#136/598 ●長編
★タイトル (CWM ) 03/04/04 00:00 (463)
冥界のワルキューレ1 憑木影
★内容 03/04/11 00:19 修正 第2版
そこは、闇の中だった。
その闇は下方へ向かうにつれ、次第に濃くそして深くなってゆき、上方へ向かうと
次第に明るく薄暮の世界になってゆく。そこは巨大な筒の内側のような場所だ。
円筒形の長い空間である。広さは直径1キロといったところであろうか。どのくら
いの深さがあるのかは、見当もつかない。そして、高さも果てしなく見える。
その果てしない空間を覆っている円筒形をした壁に、一つの横穴があった。壁に穿
たれた横穴から下に向かって、階段が伸びている。
その階段は、螺旋状に壁にそって造られていた。壁に刻まれた階段を降りてゆけば、
長大な円筒形の空間の最下部へ辿り着くことができるようだ。
横穴から、影が現れる。その影は黒衣を纏った男だった。漆黒のマントに身を包ん
だ男は、目深に鍔広の帽子を被っている。黒衣の男は、静かに呟いた。
「思ったとおりだな」
その男の後ろから、白い巨人が現れる。白衣を纏った巨人族の女戦士だった。巨人
の四肢には特に奇形的なところはなく、見事にバランスのとれた姿形の巨人である。
むしろ、その巨人は通常の人間以上に美しいといえた。
「何が思ったとおりなのだ、ロキ」
ロキと呼ばれた黒衣の男が答える。
「これを見ろ、フレヤ」
フレヤと呼ばれた純白の鎧を身につけた巨人戦士は、ロキの指差す先の壁を見る。
そこには、古代語でこう刻まれている。
『ここより、はじまる』
フレヤは女神の美貌に苦笑を浮かべる。
「さっきおまえが書いたしるしだな」
「そうだ。我々はここから下りはじめ、半時は下りつづけたはずだ。しかし、またこ
こへ戻ってしまっている」
ロキは何の感情も感じられぬ声で淡々と語った。フレヤは少し嘲るような口調で言
った。
「つまり、我々に対しては、冥界への扉は閉ざされているということだな」
「今はまだな」
ロキはじっとその冷徹な瞳で深い地下の果てを見つめている。
「しかし、我々がそこに行く必要がある以上、その扉は必ず開かれる」
闇は深く静まり返っていた。
砂塵の彼方に太陽が沈んでゆく。地獄の業火のような真紅に、砂漠の空を染めなが
ら。
その紅い太陽の光で身体を染めながら、砂漠を進む人影が三つ。皆、フードつきの
マントに身を覆っているため、表情は見えない。
そして彼らに従う三頭の獣がいた。獣は荷を背負い、黙々と後ろを歩いている。
「それにしてもや、」
一人が愚痴り出す。
「なんで、こんなくそ熱いところをだらだら旅せなあかんのや、ヌバーク、こらっ。
魔道でなんとかせんかい」
ヌバークと呼ばれた人影が、フードをとり顔をだす。ヌバークは漆黒の肌に、黒い
髪の少女だ。
この時間は、夜の激しい寒さもなく、昼間の灼熱もなく、かろうじて人間が外気に
耐えれるときだった。
「言っただろう、バクヤ。魔道でアルケミアへゆく道は全て封鎖されている。今のア
ルケミアは狂王ガルンの支配下にあるのだ。魔道を使わずにゆくしかない」
「そやけれどもや」
バクヤと呼ばれたその人も、フードをとる。その顔はとても端正な女性のものだっ
たが、髪を短く切りこんで鋭い瞳を持ったその姿はむしろ、精悍というべきだろうか。
「ロキとフレヤは、魔道の道を通っていったんとちゃうんかい」
「だからだ」
ヌバークは、だんだん子供をなだめる母親の口調になってくる。しかしどう見ても、
ヌバークのほうが、バクヤよりずっと若そうに見えた。
「ロキとフレヤのゆく道は、人では通れぬものだ。彼らは人では無い存在だから、そ
の道をゆける。それも、説明したと思うが」
「うぬう」
バクヤ自身、そんなことはよくわかっていた。
「せやけどや、もう三日やで。三日。こんなくそ熱いところを三日も旅して、いつに
なったらアルケミアが見えてくるんや」
「七日かかるといっただろう。まだ半分も来てないぞ。ねをあげるにしても早すぎる。
それとも今からおまえだけ退き返すか? バクヤ」
「あほいえ」
バクヤはただ単に、不機嫌なだけだった。苛酷な旅にという訳ではない。苛酷とい
うのであれば、もう少し酷い状況も経験してきたことはある。むしろ、この旅は楽と
いってもいい。
例えば、水は魔道を通じて取り出すことができるため、その心配をしなくてもよか
った。食料にしても、ヌバークが調達してきた三頭のカメロプスという獣が十分な量
を運んでくれている。
バクヤにしてみれば、むしろこの旅は単調なのだった。最初のうちは日中を支配す
る凄まじい灼熱や、夜を覆う極寒に心を奪われたが、三日目となると同じことの繰り
返しになってくる。
バクヤは後ろに従うカメロプスを見た。見た目は東方にいるラマという獣と似てい
るのだが、砂塵に対応した瞼や鼻を持っており、背中な脂肪の塊があって苛酷な環境
であっても耐えてゆける獣だ。
その獣たちを引いて歩いている人影に、バクヤは声をかけた。
「おい、エリウス」
「なあに」
エリウスと呼ばれたその人影は、フードをとる。そこに現れたのは、美しい黒髪の
青年だ。
「おまえもなあ、もうちょっと、しゃきっとせんかい、こら」
「しゃきっとって、」
「んだから、こう、似合いすぎるんや、その姿が。なんつうか、おまえ一応、王子や
ろうが」
「んなこと言われてもなあ」
突然、前をゆくヌバークが歩みを止めた。バクヤたちも思わず足をとめる。
「見ろ」
彼らは、小高い砂丘の頂に差し掛かっていた。見晴らしの好い場所だ。ヌバークは
行く手を指差す。陽はすでに地平線のあたりまで沈んでいたが、空は残照でまだ明る
い。
砂漠は広大な灰色の海のように風で刻まれた波紋をさらし、眼前に広がっている。
その無限にも見える砂の世界の、ずっと向こう。
そこには砂塵が蠢いておりその中に、何か影のようなものが時折映る。
その幻影の彼方に、巨大な城塞のような山が見えた。
その姿は薄暮に立ち尽くす、世界を背負った巨人を思わせる。
それは、人工物のように見事な円形状に聳えていたが、しかしスケールから考える
と人工物であるとは考えられない。おそらくトラウスにある聖なる樹、ユグドラシル
なみのスケールがありそうだ。つまり、広大な山脈に匹敵する規模である。
「あれがアルケミアか」
バクヤの問いに、ヌバークは無言で頷く。
それは、暮れ行く太陽の下で陽炎のように揺らめいて見えていたが、確かに実在の
ものとしての存在感がある。
ある種見るものに畏怖を感じさせるような、そんな存在感であったが。
三人は、再び砂漠の海を歩み出した。
その果てしなく広大な砂の海へゆっくりと三人は飲み込まれる。
風が渦巻き、灰色の巨大な並となって通りすぎていく。
夜の闇が静かに近づいていた。
それから四日間、バクヤたちは歩き続けた。そして、その奇妙な風景の場所へと辿
り着く。
「なんや、ここは」
バクヤは思わず呟いた。
砂漠は唐突に終わる。その砂漠の終わりには小さな集落があり、ヌバークはそこで
カメロプスや砂漠の装備を売り払うと、新しい装備を購入した。
そして、砂漠の終わった地点。そこは、切り立った断崖だった。断崖は巨大な円を
描いて窪地を囲っている。そして、その断崖に囲まれた土地、そこは緑の密林だった。
遥か地面の下にはぎっしりと緑の木々が茂っている。その密度は、とても高い。上
からみると濃緑のカーペットを敷き詰めたようだ。
密林の向こう側に巨大な円筒形の山が聳えている。その山は完全に垂直に切り立っ
ているように見えた。まるで、空に向かってそそりたつ巨大な砲身のようだ。
それは濃緑の湖に聳え立つ、巨大な塔のようにも見える。自然に形成された地形と
は思いがたいが、人工にしてはスケールが大きすぎた。幅にしろ高さにしろ、中原の
山脈を遥かにこえる規模に見える。上方は雲や霞に隠れはっきりと見えない。
「知らなかったのか?」
ヌバークが冷然と言い放つ。
「アルケミアは、グーヌ神が地上に降り立った時に作り上げた山の上に存在する。そ
んなことも知らずに、アルケミアに行くつもりだったのか」
ぬう、とバクヤは唸る。気がつくと、バクヤはエリウスの頭を叩いていた。
「痛いなあ、もう」
ぼやくエリウスを、バクヤは叱り付ける。
「おまえもなあ、なんでこういうことをおれに説明しとかんのや」
「だって」
エリウスは中原で最も古い王国の王子に相応しい美貌に、無邪気な笑みを浮かべる。
「聞かなかったじゃん」
うぬう、とバクヤはうめくと、エリウスの頭を叩く。
「痛いよう」
「うるさい、つべこべいわんと、行くぞ、こら」
「こらって」
エリウスは先に立って歩き出したバクヤの後を追いかける。
断崖には下へ降りてゆくための隘路があった。隘路を下るとそこは密林である。蒸
し暑く薄暗いその世界は、毒蛇に毒虫、猛獣に奇妙な姿をした猿たち、そして極彩色
の鳥たちが乱舞し、天上世界の色彩を持った花の咲き乱れる空間だった。
生きるものに容赦がない灼熱の砂漠と違い、絡まりついてくるような熱気と豊穣な
生命の気配に満ち溢れた空間である。バクヤたちは、その過剰な闇の中を、肌に粘り
つく熱気の中を歩んでゆく。
そこを抜けるのに、三日かかった。
そしてついたのは、聳え立つ山。
そこには、垂直に広がる森林があった。円筒形の山は目の前に聳え立ち、その垂直
に広がる山稜には木がぎっしりと生えている。壮大にそそり立つ緑の壁のようだ。そ
のあまりのスケールに、眩暈すら感じさせられた。
ところどころに、巨大な滝が垂直の河となって、地上へ水を落としている。その水
の量は莫大で、巨大な透明の柱が聳え立っているように見えた。水飛沫が霧のように
なって、その水の柱を覆っている。
上方は雲に隠れてよく判らないが、雪に覆われているようだ。上のほうはあまりに
高すぎて、ぼんやりとしか見ることができない。
バクヤたちはその神が創り出した空間へと、足を踏み入れた。
そのとてつもない山へ登りだし、四日が過ぎる。
「それにしてもや、」
バクヤは一人愚痴る。その巨大な山を四日登り続けた。雲に近づくにつれ、極寒の
世界になってくる。
バクヤは、左手を刃が鋭く尖った斧のような形に変形させていた。その左手を岩盤
に叩きこむ。メタルギミックスライムという、金属生命体から出来たバクヤの左手は
雪氷に覆われた岩盤にくいこみ突き刺さった。バクヤは身体を押し上げる。
「いつまで、このくそ寒いところを登り続けなあかんのや」
「だからさあ」
バクヤの隣でエリウスが涼しい顔をして答える。エリウスは、垂直に切り立った山
を平地を歩くように平然と歩いていた。
魔操糸術。
エリウスはその技の使い手である。
エルフの紡いだ糸を、魔道で作り上げた極小の穴を通して彼方に放つ。その糸は、
ずっと上方の岩に結わいつけられており、エリウスの身体を支えていた。
エルフの糸は、目に見えぬほど細いがエリウスの身体を支えるのには十分な強度が
ある。
「ヌバークが言ってたじゃん。七日かかるって。あと三日でしょ」
うぬう、とバクヤは唸る。
そんなことは判っていた。ただたんに、単調なこの作業に飽きてきただけである。
しかも、肉体的にかなり疲労していた。しかし、涼しい顔をしているエリウスにそれ
を悟られるのは、物凄く腹立たしい気がする。
バクヤは、身体を右手と両足で支えると左手を引き抜く。ぶん、と細長くした左手
を上方に放り上げた。それはまた岩盤に叩きこまれる。バクヤは左手を支点に身体を
押し上げてゆく。
「ヌバークのやつは、また一人で先にいっとんのか」
「うん、次の野営地を設営してるよ」
ヌバークは風の精霊を使って体を押し上げていくので、バクヤやエリウスと比べて
早く移動できる。その代わり野営の荷物を引きうけ、いつも野営地の設営を一人で行
う。
「ま、しかしおまえらはや、なんかこう」
「え、なに?」
バクヤは無邪気に笑いながら問いかけるエリウスの顔を見て、なんとなく愚痴る気
を無くした。
神の造った山。
そこに登るのであれば、自身の精神と肉体をぎりぎりまで酷使し、苛酷な極寒の地
で魂をすり減らしながら登ってゆくのが礼儀のような気がする。つまり、登山は山と
の格闘だと思っていた。
しかし、エリウスはまるで野原を散歩するようなペースでバクヤについてくる。こ
れでは、一人体力をすり減らしながら登っている自分がただの馬鹿のように思えた。
(ま、ええか)
自分は自分のやり方に満足している。
エリウスたちをとやかく言ってもはじまらない。そうも思えた。
そして、三日が過ぎた。
真っ白い吹雪の世界を通りぬけ、バクヤは極限状態に達している。予想以上に体力
を消耗しているのは寒さのためというよりも、空気の薄さのせいのようだ。ヌバーク
が魔道の力で空気の密度をあげてくれていなければ、バクヤは動くことすらできなく
なっていただろう。
それでも、ほとんど意識を失う寸前まできていた。
白い雪とも氷片ともつかぬものが無数に乱舞するその空間。バクヤはその世界で自
分の小ささを痛感していた。
そこは、まさに神の力が猛威を振るっている世界とも思える。メタルギミックスラ
イムの左手で辛うじて岩盤に張り付いてはいるが、吹き荒れる暴風は一瞬でも気をぬ
けばバクヤを彼方まで吹き飛ばすであろう。
それは真白き巨大な怪物である。
その力はとてつもなさすぎて、バクヤには全貌を感じ取ることすらできない。ただ、
果てしなく巨大な力が、あたりを支配していた。
ほとんど無意識の中でバクヤは登り続ける。
何も考えず、ただ機械的に身体を動かし、しかし着実にバクヤは登って行った。
やがて時間が消えてゆき。
空間も消えてゆく。
肉体も感じられなくなり。
ただ純粋な意思だけが。
上へ向かおうという意思だけが真っ白な世界に残った。
それは白い闇の中を漂い続けるようなものだ。
無限に続く白い闇の中を。
ただ微小な点と化して漂い続ける。
何も考えず。
何も見ずに。
ただひたすら。
ただひたすらに。
唐突に、頂上は現れる。
嘘のように吹き荒れていた吹雪が消えた。
バクヤはある意味、あっけにとられる。
純白の暴風が支配する空間を抜けたところは、濃紺の空がひろがる世界だった。
ふらふらになりながらも、バクヤは頂上に手をかける。先に着いていたエリウスが
助けあげようとして手を出した。バクヤはその手を払いのけ、ふらつきながら立ちあ
がる。
そこで見た景色に、バクヤはため息をついた。
「これは…」
そこには、壮麗な景色が広がっていた。
ある意味、ヌース神を奉る地であるトラウスと似た佇まいを持つ場所である。
山上は広大な円形の窪地であった。常緑の森林に覆われたその土地は、どこか静謐
な空気を纏っている。
その中心には深みのある青色の水を湛えた湖があった。その湖の中心部に島がある。
その島は小高い丘となっており、その丘の頂に城塞があった。それがアルケミアの中
心地のようだ。
バクヤは疲れを忘れてその景色に見入っている。濃紺の空が頭上に広がる、美しく
神秘的な世界。それがアルケミアであった。とても邪悪とされる神の造った地だとは
思えない。
「想像していたものと違うか?バクヤ」
ヌバークの言葉に、バクヤは頷く。
「まあ、中身をみてみんと判らんけどな」
ヌバークは薄く笑う。
「その通りだな。まず、入りこまなければならないが」
バクヤたちのいる地は、巨大な天然の城壁の頂である。その巨大な岩盤がアルケミ
アを円形に囲んでいた。アルケミアへ入りこむにはその切り立った断崖を、今度は下
ってゆく必要がある。
「ここを降りるわけ?」
エリウスの問いかけに、ヌバークは空の一点を指差して答える。
「どうやら、出迎えが来たようだ」
空に金色の輝きが現れる。宵の明星のように輝く金色の光は、次第に大きくなり形
をはっきりとりはじめた。それは、巨大な金色の鷲である。
金色の鷲は、バクヤたちの上空をゆっくり一回旋回すると急降下してきた。そして、
バクヤたちの目の前で一度大きく羽ばたく。その姿は、月の光のような黄金の光につ
つまれている。そして、その光は一瞬直視できないほど強力なものに高まった。
光はすぐに消える。そして、光の後にバクヤたちの前に立っていたのは、灰色のフ
ードつきのマントに身を包んだ男だった。
その男は、ヌバークと同様に黒い肌に黒い髪、そして琥珀色の瞳をしている。その
姿は魔導師のようだが、顔つきの精悍さや身体の逞しさはむしろ戦士を思わせた。
「よくぞ戻られた、ヌバーク殿。そして、助け手をつれてこられたらしい」
ヌバークは頷く。
「出迎え御苦労、ウルラ殿」
バクヤは、ウルラと呼ばれた男と、ヌバークを見比べ言った。
「ええとや、こちらはなんつうか、おまえの友達なんか?」
ヌバークは頷く。
「ウルラ殿、紹介しておこう」
ヌバークは、エリウスを指し示す。
「中原で最も古い国の王子、エリウス殿だ。ガルンを倒すのに力を貸してくださる」
「おおっ」
ウルラの琥珀色の瞳が鋭い光を放ち、エリウスを射抜く。エリウスはぽよん、とし
た笑みでその眼差しに答えた。
「いやあ、王子といっても国は無くなっちゃったんだけどねえ」
「あなたが、あの、エリウス王子か」
「おいっ」
バクヤが割って入る。
「おれもいるんやけど」
「エリウス殿の友人、バクヤ殿だ。同様に力を貸してくださる」
「うむ」
ウルラはちらりとバクヤを見ると頷く。
「急ごう、我々にはあまり時間は無い」
ウルラはそういうと、先に立って歩きだす。
ウルラの行く先の地面に突然、地下へ下る穴が現れた。その穴の中にウルラは踏み
こんで行く。バクヤたちも続いて、その穴の中にある地下へ続く階段へ踏みこんだ。
バクヤたちはウルラに導かれて暗い階段を下ってゆく。ウルラは狭くて暗い階段を
魔道の光で照らしながらバクヤたちの先を行った。
ヌバークはウルラに問いかける。
「状況はどうなのだ、ウルラ殿」
「よくない」
ウルラは、冷然と言った。
「ガルン様が黄金の林檎を持って戻られてから、状況は一変した。それまで二派に分
裂していた貴族たちは、今はガルン様の元にまとまっている」
ヌバークはため息をつく。
「それでは、ガルンが王に?」
「いや、ガルン様はまだヴァルラ様を王としておられる。多分待っておられるのだ」
「おい」
後ろからバクヤが声をかける。
「貴族っていうのはあれか、つまり」
「おまえたちのいう魔族のことだよ」
ウルラが答える。ヌバークは苛立たしげにウルラに問いかける。
「ガルンは一体何を待っているというのだ」
