AWC お題>スイカ〜Revenge [1/4] らいと・ひる



#238/598 ●長編
★タイトル (lig     )  04/08/29  20:23  (443)
お題>スイカ〜Revenge [1/4] らいと・ひる
★内容


8月2日


 四月朔日麻衣夏(わたぬきまいか)は西瓜が大好きだった。
 西瓜だけではない、夏らしいすべてのものが好きだったのだろう。海水浴が
好きで、夏祭りが好きで、浴衣が好きで、真っ昼間の騒がしい蝉の音が大好き
で、とにかく夏を目一杯楽しんで生きている女の子だった。
 そんな彼女が、朝から嘉島崎爽平(かしまざきそうへい)の家を訪ねてくる。
学生である彼女は、夏休みに入って暇を持てあましているらしい。
 社会人となって間もない爽平は、貴重な休日の睡眠時間を彼女の来訪によっ
て邪魔されてしまう。
「おはよ!」
 合い鍵を持っている彼女は、まだ布団の中で熟睡している爽平にお構いなく
勝手に上がり込み、寝室のカーテンをおもむろに開けて、寝ている彼の上に馬
乗りになった。
「こら、爽平! 朝だぞ。天気いいぞ。夏真っ盛りだぞ」
 ここのところ、爽平を起こすさいの台詞はそんな感じだ。夏なのだから、早
く遊びに連れてってと言わんばかりの勢いである。まるで、夏休み入った子供
を持つ父親のようだった。
 重さに耐えかねて彼はうっすらと目を開ける。
 そこにさらに衝撃が加わる。胸の上に何か重みのある物を乗っけられた感じ
だった。
「なんだよぉ」
 その物体を確認する。緑の球体、黒い縞模様がある。遊びに行くのだからビ
ーチボールなのだろうと眠い頭で考えながらも、その重みに対して別の思考回
路がそれを否定する。
「!」
 驚いて急に起きあがったものだから、上に乗っていた麻衣夏が布団の後方へ
と転がっていく。爽平の胸にあった物体はそのまま横にすべり落ち、こちらは
まだ布団の中だろう。
「もう、急になにすんのよ!」
 眉間にしわを寄せて彼女は起きあがる。口が「よ!」のままこちらを捉えて
いた。
 そんな彼女から逃げるように視線を逸らして、ふと横を見ると西瓜が転がっ
ている。
「西瓜?」
「そう西瓜。ここへ来る途中、八百屋さんでね。スーパーじゃないよ、八百屋
のおじちゃんにね、いい西瓜選んでもらったんだから。冷やしといて後で食べ
ようよ」
 満面の笑みを浮かべる彼女に、申し訳なさそうに爽平は答える。
「俺、西瓜嫌いなんだけどな」
 寝起きということもあってか、彼の声はぶっきらぼうに聞こえてしまったか
もしれない。
「え? 嫌いなの? なんで? 夏だよ、西瓜だよ。甘いし、おいしいよ。爽
平、果物嫌いじゃないでしょ」
 顔中に?マークをつけた感じの無邪気な麻衣夏の笑顔。
「ぶー、西瓜は野菜です」
 爽平は無性に意地悪がしたくなって、そんなどうでもいい知識をひけらかす。
「ムカツクぅ! そうじゃなくて、そんなにクセのある味じゃないでしょ。メ
ロン食べられるでしょ。梨も食べられるでしょ」
 さすがに「メロンも野菜です」なんて言ったら叩かれるだけであろう。
「うん、だけど嫌いなんだ。なんか赤いし」
 嫌いな物はあまり深く考えないのが吉である。爽平はそういう性格だ。
「ほぉー、爽平、苺嫌いなんだ。トマトもだめなんだ。ボルシチもレッドカレ
ーもキムチも赤いきつねもだめじゃん」
 まくしたてるような麻衣夏の言葉に爽平は少し呆れてしまう。
「おいおい」
「そんな事言ってたらね、何も食べられないよ」
 非道い言われようであるが、彼は好き嫌いが激しいわけではなかった。
「いや、西瓜だけダメなんだけど」
「なんかトラウマでもあるっての? もう、嫌だなぁ。夏だってのに健全じゃ
ないんだから」
 爽平はその言葉を聞き流しながら、立ち上がってテレビの電源を入れる。朝
起きて一番初めの行動はいつもこれだ。一人暮らしが長くなると、それが習慣
のようになってしまっているのかもしれない。
 画面にはどこかの球場のスタンドが映し出され、応援する人たちの声が聞こ
えてくる。それは高校野球だった。
 見覚えのある学校だったが、彼はすぐさまいくつかチャンネルを切替えて、
最終的にはバラエティ番組に落ち着ける。
「えー、高校野球みないの? さっきの爽平とこの地元じゃないの?」
「ん、野球嫌いだから。特に高校野球は」
「もー、どうしてそう夏らしいものばっかり嫌いになるかな」
「なんかね。あの金属バットがカンに障る」
「わがままだなぁ」


 今日は映画に行こうということになった。夏らしいということで、ホラー映
画に決まった。なんでも韓国で制作されたものらしい。友達に先に見に行かれ
たと麻衣夏が悔しがっていたので、単純にそれに決めた。今日はなるべく彼女
の機嫌をとるほうが良いみたいだからだ。
 爽平の横を歩いている彼女は、腰くらいまであるであろう長い髪をアップに
してバレッタで短くまとめている。出逢った時からそんな感じなので「だった
らショートにしてしまえばいいのに」と言うと「髪は女の命なんです、そう簡
単に切ってたまるものですか。それにね、あたしギネスブックに載るのを目指
しているんだから」と訳のわからない事を言う。いや、単純にバレッタを外せ
ばいいのだが。たぶん、それを言うと「長くて鬱陶しいから」と矛盾したこと
を言い出すだろう。
 今日は気温が上がるということもあって麻衣夏の服装は、上は水色でセーラ
ーカラーのブラウスに下はジーンズ生地のミニスカートだ。彼女はわりと行動
的な服装を好む。街でゴシックロリータファッションの少女を見かけて「あん
な服とか着てみたくないの?」と問うと「恥ずかしくて着れないよ。それにな
んか動きにくそうだし、なにより暑そう。どうせなら涼しげな甘ロリチックな
のがいいよ」と言う。それを聞いて爽平も彼女らしいと納得した。そんな彼女
を好きになったのだからと。
 映画を見た後、バーガーショップに入って、税抜きだと100円であろうシ
ェーキを注文してたわいのない話をする。
「爽平ってホラー映画とか平気なんだね」
「なんで? 俺ってそういうのにビビるタイプだと思ってた?」
「いや、そうじゃなくて。あんまり気乗りしてなかったから」
「まあね、どっちかっていうと洋画の方が好きだから」
「今日見たのは邦画じゃないけどね」
「そんな勝ち誇ったように言われてもなぁ」
 その後は、映画についてのあれこれとくだらない議論を交わす。あそこの血
しぶきはやりすぎたとか、驚かすならもっと溜めが必要だとか、少女をなぶり
殺すシーンがまだまだ甘いとか、ある意味爽平はお腹がいっぱいになった。


 その夜、夢を見た。
 まだ小さい頃の自分だった。
 どこかの少年野球チームのユニフォームを着て、ベンチに座ってみんなと西
瓜を頬張っていた。
 赤い。
 味はわからなかった。
 でも、幼い頃に野球チームに入っていた記憶なんてない。だいたい、初めて
夢中になったスポーツはサッカーだった。爽平はそう思った。
 たぶん、夕食時に高校野球の話を熱心に麻衣夏が語っていたのと、夕食後に
目の前で大皿に山盛りになった西瓜を彼女が必死に食べたのを見ていたからで
あろう。夢は印象に残った記憶を乱雑に再配置するだけだ。記憶の再現ではな
いのだから。



8月7日

 海へ行くことになった。
 麻衣夏と付き合ってもうすぐ一年になる。だが、付き合い始めたのが夏も終
わり頃だったので、爽平が彼女と一緒に海へ行くのは初めてのことだ。
 更衣室で着替えて浜辺で麻衣夏を待ちつつ座っていると、急に頭に衝撃が走
る。といっても、軽い感じのものだ。
 見ると、西瓜の形をしたビーチボールが転がっていく。
「爽平、お待たせ」
 そのボールを追いかけて麻衣夏が現れる。ショッキングピンクのカーゴショ
ーツに白地に薄いピンクのハイビスカス柄のタンクトップ姿。街を歩くにはや
や派手目な格好であるが……。
「おまえ、なんか間違ってない?」
 爽平はそう言わずにはいられなかった。
「えー、なんで?」
 西瓜のビーチボールを胸に抱えた麻衣夏は不満げに口を尖らせる。
「まだ着替えてないんだよな」
「え? だって、ほら」と、彼女はくるりとまわって「さっきと服装違うでし
ょ」と得意げに言う。たしかに、Tシャツにキュロットスカート姿の着替える
前とは違っていた。だが、爽平には納得がいかない。
「それ、水着だとか言うなよな」
「ほら水着の生地でしょ」
 爽平の手を掴んで腹部の生地を触らせる麻衣夏。ニッコリ笑ったその顔に誤
魔化されまいと爽平は手を離す。
「この前一緒に買いにいったアレはどうなったの?」
 専門店まで一緒に買い物に行った時、あれこれと思い悩む麻衣夏に焦れった
く感じながらも2時間近く付き合った記憶がある。
「ああ、アレね。うん、なんだか恥ずかしくなって」
 おもむろに視線を逸らす麻衣夏。その仕草はわざとらしくも感じる。
「つうか、麻衣夏、おまえは夏少女だろ。全身で夏を感じるような生き様じゃ
なかったのか」
 見損なったと言わんばかりの勢いで爽平は攻撃をかける。
「あー、やっぱりぃ、夏少女っていうにはもう年だしぃ」
 急に気怠そうな、それも演技っぽい口調になる。まあ、22才にもなって
『少女』というのには無理があるが。
「こういう時だけ夏を否定するなよ」
 いつもは夏を背負って歩いているような性格の彼女なのだから。
「あははは。夏はやっぱりスクール水着だよね」
 その作り笑いにも話を逸らす為の方向にも無理はあった。
「なんか誤魔化してるだろ」
「うん、実を言うとね」
 伏し目がちになる麻衣夏。
「なんだよ。もったいぶって」
「だから! 勢いで買っちゃったけど……やっぱね、ビキニタイプって胸ない
とちょっと格好悪いんだな、これが」
 「てひひひ」って感じの変な苦笑いを麻衣夏はした。そこで思わず爽平は胸
の小さなふくらみに目がいく。
「あ、そっか。麻衣夏、貧乳だもんな」
「貧乳いうなぁー! セクハラ男」
 爽平の頬に彼女の拳で思いっきりぶつかってくる。そう、平手じゃなくて拳
だ。麻衣夏の右ストレートには手加減はなかった。



