、好きな人が出来ちゃった」
 海に面したガードレールに寄り掛かり、紙袋を足元に置く。梨緒は些か淡白に
言った。
「そう」
 返答に窮した優希は、ただそれだけしか言えない。相手を詳しく知らなければ、
勝手なことは言えない。しかしこれまで梨緒が好きになったと打ち明けて来た男
性には、何かしらの問題があったのだ。あくまでも梨緒を通じて話を聞く限り、
ではあるがどうにも相手は身体のみが目的であるよう、思えるのだ。だが、これ
までそのような関係になったという報告はない。
「相手の人、誰だか聞いていい?」



 元々が田舎町のことである。
 夜に明かりも人気もない場所を探すのに苦労はいらない。しかし田舎町にあっ
ても、そこは一際暗い場所であった。
 小高い山の中腹辺り、車道から雑木林のほうに伸びた砂利道を少し歩く。する
と雑木林に遮られた左右の視界が、突然に開かれる。見えて来るのは海であった。
星の有無で夜空との境界を何とか確認できる黒い海。だが視界の中央部分、刃物
でくり抜かれたかのように、空とも海とも別の黒い空間が認識される。さらに歩
いて近づくと、黒い空間は建物であると分かる。
 それは木造の古い校舎であった。
 いまは町に新しい校舎が建てられているが、十余年ほど前まで中学校として使
われていた建物だ。この町が、かつて村であった頃の名残である。
 夜の木造校舎など、決して気味のいいものではない。近付くほどに不気味さは
増すばかりであった。
 さすがに十年以上も使われていないと、傷みも激しいようだ。暗がりの中でも
損傷の大きさは、はっきりと分かる。もしいま目の前で、この建物が倒壊しても
驚きはしないだろう。
 ホラー映画の中でしか見かけないような建物の前で、女は腕組みをし、ため息
を吐きながら言う。
「まーったく。こういうのを見ると、ここは田舎なんだなあ、って痛感するわね」
 金色の所々が紫に染められた奇妙な髪。豹柄のハーフコート。
 朽ちた木造校舎とも、田舎の風景ともそぐわない。しかし都会的と呼ぶにも些
か滑稽な出立ちであった。
 女は暫しその場に立ち尽くす。
 別に校舎を見つめ、感慨に耽っているわけではない。女は地元の出身であった
が、中学は町の新校舎へ通っていた。ここは女の学び舎でない。
「冗談抜きで、入った途端、崩れたりしないよね?」
 誰に問うとでもなく呟く。
「まっ、それならそれでいいかもね」
 ややあって、諦めとも希望とも取れる言葉を吐いた。そして意を決し闇の中の
闇、朽ちた木造校舎へと歩を進める。

 懐中電灯の一つも持ってくれば良かった。
 足を踏み入れ三歩と歩かないうちに、後悔をする。
 ここに来るまでの道も暗かったが、木造校舎内の闇は更に深いものであった。
自分の鼻から一センチ先の障害物も気づくのは難しそうである。
「なんでこんなとこ、来たんだろうね。アタシは」
 零す愚痴を聞く者は、いまのところいない。
 女が小学生の頃、この建物に幽霊が出る。そんな噂の立ったことがある。何時、
どこの誰が見たなどと言う、具体的な話はない。出所さえはっきりとしない、子
どもたちの間には全国どこにでもあるような噂話だった。とうに大人と呼べる年
齢に達したいま、女は子どもの頃の噂話など、当然本気にしていない。しかしこ
の闇は、あの噂が事実だったのかも知れないと思わせてしまう。
 噂の真偽はともかくとして、深夜若い女性が一人で来るような場所でないこと
だけは確かである。
 障害の有無さえ分からない状態で、女は歩くと言うより、摺り足で前に進む。
軋む床とつま先が何かを掻き分ける音が不気味に響いた。どうやら大量の埃が溜
まっているようだ。
 視力が利かない状態であっても、埃の多さはよく分かった。まさしく埃臭い匂
いに加え目、鼻、口、と開かれた器官全てに舞い上がった埃が流れ込んで来る。
その為女は目を細め、鼻と口をハンカチで覆って進む。
 閉じてしまっても変わらないと思われる闇の中ではあったが、薄く開けていた
お陰で次第に慣れた目が、微かな光源のあることを知る。星明りであろうか。ガ
ラスのない窓より射し込む光が廊下までもわずかに届いているのだ。
 閉校より十年以上過ぎているが、その間誰も足を踏み入れていない訳ではない
らしい。
 埃の積もった床板は所々抜け落ちている。しかしその埋め合わせと言うのでも
ないのだろうが、スナック菓子の包み、飲み物の缶、ペットボトル、あるいはタ
バコの吸殻などがあちこちに散乱している。現在はもう販売されていないような、
古いデザインのものが含まれているところを見ると、かなり昔から何者かの溜り
場として利用されていたようだ。
「どうせなら、一番手前の教室にしてくれればいいのに」
 一人で愚痴る女が立ち止まったのは、一番奥の教室の前であった。
 戸を開ける必要はない。
 ここを溜まり場としていた誰かの仕業か、あるいは女を呼び出した者が行った
のか。戸は倒されていた。
 女は特に警戒することもなく、教室内へと進む。
 そこは時が止まっていた。
 役目を終え、二度と使われるはずのない教室は当時の姿のままに残されていた。
整然と並ぶ古い形の机。教壇、教卓、そして黒板。黒板の横には、半分以上破け
ている時間割表。壁には振り子の時計。
 この教室だけなのだろうか。もちろん明るい中で目を凝らして見れば、随所に
時間の経過による劣化があるだろう。しかし微かな光源しかないいま、教室はか
つての面影を感じさせる。一つ、窓にガラスが残されていないことを除けば。
 ここに出入りしていた者たちも、何かの理由でこの教室にだけは手を付けなか
ったのか。それともやはり、女を呼び出した者がかつての面影を再現したのだろ
うか。
 女はガラスのない窓のほうへ目を遣る。
 一番前の席、その机の上に腰掛け、視線を外へ向ける影があった。こちらを見
ようとはしない。女の存在に気づいてないのだろうか。そもそも女は何者からか
の呼び出しを受け、この場所へ足を運んだ。繁華街、駅前のターミナルでの待ち
合わせではないのだ。指定の時間、指定の場所、女の他、その場にいるのは呼び
出しをした当人以外には考えにくい。
 女は影の方へ近付いて行く。
 影が女に気づいていてもいなくても、どうでも良かった。早々に用件を済ませ
たい。足音を殺すこともせず、最短の距離を進んだ。尤も女が手練の忍やスパイ
の類であったとしても、これほどまでに軋む床と埃の中、相手に悟られず近づく
のは不可能であっただろう。
「見てごらん、今夜は星が綺麗だよ」
 やはり女の到着を知っていたらしい。机二つほどの距離まで近づいたとき、影
はそう言いながら女へと振り向いた。

 別段、女に驚いた様子はない。こちらと目が合うと、一つ大きく息を吐いた。
ここまでの道のりで、暗さには充分目も慣れているだろう。こちらの顔を確認し
た上でのことと見て間違いない。
「若い女性と待ち合わせするには、最悪のセンスね」
 呆れた表情も露骨に、女が言った。
「初めからぼくだと気がついていたみたいだね」
「そりゃそうよ」
 女は笑う。
「あのね、そりゃあアタシは頭のいいほうじゃないけど、アンタが思ってるほど
はバカじゃないわ。自慢出来た話じゃないけど、ここに住んでいた頃、友だちは
多い方じゃなかったもの。少ない友だちの縁もほとんど切れて、いまでも付き合
いがあるのは、アンタぐらいだわ」
 今度は男が笑った。
「そうだったね」
「それに………」
 女はセカンドバッグへと手を入れる。取り出したのは開封された一通の封筒で
あった。
「フツー、こういうのってワープロとか、新聞や雑誌の文字を切り抜いて作るも
のじゃない? アタシ、アンタの字を知ってるのよ」
「分かっているさ」
 男――笠原健司は再び星空へと目を遣る。
「本当に今夜は星が綺麗だ。君を待つ間に、流れ星をもう三つも見つけたよ……
…そう言えば子どもの頃、君もやらなかったかい? 友だちとどちらがたくさん
流れ星を見つけるかって競争。負けず嫌いのアイツは、いつもぼくより一つ多い
数を言うんだよ」
「やめてよ、まさか思い出話をするために、こんな脅迫状みたいな手紙をよこし
たんじゃないでしょ」
「ああ、すまない、ついね」
 女へと向き直った健司は穏やかな笑みを湛えたまま、ゆっくりと立ち上がる。
「ぼくの用件は、おおよそ見当がついているんじゃないかな」
 健司の問い掛けに、女はふん、と短く鼻を鳴らした。それは嘲笑のようでもあ
り、ため息のようでもあった。
「『田嶋優希の最後の日の事について話がしたい。二十四日午後十一時××旧村
立○○中学校跡に一人で来られるように』ね。
 アンタ、何をどこまで知ってるの?」
「何のことなの、とか、優希の最後なんて知らない、って否定するかと思ったけ
ど」
 言いながら健司は女の後方へ、視線を巡らせた。
「?」
「ん、あ、いや。本当に一人で来てくれたんだね。あの、名前はなんて言ったか
なあ………如何にも頭の悪そうな彼は、連れて来なかったんだ。まあ一人で来い
と書いたのはぼくだけど、君が素直に従ってくれるなんて意外だよ」
「それ、嫌味?」
 これは明確にため息をつき、女が言う。
「いいや、そんなつもりはないよ。君がどこまで知っているのかって訊くから。
そうだね、大体のことは知っているよ。君が別の男と付き合いながら、ぼくと付
き合っているふりをしていたこととか………
 ああ、別にそれはいいんだ。初めから知っていた上で、ぼくも君に調子を合わ
せていたんだから、おあいこだよ」
 健司はゆっくりと歩を進め、女との距離を詰めようとする。傷んだ床板が、ぎ
しぎしと音を立てた。同じ軋みを立てながら、女は後ろへと下がる。それを見た
健司は小さく肩を竦め、足を止める。
「だけど、あの日のことは、おあいこって訳にはいかないよ」
 声の調子は初めから変わらず、極めて穏やかなものである。しかし押し殺した
感情は隠せない。女もそれを察せないほどに鈍くはないようだ。表情こそ平静を
保っていたものの、目には確かな恐怖の色が浮かんでいた。
「何を言ってるのか………」
「分からない、なんて言い訳は通用しないよ」
 言葉を遮られた女が、わずかに身を竦ませる。その様子に健司は満足感を覚え
た。
「優希の死に納得が行かなくて、あれからいろいろ調べたんだからね。君はあの
日、優希と街に出ている………違うかい?」
「………」
「隠してもダメだよ。当時の君の同級生たちから、確認を取ったんだから。教室
での君と優希の会話をね。あまり乗り気でない優希を、君が強引に誘ったそうじ
ゃないか」
 話しながら、健司は女の様子に細心の注意を払っていた。
 優希の一件について、女は他人に知られることを恐れている。それは健司の呼
び出しに応じ、ここへ一人で来たことから見て間違いないだろう。ただ健司の話
に臆して、後先を考えずに逃げ出す可能性もある。その場合に備え、自分の脚力
から充分女に追いつける距離を保つ。更にいま女の立っている場所から、教室の
出口までの最短距離上には二箇所、床板の腐った場所があるのだ。教室の戸を倒
しておいたのは、女が逃走に転じた際の道を限定するためであった。しかし動揺
は見られるものの、いまのところ女に逃げ出す気配はない。
「………行ったわ。あの日、優希と買い物に。けど…」
「なぜ、いままでそれを隠していた」
 声の大きさは変えていないはずだ。だが湧き上がる感情を、完全に抑えきるこ
とは出来なかったらしい。健司の言葉に女は一瞬、跳ね上がるような動作を見せ、
表情を引きつらせた。
「あの日ぼくは、行方の分からなくなった優希を探して、君の家を訪ねた。覚え
ているよね? あの時、君は何て言ったかなあ」
「………」
「何て言ったんだ、室田梨緒!」
 もう感情を抑えようという気持ちはなくなっていた。元々この場所を選んだ理
由の一つが、付近に民家がないことである。多少の騒ぎが起きようとも、気づく
者はないだろう。健司は大声で女を威圧する。



「えっ?」
 予想していなかった答えに、優希は我が耳を疑った。優希と梨緒とでは交友関
係が大きく異なる。それ故、梨緒の口にする名前が優希の知らない者であると決
め込んでいたためであったかも知れない。いや、過去には優希の知る者に梨緒の
好意が寄せられていたこともある。たとえばとかく素行の悪さが噂される教師で
あったり、暴力行為の果てに町から姿を消した卒業生であったりもした。しかし
数秒前、梨緒から聞いたのは思いがけず、優希と極めて近しい者の名前であった。
 聞き返したのは、聞き取れなかったからではない。咄嗟にそれ以外の反応を取
れなかったのである。
「だからケンちゃん………笠原健司先輩よ」
 問われるまま、梨緒はその名前を繰り返した。
 優希にとって、自分のもの以上に聞き慣れた名前が梨緒の口から出たことに少
なからず動揺を覚えた。それからもう一つ、その名前を口にした際の梨緒の態度
にも驚かされる。
 優希から見て、梨緒は恋愛というものに関し、非常に開放的な少女であった。
いま誰に好意を寄せているのか、その彼とどこへ行き、何を話し、どんなことを
したのか。時には聞いている優希のほうが赤面してしまう内容をも包み隠さず、
笑いながら話してくれた。
 その梨緒が、健司の名前口に出したとき、明らかにはにかんでいたのだった。
 これまでの梨緒の恋愛は、どちらかと言えばファッション的要素が強かったよ
うに思える。その時々の気分によって身に付けるアクセサリーを変えるように、
付き合う男性も変える。それが尻軽とか、節操がないなどとか他人から悪く言わ
れてしまう原因となっていた。しかし当の梨緒自身は相手に強い想いを持たない
分、深い関係にもならなかった。
 友人として接する優希には梨緒に対し、周囲の人々のような偏見はない。それ
でもこれまでの男性たちとの関係は梨緒本人のためにも良いものだとは思ってい
なかった。
 だが健司の名前を口にしたときの梨緒は、いままでとは違う。そう、それはま
るで少女漫画のヒロインのようでもあった。
 初めて異性に恋心を寄せ恥らう乙女。
 優希には、そんなふうに見えたのだった。
「ごめん………優希、ごめんね」
 健司の名前に続いたのは、謝罪の言葉だった。
「えっ、なに………どうして謝るの?」
 優希は努めて平静を装うが、わずかに声が上ずってしまう。
「優希も好きなんでしょ。ケンちゃんのこと」
「な、なによ、そんなわけ………」
 ないでしょう。と、言いかけた言葉が止まる。
 物心がつく前から、既に傍にいた健司。十年以上の時を、実の兄妹のようにし
て過ごして嫌いに思っているはずもない。ただそれは身内に向けられる愛情とし
てしか、これまでは考えていなかった。
 しかし優希にとって健司は極めて近しい知人であるが、血の繋がった兄妹では
ない。
 梨緒から健司が好きだと告げられて、初めてそのことを思い出したのだ。そし
て酷く動揺している自分に気がついていた。
 たとえばとても仲のいい兄妹がいたとしよう。ある日妹は親しい友人から、兄
が好きだと告白される。妹はきっと、動揺するだろう。自分の兄が他人から、異
性としての好意を寄せられるとは俄かには信じられない。また兄が他人に盗られ
てしまうような感覚になるだろう。
 その妹の動揺こそが、いまの自分の感覚なのだ。と、優希は考える。いや、少
し違う。妹であれば、最初は戸惑っても最終的にはそれを喜ぶのではないだろう
か。兄妹間の愛情は恋愛とは異なるものである。血の繋がりを持つ妹であれば、
やがてはそれを理解するであろう。
 自分にそんなことが出来るのか、優希は己へと問う。しかしどれほど考えてみ
ても、梨緒と、いやそれ以外のどんな女性とも健司が恋人となる姿に、喜ぶ自分
を見つけられなかった。
「分かりやすいね、優希は」
 梨緒が微笑む。これまで優希に向けられた笑みの中で、一番のものを梨緒は見
せたのだった。
「そうなのかな」
 もう優希は否定をしない。しかし肯定した訳でもない。健司とはお互い兄妹の
ように接してきた。確かにクラスメイトや身近な男子に対するのとは、違った感
情はある。ただそれを恋愛感情として意識したことはないのだ。
「そうだよ、見てて分かるもん。ああ、優希はケンちゃんのことが好きなんだな
あ、って」
 二人並んで、ガードレールへ腰を下ろす。
「私、あいつのこと、ずっと出来の悪い弟みたいに思っていたから。でも梨緒に
言われて、なんか、その………」
 冷たい風が吹き、二人の髪が舞う。梨緒の赤い髪が月の中に溶けて不思議な輝
きを見せる。優希はそれを、とても綺麗だと感じていた。
「本当にごめんね、混乱させちゃって。だけど、優希にだけは、ちゃんと言って
おきたかったの」
 化粧や髪の色のこともあったが、それらを差し引いても、いまの梨緒は優希の
目にひどく大人びて映る。
「ん、そんな気、使わなくていいのに」
 優希は天を仰ぎ見る。満天の星が覆い被さって来るようだ。流れ星を目で追う
と、その先に梨緒の顔があった。
「そうはいかないよ。優希は、アタシにとって一人っきりの友だちだもん。その
優希が、ケンちゃんを好きだってことは、ずっと前から知ってたから」
「んー、私は未だ、ピンと来ないんだけどなあ」
 ガードレールから軽く跳ねて優希は立ち上がった。靴底が枯れ草を踏む音が心
地よい。
「でも梨緒はどうしてあいつのことを? 私が言うのもなんだけど、そんなにパ
ッとしたやつじゃないと思うんだけど」
 問い掛けに返るのは、梨緒の優しく、そしてどこか寂しげな笑みだけであった。
優希もそれ以上の言葉を続けない。ただ沈黙と冷たい風と、冬の星座とが二人を
囲んでいた。



