AWC この優しくも残酷な世界 [1/3] らいと・ひる



#245/598 ●長編
★タイトル (lig     )  04/10/11  15:51  (483)
この優しくも残酷な世界 [1/3] らいと・ひる
★内容


──少女よ、私はあなたに言う。起きなさい。 
 新約聖書「マルコ伝」5章41節。


■Everyday magic #1



 そう、それはこんな一言から始まった。
「魔法を使いたいと思わないかい?」
 逢う魔が刻と呼ぶにはまだ早い時間。学校帰りに寄り道をして古本屋に立ち
寄った時、彼女はふいに声をかけられた。
 セーラー服に身を包む瀬ノ内有里守(せのうちありす)は、肩にかかった二
本の三つ編みのお下げ髪を揺らしながら辺りを見回す。
 それほど広いとは思えない店内には、彼女以外の姿は見えない。店員ならば、
入口に近い場所にあるレジに一人いただけだったはずだ。そこからの声にして
は近すぎる。
 声はもっと彼女に近い場所から発せられたような気がした。
「汝(なれ)には魔法使いの素質があるぞ」
 もう一度声がする。それはやや甲高く、中性的で男とも女とも確定できない。
なんだかかわいい声だと彼女は思った。
 有里守は再び辺りを見回し、やはり人影を確認できず、不思議そうに首を捻
る。
「汝の目は節穴か!?」
 怒号が聞こえる。だが、声質に威厳を感じないのでそれほど怖くもなかった。
「……」
 幻聴でも聞いてしまったのだろう。有里守はそう思い込んで、その場を立ち
去ろうとする。
「ちょっと待て!」
 それは頭上に近い位置から聞こえてきたような気がした。有里守は幻聴であ
ることを認めながらも、もしかしたらと思いそちらの方を見上げる。
 黄色。
 最上段の本棚に腰掛けるように、全身黄一色のぬいぐるみが置いてある。黄
色と言っても店内が薄暗いのと、少し汚れていることもあって見窄らしい姿だ。
間違っても黄金色に輝いてなどいない。口調とは裏腹に哀れでもある。全長は
20センチくらいだろうか。
 彼女は、店内の隅に置かれてあった踏み台を持ってきて、それに上がり、黄
色いぬいぐるみと対面する。
「あたしに声をかけたのはあなたなの?」
 目の前のぬいぐるみは近づくとその形がはっきりと確認できる。水兵帽にセ
ーラー服を着たアヒルだった。黄一色なので、まるで着色を忘れられた欠陥品
のようだ。
「無論、我に決まっておるだろう」
 ぬいぐるみからは確かに声が発せられていた。だが、有里守は別の事を思う。
 彼女はそのキャラクターには見覚えがあった。どこかのテーマパークで見た
はずだ。
「ドナルドダ……」
「違う! 我が輩の名は@☆※£@である」
 名前の部分以外は、はっきりとした聞き取りやすい日本語だった。だが、肝
心な箇所が難しい発音のようで、何と言っているのかわからない。
「ごめん、聞き取れなかった。もう一回言ってくれる」
「我が輩の名は@☆※£@だ」
 名前の部分は、風が吹き抜けるような板ガラスを爪で引っ掻くような、とて
も人間に発音のできるような音ではなかった。
「ええーん。そんな人外魔境な言葉で発音されてもわかんないよぉ」
「そうか、ならば人間の言葉に変換する」
「わかってるなら最初っからそうしてよ」
「我が輩の名前はルキフ・ゼリキボセウイだ」
 舌を噛みそうな名前だった。
「あのー、めちゃくちゃ言いづらそうな名前なんですけど」
「そんな事は知るか。きちんとこの世界にある汝の国の言語に変換したのだぞ。
我が侭は言うでない」
 そんなぬいぐるみの言葉は無視して、彼女はこう告げる。
「よし、君の名前はドナルド、愛称はドナちゃん。その方が自然だよ」
 有里守は目の前にあるぬいぐるみの胴体を両手で掴み、斜め上に持ち上げた。
「……」
 ぬいぐるみは不満そうに、声にならない音で呻っているようだ。
「きみは動けないんだね。それとも動けないぬいぐるみに取り憑いちゃった間
抜けな悪霊さん?」
「さっきから聞いていれば好き勝手云いよって。我はそんな下劣な存在ではな
い」
「じゃあエネルギーの切れちゃったぬいぐるみ型のロボットで、中にいるちっ
こいパイロットがきみなのかな?」
 有里守の想像力がぬいぐるみの状況を勝手に創造する。だが、陳腐な設定は
どれもしっくりとこない。
「違う。我はもっと高貴な存在だ。悠久なる魔法を伝える者。グランドマスタ
ーである」
「ぐらんどばざーる?」
「……云っておくが、ノリツッコミはせえへんぞ」
 ノリツッコミという言葉を知っている俗っぽさにこそ、有里守は突っ込みを
入れたかった。
「それで、そのグランドなんとかさんがあたしに何かご用?」
「それについては話が長くなりそうじゃ。ここから我を密かに連れ出し、汝の
住み処へと案内せよ。そこで重要な使命を汝に託そう」
「ええーん、それって万引きじゃん」
 有里守は涙目で恨めしげにドナルドを見つめる。



 家に帰ると、有里守はまっすぐに自分の部屋に向かう。両親は共働きで帰り
も遅いので、部屋の中で多少大声で会話をしても不審がられることはない。
 国語辞典やら漢和辞典やらの数冊の辞典とノートが散らばった机の上を片付
けると、彼女は古本屋から連れ出したあのぬいぐるみ=ドナルドをそこに置く。
 有里守は椅子に座って両肘を机に突いて、頬を両手で支えながらドナルドと
向き合う。
「さて、説明してもらいましょうか?」
「うむ、よろしい。では説明しよう」
「でも、どうしてあたしに声をかけたの?」
 ふとした疑問を訊かずにはいられないのは有里守の性質だった。
「待て! まだ何も話してなかろう。質問はそれからじゃ」
「えー、なんかそれが一番気になるんだよぉ」
 不貞腐れそうになる彼女を見て、ドナルドは考えを改めたようだ。
「わかった。それを先に話しても差し支えはなかろう。そうじゃな、汝には素
質がある。汝は普通の人間には見えない我の姿を見ることができる。我の声を
聞くことができる。そして、汝は我を恐れない。そう、大抵の者は我の声を聞
くことができても恐れおののいて逃げ出してしまう」
「そうかなぁ、こんなかわいい声なのに」
 どちらかというとコメディタッチのアニメに出てきそうな声質なのだった。
「かわいいと云うな。我はグランドマスター。かわいいとは悪口雑言にも等し
い」
「かわいいって言われるのが嫌なら、もう言わないけどさ。でもね、あたしが
あなたの声を聞いて怖がらなかったのはそれだけが理由じゃないかもね」
 視線を逸らして有里守はそう呟く。その表情には少し陰りが見えていた。
「どういうことだ」
「あたしね、わりとその手の声とか日常的に聞こえちゃう人なんだよ。だから、
慣れなのかな」
 そう言って彼女は溜息をつく。
「そうか。だが、それは素質なのだ。選ばれた人間の悩みでもあるな。案ずる
でない。それこそが我の求めていた者だ。我の力を託せるのは汝しかおらぬ」
「あたしが選ばれた人間?」
 目をまんまるくした有里守は、驚いたようにドナルドを見つめる。
「そうだ。それを誇りに思え、己の素質を疎んじるな」
「ははは、なんか喜んでいいのかよくわからないな。そうか、考えてみたらま
だ説明聞いてなかったもんね」
 彼女は思わず苦笑する。
「そうじゃな、まず基本的な事から始めよう。そもそも魔法とは……」
 ドナルドが説明を始めてから数分後、有里守は寝息を立てて船を漕いでいた。
「有里守!」
「ひゃ!」
 有里守は心地良い眠りの底から引き摺りだされる。びくりと痙攣した身体は、
不快な目覚めを余儀なくされた。
「……話聞けよ」



■Every day #1


 後ろから脇腹をぷすりと指で突かれる。
「うひゃ!」
 思わず声が出てしまった。被害者である滝川恭子(たきがわきょうこ)は加
害者が存在するであろう後ろを振り向く。
「うにゅ」
 今度は頬を指で突かれた。
「夢中になるのはいいんだけどね。もう図書室閉める時間だって」
 頬に食い込んだ指を引っ込めながら、鈴木美沙(すずきみさ)はそう告げる。
シャープな顔立ちでショートカットの似合う彼女は、美少年的な微笑みで恭子
を見つめる。
「え? もうそんな時間?」
 恭子は壁に掛けられたアナログ時計の時刻を確認する。短針は5の位置、長
針は1の位置に近づいていた。
「もう5時過ぎなんだ」
「その分だと途中で成美が帰ったのも気付かなかったみたいだね」
「うん。あ、悪いことしちゃったかな。あたしからここに誘っておいて」
「試験勉強しようって言いながら、途中で気分転換に小説を書き出す時点で、
もう悪いと思うけど」
「ごめん」
 試験勉強に使用した数学のノートの上に重ねて置かれていた創作用のノート。
恭子はそれをあわてて閉じて胸に抱きしめる。
「いいって、こっちはかえって捗ったから」
 気にしないという表情の美沙。1年の時からの付き合いなだけに、彼女の扱
いは慣れたものだった。
「うん、ほんとにごめん」
 恭子は立ち上がると上目遣いに美沙を窺う。
「そんな謝ることないよ。成美も怒って帰ったわけじゃないし。ほら、今日ピ
アノのレッスンがあるって言ってたでしょ」
 不安になりかけた恭子の心を、人懐っこい美沙の声がふわりと包むようだっ
た。
「うん」
 ようやく恭子の表情にも笑みが戻る。
「帰ろっか」
「そうだね」