 水着はおとなしめではあったが、海の中では大はしゃぎの麻衣夏だった。
 二人でくたくたになるまでふざけあって、海に来たというのに大して泳ぐこ
とはなかった。それでも楽しい時間を共有できたと爽平は思う。
 途中、肌を焼きたいという彼女にサンオイルをたっぷり塗りたくって(肌を
焼きたいのに、露出が少ない水着を着てくる矛盾を爽平は感じたが)、しばら
く休憩となる。飲み物を買ってきて麻衣夏に手渡すと、彼女はこんなことを言
った。
「そういえば最近、砂浜で恒例のイベントやる人ってあんまりいないのかなぁ」
「イベント?」
「そう、いかにも夏の砂浜っぽい感じのやつ」
「例えば?」
「西瓜割りとか」
「……西瓜割りなんて、今時お笑いタレントのコントでも見かけないぞ」
「そうかなぁ」
「少なくとも今どきの奴はやらないだろ」



 帰り道、「お腹空いた!」と麻衣夏が言ったので、手軽に食事のとれるファ
ミリーレストランに入ることにした。付き合って1年近くにもなるので、今更
豪華なディナーに誘わなくても彼女は不満を言わないはずだった。
「最近、ファミレス多いよね」
 今日に限って彼女はそんな風に漏らす。大好物のカルボナーラをペロリと平
らげた後だった。
「不満か?」
「いや、気取ったお店ってのも気を遣ってヤだけどさ。でも、なんかお気軽な
扱いされているようで、ちょっとムカツクかも」
 そう彼女は笑顔で言った。「ムカツク」の部分がこれ以上にないくらいの笑
顔だったので、彼は少し恐怖を感じた。
「仕方ない、今度はもっと豪華なディナー連れてってやるからさ」
「ま、いいんだけどね。あたしジャンクフード嫌いじゃないし、時間や周りを
気にせずに喋れるってのはある意味魅力的だし」
「どっちなんだよ」
「まあまあ、怒らない。複雑なのよ女心は」
 そう言って彼女は食後にとっておいたアイスティーを飲む。
 爽平も口の中を潤そうと思ってコーヒーカップに手を出すが、その中はすで
に空だった。
「コーヒーのおかわりいかがですか?」
 話の切れ目をついて席に近づいた店員が、空になったカップに目を向ける。
わりと小柄な二十代前半ぐらいの女性だった。
「あ、お願いするよ」
 そう言って店員に視線を向ける。だが、彼女はこちらではなく、麻衣夏の方
を見つめていた。そして驚いた口調で呟く。
「あれ? エイフーじゃない?」
 その声で、麻衣夏もアイスティーのグラスから視線を上げて店員を見る。
「え? あ、佳枝じゃん。なに、ここでバイトしてんだ」
「まあね、こちらは彼氏さん?」
「うん、そんなようなもん」
 そう言われて爽平は口を出せなくなった。せっかく爽やかな自己紹介の方法
を考えていたというのに、まるで脇役扱いだ。
「そんな言い方していいのかな?」
「いいんだよ。で、いつからバイトやってんの?」
 麻衣夏は爽平の事など気にしない様子で話に夢中になっている。
「夏休み入ってからだよ。ごめん、あんまし喋ってると店長がうるさいから」
 彼女は一度後ろを振り返り、麻衣夏に右の手のひらを向ける。
「うん、わかった。後でメールするね」
「では、ごゆっくり」
 そう言って彼女は去っていく。
「友達?」
 親しそうに話していたのだから十中八九そうであろう。
「高校の時のクラスメイト」
「ふーん、で『エイフー』って? ニックネーム?」
「そうだよ」
「変わった呼び方だね。どういった経緯で付いたわけ?」
「うん、ほらあたしの苗字って変わってるじゃん」
「あ、そうか『四月朔日(わたぬき)』は『四月一日』だから、エイプリルフ
ールね。はいはい、すっきりした」
「ほんとは『朔日』って陰暦だから、正確にはエイプリルフールとは違っちゃ
うんだけどね」
「ま、ニックネームなんてそんなもんだろ」


 その夜、また印象的な夢を見る。
 血に染まった砂浜。
 頭から血を流している幼い少女の死体。
 頭痛がしてきた。
 またしても乱雑な記憶の再配置だ。先週観に行ったホラー映画と、海に遊び
に行った事が入り混ざっている。どうせならもっと楽しい夢がいいのだが。や
はり元凶は映画の後のくだらない議論だったか。あれが一番影響しているのだ
ろう。



8月8日

 一人暮らしをしている麻衣夏を家まで送り届けた後、爽平は帰るついでに乗
換駅にある大型書店へと入る。ここは比較的大きなターミナル駅なので周辺は
それなりに開発が進んでおり、飲食店も多いので夜になっても人通りは絶えな
い方だ。
 家の近くの小さな本屋には入荷していない雑誌が多いので、この大型書店を
彼はたまに利用している。
 一通り立ち読みして外へ出たとき、見覚えのある女性が彼の前を通り過ぎて
いく。彼女はそのまま繁華街の方へと歩いていくようだ。
 黒を基調とするフリルやリボンのついたミニのワンピース、黒いハイソック
スに黒いストラップシューズ、頭にはローズギャザーのヘッドドレス、両手で
黒い小さなハンドバッグを持っていた。いわゆるゴシックロリータのファッシ
ョンである。
 髪はまるで人形のような艶やかな腰まであるストレートだった。
 印象的な服装と髪型に惑わされて、爽平には誰に似ているのか思い出せない。
 何か謎解きをしなくてはいけないかのような気がして、無意識に彼女の後ろ
を付けていた。
 背筋を伸ばしさっそうと歩く後ろ姿に覚えはない。知り合いであれば、歩く
姿から想像がつくものだが。あまり近づくと本当に犯罪者になってしまいそう
だったので、爽平はある程度の距離を置く。
 しばらく、ストーカーのように後をつけ、空しくなってあきらめかけたとこ
ろで彼は気が付いた。
(麻衣夏?)
 さきほど一瞬だけ見た横顔が、彼女と重なる。たしかに顔の造りは似ていた
かもしれない。
 だが、そう呟きながらも心の中では否定する。彼女は先ほど家まで送り届け
たではないか。しかも、彼女が着ている服は、彼女自身があまり好きではない
と言っていたファッションだ。
(他人のそら似にか)
 そう答えを出しながらも、それを否定できない何かが隠されているような気
もしてきた。
 だから、前を歩く彼女から目が離せなかった。かと言って気軽に声をかけら
れるような状況でもない。
 歩いたまま、爽平は片手でジーンズの後ろポケットに入っていた携帯電話を
取り出す。
 目の前の彼女は麻衣夏でははない。そう思いながらも確かめずにはいられな
かった。
 メモリから彼女の電話番号を呼び出し、発信する。
 呼び出し音が鳴った。
(もし出なかったら、どうする気だ?)
 彼は自分自身に問う。答えは簡単だ。彼女だと思うのなら声をかければいい
だけの話である。
「もしもし」
 電話が繋がった。
 眠そうなややくぐもった声だが、たしかに麻衣夏だ。
「……」
 そこで安心したのだろうか、爽平の足は自然とそこで止まっていた。
「もしもし、爽平? どうしたの?」
「いや、なんでもない。麻衣夏の声が聞きたかっただけだから」
 それは本当に本心からだった。


	*							*


 麻衣夏と初めて会ったのは去年の夏の終わりだった。
 暦の上でも本当にぎりぎりの8月31日である。
 街には秋冬ものの衣服が売り出され、夏限定品のあれこれは姿を消すか在庫
処分品とされていた。
 爽平は真っ昼間から友達と軽く飲んだ後、夕方には別れて街を散策していた。
ほろ酔い加減ということで、足下も少しおぼついている。そんな事もあってか、
前から歩いてきた女性と正面からぶつかってしまった。
「わるい」
 相手の女性が倒れ込むことはなかったが、何か手に持っていたものを落とし
てしまったようだ。
「あ!」
 女性は悲しそうな顔で足下を見ている。それは大事な誰かに置いていかれた
子供のように、いまにも泣きそうな表情でもあった。だから、ぶつかってきた
爽平に対する直接的な怒りは感じられない。
 だが、別の事で爽平は気が動揺した。一種の既視感だろうか。目の前の女性
はまったく知らない他人だというのに、どこかで会った事があるような気がし
たのだ。それはもしかしたら、彼女に会ったと記憶するものではなく、誰かに
会った事を忘れていて、その誰かが彼女に似ていただけのことかもしれない。
 そんな奇妙な感覚に陥りながらも、爽平は頭を下げる。悪いのはどう考えて
も自分なのだから、それは当たり前であった。
「申し訳ない。こちらの不注意だ」
 爽平はふと女性の足下を見る。そこには道路に落ちて無惨な姿となった赤い
色のソフトクリームがあった。
「あーあ」
 女性は悲しそうに呟いた。彼女は十代にも見えなくはなかったが、服装や多
少の化粧慣れした感じから二十代であることが想像つく。まさか、高校生では
ないだろう、爽平はそう思った。
「弁償するよ」
 たかがソフトクリーム一つに、幼子でもないのにここまで傷心した雰囲気と
なる彼女にも疑問を感じる。が、爽平自身の落ち度は紛れもない事実なのだか
らと彼は真摯に受け止めた。
「限定品で、最後の一個だったの」
 かすれるような声で彼女は呟いた。
「え?」
 爽平は単純に赤だからストロベリー味のものだと思っていた。でも、彼女の
口調からして何か特別のものなのだろうか。
「『夢見月のアリス』の夏期限定品。西瓜味のフレーバー」
「西瓜味?」
 爽平は思わず吹き出してしまった。確かに夏らしいものではあるが、それほ
ど売れるものなのだろうか。過去に、夏になるたびに違うメーカーから発売さ
れる西瓜ジュースを思い出し、それを毎年酷評するためだけに買い続ける古い
友人の顔を思い出す。
「笑うことないでしょ。ひどいな、ほんとなら弁償してもらいたいのに」
 目の前の彼女は不満げな顔で爽平を見つめている。たぶん、これ以上笑った
ら憤慨するだろう。
「ごめん、ちょっと昔の事思い出したから」
「だからって」
 彼女はまだ未練がましく、ほぼ液体と化したソフトクリームの残骸を見つめ
ている。その表情は先ほどと同じで何かもの悲しそうだった。
「ごめん。そうだね、悪いのは俺だから」
「責任とってくれる?」
 彼女は上目遣いに、懇願するように呟く。
「落とした分の金額は弁償するよ」
「そうじゃない。あたしの夏を返して」