「まあ、いいさ。その沈黙こそが全ての答えだ」
 言いながら健司は、また少し距離を詰めてみる。だが今度は女―――室田梨緒
も後ろへは下がらない。身が竦んでいるのか、あるいは居直ったのだろうか。健
司に向ける鋭い視線からすると、後者なのかも知れない。
「何よ、知ったふうなことを」
 その言葉を耳にした途端、健司は満足感を得た。気丈な態度を装ってはいるが、
梨緒は恐怖している。声の震えは隠しきれていない。
 梨緒に恐怖を感じさせるのが、最終目的ではない。しかし折角用意した舞台で
ある。最期の瞬間まで、充分恐怖を味わってもらわなければ甲斐がない。
「言っただろう? いろいろと調べたって」
「ねぇ………もしかしてアイツも……」
「ん?」
「あんな女まで用意して、何を調べたって言うのよ」
「あんな女?………ああ、彼女のことか」
 彼女が田嶋優希と名乗ったことは、梨緒に話す必要はない。話したところで信
じないだろう。もし健司の幼馴染みの優希が無事に成長していたならば、彼女と
同じ容姿になっていただろう。そう思えるほどに、二人は酷似していた。これは
作り話であったとしても、出来すぎである。
「偶然だよ、彼女と会ったのは………さすがにぼくも、初めて会ったときには動
揺したけど、それ以上に君のほうが動揺したみたいだねぇ」
「………」
「しかし、それにしたって酷いんじゃないかい? 君のあの、頭の緩い彼氏は加
減ってものを知らない。彼女は危うく死ぬところだったんだよ」
「………」
 返答はなかったが、否定の言葉もない。
 元々彼女―――もう一人の田嶋優希が何者かに襲われた件について、健司は直
接現場を目撃してはいないのだ。被害者である彼女も誰の仕業か、証言していな
い。つまり犯人が室田梨緒とその恋人であるというのは、健司の憶測に過ぎなか
った。
 初めから梨緒ではないと否定する材料のほうこそ乏しかった。だが梨緒の態度
から、たったいま憶測が間違いでなかったのだと、健司の中で断定される。
 更に梨緒自身、肯定する言葉を続けた。
「ムカついた………ううん、気持ち悪かったのよ」
「気持ち悪いだって?」
「そうよ、そうでしょう? あの時、確かに死んだはず優希と同じ顔が、アンタ
の周りをうろうろしてる………気持ち悪いわよ」
 梨緒は些か、いや相当に感情を昂ぶらせていた。健司に対して梨緒は、これま
で金を無心するための甘えた態度以外見せて来なかった。正体が見破られ、猫を
被る必要がなくなったためでもあろう。しかし粗暴にして凶悪としか思えないそ
の様子は、健司の中のもう一つの憶測をも確信へと変えた。
 尤も憶測が憶測のままであったとしても、健司は計画を中断するつもりはない。
「ああ、分かるよ………死んだ、いや殺したはずの人間と同じ顔がそこにあった
ら、穏やかな気持ちではいられないだろうからねぇ」
「なっ、殺した!」
 ついに健司は話題を核心へと遣る。あるいは想像が映像を見せたのかも知れな
い。しかし健司の目には、梨緒の顔から血の気が引いて行くのが見えた。
「そうさ、殺したんだろう。あの日、お前は優希を殺したんだ」
 もはや感情を抑制しておく必要もなくなった。悪意と殺意を顕に、健司は言い
放つ。
「り、理由は? 証拠は?」
 梨緒の唇が震えて動くのを、健司は面白いと感じた。
 己の後ろめたい部分、隠し続けて来た悪事が露見したとき、人は滑稽な行動を
執ってしまうものらしい。悪戯が見つかってしまった子ども然り、浮気現場を押
さえられた男性然り、犯罪者然りである。
 果たしてこれから梨緒がどのような言い訳をし、行動に出るのか楽しみであっ
た。ただし言い訳は聞くだけであり、受け入れるつもりは毛頭ない。健司が考え
得る梨緒の全ての行動に対する手は打ってある。後は目的を成し遂げる最後の瞬
間まで、梨緒がどれほど聞き苦しい言い訳をするのか、どれだけ醜い行動をする
のか、笑いながら見届けるだけだ。
「証拠? 証拠ねぇ。ぼくが、そう思っているから………じゃ、駄目かな」
「なっ、ふざけないでよ」
 ああ、これだ。と、健司は思う。
 梨緒は曇りガラスを爪で掻くより不快な声を上げる。初めから健司は梨緒の容
姿も、心も美しいと感じたことなどなかったが、その醜さが具体的な形になって
行く姿が心地よい。
「ははっ、そんなに怒らないで。冗談だから………半分はね」
 健司は足の爪の幅ほど距離を詰めるが、梨緒が後ずさりすることはなかった。
怒りか恐怖か、健司の発する挑発的な台詞に注意力も失われているようだ。
「あの日の夜七時前後、君たちは海沿いの県道で立ち話をしていた。そうだね」
 相変わらず、健司の問い掛けに対して梨緒の返答はない。一方的な反論だけし
て、不都合な部分においては黙秘を続ける姿勢は、少しばかり不愉快でもあった。
尤も梨緒の身勝手さは、いま初めて知った訳でもない。
「その時刻にあの県道を車で通り掛かった人がいたんだよ。ほら、中学校の近く
に、広田商店ってあるだろう。あそこのお爺ちゃんさ」
 更に爪の幅半分ほど、身体を進める。梨緒に目立った反応はなかった。これ以
上は無理をしてまで距離を詰める必要はない。健司は話を続けた。
「お爺ちゃんが三年前に倒れたのは知っているかな? その時、一度病院に、お
見舞いに行ったのさ。お爺ちゃん、随分喜んでくれてね、いろんな話をしてくれ
たよ。ぼくもあまり期待はしていなかったけれど、あのお爺ちゃんが県道をよく
利用していたのは知っていたからね。日付は断定出来なかったけど、君と優希を
見掛けたことを思い出してくれたんだよ。君も優希も、それぞれ違った意味で目
立つ生徒だからね、お爺ちゃん、しっかりと覚えていたようだ」
「待ちなさいよ」
 何やらささやかな反論をしようと言うのだろう。梨緒が口を挟んで来る。
 自分の言葉、梨緒の反論。まるでテレビドラマのようだと健司は思った。追い
詰めた被害者に対し、嬉々として己の目的を語る犯人。安っぽい演出だとテレビ
を見ながら感じたものだが、いざ自分が実践するとなると、案外気持ちのいいも
のだ。最終的な結末を迎える前に、梨緒にはもっと恐怖と焦燥感を味あわせたい
という欲求が強まっていく。
「いま、日付は断定出来なかったって言ったわよね。だ、だったらお爺ちゃんが
私を見たのは、別の日だったかも知れないじゃない」
 それはあまりにも愚かな反論であった。
「馬鹿か、貴様は?」
 梨緒の恐怖心を煽るためでもあったが、本気で腹が立ったせいもある。健司は
大声で梨緒を怒鳴りつけ、その顔目掛けて唾を吐く。
「ひっ」
 声になり切らない悲鳴を上げ、梨緒は肩を竦ませる。後ずさりしなかったのは、
恐怖のために足の自由が儘ならない状態にあるのだろうか。
「貴様はともかく、優希がその時間まで家に帰っていなかった日なんて、他には
ないんだよ」
 声を荒げ、怒りに我を失ったかのような健司であったが、心の奥にはまだ冷静
な部分が残されている。一気に梨緒へと迫り寄り距離を詰めたのは、感情に任せ
ての行動ではない。梨緒が本当に動けなくなっているのか、試したのだった。
 案の定、梨緒は下半身の自由を失っていた。
 怒りを顕にして迫る健司に対して、その場から逃げることも出来ず、崩れ落ち
るように座り込んでしまった。床に積もった埃が、大量に舞い上がる。視界を遮
るほど、もうもうと立ち込める煙。それはこの先に待ち受ける出来事を暗示する
かのようであった。
「いいかい? いくら探してもそれより後に優希を目撃した人は見つからなかっ
た。つまり優希は、その場所で海に落ちて死んだんだ。いろいろ試してみたよ、
あの場所から海にペットボトルやら、板切れなんかを落としてみてね。海流の関
係だろう、ほとんどが優希の発見された砂浜に流れ着いたよ」
「ア、アタシが優希を突き落としたって………言うの?」
「他に考えられないだろう。貴様はあの日、ずっと優希と一緒に居たのにも関わ
らず、ぼくに嘘をついた。それは優希を殺したのは、他の誰でもない。貴様だっ
たからだ」
「そんな………動機、そう、動機はなによ!」
 梨緒の声は少し、掠れていた。動揺か、あるいは恐怖のために喉が渇いて来た
ためだろう。
「動機? さあ、金かなんかじゃないの。あの頃から、貴様の金遣いは相当派手
だったみたいだしな。両親は気づいてないようだが、優希が内緒でしていた貯金
の通帳が消えているし」
 梨緒を犯人と決め込んでいる健司だったが、その動機については分かっていな
い。従って言い分も理不尽になっているのは、本人も承知していた。
 いや動機ばかりか目撃証言だけで、梨緒が優希を殺したとするのも乱暴な話で
はあるのだ。先ほど梨緒とのやり取りを健司はテレビドラマのように感じたが、
これは正しくない。如何に不出来なシナリオのサスペンスドラマでも、これほど
証拠や動機が乏しいまま、クライマックスを迎えることはない。
 しかし優希が自殺するはずなどない。また事故であってもならない。優希の死
は何者かの手によるものでなくてはならないのだ。そうでなくては、優希のため
健司のしてやれることがなくなってしまう。
 優希の無念を晴らす。ただそれだけが今日まで健司を生かしてきた全てである。
その目的はもはや優希のためと言うより、健司のためとなっていた。
「………」
 言い訳や弁解は一切、健司には通用しない。梨緒もそれを悟ったのだろう。
 下半身の力を失い、床に腰をついた状態のまま慌てるようにして、セカンドバ
ッグへ手を入れる。
 ナイフか、スタンガンだろうか。あるいは何かスプレーの類であろうか。用意
された武器が何であろうと、腰の抜けた女を相手に後れを取りはしない。梨緒が
それを使うより先に対処出来るよう、健司は身構えた。




#282/598 ●長編    *** コメント #281 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  23:02  (401)
白き翼を持つ悪魔【11】            悠木 歩
★内容



「自分でもさ、一応自覚はしてるのよね」
 長い沈黙を終わらせたのは梨緒だった。
 しかしその言葉は先に投げ掛けた問いへの答えとは思えず、優希は首を傾げる。
「つまりね、アタシはお金にも、男の人にもルーズってことよ」
 少し寂しげな笑みで梨緒は続けた。その笑みは自嘲でもあり、また何か別の意
味を含んでいるようでもある。
「昔、アタシがちっちゃかった頃は、普通だったんだけどね。アタシも、アタシ
の家族も」
 ふいに強い光が、二人の顔を舐めて行く。道路を走る車のヘッドライトが目に
入ったのだ。瞼を閉じると同時に、言葉も止まる。代わりに遠ざかる車のエンジ
ン音が、優希の耳に届く。
「お父さんが死んでからかなあ」
 車の音が完全に消えて、なおもそれから少しの間を置いての一言だった。そし
て更なる沈黙。
 梨緒は早くに父親を亡くしている。小学校に上がって間もなくのことだそうだ。
 それ以外の詳しい話は梨緒から聞かされていない。ただ噂話は優希の耳にも入
っていた。
 父親の死後、梨緒の母親には多額の保険金が入った。それを境に、母親は家を
空けることが多くなったそうだ。外に愛人を作ったらしい。そして時折家に戻っ
ては、梨緒に子どもの小遣いとしては少々多すぎる金を渡していくのだと。
 父親の保険金が幾らだったのかは定かでない。事故死だったため、慰謝料も加
わったと聞く。また勤め先からの退職金等もあっただろう。ただ父親の死後、残
された母娘の激しい金遣いは事実であった。その為、妬みも加わって梨緒の母親
に対し世間は良からぬ噂を立てたのだと思われる。梨緒の父親の死は、母親が仕
組んだのではないかと。
 噂が広まることで、母親はますます家を空ける時間が長くなった。導く者もな
く、たった一人大金を与えられた子どもが、その正しい使い方を学べるはずもな
い。梨緒が世間とは些か外れた金銭感覚を持つようになったのも致し方ないこと
と言えよう。
「まあ、つまりは周りの人たちに、良く思われてないって、自分でも分かってる
わけよ」
 そうした事情を優希も知っているものとして、梨緒の話は続く。確かにこの町、
少なくとも優希たちの通う中学校では梨緒のことを知らない生徒を探すのは困難
であろう。
「ほら、ケンちゃん………あ、ごめん。笠原先輩のところもお父さんがいないで
しょ?」
「いいよ、ケンちゃんでも」
 優希は笑って答える。
 梨緒は目上の男性を「ちゃん」付け呼ぶ。時には担任教師をもそう呼んでしま
う。それを多くの人は梨緒が男に媚びているのだ、あるいは馴れ馴れしい、厚か
ましいと捉える。しかしそうではない。それが梨緒流のコミュニケーションの取
り方なのだ。いや自己防衛の手段なのかも知れない。
 それは幼子が、身近な大人を「ちゃん」付けで呼ぶのに似ている。その呼称は
親愛の証であると同時に、相手の大人と自分との距離を詰めさせ、保護者の一人
とする。幼子は無意識のうちに、自分を守る術を持つ。
 梨緒もまた然り。
 まだ年端も行かないうちに父親を失い、母親も家を空けがちで事実上一人暮ら
しとなってしまった。あるのは子どもには持て余すような大金。あるいは他の子
であれば、頼る者のないなかで内向的な性格になっていただろう。しかし梨緒は
違った。
 周囲の大人たち、それまで付き合いのなかった者たちに対しても、ごく親しい
態度で接し、その助けを得て生きて来た。それ故、いまでも、助けを得る目的が
ない相手へもその呼び方をしてしまうのだ。
「なんとなく気になってたわけよ。好きとか嫌いとかじゃなく。んー、なんて言
ったらいいのかなあ」
 梨緒は天を仰ぐ。優希もつられて空を見上げた。そこには街のプラネタリウム
さえ凌ぐ数の、星々の輝きがあった。
「どっちかって言えば、気に食わない感じがしてたのよ。ま、優希のカレシだっ
て知ってたから、口にはしなかったけどね」
「彼氏じゃなくて、お・さ・な・な・じ・み」
 殊更、「幼馴染み」を強調して優希は言う。だがそれは梨緒の意を得てしまっ
たらしい。感じた視線を追った優希の見たものは、満足げな笑みを浮かべた梨緒
の顔であった。
「なによ」
「なによ」
 唇を尖らす優希の口調を、そのまま梨緒が返してくる。
 そしてまた暫くの沈黙が続く。何時になく潮騒が大きく聞こえた。
「前に付き合ってた彼ね」
 またしても沈黙を終わらせたのは梨緒であった。
「最低の男だったのよね」
 優希の知る限りにおいて、梨緒と付き合いのあった男性は殆どが世間の評判が
芳しくないものばかりである。ただ極めて最近、特に評判の悪い男性と付き合っ
ていたらしいと、聞き及んでいる。多分、その男性を指して言っているのであろ
う。
「何かって言うと、すぐ暴力振るってさ。まあ、最初はそんなとこも、カッコい
いなって思った、アタシもアタシなんだけどね」
 どうやら優希の推測に間違いはないようだ。地元の暴走族のメンバーで、この
町でその男性の名前を知らない者はいない。所謂悪名というやつである。
 他人の交友関係に口出しするのをよしとしない優希であったが、さすがにその
男性については梨緒に対し、少々意見がましいことを言った覚えがある。
「まっ、さすがにバカなアタシも、この男はヤバイなって思ったわけ。それで別
れ話をしたら、ブチ切れされて、ボッコボコに殴られちゃったの」
「二ヶ月………前ね?」
「ん」
 優希の問いに、梨緒は小さく頷いた。
 丁度その頃、一週間ばかり梨緒が学校を休んだことがあった。その四日目、心
配になった優希は梨緒の家を訪ねている。

「ちょっと、色々あってさ。もう二、三日休むけど、病気じゃないから。心配し
ないで」
 わずかに開かれた引き戸の向こうから、妙に落ち着いた声で梨緒が言った。し
かし薄暗い家の中、わずかな戸の隙間から梨緒の顔、左目のうえに痛々しい腫れ
があるのを、優希は見逃さない。
「梨緒! あなた、その顔」
 優希の発した声に慌てるかのように、引き戸は閉ざされた。
「ホント、何でもないから」
「梨緒………」
 内側から鍵の掛けられる音を聞いた優希だったが、その場を離れられずに、た
だ立ち尽くす。
 周囲からは不良生徒のように言われる梨緒だが、四日も学校を休むのは珍しい
ことだった。心配になって訪ねてみればその梨緒は目の上に大きな腫れを作って
いる。友だちとして「何でもない」の一言で納得の行くはずはない。
 何よりその一言を言った梨緒自身、玄関から離れずにいるそこに立っている気
配が感じられた。
 薄い戸を一枚隔て、二人の少女が向き合い佇む。互いの姿を見ることは出来な
いが、互いの存在を確感じ合いながら。
「ありがとう」
 いつになく弱々しく、しかし優しい言葉は梨緒のものだった。
「ありがとうって、私、何にもしてないよ」
 少し戸惑いながら、優希も言葉を返す。
「ううん、してくれた。アタシのこと、本気で心配してくれたのは優希と………
優希だけだもの」
 それは単に梨緒を案じていまここにいる自分のことを指しての言葉ではない。
優希はそう直感した。
「そっか。じゃ、顔が元の通り綺麗になったら、ちゃんと学校に出て来てよね」
 何があったのか、詳しくは分からない。しかし梨緒の様子から、事はよい方向
へ動いたのだと察しられる。そうであるならば、これ以上深く詮索する必要はな
い。
「ふふっ………綺麗にか。優希より、綺麗になっちゃおうかな」
 恥じらうような声。それでいて寂しげな声。
「梨緒?」
「ううん、じゃ、次はガッコで会おうね」
 次の瞬間、その声はいつもの梨緒のものへと戻っていた。
「わかった、学校でね」
 明るい声で返し、優希は梨緒の家を後にした。

「そう、二ヶ月前だった」
 ふうっ、と梨緒は大きく息を吐く。街路灯と星明りの頼りない光源の中にあっ
ても、息の白さは、はっきりと確認出来る。
「ねぇ、ひょっとして………なんだけど」
 生来、優希は勘のいい方であった。ここまでの梨緒との話の中で生まれた、あ
る想像を恐る恐る口にしてみる。
「ん?」
「あのさ、その、それまで付き合っていた人と別れたって話。もしかして、健司、
なんか関係、してない?」
 話す優希自身は全く気づいていなかったが、その口調はいつになくしどろもど
ろとしてしまう。
「ぴんぽん」
 嬉しそうに、そして無邪気な笑顔を優希へと向けた梨緒。しかしその笑顔は、
わずかに二秒ほどの後、天を仰ぎ見た時には物憂げなものへと変わっていた。
「あの日も寒かったなあ」
 ぽつり。
 独り言のように呟いた。



 前日までの雨は上がったものの、空を覆いつくす灰色の雲が立ち退く気配はな
い。まだ本格的な冬までは間があるとはいえ、吹く風は鋭いほどに冷たく、まる
で肌を切り裂こうとするかに思える。
 日曜日、楽しいデートを予定していた恋人たちの気分にも水を差す天候であっ
た。まして決意を胸に家を出た少女には、待ち受ける試練を示唆するかに感じら
れていた。
 もっとも男性と二人きりで会うという点においては、デートと変わりはない。
ただしいまの少女は、恋する乙女ではなかった。むしろその男性と縁を切ること
を、強く望んでいた。
 待ち合わせの喫茶店で少女は二十分近く待たされる。いつも通りに、である。
 「痘痕もえくぼ」とは言うが、付き合い始めた当初は時間に捉われないところ
が彼の長所とまで思えたものである。しかしいまは、ただ時間も守れない、ルー
ズな男としか感じられない。
 からから、と入り口の鐘が鳴るのが聞こえ、顔を上げる。その行動も、梨緒が
この店に入ってから、実に六回を数えていた。ようやく男が現れた。店内の時計
を見やると、約束の時間から二十三分が経っていた。
「よう、持ってきたか?」
 遅れてきたことの詫びもなく、大股で梨緒の元へやって来た男の最初の言葉が
これである。
 梨緒は無言のまま、銀行名の印字された封筒を、テーブルの上に置く。
「おっ、サンキュ」
 封筒から梨緒の手が離れるのも待たず、男はそれを取った。上機嫌、と言うよ
り少々下卑た笑みを浮かべていた男だったが、封筒の中身を見た途端にその表情
は一変する。
「オイコラァ、なんだこれは?」
 突然の大声に、注文を取りに来たのだろう。男のすぐ横に立っていたウェイト
レスが身を竦めた。
「何って、お金よ。見て分からないの?」
 男の大声に慣れきった梨緒は、別段驚くこともなく、平然と言って返す。だが
この態度が男の怒りを更に刺激した。
「フザケんじゃねぇぞ。俺ァ二十万用意しろと言ったハズだぞ。あん、それがな
んだ、これァはよぉ」
 怒りのままに、男は封筒から抜き取ったものを梨緒目掛けて投げつける。もっ
とも薄く軽い紙幣が、強い勢いを保って当たる訳がない。空気抵抗を受けた一万
円札が五枚、ひらひらと梨緒の周囲に散らばった。
「ちょっと、もったいないこと、しないでよ」
 男に向けて、露骨に眉を顰めて見せた後、梨緒は散らばった札を拾い始める。
四枚はテーブルの上にあったため、容易に集めることが出来たが、一枚だけは下
に落ちていた。それを拾おうと、梨緒が男から視線を離し、身を屈めかけた瞬間
だった。
「やっ! 痛いっ」
 突然襲った痛みに、思わず悲鳴が漏れる。男が乱暴に、梨緒の髪を掴み上げた
のだった。そのまま男は梨緒の顔を、自分の目線の高さまで持っていく。しかし
男の身長は梨緒に比べ、頭一つ分近く高い。従って髪を掴まれた梨緒は、爪先立
ちの苦しい体勢を強いられることとなる。
「痛い、痛い、やめて、離してよ!」
「おい、頼むぜ………俺を、あんまり怒らせてくれるなよ」
 怒りのまま大声を張り上げる男には珍しく、静かな口調であった。だがかえっ
てそれが恐ろしく、梨緒は抵抗する言葉を詰まらせた。
「ちょっと表で話をするか? んんっ」
 歪んだ笑みを浮かべると、その問いへの返事も待たず、男は梨緒の身体を店の
出口まで引き摺って行った。
 誰の目にも明らかな暴力行為であったが、梨緒を助けようとする者はない。そ
の場に居合わせた全ての者が、地元の有名人である男をよく知っていたからだ。
ここで己の良心が薦める行動に出た場合、後にどんな仕返しを受けるか、想像に
難くない。実際、そうした者がどうなったか、という噂話は枚挙にきりがなかっ
た。
 唯一、たまたまレジ近くに居た男性店員が「あの、お代……」と小声で言った
だけである。
 対して男は足を止めることなく、背中越しに親指でそれまで梨緒の座っていた
席の方を指す。
「あれで足りるだろうが」
 床に落ちた一万円を拾えと言うのだった。