 昇降口から外に出ると、そこは夕暮れの一刻前の色だった。空は水色を残し
たまま微かな闇を引き摺り、その反対側を茜に染めつつある。
「そういえばさ、恭子っていつから小説を書き始めたの?」
 恭子より頭一つ高い美沙がそんな言葉を投げかける。
「え?」
 思わず横に居る彼女を見上げ、三つ編みにしたお下げの二本の髪が揺れる。
「素朴な疑問だよ。恭子ってさ、それがさも当たり前かのように自然と書き始
めるんだもん」
「うーん、それは難しい質問だね。あたしさ、昔っから妄想癖っていうか、物
語を創るのが大好きだったんだよ。だから、それを文章にしようとしたのがい
つだったかまでは、ちょっと覚えてないんだよね。ほら、絵が大好きな人がい
つから絵を描き始めたかなんて覚えてないのと同じだよ。無意識に書いてるん
だよ、あたしたちは」
 真上の水色の空を見上げながら恭子は静かに語る。
「たしかに絵は物心がつかないうちでも描けるけどさ、小説は少なくとも文字
を習わないと無理だろ」
「うーん、だからね。『小説』って形式に倣おうと思ったのは最近だよ。でも
ね、イコールそれは小説を書き始めたことにはならないんだ。少なくともあた
しの中ではね」
「いまいち理解できないな」
「あたしはね、小さい頃から両親に本とか読んでもらってたし、物語に人一倍
興味を持っていた。だからそれを自分の物にしようって無意識に創作を始めた
の。たぶん小さい頃って誰でもそんなもんじゃない?
 あたしの場合はさ、それが絵から始まって、周りから言葉を吸収しながら学
校で文字を習って、本を読みながらいろんな文章に触れて、その過程でいろい
ろな創作物を吐き出してきたと思うよ。
 初めは意味不明な文字の羅列だったかもしれないし、それがポエムっぽいも
のだったり、台詞だけの短いセンテンスだったり、小説とは言えないような物
語の文章だったり……そりゃ最近なって、ルールとか分かってきてそういうも
のに縛られて小説らしきものを書き始めたけど、でもあたしの中の線引きとし
ては「この日から小説を書き始めました」みたいなものはないわけ。それでも
厳密な答えを求めるのなら、あたしの創作物を過去から順に全部検証して、小
説になっているものを探しだして、そこで線引きすればいいのよ。でもね、そ
の方式でいくと、現在ですら小説を書いているかどうかはわからないんだよ」
 恭子は自分の中で曖昧だった気持ちを順序立てて説明する。それは、彼女の
中に凝縮された創作に対する想いだった。
「……なんとなくだけど言いたいことはわかるような気がするよ」
「一つだけわかっているのは、あたしは小説というものに挑戦している最中っ
てこと」
「現在進行形ってことですか」
「そう、レッツ、アイエヌジーなのですよ」
 その会話はとても中学生らしいものであった。たぶん端から見れば微笑まし
い光景なのであろう。
 静かな夕暮れの空に少女たちの笑い声が響き渡った。



■Everyday magic #2


「えー? なんでよりによってコレなのよ」
「しょうがないじゃろ。それが一番魔力を込めやすいのだから」
 有里守は鏡を見ながら頬を赤くしていた。頭の上にはネコのような耳が生え
ている。
「これって絶対装着しなくちゃいけないの?」
「魔力が安定するまでじゃ。汝の魔法が暴走したらとんでもないことになるぞ」
「だって、これで街を歩いたら頭のおかしい人だよ。とってもマニアックな人
だよ。その手の店にスカウトされちゃうよ。その手のお兄さんにストーカーさ
れちゃうよ」
 彼女は少し涙目になっていた。
 鏡を見ていて空しくなってきた有里守は、目を閉じて元凶であるカチューシ
ャをとる。
 このカチューシャは大昔、テーマパークへ遊びに行った時に買ってもらった
ものだった。園内にいる時ならまだしも、日常でこれをつける勇気は彼女には
ない。
 それをドナルドが「これは魔力の制御にちょうど良い」とマジックアイテム
と変えてしまったのだ。さらに「魔法を使いたいのならこれを付けるべし」と
鬼畜なことを言い放つ。
「ごめんなさい、あたしやっぱり魔法使いになれなくていいです」
 まるで告白してきた男の子を振るように、有里守はドナルドに対して深々と
頭を下げる。
「今更何を言う。汝に選択肢などないのだ。事態は緊急を要するのだから」
「ええーん。動けないぬいぐるみの癖に、言うことだけは偉そうだ」
 その時、有里守の頭の上を風が通り過ぎる。それはとても奇妙な事であった。
 部屋の窓は閉め切ってある。扇風機もエアコンも稼働してはいない。
「いかん。我の居場所を気付かれたか」
「え? 何?」
「邪(よこしま)なるモノだ」
 部屋を見回すと、形ははっきりしないが半透明の物体が飛び回っているのが
確認できた。
「もう一度、制御装置を装着しろ。魔法で撃退しなければ」
 部屋の中ということもあって、有里守は躊躇することなくカチューシャをつ
ける。
 すると半透明だった物体が、はっきりと形をなして見えてきた。
 それは空を飛ぶ蛸のようなものだった。八本(?)ある触手にやや楕円形の
頭。目はぎょろりとこちらを睨んでいる。
「装着したよ。どうすればいいの」
 空飛ぶ蛸を目で追いながら、彼女はドナルドに指示を求める。
「今から我の呟く呪文を復唱せよ」
「わかった」
「ABRAHADABRA」
 それはどこかで聞いたことがあるような呪文だった。
「え? あぶだかたぶら?」
「違う。ABRAHADABRAだ」
 ドナルドは間違えないようにとはっきりと発音をしてくれる。
「あぶらはだぶら」
「目標物を指して魔力を込めろ」
 有里守は飛び回る蛸の化け物を指で追いながら呪文を唱えた。
「あぶらはだぶら!」
 彼女の身になんら変化はない。魔法など発動する気配すらなかった。
 ドナルドは叫ぶ。
                   A B R A H A D A B R A
「違う。もっと魔法を込めろ。こうだ<雷石を投じ死に至らしめよ>」
 呪文の瞬間、有里守の頭の中に別の言葉が浮かび上がっていた。
 瞬刻。
 ドナルドから出た光の矢が化け物を貫き、そして、その動きが止まる。
「すごい!」
 有里守は目の前で起きたとても幻想的な状況に心を囚われていた。
「惚けている場合ではない。我の魔力では、邪なるモノを消し去ることはでき
ない」
 だからこそ有里守が選ばれたのだ。
「え? あたしが」
「汝にしかできぬ。それが汝の使命」
「使命?」
 今の有里守には考えられなかった。それがどれだけ重要な意味を持つかを。
「考えるな。目の前の邪悪を消し去れ」
 有里守はドナルドに対して頷くと、もう一度指先で蛸のいる方角を捉える。
ドナルドが詠唱した時に心の中に浮かび上がってきたあの言葉。その意味を込
めながら、先ほどの呪文をもう一度唱える。
   A B R A H A D A B R A
「<雷石を投じ死に至らしめよ>」
 有里守の身体から光の矢が飛び出てきた。その大きさ太さは、矢ではなく槍
に近い。
 化け物に突き刺さった光の槍が炸裂して、爆発したかのように部屋全体が閃
光に包まれる。
 静寂。
 日常が再び動き出す。
「よくやった有里守」
 ドナルドから賞賛の言葉が彼女に向け発せられる。
「え? できたの? やっつけたの?」
 有里守には実感が湧かなかった。もしかしたら、今の出来事は夢ではないか
と考えてしまう。
「そうだ。初めてにしては上出来だ」
 でも、それは有里守一人の夢ではない。ドナルドと一緒に戦ったのだ。二人
で成し遂げたのだ。幻であるはずがない。
「すごい。すごいすごい!」
 彼女はその場でぴょんぴょんと飛び跳ねながら、喜びを身体全体で示す。
「うむ。だが、これは始まりに過ぎぬ。抜かるなよ」
 ドナルドははしゃぐ彼女に調子に乗らないようにと釘を刺す。
「うん。そうだ。ねぇ他の魔法も教えてよ。変身するやつとか、空飛んだりす
るのとか、雨を降らせたり、お菓子を作っちゃうものとか」
 有里守は目を輝かせながら、両手を胸の前で組んでドナルドに向き直る。
「おいおい。誰がそんな魔法が使えると言った」
「だって、あたしは正義の魔法少女なんでしょ。魔女っ子と言ったら、変身で
きるのがデフォじゃないかなぁ」
「その頭の上の耳」
 ドナルドはただそれだけを言い切る。
「えー? まさか、これだけ?」
 頭の上のネコ耳を右手で触れながら、有里守は不満そうに頬を膨らます。
「贅沢を言うな。魔法とは本来、敵を攻撃するために編み出されたものだ。さ
あ、レベルを上げて魔法力を高めるぞ」
「RPGかよ」