「決まっている。ヴェリンダ様をだ」
「では」
「そうだ。ヴェリンダ様を支配下におき婚礼の儀式を執り行った上で、王位を継承す
るつもりなのだ」
ヌバークはため息をつく。
「では人間も」
「うむ。もうヴァルラ王の帰還が可能だと信じている者は殆どいない。我々のように
地下へ潜伏しているごく僅かな者だけが、ヴァルラ王の救出に向かうつもりなのだ。
とりあえず、我らの仲間が地下でヌバーク殿、そなたの帰りを待ち望んでいる。早く
そこへ行こう」
そして、バクヤたちは地下の底へついた。かなりの距離を下ったはずである。そこ
には、巨大な鉄の扉があった。
ウルラは小声で呪文を唱えながら、その鉄の扉を押す。扉は開かれた。
そこは、薄明の世界だ。
天井は高く、幅の広い通路が真っ直ぐ伸びている。
薄く光が天井から差し込んでいた。朧げにものの形を判別することができるが、色
はすべて灰色にしか見えない。
壁は、何か得体のしれない蔦のような植物によって覆われており、材質がよく判ら
ない。床にも洋歯植物のようなものが生い茂っていた。道の両側には水の流れる河の
ようなものがある。そして、所々天井から小さな滝のように水が流れ落ちていた。
ウルラはその真っ直ぐな道を先に立って歩き出す。バクヤたちもそれに続いた。ヌ
バークはバクヤとエリウスに声をかける。
「ここは迷宮だ。気をつけろ」
「なにいうとるんや、道は真っ直ぐやないけ」
突っ込むバクヤにヌバークは首を振って答える。
「真っ直ぐに見えているだけだ。空間そのものが歪曲している。うかつに道をはずれ
ると、どこか得体のしれない世界へ飛ばされることになる」
「おっかないねえ」
と暢気な声でエリウスは言った。
薄明の空間は、ヌバークにいわれて改めて見なおしてみると何か不思議な力に満ち
ているような気がする。差し込んでいる薄い光にしても、流れる水にしても、生い茂
る植物もどこかこの世のものとは思われない気がした。
バクヤはとりあえずはぐれないように、ヌバークのすぐ後ろを歩くようにする。そ
の迷宮も随分長い道のりだった。
自分がどのくらい歩いていたのかよく判らない。風景は変わることが無かったため、
ずっと同じ所を歩いているような気もするし、随分遠いところまで来たような気もす
る。
道の終わりは唐突にきた。バクヤにはその扉が突然出現したように思える。
それは巨大な鉄の扉だった。黒く塗られており、むしろ行く手を塞ぐ闇のように見
える。
ウルラは小声で呪文を唱えながら、その扉に手をかけた。扉は少しため息のような
音を立てて、そっと開く。
ウルラはその中に入っていった。バクヤたちも、その後に続く。
「おい」
扉の中は、広々とした部屋である。殺風景といってもいい。剥き出しの石の壁と天
井、床があるばかりだ。そして向こう側には鉄格子が嵌っている。
「ここは牢獄とちゃうんか」
バクヤは思わず呟いた。あたりを見まわす。ウルラの姿が見えない。ヌバークが蒼
ざめる。
「馬鹿な」
ヌバークは数歩前にでる。鉄格子の向こうは闇だ。しかし、その奥には何か不気味
な気配がある。
「この扉開かなくなっちゃった」
エリウスが閉まった扉を押しながら、のんびりとした声で言った。バクヤは野獣の
ような唸り声をあげる。
ヌバークが絶叫した。
「ウルラァァーーッ!」
『そう怒らないでくれ、ヌバーク殿』
どこかから、ウルラの声が聞こえてくる。
「この裏切り者!」
『冷静になりたまえ。まさに状況は変わったのだよ。考えてもみたまえ。ガルン様は
黄金の林檎を持っている。そしてかつて裏切ったラフレールも今はウロボロスの輪の
彼方だ。後はエリウスさえ死ねば、我々に敵対するものはいなくなるのだよ』
「おまえは」
ヌバークは、血を吐くように叫ぶ。
「ヴァルラ様を裏切るというのか!」
『いいではないか、大した問題ではない。いいかね。中原に満ち溢れるあの無様な家
畜どもを駆逐し、再び貴族たちと王が全てを支配する世の中になるのだよ。ヴァルラ
様が消えるくらい大したことではないよ』
「ふざけるな!」
ヌバークは叫ぶ。しかし、もうウルラの答えはなかった。代わりに、鉄格子の向こ
うに明かりが灯る。
薄明かりの中で何か蠢く無数のものが浮かびあがった。獣のようである。四足で歩
き回っていた。
しかし、それらは人である。白い肌の人間たちであった。
「おい、なんやあれは」
バクヤはヌバークに問いかける。ヌバークはうめいた。
「家畜だよ。白い肌の」
「いや、あれは人間やろう」
その人間たちは、足を膝の下で切断されているため、二足で歩くことができず手を
つき這い回っている。髪は伸び放題で、顔は髭だらけだ。身体は汚れているが白い肌
であることは判る。
その人間たちは獣のような声をあげるばかりで、言葉を持っている様子は無い。こ
ちらの言っていることも理解していないようだ。
服は身につけていないが、その両手には鉄の爪が装着されており、口には鉄の牙が
埋めこまれている。白い肌のその者たちは鉄格子のところまできて、こちらを見て唸
り声をあげていた。
飢えた獣のように見える。狂った野獣にしか見えなかった。
「なぜ人間をあんなふうに」
バクヤの呟きに、ヌバークは冷たく笑って答える。
「神はそもそも黒い肌の人間と貴族しか造らなかった。白い肌のものは、奇形として
生まれてきたのだ。知能も低ければ、生命力も低かった。それでも人の形をしていた
から殺すわけにもいかず、我らは飼い続けた。するとその数はどんどん増えていった。
何しろ知能が低くて一日中交わい続けるしか能のない連中だったからな。しかたが無
いので、一部をアルケミアの外へ放逐した。それがいつの間にか中原に流れつき増え
ていった。おまえたち白い肌の人間とはそういう存在なのだ」
「馬鹿言え、人間は人間やぞ」
バクヤはうんざりしたように答える。
「今はそんな議論してるときじゃないと思うけど」
エリウスが、ぼんやりと言って鉄格子を指差す。それは、動いていた。ゆっくりと
下へ降りていく。白い肌の者たちは、上のほうに生じた隙間を越えようと飛びはね出
す。
「くそっ」
バクヤはメタルギミックスライムの左手を動かそうとする。ぴくりとも動かない。
バクヤの体力は底をついていた。とても戦える状態ではなかった。
バクヤはヌバークを見る。ヌバークも蒼ざめた顔で立ち尽くしているだけだ。ヌバ
ークにしても、ここまで来るのに魔力を使い切っているのだろう。精霊を呼び出して
白い肌の者を蹴散らすだけの力は残っていないようだ。
「しょうがないなあ、もう」
エリウスは、うんざりしたようにつぶやく。そして、背中に背負っていた剣を降ろ
すと手に持った。
黒い鞘に収まった剣。その少しそりのある片刃の剣を、エリウスは抜いた。
ノウトゥング。
刀身を半ばで立ちきられた剣である。その本当の刃、金剛石で造られたノウトゥン
グの刃は刀身の中に収められていた。
その刃は剣を振るうことによってノウトゥングの外へ飛び出し、ワイアーによって
コントロールされる。エリウスは、数歩前へ出た。
バクヤとヌバークは無意識のうちに、その後ろへ入る。
鉄格子はついに、白い肌の獣たちが超えられるところまで降りてきた。
白い肌の獣は、鉄格子を乗り越えると鉄の牙をがちがち鳴らし、獣の咆哮をあげな
がらこちらへ向かってくる。バクヤは動かぬ左手を下げたまま、それでも右手で構え
をとった。
唐突に。
白い肌の獣の首が落ちる。
首の無い死体が、床に落ちて跳ねた。
次々と。
胴を両断され。
頭を割られ。
両手を切り飛ばされ。
身体を縦に切り裂かれ。
白い肌の獣たちは、切り刻まれてゆく。丁度エリウスの前に目に見えない壁があり、
その壁に触れたものが裁断されていくように見えた。
瞬く間に。
身体を切り刻まれた白い肌の獣たちの死体が積み上げられてゆく。
それは障壁となって白い肌の獣たちの行く手を阻んでいるようだ。しかし、白い肌
の獣たちはその死体の山を乗り越えて近づこうとする。
そしてまた、切り刻まれた。
バクヤはエリウスを見る。
殆どその剣は動いているように見えなかったが、まちがいなく白い肌の獣たちを斬
っているのはノウトゥングだ。
バクヤはエリウスの瞳の奥に、黄金の光が灯っているのを見た。バクヤはそれに魔
道の力を感じる。
バクヤはうめいた。
エリウスに畏怖を感じてしまったためだ。
いや、それはエリウスでは無かった。エリウスは既に心の奥へ引きこもってしまっ
ている。今目の前にいるのはもっと恐ろしく、邪悪な存在。
そう、おそらくエリウスが指輪の王と呼んでいた者。
中原の最も古き王国にふさわしい、冷酷にして邪悪な存在。その者が今エリウスの
身体とその力を操っている。
#137/598 ●長編 *** コメント #136 ***
★タイトル (CWM ) 03/04/04 00:01 (481)
冥界のワルキューレ2 憑木影
★内容 03/04/11 00:21 修正 第2版
死体の山が築き上げられ、ついに白い肌の獣たちは全て死んだようだ。
「おい」
バクヤは、エリウスの肩に手をおく。
ぞくりと。
バクヤの背筋が凍る。
そのあまりの美しさに。
その瞳に宿った黄金の光の邪悪さに。
バクヤは恐怖を感じた。
「エリウス、お前…」
唐突に、瞳に宿った黄金の光が消える。春の日差しを浴びながらまどろんでいるよ
うな、表情がもどってきた。
「なあに、バクヤ」
バクヤは言葉につまる。どう声をかければいいのか判らなかった。
今のエリウスを支えているのは、とてつもなく邪悪な力だ。しかし、それを捨て去
るのはエリウスにとって死を意味している。それがどのようなものであろうと、エリ
ウスは乗り越えていかねばならない。
バクヤには何も言えなかった。
ただ、エリウスの肩に手を置いたままじっと見つめるだけだ。
エリウスは無邪気な笑みを返している。
「おまえ、なんともないのか?」
バクヤはかろうじて、それだけ言った。
「うん」
エリウスはにこにこと笑う。
「多分、僕にはねえ、もう感情というものが」
「おい、バクヤ、エリウス何している」
ヌバークが声をかけてくる。扉が開いていた。
「迷宮に戻るのか?」
バクヤの問いかけにヌバークは頷く。
「それしかない。ここにいても仕方が無い。とにかくヴァルラ王を救うために、デル
ファイへ行かなくてはならない。デルファイへの入り口はこの迷宮の中にある」
バクヤはうんざりした顔で言った。
「扉を開けたのは、ウルラだろう。迷宮に戻ったらウルラの罠の中に入るだけやない
け」
「では」
ヌバークは冷たい声で言った。
「おまえはこのまま、ここに残っていろ」
バクヤは死体の山を見て肩を竦める。
「選ぶほど道が無いということやな」
せめて肉体が回復するまで休息をとりたい。しかし、ここで休ませてもらえるとも
思えない。
「まえに進んだほうがまし、てことだよね」
エリウスがみょうに明るく言った。バクヤはため息をつく。
「ま、そういうこっちゃ」
ただひたすら真っ直ぐ続く迷宮。
その薄明の世界をバクヤたちはヌバークに導かれるまま、進んで行った。
そこは太古の、古きものたちの支配する世界である。時の流れが存在しない世界。
その幽冥の世界を進んでゆく。
『さすが、エリウスというべきかな』
再び、ウルラの声が聞こえてくる。ヌバークは唇を噛んだ。
『やっぱりエリウスという名のものは、殺しておくべきだということを理解したよ。
魔道が通用せず、剣でも殺すことができない』
バクヤは、左手を動かそうとする。メタルギミックスライムはバクヤの生命力を餌
として活動する存在だ。バクヤの体力が底をついた今では、ただの鉄の塊と変わらな
い。
『しかし、魔道が通じないと一口にいっても魔道というものには、色々な種類がある。
ヌバーク殿、君も理解しているだろう』
ウルラの声は、むしろ優しげといってもいい。
『ヌバーク殿、投降したまえ。ヴァルラ王に忠誠をつくして何になるというのだ。君
とてガルン様とともに中原を蹂躙することを夢想したことがあるだろう』
ヌバークは空を睨みながら言い放つ。
「私を従えたいのならば、まずおまえの心臓をさしだせ、ウルラ」
ウルラは暫く沈黙する。そして、残念げなため息をついた。
『ではこれでお別れだ、ヌバーク殿。共に戦えないというのはとても残念だ』
ヌバークは立ち止まる。そして、ぽつりと言った。
「すまなかった、エリウス、バクヤ」
「あほいえ、まだこれからや」
バクヤが叫ぶが、ヌバークは首を振る。
「いかにエリウス殿が優れた剣士であったとしても」
ヌバークの言葉と同時に、前方に影の塊が現れる。数は七つほど。子牛ほどの大き
さがあるだろうか。四足で立つ獣の姿をしている。
「闇の生き物を斬ることはできない」
エリウスは、ノウトゥングを抜く。
闇の生き物。そう呼ばれた影たちは近づくにつれ、その形がはっきりしてくる。影
たちは巨大な狼の姿をしていた。
その頭部と見られるところに、二つの紅い光が灯る。どうやら、瞳らしい。
その姿は狼のように見えるが、朧げであった。ただはっきりと見えるのは、黒い牙
である。漆黒の短刀に見えるその牙だけは、リアルで冷たい存在感を放っていた。
バクヤは唸る。
確かに、斬れそうに無い。魔法的生き物は、存在の位相をずらしその身体を異なる
次元界におくと聞く。魔導師によって召喚されたその闇の生き物たちは、この次元界
に身を置いていない。これでは、斬りようが無かった。
エリウスは、剣を振る。
ひゅう、と風が走った。影は一瞬揺らいだように見えたが、何も感じていないよう
だ。
「へえ、こりゃ難しいなあ」
エリウスはのほほんと呟く。
突然、一頭の闇の獣が跳躍した。人の頭を呑み込めそうな口を開かれている。
「くそっ」
バクヤは前に飛び出すと、動かない左手を右手で掴み、無理やり闇の獣へ叩きつけ
た。闇の獣は、その左手に食いつく。しかし、メタルギミックスライムの左手を噛み
きることは、当然できない。
左手に食いついた状態で、真紅の瞳がバクヤを見る。
その光の中には飢えがあった。
魂を食らおうとする生き物特有の、飢え。
「このやろ」
バクヤは無理やり左手を動かそうとする。
突然。
ばさり、と闇の獣の首が落ちた。
くらいついていたバクヤの左手を離す。闇の本体は消えてゆく。切り落とされた頭
だけが、地に落ちた影のように残っている。
「なるほどねえ」
エリウスが、のんびり呟く。
「攻撃してくる時には、転移している次元界が安定するみたいだねえ。それならなん
とかなるけれど」
獣たちは、頭がよさそうだ。一頭殺されたことによって、警戒しはじめている。ゆ
っくりと左右に展開していく。どうやらバクヤたちを取り囲むつもりらしい。
「六頭同時っていうのはちょっと多いなあ。困ったねえ」
あまり困っていなさそうに、エリウスはぼやく。
迷宮の通路は広い。その通路一杯に使って、獣たちは左右へ回りこんでゆく。
しかし、獣たちの目的が果たされることはなかった。
唐突に獣たちは動きを止めると、身を翻し自分たちが現れたところへと戻ってゆく。
獣はバクヤたちに背を向け遠ざかって行った。
「助かったみたいだねえ」
エリウスの言葉にヌバークが答える。
「そんなはずは無い、召喚された闇の生き物がなぜ」
獣たちの行く先に白い影が現れた。
次第にその姿ははっきりしてくる。
それは、白き巨人。
女神の美貌を持つ、殺戮の大天使を越える戦闘機械。
獣たちは、一斉に跳躍した。
真冬の日差しを思わせる閃光が、一瞬走る。
容赦のない殺戮の輝き。
それはほんの僅かな時間でしかない。しかし、影は切り裂かれていた。
攻撃の為に位相を固定されるほんの一瞬。
その瞬間に闇の獣たちは切り裂かれた。胴体を両断された獣たちは地に落ちる。断
片となった獣の頭、胴体、刻まれた足があたりにばら撒かれた。そしてその断片は黒
い影となって消えてゆく。
全ての影が消失した後、純白の鎧に身を包んだ巨人がバクヤたちの前に立つ。その
後ろには影のように黒衣のロキが続く。
エリウスは無邪気に手を振る。
「あはは、助かったよ、フレヤ」
フレヤは苦笑を浮かべる。
「おまえなら斬れたはずだ、エリウス」
「いやあ、でも面倒そうじゃん」
「面倒って」
バクヤが目を剥く。それを無視してヌバークはロキの前に立つ。
「礼をいいます、ロキ殿」
ロキは、無表情に答える。
「ガルンは冥界に下った。黄金の林檎をいだいたまま」
「冥界?」
バクヤの問いに、ヌバークが答える。
「冥界とは、アルケミアの地下最も奥深い場所。そこにグーヌ神が眠っている」
「我々では冥界に下ることはできない」
ロキの言葉にヌバークは頷いた。
「そこに下ることができるのは、本来王族だけです。ガルンは元はセルジュ王の近習
でした。セルジュ王から冥界に下りる呪文を学んだのです。あそこにいけるのは、後
はヴァルラ様だけでしょう」
ロキはヌバークを見つめる。
「まずは、デルファイに幽閉されているヴァルラ殿を救出せねばなるまい」
「では、ロキ殿。ヴァルラ様を助けるために御助力いただけるのですか?」
「いや」
ロキは首を振る。
「おれがデルファイに行くのは不可能だ。しかし、フレヤならいける」
「それでは」
ロキは頷いた。
「デルファイへ行こう」
迷宮の通路の果て。
そこは、巨大な地下ドームがあった。
球形の天蓋に覆われた、広大な薄明の世界。岩盤で造られているらしい球形の天井
は、闇に覆われ夜の空のように見える。
地上付近は、薄っすらとして光があり、かろうじてあたりを見ることができた。足
元には真っ直ぐ道が伸びており、その先には円形の祭儀場のような場所がある。その
道と祭儀場の周りには水で満たされていた。
湖、というほどには深くなさそうだが、池というには広大すぎる。広大な湿地帯と
いうべきだろうか。そこには、あまり地上ではみたことのないような、水棲植物が満
ち溢れていた。
人間の身体くらいあるであろう巨大な花びらを持った異形の花や、透明の覆いに囲
われた銀色で複雑な形態を持つ植物。そうしたものが暗い水の上に、微かな光を放ち
ながらぼんやり浮かびあがっている。
そこはこの世のものとはとうてい思われないような、幻想的な空間であった。バク
ヤはその静寂さに、死の世界を感じ取る。実際、その湿地帯には墓碑のような石柱が
無数に並んでいた。おそらくここは、アルケミアの墓地なのだろうとかってに思う。
ヌバークは先頭に立ってその湿地帯の中心にある祭儀場に向かった。生きて動くも