「付き合い悪すぎるだろ〜、笠原さあん」
 友人の少々ふて腐れた声を気にすることもなく、健司は歩を進めて行く。友人
も健司が自分を構ってくれる様子がないと悟ると小走りにその後を追う。
「本っ当、お前って冷たいところ、あるよなあ」
「そうか? 俺ほど付き合いのいい男は他にいないと、自負出来ると思ってるけ
どな」
 苦笑混じりに健司は答える。
「だったらよぉ、ゲーセン寄ってこうよ。なっ? 俺、グレートファイターの新
戦法を編み出したぜ」
「だから、俺は今日、これを買いに来ただけだから、余分な金は持ってないんだ
って」
 小脇に抱えた書店の包みを顎で示す健司の言葉は、些かぶっきらぼうになって
いた。無理もないだろう。このやり取りは先刻から既に、片手の指では足りない
回数を数えているのだ。
「だから、ゲーム代は俺が奢るって言ってんじゃん」
 健司は一つ、ため息を吐く。
「何度目かな、俺はそんなことで人に借りを作る気はない、って答えたの」
「何度目だっけ、俺はそんなことで人に借りを作ったなんて思わない、って答え
たの」
 張り合うように友人もため息を吐きながら答える。
 傍目には埒もないやり取りではあったが、当人たちにしてみればこれも友だち
同士のコミュニケーションの一つであるのだ。もっとも健司は本当にゲームなど
するつもりはない。
 別にゲームが嫌い、というのではなかった。実際、友人が盛んに誘っている対
戦型の格闘ゲームは健司も何度か遊んだことはあったし、得意なほうだった。友
人とは過去数回の対戦を行い、全勝している。だからこそ友人にしてみれば、た
またま町で会った健司に今日こそは一矢報いようと誘っているのだろう。
 しかし学期試験を間近に控え、健司のほうはとてもそんな気になれない。その
ために先ほどから不毛な押し問答が延々と続いている次第であった。
 元より幾らも距離のない商店街も終わり、お互いにそろそろ飽きが来た問答に
も終止符が打たれようかという頃だった。初めに健司、一拍遅れて友人の足が止
まる。彼らから十メートルほど先、喫茶店前から聞こえてきた喧騒によってであ
る。
「痴話、喧嘩かあ?」
 果たして意味を理解しての発言だろうか。友人の言葉。
 確かに喧騒の原因は一組の男女によるものであった。しかし痴話喧嘩と呼ぶに
は些か度を越している。
 ぶっ殺す、男はそんな物騒な怒声を発し、女の背中を喫茶店の壁へと叩きつけ
た。更には衝撃で倒れ込んだ女の襟首を掴み上げ、強引に立たせる。これは喧嘩
などではない。男の女に対する一方的な暴行であった。
 事情は分からなかったが、男のほうに理のある行為とは思えない。何か内から
起きる感情に、健司は足を前に出そうとする。
「バッカ、何考えてんだよ。つまんねぇ正義感なんて、出すなよ」
 後ろから健司の右腕を掴んだ友人が言う。
「つまらない、か………」
「そうだよ、あいつ、知ってるだろう?」
 そっと、距離があるのにも拘わらず、相手に気づかれぬようにと控えめな動作
を以って男を指差す。そんな友人に念を押されるまでもなく、健司もその男のこ
とは知っている。健司たちの卒業した中学校の二学年先輩で、在学当初からその
悪辣ぶりは有名だった。出来るものならば、健司とて関わりたくない相手である。
しかしこの時、健司にはそ知らぬふりを決め込めない訳があった。
「けど、あの女の子、顔見知りなんだよ。放っておけない」
「えっ、あっ、あの子………室田梨緒だ」
 男にばかり目の行っていた友人も、ようやくその関心の一部を女のほうへも向
ける。男ほどではないが、梨緒もまた同じ中学校の関係者の間では有名だったの
だ。
 一瞬、健司を掴んでいた友人の腕が緩まる。そのまま健司は騒動の中へと歩を
進めた。
「ばか、よせって! どんな知り合いか知らないけど、似た者同志の喧嘩だって。
関わることないって」
「あの子、優希の友だちなんだよ。ここで知らんぷりしたら、後でぶん殴られち
まう」
「ゆうき? ああ、あのお前の彼女か」
「幼馴染みだよっ」
 背を向けたまま、健司は強い口調で友人の言葉を訂正した。


「分かってんのかねぇ、おつむの緩い梨緒ちゃんは」
 三度目の平手打ちを梨緒の顔に当てた後、狂気に満ちた笑みを近づけながら男
は言った。煙草臭い息が梨緒を襲う。この瞬間だけを切り取って見れば、二人は
まるで口付けを交わそうとする直前のようでもある。互いの罵声を除けば。
「分かってるわよ! アンタの目当てはアタシのお金だけってことくらい」
 力においては明らかに劣勢な梨緒だったが、語気の荒さだけは負けていない。
「へぇ、こりゃ驚いた。ちっとは脳みそがあるんだねぇ………」
 言い終えると同時であった。
 男は梨緒の胸座を掴むと、そのまま意味不明の奇声を発し、店の壁へ身体を打
ち付ける。
 強い衝撃に痛みより呼吸困難となり、梨緒はその場にへたり込む。が、男はそ
れを許さない。今度は襟首を掴んで、強引に立たせる。
「そうだよ、テメェなんぞ、金が無かったらただのゴミクズなんだよ。分かって
んなら、ちゃあんと持って来て下さいな」
「………もう………誰が、アン…タ……なんかに………」
 まだ呼吸が正常に戻らない口で、梨緒は切れ切れの言葉を絞り出した。
「ああっ、なんだって? はっきり喋れや。聞こえねぇぞ」
「もう、アンタにあげるお金なんてない………さっきの、五万円は、手切れ金の、
代わりよ」
「ほう!」
 一際大きな声で、男は驚いて見せた。それから「ナイス、ジョークだ」と笑っ
たかと思うと、膝で梨緒の股間を蹴り上げた。
「うぐっうっ!」
 鈍い痛みに、梨緒の口から涎が落ちた。
「かっ、汚いツラだなあ、おい。大げさなんだよ、テメェにゃ、チンポも金玉も
無ぇだろうが」
 言いながら、男はゲラゲラと下品に笑う。
「サイテイ………アンタも……アンタを、選んじゃった、アタシも………」
 まだ息は回復していない。
 襟首を掴まれ、身体の自由も儘ならない。なったところで、力で太刀打ち出来
るはずもない。
 そんな梨緒の選んだ抵抗手段は、男に向けて唾を吐き掛けることだった。しか
しこの抵抗は梨緒の立場を好転させるものとはならない。むしろ男の加虐心に火
を点けるだけの結果となる。
「へえっ」
 男は顔に掛かった唾を手で拭った。その手を振ると、唾はピチャッと音を立て
アスファルトへ落ちる。
「死にてぇらしいな、貴様………望み通りにしてやるよ!」
 真っ直ぐに、拳が梨緒の顔面へと突き出された。男の手加減ない拳が当たれば、
無事には済まないだろう。それを避ける術を持たない梨緒は、固く瞼を閉じ、歯
を噛み締める。
 が、覚悟を決めた梨緒に、その瞬間はなかなか訪れなかった。恐る恐る、目を
開けてみる。やはり男の顔は梨緒の間近にあった。しかしその視線は梨緒に向け
られていない。
 何が起きたのか理解出来ないまま、梨緒も男の視線を追う。その先に別の男の
姿があった。
「カッコ悪いっすよ、岡島先輩」
 短い台詞は後から登場して来た男のもの。それはまるで、テレビドラマの一シ
ーンのようでもあった。
 男は梨緒に向かい、拳を振り出していた。それが届かなかったのは後から登場
した男によって、阻まれたためである。
「かさはら……けん、じ」
 梨緒には、自分に当てられるはずだった男の腕を掴むもう一方の男に見覚えが
あった。優希の幼馴染みである男の名を、二人には聞き取れないほどの声で呟く。
「ああ? なんだあ、このエエカッコシイが………ああ、テメェにゃ見覚えがあ
るぞ」
 それほど大きくはない町である。まして在学中の梨緒を含め、この場の三人は
共に同じ中学校の出身者同士であった。見覚えがあって当然だろう。
「んんっ、あー、忘れたわ。雑魚の一匹一匹、いちいち覚えてられっかての」
 健司が抑えていたのは、男の右腕一本だけである。相手には攻撃手段がまだい
くらでも残されていた。
 あるいは健司も、男の攻撃を予想していたかも知れない。しかし相手のほうが
遥かに喧嘩慣れをしている。突然放たれた左の拳を、避ける仕草さえ見せず腹部
へと貰ってしまう。
「ぐっ」
 苦痛に身を屈める健司。その顔面を狙って、男の膝が飛んで来た。間一髪、こ
れは両腕で防ぐ。だが続け様、今度は肘が落とされる。健司はこれをかわすこと
が出来ず、まともに背中へと喰らった。そのまま、うつ伏せに倒れ込む。幸い、
膝を防ぐための両腕が顔面からの落下だけは回避してくれた。
「オイオイ、なんだよ。チョーシこいて出てくるから、ちったあ出来るのかと思
えば、まるで弱ぇじゃねえか」
 男はげらげらと下品な声を上げ、健司を嘲笑した。そしてその背中を二度、三
度と踏みつける。
「ちょっと、相手は倒れてるのよ。もう、いいでしょ!」
 一方的な暴力を見かねて梨緒は男の腰にしがみつき、止めようとした。しかし
殊更暴力において長けた男を、女の梨緒が抑えきれる道理はない。腕一本で、容
易く跳ね飛ばされてしまう。
「きゃっ!」
「うるせー、俺に意見したヤツは、ボコボコにするって、決めてんだよ」
 言いながら健司への暴行を続けていた男だったが、ふいにその動きが止まる。
「ははあん、読めたぞ………さては梨緒、テメェ、このヤローと出来てやがるな」
 下種の勘繰りとは、正にこのことであった。もっとも梨緒にしてみても、健司
は同じ中学校の出身者ということと、優希と幼馴染みであるということ以外、他
に繋がりはない。それがなぜ、自分を助けようとしてくれたのか理解出来ていな
かった。それを知性の欠片も持たない男に説明したところで、全くの無駄であろ
う。
「そうだとしたら、何よ」
 それは理解力に乏しい男に対し、無意味な説明を省くため返答であった。同時
に、もともと自分の問題である揉め事を、部外者から梨緒自身へ取り戻すための
言葉でもあった。
「上等だよ」
 案の定、男は健司への攻撃を止め、梨緒へと向かって来る、が、その歩みは二
歩と進まなかった。
「………だ…から、カッコ、悪いっすよ、岡島先輩。女……苛めて、喜ぶなんて」
 無抵抗に攻撃を受けるばかりであった健司が、倒れたまま男の裾を掴んでいた。
「ハッ、ハハハッ………健気、つーのか? ええっ、這いつくばったまんまじゃ、
カッコつかないぜ、兄ちゃんよ。起きろや」
「先輩の、お望みとあら、ば………」
 よろよろと、まるでようやく捕まり立ちが出来るようになった赤ん坊のように、
健司は起き上がった。
「そーそー、サンドバッグは、立っててもらわねぇーとよ」
 まだ足元のおぼつかない健司の顔面を狙って、男の右拳がフックの軌道を描く。
健司は両肘を壁にして直撃を避けたが、その衝撃に泥酔者のようによろめいた。
そこへ今度は左拳が下方から突き上げられる。腹部にそれを喰らった健司の口か
ら、呻き声とともに胃液が吐き出された。
「うおっ、汚ぇなあー兄ちゃん」
 相手のこうした反応にも慣れているのだろう。ジーンズパンツに胃液を浴びた
男だったが、怯むことはない。すぐ様、膝を繰り出し、健司の顔面を襲う。先の
右拳同様、両肘の壁が直撃こそ阻んだものの、その衝撃で上半身を起こされた健
司の腹部は、がら空きとなってしまう。それこそが、男の狙いであったようだ。
ボクシングのジャブのように短い拳が数発、健司の腹部へ当てられた。
 登場こそはヒーローさながらではあったが、喧嘩に於ける実力では悪役に天地
ほどの開きがあった。だが男の加虐の対象が移ったという点に関してだけ、健司
は梨緒にとっての救い主と言っていいのだろう。
 嬉々として健司を責める男を止める手立ては、もう梨緒に残されていない。仮
にあったとしても、一旦自分への暴力が中断されたことにより、却って男への恐
怖は増していた。梨緒にこれ以上の行動は不可能だった。
 どれだけの時間が過ぎたのだろう。それは数時間にも及んでいたようにも思え、
わずか数分の出来事であったようにも感じられる。男の健司に対する暴力行為を
止めさせたのは、遠くから聞こえて来たサイレンの音であった。




#283/598 ●長編    *** コメント #282 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  23:02  (412)
白き翼を持つ悪魔【12】            悠木 歩
★内容                                         06/08/28 22:42 修正 第2版
「ちっ、マッポ(警察)か………メンドーだな」
 元より抵抗らしい抵抗を見せていない健司だったが、いまは壁にもたれ掛かり
微動だにしない。男の言葉ではないが、完全なサンドバッグ状態となっていた。
「よかったなー、兄ちゃん。これで助かったよン、って、生きてんのか、これ?」
 男はそれほど慌てた様子もなく、健司の顔を覗き込む。しかし両肘で顔面を防
御したまま、固まっている健司の表情を確認することは出来ない。
「まあ、いいか」
 何も反応のない健司への興味を失い、男は梨緒へ視線を移す。
「じゃあ、ま、俺はこれでケツまくる(逃げる)からよ。ケッ、金持った女なん
て、いくらでもいるんだよ。テメェはお払い箱にしてやらあ………ま、そこの弱
虫兄ちゃんとブスとで、せいぜいヨロシクやるんだな」
 下品な捨て台詞を残し、男はゆっくりと立ち去って行った。最後は梨緒が思っ
ていたより、あっさりとしたものだった。所詮、男にとって自分は金蔓でしかな
かったのだと改めて思い知る。
 呆然と男の立ち去った先を見ていた梨緒を現実に返したのは、間近まで迫った
サイレンの音であった。梨緒自身には警察に対してやましいものがある訳でもな
いが、面倒は避けたい。警官が到着する前に、男同様この場を離れることが、梨
緒にとって望ましいものだった。
 他に気にすべき相手がいなければ、間違いなくそうしていたであろう。ただ結
果として自分に代わり男の暴行を受けた健司を捨て、逃げ出すほど非道にはなれ
ない。
「ちょっと………アンタ」
 健司へと歩み寄ろうとするが、足が思うように動かない。
「笠原っ!」
 梨緒を追い抜いて行く、声と影。高校生と思しき男性が、梨緒よりも先に健司
の下へと辿り着く。どうやら健司の友人らしい。
「あーっ、大丈夫だよ」
 意外にも元気な声を友人へ返し、健司が立ち上がる。その姿に、梨緒もそっと
胸を撫で下ろした。
 近づいていたはずのサイレンは、いつの間にか遠ざかり始めている。野次馬の
誰かが通報したのではないようだ。
「君、大丈夫かい?」
 心配していた相手が逆に梨緒へと歩み寄り、その身を気遣った声を掛ける。目
の前に差し出された手。それを取ろうかと一瞬の逡巡の後、梨緒は自力で立ち上
がった。
「アタシは………ぜんぜん、平気よ」
 ありがとう、と言いたかったはずの口が、別の言葉を選んでしまう。
「平気ってことはないだろう。顔とか、随分殴られたみたいだけど」
 心配げな表情が、息の掛かりそうな距離から覗き込んで来た。途端、梨緒は自
分の顔が急激に熱を帯びるのを感じた。強い羞恥心が梨緒を支配する。
 男に暴行を受け、その痕跡を留めた顔。それを健司にだけは見せたくない。
「平気だって言ってるじゃん。放っといてよ」
 芽生えた感情に反する言動を取る。そのことに、梨緒自身驚きながら。
 まだ感じる痛みを隠し、勢いをつけて立ち上がった。怒っているふうを装いな
がら、健司へと背を向け歩みだす。数歩進んだところで足を止め、振り返らずに
言った。
「なに? アンタ。勇ましく登場したわりには、カンタンにヤられちゃってさ。
ダサいの」
 憎まれ口を吐き捨てて、喫茶店横の路地へ駆け込んだ。だがそのまま立ち去る
ことはしない。
(なにしてんのよ? アタシ………)
 両腕で自らを抱きしめ、座り込む。
 梨緒は今まで感じたことのない想いに戸惑っていた。惚れっぽい性格は充分自
覚している。些細な仕草、言葉一つで男性を好きになってしまった回数は十指に
収まらない。たったいま起きた出来事で、梨緒が健司に想いを寄せても不思議は
なかった。
 だが何かが違う。
 確かに健司に対し、好意を持った自分を感じている。ただいつもであれば、そ
の場で告白していたはずだ。
 梨緒は遠回りを嫌う。よく言えば行動的な性格であるが、短絡的なのである。
恋愛に至るまでの過程、段取りなど面倒でしかたない。相手にその気があるのか
ないのか、すぐに知りたい。もし断られたのならば、次の相手を探せばいい。
 しかしそんな梨緒が、健司に対しては普段と違う行動に出てしまった。
 単刀直入に自分の感情をぶつけられず、想いとは逆の言動を取ってしまった。
 素直な言動を取ることに恐怖したためである。相手に拒まれることを恐怖した
のだ。
 それからもう一つ、自分の感情を健司へとぶつけられなかった理由がある。健
司が優希の幼馴染みであると知っていたからだ。
 恋多き女を自称する梨緒であったが、反面、心許せる友人は少ない。その中に
あって、優希は親友と呼べるたった一人の人物であった。優希の気持ちを確かめ
る前に、健司に告白するなど出来るはずもない。
「何だよ、あの女」
 路地の向こうから不満を顕にした声が聞こえて来た。健司のものではない。友
人の声のようだ。

「フツー、礼の一つも言って行くモンじゃねぇのか?」
 当事者である健司ではなく、何故だかその友人のほうが、梨緒の態度に酷く憤
慨していた。
「仕方ないだろう。あの子だって、あんな目に遭っていろいろ、混乱もしている
だろうし」
「あ? 何で笠原が弁護するんだよ」
 互いに気の置けた間柄ということもあってか、友人は露骨に呆れ顔を見せる。
「まあ、お前がそう言うんなら、俺が文句垂れる筋合いじゃないけどな………で、
本当に、お前、大丈夫なのかよ」
「ああ、実を言うと、正直、ちょっとしんどい」
 その場にへたり込みそうな健司に、慌てて友人が肩を貸した。
「はははっ。たっぷり腹をやられたから………右足も、少し痛いかな」
「仕方ないなあ、ゲームはまた今度ってことで、家まで送ってやるよ」
「悪い、サンキュ」
 友人の肩を借りながら、健司は片足を引き摺り、ゆっくりと歩き始める。
「本当、バカだよなあ、笠原は。カッコよく出て行って、反撃の一つもなく、一
方的にやられやがって」
「いや、あれで正解だろ。岡島さんの執念深さは有名だからな。もしあそこで、
俺がパンチの一発でも当てていたら、こんなものじゃ、済まなかったはずだぜ」
「ん、言われて見れば確かに………」
「それにあの人、俺をタコ殴りにして気が晴れたろうから、今後あの子や俺に絡
んだりしないと思うんだ」
「じゃあお前、初めからヤラれるつもりで?」
「まあな、あっ、悪い、ちょっとストップ」
 突然、健司は友人の足を止めさせる。それから横の店のガラスに移った自分の
顔を、しきりに気にしていた。
「どうした?」
「ん、顔、平気かな」
「ああ、派手に殴られた割には………傷とか腫れとか、ないみたいだぜ。そう言
えば、お前、顔だけは必死にガードしてたな。二枚目くん」
 冷やかし口調で友人が言う。
「違うよ。顔に痕が残っていると、あいつに追及されるから」
「あいつ? ああ、もしかして優希ちゃん、だっけ」
「幼馴染みだからな」
 更なる冷やかしが続く前に、健司の方から釘が刺される。
「しくじったなあ、あの子に口止めするのを忘れてた」



 吹き抜けてゆく夜風は、冷たさを更に増していた。直接空気に触れている指は、
もうだいぶ前から感覚の殆どを失っている。そればかりか、身を包む学生服は防
寒具としての機能をさほど持たない。二人とも、身体の芯まで冷え切っていた。
 しかしたったいま、語り終えたばかりの梨緒は、寒さを全く感じていないよう
である。痛みを覚えさせるほどの寒風の中で、その頬を紅く上気させていた。
 そして、話を聞いていた優希も複雑な想いの中で、寒さを忘れていた。
「そっか、あいつ、そんなこと………」
 確かに少し前に、健司の様子がおかしい時期があった。あれは二ヶ月ほど前、
梨緒が学校を休んでいた頃と重なる。
 優希は中学生、健司は高校生であるため、以前に比べ顔を合わす機会は少なく
なっていた。れでも朝夕の短い時間、その少ない機会に恵まれることがある。も
っともこれは優希が意図的に健司の時間に合わせていたのであるが。
「オハヨ。こら、若者が、背中を丸めて歩くんじゃないよ」
 朝の挨拶と共に、背中を強く叩く。快活な少女の親愛の証。ただし優希が実際
にこの行動に出る相手は、ごく限られている。
「うおっ!」
 ふいをつかれたためであるとしても、少々大げさな叫び声。訝しんだのを覚え
ている。
 健司は、体育の柔道で受身を取り損ねて背中を痛めたのだとか、そんな言い訳
をしていたように思う。
 相変わらずトロ臭いんだから、と言いながら優希は笑ったものだった。本当に
少し、嬉しかった。
 幼い頃は駆けっこをしても、ケンカをしても優希が健司に負けることはなかっ
た。それがお互い成長してゆくにつれ、足の速さも、力の強さも、次第に健司の
ほうが勝るようになって来た。それがまだ幼児期の脆さ、自分が見てやらなけれ
ば何をしでかしてしまうか分からない危うさを残しているのだと感じたのだった。

「なによ、馬鹿けん」
 誰か向けて発したつもりはない。ただ自分の知らない所で、梨緒を助けた健司
を格好いいと思う反面、どこか悔しくも思えたのだ。
「ごめんね。優希の大切な人に、ケガさせちゃって」
 優希の呟きを耳にした梨緒が、神妙な面持ちで頭を下げる。
「あっ、いいの、いいのよ。どうせ、あいつ、そんなことでしか人の役に立たな
いんだから」
「ホント、仲いいんだね。ケンちゃんと優希って」
「だ、だからどうしてそうなるのよ?」
 辺りが暗くて幸いした。もし昼間であれば、あからさまなほどに紅くなった顔
を梨緒に見られていただろう。
「だっていまの言い方。ただの知り合い程度じゃ、言えないでしょ」
「………」
 なおも反論の言葉を探す優希だったが、見つからない。
「でも安心して」
「えっ」
「アタシ、この気持ち、伝えるつもりないから」
「どうしてよ、そんな、梨緒らしくない」
 言いながら、優希はどこか安堵している自分に気づく。それが堪らなく嫌だっ
た。
「フフッ、優希、変な顔してる」
 いつかどこかで見たような優しい微笑み。どこで見たのだろう。
「アタシ、優希のこと、大好きだもん。だから、優希の大切な人、盗ったりしな
いよ」
「そんな………だから、あいつはただの………」
 弱々しい優希の反論を遮ったのは、一本の指だった。梨緒の人差し指が優希の
口元へと充てられる。
「幼馴染みでしょ。優希も、ケンちゃんも、二人しておんなじこと言ってる」
 今度は少し意地の悪い、それでいてやはり優しい微笑みを浮かべる。
 ああ、そうか。優希は思う。
 小さい頃に読んだ絵本の中だと。
 慈愛の女神の微笑みと梨緒の微笑みとが重なるのだ。
 優希は改めて思う。梨緒はこんなにも美人だったのだと。
「あっ、でも………」
 梨緒が腰を預けていたガードレールから、ゆっくりとした動作で立ち上がる。
「もし優希が大人になって、他に好きな人が出来たら、その時はケンちゃん、も
らうからね」
 冗談とも、本気とも判断の付かない、いつもの口調。一瞬前までの、大人びた
雰囲気はどこへ行ったのか、普段の梨緒へと戻る。
「なんか、優希に話したらスッキリしたな。アタシ、先に帰るね」
 足元の紙袋を拾い上げると、梨緒は小走りに歩き出した。その姿は何か、照れ
隠しのようにも見えた。
「バァイ、またガッコーでね」
「うん、また………学校で」
 手を振る梨緒に対し、優希も手を振って答える。
 この時、互いにまだ知らない。これが最後の別れとなることを。