■Every day #2


「例えばさ、成美ちゃんがピアノを弾くことができなくなっちゃったらどうす
る?」
 昼休みの中庭のベンチで菓子パンを頬張りながら、恭子は祁納成美(けのう
なるみ)にそう問いかける。今日は土曜日なので、中庭にはほとんど人気はな
い。委員会で遅くなりそうな美沙を待つのに、小腹が減った恭子たちはコンビ
ニで軽めの昼食を調達してきたのだ。
「それは創作に関連したことですの?」
 隣に座る成美は肩口まであるセミロングのストレートで、前髪はカチューシ
ャで上げて額を出している。
「うん、そうだよ。なんでわかったの?」
「長くて濃ゆいお付き合いですから、それくらいわかりますわ」
 成美はとても優雅な口調で語った。資産家の父を持つ彼女は根っからのお嬢
様なのである。だが、大らかな両親の元に育てられたせいか、基本的な礼節は
弁えながら、庶民的な部分を併せ持つという特質があった。そのせいで、普通
なら私立のお嬢様学校に通うはずが、本人の希望で公立の平凡な中学校に入学
することとなったのだ。
「実はね。今構想中のお話に出てくる登場人物の一人なの。主人公じゃないけ
どね、成美ちゃんみたいに綺麗で純粋だから、ちょっとご意見を窺おうかなっ
て」
 成美は美沙と共に恭子の大親友なのだ。どんな些細な悩み事も隠さずに話す
間柄であり、同時に二人は恭子の作品の読者でもあった。
「そうですね。それは、身体的なものでしょうか? それとも心理的なもので
しょうか?」
 成美に意見を求めることは何度かあった。その度に彼女は真剣に考え、そし
て適切な言葉を恭子に伝えるのだ。
「うーん、どっちかって言うと心理的かな。腕に怪我をして一時期ピアノが弾
けなくなっちゃったんだけど、それはもう完治してるみたい。でも、もの凄い
ライバルが出てきて、その人の実力を思い知ってしまったの。自分にはそれだ
けの才能がない。どうやってもその人に追いつくことすらできないって。それ
がもとでその人はピアノを弾くことができなくなっちゃったの」
「うふふ。そうですね。それはとても単純な事だとわたくしは考えております
わ」
「というと?」
「たぶん、恭子さんと同じだと思います」
「え?」
 自分の名前が出てきたものだから彼女は驚く。
「あなたは物語が大好きで、それを創ることが大好き。でも、恭子さんが創る
より優れた物語なんていくらでもあるでしょう?」
 さすがに付き合いが長いだけあって、その言葉は的確であり容赦ない。
「うん、あたりまえだよ」
 彼女は物語が大好きなのであって、自分自身が大好きなわけではない。
「でも、恭子さんは物語が大好き。だったら、追いつく必要はあるのかしら?」
「へ?」
 またもや驚かされる。彼女が最初に考えていた事とはベクトルがまるで逆だ
った。
「わたくしはピアノが大好きで、音楽が大好き。奏でることも触れることも、
そうすることに意味がありますの。自分自身の矮小なプライドに振り回されて
本質を失うことの方が悲劇ではないかしら? もし、わたくしが心の傷に囚わ
れたのなら、好きでいることを否定するのは止めますわ。指が一切動かなくて
もピアノの前から逃げるようなことはしませんわ」
 緩やかな口調。迷いのない意志。それは成美自身の強さを示しているのだろ
うか。
「うん、そうだね。それは成美ちゃんらしいかも」
「でも、これはわたくしの場合に限らせていただきますわ。通常プロになられ
ている方々は、より高みを目指さねばなりません。だから、それは試練と思う
でしょうね。その場合、解決法は人それぞれでしょう。だからこれは、わたく
し祁納成美に関してのみの解答ということになりますわね」
 成美は最後に、それが絶対的な答えでないことを付け加える。人間は一人一
人違うのだから、と。
「ありがと、参考になったよ。でも、成美ちゃんってなんかテツガクシャみた
いだね」
 恭子自身、素人とはいえ創作者の立場でもあるので多少理屈っぽくなる場合
もある。が、成美もそれに負けず理屈っぽさを際だたせる場合があるのだ。
「わたくしの愛読書はサルトルでもハイデガーでもありませんわ。わたくしが
こよなく愛するのはショパンの楽譜ですもの」
 ただし、彼女は根っからのピアニストであった。



 隣駅に新しいショッピングモールが完成し、本日グランドオープンとなった。
成美と美沙が行ってみたいと言いだし、恭子はそれに付き合うことにしたのだ。
「でっかーい!」
 現地に到着して恭子の第一声はそんな単純な言葉だった。
「東京ドームより一回り大きいみたいだぞ」
「参入店舗は1000を超えるそうですわ」
 さすがにここに来ようと言い出した二人は、事前に情報を仕入れてきている
らしい。
「あ、甘い物」
 出入り口の所に屋台のクレープ屋が見えた。思わずふらふらとそちらへ歩き
出す恭子を、成美と美沙がその両腕をがっちりとそれぞれ抱えて止める。
「中にもっとおいしい甘味処がありますのよ」
「そうそう、そんなお手軽なデザートはこんなトコでなくても食べられるだろ
うが」
 犯罪者のように両脇を抱えられて、恭子はショッピングモール内に連れ去ら
れていく。
 まずは恭子の腹を満たそうと洒落た感じのカフェで軽い昼食をとった。エネ
ルギー補充ののち、ウィンドーショッピングの任務の為に出撃する。
 成美と美沙の付き添いで来たものの、一番はしゃいでいたのは恭子だったの
かもしれない。
 彼女の好奇心を満たす物が至る所に存在する。
 建物の造りに、通路のオブジェクトに、デザートの甘さに、店内にある商品
のディスプレイ、そしてその衣服の煌びやかさに。
 ついには子供のようにくるくると回りながら踊り出す有り様。
「ほら、そこ! 通行人の迷惑!」
 美沙がぴしゃりと怒声を発する。
「まあまあ、美沙さん。あれだけ喜ばれると連れてきた甲斐があるというもの
ですわ」
「そりゃそうだけど……アレの仲間と思われるのはちょっと恥ずかしいぞ」
 成美の意見に不満のある美沙が、まるで他人であるかのように恭子の事を指
さす。
「こら、美沙。むやみに人を指ささない」
 逆ギレする恭子であった。



「ちょっとだけいいかしら」
 ショッピングモール内を 1/3ほど見歩いた頃、成美が右手にある店を指し
「寄っていきたいのだけど」と控えめに呟いた。
 そこは、【Victorian maiden】と掲げられたブランドショップだ。飾られて
いるのはエレガントでコケティッシュなアイテム。
 中世のヨーロッパを思わせる、まさにヴィクトリアンスタイルの世界がそこ
にあった。
 一般的なロリータファッションとはひと味違い、フリルも少なくシックな味
わい。
 恭子の好奇心が再び動き出す。うっとりと眺めながら夢心地で呟く。
「お姫様みたいだよね」
「そういえば成美ってこの手の服持ってたもんな。ゴスロリっていうんだっけ?」
 その手のファッションには興味のなさげな美沙が成美に問いかける。
「美沙ちゃん!」
 成美ではなく恭子の口が開く。その口調は少し厳しくもあった。
「え?」
「ゴスロリってのは、もともとゴシック&ロリータファッションの略称なのよ。
純然たる姫ロリを退廃的で悪魔的なゴスロリと一緒くたにするのは……」
「まあまあ、このお店では確かにゴスロリ的なものも扱っておりますから」
 恭子を宥めるように成美の緩やかな口調がそれを包み込む。
「でも、成美ちゃんの持ってるのは、白を基調としたエレガントなものがほと
んどでしょ」
 成美は右手の人差し指を口にあてて少し考え込むと、何か閃いたかのように
美沙の方に向き直る。
「そうですね。あまり自分のスタイルを押しつけるのは好みではありませんが、
いい機会です。美沙さんにも、この世界の素晴らしさを味わってもらいましょ
うか」
「え?」
 顔色を変えて美沙は一歩後退をする。
「うん、確か試着とかできるよね。うんうん。中性的なイメージを一新するの
にいい機会かもしれないね」
 恭子にも成美の考えが伝わったようだ。
「え?」
 今日の美沙のファッションは、ブルージーンズにTシャツ、紺色のフライト
ジャケット。
 ボーイッシュな顔立ちは同性には人気がある。女の子じみたものをあまり身
につけないこともあって、中性的な外見はさらにベクトルをかわいらしさから
遠ざけていた。
 だが、根本的には整った顔立ちなのだから、女の子らしい服が似合わないは
ずはない。
「楽しみですわ」
「楽しみだね」





#246/598 ●長編    *** コメント #245 ***
★タイトル (lig     )  04/10/11  15:52  (490)
この優しくも残酷な世界 [2/3] らいと・ひる
★内容

■Everyday magic #3


「ほんとにこの格好で出るのぉ?」
 柱の陰に隠れていた有里守は、胸に抱えたドナルドに問いかける。もちろん、
ネコ耳のカチューシャを装着していた。
「我の居場所が知れわたるのは時間の問題だ。ならば、こちらから討って出る
のが得策であろう」
「だいたい、その邪なモノってなんなの?」
「昨日説明したはずだ。なんども言わせるな、我の天敵であり、放置しておけ
ば人間を害する」
「そんなに簡単に見つかるのかなぁ」
「我の匂いを嗅ぎつけて嫌でも向こうからやってくるわい。あの場所に居たと
きは結界のおかげで奴らから逃れることができていたがな」
「だったらあの古本屋にずっといれば良かったのに……」
「たわけ! それでは根本的な解決にはならん」
「わかってるよぉ」
 有里守は覚悟を決めて柱の陰から出る。その時、ちょうど前から歩いてきた
若い男の人と目が合ってしまう。
「にゃっ!」
 相手の表情がニタリと不気味な笑みを浮かべたので、それが怖くて再び引っ
込んでしまう。
「どどどどどうしよう。その手の趣味の男の人にビンゴだよぉ」
 ドナルドに顔を寄せて泣きそうな声で有里守は呟く。
「ね、ねぇ、キミさぁ」
 先ほどの若い男が言い寄ってくる。小太りで、そんなに気温も高くないのに
額に汗が吹き出している。
「さ、さよならぁー」
 全力でその場から駆け出す有里守。その瞳には涙が溢れていた。