のの気配は存在しないが、バクヤはなぜか見つめられているような気配を感じる。お
そらく無数の墓碑が無言の気配を発しているのだろう。ある意味、バクヤはここへ侵
入してきた存在だ。何かその異質な存在に対して静寂の抗議を行っているような気が
する。
「判っているとは思うが」
前をいくヌバークが、唐突に言った。
「ここは、アルケミアの墓地だ。我々の始祖の霊が眠っている。彼らはここにバクヤ、
おまえが来たことを快くは思わないだろう。だが、恐れることは無い。彼らには何か
をするような力は無いから」
バクヤは憤然と言った。
「恐れるやて、そんなことはない」
けど、と思わずバクヤは言葉を続ける。
「しんきくさい場所やな、しかし。まあ、墓地ゆうのやったら、しゃあないやろうけ
ど」
ヌバークはくすりと笑って頷く。
「確かにそうだが、しかたあるまい」
そして祭儀場につく。
円形の祭儀場の中心には、祭壇が設えてある。おそらく、葬儀を行うときに使用す
るのだろう、とバクヤは思う。
祭壇。
黒曜石のように黒い石でできている円形の舞台のようなものだ。人間の腰くらいの
高さであり、四、五人の人間が上に乗るのが精一杯の広さというところだろうか。
ヌバークはひらりと軽い身のこなしで、祭壇にのる。そして、儀式をとり行う司祭
のように、バクヤたちを見渡す。
ヌバークは、厳かに口を開いた。
「知っているとは思うが、私たちがこれからゆくデルファイとは死霊の都とよばれる
場所。つまり、死者たちが集い作り上げた世界」
聞いてないで、と思ったがバクヤはとりあえず黙って聞いておくことにした。
「本来でデルファイへ行くには、死ななければならない。ただ、一つだけ生者として
デルファイへ行く方法がある。それが、この場所より入りこむやり方だ。ヴァルラ様
はここよりデルファイへ向かわれた。つまり、生者として死霊の都へ入られた」
とん、とヌバークは祭壇を蹴る。
「ここへ乗ってください。デルファイへの道を開きます」
バクヤとエリウス、そしてフレヤが祭壇にのった。ヌバークは呪文の詠唱を始める。
ぞくり、とする感触が足元に走った。バクヤは足元を見る。黒曜石と思っていた祭
壇が揺らいでいた。それはゼリー状のものの上に乗った感触というべきだろうか。
一人祭壇の外に残ったロキが手を振る。
「幸運を祈る」
ロキがそういった瞬間、突然足元の感覚が消えた。
落ちる、と一瞬バクヤは思う。それは水に呑みこまれてゆく感触に似ていた。ただ
し、満ち溢れてきたのが水では無く闇だ。
闇に。
呑まれる。
バクヤの意識は墜ちていった。
轟音。
私は、火炎と黒煙の中で気がつく。
私の身体は、無惨な状態だった。胴や胸を金属の破片が貫き、手足の骨はへし折れ、
あらぬほうへ曲がっている。幼児が弄んだ末、放り投げた玩具の人形。私の身体はそ
ういう状態で炎の中にあった。
意識は朦朧としている。
時折、脳の中に断片的な映像が浮かび上がった。凄まじい轟音と光。全身を貫く衝
撃。そして、全てを破壊する貪欲な火炎。それらの記憶が次々と浮かび上がっては、
消えて行く。
私は、それでもあたり前のように立ちあがった。
ずたぼろになった服が纏わりつくのを毟り取る。炎の中から歩みでた。私の身体は
10回くらい死んでも不思議はないくらいほど破壊されていたはず。
私は夜の闇の中に、漆黒の裸体を晒した。私の身体は既に修復されつつある。焼け
焦げた皮膚は剥がれ落ち、下から新しい皮膚が姿を現す。そして、破壊された骨は元
通りに接続されてゆく。
私の記憶が私に囁きかける。こんなことはあたりまえだと。
(私は夜の眷属なのだから)
そう。
私は夜を支配する者たちに属する。そして、人間たちに狩られるものでもあった。
石で出来た道。その上を歩いてゆく。
ここはどこだろうか。
夜の中に浮かび上がる輝く塔が、見える。
記憶が次第に形をなしてゆく。
ここはデルファイ。死霊の都。そしてここには、もう一つの名がある。ここに住ま
う人間どもの呼び方。それは新宿という名。
残骸と化している私の乗っていたアルファロメオは、高速道路の高架下で炎をあげ
私の裸体を照らしている。私のアルファロメオを破壊したのは、人間の狩人。その狩
人たちが、もうすぐここにもくるはず。
しかし、私の目的地はもう目の前だ。ゾーンと呼ばれる場所。
高圧電流の流れるフェンスによって囲われたその場所は、もう目の前に来ている。
記憶が流れ込んでゆく。アルケミアでの私の記憶。そう、私の名はヌバーク。攫わ
れた王を救うためにここへ来た。
ようやく狩人たちの到着した気配がある。狩人たちは、ヘッドライトを消したワン
ボックスカーを私の後ろに止めた。
十人近い男たちが私の後ろに展開してゆく。
私は振り向く。レーザー照準機の発する光の点が、私の身体に灯る。それは夜の空
に輝く星々のようだ。
『夜の眷属』
そう、私は夜に属する。夜こそ私の時間だ。
あるものは、「ヴァンパイア」という昔ながらの名で私たちを呼ぶ。私たちは日の
光を浴びることを嫌い、人の血を啜って生きてゆくから。
しかし、私たちはの存在の本当の意味は別のところにある。私たちはアルケミアの
貴族たちに属したものであり、アルケミアの記憶を保ったままこのデルファイへ来る
ことができるものだ。
凄まじい閃光と轟音。
狩人たちが放ったグレネードランチャーだ。人間であればその轟音と閃光に五感を
奪われ、一時的に行動不能となる。しかし、私にはなんの意味も無い。
私は跳躍した。銃弾が私のいた場所を通過する。
狩人たちは銀でコーティングされた銃弾を使用していた。それは、私たち夜の眷属
に唯一傷をおわせることが可能な物質だからだ。
けれども、愚鈍な人間の力で私たちに銃弾を命中させるのは容易なことでは無い。
私たちはあらゆる意味で人間どもよりも優れている。だからこそ、愚かで脆弱な人間
たちは私たちを狩るのだ。
かつて哲学者は弱者こそ闘争に勝利すると語った。確かにそうなのだろう。人間は
あまりに脆弱でかつ醜すぎた。無様な存在として生れ落ちた憎しみを、私たち完全な
る存在に向け、狩りたてる。私たちには、人間のように醜悪な憎しみを持つのは不可
能だ。だから最後に勝利する弱者=人間というのは正解なのだろう。私たちは闘うに
は誇り高すぎる。
私はフェンスの上に立つ。
高圧電流が火花を散らし、私の身体を蒼白く燃え上がらせた。このフェンスの向こ
うは『ゾーン』だ。狩人たちもそこまでは追ってこない場所。
私は夜の闇に向かって哄笑する。レーザーの光が、火花を散らし燃え上がる私を捕
らえた。
再び銃弾が放たれるが、それは虚空を貫いたに過ぎない。
私はゾーンの中に降りる。
夜の闇より尚昏いその場所。そこがゾーン。
侵入した私に、ゾーンの内部からスポットライトが浴びせられる。私は素早く跳躍
してゆき、廃墟と化した建物の中へと侵入した。
ここは、脱出しようとするものに対しては厳しい対処が行われるが、内部に入りこ
む者に対してはむしろ大雑把な対応しかされていない。しかし、現実には外の世界と
の出入りは黙認されている部分があった。
ゾーンとはバイオ・ハサード・ゾーンの略称である。未知の生物兵器によって汚染
された区域という名目で閉鎖されている地域のことだ。新宿の中心部、半径5キロメ
ートルくらいの範囲。ただ実際のところの汚染状況は、よく判っていない。
ゾーンは自衛隊の兵士たちが要所、要所を警備している。内部は生物兵器の汚染が
残っているはずだが、その被害にあった者はほとんどいない。汚染されたものを外に
出さないという名目で厳重な警備が敷かれているものの、実際には汚染物質など存在
しないのではないかとすらいわれていた。
私は廃墟となった建物の地下へと入りこんでゆく。地下は、完全な闇だ。夜の眷属
である私にとってはむしろ親しみやすい空間といえる。
私は冥界のように暗い闇に閉ざされた地下街へと下っていった。こんな場所でも人
の気配がある。
ゾーン内部には様々な人が生活していた。なぜ汚染区域に人が溢れているか。それ
は、この新宿のある国、日本が完全に破綻しているからだ。
二十一世紀を越えてまもなく、経済的に破綻しきった日本の紙幣は紙屑同然まで価
値を下げた。完全失業率は30%を超え、街は浮浪者と犯罪者に満ち溢れている。
ゾーン内でおこるできごとに対して、警察や自衛隊は決して介入しない。あくまで
も彼らは、そこから出るものを射殺するのみだ。それもあくまでも乏しい予算の範疇
での話だが。よって、犯罪者にとってゾーンにさえ逃げ込めば、とりあえずの身の安
全を確保できることになる。
また、借金を抱えたものが逃げ込むこともあれば、テロ組織が拠点を持つために利
用するケースもあった。ここはダークサイドを生きるものたちの楽園ともいえる。結
果的にゾーン内には様々な人間で満ちていたが、自衛隊も警察もそこに介入する気は
無い。彼らはフェンスの警備をするだけの予算しか与えられていないのだから。
地下街には浮浪者が棲息しているポイントがいくつかある。彼らは群れて集落を作
っていた。そうした場所は簡単なテントや、照明があるため見れば判る。そうした浮
浪者たちが私に気づいたようだ。
裸体で、ゾーンに迷い込んだ黒い肌の女。彼らから見れば私は、何かのトラブルで
ここに逃げ込んだ者なのだろう。
浮浪者たちは私を遠巻きにしつつある。捉えれば、女である私を利用する術がある
とでも思っているのか。彼らは手にした懐中電灯の光を私に浴びせる。
私は立ち止まる。
浮浪者たちも立ち止まった。
半径10メートルくらいの円を描いて私をとりまく。
彼らは手にナイフや棍棒、鉄パイプを持っていた。銃を向けてこないのは持ってい
ないというよりは、私を殺したくないということなのだろう。
私は獲物を見る獣の目で、彼らを眺める。
円の向こうにリーダーらしい男がいた。少し小柄で、目つきの鋭い男だ。比較的程
度のいいものを着ている。私の狙いが決まった。
鉄パイプを持った男が一歩前に出る。
「おい」
その男の言葉と同時に私は跳躍していた。浮浪者たちの頭上を越え、リーダーらし
い男の前に立つ。その男が何かを叫ぼうとする前に、その顔を鷲掴みにする。
軽く力をいれた。あっさりと首がねじ切れる。血が鈍い鉄色の光を放ち、しぶく。
私はその首をほうりなげた。
円の中央に生首が落ちる。
浮浪者たちは何が起こったのか一瞬、判らなかったようだ。私の動きが速すぎたせ
いだろう。生首は何も言わず、暗い虚空を睨んでいた。
浮浪者たちはようやく事態を認識したらしく、一斉に私のほうを振り向く。私はリ
ーダーの男のポケットにあった銃を取り出す。38口径の安物のリボルバーだ。中国
製らしい。
私は無造作にそれを撃つ。鉄パイプを持った男と、ナイフを持った男が倒れる。パ
ニックが広がった。悲鳴をあげ浮浪者たちは、逃げ出してゆく。
私は男の身体から衣服を奪う。銃は捨てた。私にとってはあまり意味が無い。財布
にはUSドルが入っていたので、それは貰っておく。
男の衣服を奪った私は、闇の中へと消える。その気になれば、闇の中で人間に気配
を感じさせないまま移動することは可能だ。
私は地上にでる。
夜の街。
そこは完全な廃墟だった。荒れ果てたビル街は半ば崩れ落ちている。路上には解体
された車が瓦礫に埋もれた状態で放置されていた。
それでも、そこは人に溢れている。
簡易テントがそこここにあり、ちょっとした人だかりのあるところには、屋台の飲
み屋があった。あるいは、ちょっとしたフリーマーケットがある。
深夜を過ぎているとはいえ、人通りはけっこうあった。人種は様々。年齢も性別も
様々だ。
道端で子供たちが、派手な音楽をかけながら踊っている。ギターを抱えて轟音を奏
でている者もいた。そうした風景は外とそう大差は無い。
ただ、多くのものが麻薬に酔った目つきをしており、そうでないものは異様に鋭く
危険な瞳をしているということ以外は。
私は仲間を探さねばならない。
白痴の王子、エリウス。
彼の者こそ、我らが王ヴァルラ様を救うことができる。しかし、エリウスはただの
人間だから、私のようにアルケミアでの記憶を保持していないはずだ。エリウスを探
し出し、彼に真の記憶を取り戻させねばならない。
私は、エリウスを探すため魔道を使う。
ここでは、魔道はうまく作動しないといわれる。
といっても完全に作動しないわけではなかった。精霊たちは風にのせて様々な音を
運んでくる。
その精霊たちの運んでくる音の中から、エリウスの気配を探す。容易ではない。私
のやろうとしていることは、無数のささやき声の中からたった一人の人間の声を聞き
分けようとするのと同じことになる。随分と時間がかかりそうだ。
ふっ、と。
私はその音に気づく。
エリウスではない。
しかし、別の世界を知る者。
私と同じところから来た者がいる。
音楽にのせられた声。それは間違い無く、私が知っている者の声だ。
私はその音楽を求め、夜の街を彷徨う。
夜の街。私は音楽に導かれるまま、そこを歩いてゆく。まるで深海のように暗く密
度が濃いが、真夏のジャングルのように豊穣で鮮やかな空間。
そこを歩く者たちは酒や麻薬に酔い、緋色や群青の原色をそのまま使った布切れに
身を纏っている。目のうつろなものも、肉食獣の瞳をしたものも、あまり私に関心を
持たない。私が気配を断ったせいだ。
屋台が建ち並び、どぎつい色の食材や獣の頭、鈍く光る鋼鉄の武器や派手なパッケ
ージの麻薬入り煙草や酒、そうしたものが無造作に売られている市を通りぬけてゆく。
暗く熱い空気がねっとりと淀んでいた。
派手な格好をした人々が叫びあい、語り合い、楽器を奏で歌っているが、私の耳に
はその音は入ってこない。私は遠くから聞こえるその音楽に集中し、引き寄せられて
いた。
時折、道端に人間がころがっている。生死は不明だったり、あからさまに血を流し
ていたりするが、どちらにせよ私には興味が無い。そのまま無視して通りすぎる。
音楽は、アリアドネの糸のように私を導いていた。夜の闇。その闇の彼方から聞こ
える呼び声のようだ。
街の賑わっているところから少し外れる。すると音楽は強度を増した。
立ち並ぶ廃墟と化したビルたち。鉄骨を剥き出しにし、瓦礫に埋もれたかのように
見えるその建物たちは、現代芸術のオブジェのようでもあり、太古の王の墳墓のよう
でもあった。
廃墟に漂う闇の中に、人間とも獣ともつかない薄汚れた姿の者たちが蠢いている。
しかし、気配を断った私には興味を示さないようだ。
私は、さらに廃墟の奥へと入ってゆく。
唐突に。
その巨大な倉庫は姿を現した。大きな箱のように窓が無い建物。周りに、黒尽くめ
のファッションに身を包んだ若者たちがたむろしている。音楽は間違い無く、その巨
大な倉庫の中から聞こえていた。
私は、革の拘束衣を思わせるハーネスやベルトのやたらとついたファッションの若
者たちの間を、通りぬける。何かに取り憑かれたような隈のある目をした若者たちは、
私をじろりと見つめるが興味を持ったふうでもない。
倉庫の壁には、派手な壁画が描かれている。自動ライフルで武装した天使、ドレス
を来た死神、鋼鉄のバイクに跨る女神、廃墟に立つ巨神。そうした絵が派手な色で描
かれていた。
私は、その倉庫の扉を開く。
くらい通路が真っ直ぐ伸びている。
その通路の入り口に黒い革のロングコートを着た、体格のいい黒人の男が立ってい
た。目つきは危険なほど鋭いが、なぜか聖職者を思わせる静けさを身に纏っている。
「もうギグは始まっているぜ」
黒い男はそういって私をじろりと見る。私はUSドルの札を差し出す。男は無造作
に数枚取り上げると、道をあけた。
私は通路を歩く。音楽が近づいている。私の胸は高まった。この高揚は、まるで恋
人に会いにいくかのよう。
私は、最後の扉を開く。
轟音。
想像を絶する大音響が私を包み込んだ。
暗くて広いその場所は、いかれた格好をした若者たちで満ち溢れている。ハロウィ
ンパーティーに迷い込んだようだ。広大な場所は妖魔や魔導師のスタイルをしたもの
たちで、隙間なく埋められている。
轟音は凄まじい。
音で床が振動しているのが足に伝わってくる。
その振動で足が震えた。全身が音の圧力に握り締められるのが判った。
リズムを刻む、凄まじいビート。巨大な龍の体内に入りこみ、その心音を聞いてい
るようだ。
倉庫を満たした若者たちは、海底で揺らぐ死体のように身体を動かしている。奥に
設置されたステージの近くには、半裸の女の子たちが踊り狂っていた。闇の中で蠢く
白い肌は、深海を遊弋する鮫の腹を思わせる。
倉庫全体が振動し揺らいでいた。音がそこにいる者たちを結びつけシンクロさせて
いる。
不思議な一体感。魔法のような瞬間。
ステージの上にはその男がいた。黒い髪をして嘲るような笑みを浮かべ、巨大なデ
ジタル機器を身体の一部として操り音をコントロールしている男。獣の咆哮のような
歌を歌い、音楽を操ってここにいる者たちを思いのままに動かしている。
その男を。
私は知っている。
奇妙なことにステージの上には、デジタル機器の間に十字架の掲げられた祭壇があ
った。その上には大きな棺桶がおかれており、まるで祭儀上のようだ。このギグは誰
かの葬儀だとでもいいたいのだろうか。
ここに来て身体を揺らし、踊っている者たちはそんなことを気にしている様子はな
い。彼らはまるで死の天使に導かれ、地獄に向かう亡者の群れのようだ。
海水のようにその倉庫を満たした轟音の他に、意識のチャネルを変えると様々なさ
さやき声が入ってきた。私はその亀裂から染み出る清水のような囁きに、意識のチャ
ネルを合わせてみる。
(あいつ、知ってるの?)
(ああ、ボーカルの? 有名じゃん。ブラックソウルっていう)
(ブラックソウル?)
(何それ、だっせえの)
(バカじゃん)
(しらねぇのかよ、あの伝説)
(伝説う?)
(黒人のさあ、元SEALSかなんかの兵士で、中東で何百人と人殺した男がやつの
歌きいて、言ったんだってよ)
(なんて?)
(やつにはブラックのソウルがある)
(ぎゃっはっはっ)
(ひっでぇ、まじかよ)
(ひーっ、ひっひっ。腹いてえ)
(バカすぎ)
(なんかそれ聞いて本人よろこんでさ、おれのことはブラックソウルって呼べって)
(だっははははっ)
(げらげらげら)
(痛すぎだぜ、そりゃ)
(自称なの? 頭悪すぎじゃん)
(その黒人、麻薬でらりって死んだらしいけどね)
(あのへっぽこヒップホップがブラックのソウル?)