「こういうのナンパっていうんでしょ?」
 彼女はニヤニヤしながら爽平の顔を見る。
「だから、俺なりの責任の取り方なんだけどな」
「普段でもこんな簡単に女の子誘っちゃうの? 純朴そうな顔してるのに」
「大きなお世話だ。それにノコノコついてくる子だって相当遊んでるんじゃな
いのか?
 爽平は知り合いの家の近くにある団地の自治会が、毎年8月の最終日に祭り
を行っているのを思い出し、彼女をそれに誘ったのだ。もちろん、彼女の機嫌
を取るために途中で浴衣を買い与えた。
 たかがソフトクリーム一つにここまでしてやる義理はないのだが、彼女の寂
しげな表情が気になったのだ。そして話を聞くうちに、情が移ったというべき
か、一肌脱いでやろうという気持ちになった。
 彼女は今年の夏は散々だったらしい。夏に入る前に恋人と別れて、唯一楽し
みにしていた友達と行く予定の沖縄への旅行もキャンセルとなり、地元の花火
大会は強風で中止、夏物バーゲン品は日にちを間違え買えず、夏祭りの前日に
お腹を壊して次の日ずっと寝ていたそうだ。
 つまり夏らしい事を一つも楽しまないうちに夏が終わってしまうのが悲しか
ったらしい。唯一まだ食べていなかった夏季限定品のソフトクリームを食べて、
最後の夏を満喫しようとしていたところに、それを台無しにする男が現れたと
いうことだ。
 そして麻衣夏は、自己紹介の時に自分の名前に「夏」が入っている事を強調
し、どれだけ夏が好きであるかということをくどいくらいに爽平に語った。
 正直、彼は最初はそんなことはどうでもよくて本当に煩わしささえ感じた。
だが、あまりにもまっすぐに感情をぶつけてくる姿は、最終的には煩わしさよ
りかわらしさの方が勝ったのだ。



「夏が終わっちゃうね」
 夏祭りは21時をもってきっかりと終了した。余韻に浸る間もなく屋台の火
は落とされ、人もまばらとなっていく。
「そうだな」
「夏の思い出って花火みたいにすぐに忘れられていくんだよね」
 麻衣夏はいつの間にか涙を流していた。
 あまりの突然の事に一瞬、爽平は言葉に詰まる。
 そんな彼女を見て、彼は胸が締め付けられた。彼女の涙の訳を知りたい。も
し知ることができたなら、その涙を流させないように努力したい。
 彼はそこで気付く。一夏どころか、小一時間ほど彼女と話しただけだが、自
分は麻衣夏に恋をしたということを。夏が大好きな普通の子にいつの間にか夢
中になっていたことを。
 だから、爽平は彼女に向かって囁いた。
「もし君さえよければだけど、来年は一緒に夏を楽しもうよ。二人で思い出を
作って、それを二人で共有すれば忘れてしまうことはないと思うよ」
「……っ!」
 その言葉で彼女は吹き出した。そして、我慢できなくなったかのようにけら
けらと笑い出す。
「笑うことはないだろ」
「ごめん。真面目だったんだね」
「だから、望まないんだったら放置していいよ。下手に反応されるとこっちも
傷つく」
「けっこうロマンチストなんだ」
「『けっこう』じゃなくて『かなり』ね」
 爽平は自嘲気味に笑う。
「じゃあ、あたしもスイッチ入れようかな」
 と謎な言葉を呟いた彼女の唇がいきなり接近し、爽平の頬にそっと触れる。
「え?」
 一瞬の事で彼は頭の中が真っ白になった。
「これは今日のお礼。最後の夏を楽しませてくれたことに対する」
 そう言って、彼女は人差し指を自分の唇に触れる。
「こっから先は、お預け。もし、あたしがあなたを好きになったらあなたの勝
ち。賞品はその時まで。いい? そうね、期限は来年の夏の終わり」
「それって」
「あたしもね。そんなに軽い女に見られるのは嫌だから。はい、いちおう携帯
の番号。携帯つうかピッチだけどね」
 彼女の手から名刺のようなものが渡される。そして続けてこう言った。
「今日はありがと。で、今日はさようなら。後で連絡して、気が変わらなかっ
たら付き合ってあげるから。とりあえず友達としてね」






#239/598 ●長編    *** コメント #238 ***
★タイトル (lig     )  04/08/29  20:24  (480)
お題>スイカ〜Revenge [2/4] らいと・ひる
★内容

8月12日

 金属バットを手に握りしめている。
 周りは砂浜だった。

 ビーチバレーならぬビーチベースボール? はっきりしない思考で、そんな
言葉を絞り出す。
「わけわからん!」
 飛び起きた時には夢の大部分は薄れていた。最近見る妙な夢を分析してもら
いたいと爽平はつくづく思う。
 朝方見る夢だけに、記憶に残ってしまうのは余計に質が悪い



 昨日の夜遅くに、プールに行こうと麻衣夏に電話がかかってきた。今日から
爽平の会社がお盆休みに入るからだろう。
 10時に駅の改札口の前で待ち合わせということだったので、爽平はその1
0分前には到着した。
 ところが、待ち合わせの時間になっても彼女は現れない。多少時間にルーズ
なところもある性格なのでいつもの事だと思い、長期戦になることも考えて改
札口が見える場所にあるベンチへと移動する。
 そこで爽平の身体が固まった。
 ベンチには人目を惹くように一人の女性が腰掛けている。全身黒ずくめのゴ
シックロリータファッションだ。
 たしかに、流行の兆しのあるこの服装は、街に一人や二人いてもおかしくは
ない。だが、その顔立ちには見覚えがあった。
 麻衣夏に似た、麻衣夏ではない女性。
 長い髪の毛は、首筋どころか顔の輪郭さえぼやかしているが、露出した部分
だけ見てもやはりそっくりだったのだ。
 爽平は我を忘れて目の前の女性へ釘付けとなった。
 ふと彼女が爽平に気付いて目を上げる。そして、交差する視線。
 見れば見るほど麻衣夏とそっくりだ。
 彼の額から一筋の汗が流れ出る。固まった身体はまだ動かない。まるで魔法
をかけられたかのように。
 服装に恥じないぐらい、それが自然と思えるくらい優雅に立ち上がり、彼に
向かって歩いてくる。まだ魔法は解けない。
 ほぼ1m手前で彼女が立ち止まる。視線はずっと爽平を捉えている。逃げら
れない、五感の全てがそう叫んでいるようだ。
 艶やかな彼女の唇がゆっくり動く。
「あなたは私を知っていますか?」
 綺麗なソプラノヴォイス。どこかのお嬢様かとも思える滑らかな喋り方だっ
た。
 だが、彼女が麻衣夏でないのなら爽平には見覚えはない。彼はゆっくりと首
を振る。
「じゃあ、あなたは人を殺したことがある?」
 一転して小悪魔的な口調に変わる。だから、彼女が何を言っているか理解で
きなかった。微笑んでいるような、蔑んでいるような、邪気のない子供のよう
な微妙な口元だ。
 その姿はまるで完成された人形のようにも感じた。麻衣夏のような人間くさ
い仕草はいっさい窺えない。
 呆然としている彼を見て、興味を無くしたかのように彼女の表情から色が消
える。
「さようなら」
 そう言って彼女は通り過ぎる。
 爽平は声をかけようとして振り返り、彼女へと手を伸ばそうとした。
 だが、何を言えばいい? 爽平にはなぜ意味深な質問をされたのかすらわか
らないのだから。
 でも、もしかしたら、知らない男から見つめられていたことに対する防御の
言葉なのかもしれない。よくあるナンパや勧誘をかわすためだ。爽平はそう思
い込もうとした。
 それでも彼女の言葉は心の奥底に突き刺さったままだ。なにか気持ちが悪い。
 動くこともできず、しばらく彼女の後ろ姿を見送っていく。
 その時、気の抜けたような着信メロディーが鳴り響く。ジーンズの後ろポケ
ットに入っている携帯電話はそれに連動して震えていた。
 彼はあわてて携帯電話を取り出そうとする。だが、目前の女性のこともあり、
取り乱していたことで床に落としてしまった。彼は深呼吸をして心を落ち着か
せる。
 拾い上げた携帯電話のクイックディスプレイには『麻衣夏』の文字が映し出
されていた。
 もう一度深呼吸をして、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「ごっめーん! 寝坊しちった」
 緊張感のない麻衣夏の声が響く。脱力感が爽平を襲った。
「……」
「ね、怒ってる? ごめん、許して。お願い、今日は爽平のわがまま聞くから」
「麻衣夏……」
 口数の少ない爽平に怒っているのだと勘違いしたであろう麻衣夏が、謝罪の
言葉を並べ立てる。
 いつの間にか床を見ていた視線をあげ、先ほど去っていった彼女を捜そうと
周りを見回すが、その姿はどこにも確認できなかった。彼女との邂逅がまるで
夢であったかのように、現実からその気配は消え去っている。
「ね、悪いと思うけど、あと30分くらい待てる? 今日、ぜんぶあたしのお
ごりでいいからさ」
「待つのは構わないさ。慣れてるし」
 それに考えたいこともあった。
「今日は優しいじゃん。じゃ、ソッコーで着替えて行くから」
 起きたばかりナノカヨ、との突っ込みを入れる気力はなかった。
 麻衣夏との通話を終えて爽平は吐息をつく。全身から力が抜けたようで、よ
ろよろとベンチに向かって歩いていく。
 再び吐息をつきながらベンチに座ると、なにやら右手に布のような感触が伝
わる。
 見ると、白いハンカチーフがベンチに落ちていた。誰かの忘れ物だろうか、
と爽平は思う。
 広げてみるとレースの縁取りがされ、中央に不思議の国のアリスに出てくる
ホワイトラビットらしきイラストがプリントされたものだった。
 駅員にでも届けようと思い、立ち上がろうとして、生地の隅に目立たないよ
うに刺繍された文字に気付く。
 『Karen.W』
 アルファベットでそう書かれていた。そして同時に気付く。この場所が、先
ほど邂逅した女性が座っていた場所だということに。