 ネコ耳付きのカチューシャを外した有里守は、人気もまばらな夕刻の公園に
いた。噴水の縁に腰掛けて疲れたように遠くを見つめている。
「そろそろ日も落ちてきた。この程度の夕闇なら装着しても目立つまい」
「……」
 有里守は諦めたように溜息をつくと、再びカチューシャを装着しようとして
根本的な事に気が付く。
 せっかく髪を纏める為に三つ編みにしているのに、それにカチューシャをつ
けても意味はないのではないか。そう思い、おもむろにその髪を解いていく。
 夕暮れの気まぐれな風が有里守の頬を撫でる。胸まである彼女の髪は解けて
その風になびいた。
「どうした? 髪など解いて」
 ドナルドが不思議そうに問いかける。
「まあ、たまにはいいかなって」
 彼女はそう呟いてカチューシャを持ち直す。そして額から後ろへと髪を梳く
ように装着した。
 顔全体に風を感じる。普段は前髪を垂らしているので新鮮な感じもした。そ
ういえば幼い頃、こんな風におでこを出していたかもしれない、有里守はそん
な事を思い出していた。
「なんだかいつもと雰囲気が違うな」
 声だけでははっきりわからないが、ドナルドのその口調は照れているように
も感じた。
「いつもって……会って二日目なんですけど」
「そうだな」
 有里守はそのまま立ち上がって風を全身に受ける。心地よい空気の流れ、緑
の香り、水の音。まるで世界が一変したかのようにも思える。
 だが、緩やかに吹いていた風が一瞬やむ。
 そして、突風。
「有里守!」
 ドナルドが叫ぶ。
「うん」
 彼女にはわかっていた。その為のマジックアイテムなのだから。
 風が流れていった先には、空飛ぶ蛸がいる。そして今度はもう一匹、別の形
の化け物を確認できた。
 大きさは蛸と同じ全長が1mはありそうなそれは、巨大な虫であった。全体
を硬い殻で覆われたダンゴムシのようなものである。それが空を飛んでいる。
「もう一匹はスピードが遅い。だが、硬い分攻撃されるときついぞ。気をつけ
るんだ」
「何をどう気をつけるのよぉ?!」
 有里守は二つの化け物を必死になって交わす。その心に余裕などなかった。
「あぶだはだぶら!」
 呪文に魔法など込めていられない。有里守の詠唱は失敗に終わった。
「落ち着け」
「どうやって落ち着けっていうの。一つやっつけるのだって大変だったのに、
いっぺんに二つもなんて無理だよぉ。昨日みたいに動きだけでも止めてよぉ」
「落ち着いて対処すれば大丈夫だ。どちらも邪なモノの中でも下等の部類だ。
虫程度の思考能力しかない。それから昨日の件は、ちょうど目視上に邪なモノ
がいたから魔法をぶつけることができただけじゃ。動けない我には、今の状況
で魔法を使うことなどできはせぬ」
 有里守は逃げながら今ドナルドが言った言葉を咀嚼する。
「じゃあ、目の前にいればいいのね」
「そういうことだが……何をする?」
「分担作業しかないでしょ」
 そう言って有里守はその場に立ち留まり、ドナルドを持った右手を迫ってく
るタンゴムシに向ける。
「ドナちゃんはあっちの方をヨロシク」
 そして左手は蛸を指す。
   A B R A H A D A B R A
「<雷石を投じ死に至らしめよ>」
 有里守とドナルドを声はほぼ同時だった。二本の矢がそれぞれの方向に飛ん
でいく。
 閃光が消え、空中に停止しているダンゴムシに向かって今度は有里守の左手
が向いた。
 もう一度呪文を唱える。
   A B R A H A D A B R A
「<雷石を投じ死に至らしめよ>」
 彼女の放つ光が邪なるモノを破壊する。
 閃光の後には、もう何も存在しない。
 気が抜けたように、有里守はぺたんとその場に座り込む。
「大丈夫か?」
 ドナルドの気遣いが彼女にはなんだかうれしかった。普段は厳しく有里守を
叱責するが、それでも彼女を見捨てることはない。
「大丈夫?」
 ふいを突く声。
 それは女の子のものだった。もちろん有里守ではない。
「にゃ?」
 振り返った彼女は仰天する。
 そこには自分と同じくらいの年頃の子が、こちらを不思議そうに眺めていた
のだ。
 急いで頭を隠そうとするが、その途中で動作が止まる。
「そのネコ耳……」
 彼女の目線は、有里守の頭の上だ。
「……ねぇドナちゃん。泣いていい?」
 脇にいるドナルドに彼女はそっと告げる。
「コスプレ?」
 今度は目が合ってしまう。
「……えーん、悲しすぎて涙が出ないよぉ」
 有里守は絶望に打ち拉がれていた。またもや一般人に目撃されてしまったの
だ。
「ぬいぐるみ?」
 女の子の視線が右手で掴んだドナルドへと向かう。それは予期せぬ言葉。
「へ? 見えるの?」
 右手に注がれていた目線が再び彼女に向く。少女と再び視線が交差する。立
ち上がってみると背丈は有里守と同じくらい、顔立ちは整った美少女。ただ、
衣服はちょっと変わっていた。
「それ、ドナルド?」
 少女の問いかけにドナルドは怒声で反応する。
「ドナルドではない、我が輩の名は@☆※£@」
「きゃ! ぬいぐるみが喋った。え? それともあなたの腹話術?」
 有里守は驚いて口をぽかんと開けたままだった。それはそうだ。普通の人に
は確認できないドナルドが見えるばかりか、その声まで聞けるのだから。
「そうね。口を開けたままじゃ、少し無理があるかもね」
 彼女は一人納得しているようだ。
「我が見えるとは素晴らしい。あと一日早く汝と会いたかったものだ」
 ドナルドが喋って驚いたのは始めの一瞬だけであった。怖がることも逃げ出
すこともなく少女はにっこりと微笑みながら有里守の前に立っている。
「ちょっと待って。あなたは驚かないの? こんなぬいぐるみみたいなものが
喋ることが」
「うん、不思議だと思うけど。それほど驚く事じゃないと思うよ。だって、す
ごくファンタスティックじゃない」



「私は能登柊(のとひいらぎ)。広陵大付属中等部の2年生よ」
 前髪はまっすぐに切り揃えられ、肩口まである艶やかな黒髪。背の高さは有
里守とほぼ同じ。フリルの付いた真っ黒なドレスのような洋服を纏っている。
今流行のゴスロリなのだろうか。
「あ、学年一緒なんだ。あたしはね。東野第二中の2年生。瀬ノ内有里守」
 有里守は簡単な自己紹介を済ませた後、公園の隅にあるベンチの所へ行き、
そこに座って今までの経緯を柊に話した。
 無闇に話していいものかと悩んだが、ドナルドが見えたということは、信じ
てくれる可能性もあると思ったのだ。
「ふーん、ということは、有里守ちゃんって地球を守る正義の魔法使いなんだ」
 疑うことなく信じてくれたものだから、彼女は拍子抜けする。それに初対面
だが『有里守ちゃん』とフレンドリーに呼んでくれたことも嬉しかった。
「えへへ、まだ見習いみたいなもんなんだけどね」
 照れて頭を掻くような仕草をしながらふと目線を下に逸らすと視界に白いも
のが映る。それは、柊の左の袖口から見え隠れする包帯だった。
 有里守の目線に気付いたのだろうか、彼女は袖口を少しずらしてこちらへと
その包帯を見せてくる。
「これは、別に大した怪我じゃないの。うん、1ヶ月くらいピアノが弾けなく
なるくらいのもので、今はほとんど完治しているはず。気休めで湿布を付けて
いるだけなんだけどね」
「まだ痛むの」
「うん。というか、治っているはずなのに、未だにピアノを弾くことができな
いんだよね」
「どうして?」
「医者は精神的なものだって言うんだけど。どうなんだろう? 怪我を負った
1ヶ月の間にライバルに先を越されて焦ってしまっているのもあるのかもしれ
ない。でもね、私はどうしてもあの子に勝ちたかったの。それなのに私は前に
進むことすらできないの」
 柊の答えは悔しさが滲み出てくるような悲痛の言葉だった。
「ねぇ、柊ちゃん。柊ちゃんはどうしてピアノを弾き始めたの?」
 有里守は穏やかな口調で柊に問いかける。それはまるで、古くからの友人に
言葉をかけるように。
「うん、小さい頃にね、親戚のお姉ちゃんが弾いてくれたモーツァルトのピア
ノ協奏曲が大好きでね。それをどうしても自分の手で弾いてみたくなって始め
たのがきっかけかな」
 有里守の言葉に包まれて、柊の口調も穏やかになりつつあった。
「あたしね。昔から不思議に思っていたことがあるんだ。どうして芸術に勝ち
負けがあるんだろうって。上手い下手はあっても、それは勝ち負けじゃないで
しょ。なのに、まるでデジタルの世界だよね。0か1かって。音楽を含む芸術
作品ってそんなに単純なのかなぁって、いつも不思議に思うんだよね」
 その単純な疑問に有りっ丈の想いを込めて有里守は語った。
「どうしてだろう? でも、人間は誰かに勝ちたい。誰かより自分は優ってい
るということを誇示したい。そういう生き物なんだよ」
 それは本当に悲しそうな答えだった。柊自身はもう自覚しているのだろう。
「それはプライドに縛られた悲しい人間の習性だよね。でもさ、何かを好きな
気持ちって他人に評価できるものなの? 柊ちゃんが大好きだと思ったピアノ
は、他の誰かの大好きと比べて意味のあるものなの?」
「有里守ちゃんって意外と理屈っぽいんだね。うん、他人からの評価を窺った
り比べたりするのは確かに人間の悪い部分なのかもしれないね」
 彼女は自嘲気味に笑う
「勝ちたい。でも、勝った先に何があるの? 名誉? 地位? お金? でも、
それじゃあ会社勤めのお父さんと同じだよ。収入や地位を得るために勝ち残っ
ていく。そうして、大好きだったあの気持ちをどこかへ捨ててしまうんだ」
 それが子供じみた考えだということはわかっていた。そうしなければ生きて
いけない人間がいることも理解していた。でも、有里守はその考えを受け入れ
ることはできなかった。
「それはしょうがないことなんだよ」
 諦めたような言葉。
「しょうがない……か。でもさ、ピアノを弾けなくなってしまったら、勝ち負
けすらないんだよ」
「そうだけど……」
「だったらさ、しばらくはその事を考えるのはやめたらどうかな? その間に
原点に戻ってみればいいと思うよ。もしかしたら、答えが見つかるかもしれな
い」
「原点?」
「ピアノを弾かなくてはならない理由じゃなくて、ピアノを弾き続けたい理由
だよ」
 彼女には勝つためにピアノ弾くという理由以外に、大好きだからこそピアノ
を弾き続けたい理由があるはずだ。何かに憧れた気持ちがきっかけとなって、
それがどう自分の中で変化して大きくなったのか。それをもう一度確かめれば、
勝ちたいとかそんなつまらない理由に囚われることもないであろう。有里守は
そう願っていた。
 柊はしばらく考え込むと、有里守に向き直り微笑みを返す。
「ふふふ、ありがとう。少しだけ気持ちが軽くなったよ」