(あっははははは、死ね一度)
ブラックソウル。
その言葉が私を貫く。
その言葉は私の心を甘やかに蹂躙している。
私は気がつくとステージの前まで来ていた。周りには半裸の女たちが深海で歌う魔
女のように身を揺るがせ踊っている。
ブラックソウル。まぎれもなく我が女王、ヴェリンダ様の夫である家畜。この邪な
家畜は私を呼んだのだ。
ブラックソウルは私を見ていた。邪悪な瞳。唇にはりついた嘲笑。
#138/598 ●長編 *** コメント #137 ***
★タイトル (CWM ) 03/04/04 00:03 (468)
冥界のワルキューレ3 憑木影
★内容 03/04/11 00:24 修正 第2版
突然。
音が死んだ。
ブラックソウルは片手をあげる。
全ての音が消えていた。まるで、時間が止まったようだ。私たちは突然、闇の中に
裸でほうりだされたように不安になる。
さっきまで踊り狂っていた若者たちも、不安げに立ち尽くしていた。ただ一人。嘲
笑を口元に貼り付けたブラックソウルがマイクを手に取る。
「見ろ、狩人たちが来た」
ブラックソウルが上を指差す。私ははっとなって見上げる。
光と音が炸裂する。スタングレネードだ。
パニックが起こった。
皆、出口めがけて走り出す。何人かが押し倒され踏みつけられ、悲鳴があがった。
高い所にある、窓が割れる。もう一度、スタングレネードが投下された。閃光と轟
音が消えた後に、数人の男たちが倉庫の中に降りているのに気づく。
三人一組らしい男たちは四箇所から侵入したようだ。男たちは暗視ゴーグルをつけ、
都市迷彩ふうにグレーの彩色がされた戦闘服姿をしている。腰だめにした短機関銃を
小刻みに撃ち、逃げ惑うものを巧みに誘導していた。
その手際のよさ、場慣れた様子はどうやら狩人らしい。私はゾーン内部まで入りこ
んで来たことに軽い驚きを覚えるが、元々非合法機関である狩人たちの組織にとって
ゾーンの中であろうと関係無いということか。
短時間で、その倉庫を満たしていた若者たちは駆逐された。この広い空間に残され
たのは、狩人たちを除けば私とブラックソウルだけだ。
私の身体にレーザーの光がポイントされる。気配を感じて、上を見上げると割れた
窓から狙撃手が私に狙いを定めていた。どうやら、ここで決着をつけたいらしい。お
そらくここの周囲は武装した狩人たちで固められているのだろう。
ブラックソウルはただ一人、悠然と笑っている。死者の国の、王を思わせる表情で。
ブラックソウルはマイクをとった。
「ようこそ、おれのショウへ」
ブラックソウルは妙に上機嫌だ。狩人たちは黙殺している。意識は私にのみ集中し
ていた。
「といったものの、見てのとおりショウはまだ始まっていない。しかも主賓が登場し
ていない。そろそろショウを始めようか」
ブラックソウルの後ろで、設えられた祭壇の十字架がゆっくり倒れる。鈍い音をた
てて十字架が地に落ちるとともに、棺桶の蓋が静かに動いた。
「紹介しよう。彼女こそ、ヴァンパイア・アルケー、ヴェリンダ・ヴェック」
狩人たちに動揺が走るのが判った。ヴァンパイア・アルケー。それは、狩人たちの
最大の宿敵であると同時に、最悪の強敵である。
夜の眷属と呼ばれるものたちは私もふくめ、元は人間だった。私たちはヴァンパイ
ア・アルケーと呼ばれる存在によって夜の眷属にされたのだ。私たち自身に新たに夜
の眷属を創り出す力は無い。
そして、棺桶の蓋が落ちた。
闇の濃さが増す。
瘴気が流れる水のように溢れ出し、倉庫を満たしてゆく。
闇はまるで命を得たように、狂乱の気配を振り撒いていった。私は全身が総毛立つ
のを感じる。私は幻惑を感じた。この空間に漆黒のメエルシュトロオムが生じたかの
ようだ。そして、その中心に棺桶がある。
ゆっくりと。
闇色の太陽が昇るように、ヴァンパイア・アルケーが立ちあがった。
闇が祝福するように膨れ上がる。
漆黒の肌に黄金の髪。誇り高い闇色の野獣のような美しい裸体を晒しながら我が女
王、ヴェリンダ様が静かにステージに降りた。
私は跪いて、女王を迎える。
狩人たちは一歩も動けなかった。予期せぬ事態に遭遇したのだから、撤退すべきな
のだろうが、その判断力すら失っている。
それほどに。
ここの闇は深い。人間が原初の世界で出会ったであろう闇への恐怖。それがここに
はリアルに渦巻いている。
ただ一人。
ブラックソウルだけは上機嫌に微笑んでいる。まさに自身の主催するショウを楽し
むプロモーターとして。
ヴァンパイア・アルケーは厳かに語る。
「さて、家畜ども。私のために自らの血を差し出しにきたか。それは重畳。しかし、
おまえたちのように無様で醜い家畜の血を余は好まぬ。おまえたちは家畜の中でも特
に醜く愚かで脆弱なものだ。そんなおまえたちの穢れた血はいらぬ」
闇が微笑んだ。
ぞくりと。
戦慄が走り抜ける。
「それでも余のためにわざわざ血を差し出しに来たものを追い返すほど、冷酷ではな
いぞ。褒美をとらせる。喜ぶがよい。おまえたちに、より美しくより相応しい身体を
与えてやろう」
どさりと。
上の窓から狙撃手たちが落ちてきた。
まるで虫のように、そのものたちはぐねぐねとのたうちまわる。その身体は次第に
膨張していった。その顔は数倍に膨れ上がる。巨大に広がった口から苦鳴がもれた。
「ぶひい」
豚の叫びだ。戦闘服が破れ、豚の身体が顕わになる。手足は縮み胴だけが丸々と膨
らんでいく。狙撃手は完全に豚へ姿を変え終わると、豚の声で悲鳴をあげながら倉庫
の隅へ逃げ込んでいった。
残りの狩人たちも、床へ崩れおちる。皆、うねうねとのたうちながら豚へと変化し
ていった。豚たちは、怯えながら倉庫の隅へと逃げ込む。
拍手の音が鳴り響く。
ブラックソウルだ。
ブラックソウルは満足げな笑みを浮かべながら、ゆっくりと前へでる。
「いいショウだった。楽しんでもらえたかね」
ブラックソウルは、私の前に立つ。狼の笑みを浮かべたブラックソウルは私の前を
通りすぎ、床に落ちた短機関銃を拾う。
そして、その銃をフルオートで撃った。金色に光るカートリッジが飛び散る。ブラ
ックソウルは弾倉を次々と換えていった。銃弾を浴びた豚たちは、悲鳴をあげなが死
んでゆく。
豚たちが血臭を残し全滅した後に、ブラックソウルは銃を捨て再び私を見た。
「エリウスは見つかったかね」
私は首を振る。
「おれは押さえているよ。エリウスの居場所も、ヴァルラの捕らえられている場所も
ね。おれとともにこい。ヌバーク。おまえの王を救ってやろう」
私は頷く。
ブラックソウルは信用できない。しかし、ブラックソウルはかつてこのデルファイ
で幽閉されていたヴェリンダ様を救ったのだ。そのことによって、ブラックソウルは
ヴェリンダ様の夫となった。ある意味、エリウスと同等の能力を持っているのだと思
う。ブラックソウルに従わざるをえないだろう。
そして何より、私はヴェリンダ様と行動を共にできることが嬉しかった。
いつもの白昼夢が訪れる。
夢に近いが、夢そのものではない。眠っている訳ではないのだが、イメージが心の
中に満ち溢れてそれを明確に見ることができる。
いつも繰り返し見るイメージ。
それは、幼いころから何度も見たことがあるもののような気がする。ただ、ここゾ
ーンに入って以来その頻度が増えていた。
私は水の中を漂う。青い世界。それはどこか暗い海の底のような場所なのだが、水
は薄ぼんやりと青い光を放っている。私は青い世界を漂っていた。
そして、私はいつか光に向かって落ちてゆく。輝く光の中へと私は吸い込まれる。
その光の中に人影を見出す。
その人影は。
私の顔をしていた。
「おい、アリス」
私は呼ばれて、白昼夢から目覚める。私の隣の運転席に座る男。私の雇い主。黒い
髪のその男は、野性的な笑みを私に向けていた。
「ついたぞ。そこのビルだ」
私たちは、ワゴン車を降りる。
ゾーン。
広大な廃墟。崩壊したビル群が、昼下がりの陽光に晒されている。私たちはビルの
ひとつに向かう。比較的にきちんとした状態を保っている、十階だて程度のビルだ。
一階は何か店舗があったらしいが、今ではがらんとした空洞にすぎない。かつては
何かの商品が並べられていたかもしれないその場所は、剥き出しのコンクリートを晒
しているだけだ。そこに何人かの浮浪者が寝そべっているが、私たちに興味を示す様
子はない。
私たちはその空洞を横目で見ながら、階段を登る。目的地は、そこの二階だ。
階段を登ったところのドアの前に立つ。私の雇い主は、そのドアをノックした。
「どうぞ」
声に促される形で私たちはその部屋に入る。酷く無防備な気がした。
おそらくこの街は噂に聞くとおり、そういう場所なのだろう。テロリストや犯罪者
が、基本的に互いに干渉しあわないという暗黙の了解が存在する街。つまりゾーンの
外で対立しあっていても、この中では攻撃しあわないという場所。
そもそもここは無政府区域なのだからあらゆる公共機関が存在していない、よって
ここで生きていくには、なんらかの形で協力し合わなければならない。もしここで暗
黙のルールを無視して戦闘を始めれば、ここのネットワークから締め出されることに
なる。それはこの街から排除されるのと同じことだ。よって相互不可侵の、暗黙の了
解が成立する。
だからこそ、非合法組織がビジネスのためのオフィスを構えるのにうってつけの場
所ということになるわけだ。余計なコストをかけず、シンプルなオフィスを用意でき
る。それは全ての組織にとってメリットのあることだった。
私たちの入ったその部屋は、思ったより広い。家具がほとんど存在しないためそう
思うのかもしれない。
剥き出しのコンクリートの床には、無造作にソファが向かい合う形で置かれている。
そのソファに腰をおろしている人物がこの部屋の主らしい。
整った顔だちと肌の肌理から判断すると、女性のようだ。ただ、髪を短く刈りこん
でおり、身につけているものもアーミーグリーンのTシャツにグレーの作業ズボンと
いうスタイルなので、女性らしさは皆無であったが。
その女性は引き締まった精悍な身体を持っている。そして、目をひくのは左手。漆
黒の義手を装着しているらしく、黒い金属質の質感を持っていた。
奥のほうにはOAデスクが置かれている。その周囲には数台のサーバーやルーター
を格納しているらしいラックが数機設置されていた。
OAデスクには液晶ディスプレイのデスクトップパソコンが置かれている。その前
にもう一人座っていた。
顔だちはとても美しい。はっ、と息をのむほど可憐で繊細な感じの美貌だ。黒い髪
に、黒い瞳、そして黒い服を身につけている。なぜか黒い蝙蝠傘が傍らに置かれてい
た。性別はよく判らないが、体格はどうも男性のように見える。
美少年、というほどには若くない。美青年といったところか。
「あんたが、三日月莫邪さんか?」
私の雇い主の問いかけに、ソファに腰掛けた女性が答える。
「そうや」
「おれが連絡したブラックソウル。そして、こっちが」
雇い主、ブラックソウルが私を指し示す。
「おれが雇っている傭兵のアリス・クォータームーン」
三日月莫邪は、自分の前のソファを指し示す。
「まあ、座ってくれ。ミスタ・ブラックソウル」
ブラックソウルは苦笑した。
「ミスタはいらない。ブラックソウルでいい」
「そうか、こっちも莫邪と呼んでくれればいい」
私たちは、莫邪の前に腰を降ろす。
「しかし、思ったより若いな」
「これでも二十歳や。若いのはお互い様やろ、ブラックソウル」
『おーい』
莫邪の後ろのOAテーブルから声がかかる。
『こっちは紹介なしですか?』
ブラックソウルは困惑したように眉をあげる。
何しろ、喋っているのが人形だからだ。
OAテーブルの前に座っている美青年。その前には身長四十センチほどの着せ替え
人形が座っている。その人形は金髪で可愛らしい笑みを浮かべているが、そのスタイ
ルは黒尽くめに白レースフリルを多用したゴスロリふうだ。
そのゴスロリ人形が喋っている。どう考えても、実際に喋っているのは美青年なの
だろうが、腹話術とは少し違っていた。そのゴスロリ人形にはスピーカーが内蔵され
ているようだ。おそらく青年の喉に筋肉の動きを感知して声を組み立てるシステムが、
埋めこまれているのだろう。
「あの、」
青年がすまなそうに言った。
「すみません」
莫邪は肩を竦める。
「あいつは、ほっといていい。ややこしいから」
『ややこしいって、ちゃんと説明しろよ』
ゴスロリ人形は可憐な笑みを浮かべ、幼い少女の声でしゃべる。生きているように
すら思えた。
莫邪は、青年のほうを見ずに言った。
「相棒の月影喜多郎。以上」
『以上、て。おれは月影愁太郎。よろしくね』
人形が可愛らしく言う。青年はぺこりと頭をさげた。
「よろしくお願いします」
「って」
ブラックソウルは珍しく困った顔をしていた。
「もう少し、説明が必要だと思わないか」
莫邪はため息をつく。
「ややこしいんだよ、あいつは。あまり触れたくない」
『ややこしいとは、失礼だね』
「すみません、説明します」
喜多郎は、あまり感情を感じさせない、消え入りそうなか細い声で言った。
「あの、愁太郎は双子の兄なんです。昔、肉体を無くしたんですけど、精神は僕の心
の中に残っているんです。精神だけになったんで喋れなかったんですけど、この人形
を使ってしゃべれるようにしたんです」
「なるほど」
ブラックソウルはため息をついた。
「ややこしいな」
「だからゆうたやろう。とにかくそっとしておいてくれ、あいつは。それはそれとし
て、外人さんの傭兵かい。しかも金髪で青い目とはな」
莫邪は私を見つめる。私は苦笑した。
「珍しくないだろ、特にこの街では」
「アジア系、インド系、イスラム系というのは珍しくないけどな、純粋な白人という
のは珍しい。むしろ黒人のほうが多い」
「へえ。初耳だ」
私は肩を竦める。
「それで?白人はUSAのスパイにでも見える?人種差別は勘弁してくれ。ちなみに
言っておくが私はアイリッシュだ」
ふん、と莫邪は鼻をならす。
「それでや。あらかじめ言っておくけど、おれたちは月影盗賊団、ひらたく言えば泥
棒や。殺しはおれたちの仕事やない。そういうのはクォータームーンさんにおまかせ
する」
「アリスでいいよ」
私の言葉に莫邪は頷く。ブラックソウルが言った。
「人間だけが相手ならそもそもあんたらには頼んでいない」
「まず説明してもらおうか」
莫邪はブラックソウルを真っ直ぐ見る。
「おれたちにどこから何を盗ませる気や」
「おれたちの行く先はグランドゼロ」
ブラックソウルの言葉に莫邪がのけぞる。
『へえ、びっくりだね。バイオテロルで汚染された中心地かい。そんなところに何が
あるのかな?』
ゴスロリ人形の言葉にブラックソウルが答える。
「グランドゼロ。つまりあんたが言うように生物兵器によるテロルの中心地のことだ
が、そもそもテロルが本当にあったと思うか?」
莫邪が答える。
「そもそも生物兵器による汚染など存在しないという噂なら聞いたことあるが」
『汚染区域に入っても、いわれてるように発病して死んだ人なんていないよね』
「そうだ。そもそもここを隔離することが目的で、テロルが演じられたんだ」
「まさか」
莫邪の言葉に、ブラックソウルが答えた。
「まあ、信じなくてもかまわないがね。グランドゼロ。あそこにはバイオテクノロジ
ーにより様々な医薬品を開発している多国籍企業メビウスの研究所があった。そこで
開発された生物兵器の実験を行うためにここは隔離されたんだ」
「つまり今汚染されているわけではなく、今後汚染されたときのリスクを減らすため
に?」
「そうだ」
「あほな、それやったらそもそもこんな街中に研究所を造る必要が無い。どこか辺鄙
なところでやれば」
ブラックソウルはどこか邪悪な笑みを浮かべる。
「そうじゃない。ゾーン自体が大きな人体実験場だとしたらどうだい」
「まあそれなら理屈はあうかも。そやけど、それにしては隔離が中途半端や」
「まだ、実験がその段階に達していないのだろうな。それとおそらく最終的には実験
範囲は日本全体に拡大される」
「なんやて」
ブラックソウルは楽しげに言った。
「今の日本は世界のごみだめみたいなものだ。現代において、国際社会から消失して
も一番誰も困らない国はおそらく日本だ。それは冷戦体制の崩壊、つまり日本が反共
産主義の極東防衛ラインとしての意味づけを失った時点で決定付けられたことだがな」
『ごみだめねえ。言い得て妙だねえ』
「あほ、何感心しとんねん」
ゴスロリ人形のつぶやきに、莫邪がつっこむ。
「で、グランドゼロから何を盗むというのや」
「生物兵器の人体実験があそこでなされている。その検体だよ、おれの欲しいものは」
「つまり死体?」
「まあ、まるごとひとつはいらない。組織を一部切り取ることができれば、どんな実
験が行われているのかは判る」
ふん、と莫邪は鼻をならす。
「やっかいそうな仕事やな」
ブラックソウルは優しげに言った。
「やめるかい?」
「あほいえ。ここまで聞いて断ったら、あんたに消されるやろ」
あははは、とブラックソウルが笑う。
「そいつはどうも」
「で、どうするんや。計画から実行まで全部おれらに丸投げしたいんやったら、それ
でもいいで。ただ値段は高くなるけどな」
「いや、こちらの実行計画に従ってもらう。おれのチームのメンバとして動いて欲し
い。まずおれのプロジェクトベースへ来てもらう。そこでシミュレータを使ったリハ
ーサルを数回行う。実行は一週間後」
莫邪は立ちあがった。
「OKや。それなら安くしとくで。基本料金だけやからな。とりあえず、行こうか。
あんたのプロジェクトベースへ」
グランドゼロ。
かつて製薬会社メビウスのビルであったが、今ではただの廃墟にすぎない。巨大な
墓標のように暗黒の空に向かって聳えたっている。
私たちの乗ったワゴン車はその聳え立つ漆黒の廃墟が間近に見える地点で止まった。
グランドゼロを監視している兵士たちに見つからない、ぎりぎりのポイントだ。私と
莫邪、それに月影が車から降りる。
車を運転していたプラックソウルは、少し笑みを見せるとその場から去っていった。
ブラックソウルは、別の場所から連携をとる。
私たちは廃ビルのひとつに入りこむ。周縁部には溢れかえっている浮浪者たちも、
さすがにこのグランドゼロの近くには見当たらない。生物兵器に汚染されているとい
われる区域に、好き好んで入りこむようなものはいないということだ。
暗視ゴーグルを装着し、私たちは廃ビルの地下へと入りこむ。そこは、なんらかの
マシン設備が設置されていたところらしいが、今はがらんとした洞窟のようだ。
「やれやれ」
莫邪がつぶやく。
「こんなくそ重たいものを装備するはめになるとは」
確かに、私と莫邪の背負うバーレット・アンチマテリアル・ライフルは14キロ以
上あり、実際長距離狙撃をするわけでもない今回の作戦にはやっかいなだけのしろも
のにも思える。
『んじゃ、おいていけば』
月影のバックパックに固定されたゴスロリ人形の突っ込みに、莫邪がほやく。
「あほいえ、おれたちの相手は人間やないからなあ。おまえはいいよな」
そういわれた月影の背にあるのは、蝙蝠傘だけである。ダークグレーのインバネス
に蝙蝠傘とゴスロリ人形を装着したバックパックを背負っているという奇妙な風体な
のだが、彼の奇天烈さには多少なれたせいかそれほど不自然に思わなくなった。
ただ月影も軽装備というわけではなく、片手に端末をおさめたケース、そしてもう
一方の手には地上においてきたアンテナに接続されたケーブルを持っている。
私たちは洞窟のようなその地下室の最奥に辿り着いた。そこには頑丈そうな鉄の扉
がある。両手の荷物を降ろした月影は、そのドアノブに手をかけた。
「あれ、開いてないよ」
私は舌打ちする。あまりここで時間をとる予定ではなかった。
「斬ろうか」
月影は、莫邪に問いかける。莫邪は首を振った。
「いや、おれがやっとこ」
莫邪は気軽に言うと、左手のグローブをはずす。漆黒の義手が顕わになる。
まるで、バターを斬るようだった。
漆黒の義手はあっさりと鉄製のドアのノブを円形に切り取る。驚いた私に笑いかけ
ると、ドアを開いた莫邪が私を招く。
「レディ・ファーストでいっとこか」
『あんたもレディだろ』
「まあ、そうともいうが」
私たちはその奥へ入りこむ。階段が下っている。酷く狭い。
月影の持っていたケーブルはここまでだった。終端についた中継アンテナを立て、
階段の上端に設置する。私たちは狭い階段を下ってゆく。薄暗い照明が入っており、
ここから先は暗視ゴーグルは不要だ。
やがて、地下の配管トンネルに辿り着いた。そこは巨大な獣の体内に入りこんだ気
にさせられる場所だ。丁度人の背丈くらいの高さと幅を持ったトンネル。その壁は様
々なケーブルやパイプによって覆い尽くされていた。
ある意味それは、臓器的な形態を持っている。私たちは、そのトンネルを歩き出し
た。
莫邪は私の左手への視線に、微笑みで答える。
「この手が気になる?」
「まあね」
「ま、いってみればある種の生物兵器なようなものでね。こいつは虫でてきている」
「虫?」
「ああ。人工的につくりあげられたナノサイズの虫。その虫が身体の表面に微細な黒
鉄砂をつけて、おれの左手を擬態している」
「驚いたな、一体どこでそんなものを?」
「ま、色々あってな」
「あったよ」
月影の声に、私たちは立ち止まる。そこから先はフェンスで閉ざされていた。フェ
ンスの周りには様々な探知装置がついていて、その向こうへ入りこもうとすると警報
装置が作動するしくみだ。そのフェンスの奥こそ、グランドゼロへと繋がる道があっ
た。
フェンスの奥へと続くケーブル群に、点検装置が装着されている。点検装置を通じ
て、光ファイバーケーブルから何本ものメタルの構内線へ分岐させる分岐装置を、コ
ントロールすることができるらしい。その点検装置のパネルを月影は開いた。開かれ
てあらわになった点検装置のパネルに、ケースから取り出したノート型の端末を接続
してゆく。
ノート型端末の液晶ディスプレイにネットワークのイメージ図が表示された。二系
統のラインが表示されている。片方はブルーに輝き、アクディブであることを示し、
もう片方は灰色で待機系であることを示していた。
「OK、待機系に繋がったよ」
「よし、ブラックソウルに連絡や」
莫邪の言葉に、月影はトランシーバーのスイッチを入れる。
「こっちはスタンバイOKだよ」
(判った)
トランシーバーからブラックソウルの声が漏れる。そして爆発音。と同時に、液晶
ディスプレイに表示されていたアクディブ側のラインが、ブルーからレッドに変わっ
た。そして、灰色だった待機系のラインがブルー表示に変わる。ブラックソウルがア
クディブ側の光ファイバーケーブルを増幅装置ごと爆破したためだ。
「ここのラインがアクティブになったよ」
「よしっ、ゴーだ」
莫邪の声に、月影は端末を操作する。ディスプレイに表示されたラインが両方レッ
ド表示になった。
「ウィルス注入完了、あと五秒でシステムダウン」
「5、4、3、2、いくぜ」
莫邪は一呼吸おくと、漆黒の左手でフェンスを切り裂く。警報装置は沈黙したまま
だ。私たちはフェンスを乗り越え、ブラックソウルを待つ。
ブラックソウルは十分ほどで現れた。
スタングレネードが轟音と閃光を放つ。
棒立ちとなった警備員たちを、私と莫邪のベレッタM93Rが吐き出す9ミリ弾が
打ち倒していった。グランドゼロ内部は驚くほど無防備である。
私たちはPDAに表示されたグランドゼロ内部の見取り図を見ている月影の指示に
従って、廊下を走った。ブラックソウルは後ろに続く。
本来であれば、体内に微弱電波を発信するチップを身体に埋めこまれた人間以外が
侵入した場合、廊下がシールドで閉鎖され麻酔ガスで意識を奪われるシステムとなっ
ている。しかし、月影の投入したウィルスによってシステムがダウンしている今、あ
きれるほど無防備な状態になっていた。
システムがダウンから復旧するのに、約30分はかかると見ている。ダウンから約
20分経過した今、私たちは目的のポイントの目の前に来ていた。
曲がり角がくると、莫邪がスタングレネードを放る。炸裂と同時に、M93Rを撃
ちながら、角を曲がった。6連リボルバー程度の武器しか装備していない警備員たち
は、ほとんど抵抗することができない。
グランドゼロの外側には自動ライフルを装備した自衛隊員がいるが、彼らはブラッ
クソウルが陽動のため爆破したポイントへ移動している。そのポイントには無数のト
ラップを仕掛けているため、入りこんだら容易には戻れない。
後5分もすれば、グランドゼロ内部に増援部隊が到着するはずだった。その時には、
私たちは目的地についているはず。
私たちは、丸腰の月影を前後左右から囲む形で走ってゆく。最後の曲がり角につい
た。私はM93Rの弾倉を交換すると、莫邪がスタングレネードが放るのと同時に、
そこへ飛びこむ。
三人の警備員は、あっさり倒れた。いくら9ミリ弾とはいえ、防弾チョッキの上か
ら被弾したとしても、肋骨にひびくらいは入る。訓練された兵士ではない警備員たち
は、それで十分戦意を失った。
警備員たちは、床に倒れうめいている。その向こうには頑丈そうな鋼鉄の扉があっ
た。
ブラックソウルが獣の笑みをみせ、莫邪に囁きかける。
「バーレットだ、莫邪」
「やれやれ」
莫邪は背負っていたバーレット・アンチマテリアル・ライフルを取り出す。全長1.