 夜は深さを増していく。
 それに伴い、寒さも増していたが今は感じない。
 いや、正しくは風の冷たさこそ感じてはいたが、むしろそれが心地よかった。
 優希はガードレールの上に手を突き、夜の海を眺めていた。もっとも暗い闇の
中にあって、目に映るものは少ない。仄かな月明かりを受け、微かに波を認めら
れる程度である。
「ふうっ」
 何度目になるだろうか。優希は深くため息をつく。
「あーあ、どうなんだろう、私」
 誰に向けたのでもない疑問の言葉が零れる。
 幼馴染みとして、物心がつくより前から、共に過ごす時間の長かった健司。確
かに他の同世代の男性に比べれば、身近に感じるのも当然であろう。ただそれを、
優希は肉親に対しての感情と思っていた。
 しかし梨緒から健司への想いを告げられ、改めて自分の想いについて考えてし
まった。
「幼馴染みの男の子を好きになる………それじゃまるで、マンガじゃないの」
 呟き、笑う。だがその笑いも、二秒と続かない。
(だって、私には手の掛かる弟がいるんだもん)
 以前、友人に対して言った、自分の言葉を思い出す。
 優希自身は自分の器量がどの程度のものか意識していないが、目立つ存在であ
ることは間違いない。幾度か、男子生徒から告白を受けてもいる。
(ちょっと、なんでー。あの子、女子の中でも人気あるんだよ)
 男子生徒から申し込まれた交際を断った直後、そう言ってきた友人へ向けての
言葉だった。
 やっぱり優希は笠原先輩が好きなんだね。先ほどの梨緒と同じようなことを、
その友人も言った。そしてやはり、優希はその時も強く否定したものだった。
「そりゃあ、嫌い、じゃないけどさあ」
 天を仰ぐ。
 遠い異国の神々の名を冠した星の並びが見えた。
 この星々の下に生きる幾万、幾億の人たち。そこにはどれほどの数の幼馴染み
がいるであろう。
 そして───
 どれだけの数、結ばれた幼馴染みがあるのだろう。ドラマや漫画のように大人
になって結ばれる幼馴染み同士など、決して多いものではないのではないか。そ
んなことを考えてしまう。
 物心のつくより前から、沢山の時間を共有して来たのだ。一緒にいるのが当た
り前過ぎて、健司が異性であることさえ忘れていたように思う。
 もちろん優希とて恋愛に興味がない訳ではない。何時かは理想の男性と出会い、
大恋愛をするかも知れない。漠然とそんなことを考えたりしたこともある。
 では、と考える。
 自分の理想する男性とは、どんな性格で、どんな姿なのだろう。頭に浮かぶの
は、よく知った顔。
「ばっか! 梨緒のせいだ」
 梨緒から話を聞かされて、必要以上に意識しているためだ。どれほど振ってみ
たところで、健司の顔が頭から消えない。
 時間を置いて冷静になれば、明日になれば、と思う。
「明日になれば………」
 明日になればどうだと言うのだろう。
 明日になれば、笑って梨緒の新しい恋を応援してやれるだろうか。
「好き………なのかなあ」
 考えたところで、悩んでみたところで、すぐに答えは出そうになかった。
 いつまでもここで悩んでいても仕方ない。いつの間にか夜もすっかり更けてい
る。時計を持たない優希に正確な時間は分からなかったが、そろそろ母親も心配
しているだろう。
 帰ろう。ガードレールから手を離し、上体を起こした瞬間であった。
 カツ、と何かが爪先に当たる。身体を起こすのに勢いをつけ過ぎ、足元の紙袋
を蹴ってしまったのだ。買ったばかりのコートが入った紙袋を、である。
 横倒しになった紙袋は、蹴られた勢いのまま、ガードレールの隙間を潜り抜け
る。その先は崖であった。
「あっ」
 考えるより前に身体が反応する。それがいけなかった。
 思わずガードレール越しに右手を伸ばす。
 自分の運動神経の良さを過信していたのだろうか。あるいは紙袋の中に大事な
ものが入っていたからか。既に落下を始めている紙袋を、優希の手は無理な体勢
で追い掛けてしまった。しかし限界以上に伸ばした手は、結局空を切る。
 それだけなら、まだいい。
 惜しいが、コートはまた買えばいい。
 面倒だが、通帳は再発行してもらえばいい。
 一瞬の判断ミス。日常の生活の中、咄嗟の判断・行動がその人間の生涯を大き
く左右するケースはそう多くない。だが優希は経験してしまう。
 突如平行感覚が失われる。ガードレールを乗り越えた身体が、そのまま紙袋を
追うように落下を始めたのだ。後方に残る左手が、何か掴めるものを探すが見つ
からない。
 夜の闇の中、さらに深い闇色の海へ優希の身体が吸い込まれていく。
 わずかに数秒、瞬きをするよりもほんの少しだけ長い時間。十五年に満たない
人生の中、優希は最大の恐怖を経験した。

 不運は重なるものである。
 運動神経の固まりと自他共に認める優希にとって、泳ぎもその例外ではなかっ
た。もし同じ事故が昼間起きていたなら、得意の泳ぎで助かったかも知れない。
 しかしいまは夜。暗い空よりもなお暗い海は、ふいの事故に遭った者の恐怖心
を煽る。しかも長く冬の夜風に当たっていたことが災いした。それでなくとも、
冷たい海は身体の感覚を鈍らせる。夜風で冷やされた優希の運動能力は、著しく
失われていた。さらには波も高い。空気を求め、水面を目指そうとするが動かす
ことの儘ならない手足では、どうにもならない。意思に反し、身体は下へ下へと
沈んで行く。
(ああ………なんだろう)
 優希は、人一倍元気な少女であった。生命力そのものであった優希が、人の死
について深く考える機会など、そう多くはなかった。ただ漠然と、死についても
っとドラマチックな想像していた。
(私、死ぬんだな)
 なんと呆気ないものであろうか。
 つい数分前、梨緒と話していたのが嘘のようだ。
 もう手足は殆ど動かすことが出来ない。いや、身体に手足が付いているのかど
うかも分からない。感覚がまるでない。
 もがきたいほど苦しいが、それすら適わない。
 意識が次第に薄れて行く。
 遠のく意識の中、愛しい人たちの顔が脳裏に浮かぶ。
 父と母、たくさんの友だち。
 そして健司の顔。
(ごめん…梨緒………私、あいつの、こと………やっぱり、好き、みたい………)
 閉じられ行く瞼の隙間から、一滴の涙が零れた。しかしそれは海中に溶け込み、
誰の目にも触れることはなかった。



「何の真似だよ」
 健司の口からは、些か気の抜けた声が漏れる。
 何か護身用の武器を掴んでいるとばかり思っていた梨緒の手にあったのは、
少々厚みのある封筒だったからだ。
「お前、状況が理解出来ているのか?」
 少々健司は不安を感じる。あるいは過度の恐怖によって、梨緒の気がふれてし
まったのではないかと考えたのだ。
 それでは困る。
 梨緒には最期の瞬間まで恐怖を感じてもらわなければ、甲斐がない。しかし健
司の不安はすぐに払拭された。
 まさか中に凶器が仕込まれているとも思えないが、念のため健司は封筒を奪い
取った。抵抗らしい抵抗もないまま、封筒は梨緒の手から健司の手へと移る。
 それは先刻梨緒が見せた、健司の送ったものとは違う。大手銀行のATM等に
備え付けられている封筒だった。中身を確認すると、その封筒の本来の用途に沿
い、紙幣の束が入れられている。枚数までは数えなかったが、厚さから推測する
と数十万円、あるいは百万円近くあるかも知れない。
「それはアンタにあげる」
 中身を確認した健司へ、梨緒が言う。が、その言葉は健司の逆鱗に触れる結果
となった。
「ふざけるな!」
 放った健司自身が驚くほど、大きく、そして激しい声だった。同時にその手は
梨緒の喉元へ伸ばされる。コートの襟が合わさる辺りを鷲掴みし、捻る。健司よ
り頭半分ほど背の低い梨緒は、首を吊るされるような格好となり、爪先立ちを余
儀なくされた。
「金で命乞いか? つくづく貴様らしいよ。だがあいにくだったな、俺が欲しい
のは、優希を死なせた奴の命だけなんだよ」
 大き過ぎる怒りは笑顔を作らせるのだと、健司は初めて知る。もしこの場に鏡
があったのならば、健司は己のものとは信じ難い、醜く歪んだ笑顔を目にしたで
あろう。
 本来ならば、もっと時間を掛ける予定であった。梨緒に自分の犯した罪を認識
させ、後悔と恐怖を感じさせ、その中で人生の終幕を迎えてもらう。そうでなけ
れば優希の亡き骸が海岸に上がった日より今日まで、存在する意味を失った時を
過ごしてきた健司の気が晴れない。
 しかしこのままでは怒りによって自制心を失った健司の手が、梨緒の呼吸が止
まるまで絞め続けるか、あるいは首の骨を折ってしまうまで、幾らも時間は必要
ないだろう。
「………がう、わよ」
「何?」
 切れ切れの息で、梨緒が何かを言った。元々言い訳に耳を貸すつもりなどない
健司ではあったが、当初の計画を思い出し、もう少し相手の足掻く姿を見るのも
いいだろうと考える。わずかにではあるが、手の力を緩めてやった。
「それは………いままで、アンタに借りてた………お金よ」
 その言葉を聞いて、健司は再度手にした封筒を見遣る。確かにこれまで梨緒に
渡して来た金額を合計すれば、この位の厚みにはなるかも知れない。それにして
も金に関してはだらしない性格だとばかり思っていた梨緒が、金額を覚えていた
とは少し意外であった。
「ふん、お前らしくもないな。だが、いまさら殊勝なところを見せても、俺の気
持ちは変わらない」
 健司は冷たく言い放ち、梨緒を床へと突き飛ばした。もうもうと埃が舞うが、
健司も、そして梨緒にも気にする様子はない。
 倒れこんだ梨緒へ向け、健司は手にしていた封筒を投げる。厚みのある封筒は、
胸の辺りに乗った。
「それにこれは、初めから返してもらうつもりのなかった物だ。お前が金の無心
に来る度、優希のことを思い出して憎しみを募らせていたんだ。言わばそれは、
憎しみを忘れないための代金さ」
 健司にしてみれば金に対する興味も、必要性もない。今夜目的を果たした後は、
自分も命を絶つもりでいたからである。
 しかしよろよろと立ち上がった梨緒が、封筒を健司のポケットへと押し込む。
「だから、気は変わらないと言っているだろう!」
 その行動が健司を無性に苛立たせた。梨緒の胸元を両手で掴み、後ろの壁へと
押し付ける。壁の下の方には一メートル前後のロッカーが備え付けられていて、
その上部は棚のようになっていた。そのために梨緒の下半身はロッカーに阻まれ、
上半身のみが壁に押し当てられ、逆海老の姿勢になる。
「アタシだって………」
 乱れたままの呼吸に追い討ちを掛けられた梨緒が、微かな声を絞り出す。
「………死ぬ前くらい、身を………キレイに…しておきたい、もの」
 今度は健司も力を緩めたりはしていない。そのため、そう言った梨緒の声は大
分聞き取り難いものであった。
 どうにか聞き取ることの出来た声は、健司の心に小さな波紋を生じさせる。死
ぬ前に身を綺麗にしておきたい。それは即ち、梨緒は死を覚悟していたというこ
とである。健司の呼び出しに応じれば死が待っていると承知の上で、この場に赴
いたのだろうか。
 いや、これがこの女の手なのだ。
 健司の身体の奥底、歪んだ自分が囁く。言葉で健司を乱し、命を永らえようと
いう考えに違いない。
 それとも。
 初めから健司の心を知って、それでもなお近づいて来たのであろうか。
「いいよ………もう、どうでも」
 思わず漏れた言葉に、健司は苦しそうな顔のまま見つめる瞳に気づいた。
 もう後に戻ることなど出来ようものか。健司には先に進む以外、道はないのだ。
それならばここで梨緒の思惑など知ったところで仕方ない。梨緒も健司も、日の
出を迎える頃には、この世の人ではなくなっているのだから。
 健司が手を離すと、梨緒の身体は床へと崩れ落ちる。そこへ再び健司が馬乗り
になった。
 最初の予定では用意した刃物で、梨緒を刺すはずであった。急所を外し、数箇
所を刺すことで死に至るまでの時間を延ばし、恐怖と苦痛を与えてやるつもりだ
った。
 しかし気が変わった。
 あるいはどこかで健司自身が、自分の考えているほど残忍になりきれなかった
のかも知れない。だが今日までそれのみを支えに生きて来た目的を、捨てること
も出来ない。
 健司は両手を伸ばす。
 梨緒の首へと。
 別段、健司の動きに素早さはない。相手に逃げられたり、反撃されたりするの
を警戒した動きではなかった。
 もちろんそれらについて、健司も全く留意していなかった訳ではない。しかし
ここに来てから終止そうであったが、梨緒には抵抗らしい抵抗をする気配がまる
でないのだ。そのために健司の警戒心も薄まっていた。
「……こいつ」
 抵抗、どころではない。
 梨緒は目を閉じたのだった。無言で健司の両手が首に掛かるのを許す。
 初めての経験であるため、どれほど時間を要するかは分からない。しかし後は
このまま手に力を込めるだけである。梨緒の命を奪うのは、もう容易い。
 これ以上何も考えたくはない。
 ここで全てを終わらせよう。
 そして自分も優希の元へ行こう。
 その中にある者の命を手折るべく、健司の指先に力が込められようとした瞬間
だった。
「こら、けん。バカなことやってとんじゃないの!」
 予想もしていなかった叱責の声に、込められようとした力が止まる。
 女の声であったが、梨緒のものではない。
 首に手を掛けられた梨緒に、出せるような声ではない。
 目撃者が現れることを避けるため、この場所を選んだ。万が一、目撃されてし
まっても、元より完全犯罪など望んではいない。しかし目的を果たさぬうちに止
められては困る。無関係な者を巻き込みたくはないが………。
 健司は声の主の姿を求め、視線を巡らせた。




#284/598 ●長編    *** コメント #283 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  23:03  (306)
白き翼を持つ悪魔【13】            悠木 歩
★内容