■Every day #3


「やっばーぃ、遅刻だ」
 恭子は、人通りの極端に少なくなった通学路を疾走する。
 昨日、夜遅くまで書いていた創作が災いして寝坊してしまったのだ。
 今まで何があっても遅刻だけはしてこなかっただけに、少し焦ってしまって
いる。もちろん朝食は抜きだ。
 ただし、食パンを喰わえながら走るなんてオツなことはできないし、曲がり
角で転校生にぶつかることなどあり得ない。
 なんとか生活指導の先生方の並ぶ校門を通過して、急いで上履きに履き替え
ると教室まで一気にかけあがる。
 扉を開けて挨拶。
「おはよう!」
 その一声が限界だった。体力を使い果たした恭子はそのまま床へぺたんと座
り込む。
「おはよ。おいおい、大丈夫か? ん?」
 美沙が駆け寄って、肩を貸してくれる。彼女はそれに捕まりなんとか自分の
席に座ることができた。
 前の席で既に着席していた成美が振り返る。
「ごきげんよう、恭子さん。あら、今日は新風ですか?」
「え?」
 そう言われてはたと気付く。彼女は朝起きてから、髪を何もいじっていなか
った。三つ編みを止めるゴムさえ忘れてきてしまっている。
「ブラシぐらいならお貸しいたしますわ。そうですね、いつもの三つ編みも正
統派でよろしいですけど、今日のナチュラルな髪型も魅力的ですわね」
「あわわわ。成美ちゃん貸して貸して」
 手渡されたブラシで恭子は急いで髪を梳く。
「ついでにカチューシャもお貸しいたしましょうか?」



「おい、そこのネコ耳。38ページから読んでくれ」
 嵌められたと思ったときにはもう手遅れだった。いや、多分成美は嵌めるつ
もりはなかったのだろう。純粋に「かわいいのではないか」というつもりで渡
したのかも知れない。
 成美がそのカチューシャを恭子の頭に装着した時、ちょうど1時間目の英語
教師が入ってきた。彼女は自分の頭にある物体がどんな形状をしているのか確
認する暇はなかったのだ。さらに、事実が発覚するのが遅れたのは、恭子の席
がちょうど一番後にあったからだろう。
 教室に入ってきた英語教師は恭子をちらりと見て、ニヤリと笑った気がした。
だが、それはいつもの三つ編みの髪型でない彼女を見て新鮮に感じたのだろう
と思っていた。
 でも、それは見事に裏切られる。
 教師が発したその「ネコ耳」という言葉がクラス全員の好奇心を刺激した。
 そして視線の集中。それは、恭子の頭上へと注がれる。
 一瞬の静寂の後、大爆笑。
 クラスメイトからは「かわいい」とか「萌え〜」や「笑いすぎてお腹痛いよ」
などとお笑い芸人を賛美するような言葉が聞こえてくる。
 一瞬、何が原因で笑われているかがわからなかった。だが、すぐにその理由
に気付く。あわてて外したカチューシャにはかわいらしいぬいぐるみのような
ネコの耳がついていた。
「ねぇ、成美ちゃん」
「はい。なんですか」
 天使のような笑顔の成美がこちらを向く。その笑顔には一点の曇もない。
「泣いていい? ていうか、なんでこんなもん持ってるの?」



■Everyday magic #4


「有里守! 右だ!」
 ドナルドが叫び、有里守がすぐさま反応する。
   A B R A H A D A B R A
「<雷石を投じ死に至らしめよ>」
 大気がはじけ飛ぶように巨大な閃光が走る。
 そして空間は沈黙した。
「よくやったぞ有里守。うまくコツを掴んできておるようだな」
 あれから何度か戦闘を経験した彼女は、今日は一度に6体もの邪なるモノを
相手にすることになった。
 的確に敵を捕らえ殲滅する姿は、少し前の有里守からは想像もできないほど
に成長している。もうネコ耳ですら恥ずかしがることはなかった。
「なんかもう慣れたって感じ。ふふふ、今日は狩って狩って狩りまくりましょ
う」
 「けけけ」とでも笑い出しそうなハイな状態になった有里守の頭を冷ました
のは、この間街で見かけた若い小太りの男性だった。
「そんなぁ、出現率高すぎ。ゲームバランスに支障をきたすんじゃない」
「なんの話をしておる」
「とにかく『逃げる』ボタン連打!!!」
 男に声かけられる前に、有里守はくるりと向きと変えて駆け出した。



 走り回って疲れたこともあり、小腹の減った有里守はバーガーショップへと
入る。
 手持ちのお金も少なかったこともあり、「ご一緒にポテトはいかがですか」
の攻撃をかわして、シンプルなハンバーガーを一つだけ注文する。今どきバリ
ューセットも利用しない客など希少価値であろう。しかも、それをお持ち帰り
ではなく、店内で食べるという強行に出た。
 トレイを持って、席を探している有里守はそこに知った顔を見つける。
「柊ちゃん」
「あら、有里守ちゃん」
 有里守の声に気付いた柊が顔を上げる。
 彼女は黒い衣装を身に纏っている。この前とは違って、少し上品でおとなし
めであるが、まるで中世ヨーロッパ貴族の娘がタイムスリップでもして現代に
やってきたかのようだった。
「柊ちゃんっていつも綺麗だよね。服もすごく似合ってるし、それって特注の
洋服なの?」
 あまりにも貴族的な格好に有里守は思わずたじろいでしまう。
「ううん。普通に売ってる服だよ。【Victorian maiden】ってブランドなんだ
けど」
「あたしもそういう服に憧れるんだけど、でも似合わないかな」
「そんなことないよ。でもどっちかというと有里守ちゃんは姫ロリより甘ロリ
よね。メイデンよりベイビーの方が似合うかな」
「べいびー?」
「【BABY,THE STARS SHINE BRIGHT 】そっちの方が有里守ちゃん好みのかわい
らしい服があると思うよ」
 小一時間ほど店内で談笑した後、「暇だったら付き合って」という柊の言葉
に従い彼女が通う教会へと行くこととなった。



「へぇー、これが教会の中なんだ。初めて見た」
 正面にはステンドガラスがあり、そこから光が差し込んで室内を明るくして
いる。祭壇の奥には磔にされたキリストの像があり、左手にはマリア像、そし
て右手には聖人であるヨハネの像、手前には礼拝の為の椅子が並んでいた。
「誰もいないの? 勝手に入って怒られない?」
 がらんとした室内を見渡し有里守は柊に問いかける。
「左手前に懺悔室があるでしょ。いつもならあそこに神父さんがいるわ。それ
によっぽどの事がない限り白昼堂々と教会に盗みになんか入らないから、誰も
が気軽に入れるような作りになっているのよ」
「ふーん、そうなんだ」
「ちょっと待ってて、お祈りしてくるから。そこに座って待ってるといいわ」
 柊が祭壇の前まで進み、両手を胸の前で組んで祈りを捧げる。その姿はまる
で絵画のようでもあった。ステンドグラスやキリスト像や祭壇と一体化し、生
ける芸術品であるかの錯覚を感じる。有里守はそれに魅入られるようにじっと
息を呑んだ。
 数分だったろうか、それとも数十分たったのだろうか。時間の感覚を無くし
かけたその空間は、柊がこちらへ戻ってきたことでゆっくりと時を取り戻し始
める。
「お待たせ。行こう」
 外へ出ると、少し曇りがちな空模様だった。
 隣を歩く柊の横顔を見て、教会の中での神秘的な空間が有里守の頭に蘇る。
「柊ちゃんて、クリスチャンなの?」
 それは聞くまでもないだろうと思っていた。会話の取っ掛かりを得る為に有
里守はあえて質問をした。
 だが、即座にそれは否定される。
「違うよ」
「え? だってお祈りして……」
 予想外の答えに有里守は戸惑う。だったら彼女は何をしていたのだろう。
「あそこに行くと、神様の声が聞こえるの。私は別にイエスキリストを崇拝し
ているわけではない。あの空間が神様の声を聞くのにちょうど良い条件を満た
しているのかもしれないだけ」
「神様の声?」
「そう。自分はどう生きるべきか、それを教えてくれる。私が黒い服を好んで
着るのも、その声に従ったから」
 すごい。有里守は素直にそう思った。そうなのだ。ドナルドの姿と声が分か
るのだから、彼女にも人を超えた能力を持っているのは当然だった。しかも、
神の声まで聞けると言う。
 特定の宗教に拘ることなく、彼女は神の声に従う。
 果たして彼女の瞳にはこの世界はどのように映るのだろう。



■Every day #4


 迂闊だった。
 創作に集中すると周りが見えなくなるのは恭子自身も自覚していた。
「滝川!」
 そう呼ばれて恭子はびくりとする。しかも声は間近であった。
 数学の時間。
 眠気覚ましにと創作ノートに手をつけたのが間違いだった。教師の接近に気
付くことなく、創作に集中してしまっていたのだ。
「あ」
 抵抗する間もなく教師にノートを取り上げられる。
「何を内職しておるのだ。これは没収だ。担任の手津日(てづか)先生に渡し
ておく。返して欲しければ後で説教を受けにいくのだな」
 そう言って教師は教壇へと戻り、授業を続けた。
 なんてついていない日なのだと、そう悔やみながら恭子は頭を抱える。
「まいったなぁ」