8月15日

「じゃあな。毎日電話いれろよ」
 旅行鞄を抱えた麻衣夏が改札口から手を振る。
 彼女は七泊八日の予定で友達と沖縄へ遊びに行くことになっていた。去年は
行かれなかったのだから、彼女は楽しみにしていたはずだ。
 そんな彼女の表情が曇る。
「あ、なんか、やっぱりさびしいかも」
「ここんとこ毎日会ってたもんな」
 今生の別れでもあるまいとは思うが、その気持ちは理解できないわけではな
い。
「ホントは爽平と行きたかったんだけどね」
「前から約束してたんだろ。しょうがないよ。思いっきり楽しんでこいや」
 名残惜しそうに彼女は去っていく。
 彼女が去っていった後、ひとまずベンチへ座る。確かここは、前にあの女性
と出会った場所だった。
 そんな偶然がたびたびあるわけがないと思いながら、一時間ほどぼんやりと
辺りを眺めていた。
 手に持っているポーチの中には忘れ物であるあのハンカチーフが入ってる。



8月16日

 次の日、会社帰りにまた同じ場所に来ていた。
 鞄の中にしまってあったハンカチーフを取り出す。刺繍の部分を指でなぞり
ながら考える。
 イニシャルの『W』の文字を見てピンとくるものがある。今の段階でその推
測が一番現実に近かった。
(まさかな。そういう可能性はあるのか?)
 携帯電話を取り出して麻衣夏に電話をしようとメモリから番号を呼び出す。
だが、その手を止めて再びポケットに仕舞う。
 なんて説明すればいいのだ。爽平は考えた。麻衣夏とそっくりの女性がいる。
それはいい。だが、そんな女に心を奪われていると勘違いされたら、彼女は気
を悪くするかもしれない。たとえそれが身内であっても。
 たしかに自分でも制御できないこの感覚は普通ではなかった。心を奪われて
いると疑われても仕方がない。
 どうすればいいだろうと考える。とりあえず確かめたいことを一つ一つクリ
アしていこう。爽平は地道に行動することにした。
 前に麻衣夏の友達がバイトしていたファミリーレストランへと足を運ぶ。
 席に案内してくれた女性は違ったが、店内を見渡すと幸運にも麻衣夏の友達
の姿を探すことができた。確か佳枝といったはず。
 その子に向かって手をあげると、向こうもこちらに気付いたらしく、ニヤニ
ヤした顔で近づいてくる。
「あー、『エイフー』の彼氏だぁー」
 周りの事もあってか、彼女は声を細めてそう言った。
「ども。でも、いちおうお客だからね」
 爽平は偶然に来たといわんばかりに、冷静にそう呟いた。
「ご注文はおきまりですか?」
「切り替え早いね」
「仕事ですから」
「じゃあ、ジャンバラヤのドリンクセットで」
「お飲物は何にしますか?」
「ホットコーヒー」
 急いで質問することはないと、爽平は先に腹を満たす事に専念することにし
た。



 食後、コーヒーが空になったところで佳枝の姿を見つけて手をあげる。
「おかわりください」
 「少々お待ち下さい」といったん厨房に入った彼女がポットを手に再び戻っ
てくる。
「今日はお一人ですか?」
 佳枝はカップを引き寄せ、その中にコーヒーを注ぐ。
「うん、旅行に行ってるんだ」
「へぇー、わたしはてっきりふられたのかと思っちゃいましたよ」
 彼女は控えめながらもくすくすと笑い出した。
「ま、今のところ別れる予定はないから」
 自分でそう言いながらも、爽平は不安になる。実際、恋人のように二人きり
で遊びに行ったり、部屋にまで起こしに来てくれたりする。だが、恋人と言え
るのだろうか? 付き合って1年近くにもなるのに、未だプラトニックな関係
だった。
「はい、どうぞ」
 すっと、注がれたコーヒーが爽平の前へと置かれる。バイトとはいえ、手さ
ばきは慣れたものだった。
「ね、ちょっと聞きたいことあるんだけどいい?」
「わたしの電話番号以外でしたら」
 佳枝はにっこりと笑う。営業スマイルそのものだった。
「そうじゃなくて、麻衣夏の事で」
「あららら、彼女一筋なんですね。うふふふ」
 わざとらしい笑い声ではあるが、爽平は気にしないことにした。からかわれ
ていることはわかっている。だから、下手な前置きはやめて、ストレートに聞
くことにした。
「麻衣夏ってさ、もしかして双子の姉妹とかいるの?」
「え? 知らないんですか?」
 佳枝は知っていて当然だと言わんばかりの視線を爽平に浴びせる。
「いや、彼女、自分からそういう事を言わないんだ。だから、もしかしたら話
せないような事情があるんじゃないかって」
 自分からあまり家族の事を話さないというのは本当の事だ。だが、これまで
は爽平はその事についてはあまり感心を示していなかった。だから、そこまで
深読みはしていなかったのだ。
「うん、いるよ。『カレー』でしょ。先に生まれたから、いちおう『エイフー』
の姉って事らしいよ。両方ともクラスメイトだったからわりと親しかったけど、
家族の事で何か秘密にしなければならないようなことはなかったと思うけどな
ぁ」
 『カレー』と聞いて、また妙なネーミングをつけたものだと爽平は苦笑する。
この子のセンスには少々ついていけないものもあるが、まあ納得のできない範
囲ではない。が、納得はできたものの何かがひっかかる。それがなんであるか
は、彼自身にも理解できていなかった。
「すいません!」
 奥の席の方で客の手があがる。どうやら、あちらもおかわりが欲しいようだ。
「はい、少々お待ち下さい」
 元気にそう応えると、爽平に向かって小声で囁く。
「双子で二股かけようなんて気じゃないでしょうね。でも、残念、『カレー』
にもちゃんと彼氏はいるんだから、そんな夢のようなシチュエーションなんか
考えちゃだめよ」
 彼女は爽平の反論も待たずに去っていく。
 店内はそれから団体客が訪れて忙しくなり、佳枝ともう一度話すことはでき
なかった。だが、無理に反論したところで意味はない。それよりも、確かめら
れたことでだいぶ心が落ち着いてきた。
 他人のそら似は確かに存在する。それでも、そっくりということは希である。
 爽平が出会った女性は、麻衣夏に似すぎていた。まるでクローン人間のよう
に。
 でもそれは、双子というのであれば納得がいくのだ。
(今度会ったら、確かめてみるか)
 そう呟きながら、ハンカチを取り出す。刺繍には『Karen.W 』の文字。一般
にはあまりない略し方を由来としたあだ名だが、よほど『カレー』が好きなの
だろうか。そう考え、思わず吹き出しそうになる。それともよほど嫌いなのだ
ろうか。
 どちらにせよ、ミステリアスな女性は一転してコメディタッチへと成り下が
った。