 どれだけの時間を費やしたのか分からない。
 あるいは肉体を失った魂にとり、時間の経過などないのかも知れない。彼女は
膝を突き呆然と夜の海を眺めていた。
「ばか………」
 呟いた言葉は、己に向けてのものであった。
 誰かに貶められ、人を憎み、世を恨んでの死ではない。間の抜けた最期である。
しかも何をどこで間違ったのだろう、地獄の王の命を受け、自分の想い人をあり
もしない復讐へと走らせてしまった。
 父母に悲しみを残し、健司の人生を狂わせ、そして大切な友人にまでも。
 自分の小さなミスが、多くの人をおかしくさせてしまった。
 いまは何より、彼女自身が恨めしい。
(やっと、思い出してくれた)
 声がした。
 よく知った声。
 彼女自身の声。
 しかし彼女が発したのではない声が。
「思い出したよ、ぜんぶ………」
(よかった………いまならまだ、間に合うかも知れない。早くケンちゃんを止め
て)
 膝を突く彼女の傍らに少女が立っていた。
 それはあの日、あの時、ここで命を落とした少女、田嶋優希の姿であった。
 彼女は少女を見遣る。
 如何なる理由で別れてしまったのか分からないが、懐かしい自分の姿に胸が熱
くなるのを感じた。
 気のせいだろうか。少女―――もう一人の自分とは、幾度も対峙してきたが、
いまはこれまで以上に、その姿も声も儚く思える。自分の死について、知ったた
めであろうか。
(さあ、急いで)
 促す少女へ、彼女は首を横に振る。
「出来ないよぉ………いまさら。だって私は………悪魔だもの」
 言いながら涙が零れた。
(なんだ、そんなこと。大丈夫、すぐに分かるから)
 儚げに少女は微笑む。いや、本当に少女の姿は消え行く蜃気楼のように薄れて
いた。
「ちょ、ちょっと……あなた、まさか消えちゃうの」
(ううん、そうじゃないよ)
 否定する少女の顔は、薄れて行きながらも嬉しそうだった。
(戻るの、一つに。私は消えない、あなたも消えない。だってもともと、一人の
田嶋優希なんだもの)
 少女の姿は完全に消え去った。と、同時に冬の夜とは思えない、暖かな風が吹
く。陽光と草の匂いを抱いた風が吹き抜けると、一面は光に包まれた。
 彼女以外の全てが、いや彼女すら光の中へと飲まれて行く。右も左も、上も下
も見失う光の中、彼女は浮遊感を覚えていた。やがて光が去ると、彼女は実際に
何かに漂う自分を見つける。
 右目を開く。映ったものは朱色の線。水面であった。
「ここは………」
 彼女はいま、右半身を水面より上にして浮かんでいた。赤い血の海の上に。
 身体も顔も動かさず、眼球のみを動かし、視線を巡らす。
 水面は、なだらかには続いていなかった。波ではない別のものにより、激しい
おうとつを見せている。それは紅い水面に漂う、無数の亡骸であった。
 この風景に、彼女は見覚えがあった。
 悪魔の眷属として、最初に見た光景。最も古い記憶である。
 しかし一つ、あの時は異なっているものがあった。あの時には無かったもう半
分の身体。彼女はゆっくりと、まだ閉ざされていた左の瞼を開く。
 途端に世界は一変する。
 視界の中央を仕切る線、水面が百八十度回転して上下が入れ替わったのだ。開
いた左目に映る海は、もう赤くない。わずかに青味掛かっているが、ほとんど透
明に近い。水は冷たいが、凍えるほどではなく、むしろ心地よい。
 彼女は、ゆっくりと身を起こす。血の海とは異なり、そこは思ったより浅い。
ただ血の海にいた時と同じように、彼女は裸だった。水上に腰から上の裸身を晒
した彼女は、まず天を見上げる。
 そこに暗い闇はない。白色の空であった。しかしそれは雲の色ではなかった。
輝く白。空は柔らかな光に満ちていた。
 続いて四囲を見渡す。
 累々と続いていた屍はない。代わって彼女と同じく、裸の少女たちの姿があっ
た。少女たちは皆、裸であることに恥らう様子はない。各々、思い思いに、ある
いは数人がひと塊となって沐浴や水遊びを楽しんでいた。少女たちの嬌声が、彼
女の耳にも届いて来る。少女ばかりではない。離れた場所には、男性らしき姿も
見られる。
 近くには白い岸辺も見えた。砂浜なのだろうか。
 どうやらここは、どこかの湖らしい。
 彼女は自分からもっとも近くにいた、少女たちへ目を遣る。あの日、海に落ち
た優希と同じ年頃の少女が三人、白いビーチボールのようなもので遊んでいた。
ビーチボールというとビニール製のものを想像してしまうがそうではない。若干、
距離があるためはっきりしたことは言えないが、何かそれは大きな綿毛に見える。
 ボールで遊んでいた少女の一人が、彼女に気づいた。
 同性の彼女さえ一瞬息を呑んでしまう、そんな優しい微笑を浮かべ、こちらへ
と歩み寄って来る。
 少女が大きく手を振り、彼女へ何か叫ぼうとした瞬間であった。
 強い風が走り抜ける。
 湖面を無数の細波が埋め尽くす。
 その途端、彼女の瞳が捉えていた風景は、再度一変する。
 空は闇に閉ざされ、湖は紅く染まる。
 愛らしい少女たちは五体の揃わぬ骸と化した。
 細波はいつしか巨大な波となり、彼女を飲み込んだ。
 底の見えない水中に没した彼女の肺は、酸素を求めた。赤黒い水中にあって、
光を見出すのは困難を極めたが、それでも頭上には揺らめく水面が確認される。
彼女は上を目指し、水を掻いた。
 覚えのある出来事に、次に彼女を襲うものは分かっている。あの時より、心の
準備は整っていた。
 水面に上がり、肺に空気を送り込んだ後、彼女が見たものは予想を裏切ってい
ない。薄い絹を裂くように、朱色の海を二つに分かちながら彼女へと迫り来るも
のがある。正体を知りながらも、巨大な山が向かって来るのかと錯覚してしまう。
 それは常識外れに巨大な蛆虫だった。
 水面にもたげた首の部分だけで、ゆうにビル三階分には相当するだろう。全身
ではどれだけあるのか、想像するのも恐ろしい。それがこれもまたその体躯に劣
らず巨大な口を開き、向かって来るのだ。白く幾本もの筋が刻まれた体躯を無視
すれば、まるで火山の噴火口が迫って来るような錯覚にも陥る。ただ周囲に並ぶ
三角形の歯が、噴火口との誤認を避けさせてくれそうだ。
 この常識外の化け物には、どれだけの死線を潜り抜けて来た歴戦の勇者も裸足
で逃げ出すことであろう。しかし彼女は臆さない。
 既にこの化け物とは一度対峙している。それも戦いは彼女の圧勝で終わってい
た。あの時と同じようにすればいいのだ。
 ふと身体が軽くなる感覚。あの時と同様、彼女は水面に立つ。
 まるでテレビの再放送を見るようだ。そう思いながら、彼女は右腕を横に伸ば
す。そして念じた。彼女の武器、巨大な鎌を呼び出すために。
 ところがいくら念じてみても、彼女の掌中に出現することはない。
「あっ」
 ようやく彼女は気づく。あの時とは異なった状況に。
 あの時の彼女は右半分の身体しか持たなかった。しかしいまは左右とも揃って
いる。あの時身体の切断面より出現した鎌だ。五体揃った身では呼び出せないの
であろう。
 武器を得られないと知ると、彼女の中から絶対的な自信は跡形もなく消え失せ
る。同時に目の前の化け物に対し、強い恐怖が湧き上がった。
「………っ」
 声にならない悲鳴を発して逃げようとする、が、もう遅い。他に術もなく、両
腕で頭を庇った。それがあの化け物の前では、全く意味をなさないだろうと思い
つつも。
 高速で接近してくる巨大な体躯。圧縮された空気が突風となり、彼女を襲う。
吹き上げられた水が紅い霧となる。
 既に死した身であったが、その圧力は生々しく感じられた。であるからこそ、
蛆虫の激突を受けて、あるいは火口のような口に飲み込まれ、噛み砕かれて無事
に済むとは考えられない。
 生者ではない彼女が更なる死を迎え、どうなるのか。今度こそその魂さえ消滅
し、完全なる無へと帰するのか。もはや想像を巡らす時間さえない。
 圧縮に圧縮を重ねた空気が突風を超え、壁となり彼女を襲う。勢いによろめい
た彼女に巨大蛆虫が激突するのに、あと万分の一秒と掛からないはずであった。
 しかしその直前、またもや周囲の光景が変化する。
 澄んだ湖に佇む彼女。
 襲って来た蛆虫の名残だろうか。
 彼女を取り囲むように輝く、金色の光の欠片。
 金色の光が、雪のように降り注いでいた。
「あっ、迎えが来たよ」
 彼女に向かって手を上げた少女の声だった。頭上の手は彼女を、ではなく何か
別のものを指差している。
 他の少女たちもその指先を追うように、同じ方角へと視線を送る。それから次
々と嘆息、歓声を上げた。
 少女たちに倣い、彼女もまた同じ方角を見遣る。そしてやはり少女たちと同様
に唇から「ああ」と嘆息を漏らすこととなった。
 天空には一羽の大きな鳥の姿があった。
 白鳥や鶴、あるいは鳩。優希もこれまで何度か、白い鳥を見たことはある。し
かしこれほどまで、無垢な白さを持つ鳥は初めて見る。
 白い輝きに満ちた空に在っても、決して見失うことはない。更なる白さと輝き
を以って、天空にその存在を示す。その様はただ美しいばかりでなく、厳かであ
った。
 鳥が優希たちに接近して来ると、湖に不思議な現象が起きる。
 それまでにも空の光を受け、きらきらと白く輝いていた水面が表情を変えた。
水面を踊る光の粒が、白から虹色となったのだ。それはあたかも、ルビーやサフ
ァイア、トパーズやエメラルド、真珠やダイアモンドといった宝石が湖面を埋め
尽くしたかのように思える光景だった。
 ゆったりとした、優雅な動作で湖岸へと鳥が舞い降りる。そこで優希は改めて
鳥の美しさを知る。
 鷹や鷲といった大型の猛禽類でも、これほどのサイズにまでは育たないだろう。
アラビアンナイトに登場するロック鳥がこの位になるのだろうか。先刻の蛆虫と
比較してしまえば遠く及ばないが、それでも湖岸に立つ鳥の身長は小型の雑居ビ
ルほどはあるだろう。
 ただしその表情に猛禽類や、物語の中の怪鳥のような厳めしさはない。細く長
い嘴と、およそ鳥には似つかわしくない切れ長な目は、とても優しそうに見えた。
 高い身長に対し、身体は過ぎるほどに細い。長いが垂れることなくピンと張っ
た尾羽と、頭部から伸びた細い冠とが相まって、そのシルエットには高貴さが感
じられる。
「行きますよ。皆、私にお乗りなさい」
 声は、白い鳥のものであった。
 広い湖の隅々にまで響き渡るような、澄んだ声。
 女性的な自愛に満ちた声は、聖母という言葉を連想させる。
 鳥の巨大さにも、それが言葉を話す奇異さにも臆する者はない。
 促されるまま、順にその背へと乗り込んで行く。優希もまた、皆に倣う。
「落ちないよう、気をつけて下さいね」
 最後の一人が乗り込んだ後、鳥は周囲を見回した。乗り遅れた者がないか、確
認したのだろう。それから一言掛け、ゆっくりと羽ばたき始める 
 席が外にむき出しとなった旅客機で、安全な飛行が望めるはずはない。巨大な
鳥の背中に乗って飛ぶのは、言わばそれと同じことではないか。寧ろシートやベ
ルトがない分、こちらの方が危険ではないのか。そう考えた優希だったが、想像
が間違いであったとすぐに知れる。
 多少の風圧は感じるものの、心地よいそよ風程度に過ぎない。これだけ大きな
鳥が羽ばたいているのに、振動も殆んど感じられない。その背では談笑を楽しむ
者もいた。
 おおよそ常識ではあり得ないことではあったが、驚くことでもなかった。
 既に生者でない優希は、あの血の海にて非常識な経験を重ねている。ここもま
た、その生を終えた者たちが集まる場所なのだろう。ならば生きていた世界で得
た知識や常識など、ここで振り翳すのは無意味である。
 そんなことを考えていると、またもや風景が変化をする。
 驚きはしない。
 二つに分かれていたものが一つへと返ったのだ。別々に見ていたものも一つと
なる。
 これは二つの優希がそれぞれに見ていたものなのだ。
 耳障りな振動音。血の匂いを含んだ風が、顔を刺すように吹く。吊るされた状
態での飛行は、お世辞にも快適とは言い難い。
 眼下にはひたすら広がる赤い海。頭上を見遣れば黒い塊。全体を見渡すのは困
難であったが、それが巨大な蝿の一部であることは承知していた。
 時に一度体験したことを再度体験するというのは、退屈なものである。ビデオ
を繰り返し見るのとは異なり、早送りが出来るわけではないのだ。ましてあの時
といまとでは彼女自身の心境は大いに異なる。
 あの時の彼女は自分が何者かも知らず、半身のみという奇怪な姿から不気味な
世界を自然に受け入れていた。だが一人の人間、田嶋優希としての記憶を取り戻
したいま、目に映る光景はただただ不快極まりない。鉄臭い匂いを放つ朱色の海。
そこに累々と浮かぶ、原形を留めない骸。
 やがて記憶通り、陸地にではなく血の海から直接聳え立つ城が見えてきた。こ
こでまた彼女の視界に変化が起きる。しかしその変化はこれまでのものと、少し
違っていた。
 眼前に迫った城の姿は消えない。恐怖映画の中、怨霊、悪霊の類が集う場所と
して登場しそうな、あるいは絵本の中、魔王の住処として描かれそうな城。
 だが同時にもう一つ、別の城も存在していた。
 波一つない、鏡のような水面に佇む城があった。先ほどまで彼女たちがいた湖
も綺麗な水を湛えていたが、これはその比ではない。あまりにも滑らかな水面は、
本当に鏡ではないのかとさえ思わせる。しかし澄んだ水に湖底まではっきりと見
て取ることが出来る。
 白亜の宮殿、とでも言おうか。佇む城の色は純白。いや、純白と表現するのが
適切か否か彼女は首を傾げる。
 白色であるのに違いはないが、それは決して目に眩しい白さではない。かと言
って霞んでいたり、翳っていたりする白ではない。どこまでも白という清楚さを
保ちつつ、不要にそれを見る者に押し付けない。不思議な色であった。
 城の大きさは血の海に聳えるものと大差ない。双方を同時に見ている彼女には、
その造りすら大きな違いがないと分かった。
 しかし見た目の印象は大いに異なる。血の海に聳え立つのが魔王の城ならば、
湖に佇むのは神話の神々が住まう城であった。
 視界では一つに重なった二つの城の中へ、彼女は運ばれて行く。彼女を運んで
いるのが蝿なのか、あるいは白い鳥なのか、もうよく分からない。
 同時に見える二つの城の内部は、いずれも広く長い廊下が続いていた。彼女を
運ぶものが、どれだけの速度を出しているのか不明であったが、目的の場所へ到
達するまでかなりの時間を要する。
 特にすることもない彼女は天上でアーチを描く壁に目を遣る。魔王の城の壁に
は以前見たのと変わらない、夥しい数の人骨。そして神の城には古代ギリシア、
古代ローマの神殿を思い起こさせる彫刻の姿が認められた。
 やがて彼女は広間へと出た。
 一方は、より深い闇が広がるばかりの場所であったが、もう一方は穏やかな光
に満ちた空間であった。草野球くらいなら楽しめるであろうか。広い室内には彼
女同様、白い巨鳥によって運ばれた者たちが期待と不安の双方を窺わせる面持ち
で立っていた。その一方、少女たちの立っていると全く同じ位置に、魔王の城で
は五体のどこかを欠いた者らが立つ。
 部屋を満たす光は、ランプや松明、あるいは電気による照明の類とは異なって
いた。それは天然の明かりのように思え、彼女は上を見る。まるで吹き抜けのよ
うに高い天井であったが、その先に何かが見える。天蓋だろうか、アーチ状の屋
根はガラスが使われているのか、そこから空の柔らかな光が射し込んでいる。
「これは………」
 二つの光景を同時に見ながら、その理由について彼女はある結論に達しようと
していた。しかし答えが出る寸前、部屋の奥より声が響いてきた。
(よくぞ参った)
(ようこそ参られました)
 重なる二つの声。一つは地獄の王のもの。
 そしてもう一つは初めて聞く女性の声であった。
 声の主を求め部屋の奥へと目を遣る。すると先刻まで何もなかったはずの場所
に、美しい細工の施された椅子と、それに腰掛ける人影を見つけた。
 当然彼女の片方の視界で捉えたのは地獄の王。そしてもう一方では白く長いロ
ーブのような衣装を纏った銀髪の女性の姿を見る。
(お前たちは選ばれた)
(あなたたちは選ばれました)
 全身の毛が逆立つような声と、心に安堵感をもたらすような声が同時に聞こえ
た。地獄の王に対し、目映い銀髪の女性は神か、あるいは天使なのかも知れない。
彼女の瞳が、相対する二つの世界を同時に見ているのだとすれば、そう考えるの
が自然であろう。
(貴様たちの在るべきところへ行き、己の成すべき事をせよ)
(あなたたちの在るべきところへ行き、己の成すべき事をなさい)
 その言葉に促され、彼女の周囲にいた者たち―――少女たちも、奇異な姿の亡
者たちも天を見上げた。そして少女たちは、見上げた天に向かい、その身体を飛
ばす。同時に、亡者たちは姿を消した。いや、正しくは少女たちとその姿が完全
に重なったのだ。その背に、白色の翼を携えて。
 広間にはただ一人、彼女だけが残される。
(貴様は?)
(あなたは?)
 王と女性が同時に玉座から立つ。重なる二つの声に合わせるかのように、その
姿もひとつとなる。彼女の視界からは、王の姿も地獄の光景も消えた。いま彼女
の目に映っているのは、銀色の長い髪を靡かせ歩み寄る、女性の姿だけだった。
 さきほどから考えていたことに、彼女は答えを出した。
 元から彼女は二つの光景を見ていたのではない。一つの光景を二つに感じてい
たのだ。
 田嶋優希という、一人の少女の心が二つに分かれてしまい、一つだった光景を
それぞれ別のものとして受け取っていただけなのだと。
 柔らかな掌が、彼女の両の肩に置かれる。
(あなたはまだ、何かを残して来てしまいましたね)
 母の胸に抱かれるような感覚。見上げれば、そこには全てを包み込む微笑。
「あれ?」
 地獄の王に比べ、彼女の前に立つ女性は決して大きくはない。しかしこうして
見ると、明らかに彼女より頭一つ、身長があった。
(強い想いに惹かれ、あなたの魂は影響を受けてしまったようです)
 大人が子どもに話しかけるように、女性は屈み込んだ。その瞳を追って、彼女
の視線も下げられる。視界に自分の胸が映った。
 小ぶりな胸、華奢な身体つき。それは己を悪魔の眷属と信じていた彼女の姿と
は異なる。あの日、十五年足らずでその命を終えた、優希のものであった。
(あなたが望むのであれば………)
 優しげな声が語り掛ける。
(元の世界に戻ることを許しますよ?)
 もう一人の優希はこの言葉に従ったのだ。そして、地獄の王の指名を受けた優
希と対峙する。だからこそこうして一つの彼女へと戻れたのだ。ここで彼女がこ
の言葉を拒む理由はない。まだ健司の過ちを止められていないのだから。
「お願いします。私、まだやらなくちゃいけないことが………」
(いいでしょう。ただしあなたを強く惹く想いに、あなたが負けてしまったら…
……あなたも、あなたを惹く心も、無事ではいられませんよ。それでも行きます
か?)
「はい」
 迷いはない。
 たとえ己の存在、魂までもが消えてしまうとしても、このまま健司を、そして
梨緒を放ってはおけない。
(………分かりました)
 ゆっくりと、そして優雅な動作で立ち上がると、女性は彼女の顔を優しく撫で
た。
 その手が視界を通り過ぎたとき、彼女はまたあの場所、中学生の田嶋優希が生
涯を終えた場所に立っていた。
 彼女は自分の掌を、それから胸元を見遣る。
 それは子どもではない、生きた優希がなることの出来なかった、大人のもので
あった。
 潮騒の音が、彼女を我に返らせる。
「そうだ、急がなくちゃ」
 目的の場所へと走り出す。




#285/598 ●長編    *** コメント #284 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  23:04  (381)
白き翼を持つ悪魔【14】            悠木 歩
★内容                                         06/08/28 22:56 修正 第2版


 一瞬、全ての時間が止まる。
 いや、実際に時間が停止することなど有り得ない。止まったかのように感じた
だけに過ぎない。しかし健司はしばらくの間、指先すら動かせなかった。生きよ
うとするなら、逃げ出そうとするなら、またとない好機であるのにも関わらず、
健司の手の中に在る梨緒も動こうとしない。そればかりか空を舞う埃すら動きを
止めてしまったかのように見えた。
 それほど突然の闖入者に、その場にいた者たちは驚かされたのだ。
「き………君は……どうしてここに………」
 教室の入り口、室内よりなお暗い廊下に立っていたのは田嶋優希を名乗る彼女
であった。
 両手を腰に充て、酷く憤慨した表情でこちらを睨み付けている。
「ちょっと、その手、何しているのよ」
 明らかな怒気を含んだ声に、健司は慌ててしまう。
「いや、あ、これは」
 つい、梨緒の首に掛けていた手を離す。梨緒は咳き込みながら、埃の積もった
床へと倒れ込む。
 まるで予定外の行動だった。
 幾度もシミュレーションを重ねていたはずの計画。目撃者を避けるため選んだ
この場所であったが、万一の事態も想定はしていた。邪魔さえ入らなければ、梨
緒の命を奪った後、火を放つ。目撃者が現れた場合でもそのまま梨緒の命を絶ち、
逃げ出すことが可能なら別の場所、それが敵わない状況であればここで自害する
つもりであった。
 誰に見られても構わない犯行だったのだ。
 しかし彼女にだけは、見られたくない。そんな想いが健司を支配する。
 自分の愛した少女と同じ名と面影を持つ、彼女の前では自分の最も醜い姿を晒
したくはない。
 なんとか言い訳の言葉を繕おうとして口篭る健司を無視し、彼女は梨緒の元へ
と駆け寄った。
「大丈夫? 梨緒、しっかりして」
 抱き起こし、気遣う彼女を梨緒は戸惑いの目で見つめていた。
「えっ……あっ、えっ? アン…タ、どうしてアタシの名前を」
 梨緒の問い掛けに、彼女は答えなかった。ただ優しく微笑むと、自分の手を梨
緒の手の甲へと重ねる。それから小さく首を傾げた。
 そんな彼女の顔を横から見ていた健司は、強い息苦しさを感じた。梨緒の首に
手を掛けた時にすらなかった、激しい動悸に目が眩みそうになる。
「なんてことするのよ、このばかっ!」
 健司の視線に気づいたのか、彼女が振り向き言い放つ。その口調は、怒ってい
るせいもあるだろうが、昨日までの彼女とはまるで違っていた。
「なんで君がそこまで怒る? 君だってそいつには、酷い目に遭ってるじゃない
か」
 思わず叫んでしまった。叱られた子どものように。
 ふいに彼女が健司より目線を切った。健司に怯えて―――ではない。悲しげに
目を伏せたのだ。
「がっかりだよ………身体ばっかり大きくなって、人の心が、ちっとも分からな
いんだね」
 そして梨緒の手を握ったまま、その手を頬へ充てる。
「ごめん、梨緒。私が驚かせちゃったんだよね」
 掛けられた優しい言葉に梨緒の身体が震えていた。それから嗚咽混じりに声を
出す。
「ほん……もの、なの?」
 と。
 その問いにも、やはり彼女は答えない。ただ見つめ返すだけの瞳に、梨緒は答
えを得たらしい。
「おあっ、うはあ、うわわん!」
 これまで聞いたことのない声を張り上げ、泣きじゃくる。
 彼女はそんな梨緒の後頭部を、軽く撫でてやる。まるで母親が赤子を寝かし付
けるかのように。
「何だよ、何なんだよ」
 一人置き去りにされ、健司は叫んだ。拗ねていたのかも知れない。
「見てごらん」
 彼女の鋭い口調は、健司に向けられたものだった。
「あっ、きゃっ」
 続く少女のような悲鳴は梨緒であった。
 そっと梨緒を立たせた彼女が、そのコートを下に着ていた服ごと捲り上げたの
だ。白い腹部が顕になる。いや、白ではない。梨緒の腹部には黒、赤黒い色が目
立っていた。
 痣、のようである。
「それから、ほら」
 コートを元に戻してやると、今度は彼女の細い指が梨緒の前髪を掻き分ける。
その額にも痣が見られた。
 額ばかりではない。健司と梨緒、二人きりの時は興奮していたためか、全く気
がつかなかったが、右目の横、左の頬、そして顎。梨緒の顔には無数の痣、何者
かに殴られた痕跡があったのだ。
「どうして………?」
 それはいずれも、健司には覚えのないものである。そこまで激しい暴力を振る
ってはいない。
「あのひと、に、やられたんだよね?」
 梨緒に向けられる口調は、あくまでも優しい。まだ涙の乾かない梨緒だったが、
頬に充てられた彼女の手に安堵した様子で頷いた。
「アタシ、バカだから………」
 鼻を啜りながら梨緒は言う。
「怖かった、の。だって、死んだ優希とそっくりな人が現れて、ケンちゃんの傍
にいるんだもん。なんだか、アタシ、責められてるみたいで、怖かったの」
「心にやましいことがあるからだ」
 口を挟む健司に、彼女の厳しい視線が飛ぶ。
「あのね、梨緒は私に、あそこまで酷い暴力を働く気なんてなかったの。それを
あの男の人が、暴走しちゃったの。そう、だよね」
 梨緒は首の動きだけで、彼女へと答えた。
「だからあの後で、梨緒はあの男の人とケンカしたの。もう、別れようって。そ
れでこんな目に遭ったの」
「ホント、バカだよね、アタシ。何度同じ目に遭っても、また同じような男と付
き合ってさ………バカだよ」
 再び梨緒の瞳からは、大粒の涙が零れ落ちる。
「尻軽女のくせに、ホントに好きな人には自分の気持ち、伝えられなくて………」
「ハハッ、本当に好きな奴? カマトトぶりやがって。告白でもなんでもすれば
いいだろう。はっ、お前が好きになる男だ、どうせロクな奴じゃ………」
 健司は言葉を途中で呑む。また彼女に睨まれると思ったからである。
 だが予想に反し、彼女が健司に向けたものは微笑であった。そして梨緒をそっ
と身体から離すと、こちらへと歩み寄って来た。
「最低」
 一言、微笑を浮かべた顔で言う。
 そして風のような速さで何かが動いたかと思うと、乾いた音が響き渡り、健司
は左の頬に熱を感じた。
 それが熱ではなく痛みだと知ったのは、ややあってのことだった。彼女の平手
が健司の頬を打ったのだ。
「いい加減になさい、ばかけん」
 自分はいま、間抜けな顔をしている。そう意識しながらも、どうすることも出
来ない。健司はただ、目の前の彼女を見つめるだけであった。
 両手を腰に充て、厳しい眼差しを健司へと送る。凛とした表情は、どこか小生
意気な少女といった風でもある。
 怒って少し歪められた唇。
 微かに傾げられた首。
 広げられた脚の角度。
 全てが見覚えのあるもの。
 決して忘れることの出来ないものであった。
「………うそ、だろ……」
 音にならない声をだす。
 身体が震える。
「君は俺をからかっているのか!」
 思わず叫ぶが、恫喝するための声にはならない。癇癪を起こした子どもの声に
なる。
 大声を出さなければ気が狂いそうだった。
 絶対にあり得ない。
 自分はあの時、優希の亡き骸を確認している。墓にも参った。そんな漫画や映
画のような話が起き得るものか。
 ふいに健司の視界から険しい表情が消える。代わりに彼女が見せた表情は笑み、
であった。
「あ…………」
 もはや間違いようがない。
 失われたあの時から今日まで、忘れたことなどない。何度も何度も夢に見て、
それが現実でないと知り涙した。決して叶わないと分かりながら切望し続けてき
た笑顔。
「私、梨緒のせいで死んだんじゃないぞ」
 彼女がどんな表情でその言葉を言ったのか分からない。溢れる涙で健司の視界
は完全に塞がれていた。ただその声はあの日まで、毎日聞き続けたもの。一つ年
下のくせにいつも健司より上に立って話す声。生意気で遠慮することがなく、小
憎らしく、そして愛らしい声、そのものだった。
 健司は泣く。
 大声を上げて。
 およそ大人の男らしからず、みっともなく、無様に泣く。
 上げる大声は言葉にならず。
 ただ意味のない音を発するばかりであった。
 暖かな温もりに包まれここまでの人生の中、最高の安堵感が健司の心に満ちる。
そのことが健司の涙に拍車を掛けた。
 髪を撫でる細い指。
 厚手の布越しに伝わる胸の温もり。
 膝の柔らかさ。
 この時間が永久に続くよう願いながら、健司は泣いた。