 放課後、恭子は覚悟を決めて職員室へと向かう。
 授業中、創作ノートを書いているところを見つかったのは今回が初めてなの
でさすがにショックが大きい。
「失礼します」
 職員室のドアを開けると、すぐに目的の教師と目が合う。待ちかねていたよ
うだ。
 気が滅入りながら担任の手津日教諭の前まで歩いていき、開口一番で「申し
訳ありませんでした」と謝った。
「うむ。悪いことをやったのだと理解できているのなら言うことはない」
「はい。今後、このような事がないよう気をつけます」
 彼女は深々と頭を下げる。
「このノートだが」
 手津日教諭はノートを手にして、それをまだ恭子に渡そうとはしない。
「……」
 返してくれないのだろうか、そう思い彼女は悲しくなった。
「そう泣きそうな顔をするな。ちゃんと返してやるよ。ただな」
 教師の顔が険しくなる。
「申し訳ありません。申し訳ありません。本当にもうやりませんから」
 恭子は取り乱したかのように何度も頭を下げる。あのノートだけは取り上げ
られるわけにはいかないのだ。
「勘違いするな。返してやると言っただろ。実は、中身を読ませてもらった」
「え?」
 鼓動が早まる。たしかに他人に読ませる事を意識して書いたものだ。だが、
それが担任の教師では否が応でも緊張は高まる。
「表現の重複する箇所や、視点の揺れが目立つ。未熟な部分も多い。だが、よ
く練られた物語じゃないか。先生は面白いと思ったぞ」
「え?」
 それは褒められたのであろうか。
「素直で純粋な物語だ。たぶん、今の滝川にしか書けないだろう」
「あ、はい。ありがとうございます」
「滝川は物語を書き続けたいか?」
 その質問の意図はよくわからなかったが、とりあえず彼女は正直な気持ちを
吐き出す。
「え? あ、はい。なんかそれがあたしにとっては自然みたいですから」
「だったら授業は真面目に受けることだな」
 手津日教諭は手に持ったノートで恭子の頭を軽く叩く。
「はい……」
 それほど痛くはなかった。
「これは説教じゃないぞ。もし滝川が物語を創り続けたいのなら、できる限り
の知識を吸収した方がいい。今のおまえでは、純粋だが狭い世界しか構築でき
ない。だが、知識を吸収することでその世界は広がるのだ。無論知識だけでは
どうしようもないことは確かだ。だが、義務教育を受けているおまえにとって
それは基本的な知識。基本という骨格がスカスカでは、どんなに膨らんだイメ
ージも一瞬で崩壊してしまうぞ」



 職員室から教室へと戻る間、彼女は自分の周りの人たちについて考えていた。
 滝川恭子の大親友の鈴木美沙と祁納成美。彼女たちは深く自分を理解してく
れようとしている。恭子の純粋さを守るように彼女たちはいつもそこに居てく
れる。
 そして、担任の手津日教諭。多少甘い部分もあるが、時には厳しくもあり、
そして恭子の強さを引き出してくれる。
 世界はこんなにも優しい。こんなにも恵まれた世界で、自分は何を紡ぎ出せ
ばいいのだろう。
 もちろん、優しさだけでないことも知っている。でも、自分が追究すべき、
そして紡ぎ出すべき欠片はこんなにも身近に存在しているのだ。
 教室の扉を開けると見慣れた二つの笑みがこちらに向く。
「待っててくれたの?」
 当たり前でしょ、と言いたげな二つの視線が言葉を紡ぐ。
「帰ろっか」
「帰りましょう」
「うん」
 昇降口までのとりとめのない会話。でも、その一つ一つが恭子にとっては宝
石のように輝いている。
 靴に履き替えて外に出ると、日が落ちるにはまだ早い時間。
「寄り道してこっか?」
「この間行った、あのカフェに行きましょ。わたくし、あそこの雰囲気、とて
も気に入っておりますの」
「うん。それにあそこのケーキおいしかったもんね」
 美沙が出した提案に二人は喜んでそれに乗った。
 こんなにも日常は心地良く流れている。
 神様という概念はよくわからない。でも、恭子はこの世界に感謝したかった。
 駅までの道のりもまた、たわいもない会話は続く。
「そういえばノート返してもらったの?」
 美沙の問いかけに、恭子は照れたように「うん」と答える。
「どうかなさったのですか?」
 彼女の表情を見逃さなかった成美が不思議そうに問いかけた。
「手津日先生にね、中身読まれちゃった。でね、ちょっとだけ褒められたの」
「説教はされなかったの?」
「うん、注意はされたけど、さほど。でも釘を刺されたことは確かかも。あた
しはもう授業中に内職しようなんて考えないようにする」
 真っ直ぐ前を見つめる。そこに迷いがない強い意志を込める。
「読んでいただいたことが、相当嬉しかったのですね」
「ふーん。で、恭子って今、どんな小説書いてるの」
「……普通のだよ」
 恭子は一瞬だけ考えて、シンプルにそう答えた。
 それに対して成美が補足を加える。
「普通であり純粋でもありますわね。魔法も出てこない、戦いがあるわけでも
ない。そこに奇跡も世界の危機もあるわけでもない。だけど、誰もが温かい気
持ちになれるようなごく普通のお話。わたくしはその物語が大好きですわ」






#247/598 ●長編    *** コメント #246 ***
★タイトル (lig     )  04/10/11  15:53  (486)
この優しくも残酷な世界 [3/3] らいと・ひる
★内容

■True magic


「キモいよな」
 頭の上を硬いローファーが踏みつける。彼女の口の中に砂利が侵入してきた。
鉄のような味もする。
「こいつ、昨日も訳の分からないこと喚き散らしていたんだぜ」
 必死で痛みを耐える。
「わたしも目撃した。なんか変な格好してたもん」
(聞こえない)
「こいつ頭おかしいし」
(聞こえない。聞こえない)
「そりゃキ○○イだもん」
(聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない)
「刃物とか持ってないよね、こいつ」
(聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえな
い。聞こえない。聞こえない)
「化け猫!」
(聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえな
い。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえ
ない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こ
えない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞
こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。
聞こえない。聞こえない。聞こえない)

 周りの言葉は、もう彼女の耳には届かない。



「ただいま」
 玄関の鍵を開けて、誰もいない空間に言葉を投げかける。もちろん返ってく
る言葉はない。
 廊下の先にある自分の部屋へ真っ直ぐに向かう。
 そして扉を開けて、今度は期待を込めて再び言葉を紡ぐ。
「ただいま」
「おかえり、有里守。ん? どうしたんや、ぼろぼろだぞ。まるで雑巾のよう
だ」
 雑巾なんて酷いなぁとの言葉を飲み込み、そのまま椅子に座ってドナルドに
向かい合う。
「ちょっとね」
 疲れ切った口調で有里守は答えた。
「虐めか?」
「うん。いつもの事だから、平気だよ」
 「いつもの事」という部分に諦めにも似た感情が込められている。
「平気じゃないだろ。いつものような汝のパワーを感じないぞ」
「……ねぇ、邪悪なものをやっつけるのにあとどれくらい時間かかるのかな?」
「それはわからない。向こう次第だな」
「……もう辞めたいよ。魔法使いなんて」
 その言葉の最後は涙で途切れる。
「弱気な事を言うな。孤独な戦いというのは汝にはちときついかもしれぬ。だ
が、汝がやらなくて誰がやる?」
 相変わらずドナルドは厳しい言葉を投げかける。
「……」
 だが、それに対抗するような気力は彼女には残っていない。
「汝はこの世界が嫌いか? 汝を虐げる者がいるこの世界に憎しみを抱いてお
るか?」
「……」
 そういえば、どうして自分はこの世界を憎んでいないのだろう。有里守は自
分自身に疑問を感じる。
「違うじゃろ。汝からはこの世界から去ろうという意志も、破壊したいという
衝動も感じられぬ」
「……」
 憎しみがなければ、破壊衝動は沸き上がらない。それは当たり前のことでは
ないのか?
「汝はまだこの世界を愛しておるのだろう? どれだけ周りの人間に虐げられ
てきても、汝はまだ人間という存在に希望を持っておるのだろう? 憧れてお
るのだろう?」
「……」
(憧れ?)
 思い当たることは彼女にはあった。心の奥底に沈んでいる一欠片の光。
「ならばこれは試練じゃ。虐めなど、ものともせぬ強い力を持て。強靱な精神
を鍛えよ」
 叱咤激励。自身には強力な魔力はないというけれど、ドナルドはいつもそれ
以上の力を有里守に与えてくれる。生きる気力を与えてくれる。
「……ドナルドはいつでも厳しいよね。きついことをいつも平気で言い放って
……それでもあたしを見捨てたりしないもんね」
 それはまるで親友のように。
「わかったよ。もう少しがんばってみる」
 有里守は精一杯の笑顔をドナルドに向ける。



 索敵しながら街を歩く。学校での事は考えないようにしよう。有里守は気持
ちをそう切り替えた。
 繁華街での見回りを終えて、自宅のマンションがある場所まで戻ってくる。
そして今度は住宅地を回ろうと考えた。
 高台の住宅地へと上がる長い坂道を歩いている時、彼女は見知った顔に出逢
う。
「あ、柊ちゃんだ」
 柊はまだ有里守たちに気が付いていなかった。声をかけようと手をあげた彼
女の動作が凍り付く。
 柊の真横から空を飛ぶ不気味な物体が迫っていた。
「邪なるモノ!」
 ドナルドがそう認識し、有里守は彼女へ危険を告げる。
「柊ちゃん! 危ない、避けて!!!」
「へ?」
 突然、大声をかけられたことに驚いて、彼女はバランスを崩し倒れてしまう。
だが、それが幸いして邪なるモノの直撃をなんとか避けた。
 有里守の目はまだ敵を捉えたままなので、すぐに攻撃の態勢に入る。
 捉えた先に左手を重ねた。
   A B R A H A D A B R A
「<雷石を投じ死に至らしめよ>」
 ここ数日の戦いで、有里守の能力は格段の進歩を遂げている。破壊力、そし
て速さもだ。
 50m近く離れていた敵に、一瞬で光の槍は到達する。
 そして閃光。
 仕留めたことを確認して、すぐに彼女のもとへと走り出した。負傷していな
ければいいと有里守は心の中で祈る。
「柊ちゃん」
 近づくと、柊の右足膝の部分から出血があった。転んだ際に擦りむいたらし
い。
「有里守ちゃん?」
 ようやく彼女は有里守の存在に気付く。
「大丈夫? わぁ、痛そうだね」
 彼女が大けがを負っていなかった事で、とりあえず有里守はほっとする。
「うん、ちょっとドジったわ」
「あ、そうだ。あたしんち、このすぐ近くなの。消毒しといた方がいいでしょ。
応急手当ぐらいならできるから」