5メートルはあるライフルだ。理論的には1キロ以上はなれているポイントでも狙撃
できるしろものだけに、振りまわしはきかない。
莫邪は膝射で撃つ。轟音が響き渡った。莫邪は反動をうまく流しながら、連射する。
コンクリートの壁ごと扉の錠部分が破壊された。
「ハリウッド映画みたいじゃねえか」
「勘弁してくれ」
ブラックソウルの言葉に、莫邪は肩を竦める。
「おれはシュワルツネッガーじゃないんやからな」
莫邪は倒れている警備員に近づくと、バーレットの銃床で頭を殴り意識を奪ってゆ
く。気を失った警備員たちからリボルバーを奪うと弾を抜いて放り投げる。そして、
私たちを手招きした。
私たちは破壊した扉を開き、その奥へ入る。そこは無人だった。エレベータが一機
だけある。
エレベータの扉は、そばに操作パネルがつけられているが、電子ロックつきの蓋に
覆われていた。莫邪が漆黒の左手で強引に蓋を開く。
「じゃ、後はまかせたで」
莫邪の言葉に頷いた月影がそのパネルに、自分の端末に繋がったケーブルを接続し
てゆく。月影の端末には、ハッキング用ソフトの操作画面が表示されていた。
「時間がないぞ」
ブラックソウルが時計を見ながらつぶやく。
「後3分ほどで、システムが復旧する。そうすればここは麻酔ガスで満たされてしま
う」
「うーん、ここは地下から制御されてるからちょっと難しいねえ」
月影は暢気な調子で答える。両手は忙しくキーボードを叩いていた。
その時、部屋に紅いランプが灯る。警告ブザーが鳴った。スピーカーから声が流れ
る。
『許可の無い侵入は禁止されています、20秒後に麻酔ガスが放出されます』
「おい、システムが復旧したぞ」
ブラックソウルは多少焦りのある声を出す。
「うーん、もうちょっと」
『10秒前』
「あれ、ここはどうだっけ?」
月影のぽよんとした声に、ブラックソウルの目の色が変わる。
『5、4、3、2』
エレベータのドアが開いた。
私たちはそこに飛び込む。最後に端末を抱えた月影が入り込み、ドアが閉ざされた。
エレベータは地下に向かって動き出す。
莫邪はブラックソウルに微笑みかけた。
「この危機一髪具合も、ハリウッド映画か?」
ブラックソウルは苦笑した。
「なんにしても、グランドゼロのアンダーランドに侵入してからが本番だ」
ブラックソウルの言葉に莫邪が頷く。
「やれやれ、いよいよこいつの出番かよ」
莫邪はぼやきながら、バーレットの弾倉を交換する。私も背中からバーレットをと
りだした。
アンダーランド=地下世界は酷く静かだ。静寂の世界であり、死の世界でもある。
壁も、床も全て白く、私たちは純白の迷路に迷い込んだような気持ちになった。こ
こは人間が活動することを前提につくられた場所ではない。というよりも、生命が存
在することを前提としていない。
地上の生命から隔離され、異質の、地上の生命史ではありえなかったような生命体
を生成するための場所。それがこのグランドゼロのアンダーランドだ。
私と莫邪がバーレットを持ち、月影とブラックソウルを前後にはさみ込む形で移動
していく。月影は相変わらず手にしたPDAに表示される情報を見ながら歩いている。
なんの目印もないこの純白の迷宮では、確かにデジタルな情報に基づいて移動しなけ
れば目的地に辿りつくことは不可能だろう。
それにしても。
私はこの生きるものの気配が存在しないアンダーランドに入ってから、奇妙な感覚
を感じていた。何かに見つめられているような。
あるいは、誰か懐かしい人がこの先にいるような。
そんな奇妙な感覚。
#139/598 ●長編 *** コメント #138 ***
★タイトル (CWM ) 03/04/04 00:05 (467)
冥界のワルキューレ4 憑木影
★内容 03/04/11 00:26 修正 第2版
「あらら、見つかったよ」
月影が暢気な声を出す。
「まあ、しかたないわな、予定通りや」
莫邪はそういうと、円盤状のものを十枚ほどとりだした。
「前後からくるよ」
「はさみうちかいな、やれやれ」
莫邪はその円盤を、五枚づつ前後にばらまく。廊下にばらまかれた円盤状のものか
ら、風船のようなものが膨らんでいった。その風船は人の形を形成してゆく。
警備システムを欺くためのダミーだ。形態が人型をしているだけではなく、体温に
相当する熱量も放出しており、心音や呼吸音も偽装している。人型のダミーはモータ
ーに駆動され廊下を動きはじめた。
アンダーランドに侵入した直後にやはりダミーを十個ばらまいたのであるが、結局
大した時間かせぎにはならなかったようだ。
通路の前方と後方。
そこから警備ロボットたちが現れた。
アンダーランドはロボットたちの世界といってもいい。人間は生物兵器による汚染
を避けるため、必要最低限しかここにはいない。必然的に作業の多くをロボットにま
かせることになる。
ロボットたちは、皆白い装甲板に覆われており動く墓標のようだ。白い廊下や壁に
解け込んで、何かリアリティの無い幻想的な存在にすら見える。
白い幽鬼とでもいうべきだろうか。
ロボットは、前に三体、後ろに三体現れている。長い手を床につき、類人猿にも似
たやりかたで歩きながら移動していた。
私と莫邪はバーレットを構える。
ロボットの肩にとりつけられた自動ライフルが発射された。圧縮されたエアにより
ワイアーのついた針を飛ばすものであるため、音はほとんどしない。
私たちの前後にあるダミーが炸裂する。ロボットは温度と形態で人間を認識するた
め、ダミーと人間を見分けることができない。
放出されたワイアーつきの針に高圧電流がながされ火花をちらす。ここでは設備を
破壊することを避けるため、銃弾を撃つ銃器を装備したロボットは存在しない。いわ
ゆるテイザーガンとよばれるものが装備されている。
高圧電流を流した針を飛ばし、人体にふれたとたん失神させるというものだ。射程
はそう長くないが、十分有効な武器ではある。
私と莫邪は、バーレットを撃った。
轟音が純白の迷宮を満たす。
強力な反動で、眩暈がする。立射には向かない銃だ。しかし、威力は予想通り強力
だった。
拳銃弾どころか自動ライフルの銃弾ですら貫くことができないロボットの前面装甲
は、バーレットの銃弾にはさすがに耐えれなかったようだ。六体のロボットはあっさ
り破壊される。
白い幽鬼たちは、青白い火花をあげながら、純白の床へ打ち倒された。
「ちっ、まだきやがるよ」
さらに三体ずつのロボットが前後に現れる。ダミーはもうないが、テイザーガンの
射程は短い。バーレットなら余裕で倒すことができる。
突然、両側の壁が開く。ただの壁と思っていたところに、ドアがあったようだ。私
たちはさらに二体のロボットに左右を挟まれた形になる。
「くそっ」
莫邪と私たちはバーレットを撃つが、左右のロボットまで手が回らない。
ブラックソウルは腰からデザートイーグル50AEを抜くと、至近距離でロボット
に発射した。12.7ミリという最大のマグナム拳銃弾がロボットのカメラアイを直
撃する。
一体のロボットは動きを停止した。
月影は背中から蝙蝠傘をとる。
柄の部分を傘から抜くと、そこに現れたのは細身の剣だった。
ただ、刀身が半ばで断ち切られている。月影は、そのブロークンソードを一振りし
た。
白いロボットは動きを止める。
その胴体の上半身がゆっくりずれていく。胴を両断されたロボットは、床に倒れた。
ブラックソウルは口笛をふいた。
「すげえな」
『刀身の中に、チタンクロームのワイアーを工業用ダイアモンドでコーティングした、
ワイアーソウが仕込まれてる』
ゴスロリ人形が解説した。
私たちは全部で十四体のロボットを破壊したことになる。ただ、ここにはさらに倍
以上のロボットがいるはずだ。
「先が思いやられるで」
莫邪がぐちりながら、バーレットの弾倉を交換する。
「また、くるよ」
「速いな」
PDAをチェックした月影の言葉に、莫邪と私はバーレットを構える。
「待って、今度は一体だけだ」
「なんやて」
私の前方に、ロボットが姿を現す。反射的に私はバーレットの狙いをつけた。
「撃たないで」
月影の言葉に、私はトリッガーを引くのを思いとどまる。そのロボットはさっきの
警備ロボットと異なるタイプのようだ。テイザーガンを装備していない。
その形態は、動くドラム缶に似ている。手足はついておらず、下部についたタイア
で移動しているようだ。
その頭にあたる部分には液晶ディスプレイとカメラアイが装備されている。二本の
白いアンテナが液晶ディスプレイの後ろからつきだしており、兎の耳を思わせた。私
は銃を降ろす。私たちにそのロボットを通じてコンタクトをとりたいものがいるよう
だ。
私たちと2メートルほどの距離を隔ててロボットは停止した。同時に液晶ディスプ
レイに光が灯り、青く輝く。
その青い画面上にぼんやりと人の顔が浮かびあがった。カメラの焦点があっていな
いぼやけた画像ではあったが、人の顔であることは判る。おそらく男性、そして初老
の男のようだ。
ロボットは語りはじめた。
『ようこそ、グランドゼロ・アンダーランドへ』
莫邪が肩を竦めて答える。
「楽しませてもらってるで。中々アトラクションが豊富やな」
『それは何より。私はここの責任者、クライン・ユーベルシュタインだ。君たちに休
戦を申し出に来た』
「なんやて」
莫邪が目をむく。ブラックソウルは薄く笑みをうかべていた。
『我々の戦力では君たちを阻止できないことが判ったのでね。無用なことはしたくな
い。このロボットが君たちを私のところまで案内する。そこで君たちの望みを聞こう
ではないか』
莫邪は鼻をならすと、ブラックソウルを見る。罠とすればあからさますぎた。とい
ってユーベルシュタインのいうことをそのまま受け取る気にもならない。
「いいだろう」
ブラックソウルは薄く笑みを浮かべたままいった。
「あんたと会おう。それから取引をしようじゃないか」
『ありがとう。ではついてきてくれ』
男の姿が消える。ディスプレイに青い光が戻った。
青い光。
その光が突然、私の心に突き刺さった。
あたりに青い光が満ちてゆく。いや、それは青く輝く水だった。アンダーランドの
白い廊下を青く輝く水が満たしていった。私はその水の中に飲み込まれる。
水の中を。
漂う。
「おい」
莫邪が私の肩を掴んだ。私は幻覚から目覚める。
「どうしたんや?顔色がみょうやで」
「なんでもない」
私は首を振った。私たちは兎の耳を持つロボットの後を追って歩きだす。
夜の空が私たちを優しく包み込む。
私たちは夜に属するもの。
闇に生きるもの。
漆黒のピロードとなった夜空が私たちを静かに愛撫する。
翼が空気を受け、私たちの体を上昇させた。
私たちは、背に竜の翼を持つ。水晶の破片を散りばめたような、天空に広がる漆黒
の星空。そこを竜の翼で風にのり、私たちは滑空する。
私の前を飛ぶのはヴァンパイア・アルケーにして、魔族の女王であるヴェリンダ様
だ。私たちのゆく先には、石で出来た巨大な塔がある。
ここに棲む人間どもがグランドゼロと呼ぶ場所。
そして、そこはヴァルラ様の捕らわれている場所でもあった。
ブラックソウルは、既にそこへ侵入している。自ら囮となり、グランドゼロの警護
をしている兵たちを撹乱していた。
私たちは、漆黒の天空高く舞い上がる。そして、巨大な石の塔へ降り立った。私た
ちの背中の翼は、折りたたまれ身体の中へ取り込まれてゆく。
私たちを運んでいた風の精霊たちも、同時にどこかへ去っていった。ヴェリンダ様
は黄金に輝く髪を闇の中で靡かせ、あたりを見まわす。その姿は、野性の獣だけが持
つ高貴さを備えている。
「美しいな」
グランドゼロの周りの地表は闇に覆われているが、少し離れた街全体は色とりどり
の光に満ちている。ヴェリンダ様は、宝石箱の中を撒き散らしたような煌きを持つ地
上を見渡していった。
「面白いとはおもわないか。あんな無様で惨めな生き物である人間たちが、このよう
に美しい世界をつくり出すとは」
私は無言で頷く。
私は腰のホルスターから、巨大な拳銃をとりだした。砂漠の猛禽という名を持つそ
の武器を手にする。ヴェリンダ様にとって家畜にすぎない人間たちを、恐れる必要は
無い。しかし、ここは伝説の地デルファイだ。魔道の通じない存在が支配する場所が
ある。
グランドゼロ・アンダーランド。
その地にこそ、ヴァルラ様が捕らわれている。
「そして、人間たちは魔道の必要がない世界を造りあげた。結局のところあの醜悪な
存在どもは、神に愛されていないことをよく理解しているのだろうな。だから全て自
分たちの手によって造りあげてゆく。天上の美を地上へ。天上の楽園を地下へと」
ヴェリンダ様は侮蔑をこめた笑みを浮かべる。
「では行こうか、ヌバーク。家畜のつくりあげた機械仕掛けの楽園へ」
私はヴェリンダ様の先に立って、歩きだす。私たちは地下へと向かう。生あるもの
でもなく、死せるものでもない、奇妙な存在によって支配されている場所アンダーラ
ンド。そこが私たちの向かう場所。
私たちは塔の中に入り、鉄の箱に乗った。鉄の箱はゆっくりと沈んで行く。アンダ
ーランドに向かって。
そこは青い光に満たされていた。
青い空間。
静かで儚げな色に満たされている。
薄暗く、そして透明な世界。
満たされているのは、水だった。巨大な水槽が壁面のひとつに嵌め込まれている。
その巨大な水槽の中に白い影があった。
まるで湖の底であるかのような、静寂に満ちた空間だ。私は自分の頭の中が、青い
波動に埋め尽くされていくのを感じる。
これはいつもの白昼夢だった。私は自分が幻覚の中にいるのか、現実にいるのか区
別がつかなくなっている。全てはこの瞬間のために用意されていたことのようだ。
青い光。
それは無数の微粒子となり、あたりを漂う。
きらきらと。
私の心の中もそれで満たされていく。
白い影。それは巨大だった。およそ、4メートルくらいはあるだろうか。何か大き
な海獣を思わせる。
しかし、それは違った。青い闇の中から浮き上がってくるその白いもの。それはま
ぎれもなく、人間の形をしている。
青い空間を遊弋する白い人影。その巨人は、黄金の髪を持ち、金色の瞳を持つ。そ
の青い瞳、仄暗い空間の中でサファイアの輝きを放つその瞳がゆっくりと、私のほう
を、向く。
私がその瞳に映る。
そして、その巨人の顔は、私だった。
私が私を見つめている。
私は青い闇を漂う。
浮遊。
無数の青い微粒子が轟音となって私の体を覆ってゆく。世界が揺らいでいた。私は
私を見つめる。バーレットを構え水槽を凝視している私を見つめていた。
青い。
轟音が。
世界を覆い尽くす。
「ここは、一体なんや」
唐突に発せられた莫邪の声が私を現実に引き戻す。私たちが兎の耳を持つロボット
によって導かれたその部屋には巨大な水槽がある。そして、そこに漂うのは全長4メ
ートルの巨人。
私たちのいる部屋は、ちょっとしたホールくらいの広さはある。水槽の大きさは、
奥行きはよく判らないが、私たちに見えている部分は映画館のスクリーンくらいはあ
るだろうか。
巨人は生きているのだろうか。ここから見ただけでは、判らない。ただ死体の持つ
淀んだ雰囲気は無い。むしろ眠っているように見えた。瞳を開いたまま、白昼夢の虜
となっているかのように思える。
莫邪はブラックソウルを見ていった。
「おまえは、これを知っていてここへきたんやな。どういうことか説明してくれ」
ブラックソウルは薄く笑っている。その笑みを頬に貼り付けたまま、呟いた。
「それはおれの仕事じゃない」
ブラックソウルの眼差しの先には、兎の耳をしたロボットがある。ロボットは方向
を転換し、私たちのほうを向いた。突然、そのロボットの前面装甲が開く。
中から小さな人間が姿を現す。身長は1メートル以下だろうか。6歳子程度の大き
さだ。
ただ、いわゆる小人や子供と大きく違うのは、その身体を構成する比率だった。普
通、小さな人間は頭の大きさが身体に対して大きくなるものだ。しかし、その小さな
人間は、普通のサイズの人間をそのまま縮小したような比率の身体を持っている。
いうなれば、人間を縮小コピーしたような身体とでもいえばいいだろうか。
その縮小された人間は笑みを浮かべていった。
「ようこそ、グランドゼロ・アンダーワールドの中心へ。私が、クライン・ユーベル
シュタインだ」
ロボットから離れたユーベルシュタインは、ゆっくりと歩き水槽の前に立つ。背後
から青い光を受けているためその顔は影となり、表情は読めない。しかし、微笑んで
いるようだ。
「あんたが、一体ここがなんなのか説明してくれるという訳か?」
莫邪の言葉に、ユーベルシュタインはゆっくりと頷く。
「それは半世紀近く前からの物語になる」
ユーベルシュタインは学者のようにゆっくり落ちついた声で語り始める。
「人類はかつて月へ行った。その時見出したものが、君たちが今目の当たりにしてい
る巨人なのだ」
私たちは息をのむ。
「月には、何体もの眠れる巨人がいた。私たちはその体組織を一部切り取ると、クロ
ーン技術を使って地球上で復元した。それがこの水槽で眠る巨人だ」
「そんなことは」
莫邪の言葉をユーベルシュタインが遮る。
「確かに、一切公表されたことは無い。しかし、元々巨人が月に眠っていることを知
っているものはいた。それがゼータ機関だ。ゼータ機関は月に人類を送り込むための
資金提供を影で行い、巨人の体組織を得ると同時にその資金提供を打ち切った。そし
て、こんどはその体組織から巨人の復元をするためのプロジェクトを立ち上げたのだ
よ」
信じがたい話だ。ユーベルシュタインが私たちをこの部屋に招いてから話を始めた
理由が判った。もし、巨人を見ないままこんな話を聞いたとしても、とても信じられ
なかっただろう。
「ゼータ機関が誰の手によって運営されているのかあんたは知ってるか?」
ブラックソウルの言葉に、ユーベルシュタインは首を振った。
「いや。超国家組織であるゼータ機関の中心に誰がいるのかは誰もしらない。太古か
ら存在する秘密結社がその前身らしいが、噂の域を出ない。ただ、ゼータ機関はその
巨人が私たちの世界を破壊することを知っていたのは間違いない」
「破壊するって、どういうことや」
莫邪が問いかける。
「巨人は、この世界の物理法則を歪める力を持つ。その力はウィルスのように感染し
広がってゆく。もし、巨人が目覚めれば世界は完全に崩壊するだろう」
「なぜ、ゼータ機関はそんなものを地球に持ちこんだんや」
莫邪の言葉にユーベルシュタインは首を振るだけだった。
「それを知るものはいないのだよ。巨人はいずれ目覚める。それに対抗する手段を私
は造りあげた。それが」
「小人になることだな」
ブラックソウルは嘲るような笑みを浮かべて、ユーベルシュタインの言葉を遮った。
ユーベルシュタインは、深く静かに頷く。
「時空間を支配する物理法則が安定しないのであれば、それを防ぐために私たちの身
体を構成する次元界を圧縮して安定させてやればいい。そのために私はゼータウィル
スを造りあげた。そして、そのウィルスに感染したものは身体が縮小する。厳密には
身体を構成する原子の五次元以上の次元界を圧縮することにより縮小させるのだ」
「原子そのものを圧縮する?」
莫邪の言葉にユーベルシュタインは頷く。
「その通り」
ユーベルシュタインが厳かに言った。
「これが人類を救う唯一の方法だ」
「おれは知っているよ」
無造作にブラックソウルが言った。怪訝な顔をしてユーベルシュタインはブラック
ソウルを見る。
ブラックソウルは狼の笑みを浮かべていた。
「ゼータ機関は人類がどうなろうと興味は無い。滅ぼうが生き長らえようが、大した
問題じゃない。なぜなら」
ユーベルシュタインは不思議なものを見るようにブラックソウルを見ている。