「ほんとうに、ホントに優希なの?」
 いつの間にか眠ってしまったようだ。そんな声で我に返った健司は、優希の胸
から顔を離す。穏やかな優希の微笑があるのを確認し、ゆっくりと立ち上がる。
心なしか優希の顔が少し幼く見えた。
 気づけば健司の横には梨緒が立っていた。先ほどの言葉は梨緒から優希へと向
けられたものだった。
「ん」
 と、短く答える優希。小さく頷く。
「どうして、どうしてすぐに言ってくれなかったんだ」
 つい大声を出してしまった健司だが、そこに凶悪的な興奮はない。それは大き
な声を出すことによって、相手の関心を惹こうとする幼子の精神にも似ていた。
「ごめんね」
 笑顔のまま優希は頭を下げる。
「私も、ついさっき、思い出したばかりなの」
「記憶………喪失?」
 優希の言葉を受け、頭をよぎった単語をそのまま口にする。
 記憶喪失。
 耳にする機会は多いが、実際に遭遇することはほとんどない言葉。しかしそう
考えれば辻褄は合う。あの日、何らかの事故に巻き込まれて優希は記憶を失った。
そのまま病院か、健司の知らない家庭で数年間を過ごす。そして偶然、街で健司
と出逢った。
 それならば母親が優希の生存を知らないでいた説明も付く。
 健司は優希を見つめる。自分の口走った言葉に、優希が頷くのを待って。しか
し、優希はただ微笑むばかりで何も答えない。
 焦れた健司だったが、返事を促そうとはしない。代わりに傍らの梨緒へと視線
を遣る。梨緒もまた無言で優希を見つめていた。健司の言葉に同調する様子も、
更なる質問を優希へ投げ掛けるでもない。ただ無言で、寂しげに優希を見つめて
いる。その姿は既に何かを悟ってしまっているように、健司の目に映った。
 分かっている。
 健司にも分かっていた。
 辻褄など合っていないことを。
 砂浜に打ち上げられていたのは、間違いなく優希だった。
 通夜にも葬儀にも参列し、棺の中の優希を見ている。
 冷たくなった手にも触れている。
 それにいま、目の前にいる優希は言っていた。
「私、梨緒のせいで死んだんじゃないぞ」と。
 それは決して、命ある者の口にする言葉ではない。
 健司の考えを察したのか、それとも偶然であろうか。ゆっくりとした足取りで、
優希は健司へと歩み寄る。
 そして差し出した手を、ぽん、と健司の頭へと載せる。
「さあ、梨緒に謝りなさい」
 姉を気取った口調。
 年下くせに、いつも健司の上に立った、生意気で懐かしい物言い。
 流し尽したとばかり思っていた涙が、また溢れそうになる。
「理由がない」
 顔を背け、呟くように言う。
 梨緒のせいじゃない。そう聞かされても俄かに得心のいくものではない。たと
えそれが当人の口から説明を受けても。優希の仇を討つ、その思いだけで今日ま
で生きて来た健司にとり、標的であった者に頭を下げるなど考えられない話であ
った。
 しかし優希を目の前にし、梨緒に対しての憎しみなど無に等しいほどに薄れて
いた。もし優希がこのまま留まってくれるのなら、完全に忘れ去ることも出来る
だろう。ただ優希の言葉に、素直には従えない。幼い頃からの癖。
 いつでも最終的には優希の意に従うしかないのだが、一度は逆らってみたい。
ただ強く出ることはない。控えめに異を唱える。確かに幼い頃には本心から優希
を恐れたこともあったが、いまは違う。
 優希に異を唱えられるのが、嬉しかった。
「笠原健司」
 改まった口調で、優希が名を呼ぶ。
 これも昔と変わらない。
 酷く怒ったときか、真剣な話をするときの優希の癖だった。
「あ、優希。私ならいいから………」
 一瞬早く、優希の次なる行動を察した梨緒が、それを制しようと声を出す。や
や、遅れて健司もそれを読み取る。
 再びの平手が、健司の頬へと飛ぶ。
 既に読んでいた行動。かわすだけの余裕はあった。だが、健司はあえてそれを
受ける。
 ぱん、と乾いた音が響くと共に、健司の視界の中を光が踊る。
 火花が舞う、といった比喩ではない。本当に蛍光にも似た光が舞ったのだ。
「いい? あなたは間違っていたの。自分でも気がついているでしょ。だったら
すぐに謝るの。分かった?」
 早口でまくし立てる。相手に有無を言わさない勢い。
 以前は疎ましくさえ感じられた物言いが、とても心地よかった。
「じゃ、じゃあ、誰がお前を………お前はどうして………」
 言いかけて、健司は顔を顰める。
 どうして死んだんだ、それは決して口にしてはならない禁句に思えたのだ。
 ひとたび、それを口にした途端、全てが消えてしまう。
 午前零時を告げる鐘が、馬車を南瓜に戻したように、その言葉が魔法を解いて
しまう。そんな気がした。
 ふう、と誰かが深く息をつく。優希だった。
「事故、事故なの、あれは。梨緒と別れたあと、考え事をしていて………足を滑
らせて、一人で海に落ちたの。間抜けな事故で死んだの」
 ついに、優希自らがその言葉を口にした。しかし何も起こらない。ただ静かに
時が過ぎる。
「すまない」
 健司が深々と梨緒に頭を下げたのは、ややあってからだった。
「いくら謝っても許されることでないのは、分かっている。これから、どんな償
いでもしようと思う。だけどいまは、こうやって頭を下げるしか出来ない。本当
にすまなかった」
 後にして思えば、この時点で健司は本心から詫びていたのではない。
 元々梨緒を犯人だと決め付ける確定的な証拠はなかった。
 それでも優希の死をきっかけに歪んだ心は、憎しみの対象を欲し、そこに梨緒
を充てはめただけだった。優希の最期の時間、その一番近くを一緒に居たと思わ
れる人物、ただそれだけの理由で。
 もしこの場に優希が現れずに、別の形で梨緒の無実が証明されたとしても、健
司はそのまま当初の予定通り、目的を果たしていたかも知れない。それを行うこ
とだけが、自分にとっての全てだったのだから。
 しかし梨緒の無実を証明したのが他の誰でもない、優希であればそれを無視す
る訳にはいかない。何よりどんなに激しい言い争いがあったとしても、最終的に
は優希の意見に折れる。それが幼い頃からの習慣であった。
 あるいはそんな健司の心を、優希は見透かしているのかも知れない。健司が梨
緒へと謝罪する一部始終に厳しい視線が送られていた。
 その視線もまた、昔と変わりないものであった。学力に於いては優希に勝って
いた健司だったが、勘の良さについてはとても太刀打ち出来るものでない。
 いまもやはり、健司の心底を見抜いているのだろう。そして強く咎めて来るに
違いない。
 予想通りに、優希が口を開く。が、紡がれる言葉は健司の予測に反していた。
「ごめんね、梨緒。こいつ、本当にばかなんだから」
 優希は少し困ったような顔で、梨緒に微笑んで見せる。それから、深く頭を下
げたのだった。
「それから、本当にありがとう。こんな大ばかを守ってくれて」
「……………」
 その一言に、梨緒は崩れるようにして、膝を床に突く。優希がその胸で抱き留
めていなければ、そのまま倒れ込んでいただろう。
「……………の」
 胸に抱かれたまま、梨緒が何かを呟く。泣いているようだ。嗚咽混じりの声に、
言葉は聞き取れない。
「守ったって………俺のこと、か? こいつがか」
 梨緒を指差した健司は、つい「こいつ」と口にしてしまう。つい今しがたの謝
罪が形だけのものであったと、自ら露呈する。
「つくづく、呆れたばかだね、けんは」
「いくらなんでも、バカバカ言い過ぎだろう。俺の何がバカだって言うんだ」
 長い時間は埋まっていた。
 懐かしい、という感情さえ消えて優希と交わす健司の言葉はかつての姿を取り
戻す。
「あのね、あなたの出した手紙、何で梨緒がここまで持って来たのか分かる?」
 問われ、健司は答えに窮する。いや、別段それが特別な意味を持つとは思えな
かったのだ。
 健司の手紙、脅迫状を携えていたのは、単に呼び出された場所を確認するため
に過ぎないのではないか。それ以外の理由など、まるで想像もつかない。
「だからばかだ、って言うのよ。あのね、梨緒は………」
「い、いいよ、優希。言わなくても」
 質問に答えようとする優希を、梨緒が制する。優希の正体にいち早く梨緒のほ
うが気づいたこともそうであるが、二人には何か互いの心情を理解しあっている
様子が窺え、健司にしてみれば少々面白くなかった。
「だめだよ、梨緒。ちゃんと話さないと、ばかには一生理解出来ないままなんだ
から。それは、けんの為にもならないことだもの」
 優希の言いたいことはよく分からない。
 しかしここに来て、健司は自分がとんでもない間違いを犯してようだと、少し
ずつではあるが思い始めていた。
 優希と梨緒の交わす会話は、二人がごく親しい間柄であることを感じさせる。
少なくとも、優希を死に至らしめたのが梨緒であるのならば、とてもこのような
和やかさで会話を交わせるはずがない。
 もともと確信のないまま、梨緒を犯人と決め付けていた強引さは、自らも承知
していた。いま、優希を失う前の、平静な精神を取り戻しつつある思考力で判断
すれば、それが如何に無謀な話であるのか理解出来る。
「考えてみて。もしここで、梨緒に何かあったら、どうなっていたかしら?」
「どうなっていたって………」
 返答に困る健司に、優希はため息をついた。それを見た健司は、内心自分のせ
いではないだろうと思う。「どうなっていた」では質問が曖昧過ぎる。どうも相
手より優位に立った場合、いや、その対象は健司に限られるが、優希には自分の
中で理解した話を会話にする時、肝心な部分を省略してしまう癖があるのだ。も
ちろん、幼少時代に倣い、健司は不満を持ちながらも抗議はしない。
「きっと警察の人は、梨緒のうちを調べるよ。そして手紙を見つけたら、けんが
犯人だって、すぐに分かっちゃうよ」
「えっ?」
 思わず健司は梨緒を見遣る。梨緒はまるで初対面の人と会う内気な幼子が母親
にするように、俯き、優希の後ろへと隠れた。
 健司に完全犯罪を成し遂げる意思はなかった。母が他界し、迷惑を掛ける身内
がなくなったいま復讐終えた後、生きながらえるつもりもなかった。犯行後、証
拠が残ろうと残るまいと、どうでもよかったのだ。
 ただそれは健司側の事情である。脅迫状を受け取った時点で、梨緒がそれを知
る由もない。
「予感は、あったの………」
 らしからぬ、梨緒の弱々しい声。
「たぶん、ケンちゃんがアタシを疑ってる、って」
「?」
「だから………手紙をもらって……思ったの。もしかしたら、ケンちゃん、アタ
シを殺す気かも知れない。だから、ほら、アタシが手紙、持って来たら………後
で、ケンちゃんが処分出来る………でしょ?」
「ばかな! どうしてなんだ? 殺されると分かって、なぜここに来る。しかも
俺に証拠隠滅させるために手紙を持って?」
 荒げられた健司の声に驚いたのだろう。梨緒は完全に優希の背に隠れてしまっ
た。
「ねぇ、いくら鈍いけんでも、そろそろ分かったんじゃない? 梨緒が本当に好
きな人が、笠原健司だってことくらい」
「ああん?」
 口から漏れた声を、我ながら頓狂なものだと感じる。あるいは優希と梨緒とで
示し合わせて自分をからかっているのではないか、そんな勘繰りまでしてしまう。
「嘘だろ? お前………君にとってのぼくは、ただの金蔓に過ぎないはずだ」
 そう言った健司へ、梨緒からの返事はなかなか戻らない。それどころか優希の
背中に隠れたまま、わずかに恥ずかしげな表情を見せるだけで、健司と目線を合
わせようとはしなかった。
 金の無心にあたり、見え透いた嘘をつき、大げさにしなを作り、媚びる。それ
が梨緒の常套手段であった。だがいまの梨緒の様子は、それとまるで異なる。色
香の使い方を覚えた大人の女ではなく、恋する乙女の仕草であった。
「梨緒、ここから先は自分で言わないと」
「う、うん………」
 優希に促され、おずおずといったふうに、梨緒は前に進み出た。
「ア、アタシ、バカだから」
 一瞬、健司に向けた視線だったが、すぐに伏せられてしまう。
「こんなアタシでも、責任、感じてた」
 消え入りそうな声。
 違う、と健司は思う。そこに居るのは健司の知っている梨緒ではない、全く別
の少女。優希のことといい、信じられない出来事が次々と起こる。心が暴走し、
自分は現実と夢との区別が付かなくなっているのではないだろうか。
 それからまた無言の時が続く。
 俯いたまま梨緒は、恥らっているようでもあり、懸命に言葉を探しているよう
でもあった。
 そんな梨緒の肩に、そっと優希の手が充てられる。その手の温もりに励まされ
たのか、梨緒が続きを語り出した。
「あの日、家にケンちゃんが来て………優希がまだ帰っていないのを知ったの。
だから、アタシ、ケンちゃんが帰ったあと、優希と別れた場所に行ってみた……
…」
 言いながら梨緒の肩が震える。それを感じた優希は、今度は後ろから両手で肩
を抱くようにする。
「優希はいなかった………だから、いろいろ探してみた、でも、みつからなくて
………朝になって、家に戻ったら、先生からの電話があって………」
 次第に聞き取り辛くなる声に、いつしか健司は懸命に耳を傾けていた。
 優希が何かを耳打ちする。大丈夫かと、訊ねているのだろうか。梨緒は手で話
を続けると、意思表示した。
「優希が死んだことを知ったの。
 アタシのせいだ、って思った。だってあの時、あんなところでアタシ、優希を
一人にして帰ったりしなければ………そう思ったの」
「だからそれは、梨緒のせいなんかじゃなくて、私が勝手に………」
 今度は優希の言葉を梨緒が手で制する。それから更に梨緒は自らの言葉を続け
た。
「アタシ、ケンちゃんのことが好きだった。けど………優希のことがあってから、
顔を合わせるのが辛かった。ううん、ケンちゃんはアタシのこと、よく知らなか
ったみたいだから、アタシが一方的に見掛るだけだったんだけど」
 ふう、と一つ、梨緒が息を吐く。
「だからここを離れたの。それなのに、あの街でまたケンちゃんに出会っちゃっ
た」
 梨緒はこの出会いを偶然と考えているようだが、正しくない。その時点では実
行する決意は固まっていなかったものの、梨緒を復讐すべき対象としていた健司
には、その居所を把握する必要があった。同じ街に移り住み、梨緒に近づいたの
は計画の一部であったのだ。
「アタシ、本気でケンちゃんが好きだった。ここを離れても、その気持ち、変わ
らなかったから………嬉しかった。街で突然声を掛けられて、息が止まるくらい
に」




#286/598 ●長編    *** コメント #285 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  23:06  (430)
白き翼を持つ悪魔【15】            悠木 歩
★内容