 彼女を自分の部屋に連れて行き、椅子に座らせると有里守は救急箱を取りに
台所へ行った。
 いつも使っているその箱を開けると、消毒薬が切れていた事に気付く。そう
言えば、今日使い切ってしまった事を忘れていた。
 有里守は、部屋に声をかけると近くの薬局へと買い出しに向かう。ドナルド
がいるのだから、退屈はしないだろう。そう考えたのだ。
 家に戻って救急箱と新しい消毒薬を持って自分の部屋に向かおうとして、彼
女は大事な事に気付く。そういえば、机の上には他人に見られては恥ずかしい
ものが置いてあったのだ。
 今更遅いと思いながらも有里守は早足で部屋へと向かう。
「柊ちゃんお待たせ……」
 扉を開けて自分が危惧していたことが現実となってしまったことを嘆いた。
「おかえり有里守ちゃん」
 彼女は一冊のノートを手にしていた。
「あ……」
 遅かった。有里守は思わず机の上を睨む。ドナルドは無言だった。黙秘権を
行使する気だろうか。
「暇だから読ませてもらったわ」
「あわわわ……」
 と対応できない有里守。
「興味深い内容ね。でも、登場人物の名前がベタすぎない? たきがわ、すず
き、けのう、てづか。最初の文字を繋げて『た・す・け・て』か……ふーん、
で、有里守ちゃんは誰に助けてもらいたいの?」
「……」
 血液が凍るような感覚。頭から血の気が退いていく。
「内容も考えてみればすごいよね。これは有里守ちゃんの理想の世界なのかな?
もしかして現実では誰もに忌み嫌われ、誰からも愛されない。だから、愛され
る理想の自分を夢見ている」
 否定できるわけがない。彼女は完全に読み解いてしまったのだから。だが、
それは安息に付く死者の眠りを妨げる墓荒らしのようでもあった。
「返して!」
 有里守は咄嗟にそのノートを奪い取る。これだけは誰にも汚されたくない。
 どんなに罵られたっていい。
 どんなに痛めつけられてもいい。
 これだけは……これだけは誰にも触れて欲しくない。有里守の心は悲鳴を上
げていた。
 彼女が小説を書き始めたのはこの街の学校へ転校してきてからだ。妄想癖の
あった彼女は、現実ではなかなかできない友達をノートの中に創り上げたのだ
った。それは創作という形の中で一つの世界を構築しつつあった。
 綺麗で純粋で優しくていつもそばに居てくれる有里守だけの友達。
 恭子はもう一人の有里守。
 美沙も成美も手津日先生も、有里守を愛してくれる世界の一部。
 最近はドナルドのおかげで書くペースが遅くなっていたが、それでももう一
つの世界の日常はゆったりと流れていた。
 だからこそ、これは他人が触れてはならないもの。
 それなのに。
 柊に心を許したおかげで、隙ができてしまったのだ。
 現実に再び希望を持ってしまったのだ。
 その僅かな隙が命取りとなった。
 またしても、この世界に亀裂が入る。。
 二人の間を重苦しい空気が張りつめた。
 ばつが悪いと感じたのか、柊はしばらくの間、黙している。
 苦痛だけの時間が過ぎていく。
 後悔しか感じられない。
「そういえばさ」
 沈黙に耐えられなくなったのか、柊が口を開く。
 そして、つまらなそうに机の上のドナルドを小突きながら彼女は言葉を続け
た。
「ドナルドって赤さ加減がだいぶグロくなってきたよね」
 意味不明。
 赤?
 有里守の思考はその言葉の意味を求めようと宙を彷徨う。だが、結局は空回
りなまま。なぜなら、彼女には黄色以外に何も認識できないからだ。
「赤い部分なんてないよ」
「なんで? 赤い部分があるからドナルドなんじゃないの?」
 有里守は記憶の引き出しを探りながら、テーマパークで見たドナルドダッグ
を思い出す。たしかに、オリジナルは蝶ネクタイの部分が赤い色だったかもし
れない。
「柊ちゃんにはドナルドの蝶ネクタイの部分が赤く見えるの?」
「蝶ネクタイ? そんなもの最初からしてないじゃない。どういうこと? 有
里守ちゃんには赤い色は見えてないの? もしかして黄一色なわけ? 赤だけ
じゃなくて白い部分も見えないの?」
「そうだよ」
「だって、一色だけだったらドナルドってわからないよ。だってそれじゃただ
のピエロじゃん」
 悪寒が走る。崩壊が始まってしまったのか。それとも有里守は最初から気付
かなかっただけなのか。
「……」
「髪の毛と口の周り、あと両腕が縞々で血だらけ。服が黄色いからドナルドと
思ったんだけど、あ、胸の辺りに血文字でアルファベットが浮かび上がってい
るからこれが決定打かな。『M』ってさ」
 有里守が見ているのは全身黄色のアヒル。水兵帽を被ってセーラー服を着た
愛らしい姿。それ以外のものに見えるわけがない。
「……」
「ま、ドナルドの正確な名前は『ロナルド』らしいけどな」
 考えるまでもなく答えは出てしまった。
 柊の見ているものはディズニーの『ドナルドダッグ』ではなく、ハンバーガ
ーショップであるマクドナルドのキャラクター『ドナルド』なのであろう。
 有里守は混乱する。
(どうして見ているものが違うの? まさか……)
 彼女の推測は最悪のシナリオを意味していた。
「ねぇ、ドナちゃん、ちょっと聞きたいのだけど」
 沈黙。
 そういえば、この部屋に入ってきてからドナルドは一言も発していない。
「ねぇ?」
 その質問は、正面からの声によって消されてしまう。
「どういうことドナルド? 今なんて言ったの?」
「え?」
 柊の言葉に戦慄を覚える。
 誰が何を言った? ドナルドは未だに沈黙したままである。
「わたしを侮辱するつもり?」
 勝手に話を進めている柊。
「ちょ、ちょっと柊ちゃん?」
 有里守の言葉は届かない。彼女は机の上に置かれているドナルドを凝視して
いる。
「そりゃ、普通の人とは違った格好してるけど、でもそれを貶されるのはいく
ら私でも許さないわよ」
「ちょっと柊ちゃん。ドナちゃんは何も喋ってないわよ」
 ドナルドを机の上から持ち上げ、彼女から遠ざけるように有里守は胸元に抱
える。
「いくら有里守ちゃんでも、庇い立てすると許さないわよ」
 表情がおかしい。目が血走ったように、冷徹な殺意が込められていた。
「だから、何も喋ってない。そうだよね?」
 胸元のドナルドを確認する有里守。否定はしない。だが、肯定もしなかった。
「まだ言うの! 許さないって言ったでしょ」
 有里守はじりじりと壁際に追いつめられる。
 本能が危険信号を発していた。ここに居てはキケンだ。今すぐこの場から逃
げなければコロサレテシマウ。
「有里守逃げるんだ!」
 その時、急にドナルドが声を発したような気がした。
 彼女はとっさに柊に対してタックルを喰らわすと、そのまま部屋から飛び出
て、外へと逃げ出した。
 そして、追われる。
 柊は有里守を獲物のように追いかける。追いつめる。
 有里守は混乱して手足が思うように動かない。しまったと思った時には、足
がもつれて転んでしまう。
 立ち上がろうとして振り返ると、すでに柊は追いついていた。
「逃げても無駄よ。もう許さないんだから」
 彼女の手にはいつの間にかナイフが握られている。
「ねぇ。お願い、あたしの話を聞いて」
 その願いは聞き入れられなかった。突き出されたナイフが寸の間で、有里守
の左肩をかすめていく。回避行動をとっていなかったら、今頃胸を刺されてい
たかもしれない。
 彼女はそのまま転がり、その勢いで立ち上がる。
 切り裂かれた衣服から血が滲み出す。
 柊の持っているナイフにはうっすらと血糊がついていた。
「どうして? どうしてこんなことになるの?」
 有里守は必死にドナルドに問いかける。すべてはドナルドが知っているはず
なのだから。
「理解不能」
 感情のこもらない声でドナルドは答える。
「どうして? 柊ちゃん、もしかしたら邪なモノに操られているんじゃないの?
その可能性が一番高いんじゃないの?」
 それが一番自然な答えだった。それならば有里守にも納得ができた。だが、
ドナルドは肯定してくれない。
「理解不能」
 まるで機械のような返答だ。
「ぐちゃぐちゃ喋ってるんじゃないよ。おとなしく死ぬんだな」
 目の前の柊はもう話が通用するような状態ではなかった。
 圧倒されながらも目線を逸らすことはできなかった。逸らしたが最後、野獣
のように襲われ殺されてしまう。
「あ」
 だが、その緊張感は一瞬で崩れた。
 足がもつれた有里守はそのまま尻餅をついてしまう。
 最悪の状況だった。
 無論、それを見逃す柊でもない。
 彼女の口元が右側だけニヤリとつり上がる。
 突き出されるナイフ。
 刹那。
 右手で握っていたドナルドが急に動き出し、そのままナイフへと突進してい
く。
「!」
 突き刺さるナイフ。
 その瞬間、そこから生み出された光の球がみるみる膨張して有里守と柊を包
み込む。
 視界が光に飲み込まれ、そしてホワイトアウト。