「巨人を地球上に復活させることだけが目的の機関だからだ。そして、ゼータ機関を
支配するものは、巨人をこの宇宙に造りあげた存在でもある」
「馬鹿な」
ユーベルシュタインは戸惑った声を出す。
「もし、そんな存在がいるとすれば」
ブラックソウルは邪悪な笑みを浮かべた顔で頷く。
「そうだ」
ユーベルシュタインは蒼ざめる。
「その存在は人間ではない」
「ああ。おれたちの世界では邪神グーヌと呼ぶ」
「おれたちの世界?」
そのとき。
巨人が。
ゆっくりと。
動きだした。
私の全身を青白い火花が覆い尽くす。漆黒の肌に絡みつき電撃の火花を散らすテイ
ザーガンのワイアーは、夜空を走る彗星のようだ。
私は電撃を放つワイアーを引きぬくと、ロボットへと近づく。そのカメラアイに、
金属の猛禽をつきつけるとトリッガーを引いた。
轟音。
金色に煌くカートリッジが純白の床に落ち、澄んだ音をたてる。
ロボットは火花を散らしながら、幾度が痙攣した。やがて、装甲の隙間から煙をあ
げて停止する。
私の後ろでも爆音が響く。ヴェリンダ様がロボットを破壊し終わったようだ。私は
ヴェリンダ様に声をかける。
「急ぎましょう、ヴェリンダ様。ロボットたちの数が増えてきています。ブラックソ
ウルたちが陽動するのも、そろそろ限界のはずです」
ヴェリンダ様は頷き、走りだす。
白い廊下。
白い壁。
その純白の迷宮を、私たちは黒い風となって疾走する。白い機械人形であるロボッ
トたちは、まだ数体しか出会っていない。おそらく数十体と一度に出くわしていれば、
私たちの手にはおえなかったに違いなかった。
何も目印らしいもののない、グランドゼロ・アンダーランドだが、私の頭の中には
通路の地図が記憶されている。私は確信を持ってヴェリンダ様を導いてゆく。
そして、その部屋の前についた。
白い扉。一見しただけではその壁に扉があることは判らない。しかし、私の目には、
はっきりとその存在を感じ取ることができる。なぜなら、その奥からまぎれも無いヴ
ァンパイア・アルケーの気配を感じるからだ。
しかし、それは酷く微弱だった。なんらかの方法で、家畜どもはヴァルラ様の力を
封印しているらしい。そうでもしなければ、魔族の王であるヴァルラ様を封じていら
れるはずはないのだが。
私は腰につけたウェストバックから携帯端末を取り出す。壁の一部を私は開くと、
そこに現れた操作パネルに携帯端末をケーブルで接続する。
私はブラックソウルに教わった通りに、携帯端末を操作した。ため息のような音を
たてて、扉が開く。そこは部屋は闇に埋め尽くされていた。
私たちはその闇に満たされた部屋の中に入り込む。闇の中に青く輝くものがあった。
私はその円筒形の仄かに光を放つ物体を見つめる。
それらは水槽のようだ。水槽は全部で五つあった。そして、その水槽の中には、顔
が浮かんでいる。青く輝く宇宙に浮かぶ闇色の月のような。それは。
ヴァルラ様の頭だった。
私は息を飲む。
後ろでヴェリンダ様が苦笑した。
「やれやれ、家畜どもも、無粋なことをしたものだ」
水槽の中にはヴァルラ様の身体の各部が分散して収められている。ある水槽には、
腕が。ある水槽には足が、ある水槽には胸が。
薄く青く輝く水槽の中で、黒い影のように各身体のパーツが漂っている。
「なるほど、これではいかな我が弟といえ、魔力を使うことはできまい」
ヴェリンダ様は、鋼鉄の拳銃を構える。
「救ってやるぞ、我が弟よ」
金属の猛禽は、闇の中で火を吹いた。
巨大な水槽の中。
巨人はゆっくりと動く。
その様は、深海で海獣が身をよじる姿に似ていた。巨人はゆらりと拳を振り上げる。
その拳が水槽のガラスに叩きつけられた。
一度。
二度と。
水槽に稲妻のような亀裂が生じる。
ユーベルシュタインが息を呑んだ。
「馬鹿な。ライフル弾でもこのガラスは破壊できないはず」
しかし、ガラスにひびが走ってゆく。ユーベルシュタインは、再びその小さな身体
を兎の耳を持つロボットの中に収めた。
莫邪が私の隣でバーレットを構える。
私もそれになにらって、バーレットを構えた。月影も、蝙蝠傘から剣を抜く。ユー
ベルシュタインの乗ったロボットは床に開いた穴の中へと消えて行く。
ついに、巨人の一撃の前にガラスが砕けた。水がきらきらと輝きながら、部屋に流
れ出してゆく。
巨人は水の中に立ちあがった。その姿は、まるで深い森の中にある湖の中から生ま
れ出でた精霊のように美しい。金色の髪は燃え盛る炎のように肩へかかり、その輝く
瞳は冬の空の清冽な光を宿す。
私たちの見ているこれは、なんだろう。
私は再び、幻覚と現実の区別がつかなくなる。私が私を見つめている。
どこかで見た景色。
どこかで出会ったできごと。
私は。
夢の中にいる。
巨人は一歩踏み出した。どこかぎこちない、一歩。ゆっくりと踏み出す。
「おい、アリス!」
莫邪が叫ぶ。
気がつくと巨人が目の前にいた。そんなはずはない。だって、巨人はあそこにいた
はず。でも、今は私を見下ろしている。目の前で。そんなはずは。
巨人が。
手を。
伸ばす。
「うわあああああああああああああ」
私は無意識のうちに、バーレットのトリッガーを引いていた。その強力な銃弾は、
巨人の胴体を貫く。私の視界が真紅に染まる。
巨人の血を全身に浴びた。巨人はどさりと私の前に崩れ落ちる。しかし、その瞳は
私を見つめ、両の手は恋人を求めるように私に向かって差し出された。
血が流れる。湧き出す泉の水のように、部屋に満たされた水を紅く染めていった。
私はその真紅の湖に浮かんでるような気持ちになる。青く。そして、紅い。
巨人が。
私を見つめて。
「あああああっ」
私は再び絶叫して、バーレットを撃つ。その反動を押さえきれず、私は水の中に倒
れる。私は青く紅いその水の中に溺れた。
漂う。
水の中を。
そして、それは闇を切り裂く稲妻のように、私の心に訪れた。
判った。私は。思い出した。
私は立ちあがる。莫邪を。そして、月影を見る。
私は心に浮かんできたその言葉を、語った。
「私はラーゴスのフレヤ」
世界が急速に歪み始めた。
青い水と、透明なガラスの破片を撒き散らしながら、水槽が破壊されてゆく。しか
し、ヴァルラ様の漆黒の身体は、宙にとどまっていた。その各身体のパーツは淡い金
色の光によって覆われている。
ヴェリンダ様は小声で呪文を唱え続けていた。
こんな地下奥深い場所でも、ヴェリンダ様は精霊の力を呼び起こしている。ただで
さえ、精霊の力がとどきにくいこのデルファイで、しかもこのアンダーランドでその
力を使うのはヴェリンダ様でさえもかなり消耗してるはずだ。
ヴァルラ様の身体が繋がってゆく。
手が、足が、胴体が宙を動き、繋がっていった。
闇の中に漆黒の貴公子が蘇る。
真夜中の太陽のように金色に輝く髪を靡かせ、ゆっくりと床に舞い降りた。
ヴェリンダ様は、消耗したのか床に膝をつく。ヴァルラ様は、その身体を支えた。
「世話をかけたな姉上」
ヴェリンダ様は苦笑する。
「全くだ。再びこの地にくることになるとは思いもよらなかったぞ」
「ではいきましょうか」
ヴァルラ様は闇色の笑みを浮かべる。
「あなたを慕うあの狂人、ガルンを始末しに」
ヴェリンダ様は眉を曇らせる。
「やつがここに?」
「もちろん。ここはあの狂った男の世界だ」
私たちは、ヴァルラ様に従って、さらにグランドゼロ・アンダーランドの奥深くへ
と踏み込んで行く。
全てが歪んでいくのを感じる。
私の傍らで莫邪の身体が縮んでゆくのが判った。後ろにいるブラックソウルや月影
の身体も縮小していっている。
ここは、デルファイ。
私の中に記憶が蘇りつつあった。気がつくと、私の身体が金色の光に包まれている。
私は自分の身体を見下ろす。私は純白の鎧を纏っている。そして、手にはバーレット
ではなく長剣があった。
莫邪たちの姿も変貌してゆく。その姿はデルファイに入り込むときのバクヤとエリ
ウスの姿に変化した。いや、戻ったというべきなのか。
エリウスの手にしているのは蝙蝠傘に仕込まれていた剣ではなく、あのノウトゥン
グだ。そして、ブラックソウルも灰色のマントを纏った姿で佇んでいる。
水槽の中にいた巨人の死体はどこにもない。その身体は崩壊してしまったようだ。
細かな微粒子となって、水の中に解けてしまったらしい。
バクヤとエリウス、それにブラックソウルの身体は半分くらいの大きさまで縮小し
ていた。しかし、私の身体はそのままだ。アリス・クォータームーンの身長そのまま。
それにしても、アリス・クォータームーンとは誰なのか?
私なのだろうか。
記憶を失う前の私?
それとも、それは存在しないこの死者の都での幻影にすぎないのか。
私は自分の身体を包んでいた光が次第に縮小してゆく。その光は次第に私の身体か
ら離れ、私の目の前の空間に凝縮しはじめた。
光は凝縮するとともに、眩さを増す。それは銀河の彼方に出現した超新星のように、
鋭角的な光で部屋の中を照らし出した。
そして。
その光は実体を持ちはじめる。
光は球形の物体となった。その物体は林檎の形をしている。私はそれを見た憶えが
あった。それは、あの天空城エルディスで見たもの。
それは見るものの心を吸い込むような。そして、私の周りの世界全てがただの陽炎
のように儚く見えてしまうような。そうした強烈な存在感を放っている。
それは世界の裂け目。
そして、黄金の林檎という名を持つ。
力がその光を囲み渦巻いているのが判った。細かなエネルギーの微粒子がざわざわ
と蠢きつつ光を放ち、黄金の林檎を取り囲んでいる。
それは巨大なエネルギーのタイフーンであり、黄金の林檎はその嵐の目であるとい
ってもいい。黄金の林檎そのものは静かであり超越していた。誰もそれに触れること
ができない、誰もそれを理解することができない。そうした超絶した場を纏っている。
突然。
私の視界がその黄金の林檎によって覆い尽くされた。私は足元から地面が消失して
しまったのを感じる。そして、私の意識はその眩い光の中へ吸い込まれていった。
ブラックソウルは何かに憑かれたもののように、その黄金の光を見つめている。
バクヤは自分の左手を動かしてみた。いつものメタルギミックスライムの感覚どお
りだ。突然蘇った記憶は、この死霊の都デルファイで与えられていた擬似記憶とまざ
りあい、バクヤを混乱させている。しかし、身体感覚は間違い無くいつもどおりだ。
いつでも闘うことができる。
しかしバクヤは目の前にブラックソウルを見ながら、その仇敵に戦いを挑むことを
躊躇していた。
あまりに自分のおかれている状況が奇妙であったためと、目の前にある巨人フレヤ
を呑み込んだ光が思考を奪っていたためだ。それは、おそらく黄金の林檎と呼ばれる
ものなのだろう。だとすれば、自分がそれを見たのは二度目だと思う。
ブラックソウルは叫ぶ。
「ヴェリンダ。いよいよ、時がきたぞ!」
その言葉と同時に、部屋の中へ二人の魔族とヌバークが入り込んでくる。魔族の一
人は間違い無くヴェリンダ。そして、もう一人はおそらく魔族の王ヴァルラ。
「あらら」
エリウスが暢気に呟く。
「僕たちの仕事はもう終わったわけ?」
#140/598 ●長編 *** コメント #139 ***
★タイトル (CWM ) 03/04/04 00:06 (477)
冥界のワルキューレ5 憑木影
★内容 03/04/11 00:29 修正 第2版
エリウスの言葉を無視して、ヴェリンダはゆっくりと黄金の林檎へ近づく。それを
封印するための呪文を唱えながら、両手を差し出す。
その時。
銃声が轟いた。
ヴェリンダは胴を銃弾に貫かれ、床に倒れる。そして、封印された黄金の林檎が床
に落ちた。
真紅の華が咲くように、ヴェリンダの血が水の中に広がる。ヴァルラが駆け寄った。
「姉上」
「蘇ったか、ヴァルラ」
ヴァルラは声のしたところ、頭上を見上げる。天井にハッチが開いていた。そのハ
ッチから影が舞い降りてくる。
ヴァルラの目の前に、漆黒の影が降りたつ。
それは闇色の巨大な鳥のようだ。鋼鉄の翼が、闇夜のように広げられた。
そして、それは機械でもある。
夜のように暗い翼を持つ機械人形。
その人型をした漆黒の機械は、闇色の天使のようだ。そして、その人形の顔はまさ
に天使のように無機的な美しさを持っていた。
ヴァルラはその顔を見て呟く。
「貴様、ガルン」
ガルンと呼ばれたその戦闘機械は美しい仮面のような顔を、ヴァルラへ向ける。機
械とは思えない滑らかな動作だ。
そして、ガルンは巨大な拳銃デザートイーグルを手にしていた。銃口はヴァルラへ
向けられている。
「動かないほうがいいな」
ガルンは、言った。
「この拳銃であればいかに魔族といえども身体を破壊されてしまう。まあ、死にはす
まいがあまりやりたくはない」
ガルンは黄金の林檎を手に取る。
「やはり、これはおれが持っていたほうがいいだろう」
ガルンは聖母の笑みを浮かべた顔を、ブラックソウルのほうへ向ける。
「残念だったな、ブラックソウル。世界を滅ぼすなど、あきらめるほうがいい」
ブラックソウルが叫ぶ。
「エリウス王子、やつを斬れ!」
エリウスは反射的に手をノウトゥングにかける。その瞬間、ガルンの手にした黄金
の林檎が凄まじい光を放った。光は一瞬部屋全体を満たし、エリウスの視界を奪う。
光は数秒ほどで消え去った。視界が戻ったときには、漆黒の天使のようなガルンの
姿は無かった。腹部を鮮血で染めたヴェリンダがヴァルラに支えられ、ゆっくり立ち
あがる。
「ヴェリンダ」
ブラックソウルの問いかけに、ヴェリンダは薄く笑みを浮かべて答える。
「デルファイでは傷の治りが遅い。ガルンはアルケミアへ戻ったぞ、ブラックソウル」
ブラックソウルは頷くと、バクヤを見る。
「さて、バクヤ。お前はどうする。ここでおれと戦うつもりか?」
バクヤは苦笑を浮かべて首を振る。
「やめとこう。とりあえずはそちらのヌバークと約束したからな。ヴァルラがガルン
を倒すのを見届けるまでは、休戦や」
ブラックソウルは満足げに頷く。
「ヌバーク、我々もアルケミアへ戻ろう」
ブラックソウルの言葉に、ヌバークは頷いた。ヌバークは指先を少し歯で傷つけ、
血を垂らして水面に魔法文様を描いてゆく。青白く輝く水の上に垂らされた真紅の血
は、描かれた文様を崩さずそのまま留まっていた。
「皆さん、集まってください」
ヌバークの言葉に二人の魔族、それに三人の人間が文様の中へと入り込んでゆく。
ヌバークは呪文を唱えていた。
バクヤは、その文様の中へ入ったとき、奇妙な感覚を感じる。それは、丁度このデ
ルファイと呼ばれる世界へと入り込んできた感覚。そして、幾度か魔法的世界に入り
込んだときに感じる感覚と同じものだった。
全身が違和感を感じて微かに震える。
世界が歪んでいく感触。
空間そのものが、振動し細かく分解していくような。
そして、突然足元の感覚が消失した。
バクヤは青い宇宙のただなかへと、ほうり出される。
気が遠くなるような無限を、一瞬だけ感じた。そして、意識は闇に呑まれる。
バクヤは突然、意識を取り戻す。
そこはあのアルケミアの地下墓地にある祭壇であった。バクヤは奇妙な幻惑を感じ
る。まるで、デルファイに行っていた時間がほんの一瞬の出来事のように感じられた。
ついさっき、ここでヌバークの魔道を感じたように思える。
あの時と違うのは、フレヤの姿が見えず、二人の魔族そしてブラックソウルがいる
ことだった。バクヤは祭壇から降りる。
デルファイへ旅だったときと同じ場所に佇んでいたロキが、声をかけてきた。
「フレヤはどうした」
ブラックソウルが答える。
「判らん、消えたよ」
ロキは納得したのかどうかよく判らないいつもの無表情で、頷いた。バクヤはあた
りを見まわしてみる。
その薄暮の世界は、デルファイへ行く前と全く変わっていない。おそらく何千年と
変わらぬ場所なのだろう。静かであり、生きるものの気配が感じられなかった。
エリウスが、ふと指を突き出す。
「誰かくるよ」
バクヤは薄闇を見つめる。広大な湿地帯に浮かび上がっている無数の墓碑、その間
に動く灰色の影があった。バクヤは無意識のうちに、身体が戦闘への準備をはじめて
いるのを感じる。
魔族の王、ヴァルラは、一歩前へ出た。
「そこにいるのは、ウルラか」
灰色の影は、次第にその姿をはっきりさせてゆく。それは、間違い無くマントを纏
った魔導師であった。その魔導師はヴァルラの言葉に答える。
「ヴァルラ様、いかにもウルラでございます」
ウルラは、湿地帯の中に立ち止まった。その姿は半ば、薄墨を流したような闇の中
に溶け込み、あたかも幽鬼のようである。
ウルラはどこか哀しげな響きのある声で語る。
「ヴァルラ様。あなたは戻られるべきではなかった。あなたはガルン様に殺されるた
めに戻られたようなものだ」
ヴァルラは闇に輝く暗黒の太陽のように、美しい笑みを見せる。
「それがどうしたというのだ。私は意味なく生き長らえるよりは、戦って死ぬことを
望む」
「考え直しませぬか」
ウルラの声には、切実な願いが込められている。
「中原を、白い肌の人間が支配するあの汚れた王国を、共に蹂躙するわけにはいかな
いのですか」
ヴァルラは首を振る。
「私は、狂ってはいない。それに狂うことも望んではいない。私は王だからだ。ウル
ラよ。おまえこそ、私の前から姿を消すがいい。死に急ぐことはあるまい」
ウルラは凛とした意思の込められた声で答える。
「あなたに殺されるのであれば、本望です」
ウルラは両手を漆黒の天へ向けて差し出す。そして、呪文の詠唱が始まった。
バクヤは、闇が蠢くのを見る。この地下墓地を覆っている巨大な半球形の岩で出来
た天蓋の下で、闇が渦巻き形をとりつつあった。
渦巻く闇。邪悪な瘴気を放つその黒い塊たちは、飢えた呻き声をあげながら次第に
近づいてくる。その黒い塊は羽竜の形をしていた。
冥府の闇を切りぬいたような黒い翼を持つ羽竜たちは、鋸のような牙がはえた口を
がちがちと鳴らしながら近づいてくる。その闇でてきた生き物たちが放つ瘴気は、バ
クヤの全身から力を奪い去ってゆく。バクヤは全身が自然に小刻みに震えだすのを感
じた。凄まじい冷気があたりを覆ってゆく。
フレヤが切り捨てた闇の獣たちより、格段に強力な力を持つ存在らしい。ヌバーク
は、呪文を唱えようとする。ヴァルラがそれを制した。
「必要ない」
ヴァルラは静かな笑みを浮かべ、邪念が造りあげた竜巻のような羽竜たちを見つめ
る。まるで愛しいものを見つめるかのような眼差しだ。
羽竜は叫び声をあげる。それは、無数の絶叫へと高まっていった。羽竜たちは闇色
の矢となってヴァルラの元へ殺到する。
突然。
ヴァルラの頭上に漆黒の槍が出現する。
槍は、羽竜を櫛刺しにした。闇が蠢き、羽竜は消滅する。
ヴァルラの頭上で闇が裂けた。その闇の裂け目から、精悍で巨大な闇色の馬が出現
する。そして、その馬には闇色の鎧を身につけた騎士が跨っていた。
その騎士は巧みに漆黒の槍を操る。その槍は空間そのものを切り裂いているようだ。
ヴァルラを襲おうとしていた羽竜たちは、空間の裂け目へと吸い込まれていった。
全ての羽竜は消滅する。
ウルラは力つきたように、湿地帯の中へ膝をついた。その前に闇色の騎士が立つ。
黒い槍は、ウルラの心臓を貫いた。一瞬にして、ウルラの身体は空間の裂け目へと
呑み込まれる。首だけが残り、静かに水の中へと落ちた。
一瞬。
ウルラの瞳がヴァルラを見つめた。その口元には笑みが浮かんでいるようだ。
そして、水面に波紋を残しウルラの首が消えてゆく。
漆黒の騎士も、再び中空に出現した闇の裂け目へと吸い込まれていった。
「行こうか」
嘲るような笑みを浮かべたブラックソウルがヴァルラに声をかける。
「ガルンが冥界の底で待っているはずだ。あそこで決着をつけよう」
ヴァルラはゆっくり頷いた。
静かだった。