(あれっ? もしかして、室田、さん)
 健司が街ですれ違った梨緒に、初めて掛けた言葉である。問うような口調であ
ったが、当然相手が梨緒であることは、事前に確認していた。
「あのとき、アタシ、本気でときめいちゃったの………、ゴメン、優希………ご
めんね」
「やだ、何で謝るの」
 大きく二回、梨緒は優希へと頭を下げた。
「でも思ったの。優希はアタシのせいで死んだんだから、アタシはケンちゃんの
こと、これ以上好きになっちゃいけない………仲良くなっちゃ、いけないんだっ
て………だから考えたの。バカなりに、どうしたら嫌われるだろうって」
「………もしかして……だからなのか!」
 ようやく健司の中で一つの疑問が得心に変わる。梨緒が自分に好意を寄せてい
たと聞かされても、この瞬間まで信じることが出来なかった。見え透いた嘘をつ
いての金の無心、隠そうという努力さえない他の男性との交際、それは健司に嫌
われようとして行われていたことだったと。
 健司は自分でも気がつかず、梨緒の両肩を掴んでいた。
「だけど、あの男………君の付き合っていた奴は、実際、金遣いの派手な男みた
いだったけど?」
「ん………そう。アイツもお金目当ての男だった……ホント、自分でも嫌んなっ
ちゃう。ワタシに近寄ってくるのは、あんなのばっかり。けど、ケンちゃんから
借りたお金には、手、つけないよ。いつでもすぐ、返せるように貯めておいたの」
 すでに健司の心中に、梨緒を疑う気持ちは消えていた。梨緒が持っていた大金
の理由はいまの話で説明が付く。もし健司の呼び出しに身の危険を感じ、命乞い
のためにかき集めたものならば、あれほどの大金を用意は出来なかっただろう。
いやそれ以前に、呼び出しに応じはしないだろう。
 夜の仕事をしていた梨緒の収入は、健司より多いはずである。それにも関わら
ず、自分の収入だけでは足らず、健司に借りてまで派手に遊ぶ梨緒を軽蔑してい
た。金にも男にも節操のない女と、見下していた。優希の一件さえなければ、近
づきたくもないタイプの女性であった。
 しかしそのイメージは梨緒自身による芝居によって作られていたのだ。いや、
芝居以前に梨緒に対して健司の抱いていた、謂われのない憎しみが作り上げたイ
メージだったのだ。
「何でそれをぼくに言わなかった? 機会はいくらでもあったはずだろう………
言ってくれればこんなことには………」
 こんなことにはならなかったのに。そう言い掛け、健司は口篭る。
 この言葉は自分の思い違い、自分の行為に対する言い訳に過ぎないと気づいた
からだ。
 仮にもっと前に、同じ話を聞かされたとしても、健司は決して信じなかったで
あろう。決して梨緒の言葉に耳を貸すことはなかったであろう。
「アタシ、ケンちゃんになら、殺されてもいいって、思ったの」
「あっ? えっ?」
「アタシ、バカだけど………ケンちゃんが優希のこと、忘れられないでいるの、
すぐ分かったよ」
 そう言って、梨緒はちらりと優希を見遣った。
「それから、ケンちゃんがアタシのこと、憎んでいるのも。でも、それは間違い
じゃない………アタシのせいで優希は死んだんだから。だから………それで少し
でもケンちゃんの気持ちが楽になるなら、殺されてもいいと思ったの」
 さすがに最後は消え入りそうな梨緒の言葉を聞き届け、健司は両の膝を床へ落
とす。
―――同じだったんだ―――
 梨緒も健司と同じであった。
 田嶋優希の死によって重い荷を背負い、苦しみながら今日まで生きて来たのだ。
いや、あるいは梨緒を優希の仇と信じ、恨み続けていた健司のほうが楽だったか
も知れない。梨緒は優希の死を自分の責任と感じていたのだ。
 憑き物が落ちる。
 そんな表現を健司は実感した。
 優希の死。実の兄妹のようにして育った少女を失い、健司は大きな衝撃を受け
た。その死後、少女に対し仄かに感じ始めていた気持ちに気づけばなお更である。
身も心も崩れるほどの悲しみ。その苦しさから逃れようと、健司は間違った感情
に身を任せていただけだったのだ。
 あまりにも身勝手で、自己中心的な感情。
 それはかつて、健司の愛した少女が最も嫌ったものであった。
 いまはただ、後悔し、己を恥じる以外、何をしていいのかも分からない。
「ほんと、ばっかなヤツ」
 感情を押し殺すことなく、怒りを顕にした言葉が飛ぶ。
 声につられ、顔を上げた健司は憤懣に満ちた優希の表情を見る。
「ほんと、どうしょうもなく、ばかだよ。けんも、梨緒も」
 怒りは優しさに、そして悲しさへと移り変わった。
 健司の視線を追うように、梨緒も優希を見つめる。
「私なんかのために、さ」
 まるで夢を見ているようであった。
 少女の目に大粒の涙が光っている。勝気な少女は身内にさえ、弱い自分を見せ
ようとはしなかった。優希の涙は、ただそれだけでも珍しい。そして目から溢れ
出た涙は、重力に従わない。不思議な輝きを放ちつつ、宙へと舞ったのだ。
 一粒一粒の涙が、まるで一個の生き物であるかのように。
 それは季節外れの蛍を思わせる。
「でも、一番ばかなのは、私、だよね………ごめん、梨緒。ごめん、健司」
 涙の蛍に囲まれ、深く深く、頭を下げる優希。
 不思議なことはなおも続く。
 下げていた頭が戻されたとき、その姿は健司の知る優希へと変わっていたのだ。
 スクランブル交差点で男たちに絡まれていた彼女。それは健司にとって、どこ
か優希に似た面影を持つ、見知らぬ女性であった。もし不幸な事故さえなかった
ならば、優希もこんな姿に成長していたかも知れない。そんな可能性を感じさせ
ただけに過ぎない。
 しかしいまここにいる優希は、あの日、健司の、そして梨緒の前から消えてし
まった中学三年生の少女となっていた。
「ゆう、き………優希」
 少女の名を呼び、立ち上がる。立ち上がった健司を、優希が見上げる。
 あれから数年の時が過ぎた。
 その数年の間に大人となった健司。
 時の止まってしまった優希。
 驚くほど身長差がついていた。
 それが悲しく、愛おしく、健司は目の前の少女を抱きしめる。
 幽霊。
 それが適切とは思えなかったが、いま腕の中に抱いた少女は多分、そう呼ばれ
る存在なのであろう。しかし健司の持っていた幽霊へのイメージとは異なり、少
女には確かな手応えと温もりがあった。
 そして、とても小さかった。
 高校生だった健司と、中学生だった優希。そのとき既に、体格の差は出来つつ
あった。しかしそこから成長することのなくなった優希に対し、健司は青年とな
り、二人の差は想像を超えたものになっていた。
 それがとても悲しい。
「ちょっと、ばか。放しなさいよ、ばか」
 怒って、というより少し照れたように言い、優希は健司の胸を手で押す。さほ
ど強い力ではない。
 その言葉に従い健司は少女を解放するが、代わりに胸に充てられた手をとる。
もう二度と少女と別れたくない。そんな気持ちが働いていた。
「いてくれるんだよな?」
「えっ?」
「これからは、ずっと俺のそばにいてくれるよな?」
 それは確認ではなく、懇願であった。真っ直ぐに優希を見つめる。しかし合わ
された視線が、優希のほうから切られてしまう。言い知れぬ不安が健司を襲い、
少女を掴んだ手に力が込められる。
「アタシからもお願い。優希、もうどこにも行かないで」
 健司の不安を察したかのように、梨緒の言葉が飛んだ。いや、健司のためだけ
でなく梨緒自身、それを願ってのことであろう。
 優希の答えを待つ時間。わずかに五秒と言ったところであったか。
 ごく短いものであったが、果てしなく長く感じられた。
 優希が生者であろうと幽霊であろうと、どちらでもいい。ただ同じ時を共に過
ごせるだけでいい。快い返答を願い、期待し待つ。
 そう言えば、こんな状況を何かで見た覚えがある。
 本で読んだのだったか、映画かドラマだったか。あるいは漫画だったろうか。
その全てそれぞれにこんな状況を描いた物語があったように思う。そしてそのど
れもが、いまの健司の立場に置き換え、好ましくない結末を迎えていた。
「私も、そうしたいんだけどねぇ」
 首を斜めに傾け、優希が言った。
 その語尾は、自分の望まない答えに続く。そう予感した健司は優希の腕を掴む
手の力を、更に強めた。そして優希の身体を引き寄せようと試みる。ところがそ
の手は、いとも簡単に解かれてしまう。
「悪りぃ」
 手の平を顔の前に立て、ふざけた口調の優希。
「どうも、駄目みたい」
 言い終えると同時だった。
 少女の身体がわずかに霞んで見える。
「きゃっ!」
 短い悲鳴は梨緒のものだった。
 何が起きたのか分からないまま、健司は再度、優希を引き寄せるため手を伸ば
す。しかしそれは叶わない。先刻のように、振り解かれたのではない。掴めなか
ったのだ。
 優希の腕を掴んだかに見えた手は、空を切る。だがそれは幻に向けて伸ばした
手が、それを突き抜けてしまうのと、些か異なる。
 一瞬、優希の手に触れた感触が、確かにあった。それが触れた部分から消えて
しまう。いや、霧散したと言うべきだろうか。金色の霧となったのだ。
 それは優希の流した涙にも似ていた。
 よく見れば涙よりさらに小さな光の粒となり、優希の身体から散るようにして
離れてゆく。
「行くな、優希!」
 叫ぶが、動けない。
 強く抱きしめたいと思うが、出来ない。
 触れればまた、優希が散ってしまう。そう思うと、健司は息を吐くことさえ躊
躇った。
「ダメ………だよ、ゆぅ、き」
 聞き取りにくい涙声は梨緒のもの。這うような速度で優希へと近寄り、恐る恐
る手を伸ばしかけては止める。梨緒も優希を引き止めたいと願いながら、先ほど
の様子を見ていたため、手を出せないでいるのだ。
「ごめんね、梨緒。私のドジで、いろいろ辛い思い、させちゃって」
 金色の輝きは、既に優希の全身を包んでいた。
 残された時間がないことを感じたのか、梨緒は何かを答えようと口を動かすが、
声にならない。ただふるふると、首を横に振る。
「いつまでも、ぐずぐず言ってるんじゃないぞ、笠原健司。男の子だろ」
「男、男だってぐずぐず言うさ。行くな、行くなよ、優希………」
「しっかりしろよ」
 微笑む優希の顔がはっきりと見えないのは、涙のせいだけではない。その姿は
幾万、幾億という光の粒子による集合体と化していた。もしここに一陣の風が吹
き抜けて行けば、跡形なく掻き消されてしまうだろう。
「けんじ、あなたはちゃんと、自分の成すべき事をなさい………」
「なんだよそれ、何言ってるか、分かんないよ」
「ふふっ、私は、分かったの」
「?」
「私の成すべき事は、これだったんだって」
 ゆっくりとした動作で、優希は首を振った。そして健司と梨緒とを交互に見つ
める。
「それと私の正体」
「正体って………アナタは優希、なんでしょ?」
 口元に手を充てながら梨緒が言った。自分の息で優希が消えてしまわないよう
にと、気を使ってのことだろうか。
「そうよ、私は田嶋優希だよ」
 答える優希の姿が、自らの息で揺らめいて見えた。それほどまでに、優希の身
体は儚い状態になっているのだ。
「私ね、自分が悪魔なのか天使なのか、ずっと分からないでいたの」
 健司にはその意味が理解出来ず、梨緒へと目線を遣った。しかし梨緒にも理解
出来ていないらしく、そっと首を横に振って見せた。
「けんと、梨緒と、二人の心の中に居たの。ずっとあなたたちを苦しめていた思
いが私なの」
「それは………違う」
 健司は思わず大声を出し掛け、慌てて顰める。
「ぼくらが苦しんだのは、優希のせいじゃない」
「ありがとう………とにかく、私の役目は終わったみたい」
 優希の姿が薄くなる。少女を構成していた光の粒子が結合力を失い、天に向か
い昇って行く。
「待て………待ってくれ、優希。俺も行く」
 元より自分の命も絶つ計画だった。
 優希の居ない世界で生き続けるより、少女と共に天へでも地へでも着いて行き
たい。健司は懐に忍ばせていた凶器へと手を掛ける。
「ふざけるなよ、笠原健司」
 既に向こう側が透けて見えるほどになった優希の、激しい声。健司は金縛りに
でも遭ったかのように動けなくなった。
「生きて、健司も、梨緒も。じゃないと、私、絶対許さないからね」
「くっ………」
 もう自害は出来ない。
 赤子の頃より、一緒に育ってきた少女である。その性格は熟知していた。優希
の言う絶対に妥協はない。もし命を絶ち、死後の世界へ赴いたとしてもそこで優
希は健司を無視し続けるであろう。永遠に、である。
「やだよぉ、ゆうき………行かないで」
 それまでの躊躇いを捨て、梨緒が優希へと駆け寄る。だが伸ばした腕は、優希
を抱きしめることが出来ない。やはり空を切るばかりであった。
「さよなら………いつまでも、元気で………」
 それが最後の言葉となった。田嶋優希という名を持つ少女の姿は消え失せた。
そしてそれまで優希の姿を成していた、何万、何億もの光の粒子はガラスのない
窓から外へ、更には天空へと昇って行く。
「まだ……まだ何も話してないじゃないか!」
 話したいことは山ほどあったのに、もっと抱きしめていたかったのに、何一つ
叶っていない。叫び、健司は光たちを追って窓の外に飛び出す。
 慌てていたため、爪先が窓の桟を越えきれず躓いてしまった。顔から地面に落
ちた健司だったが、痛みを口にする間さえ惜しく、立ち上がる。
 しかし見上げた空に求めるものはなかった。
 優希の姿はもちろん、億単位で存在していた光の粒子も、その一つさえ見当た
らない。代わりに満天の星空が広がるだけであった。
「なんだよ………勝手なことばかり言いやがって………」
 ようやく会えたと思っただけに、再びの別れは己の身を刻まれるよりも辛かっ
た。ましてやもう会う機会さえない別れである。生きて、と残された言葉が恨め
しかった。
 どれだけの時間であったか。その感覚さえないまま、呆然と立ち尽くしてしい
た健司が現実に返ったのは、口元に触れる柔らかいものの存在によってである。
「血、出てるよ」
 健司に触れていたのはハンカチであった。
 転倒の際、口の中を切ったのだろう。出血していたのに気付いた梨緒が、ハン
カチを充ててくれたのだ。
 仄かに洗剤の香りがする、憎んだままであれば梨緒らしくないと感じていただ
ろうハンカチだった。
「本当に、君には済まないことをしてしまった………」
 強い脱力感の中、謝罪の言葉を搾り出す。
「もう、いいの。お願いだから、謝らないで」
 優しく返される梨緒の言葉が辛い。
 ハンカチを持つ梨緒の手をそっと押し返し、健司はゆっくり歩き始めた。
「どこへ行くの?」
 背中からどこか不安そうな声が掛けられる。
 あるいは健司が自ら命を絶つつもりではないかと考えたのだろう。優希の言葉
さえなければ、間違いなくそうしていたところである。しかし優希に止められて
しまったいま、その道を選択することは出来ない。
「警察に」
 振り返らず、足を止めただけで短く答える。
「えっ」
「あいつのお陰で未遂に終わったけれど………ぼくは君を殺そうとしたんだ。自
首するよ」
 自害の道が閉ざされた中、それがもっとも正しい選択だと思えた。どれほどの
罪になるのか、よく分からなかったが、自分の行ったことに法的な裁きを受けな
ければならい。
 再び歩き出そうとした健司の背後が、突然明るくなった。
 そのまま梨緒の前から去るつもりであった健司だが、明かりにつられて振り返
る。明かりの正体は小さな炎であった。
 手にした一通の封筒。それに梨緒はライターで火を点けたのだ。
「行ってもムダだよ。証拠、なくなっちゃったもの」
 そう言って微笑む梨緒。手から離れた封筒は、地で黒い灰と変わる。封筒は健
司が送り着けた脅迫文であった。
「だけど………」
「もし警察の人が来ても、アタシは何も言わない。そうしたら………んー、ケン
ちゃん、警察にウソをついたって少しは怒られるかも知れないけど。でも、刑務
所には入れられないよね?」
 これでまた、健司に選べる道が一つ、閉ざされてしまった。
 しかしたとえ道を見失ったとしても、いまここで健司は立ち止まっていられな
い。梨緒へ背を向けまた歩き始める。
「ケンちゃん?」
「警察には行かないさ」
 歩みは止めずに、努めて明るい声で言う。今日まで謂れのない憎しみを向け続
けた相手に、これ以上余計な心配を掛けないために。
「ただ証拠がなくなっても、ぼくの罪が消えた訳じゃない。何より、自分で自分
が許せない………」
 吹く風が冷たい。
 改めて夜の深さを思い起こす。
 本来ならこんな夜更けに梨緒を一人にするべきではないのだろう。駅へなり、
ホテルなりへと送り届けるべきであろう。しかし少し前まで梨緒の命を奪おうと
していた者が負うには、難しい役目であった。
「ぼくはこれ以上、君の前にはいられない………でも、いつか………いつかぼく
自身納得のいく償いの仕方が見つかったら………」
 そこで健司は言葉を止める。梨緒が追って来る気配もなく、健司の言葉がどこ
まで届いていたのかも分からない。微かにすすり泣くような声が聞こえたのは、
健司の思い過ごしか、風の悪戯だろうか。
 何より、その日が本当に来るのか自信が持てなかった。
 風は冷気を運び、骨の芯まで冷やす。筋肉まで凍りつき、動くことが困難にさ
え感じられる寒風を掻き分け、健司は歩き続けた。
 行くあてのないままに。



 上下の区別さえ付かない浮遊感の中に、優希はいた。
 あるいはまた、自分の身体は水中に在るのだろうか。果たしてそれは、血の海
の中なのだろうか、それとも澄んだ湖なのだろうか。
 答えを得るため、ゆっくりと瞼を開く。そして優希は自分のいる場所が、想像
していたどちらでもないことを知る。
 そこは漆黒の闇が支配する空間であった。その闇の中に優希は浮かんでいた。
 闇の中に在って優希が「浮かんでいる」と断言出来た理由は二つある。一つは
その足は当然であるが、身体のどの部分も壁や床のようなものに触れていないと
いうこと。そしてもう一つは、闇が闇であっても完全な闇ではないということで
あった。
 優希が頭を振ればその上にも下にも、右にも左にも無数の光点が見られる。こ
こで言う上下左右はあくまでもいまの優希の体勢を基準にしたもので、実際のも
のではない。
 無数に輝く光点は、どうやら星々のようである。浮遊感の中、上も下も分から
ない。漆黒の闇の中、あらゆる方角に輝く星々。優希の持つ知識の中で、この場
所に該当するものはただ一つしか思い浮かばない。
「………うちゅう?」
 思い浮かんだ場所の名を口にしてみる。
 成すべき事を成した優希は宇宙にいたのだった。
「私、どうなるのかな」
 湧き上がる不安が言葉となる。あるいは自分の中のもう一人の自分が答えてく
れるのではないか、微かな期待もあった。しかし答える声はない。
 半分ずつに分かれていた心が一つになったいま、ここにいる自分が全ての自分
なのである。
「このまま、消えちゃうのかな」
 生きた身ではないのにも関わらず、魂の存在に疑問を感じて呟く。
 自分は健司と梨緒の心の中に残っていた田嶋優希という少女の記憶。それぞれ
が膨らませていた想いが成した映像のようなもの。そうだとするなら、役目を終
えた後は消えるしかない。優希はそう考えたのだった。
 消え行くことに、恐怖は感じなかった。あの日、中学生の優希は死んだ。田嶋
優希の存在はそこで終わっている。いま改めて覚える恐怖はない。
 ただ―――
 心は残る。
 成すべき事を成して、自分はここにいる。
 確かに健司の抱いていた、梨緒への謂れない憎しみは消えたかも知れない。
 梨緒が持ち続けていた、自責の念は消えたかも知れない。
 だがこれから先、二人が互いに笑いあえる日は来るのだろうか。殺そうとした
者と、殺されようした者。互いに心を許しあうには、人の心というものは少し複
雑に出来ている。
 そして。
 自分も………叶う望みではなかったが、皆と共に在りたかった。
 健司や梨緒、そして父母と笑い、泣き、喧嘩をしたかった。
 一緒に成長して行きたかった。
 双眸より、涙が零れ落ちる。いや上も下もない世界、落ちたのではない。溢れ
る涙は小さな球体となり、遠く輝く星たちに混ざる。
 その時であった。
(水は流れます)
 そんな声が、優希の耳に届く。
「だれ?」
 慌てて頭を振るが、周囲に人影などない。あるはずがない。
(流れた水は、もう元に戻らない………本当にそうでしょうか?)
 女性の声。どこかで聞いたような気もする。
(水は巡ります。雨は川となり、川は海へと注ぎます。海の水は蒸気となり天に
昇ります。それはやがて雲と変わり、雨を降らせます)
「私も誰かに生まれ変わるってこと?」
 姿なき声へと問う。しかし声は優希の問いに答えてはくれなかった。
 天地の区別さえない空間に浮かんでいた優希だったが、自分の身体が一定の方
向へと流れていることに気付く。どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。数分程
度だったようにも、数十年を掛けたようにも思える。もっとも時間の概念など、
いまの優希にとっては無意味であった。
 やがて優希の進む方向に、闇の中にあって、更に深い闇が現れた。どうやら優
希の身体はその闇に向かって流れているようだ。
(時とは一定のものではありません)
 再び声が聞こえて来る。
 他に誰もいない空間の中、姿は見えなくてもただ声がする。それだけで心が少
し落ち着いた。
「あっ、そう言えば………」
 ふと優希は声の主について、あることを思い出す。
 半分ずつの記憶が一つとなったとき、地獄の王と重なった女性の姿。その女性
の声が、いま聞こえて来た声に、どことなく似ている。
 あのとき、優希の周りには、多分優希と同じ立場の人たちがいた。もし声の主
があの女性であるならば、あのときの人たちもこの場所に来たのだろうか。そし
てあの闇に向かって行ったのだろうか。
(時は流れます。けれどただ一つの方向に向かって進むだけではないのです)
 遠くに見える星々以外、何もないと思われた空間だったが、そうではない。隕
石のようなものやガス、何かの破片。大きな闇に近づくにつれ、そういった類の
ものが見られるようなる。
(高速で移動する物体の中では、時間の流れは緩やかになります)
 ああ、そう言えば以前誰かに聞いたような気がする。確か健司からであったろ
うか。何か男の子たちが夢中になっている漫画の話だったと思う。
(あるいは膨大な質量を持つものの周囲では、時間と空間に歪みが生じます。そ
う、たとえばいま、貴方が進む先にあるもの)
 声に促され、優希は前方を見遣る。しかし見えるのはやはり、より深い闇だけ
であった。
(あれはただの闇ではありません。かつては巨大な恒星だったものの成れの果て
です)
 理化学に少々弱点のあった優希だが、ようやく前方の闇の正体に思い当たった。
太陽より、遥かに大きな恒星が迎えるという終焉の姿。自身の重力に押し潰され、
やがては恐ろしいほどの質量を持つまでに至ると聞く。光さえ飲み込んだまま一
切反射することがないため、ただの暗黒にしか見えないのだ。
 それがいま向かっている先にあるものなら、命を終えた自分には相応しい場所
だ。ただ姿なき声の語る、時間に関する講釈の意図が分からない。
(田嶋優希という、一人の少女はその生きた時間を終えました)
「分かっています………だから私はここにいる………」
 念を押されるまでもなく、充分に承知している。だが改めて宣告されたことで、
その辛さを再認識してしまう。
 そのとき。
 気のせいだったのかも知れない。
 姿のない者の表情など、窺う術はない。しかしそのとき優希は、微笑む女性の
顔が見えたような気がした。
(でもそれは一つの可能性に過ぎません)
「可能性?」
(そう幾つかの時間の流れの中の、たった一つの可能性です。可能性は、まだ無
限に存在するのです)
「あの、それって………もしかして………」
 姿なき声に、失われていたはずの希望が芽生える。だがそこから先を訊くこと
が出来ない。その答えによって、わずかに生じた希望が消えてしまうのを恐れた
のである。
(あの日より先も、大切な人たちと共に生きる時間。一緒に笑い、一緒に泣く可
能性。あなたはそれを望みますか?)
「望みます」
 即答であった。もしそこにどんなリスクがあろうと厭わない。
「私、健司や梨緒と一緒に生きたい!」
(必ずしも、望みどおりになるとは限りませんよ。場合によってはあなたの存在
そのものが、全ての時間の中から消えてしまうかも知れません)
「それでもいいです」
 生きた存在ではない優希だったが、ふいに身体の重さを感じる。それは体調不
良時に感じるものの比ではない。全身を鋼鉄で固められたような重さであった。
気付けばあの闇より深い闇が眼前まで迫っていた。
(闇の………時の流れに逆らうのです………)
 闇の影響だろうか。姿なき者の声は、ノイズが走ったように切れ切れで、聞き
取りにくいものになる。
「えっ、どういうことですか? よく分からない」
 そう言ったつもりだったが、自分の声が聞こえない。視界が闇に支配される。
感覚の全てが失われ、己の手も足も、耳も目も、鼻も口もどこにあるのか分から
なくなった。
 先刻までの身体の重さはなくなっていた。いや、限界を超えたが故に「重い」
とさえ感じられなくなっていたのだ。
 唯一つ自分が激しい流れの中にあることだけが分かった。
 失われた感覚で、その激流が如何程のものか表現するのは難しい。ただ比べる
ことが出来たのであれば、台風によって増水した川の流れも、せせらぎのように
感じられたであろう。
 流れに逆らえ。
 最後に聞こえた言葉を頼りに、優希は激流に逆らおうと努めた。しかしそれは
困難を極めるどころの話ではない。全く前に進んだ気がしないばかりか、努力の
数倍、いや数億倍以上流されてしまうよう思えた。もっとも五感が機能していな
いため、それも推測でしかないのだが。
 光ばかりか、音さえ存在しない激流。その中を一人進もうとする孤独感と恐怖
はたとえようもない。しかもその努力の結果が、まるで分からない。いくら肉体
を持たない身であってもその体力、いや精神力であろうか、それも限界に達する。
「無理………やっぱり無理だよ」
 叫んだはずの声も、耳には届かない。強い絶望感が優希を支配する。
「ごめん、健司、梨緒」
 誰にも届かない、最後の言葉を発し、優希の意識は遠のいて行った。