8月21日

 爽平はあれから毎日、会社帰りにあの女性のいたベンチに三時間ほど座り続
けた。自分がなぜここまで夢中になるのかわからなかった。だが、せっかく見
つけた解答の答え合わせをしたいという純粋な欲求が原動力となっていること
は確かであった。
 ただ、ここまで盛り上がった気持ちも、見つけた解答が間違っていればそれ
までだ。
 ハンカチーフは彼女のものではなく、彼女に双子の姉妹などいない、そう言
われれば振り出しに戻ってしまう。
 もしかしたら解答の見つけ方が間違っているのではないか、とも思えてくる。
なぜなら、麻衣夏に似ている女性という認識がいつの間にか思考の表面上を支
配していて、まともに頭が回らないのからだ。
 爽平は昔感じたことがあるはずだ。
 麻衣夏を初めて見たときに、誰かに似ていると。
 もしかして、それが彼女の事だったのだろうか?
 学生時代まで振り返っても、麻衣夏に似た女性に会った記憶などどこにも残
っていなかった。
 そして今日は週末である。爽平は朝からあのベンチに居座った。まるで待ち
人が来ない、振られ続ける男のように。
 昼を過ぎて、少し空腹気味になってうなだれていると、なにやら頭の上を影
が差す。人の気配を感じて見上げると、そこには全身黒ずくめの女性がいた。
そして、それが麻衣夏に似た女性だと確認する。
「やっと見つけた」
「……?」
 爽平の言葉に女性は首を傾げる。
「これはきみのかい?」
 鞄からハンカチーフを取り出して、彼女の目の前へと差し出す。
「ええ。探していたの」
 その言葉を聞いて彼は興奮する。これで彼女の名前がカレンであると確定で
きたはずだ。
「君の苗字はもしかして『ワタヌキ』かい?」
「ええ、そうよ。もしかしてあなたは『探偵』かなにか?」
 彼女は不思議そうに目を見開く。
「違うよ。種明かしをすれば君の妹さん、『麻衣夏』と友達なんだ。君は麻衣
夏の双子のお姉さんだろ」
「なんか言い方が探偵さんみたいね」
「多少探偵みたいなマネはしたけどね」
「どうして私を待っていたの? ハンカチだったら、交番か駅員さんに届けて
くだされば良かったのに」
「うん、まあね。でも、ちょっと聞きたいことがあったから」
「なに?」
 無邪気な子供のようにカレンは首を傾げる。
「この前、君が言った言葉。あれってどういう事?」
「何か思い出したの?」
 口調が一転する。言葉に何か重みのある感情が加わった。
「いや、思い出せはしないけど」
「そう」
 また、彼女の表情から色が消える。思い出せないのなら用はない、というこ
とだろうか。
「もしかして、前に会ったことがある?」
「思い出せないのならいいわ」
 彼女は後ろを向いてその場を去ろうとする。
「待って。ヒントくらいくれてもいいだろ」
 彼女の足が止まる。
「思い出す気があるのなら」
「あたりまえだろ」
「わかったわ。この駅の地下街に『Water Summer』っていう喫茶店があるんだ
けど、そこでいい? 立ち話はあまり好きじゃないの」



 彼女について行き、階段を下る。その途中で携帯電話の着信メロディーが鳴
った。連動してジーンズの後ろポケットから振動が伝わってくる。
 取り出して通話ボタンを押すと、スピーカーからはツーというノイズ音しか
聞こえない。携帯のディスプレイを確認するとアンテナが『圏外』となってい
た。着信履歴は麻衣夏からだ。
「ここは携帯の電波が届かないそうよ。電話するならもう一度上がった方がい
いわ。私は先に行ってるから」
 そのまま彼女は行ってしまう。
 仕方なく爽平は再び階段を上がった。
 いちおう、ディスプレイに映るアンテナマークが電波の最大の感度を示す3
本の縦棒が立つ位置まで移動することにした。
 今度はこちらから麻衣夏に発信する。
 ワンコールで繋がった。
「もしもし、麻衣夏。今電話しただろ」
「うん。急に切れちゃったからどうしたかと思った」
「地下入っちゃったからな」
「ふーん、まだお昼だってのにめずらしく一人でお出かけしてるんだ。いつも
なら、あたしが起こしにいかなきゃ、布団の中なのにねぇ」
 麻衣夏は嫌味ったらしい口調になる。
「めずらしく早起きしたもんだから外に食べに出ただけだよ。家には何もない
しね」
 不機嫌になりそうな気配だったので、本当の事は言わないでおいた。
「ふーん。まさか、他の女の子とデートしてるわけじゃないよね」
 いきなり核心をついてくる麻衣夏に、爽平は思わずたじろいでしまう。
「バ、バカ、そんな事するわきゃないだろ」
「あやしいなぁ。そんな一所懸命に否定するところが、ますますあやしいけど」


 爽平が『Water Summer』という名の喫茶店を探し、中に入ると奥の方の席か
ら手があがる。それはカレンだった。
 彼が席につくとちょうどウェイターが水を運んできてテーブルに二つ置く。
「ご注文が決まりましたらお呼びください」
 と、去っていこうとするウェイターをカレンが呼び止める。
「待って私はカレーライス」
 オーダーを言った彼女の言葉を聞いて、爽平は思わず笑い出しそうになる。
まさか本当にカレー好きだったとは。
 そんな彼を見て彼女は呟いた。
「単純ね」
 一瞬だけ見え隠れする蔑んだ笑み。
「え?」
「ヒントをもらえることがそんなにうれしい?」
「え? ええまあ」
 笑い出しそうになったことは別の意味だったが、誤魔化す意味も含めて曖昧
に答えた。
「あなたは何にする? それとも待ってもらう?」
 カレンは爽平とウェイターを交互に見る。
「あ、俺も同じものでいいや」
 そう告げると、ウェイターはお辞儀をして去っていく。
「まずは私を知っているか? ってことだけど、これは思い出してもらうしか
ないのよ」
「それはわかっているよ。でも、いつ会ったことがあるかぐらいのヒントはく
れてもいいんじゃないか?」
「今あなたが留めている記憶の範囲にはないわ」
 それは、まさか前世という意味なのか? そんな馬鹿な質問を飲み込む。ど
うも相手の言葉の意図するものがわからない。
「じゃあ、二つ目」
「あなたは人を殺したことがある?」
「記憶にないし、もしそのような事実があるのなら、俺は普通には暮らしてい
けないだろう」
「そう?」
「もしその記憶が欠落していたとしても、誰かがそれを覚えていた場合、俺は
なんらかの警察の取り調べをうけることになるだろう。犯人じゃなかったとし
てもだ。だが、そんな事はなかった。まさかそれさえも記憶が欠落していると
か言わないだろうな」
「思い出せないのなら仮の話をしましょうか。もしあなたが誰かを殺したとし
て、どうしてあなたはその罪を罰せられないのかしら?」
 まるで謎かけだ。
「罪を犯していないからだろう」
「仮の話なのだから、もう少し可能性を広げて考えましょう。あなたは罪を犯
している。でもその罪を問われない」
「それは過失だった場合?」
「そう、そんな風に考えればいいのよ」
「でも過失であれ、なんらかの罪になる。罰せられないということはないだろ
う。それに死に至らしめた人間の家族になんらかの憎しみを抱かれる」
「そうね。でも憎しみを抱かれない場合もあるわ」
「それは完全な過失だった場合だろ」
「人間はそんなに割り切れるものではないけどね」
 しばらく沈黙が続く。そんな中、ウェイターがカレーライスの皿を持ってく
る。
「お待たせしました」
 そう言って再び去っていく。
「早いな」
 ものの5分としないうちにオーダー品がきたものだから、爽平は感心する。
「レトルトでしょ。それに、あんまりこういう喫茶店で食べ物をオーダーする
人も少ないからじゃない」
 カレンはさっそくスプーンを口に運ぶ。
「ところでさ、変な事聞いていい?」
 カレーを食べている彼女を見て、どうしても爽平は聞いてみたくなったのだ。
「なに?」
「カレー好きなの?」
 カレンのスプーンを持つ手が止まる。
「好きな方がいい?」
 微妙な口元。感情が読めなかった。
「え?」
「どっちでもないよ。余興だから」
 そう言って、彼女は食べることに専念する。爽平にはまったく意味がわから
なかった。だから腹が減っていたこともあってか素直に目の前のカレーライス
を食べることにする。
「そういえばさ、家どこなの。ここの駅の近所に住んでいると思って、毎日君
が来るのを待っていたのだけどさ」
「神奈川」
「神奈川? こっから1時間以上かかるんじゃないの?」
「実家だから。それに別にここに通っているわけでもないしね」
「友達の家でもあるの?」
「まあ、そんなようなものよ」



8月22日


「たっだいまー」
 ドアを開けた途端、麻衣夏が飛びつくように抱きついてきた。
 あまりの反動で後ろに転けそうになるところをなんとかこらえる。
「おいおい、危ないだろ」
「ごめんごめん。お土産いっぱいあるから許してちょ」
 そう言って彼女は、大きめのボストンバッグをテーブルの上に置く。
「まったく」
「はい、ちんすこう!」
 まるで猫型ロボットが自分のポケットからアイテムを取り出すかのような口
調だった。もちろん、実際はボストンバッグの中からだが。
「おまえ、そんなベタな土産で俺が喜ぶと思っているのか」
「じゃ、ミミガージャーキー!」
 再び猫型ロボットのマネをする。
「おっ!」
「泡盛古酒ゼリー」
「いいじゃん」
「やんばるスモモドリンク!」
「健康的だねぇ」
「ゴーヤドリンクもあるよ」
「罰ゲームっぽいけど、それもアリだよ」
 麻衣夏の鞄はまるで中が四次元であるかのように、次から次へと変わった土
産が出てくる。
「スイカジャム!」
 目の前に突き出される小瓶。金属の蓋部分は緑と黒の縞模様のデザインだっ
た。
「……麻衣夏、それは本当に沖縄土産なのか?」
 目を細めて麻衣夏を睨む。
「えー、お土産屋さんで売っていたよぉ」
「おまえそれは絶対騙されているぞ。それに俺、西瓜嫌いって言わなかったっ
け」
「そうだっけ」
「わざとだろ」
「てへへへ、バレたぁ?」
 悪びれた素振りもせず麻衣夏は舌を出す。
「そういうネタはしつこいと嫌われるぞ。俺、ホントに嫌いなんだからさ」
 爽平は嫌悪感剥き出しでそう答える。
「なんで嫌いか考えたことある?」
 爽平の態度に気分を害したのだろうか。彼女のその言い方は冷たかった。
「え?」
「ま、いいんだけどね。食わず嫌いでも、よっぽど不味い西瓜を食べてトラウ
マになったでも」