そして青い。
空は晴れ渡り青く広がっている。天頂は遥かに高く、微かに暗い。足元には湖があ
る。サファイアの輝きを持つ水は、漣を立てることもなく鏡面のように静まり返って
おりそして輝いていた。
フレヤはゆっくりと、湖の岸辺を歩く。
そこは、小さな島だ。古代の遺跡に残された塔のように聳え立つ木々が、その島の
陸地を覆っている。巨大な木に満たされた林の中は、鬱蒼として昏い。フレヤは、そ
の林の中へと向かい歩き出す。
ものいわぬ緑の巨人のような木々の足元を歩いてゆく。荘厳な空気を湛えたその林
の奥には、小さな小屋がある。白亜の大理石によって造られたその小屋は、神の墓の
ように重苦しい佇まいと静かで神聖な空気をあわせ持っていた。
フレヤはなぜ、自分がここにいるのだろうかと思う。
アルケミアにいた記憶はある。そして、デルファイでのアリス・クォータームーン
としての記憶もあった。
しかし、そのどちらも夢の中のできごとのように遠いものだ。どちらもある意味で
はリアルであり、どちらも別の意味では自分のことでは無い気がする。
フレヤは、自分の身体を見下ろしてみた。
まるで、屍衣のように白い長衣を纏っている。手に剣はなく、また鎧もつけていな
い。そのことにさして疑問を感じない。
ここはそういう場所のようだ。戦いの行われる場所ではない。
そして、林の奥の小屋から招かれているのを感じた。
そこに待つものがいる。
フレヤは白亜の小屋の前に立った。中は薄暗く、よく見えない。木の扉がゆっくり
と開いた。
一人の男が現れる。フレヤはその男を知っていた。その名を呼ぶ。
「ラフレール」
「やあ、フレヤ。いや、それともアリスと呼ぶべきなのかな。ようやく再び会うこと
ができた」
フレヤは、自分がラフレールと同じ背丈であることにさして疑問を感じていない。
自分は巨人ではなく、また、アリスでもない。何者であるかは、おそらくこれから決
めることになるのだろう。
フレヤはラフレールにすすめられるまま、小屋のテラスに置かれた椅子に腰をおろ
す。ラフレールはフレヤの前に座った。
伝説の魔導師ラフレール。
かつて会ったときとは少し異なる、穏やかな笑みを浮かべていた。青春の神を思わ
せる若々して美貌には変わりがない。
どこか魔族にも似た、年を経た古きものだけがもちうる淀んだ空気を纏った人間。
しかし、その姿は青年のものであり、その笑みは慈愛すら感じさせるものだ。
フレヤは口を開いた。
「ここはどこだ」
「アイオーン界の最奥だ。ウロボロスの輪によって閉ざされたもっとも奥深いところ。
いかなる邪神とて、ここまでは来ることができない。唯一黄金の林檎の力を使うこと
によってのみ、ここへ来ることが可能になる」
「では、おまえは望みを果たしたということか」
「いや」
ラフレールは少し哀しげに首を振る。
「これからはじめるのだ。黄金の林檎の封印をね。フレヤ=アリス。君にも協力して
もらうことになる」
「私がおまえに協力するというのか?」
「君はもうラーゴスのフレヤではなくなった。あの氷原を渡るブリザードのような巨
人戦士ではなくなった。そうだろう?フレヤ=アリス」
ラフレールの言葉に、フレヤは頷いていた。
自分はもう、何者でもない。
闇が井戸の底に水が溜まるように、あたりに満ち溢れていた。
そこは巨大な砲身の中のようだ。バクヤはアルケミアの巨大な円筒形になっている
山の中心部に、この広く深い竪穴があると直感的に理解する。自分たちはまさに、ア
ルケミアの中心奥深くに入り込んでいるのだ。
竪穴の壁にある螺旋階段をバクヤたちは、延々と降りていった。まるで時間が消え
てしまったような気がする。先頭を歩く二人の魔族からは、何か奇妙な力が放出され
ているようだ。バクヤは古代の領域に入り込んだときに感じるあの特有の感覚、空間
が歪んでいくような感覚を味わっていた。
その深い竪穴の底は、唐突に現れる。無限に続くかのように見えていた階段は突然
立ちきれ、漆黒の湖のような冥界の底につく。
黒衣のロキは闇の中に身体が溶け込んでしまって、顔だけが宙に浮いた仮面のよう
に浮かび上がっている。
「ではここが、」
ロキは魔族たちに語りかけた。
「魔族の王族のみが訪れることができるという、冥界なのか」
闇の中で漆黒の獣が吐息をはくように、ヴァルラは笑った。
「そうだ」
ヴァルラの黄金の瞳は、宵の明星のように闇の中で光っている。
「世界の秘密が隠された場所だ。本来我ら王族だけが知るべきものである世界の秘密
がな。ここから先へゆくものは覚悟しなければならない。自分たちが失い、自分たち
が得ることを」
ブラックソウルは苦笑する。
「先を急ごう。ガルンが待ちかねているはずだ」
ヴァルラは頷くと、壁の一箇所に手を当てる。壁の一部が消失し、トンネルが姿を
現した。ヴァルラはその中へ入り込む。バクヤたちは後に続いた。
「世界の秘密ってなんのことや」
バクヤは傍らを歩くヌバークに声をかける。
「王族だけの秘密を私が知るわけないだろう」
ヌバークの答えにそらまあそうやけどとバクヤは呟く。ブラックソウルが苦笑しな
がら言った。
「行けば判る。ただヴァルラの言ったとおり覚悟は必要だ。その秘密を知ったからこ
そ、ガルンは狂った」
トンネルは完全な闇だった。その闇の中をかなり速い速度で移動してゆく。先頭を
歩く魔族の金色の髪は、闇の中でも残照のように浮かび上がり目印となる。
結構長いトンネルだった。バクヤは何か、巨大な生き物の体内を走り抜けているよ
うな気分になってくる。
トンネルは竪穴の階段と同じく、唐突に終わりを告げた。
再びバクヤたちは薄明の世界へと出る。
「ここは…」
バクヤは目を見張った。そこは巨大なドーム状の場所だ。半球形の天蓋が頭上を覆
っている。その天蓋が薄く光を放ち、あたりを照らしているようだ。
バクヤの目を引いたのはその円形をした場所の、中央に置かれている物体だった。
それは巨大な柱へ磔にされた巨人のようにも見える。しかし、その巨人は生き物には
見えない。
デルファイへ行く前に見ていれば、それが何であるか理解できなかっただろう。し
かし、今のバクヤにはデルファイの記憶がある。その記憶がバクヤに囁きかけた。あ
れはロボットと呼ばれるものだと。
金属で造られた身体。
高さは10メートルもあるだろうか。
その全身へ接続されたケーブルやパイプ、様々な計器類は間違いなくデルファイで
見たものと同様の種類に属するものだ。
「ここは確かグーヌ神のおる場所やなかったか?」
バクヤの呟きに、ヌバークがかすれた声で答える。
「そうだ」
「じゃあ、あれはなんや」
「グーヌ神でしょ」
エリウスが、あっさりと言った。ヌバークは膝をつく。
「どういうことだ?」
「神とは機械なんだよ」
ブラックソウルはそっけなく言ってのける。
「デルファイの言葉を使っていえば星船、つまり宇宙船を修理して再びディープスペ
ースへと戻すための、いうなれば宇宙船の自己修復用外部稼動モジュールと言えばい
いだろうな」
「それなら人間は」
ブラックソウルはいつもの嘲るような笑みを浮かべて、ヌバークの問いに答える。
「ま、機械の修理のために別次元界からつれこまれた哀れな家畜というところだよ。
ヌバーク、憶えといたほうがいい。肌が白かろうが黒かろうが機械にとっては同じ存
在、道具みたいなものだ」
哄笑が響く。
グーヌ神と呼ばれる巨大ロボットの上に、漆黒の天使が立っていた。
ガルンである。
ラフレールは穏やかにフレヤに微笑みかける。
「君は知りたいのではないか?あのデルファイでの経験が、なんだったのかというこ
とを」
フレヤは無言でラフレールを見つめている。
ラフレールはフレヤの答えを待つことなく、言葉を続ける。
「あそこでのできごとは、過去に起こったことを忠実になぞったにすぎない。君は過
去の新宿でグランドゼロに侵入し、そして巨人に出会った」
「あの巨人は」
フレヤはどこか戸惑っているかのような眼差しをラフレールへ向ける。
「私なのだろう」
「そうだ。あの時君たちは一体化した。そして、フレヤ。君が造りあげられたといっ
ていいだろう」
ラフレールは頭上を指差す。
「見たまえ」
風景が一変した。晴れ渡っていた青空はかき消すように闇へ呑まれる。漆黒の幕が
空に引かれたように、夜空が現れた。そして、巨大な褐色の星がその夜空を覆ってい
る。巨大な星には帯状の模様があり、ところどころに大きな渦がみえた。それはとて
つもなく巨大な惑星のようだ。その様は天空を支配する巨神を思わせる。
「天空を覆う巨大な惑星があるだろう。あれが木星だよ。そして、その軌道上にある
ものを見てみたまえ」
ラフレールの指差すほうを、フレヤは見つめる。巨大な惑星の軌道上には、細かな
隕石群から構成されているらしい輪があった。その輪の表面に黒い巨大な物体がある。
円筒型をした漆黒の物体は、ゆっくりと木星の周囲を回っているようだ。何か壮大な
墓標が宇宙を漂っているように思える。
「あれがクラッグスと呼ばれるもの」
フレヤは息を呑む。
「クラッグスとは唯一絶対なる神であり、宇宙そのものであると聞いたが」
「そうだよ。しかし、その実体は外宇宙から飛来した宇宙船に過ぎない。クラッグス
はなぜかそのユニットの一部を放出した。そのユニットのコア部分が黄金の林檎と呼
ばれるものだ。そして、そのコア部分を監視するためにヌースとグーヌ、二つのモジ
ュールが付加されていた」
「では黄金の林檎とは」
「クラッグスが制御できない何ものか。はっきりとは判らない。そしてその黄金の林
檎が搭載されているユニットから巨人たちが造りあげられた。君が同化したのはその
巨人だよ。巨人を構成していたなんらかの物質は君の体内に入り込み、君と一体化し
ている。君は既に半分は人間であり、半分は異星の生命体だといえるだろう」
フレヤは肩を竦める。
「私は結局異星人とのハイブリッドというわけか」
ラフレールはフレヤを見つめる。空を覆っていた木星は姿を消し、闇は急速に薄れ
ていく。再び青空が戻っていた。ラフレールは謎めいた笑みを見せる。
「元にもどりたいと思わないか?」
「どういうことだ」
「再びアリス・クォータームーンと巨人の二人に。同化しているものを再び分化する
のだよ」
大きな黒い鳥が舞い降りるように、ガルンはバクヤたちの前へ降り立った。死の天
使を思わせる黒く美しい顔が、バクヤたちに向けられる。穏やかな、しかし冷酷な笑
みがその口元には刻まれていた。
そして、その手にはあのデルファイで見た拳銃が握られている。砂漠の猛禽という
名の拳銃。
バクヤは、漆黒の左手を前に出し構えをとる。エリウスも剣の柄に手をかけた。
「慌てることはない。久しぶりの再会だ。ゆっくりと語らおうではないか、もっとも」
ガルンは穏やかに言った。
「おまえたちがおれを破壊することは多分、できないがな」
バクヤはそれを事実として受け入れざるおえないと思う。デルファイのロボットと、
ガルンの機械で造られた身体が同等のものであれば、その身体に傷をつけることがで
きるのはエリウスの剣だけだろう。しかし、エリウスが剣を抜く前にガルンの放つ銃
弾が、エリウスを殺すに違いない。
「さて、なぜおれがデルファイで得た身体をこのアルケミアに持ってくることができ
たのか、不思議に思っているだろう。ヴァルラ」
ヴァルラは明けの明星のように黄金に輝く瞳で、ガルンを見つめている。その表情
からなんの感情も読み取ることができない。
「あそこは、お前も知っているとおり夢を見させる世界だからだ。記録してある過去
を呼び覚まし、過去の出来事を夢に見させる仮想世界。しかし、アルケミアには生身
の身体を情報の形へ変換し仮想世界へそのままロードするシステムが存在する。私は
それを逆に作動させたのだよ。情報を変換し物質を生成する。正確にはダークマター
の位相を変換したというべきなのだが」
「禁呪を行ったな、ガルン」
ヴァルラの言葉に、ガルンは哄笑をあげる。
「その通り。それがどうした。おれがこれからしようとしていることに比べれば」
ブラックソウルは狼の笑みを浮かべて言った。
「神を殺すつもりだな」
「そうだ!」
ガルンは高揚した声で語る。
「殺すとは正確ではないな。見てのとおりこれは機械に過ぎない。破壊するというべ
きか」
ヴァルラはうめく。
「できるのか、お前に」
「ああ。そもそもおれはこの世界の欺瞞に気がついたときに、そうすべきだったのだ。
おれたちは所詮機械に使役される僕にすぎない。ヴェリンダ。お前は正しいよ。神な
ど全て破壊すべきなのだ」
ブラックソウルは醒めた声で言う。
「お前はそれがどういうことか、判っているのか?」
「神に刃を向けたものはいない。それは、もしかしたら神を破壊することにより大き
な力の介入があるかもしれないからだ。神よりも上位の存在によって全てが抹殺され
るかもしれない」
ガルンは楽しげに言った。
「おれにはこの世界が死滅したところでなんの意味もない」
「愚かだな、お前は」
ヴェリンダが冷然として言い放つ。
「なんとでも言え!世界を破壊しようと望んだのはお前だ、ヴェリンダ」
「違うな」
ヴェリンダは静かに言った。
「お前は王家の秘密を中途半端に理解しただけだ。私の望みはお前には理解できぬ」
「戯言はたくさんだ、全て終わらせる。お前ではなくおれの手によって」
ガルンは狂おしく叫んだ。
「どうだ、それでもおれを憎まぬというのか、ヴェリンダ」
ヴェリンダは薄く笑う。
「そうだな、哀れみなら感じているよ。おまえは自らの意思で虫けらの道を選んだ。
そういう意味では人間ども以上に惨めで無様だ」
「ほざけ!」
ガルンは右手を掲げる。夜明けを告げる黄金の光がそこに宿った。あらゆる地上の
輝きよりも尚、激しく暴虐に煌く光。黄金の林檎が降臨する。
「やめろ」
ヴァルラは叫ぶ。
「お前は何も判っていない。神が機械にすぎないのなら、それはなんだ。黄金の林檎
も機械が生み出したという気か」
「どうでもいい」
光に包まれたガルンは、憑かれたものの口調で語る。
「どうでもいい。世界がおれにとって無意味であるという事実以外はな。ヴェリンダ。
おれの心がお前にとどかぬのなら、全てを終わらせる」
ヴェリンダは夢見るように黄金の林檎を見つめて言った。
「好きにすればいい」
「今なら判るだろう、フレヤ。お前が記憶を封印しなければならなかった理由が」
ラフレールの言葉に、フレヤは無言で頷く。
「お前は二重の記憶を持ちながら、世界が変貌していくのを見つめていた。全ての人
間が小さくなっていくのを。科学技術によって形成された文明が崩壊し、魔法が世界
を蹂躙していくのを。そして、魔族が支配を確立し天使たちと無限に近い時間の中で
戦争を繰り広げるのを。お前は数億年、永劫ともいえる長い年月をアリスとしての記
憶を保ちながら見つづけてきた。お前はそれに耐えられず記憶を封印し眠りにつくこ
とを望んだ」
フレヤは何も答えない。ただ黙ってラフレールが語るのを聞いている。
「ゼータ機関は幾度かお前以外にも巨人と人間の融合を試みている。お前以外にも融
合した巨人はいた。しかし、お前ほど完全に融合することはできなかった。皆狂って
ゆき、やむをえず眠りにつかされた。最後に残ったのが一番最初に、そして偶発的に
融合した巨人であるお前だというのは、奇妙な運命のめぐり合わせというべきだろう
が。まあ、神と呼ばれる存在の仕組んだことなのかもしれないがな」
「それで」
フレヤは静かに言った。
「どうやって分離する気だ?」
ラフレールはそっと微笑む。
「私はこのウロボロスの輪の中に入ってからずっと、ウロボロスの輪を調べ続けた。
むしろ、ウロボロスの輪とは何かを知るためにここへ来たというべきなのだが」
ラフレールはどこか楽しげですらある。
「ウロボロスの輪を私は、完全に理解できていなかったことを知ったよ。妖精城で君
を封印できなかったのはそのせいだ」
ラフレールは上機嫌で言葉を続ける。
「さて、君が巨人と融合したのは、そもそも黄金の林檎の力が作用したためだ。ウロ
ボロスの輪とは、女神フレイアがこの世界に侵入したときにできた裂け目。そして、
この世界がある意味裏返った部分といっていい。黄金の林檎と対を成し、世界の裏側
へと続く亀裂。つまりそこには、黄金の林檎の力を無効化する作用が存在する」
ラフレールは真っ直ぐフレヤを見つめた。フレヤは無言だ。
「では、君に働いている黄金の林檎の力を消すにはどうすればいいか。簡単だ。ウロ
ボロスの輪を使えばいい。そして、君が分離されれば世界に黄金の林檎を繋ぎとめて
いる力も同時に失われる。私は再び黄金の林檎を手中に収める」
ラフレールは立ちあがった。
フレヤも同時に立ちあがる。
「見たまえ」
ラフレールは足元を指差す。
暗黒の輪がそこにあった。フレヤには見覚えがある。それはウロボロスの輪であっ
た。かつて見たものより規模は小さいが、同質のものであることは理解できた。
世界の裏側へと続く亀裂。そして、ラフレールの言葉を信じるなら、その暗黒の世
界の奥底はおそらく黄金の林檎へと繋がっているのだろう。
「これが何か理解できるだろう」
ラフレールの言葉にフレヤは頷いた。
「君が決めるがいい。この向こう側で君は巨人とアリスに分離される。君の意思のも
とに行われなければ、意味はないのだよ」
フレヤは一歩踏み出す。
暗黒の輪へと。
黄金の林檎は剥き出しにされた残虐さで、冥界に光を溢れさせる。それは狂乱の太
陽として、空間を支配していた。
その理から離れた暴虐の力は、空間を変質させてゆく。ガルンは見事に黄金の林檎
を、世界の外部の表象をコントロールしていた。狂った精霊たちが呪われた舞踏を舞
うように、光が機械で造られた巨人に纏わりついてゆく。変容していく空間ごと神を
破壊するつもりらしい。
「させるか」
ヴァルラは叫ぶ。
そして、その頭上に闇の裂け目が生じた。
あたりを満たす黄金の光を拒絶する、真の闇。その暗黒の亀裂から、闇が現れる。
漆黒の騎士。
星なき夜の聖なる闇を纏った暗黒の騎士は、槍を構え巨大な馬に跨っている。あの
ウルラを葬った闇の騎士だ。
ただ、ウルラを葬ったときと異なり、その全身は揺らめく黒い炎に包まれ、また槍
の先からは青白い雷光が放出されている。雷光は蛇の舌のように黒い騎士の槍を舐め
まわす。
ヴァルラはガルンを指差した。
暗黒の騎士は漆黒の暴風のように、ガルンめがけて走り出す。
黄金の林檎は猛々しい光を放ち、暗黒の騎士を拒んだ。
暗黒の騎士は、ガルンの前に突然出現した金色に輝く壁へ激突する。
その時。
黄金の林檎が光を失った。
あたりに満ち溢れた凶悪な力の放流は、一瞬消失する。
暗黒の騎士が激突した黄金の壁は、砕け散ってゆく。闇と黄金の光がぶつかりあい、
天上から彗星が墜ちてきたような爆発が生じた。巨大な蛇がのた打ち回るように青白
い雷光が弾け、黒い炎が金色の壁を覆い尽くす。漆黒の嵐がガルンのまわりで荒れ狂
う。
ガルンの視界は閉ざされた。
その時、エリウスたちの頭の中にヴァルラの声が轟いた。
『エリウス王子、ガルンを斬れ!』
エリウスはノウトゥングを抜く。その半ばで刀身を立ちきられた剣は、涼やかな煌
きを見せる。
しかし、バクヤは見た。ガルンが狂乱する闇に包まれながらも、その向こうで正確
にエリウスめがけてデザートイーグルの照準を合わせるのを。
バクヤは感じる。エリウスが、ホロン言語を使用した超高速の世界へと移行してい
ったのを。自分自身がやはりホロン言語でより速い時間の流れに意識をゆだねたため、
それを感じることができた。
そして、驚くべきことに、ガルンの速度もエリウスと同レベルに上がっている。い
や、エリウスとガルンが身を置いている時間流は想像を絶するレベルへ達しつつあっ