「契約受理」
 そんな言葉がどこからともなく聞こえた。
 光の粒で真っ白な世界はだんだんと薄れていき現実の世界が再び戻る。
 有里守は右手を前に掲げている。
 柊はナイフを突き出していた。
 そして、そのナイフの先にあるものは、有里守が持った一冊の本であった。
ちょうどその本にナイフは突き刺さっているのだ。それは、ハードカバーの古
くさい書物である。製本技術が発達する前に創られたのではないかと思われる、
地金で綴じた頑丈で重々しい本だった。
「瀬ノ内有里守」
 人間とは思えない機械を通したような歪んだ声が響いてくる。
「え?」
 有里守は声の主を確かめようと、後ろを向く。
 そこには異形の人型が立っていた。黒い翼を持ち、猛禽類のような嘴がある
顔立ち。目が非常に鋭く、見つめているだけで気分が悪くなってしまう。
「ひぃー!」
 有里守と対峙していた柊が、悲鳴とともに口から泡を吹いて倒れてしまう。
「汝は契約者なり。汝の思うままの願いを申すがよい」
 鋭い眼光はそのまま有里守を捉える。
「願い?」
「汝は我と血の契約をした。正統なる契約者だ。どんな望みも叶えよう。それ
が世界を破滅させようと」
 書物に刺さったナイフ。それには有里守の血が付いていた。それが何を示す
のかは、今の言葉で理解ができた。だが、彼女にとってはそんなことはどうで
もいい。
「ちょっと待って、ねぇドナルドはどうなったの?」
「ドナルド? ああ、汝の創り出した妄想か。あの書物は契約者を捜すために、
幻想の魔法を発動する場合もある。その魔法に惑わされたということだな」
「じゃあ、ドナルドは……」
「最初から存在などしない」
 それはうっすらと予感していた。
 柊と見ているものが違うと気付いたとき、最悪のシナリオが頭を過ぎってい
た。
 有里守は悔やんでいる。創作の世界だけでなく、自分は現実の世界にまで幻
想を創り上げてしまったのだ。
 ドナルドの存在は自身を勇気づけ慰める為に創りだされたもう一人の自分。
 思えば、なぜあのネコ耳のカチューシャに拘ったのかも理解できる。あれは、
両親と最後に遊びに行ったテーマパークで唯一買ってもらったものだ。当時は
お気に入りで、普段でもつけていた時もあった。周りからバカにされて、付け
るのが恥ずかしくなってしまったのだ。
 だが、なんのことはない、有里守はあれを堂々と付ける口実が欲しかったの
だ。マジックアイテムだと思い込んで、羞恥心を打ち破りたかったのだ。
(バカだよ……情けないよ……)
 せっかく出来たドナルドという友達は、自分の心の創りだした幻。仲良くな
った柊も所詮、幻想の中での危うい関係。
 壊れることは必至だった。
 壊れてしまわないように必死だった。
 有里守はまたもや、この世界で一人ぼっちになってしまう。
(でも……)
 有里守は自分自身に問う。
 自分はこんなにも過酷な世界から逃げ出したいのか?
 自分はこんなにも残酷な世界を壊してしまいたいのか?
(あたしはそれでも憧れてしまう)
 現実世界でいくら裏切られても。
 現実世界でいくら孤立しても。
 『優しさ』というファンタジーに憧れてしまう。
 それは、破壊や破滅が心の隙間を埋められないと理解しているから。
「ねぇ。えーと、悪魔さんでいいのかな」
 有里守は怖々と声をかける。初対面で相手の名前を知らないのと、自分が置
かれている状況から目の前に存在するものを『悪魔』と判断したのだ。
「なんとでも呼ぶがいい。『愛すべからざる光』と呼称される場合もあるがな」
 それはギリシャ語で『メフィストフェレス』と言う。有里守の呼称はあなが
ち間違いでもなかった。
「どんな願いも叶うのかな」
「我にできることなら」
「んーとね。じゃあ」
 有里守は照れながら悪魔に向き合う。
「願いを」
「あたしと友達になって」
 その言葉に悪魔の鋭い眼光が一瞬だけ和らいだような気がした。
 だが、変化はその一瞬だけであった。
「それはできぬ」
 歪んだ声には感情は読み取れない。
「え?」
「我には人間と同じ感情はない。我の力で偽りの感情を作り出すことは可能だ。
しかしながら、それは人間のみに有効である。そして我は我に力を使うことは
叶わぬ」
「だって、なんでも叶えてくれるって」
 有里守は人間ばかりか、悪魔にまで見捨てられた。彼女の頬を一筋の涙が伝
う。
「願いにも例外はある。例えば我を殺せという願いも聞き入れることはできぬ。
理屈は同じだ」
「だったら、どうすれば……」
「人間にその偽りの感情を植え付けることは可能だ。例えばそこに転がってお
る人間に『友達』という感情を持たせることもできる」
 悪魔は気絶している柊に視線を移し、そう答えた。
 有里守はしばらく彼女の顔を眺めると、悪魔に向き直りしっかりとした口調
でこう答えた。
「ううん。そんな偽りの友達はいらない。そんなことじゃたぶん、あたしの心
の隙間は埋まらないよ。優しさには憧れるけど、でもね、もう幻はこりごりな
の」
「ならば、願いが思いついた時、再び我を呼ぶがいい。我はいつでも汝の元に
現れよう」
 そう言って悪魔の身体は細かく、まるで分子レベルまで分解したかと思うと
霧散してしまう。
 有里守は一人取り残された。
 彼女は思う。
 この世界はこんなにも残酷で、絶望の意味さえ実感させてくれる。
 そろそろ頃合いなのだろうか、この世界を見捨ててしまう事の。
 でも、いつも躊躇いが生まれてしまう。
 この世界を拒絶することができたのなら、どんなに楽なのだろうか。

 絶望し、そして世界を捨てることを躊躇ってしまう。その繰り返しに、有里
守は疲れ切っていた。
 何もできないのなら、眠りにつきたい。夢の中なら、幻想は許される。いく
らでも理想を構築できるのだ。
 眠りにつけばいい。それが一生目覚めることがなくても……。

――起きなさい。そして、歩きなさい。

 幻聴が聞こえる。これは、自分の心が創りだした幻なのか。
 昔、似たような言葉をどこかで読んだ記憶がある。たぶん、それを元に紡ぎ
出された言葉なのであろう。

 有里守は想う。

 どれだけ裏切られても、
 どれだけ痛めつけられても、
 あきらめることができないのは、自分の中に残る『憧れ』なのかもしれない。
 一度知ってしまったぬくもりだから、もう一度それを手に入れたいと願うか
ら。

 そんなこと知らなければ良かった。そうすればこの世界に未練なんか持つこ
とはなかった。いつもそうやって悔やんでいた。

 でも、本当は知らないよりはましなのかもしれない。
 こんなにも心を純粋にして憧れてしまえるほどにそれは尊いものなのだから。
 一度知って、そして掛け替えのないものだと気付いてしまったのだから。
 
 それだけは胸を張って幸せだったと思える。



 だから、

 この残酷な世界にもう一度あたしの憧れを芽吹かせよう。

 この優しい世界を取り戻そう。


 それが今のあたしの願いです。



■The true world


 原稿用紙から顔を上げて成美が恭子を見つめる。その瞳には穏やかな優しさ
が込められているようだ。
「作風、お変わりになりましたね」
「うん」
 ティーカップを両手で抱きかかえるようにして、恭子は口元へそれを持って
行く。
「わたくしはこういう物語も嫌いではありませんわ。それで、どういった心境
の変化がありましたの?」
 成美は原稿用紙を揃えてテーブルの脇に置くと、同じくティーカップに手を
つける。
 原稿を読み終わった時点で、成美の隣に座る美沙が新しく入れ直してくれた
のだ。だから、カップの中は熱いままである。
「今まではね。綺麗なもの純粋なものをより綺麗に、純粋に書きたいって衝動
の方が大きかったの。自分が憧れたものが憧れたままの姿で存在する世界を創
りたかったの。でもね、それだけじゃ伝わらないこともあるって気が付いたか
ら」
「私もさ、それ読んだ時は驚いたよ。下手すれば今までの作品、否定するよう
な内容だったし」
 美沙が自分のティーカップに紅茶を注ぐ。
「やっぱりね、伝える意志ってのを明確に盛り込まないと、作品が死んでしま
うの。例えばさ、どんなに綺麗な壁紙の模様も、一人の画家が魂を込めて描い
た絵画には叶わないのと同じ。綺麗だ、正確だそんなものはいくらでも量産で
きるし、メッセージが読み取れなければ人はただ通り過ぎていくだけだもん」
「恭子はますます考える人になりつつあるねぇ」
「それで、恭子さんはどうしてこの物語を思いついたのですか?」
「そりゃ、やっぱり、あたしたちと手津日先生の最初の文字を繋げていくと
『た・す・け・て』ってなる事かなぁ。ミステリのアナグラムを考えていて、
全く別の方向に行っちゃったけど」
「なんだそりゃ」
「偶然かもしれないけどさ、そこに意図はなくても、意味を置くことはできる
でしょ。占いみたいに全然意味を持たない事柄に無理やり意味を当てはめて、
それを糧にするってのもオツなものかなぁって。だってさ、あたしはみんなに
こんなにも助けてもらっているし、それはけして忘れてはいけないことでしょ。
だから、その大切さをメッセージに込めたの」
「そうですか。恭子さんらしくてよろしいですわ。ところで、この物語はまだ
続くんですの?」
「当たり前でしょ。この子の物語は始まったばかりだもの。絶望はけして終わ
りじゃない。あの子はそれを乗り越えて世界と向き合うはずよ。だって、この
優しくも残酷な世界は、あたしの全てが詰まっているの。その世界をそう簡単
に嫌われてなるものですか」
 恭子は自分の構築したもう一つの世界にいる少女に想いを馳せる。

 負けるな、有里守。
 負けるな、もう一人のあたし。



                              (了)




#248/598 ●長編    *** コメント #247 ***
★タイトル (lig     )  04/10/11  15:55  ( 32)
この優しくも残酷な世界 [後書きとアンケート] らいと・ひる
★内容
 最後まで読んでいただき誠にありがとうございます。
 最後まで読まずに、先にこれを読んでしまった方、なにとぞ最初からお読み
下さい。
 まあ、いきなりこれを読んでしまっても大丈夫な為のあとがきなんで、あと
がきとしてはほとんど意味をなしてません。
 意味があるのは下記にあるアンケート及び、単なる蓋としての役割かな。あ
まり深く考えないで下記の項目にお答えいただけると幸いです。

※アンケート

 最終章である「■The true world」についての質問です。
 あの章は、蛇足か否か?
 はたまたもう少しシンプルにすべきか? 説明不足か?

 個人的なお好みでお答えいただいても結構です。もちろん、小説作法的な見
解からのご意見でも構いません。





 以上です。AWCの掲示板であるフレッシュボイスやメールでのご意見お待
ちしております。掲示板での書き込みの際は、なるべくネタバレ表記をお付け
の上で(強制ではありませんが)お願いいたします。



※せっかくなんで、ついでのこぼれ話。
 初期の段階での仮のタイトルは「マホー遣いにおまかせ」でした。物語の雰
囲気にそぐわないので最終的には今のタイトルに落ち着きましたが。






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