 いつものように麻衣夏を家まで送っていく。で、ついでにお茶をごちそうに
なってしばらく歓談してから帰るというのが習慣となりつつあった。
 玄関の前について、麻衣夏はまず鍵を開けた。そして、新聞受けの部分に挟
まっていた何かを抜き取る。。
 それを手にして、麻衣夏は部屋に入る。爽平もそれに続いた。
「あれ? 不在通知票だ」
「ん? 誰から」
「お母さんみたい。食品だったら助かっちゃうんだけどね」
 爽平は覗き込んだ不在通知票の送り主の住所に見慣れた文字を見つける。
『多摩区登戸*−*−*』
「あれ? この送り主の住所、俺んちの実家の近くだ。近くっても隣の隣くら
いの区画かな」
 麻衣夏から通知票の紙を受け取りマジマジと見る。
「そうなんだ。ふーん、じゃあ、もうちょっと住むところがズレてれば幼なじ
みさんになれたかもね」
 そんな風に会話を交わしたあと、ふいに『ピンポーン』と呼び鈴が鳴る。
「再配達してくれたのかな」
 まだ、玄関近くにいたので、麻衣夏はすぐに扉を開けることができた。
「すいません、お届け物です」
 そこには段ボール箱を抱えた若い男性が立っていた。緑を基調とするその制
服には見覚えがある。爽平はよくTVCMで見ていた。
「もしかしてお昼も来てくれた」
 麻衣夏がそう問いかける。
「ええ」
「サインでいいですか?」
「はい。構いませんよ」
 そう言って宅配便の人は、彼女に伝票を渡す。
「ご苦労さまです」
 サインした伝票を渡して、段ボールを受け取ると、さっそく玄関前で開封し
始めた。
「なんだった?」
 爽平は気になって、その中身を覗く。
「西瓜だよ」





#240/598 ●長編    *** コメント #239 ***
★タイトル (lig     )  04/08/29  20:25  (343)
お題>スイカ〜Revenge [3/4] らいと・ひる
★内容


8月23日

 朝方に夢を見た。
 目隠しをされ視界が真っ暗だった。
 公園の回転遊具に乗った時のように、自分の意志とは別に強制的に回転して
いく感覚。
 気分が悪くなって無理矢理目隠しを外す。視界に映るのは海水浴客で賑わう
砂浜だ。
 知っていた。
 この景色には見覚えがある。

 ふいに誰かが視界に入ってくる。それは7、8才くらいの長い黒髪の少女。
黒いワンピースを着ていた。
 この少女の事も知っている。
 だけど、それは痛さだった。その記憶を焼き払って灰にさせてしまうくらい
の痛みを伴っていた。



 目覚めは最悪だった。
 時計を見ると5時前である。外はうっすらと明るくなりつつあった。
 夢の中で爽平は、何かを思い出しかけていた。だが、同時にそれを拒もうと
する自分もいた。
 キケン、そう本能が告げているような気がする。
『あなたは人を殺したことがありますか?』
 あの女性の言葉が響いていく。
 それはどんな状況なのだ?
 自分は本当に記憶を失っているのか?
 爽平は起きあがって出かける支度をする。だが、それは会社に行くためでは
ない。こんな気分のまま仕事など出来るわけがない。
 失った記憶は思い出そうとしても埒があかない。ならば別の媒体に記憶され
たものを確認するのが手っ取り早いだろう。そう考え、実家へ行くことにした。
ここから電車で1時間ほどの場所にある。
 電話で直接両親に聞いてみようかとも考えた。だが、今まで黙っていたのだ。
そう簡単に教えてくれるわけがない。
 電車に揺れられながら再び彼女の言葉を考える。



「ただいま」
 予め実家には電話を入れておいた。もちろん、会社にも休むということは伝
えた。
 両親とも出かけてしまっていたが祖母がいるので鍵は開いている。
 居間まで上がっていくと、祖母はテレビを見ていた。
「ただいま、ばあちゃん。ひさしぶり」
 数秒遅れて祖母が反応する。
「ああ、爽平かい。ひさしぶりだね」
 完全にボケてはいないが、耄碌しているのは確かだった。答えたその目は再
びテレビへと注がれる。
 爽平は捜し物に専念することにした。
 押入や物置を探し回ってようやく数冊のアルバムを見つける。
 何冊か開いて見たが、アルバムには海水浴で撮ったと思われる写真が一枚も
なく、爽平が『知っている』と思った少女の姿も確認できなかった。
 ただ、8才くらいの頃だろうか、どこか少年野球チームのユニフォームを着
て西瓜にかぶりついている爽平の姿に、彼は一瞬唖然とした。
 それは何度見ても爽平の幼い頃の姿だ。
 記憶になかった。
 だが、少なくとも食べず嫌いでないことは確かだったのだ。
 いつの間にか身体が震えている。これは本当に自分なのだろうか。それとも
ここに映っている爽平という子はもう亡くなっていて、自分は別の誰かではな
いのか。
 無意識にジーンズの前ポケットに手を突っ込む。すると、何か紙のような感
触にあたる。
 取り出してみるとその紙は、麻衣夏の家にあった不在通知票だった。
 爽平と同じ町内に住んでいたのであれば、幼い頃に見かけたのかもしれない。
あのカレンという子を。もしかしたら麻衣夏にも会っているの可能性はあった。
 カレンはたしか実家に住んでいると言っていた。
 もう一度会えないか。彼をそう願う。
 思い出さなければならないことはまだわからない。だが、その方向はわかっ
てきた。
 幼い頃に何かがあったことだけは確かだ。



「こんにちは」
「失礼ですけど、どちら様で?」
 呼び鈴を押して玄関から出てきたのは二十代くらいの女性だった。麻衣夏よ
りもずっと大人っぽく、口元がうっすらと彼女に似ているかもしれない。まさ
か母親ということはないのだから、2、3才くらい年上の姉だろうか。
 心証を良くするために、彼は爽やかな笑顔を演出する。
「あ、私はその麻衣夏さんとお付き合いをさせていただいております『嘉島崎
爽平』と申します」
「ああ、麻衣夏の彼氏さんね。話はよく聞きますよ」
 人なつっこい笑顔をこちらへ向けてくれる。
「ええ、それで麻衣夏さんの双子のお姉さんであるカレンさんともちょっとし
た事で知り合いでして、それで実家にお住まいと聞いて、近くに来たので顔を
出そうと思いまして……もしご在宅でないのならまた改めて参ります。たいし
た用事ではありませんから」
「あ、あの……どういう事でしょうか?」
 女性の顔が訝しげに曇る。
「いらっしゃいませんか?」
 爽平はなんとか笑顔を崩さないまま、もう一度聞き直した。
「えっとですね。何か勘違いをなさっているようですけど」
「はい?」
 何か嫌な予感を覚え、鼓動が高まる。
「麻衣夏の双子の姉というのは私のことなんですが」
「え?」
 目の前の女性は、確かに麻衣夏に似ている箇所もある。だが、それは部分的
なものであって、全体的にはそっくりとは言い難い。でも、双子だと彼女は言
ったではないか。
「私が麻衣夏の双子の姉のレイカと申します。双子なのに似てないとはよく言
われます。なにしろ二卵性ですから」
 そう聞いてはっとする。
「レイカ……って、まさか、『カレー』」
「あらら、そんな事まであの子は教えたんだ。いやいや、お恥ずかしい」
「そんな……」
 『カレン』イコール『カレー』と結びつけていたのは自分の先入観からだ。
だから、麻衣夏の友人である佳枝は嘘を言っていたわけではない。
「それで『カレン』とお会いになったことがあるというのはどういうことでし
ょうか? もし嘉島崎さんの仰る『カレン』が麻衣夏や私の姉であるならば、
それはあり得ないことなのです」
「どうして?」
「姉のカレンは13年前に亡くなりました」
 目眩がする。自分の中で、それは有り得ないことだった。
「だいじょうぶですか?」
 ハンマーで殴られたような衝撃が頭の中に鳴り響いている。
 自分が見た『カレン』は何者なのだろうか。麻衣夏でないことは確かだった。
それは爽平が一番よくわかっている。
「あの、他にご姉妹はおられますか?」
 最後の可能性を考え、倒れそうになりながらも言葉を絞り出した。
「いえ、二人だけの姉妹です」
「……」
 決定的だった。積み上げたものがすべて崩されていく。
「あの、だいじょうぶですか。顔色悪いですよ」
 レイカは爽平を気遣ったように声をかけてくる。
「いえ、おかまいなく。ありがとうございました。ちょっとした勘違いだと思
います。ご迷惑をおかけしました」
 帰り道、爽平はぐしゃぐしゃになった思考をなんとかまとめようとする。
 『カレン』は亡くなっている。
 そして『カレン』と名乗る女性が爽平の前に現れた。いや、名乗ってはいな
い。彼が思い込んでいただけだ。
 彼女は問いかけた。
「あなたは人を殺したか?」と。
 カレンは幽霊となって爽平の前に現れたのか? 自分を殺した犯人を呪うた
めに。
「そんなバカな事があるか」
 言葉に出さずにはいられなかった。
「非科学的すぎる。なにより俺は何も思い出しちゃいない。そんな人間に復讐
できるのか?」
 さきほどから耳鳴りが止まらない。吐きそうだった。
 だが、空回りしそうな思考の中で唯一思い出せそうな事がある。
 それは、あの女性に昔会ったかもしれないという記憶だ。
 幽霊であれ何であれ、爽平は彼女を知っている。無関係な人間ではなかった。
 ふいに着信メロディーが鳴る。
 ほとんど無意識の操作で、着信ボタンを押して受話口を耳にあてていた。
「もしもし、爽平。どうしたの? 今日、朝からいなかったけど」
 麻衣夏の声だった。爽平は少し落ち着きを取り戻す。
「うん。ちょっとな」
 いろいろ話したいこともあったが、それは帰ってからにしようと彼は考える。
「もう!……な……も……の! あ……」
 麻衣夏の言葉が聞き取れない。ノイズが入ったように、途切れてしまう。
 通話途中で、電池切れのお知らせアラームが鳴った。
「あ、ごめん。電池が切れそうだから」
 そう言ったものの、携帯電話からは何も応答がなかった。ディスプレイは真
っ暗に消灯されている。電源スイッチを再び入れ直すが、十秒ほどですぐに切
れてしまった。
 話の途中だったので、麻衣夏は怒っているかもしれない。
 ちょうど駅前に大型家電の専門店があったはず。そこで緊急充電用のバッテ
リでも買おうと考えた。