#287/598 ●長編    *** コメント #286 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  23:06  (249)
白き翼を持つ悪魔【16】            悠木 歩
★内容                                         06/08/28 22:58 修正 第2版


「バカ、危ない」
 無音のはずの空間に、そんな声が聞こえた。
 それから強い力で身体が後方へと流される。いや、これは当然だろう。力尽き、
流れに負けたのだから。
「あっ」
 しかし失われたはずの感覚が戻っているのを知り、優希は驚きの声を上げた。
そしてその声は、耳に届く。何かの温もりを感じ取ると共に、目の前の闇が急速
に遠のいた。間髪を入れず、臀部に衝撃を覚える。
「なにやってのよ、危ないじゃない!」
 耳に馴染んだ声に振り返ると、そこにあったのは見知った顔だった。
「あっ………えっと……梨緒?」
 険しい表情でこちらを睨みつけていたのは室田梨緒であった。しかしそれは理
不尽な健司の憎しみを甘んじて受けようとしていた大人の梨緒ではない。優希が
死の直前に見た、中学生の梨緒がいたのだ。
「ここ、どこなの?」
 状況が分からず、優希は視線を周囲に振る。
 見覚えのある松の木。
 見覚えのある道路。
 見覚えのあるガードレール。その向こうに広がる闇からは音が聞こえる。波の
音だ。
「ちょっと、優希ったら、何言ってんの。ひょっとしてボケちゃった?」
「………あっ、やだ、冷たい」
 尻に感じた冷たさに、思わず跳ねるようにして立ち上がった。
「やだ、泥だらけじゃない」
 そう言った梨緒の手が、パンパンと大きな音を立てながら優希の臀部を叩く。
「痛っ、ちょ、ちょっと痛いよ、梨緒」
「あーだめ、はたいたくらいじゃ、落ちないよ、これ」
「あっ」
 それまで頭の中に掛かっていた霞が、突如として晴れて行く。街へ買い物に出
た帰り道、梨緒と別れた後、一人この場に留まっていた優希。うっかり海に落と
してしまった買い物袋を取ろうとして、優希自身も転落しそうになっていたのだ。
「ごめーん、梨緒。助かった………ああっ!」
 優希の上げた大声に、一瞬、梨緒が身を竦める。
「何々、どうしたのよぉ。びっくりするじゃない」
「ああん、どうしよう………買ったばかりのコート、海に落としちゃったあ」
「ばっか、そんなもの。自分が落ちるよりいいじゃない」
「だけど………コートの袋の中に、通帳とカードも入ってたの……」
「ええっ!」
 優希と梨緒、並んでガードレールから身を乗り出して、海を見下ろす。無意識
のうち、互いが転落しないよう、手を繋ぎ合いながら。
 そこに見えるのは、吸い込まれそうな深い闇ばかり。直下の海は音で存在を示
してはいたが、その波すら視認することは出来なかった。
「明日、朝一で銀行に連絡するしかないよ」
「………だね」
 暫しの沈黙の後、優希は刺すような風の冷たさを感じた。いまはまだ冬である
ことを思い出すと、興奮していた心が徐々に落ち着きを取り戻して行く。
「そうだ、忘れるとこだった」
「えっ、何をさ?」
 優希は梨緒の手を引き、ガードレールから三歩ほど、後ろへと下がる。それか
ら繋いでいた手を離すと、深々と頭を下げたのだった。
「どうもありがとうございました」
「なによ、いきなり」
「いま、助けてくれたでしょ。梨緒がいなかったら、私、きっと死んでいた」
「やだ、大げさだよ」
「ううん、大げさじゃない。戻ってきてくれてありがとう」
「ん、いえ、どういたしまして」
 真剣な優希に気圧されるように梨緒も謝意を受け入れ、頭を下げ返す。
「なんかさ………アタシいろいろ喋り過ぎた気がして。優希、混乱してたみたい
でしょ? 気になって、戻って来たの」
 ―――多分。
 優希は思う。
 梨緒が戻っていなければ、自分は本当に死んでいたであろうと。
 そのまま帰宅してしまっても何も不思議はない。いや、普通はそうしたであろ
う。それが単なる偶然か、あるいは勘が働いたのか。梨緒は優希の様子を見るた
め、この場に戻って来た。本来なら、ごく小さな選択の違い。優希が気になって
いたのであれば、帰宅後、電話をするのでもよかった。明日、学校で会うことも
出来た。しかし引き返すという道を選び、それが優希の死を防ぐという大きな結
果に繋がる。
 人の運命とはこんなものなのかも知れない。
 小さな事柄の積み重ね。
 些細な選択の違い。
 それが気付かぬところで運命を大きく変えているのだろうと。
「あとね、もう一つ。梨緒に言わなくちゃいけないことがあるの」
 それから一つ、優希は大きく深呼吸する。
「私、田嶋優希は、笠原健司が好きです」
 その言葉に梨緒は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにどこか嬉しげな笑み
へと変わった。
「ふふっ、やっぱり?」
「ん、………でも正直言うとね、まだよく分からないこともあるの。えっと、あ
の、なんだろう………」
「分かるよ」
 鼻先を何かが掠める。梨緒の人差し指であった。
「好きだけど、それが愛してるって気持ちなのか、分からないんでしょ?」
 指で優希の鼻を軽く押しながら、梨緒が言う。
「………うん」
「でも、まっ、これでライバル関係成立、ってとこだね」
「………」
 ドラマのような台詞を吐きながら、梨緒は笑う。優希にはそれが、恋慣れた女
の余裕に感じられた。
「私、梨緒になら………負けてもいいな………あ、痛い!」
 突然後方へと引かれたかに見えた梨緒の指が、次の瞬間、優希の鼻を弾く。
「うそつき。本当は絶対、負けたくないくせに」
 少し頬を膨らませた梨緒の表情は、怒っているようでも、優希をからかってい
るようでもあった。しかしすぐにまた笑顔へと戻る。
「アタシは負けたくないよ。けど、負けるなら、絶対優希以外の人じゃ、イヤだ
な」
「梨緒」
 パアン。
「きゃっ」
 突然の音に驚いた梨緒が、尻もちをつく。目の前で、優希が手を叩いたのだ。
所謂、猫騙しというものである。
「あははっ、おあいこ」
「おあいこじゃなあい」
 笑いながら手を差し伸べた優希だったが、逆にその手を取った梨緒に引き倒さ
れてしまう。そのまま優希は、土の上に倒れ込んだ。
「これでおあいこだね」
「違うー」
 まるで幼子のような声を上げながら、二人は笑った。

「いたあっ!」
 果てしなく続くかに思われた泥遊びを中断させたのは、男の叫び声であった。
我に返った優希と梨緒は、声の方へと視線を遣る。
 きーっ、という軋みを立てて一台の自転車が停まる。自転車に乗っていたのは、
若い男。暗くて顔貌を見て取ることは出来なかったが、優希にはそれが健司であ
るとすぐに分かった。
「お前、こんな時間まで何してたんだよ、おばさん、すごく心配してるぞ」
 怒気も露な声。自転車のスタンドを立てた健司が、大股で近づいて来る。
「ああっ?」
 ようやく顔が確認出来るまでに距離を詰めた途端、その声の調子が変わった。
「その歳で泥遊びかぁ?」
 健司は明らかに笑いを噛み殺しながら、言う。その言葉に促され、優希と梨緒
は互いにまず相手を、それから自分を見遣った。
「サイアク………」
「………だね」
 どちらからともなく、そんな会話が交わされる。
 そして泥まみれの相手と、自分とを笑う。

 街路灯の下まで来ると、その汚さが一層よく分かる。ハンカチを手に泥を拭っ
てはみたが、一枚ではまるで足りない。
「あれっ? 君は」
 わずかに驚いたような健司の声は、梨緒の顔を見てのものだった。街路灯の下、
梨緒が先日助けた少女であると、ようやく気付いたらしい。
「あ、この間はどうも………あのときは、ちょっと動揺してて、ちゃんとお礼も
言わないで、ゴメンなさい」
 戸惑うように、はにかんだように答える梨緒。歳相応の少女らしい反応を少し
可笑しく、そして嬉しく優希は感じた。二人のやり取りに無関心を装い、身体の
泥を落としながらも聞き耳を立て、横目で様子を窺う。
「ああ、いや………」
 小声で言いながら、健司は一瞬だけ、立てた人差し指を口元に充てた。あくま
でも先日の件を、優希には秘密にしたいと言う意思表示である。
「じゃ、私はこれで」
 突然、梨緒が小走りに駆け出す。
「あっ、待って、君。送って行くよ」
「君、じゃなくて梨緒。室田梨緒です」
 呼び止める健司に、足を止めた梨緒はそう答え、再び駆け出した。
「そうだよ梨緒。けんに送らせるからー」
「自転車に三人乗りは、ムリでしょ。それと………武田信玄だよ」
 優希の呼びかけには振り返らず、梨緒は駆けて行く。
「敵に塩を贈る、ってヤツー」
「それ、上杉謙信のほうだってば」
 優希の声が届いたのかどうかは分からない。梨緒の姿はカーブした道の向こう
へと消えてしまった。
「塩を贈るって、何のことだ?」
「そんなことはどうでもいいの! さっさと梨緒を追いかけなさい」
 幼少時から習慣。それは力と体格で逆転したいまとなっても、簡単に変わるも
のではない。半ば怒鳴るような優希の声に反応し、健司は自転車へと跨る。

 梨緒を追った健司を見届け、優希は一人家路に着く。そこに自転車の健司が追
い付いて来たのは、十分ほど歩いた頃であった。
「ごめん、あの子、見失っちまった」
「もう、役に立たないんだから」
「だからこうやって謝っているだろう。本当にごめん」
 元々は帰宅の遅い優希を、健司が怒っていたはずだったがその立場は入れ替わ
ってしまう。
「私にじゃなくて、梨緒に謝ってよね」
「分かってるよ………なあ、後ろに乗れよ」
 優希の少し前で自転車を停めた健司は、顎で荷台を指し示す。言われるまま、
優希はそこへ横座りした。
「どうして女って、そうやって自転車の後ろに座るんだろうな?」
「ばか言ってないで、さっさと漕ぎなさい」
 ぺち、ぺち、と優希は健司の背中を二つ、叩く。叩きながら、久しぶりに触れ
る健司の背がいつのまにか大きくなっていたことに驚いた。
「へいへい。それでは出発いたしますです」
 自転車は風を切って走り出す。同時に冷たい空気も、勢いをつけて優希の身体
を撫でて行く。
 優希は冷たい風を避けようと、健司の背中に顔を埋める。
「おい、こら。あんまりひっつくなよ」
 怒った、と言うよりどこか慌てたような健司の声が飛ぶ。
「お? 照れているのかね、健司くん。本当は嬉しいくせに」
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、優希はぐりぐりとその頬を健司の背中へと押し付け
た。
「あっ、おい、バカっ!」
 自転車は大きく傾き、蛇行する。危うく転倒し掛けるが、どうにか立て直され
難を逃れた。
「危ないわね。ちゃんと運転なさいよ!」
「お前のせいだろう」
 前を向く健司は気づいていないだろが、いまの出来事に心底驚いた優希の目に
は涙が溢れていた。それを誤魔化そうと、口調も普段以上に荒くなる。
 いや、あるいは健司も気がついていたのだろうか。押しつけられた顔と、身体
に回された手の力が先ほどより強くなっても、そのことについては何も言わない。
 それからはしばらく、二人とも声を発さない。無言のまま、互いに自転車の音
と、風の音を耳にしながら時が経つ。
「ねえ、けん」
 優希が口を開いたのは、自宅手前、最後のカーブを曲がったときだった。
「ん?」
「もし、もしもだよ」
 少し前から、吹く風の勢いが増していた。この季節らしい、冷たい風であった
が、優希はあまり寒さを感じていない。ただ健司に掴まる手の指が悴んでいるの
は分かった。
「私が死んだら」
「何? よく聞こえない」
 吹く風と、自転車が切る風。二つの音が入り混じり、互いの声が聞き取りにく
い。
「私が突然死んだらー、けんはどうするぅー?」
「あー? 別にどうもしない」
 と、即答した健司だったが、ややあって。
「少しくらい、泣くかもな」
 小声で言い直す。
「違うよ」
「えーっ?」
 健司の声は優希の耳に、しっかりと届いていた。そして今度は小さな声で返す。
「けんは泣くの。いっぱい、いっぱい、泣くんだよ」
 相手に伝えるためではなく、独り呟くように言う。それからまた、冷たくなっ
た頬を健司の背中へと預ける。
「いっぱい、いっぱい泣いて、おかしくなっちゃうの」
「…………」
 一際強い風が吹き、自転車はわずかに煽られる。やはり優希の声は届いていな
かったようだ。初めからそのつもりだった優希は、気にも留めない。
「ばか優希」
 自転車が止まる。優希の家に着いたのだ。
「何よ、何がばかよ」
 健司を馬鹿にすることには慣れているが、馬鹿にされることには慣れていない。
そのため語気も荒くなる。
「本当におばさん、心配してるぞ。ちゃんと謝れよ」
「分かってる………わよ」
 荒げた語気は、すぐに萎れてしまった。さすがに優希も非は全面的に自分にあ
ると認めざるを得ない。
 予想以上に遅くなってしまった帰宅。視線を落とせば泥だらけの制服。
 母にはさぞかし叱られることであろう。覚悟しなければならない。
「今日は………ありがとう。じゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
 気落ちした声で別れの挨拶を交わすと、優希は自転車を降り、玄関まで五メー
トルほどの距離を歩く。
「………かもな。優希が死んだら、俺、狂っちまうかもな」
 そんな台詞が聞こえたのは、優希の手が玄関の戸に掛かった瞬間であった。
「えっ」
 思わず、健司へと振り返る。しかしもう自転車はない。優希はすぐに健司の家
へと続く道の先を視線で追った。
 夜の闇、いや冬の澄んだ空気の中、まるで無数に輝く星たちに向けて進む背中
を見つける。ただそれだけのことがとても嬉しく、胸の奥が熱くなっていく。
「私、もう死なないから」
 自分の言葉の意味すら、よく分からないまま、一人呟く。それから、瞳から勝
手に溢れ出る雫を、指でそっと拭った。

了.






#288/598 ●長編    *** コメント #287 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  23:07  (126)
白き翼を持つ悪魔【後書き】          悠木 歩
★内容

 これを読まれている方は、本作のほうもお読みくださったのでしょう。厚く
御礼申し上げます。もしまだお読みでなく、これから読んでみようと思われて
いる方は、これを読むのは後回しにするようお願いいたします。

 と、まあ前置きしたところですが。以降は本作についてのあれこれと御託を
綴ったものですので、さして面白いものではありません。

 元々一作がやたら長くなる傾向の私ではありますが、本作は殊更長いものに
なってしまいました。主要登場人物は三人、当初はこの半分程度の文章量にな
ると予想していたのですが………

 物語の履歴というか。
 本作は過去執筆を予定していた複数の作品が一つにまとまったものなのです
が、ベースになった作品は復讐劇であります。
 「奇妙な果実」でしたか。ソウルの曲をヒントに庭の柿の木にぶら下がった
少年とそれを不思議な気持ちで見つめる妹というシーンを思いつきました。や
がて成長した妹が、虐めを苦に自殺した兄の復讐をする。そんな物語でありま
す。
 女性が復讐をするのには些か無理があるか。いや、物語としてはその方がよ
り面白いのか。など考え、兄妹、姉弟、姉妹等々複数パターンを用意していた
ところ………
 旧AWCで某氏による「復讐」をテーマにした作品が発表されました。
 予定していた私の作品とは内容で異なるものの、AWC内でも熱烈なファン
を持つ某氏と同じテーマの作品を書いたところで見劣りするのは避けられない。
幸い執筆も始めていなかった作品はそのままお蔵入りとなりました。
 その後、私が数年間続けていた「クリスマス」を題材にした作品群用のアイ
ディアとして天使と悪魔の間に生まれた女の子を主人公にしたものを考えます。
しかしこれは中々物語がイメージ出来ず結局は作品化する事もありませんでし
た。そこからまた暫く時間を置き、二つの案が混ざり本作品のベースとなりま
す。
 ちなみに作品冒頭部分、優希が右半分だけの姿で登場しますが、これも元々
は拙作【OBORO】の敵として考えていたものです。なぜ左でなく、右半分
なのかと言いますと。これは少々こじつけなのですが、心臓=ハート=心を欠
いている、という意味を持たせています。

 キャラクターについて。
 三人の主要登場人物について話をさせて頂きます。

 田嶋優希。
 彼女を書くに当たって特に留意したのが変化と言うことです。序盤の悪魔の
眷属としての言動から、次第に田嶋優希へと変わっていく様子を描くのが私に
とってテーマでありました。しかし書き上げた後、幾度読み返しても些か不自
然さ、性急さというものがあったようで。
 それからお気づき頂けたでしょうか? 本作に於いて「彼女」と言う表現は
優希を指す場合のみに使用しています。別段深い意味もないのですが、「彼女」
を固有名詞として使用するというのもテーマでした。

 笠原健司。
 一番不満の残るキャラクターですね。
 何か彼の行動は受動的で、ただ流されているという感じで。諭されて己の間
違いに気づいただけだし。実際執筆中、性格付けの際にも尤も苦慮しています。
 ちなみに製作途中、序盤では全く別の名前で書いていたんですが。個人的な
事情で変更したため、私自身が新しい名前に馴染むのに苦労した、っていうの
もあるかも知れません。

 室田梨緒。
 健司とは逆に最も動かしやすかったキャラクター。
 元々、梨緒の役所には複数のキャラクターを予定していました。つまり序盤、
健司の部屋を訪ねて来る女性と、後半の梨緒とは別人物のはずだったんです。
 さらに復讐劇を構想していた時には、その対象となる複数のキャラを一つに
まとめた存在でもあります。なまじ複数のキャラを作るより効果的だったかと、
私自身は感じていますが。
 キャラを統合した影響もありますが、当初は徹底した悪役になるはずでした
が。

 物語・エピソード。
 可能な限り淡白に、と言うのが当初の目標でした。いきなり地獄のシーンか
ら始まる非現実的な物語でありますが、故にその後のシーンは淡々と進めて行
きたいと考えていました。まあ実際はその目的通りには行かなかったよう思い
ます。
 それでも拘ったのは中学生の優希が命を落とすシーン。
 あそこは書く寸前までどうするのか決まりませんでした。ただどうしてもド
ラマチックな形にはしたくない。読者が「はあ? なんだこりゃ」と言うよう
な、唐突で肩透かしを食らうような形にしたくない。人の死とはその大半が、
そうであるよう、第三者から見れば物語にならないような形にしなければなら
ない。 かと言って、あまりにも馬鹿げていて、物語から浮いてもいけない。
少々ジレンマを感じつつあのような形となりました。

 ラストシーンは、また夢落ちか? そう受け止められても致し方ないかと思
います。しかし言い訳をさせて頂くと、あれはあくまでも別の時間の流れの中
へ、優希の意識が移動したという設定であります。
 言葉として使用はしませんでしたが、あそこで登場する「闇」はブラックホ
ールのことです。
 高校生時代、SF好きの友人に囲まれ、少なからず私も影響を受けました。
ただしその知識は実に乏しいものでした。それである時、もっと知識をつけよ
うと考え、あれは岩波のブルーバックシリーズだったか………を読み始めまし
た。その折、最初に手にしたのがブラックホールの本でした。
 まあさして良くない頭。殆ど理解も出来ず、あまり記憶にも残ってはいませ
んが。ブラックホールの自転方向と逆に進めば、理論上時間を遡ることになる。
朧気にそんな記述があったのを記憶しています。
 また後に膨大な質量の周囲、恒星の周囲では時間と空間に歪が生じる、と聞
いた記憶もあります。
 もちろんそんな真似が出来よう筈はないでしょう。でももし生きた身体を持
たない存在であれば?
 魂、意識と言った類のものであったなら?
 更にはここに、私の考える輪廻感も加わります。
 人に魂はあるのか、輪廻転生とは本当にあるのか?
 医学、科学が進歩すればするほどにそれが信じにくいものとなって行きます。
地球の総人口は六十億を超えて久しい。ここ百年その増加は爆発的であるとか。
と、なると今生きている人々の全てが、前世でも人であったとは思い難い。に
もかかわらず、TVに登場する前世を言い当てる人物は、相手にした芸能人全
てにその前世を告げる。
 例えば。この世に生きた生命の全て。昆虫からそれこそ細菌の類まで転生の
中にあるとするなら、まだ納得も出来ますが。
 或いは、と私は考えます。
 輪廻転生とは未来に向かうものばかりでは、ないのではないかと。
 人は歳を重ねれば重ねるほどに、過去を懐かしく思い出します。幼い日々の
思い出に、涙するようになります。
 死へ近づくから若い日、幼い日を恋しく思うのだ。そう言う人もいます。で
もひょっとして、過去を懐かしく感じるのは、その時間から遠ざかってしまっ
たからではなく、その時間にまた近づいて来たからではないだろうか。肉体が
滅びた後、魂は過去へ戻って行くのではないだろうか。そんな発想がこの作品
の根底にあります。
 と、その実、これはあくまでも作品を書くための発想に過ぎませんでした。
しかし最近、作品を書き上げた後、この後書きを書いている最中、大病を患い
ました。幸いその病気に関し実績のある病院で手術を受けられ、当面の危険は
なくなりました。が、最初に病気の事を知り、死というものを今までになく真
剣に考える中、この発想が間違いではないように思えたりもしました。

 遅筆、と言うよりは鈍作なため次回作がいつになるか分かりませんが、再び
作品にて皆さんへお会い出来る事を祈りつつ。

 悠木 歩 こと 悠歩






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