 店に入ると、すぐに近くの店員まで近づいていく。
「すいません。携帯用の簡易バッテリありますか?」
 爽平は左手で携帯電話を店員に見せた。
「それでしたら、こちらをまっすぐ行きまして、突き当たり右角の柱の近くと
なっております」
 説明された通りに歩いていくと、奥の一角がまるまる携帯電話用のコーナー
だった。
 さすが大型店だけあってか、携帯電話用のアクセサリは豊富だ。簡易バッテ
リ以外にもいろいろなものがある。様々な形状のストラップ、きらびやかな付
け替え用アンテナ、ディスプレイに貼るプロテクトシール、イヤホンマイク、
パソコンに接続する為のコード、外付け用キーボード等。
「バッテリはあっちの並びかな」
 そんな独り言を漏らしながら、指で辿っていく。
 ふと、バッテリを捜していた手が止まる。
『ハンズフリー』
『骨伝導』
『周りの騒音・風を気にせず通話』
『一体型』
『手元で主機を操作』
 そんな文字が目に入ってくる。
『イヤホン&マイク』そう書かれた品物を手にとって確認した。
「そうか……」
 力が抜けたように左手に持っていたはずの爽平の携帯電話が落下する。




 改札を出ると彼女が立っていた。
 いつものように全身を黒く染めて。
 彼女は、悪魔か、それとも死神なのか。
「君は何者だ?」
 誰かは知っている。そんなものは些細なことだった。
「思い出したの?」
 口元を微妙に吊り上げた笑み。それは蔑みか、それとも戯れか。
「思い出してはいない、でも君が俺を騙そうとしていることはわかっている」
 携帯電話を取り出すと、メモリから一番頻度の高い番号を選択して発信する。
しらばくれるようであれば、バッグの中身を強引に抜き出せばいい。爽平はそ
う考えていた。
 だが、意外にも目前の彼女のバッグから聞き慣れた着信音が鳴り響く。
 彼女はもう隠す気はないらしい。バッグの中から携帯電話を取りだし、それ
に応答した。
「どうしてわかったの?」
 声が二重に聞こえる。まるで、もう一人どこかにいるかのように。
「君の実家に行って確認した」
「どこまで?」
 彼女はそのまま携帯電話の通話を切って爽平の近くに歩いてくる。
「君の姉さんは亡くなっている。『ワタヌキカレン』はこの世にはいない。そ
れから君が二卵性の双子だったということも」
「ふふふ」
「麻衣夏。もうお遊びは終わりだ」
「でもよく気付いたね」
「一卵性の双子の可能性が消えて呆然としていた時、携帯のアクセサリ売り場
に立ち寄ったんだよ。そこで気がついた。小型のイヤホンマイクを付ければハ
ンズフリーで会話が出来る。マイクも高性能で高指向性のものか、あるいは骨
伝導タイプのものを選べば周りの音を気にせずに小声でも話すことが出来る。
君は偽カレンと麻衣夏がイコールで結ばれぬように事あるごとにアリバイを作
った。今思えば不自然だったよ。それから君の携帯電話は地下に強い『H"(エ
ッジ)』だ。俺の携帯が繋がらない場所での通話も可能だった。まさかあのタ
イミングでかけてくるとはな。
 あとは『エイフー』というニックネームだ。同じ四月朔日の姓を持つ双子の
姉がいるのに、なぜ君だけそう呼ばれた? 苗字から先に考えたんじゃない、
君にそういう素行があったからそう付けられた。つまり人を騙すクセがあると」
「御名答」
「どうしてこんな手の込んだ事をした?」
「わからない?」
 彼女はこの期に及んでもしらを切るつもりらしい。
「質問をしているのはこちらだ」
「いちおうね、賭の期限いっぱいまでは気付かなければいいかな、なんて、楽
観的に思ってただけだよ。双子に勘違いさせたのは、こっちにしてみれば余興
みたいなもんだったし」
「賭?」
「覚えてないならいいや」
 ふと、彼女の顔に寂しさの色が見え隠れする。
「俺に近づいたのは何の為だ?」
「あらら、そんなに怒ってるのなら、何言っても無駄だね。別にいいよ、それ
さえも意図的に思うのならさ」
「俺は何をしたんだ?」
「質問ばっか。まだちゃんと思い出してないんでしょ? それとも、もう少し
なのかな」
「うるさい! 答えろ」
 爽平は、麻衣夏の飄々とした受け答えにだんだんと苛ついてくる。何もかも
知っているという素振りが気にくわなかった。
「答えてもいいけど、今のあなたじゃ、それを受け入れることができないよ。
たぶん、肝心な事が思い出せないと思うから。でなければ、あたしに会おうと
なんかしないはずだもん」
「いいから答えろ」
 どうあっても立場は彼女の方が上だった。それは認めなければいけない。
「あなたは西瓜が嫌い。でもそれはなぜ?」
 ゆっくりと、そして確実に核心をつく言葉。
「過去に何があった? 少なくとも俺は8才くらいまでは平気で西瓜を食べて
いた」
「ゆっくりとヒントを出してあげる。だからじっくりと思い出すといいよ」
 まるで子供を諭すような口調。
「くっ!」
 バカにされたような言い方に、爽平は憤りを感じる。
「海水浴へ行った記憶はある?」
「ああ、ぼんやりと思い出せてはいる。そこで女の子と会った。それがカレン
なんだろ?」
「違うわ」
 麻衣夏の否定の言葉は冷たかった。
 それに刺激され、彼の頭の中では新たな経路で記憶がリンクされていく。
「違う?」
 遮断されかけた記憶のリンクは、別経由で過去を辿っていた。
「あなたはカレン姉さんの顔は知らない。見てないでしょ。いいえ、見られな
かったものね」
 見てはいない。そう、カレンの顔を思い出す必要がないことに気がついた。
 それは、霞がうっすらと消えていく感じだ。
 うつぶせで倒れている少女の姿が思い浮かぶ。たしかに顔は見えなかった。
 そして、それがどんな意味を持つかを知ることになる。
「そうだ。あれは事故だった」
 当時の記憶が数刻分巻き戻された。
 それはこんな光景だった。
 父親が爽平に目隠しをする。そして、その身体をゆっくりと回した。もちろ
ん回されるのは爽平自身。
「そうね。あなたは夢中だったから」
 麻衣夏の声に導かれ、母親の笑い声が思い浮かぶ。
 足下がよろよろとおぼつかない。パンパンと手拍子が鳴る。
 これはその当時の爽平の記憶だ。
「西瓜割りか。そうだな思い出してきたよ」
 手には金属バットの感触。
 『もう少し右』『もう少し前』そんな声が聞こえてくるようだ。
「近くで遊んでた姉は、風で流されてしまったビーチボールを追ってたの。風
が強かったから必死になって走ってたわ」
 麻衣夏の補足の後、回想される記憶。
 波の音、そして両親の声。『爽平、そこよ』『そこだ、たたき割れ!』
「ああ、僕は本当に夢中だったんだな」
 振り上げたバットを思い切り叩きつける。
「姉はタイミングが悪く、ちょうどその横で倒れ込んでしまった」
 悲鳴があがる。『爽平ダメだ!』『やめなさい!』
 手に伝わる鈍い感触。無我夢中で叩いて、途中で後ろから抱きかかえられる
ように止められる。
「誰かが俺を止めていた。だから、何が起こったのか知りたくて目隠しを外し
たんだ」
 目の前には血だらけになった少女。視界が晴れても彼は目の前の出来事を理
解できなかった。
「大騒ぎになったわ。みんな姉の周りを囲んで応急処置みたいな事をしたのか
もしれない」
 そんな中で一人呆然と砂浜に膝をつく爽平。
「痛!」
 突然の頭痛が爽平を襲う。両手で頭を抑えながら、現実の彼もその場で膝を
ついた。
「痛いでしょうね」
 上の方から憐れむような麻衣夏の声が聞こえてくる。
「……」
 頭痛は治まらない。それどころか、どんどん痛みを増していく。
「それで話は終わりじゃないの。続きがあるけど、今のあなたに受け入れられ
るのかしら?」
(続き?)
「どうして姉を殺した爽平は民事的にもその罪を問われなかったか?」
 記憶の中の砂浜で、呆然としている爽平の目の前に現れる少女。その瞳は露
骨に怒りを彼へと向けていた。それは幼い頃の麻衣夏なのだ。
「なぜ二つの家族は、その事実を忘れることに懸命となったのか?」
 幼い彼女の手には爽平が持っていた血だらけのバットが握られている。
 それですべての記憶が繋がっていく。
 その後にあるのは、重い衝撃だった。
「痛!」
 側頭部への重い打撃は手加減などなかった。彼女は本当に殺意を抱いていた
のだ。
「思い出せそう?」
『お姉ちゃんを返せ!』
 現実の麻衣夏の声と昔の麻衣夏の声がだぶる。
 爽平は諦めたように少女の怒りを受け止めたのだ。
「そうか……俺は麻衣夏に殺されたんだ」
 ああ、あの時記憶に刻まれた少女は麻衣夏だったのか。彼女と初めて会った
時に感じた既視感は幻ではなかった。爽平はすべてを悟る。
「殺せなかったけどね……」
 麻衣夏は寂しそうにそう呟いた。

 あの時爽平は、麻衣夏が手にした金属バットで殴られ、重傷を負い、そして
記憶を失った。カレンを誤って殺したとしても11才の子供のことだから罪は
問われない。そして、事故とはいえ自分の娘が殺されたとしても、その妹が相
手の子供を殺そうとして大けがを負わせたのだから、相手の子供に対しても両
親に対しても距離を置きたがるだろう。そして、お互いの家族は不幸な過去の
出来事を忘れることに懸命となるのだ。
 爽平は一時期、叔父の家に預けられていたことを思い出した。中学から全寮
制の学校に入ったために、ほんとうにわずかな期間ではあった。両親はすべて
を白紙にするつもりだったのだろう。






#241/598 ●長編    *** コメント #240 ***
★タイトル (lig     )  04/08/29  20:27  (220)
お題>スイカ〜Revenge [4/4] らいと・ひる
★内容

rewinding−麻衣夏−


7月31日

 賭の期日まで一ヶ月となる。爽平は相変わらず何も思い出さない。
 思い出さないまま賭の結果を出してしまっていいのだろうか。
 フェアじゃない気がする。爽平はあたしの正体を知らない。
 あたしの正体を知ったらどうなるのだろうか。
 たとえどんな結果になろうとも、知らなければあたしたちは前に進めない。



8月1日

 今日はちょっと強引に攻めてみた。
 直接的なアイテムを持ち出して、彼の目の前に見せつける。
 一瞬だけ彼は驚いていた。毛嫌いしている感覚はあるものの、思い出す兆候
はない。
 映画もベタにホラー映画にしてみた。血を見たら何か反応するかと思ってい
たが、それさえもなかった。
 夜、これみよがしに彼の前で西瓜をたらふく食べた。もう食べられないよぉ〜。



8月7日

 彼と海へ行った。さすがに二人で西瓜割りは恥ずかしいので、西瓜の形をし
たビーチボールを持っていく。
 周りにもそんなことをやる人間はいなかった。おかげで普通に遊んでしまっ
た。結構楽しかったかも。
 爽平と一緒にいることが楽しいと思える自分、そして黒くもやもやとした自
分。果たしてどちらが本当の自分だろう。

 夜、ファミレスで佳枝と久しぶりに会う。あとでメールするとか言ったけど、
あたしは彼女のメアドを知らない。ま、いっか。直接電話することにしよう。



8月8日

 そろそろ8月も上旬が終わる。かねてより計画していたものを実行する。
 ゴスロリ服は爽平には見せていないもう一つのあたしの姿。もしかしたら、
こちらの姿こそ本当のあたしなのかもしれない。退廃的で悪魔的で成長しな
い少女のような黒い自分。
 送ってもらってすぐ着替えて目的の駅へ向かう。爽平は本屋で立ち読みをす
るような事を言っていた。すれ違ってしまったらまた今度にすればいい。でも、
どんぴしゃ。本屋の前を何度かうろうろしていたら、爽平が出てきた。あたし
は彼に気付かないふりをしてそのまま歩いていく。
 しばらく後をつけられていたが、ここで予想の範囲ではあるが極めて難易度
の高い事態に陥った。ポシェットに入っている H"(PHS)が着信のために振動
しはじめたのだ。
 あたしは爽平に気付かれないように右手の中に収まっているリモートスイッ
チで H"(PHS)を通話状態に切替える。イヤホンと一体型のマイクに「もしも
し」と小声で呟くが、反応がなかったものだから少し焦った。もう一度小声で
呟くと、今度は反応がある。「麻衣夏の声がききたかっただけ」だって。こん
な時でなければ大げさな反応をしてやったのに。



8月11日

 明日から爽平がお盆休みに入るというので、プールに行こうと誘う。
 計画していた第二弾を実行することにした。



8月12日

 爽平が待っているはずの駅のベンチで彼を観察する。時間になってもあたし
が現れなければ、周辺を探し回るか、座れる場所に移動するだろう。案の定、
こちらに向かって歩いてくる。目が合った。面白くて笑いそうになる。
 彼に気付かれないようにハンカチをベンチの上に置き、そのまま立ち上がっ
て彼の元へ歩み寄る。
 簡単で意味深な質問を投げかけた後に、呆然としている彼を置いてその場を
去る。彼が後をつけてきていないことを確認し、柱の死角に入る数メートル手
前で H"(PHS)を通話モードにする。あたしが見えている場所で着信させなけ
れば意味はない。
 予め爽平の電話番号をメモリから呼び出した状態で保留にしておいたので、
手元のボタン一つで簡単に発信ができる。そして、後方で聞き慣れた彼の携帯
電話の着信メロディーが鳴る。あたしは急いで柱の死角に入り、耳元のイヤホ
ンマイクに手をあてた。
 寝坊したと、いい加減な嘘をつくのは今更ながら気が引けるが、それが無難
な言葉だろう。

 爽平と再会した時、彼はあたしを覚えていなかった。だからリセットするこ
とにしたのだ。彼が知っている四月朔日麻衣夏でない別の誰かとして。
 忌まわしい事件の日、爽平は怯えるようにあたしの顔をしっかりと記憶に刻
みつけたと思う。成長したとはいえ、あたしの面影を思い出してくれればいい
のだが。


 もともとこれは彼を騙す計画ではない。知り合って親しくなってしまい、幼
い頃に出会った記憶をどこかへなくしてしまった彼を呼び覚ますためのものだ。

 知り合った時、お互いに何者なのかはまったく気付いていなかった。しばら
く会っているうちにあたしは思い出してしまったのだ。自分が殺そうとした相
手だということに。



8月15日

 前から友達と約束していた沖縄旅行に行く。4泊5日だ。爽平が近くの駅ま
で送ってくれた。いちおう彼には7泊8日と伝えてある。



8月17日

 佳枝から電話があった。爽平に会ったらしい。玲衣夏の事を聞かれたそうだ。
双子の姉妹ということで単純に誤解してくれれば少し面白くなるかもしれない。
まあ、本来の趣旨からは外れるかもしれないが、これもまた余興だろう。そう
でも考えないと、この計画は実行することがとても辛い。



8月20日

 本来ならまだ沖縄にいるはずだが、爽平には内緒でもう帰ってきた。あの仕
込みが成功していれば、彼はもう一人のあたしをずっと探しているはずだ。



8月21日

 駅に行ったら爽平がぐったりしながらベンチに腰掛けていた。朝からずっと
待っていたのだろうか。でも、彼はまだ何も思い出していないようだ。ヒント
を与えるために喫茶店で話すことにする。その前に、確実に麻衣夏であるあた
しのアリバイを作る。爽平の携帯の電波が圏外になる直前に発信し、爽平にか
け直させることにする。地下に強い H"(PHS)ならではの方法だ。
 そういえばもう8月も下旬。賭の期限まであと少し。
 最悪の場合も考慮して、多少のショックを与える仕込みも行ってみた。姓を
「ワタヌキか?」と聞かれて、どうしようかと迷ったけど、双子だと思わせて
違っていた方が衝撃的だろうと考えて肯定してみた。だけど、この仕込みが使
われることなく爽平が思い出してくれればいいのだが。



8月23日

 お土産を持って爽平の家に行く。沖縄で本当に買った物なので、ばれること
はないだろう。
 それから彼があまりにも思い出さないので、嫌味を込めて、近くのスーパー
で買った西瓜ジャムを持っていく。
 見た瞬間に嫌な顔をして、もうやめてくれと怒られた。
 だからあたしは言ってやった「どうして嫌いなのか考えたことがあるの?」
って。
 彼は思い出せないのではない。思い出すことをやめてしまっているだけなの
かもしれない。



8月24日

 玲衣夏から電話があった。爽平がそっちへ行ったらしい。玲衣夏が二卵性の
双子であること、そして可憐姉さんが亡くなっていたことが爽平にばれた。
 きっと爽平は混乱しているだろう。その後、彼から電話があった。バッテリ
が切れて再度かけ直してきてくれたが、2度目の電話は何か悟りきったような
口調であった。
 爽平にも覚悟ができたのだろうか。
 あたしはいつものゴスロリに着替えると、爽平を駅の改札で待つことにした。

 もう、夏が大好きなだけの女ではいられない。



	*							*



「俺は麻衣夏に殺された」
 膝をついて頭を抱えている爽平。
「殺せなかったけどね……」
 あの時の怒りは今でも覚えている。あたしは可憐お姉ちゃんが大好きで、そ
れを奪った目の前の男の子が憎かった。だから本当に殺してやるつもりだった。
 だけど……『やめなさい』お母さんにそう言われて抱きしめらて止められた。
 『もういいのよ。あなたまで不幸になることはないのだから』
 あの時のお母さんの言葉は忘れない。だから、お姉ちゃんの分まで幸せにな
ってやる。そう誓ったのだ。
 本当は夏が大嫌いで、お姉ちゃんの命日にもなってしまった夏を好きになれ
るはずがなかった。でも「幸せになってやる」その言葉を呪文にして、あたし
は夏という季節を自分の中に取り込んだ。でも、それは所詮メッキなのかもし
れない。
 あたしは情熱的で行動的な女などではなく、内に閉じこもって鎧のようなゴ
スロリに身を包む無力な女でしかない。
 メッキはいずれ剥げてしまう
「爽平。あたしはね。復讐の為にこんな手の込んだ事をしたんじゃないの」
 あたしはしゃがみ込んで爽平の頬に手をあてる。温かいぬくもり。あなたは
生きているのだから。
「あなたに、自分を殺そうとした女の子が目の前にいるということを思い出し
て欲しかったの。事実をただ突きつけるのは簡単だったけど、それじゃ意味が
ないの。まったくの他人であればどんなに良かったか。あなたと知り合うこと
がなければ、こんなにも苦しまずには済んだのに。だからあたしはフェアにな
りたかった」
 惚けたような爽平の顔をしっかりと見つめ、そして話を続ける。
「あたしは現実をきちんと受け止めた爽平に、謝りたかったの。あれは不幸な
事故だから。あなたを殺してもどうにもならないことはわかってるから」
「僕を許してくれるのか」
「あなたは十分罰を受けている。それにね、これから生きていくことが罪滅ぼ
しにもなるのよ」
「ありがとう。嘘でもうれしいよ」
 あたしは爽平の頭にあった両手を優しくほどくと、その頭部に残る傷を包み
込むように撫でた。
「ううん。嘘じゃない。あなたは死なないで。それがあたしの願いだから」
「え?」
 爽平は驚いたように顔を上げる。
「今度はあたしがあなたに許してもらう番よ」
「どうして?」
「わからない?」
「……?」
 爽平は幼子のようにぽかんとした顔で首を傾げる。
「んとね」
 あたしは彼の頬を両手で優しく掴んで引き寄せた。
「賭けはあなたの勝ちだから」



                               了




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