た。バクヤですら辛うじて、感じることができる世界だ。
一瞬。
バクヤは漆黒の嵐が消失し、黒い巨人が立っているのを見た気がする。
その巨人は、柱へ磔にされていたはずだった。つまり、邪神グーヌ。神がガルンの
前に立っているビジョン。
全てがあまりに高速で動いているため、バクヤには捉えることができない。
しかし。
エリウスたちにとっては永遠にも匹敵するような瞬間だったのかもしれない。
そして、漆黒の嵐の向こうで、ガルンがトリッガーを引く。
#141/598 ●長編 *** コメント #140 ***
★タイトル (CWM ) 03/04/04 00:07 (266)
冥界のワルキューレ6 憑木影
★内容 03/04/11 00:32 修正 第2版
そこは荒野だった。
血で染め上げられたような真紅の太陽が、瓦礫に埋もれた廃墟の向こうへゆっくり
沈んでいく。まるで巨獣の屍のような塔の廃墟が、紅い天空めざし聳え立っている。
それは神の墓標のようでもあった。
広い。
アリス・クォータームーンは、そこが新宿と呼ばれていた場所であることを知って
いる。しかし、そこは驚くほど見晴らしがよかった。廃墟の向こうには血の色に輝く
海が見える。
全ては瓦礫となった。
何もかもが破壊されつくしている。そして、地上も天空も全てが紅く染め上げられ
ていた。
アリスは、手にしたアサルトライフルを杖にして立ち尽くす。ここがデルファイと
呼ばれる場所なのか、時間を超えて過去にきたのかアリスには判らない。ただ、自分
がフレヤと分離したことは確かなようだ。酷くあっけない気がする。
自分の足元には湖があった。
すり鉢状に窪んだ地の最も深いところにある湖。
それがグランドゼロと呼ばれていた場所であることを、アリスは知っている。そし
て、その湖はこの真紅に染め上げられた世界の中でたった一つ青かった。
青い湖。
その奥深くに、巨人たちが眠っている。
この世界で自分は、巨人と融合しなかった。ゆえに、黄金の林檎も降臨しなかった
ようだ。そして、魔道が支配する世界も実現しなかったということになる。
アリスはウロボロスの輪を感じた。
おそらくここは、ウロボロスの輪によって閉ざされた世界。
ふと、気配を感じアリスは振り向く。
巨大な黒い影が自分を見下ろしている。
真紅の世界の中に立ち尽くす、漆黒の影。その身体は機械で造られているようだ。
黒い装甲を持ったロボット。その身の丈は5メートルほどだろうか。
ロボットは、アリスに語りかける。
「私は君たちがグーヌと呼ぶ存在だ。神と呼ばれるものでもある」
アリスはグーヌと名乗ったロボットに問い掛ける。
「しかし、あなたは機械なのだろう」
「そうだ」
グーヌは答えた。
「いや、機械だったというべきなのだろうと思っている。私は私がかつてそうであっ
たものとは、違うものであることを知っている。しかし、そもそも君たちがクラッグ
スと呼ぶ宇宙船にしたところでそれを機械と呼ぶことに私はためらいがある」
「なぜ」
「クラッグスには宇宙がビッグバンを経て、現在の形に形成されるまでの記録がある。
そして、クラッグスの記録には、その宇宙の形成そのものをクラッグス自身がコント
ロールしていた形跡がある。クラッグスは宇宙を造りあげたといっても過言ではない」
アリスは首をかしげる。
「おかしいな。いずれにせよ、機械なのだから、誰かが造ったものなのだろう?」
「誰か造ったものがいるとすれば、宇宙が造られるより前に存在する誰かということ
になる。しかし、そんなものはいない。いるはずはない。クラッグスには宇宙でおき
たことの全てのデータがある。そして、今後起こることの全てのデータがある。それ
らは決定されたことだ。いや、決定されていたこと、というべきなのだろうな」
アリスは苦笑する。
「何が言いたい」
「クラッグスは全てをコントロールしていた。ただひとつ。フライアと呼ばれる存在
の侵入を除いては」
「フライアとはなんだ」
「判らない。その中心となる部分が黄金の林檎だ。私たちはフライアと接触したこと
によって異質なものへと変貌してしまった。既に私たちは、自分が何ものであるかを
理解していない」
グーヌは言葉を切った。
しばらく沈黙が降りる。
「しかし」
グーヌはその沈黙を破る。
「おまえは、自分が何者であるかを知っているのか、アリス」
「人間だよ」
「だが、お前の手にしているのはなんだ?」
アリスは驚愕する。
手にしていたはずのアサルトライフルは消え、剣がある。身に纏っているのは戦闘
服ではなく純白の鎧。
「問題は、何者であるかということではなく、何を成したいと思うかではないか?」
グーヌの言葉にアリスは頷く。
「確かにな」
「ではお前は、この死せる世界の中で朽ち果てることを望むのか?」
「しかし、これが世界の本来あるべき姿ではないのか?」
グーヌは首を振る。
「真にあるべき姿などない」
「だが、あなたが言ったようにフライアの侵入がなければ」
「いや」
漆黒の巨人は厳かに言った。
「世界に外部などないのだよ。クラッグスは世界を閉ざそうとした。しかし、閉ざし
きれぬものが残った。それがフライアなのだ」
グーヌは少し苛立ったように問いかける。
「二つに一つだ。全てが死滅してゆく世界で朽ち果てるか。あらゆるものが変化し生
成してゆく世界の中で、全てを閉ざそうとする力に逆らって生き続けるか」
その時、アリスは自分の周りを、暗黒の輪がとりまいているのに気がついた。ウロ
ボロスの輪。それがアリスの全身に纏わりついている。
「選べ、死せる女神の娘よ」
グーヌの言葉に促されるように、フレヤは剣を振り上げた。
ガルンを取り巻いている漆黒の嵐が止まっている。水中に黒い液体を流したように、
漆黒の渦が空間に留まっていた。
エリウスはガルンだけが、自分と同じ速度の時間流に存在しているのを感じる。ノ
ウトゥングはその手にあったが、ガルンの拳銃は間違いなく剣より速い。
しかし、銃弾は放たれなかったし、金剛石の刃もまた剣に納まったままだ。
エリウスとガルンは見つめていた。
自分たちの間に突如として出現した、その巨人を。
漆黒の巨人。身の丈は10メートルほどだろうか。
その立ちあがった夜の闇を思わせる巨人は、間違いなく柱へ磔にされていたはずの
存在だ。すなわちグーヌと呼ばれる神。
ガルンは呟く。
「なぜだ。おまえのいる空間は封じたはず」
「愚かだな、おまえは」
グーヌは静かに言った。
「私を破壊できると思ったのか」
「おまえはたかが機械ではないか」
「おまえもまた機械だろう」
ガルンは黄金の林檎をかざす。しかし、それは光を放つことはなく沈黙したままだ
った。
「馬鹿な」
ガルンの呟きにグーヌが答える。
「それは私が造ったものだ。そもそもお前はそれが何か判っているのか?」
ガルンは無言でグーヌを見る。グーヌは静かに言葉を続けた。
「それはウロボロスの輪と対を成すもの。すなわち世界の亀裂、世界の死滅した部分
と対を成している世界を生成する力そのものだ。つまり聖なるカオスから生成変化を
生じさせる力そのものがそこに表象されている」
「馬鹿をいえ」
ガルンの美しい天使の顔は、酷く焦燥しているように見えた。
「これは単なる反応炉に過ぎない。本来クラッグスの推進機関へエネルギーを供給す
るためのものだ」
「そして私はただのクラッグスをメンテナンスするための作業ロボットか?おまえは
おまえの背丈に見合った世界を見ることができる。残念ながら見えるものの限界はお
まえの限界であって、見られているものの限界ではない。そんな単純なことも忘れて
しまったのか」
「おれは」
ガルンは呆然として言った。
「狂っているからだ」
「それも重畳」
グーヌはむしろやさしく語りかける。
「おまえはおまえの望むことを成せ。愛するものととともに死ぬことが望みであれば、
それをなせ」
闇色の神は唐突に消えた。エリウスは金剛石の刃を放つ。同時にガルンはトリッガ
ーを引く。
フレヤはウロボロスの輪を断ち切った。
周りの風景が一変する。真紅に染まった荒野は姿を消した。変わりに青い空が頭上
を覆う。
そこはアイオーン界である。
フレヤは自分が斬ったものを見て、驚愕した。自分の剣はラフレールの身体に突き
立てられていたためだ。冬の日差しのように怜悧な輝きを放つ剣は、ラフレールの身
体を串刺しにしている。
ラフレールは哀しげな顔でその剣を見た。
そして、ゆっくりフレヤを見上げる。
「なぜだ。フレヤ。おまえとて人間としての記憶があるのであれば、世界のあるべき
姿が何かは判るだろう」
「そうだな」
フレヤは笑った。
「無限に変化しながら漂流していくのが、私の世界だ」
「愚かな」
ラフレールの姿は次第に薄くなってゆく。その存在は光に晒されて失われる影のよ
うに、消えつつあった。
「しかし、フレヤ。おまえを分離することによって黄金の林檎を封じることは失敗し
たが、おまえはここから出ることはできない。おまえは永遠にここに残ることになる」
ラフレールは消滅した。
空はサファイアのように青く、湖は鏡面のように澄み渡り空を映している。
静かだった。
その静寂は、永遠に破られることのないもののように思える。
バクヤはホロン言語によって高速化した思考で、その銃弾を見た。拳銃弾としては
大きな12.7ミリ弾が三発、漆黒の嵐を突き抜けて飛来してくる。音速を超えてい
るだろうその速度も、今のバクヤの意識の中ではゆっくりに思えた。
しかし、その銃弾は実際には避けようの無い速度でエリウスへ向かっている。エリ
ウスはまさにノウトゥングを振るい終わったところだ。
ガルンの身体が闇の向こうで四散するのが見える。金剛石の刃はガルンの身体を縦
と横に切断した。
意識が高速化しても、身体が高速で動くわけではない。自ずから限界はある。ガル
ンは分解され火花に包まれたが、エリウスもこのままでは間違い無く死ぬだろう。
バクヤは左手を解き放つ。
メタルギミックスライムは人間には不可能な速度で動くことができる。亜音速で漆
黒の左は伸びてゆく。バクヤはその流体金属の左手で銃弾を掴み取るつもりだ。
空気が重い。
まるでゼリー状の物質となって、全身を覆っているようだ。
そのゼリーのように重い空気を切り裂いて、闇色の左手は伸びる。
バクヤは一群となって飛来する12.7ミリ弾を掴んだ。
凄まじい衝撃が走った。バクヤは巨大なハンマーで殴られたような衝撃を感じる。
何千もの刃を左手で掴んだような気がした。そのショックはバクヤの予想を遥かに上
回っている。メタルギミックスライムの左手が巨大なエネルギーによって膨らんでゆ
く。限界だった。
左手は炸裂する。その左手は液状化し円形の穴がゆっくり広がってゆく。全てはバ
クヤの感覚の中ではゆっくりだったが、致命的な速度は保たれていた。銃弾は左手に
空いた穴からゆっくり飛び出ていく。
その速度はかなり落ちたはずだ。しかし、剣を振るった直後のエリウスは避ける動
作にはいることができない。
ゆっくりと弾丸はエリウスの身体へ吸い込まれていった。
「エリウス!」
バクヤはホロン言語による高速思考を解除し、エリウスへ駆け寄る。エリウスは大
の字になって倒れていた。
漆黒の嵐は、竜巻のような渦を巻き頭上へと消えてゆく。後に残ったのは青白い火
花につつまれたガルンの身体だ。
全ては一瞬の出来事だった。何が起こったのかを理解できたのは、おそらくブラッ
クソウルだけだろう。魔族ですらその速度は感知することができないはずだ。
バクヤは倒れているエリウスを見る。
その瞳は閉じられていた。バクヤはエリウスの前に膝をつく。
「くそっ、こんなところで死ぬなんて」
「いや、生きてるけど」
バクヤは顔をあげ目を剥いた。
顔だけ起こし、にこにこと笑うエリウスは、ノウトゥングの柄を見せる。その柄に
三発の銃弾が食込んでいた。
「生きてるんやったらさっさとおきんかい、こら」
「いや、弾丸は食い止めたけど着弾のショックが凄くて吹き飛ばされちゃって。痛い
から寝とこうかなって」
「あほか」
エリウスはあたまをはたかれて、べそをかく。
「痛いよう」
「さっさと起きろ」
その二人を横目で見ながらヴェリンダが、ゆっくりと破壊されたガルンの身体へ歩
みよる。その手の中にある黄金の林檎を拾いあげた。
黄金の林檎には、再び力が戻っている。
猛々しい、凶悪な輝きはヴェリンダの手の中で、次第に強くなっていった。
黒衣のロキが歩み出る。
「それをどうなさるおつもりか」
「知れたこと」
ヴェリンダの言葉をブラックソウルが遮った。
「いやいやいや」
ブラックソウルは笑みを浮かべ、ヴェリンダの隣へ立つ。
「ご心配されることはない、ロキ殿。黄金の林檎は私たちが水晶宮へ運びますから」
ブラックソウルは、晴れやかな笑みをバクヤへ向ける。
「嬢ちゃん。おれを殺したければオーラの水晶宮へこい」
「ちょっとまて、こら」
バクヤが叫ぶと同時に、ヴァルラもまたヴェリンダに眼差しを向ける。
「姉上、お待ちください」
「さらばだ、ヴァルラ」
ヴェリンダの足元に黒い影が広がる。夜の闇のような黒い影。それは闇色の湖のよ
うにも見える。そして、その漆黒の湖に黒い漣がたつ。
黒い影の中央に浮かび上がったのは、白く巨大な女の顔だった。妖艶な、神々の愛
妾のごとき美しい女の顔。その女の顔は大蛇のように長大な首に支えられ、宙に浮か
び上がる。
その首に続いて巨大な翼と竜の体が現れた。全ての妖魔の母と呼ばれる、邪竜エキ
ドナである。
「姉上!」
叫ぶヴァルラへ嘲るような笑みを見せたエキドナは、ヴェリンダの前へ蹲る。塗れ
たように光る紅い唇で、エキドナはヴェリンダへ語りかけた。
「あんたには借りがあるが、これ一度だけだよ。魔族の女王」
「一度で十分だ」
ヴェリンダはエキドナへ答えると、ブラックソウルとともにその背へ跨る。
二人を背に乗せたエキドナは、宙へ舞い上がった。
そして、身を翻すと自らが出てきた闇の中へと再び戻ってゆく。エキドナは闇の中
へと吸い込まれる。邪竜を呑み込んだ闇は、地面の中に水が吸い込まれてゆくように
消えていった。
「ヴァルラ殿」
ロキが魔族の王に声をかける。ヴァルラは頷いた。
「判っている、ロキ殿。少し待て」
ヴァルラは破壊されたガルンの身体のところへ歩みよる。そして、その瓦礫と化し
た体から、何か黒いものを取り出した。
それは、ヴァルラの手の中で黒い球体となる。ヴァルラはバクヤのほうを向いた。
「うけとれ、娘」
バクヤはその黒い球体をメタルギミックスライムの左手でうけとめる。その黒い球
体はバクヤの左手の中で溶け出した。そして、溶けて液状になったものはバクヤの左
手へ同化してゆく。
「なんやこれ」
「メタルギミックスライムとおまえたちが呼ぶものだ。ガルンはそれを自分自身の身
体として使っていた。その中にはガルンの魔道が記憶されている」
ヴァルラは金色に輝く瞳で、バクヤを真っ直ぐみつめる。
「必ず役にたつはずだ。お前がブラックソウルと戦うのであれば、我が姉ヴェリンダ
が立ちふさがることになる。その時に、魔道を封じる力が必要だろう」
「あんたは、自分の姉の敵に手を貸すのかよ」
ヴァルラは静かに微笑む。
「私は、魔族の王だ。自分の為すべきことは判っている」
「ヴァルラ様」
ヌバークが思わず、一歩踏み出す。ヴァルラはそのヌバークを眼差しで押しとどめ、
エリウスのほうを見た。
「王子よ。私はお前に助けられた。お前の望みを言え。借りは返そう」
「うーん」
起きあがったエリウスは、いつものように少し眠たげな口調で言った。
「とりあえず、黄金の林檎はブラックソウルにまかせられない感じだからなあ。一緒
にオーラの水晶宮まで行ってくれる?」
「いいだろう」
「ヴァルラ様!」
叫ぶヌバークに、ヴァルラは凶悪な笑みを返す。
「王が帰還したことをまず知らしめねばならん。その後、旅立つぞ。人間どもの王国
へ。白き肌の人間どもに恐怖と殺戮を味あわせてやろう」
#142/598 ●長編 *** コメント #141 ***
★タイトル (CWM ) 03/04/04 00:08 (285)
冥界のワルキューレ7 憑木影
★内容 03/04/11 00:34 修正 第2版
フレヤはラフレールが消えた大地が、金色に輝きはじめているのに気がついた。そ
の輝きは急速に強くなってゆく。
フレヤはあまりの眩しさに、数歩下がった。光は一つの形を整えつつある。それは
竜の姿だった。
やがて光は弱まっていく。後に残ったのは金色に輝く巨大な竜だった。竜は明けの
明星のように輝く瞳をフレヤへ向ける。
「おまえがラフレールを殺したのか」
竜はフレヤに問いかけた。フレヤは頷く。
「そうだ」
「では、おまえが私を契約から解き放ったのだな。礼をいうぞ」
竜は古きものが持つ静けさと、穏やかさを持っていた。そしてその金色に輝く姿は、
気高く美しい。
「我が名はフレイニールだ。巨人よ、おまえの名は?」
「フレヤだ」
「なるほど、お前が死せる女神の娘にして最後に残った巨人なのだな。ではお前の望
みを言え。一度だけお前のために働こう」
「私の望みか」
フレヤは少し笑みを見せる。
「とにかくここから出ることだな」
「ここはどこだ」
「アイオーン界の中。そして、ウロボロスの輪によって閉ざされたところだ」
竜は暴風のように鼻息を出して笑う。
「なんと、我らはウロボロスの輪の中に閉じ込められたというのか。それを抜け出せ
というのは荷が重過ぎるぞ。ただ方法はないことない」
「ほう」
フレヤは冬の日差しのように青く輝く瞳で、金色の竜を見る。
「出れるというのか、フレイニール」
「お前の力を借りればな。私と一体化しろフレヤ。そうすればお前の力をとりこめる」
「一体化するとは、どうすればいい」
「簡単だ」
フレイニールは巨大な口を開く。剣のような牙が並んだその口は、洞窟のようにフ
レヤの前に暗い穴を見せている。その大きな口から轟くような声を発して、フレイニ
ールは問いかけた。
「私に食われればいい。どうする」
「好きにしろ」
フレヤの言葉と同時に、その巨大な口はフレヤを呑み込んだ。
トラウスを囲む壮大なアウグカルト山脈は西方に一箇所、途切れている部分がある。
その巨大な渓谷の西側にサフィアスがあり、そのさらに向こうが西海だ。
渓谷の入り口には古代の砦がある。数百年前、王国が分裂する以前につくられたそ
の砦は半ば廃墟と化していたが、その建物の規模は巨大であり今でも十分要塞として
使用可能と思えた。
トラウスを支配したオーラ軍は、2万の兵をその砦に駐留させている。
その砦の一室で、膨大な書類を前にぼやき続けている男がいた。深夜を過ぎたとい
うのに、ただ一人男は終わらない仕事を続けている。
剥き出しの石で出来た壁に囲まれた、執務机以外になんの家具もないその殺風景な
部屋がなぜか似合う、どこか無個性な男であった。魔導師のようにフードつきマント
を纏っている。その怜悧な瞳は頭の中で様々な考えが高速で張り巡らされているのを
感じさせたが、口からもれるのは愚痴とため息だけだった。
「全く、あの人は今ごろ一体何してるんだか」
「あの人とは、おれのことかい? シャオパイフォウ」
シャオパイフォウと呼ばれた男は、うんざりした顔でふりむく。扉はなく布で仕切
られただけの入り口に立っていたのは、ブラックソウルとヴェリンダだった。
「戻ってたんですか」
シャオパイフォウは疲れた声で言った。
「なんだ、忙しそうだな」
「ええ、おかげさまでね」
シャオパイフォウは手にしていた書類をほうりだして、ため息をつく。
「大体、トラウスを占拠するなんて三年、いや五年は早いです。補給路が長く伸びす
ぎて、これだけの軍隊を維持するのに莫大なコストがかかる。しかも、中原の諸侯は
オーラのトラウス侵攻を支持していない。あたりまえでしょうね。私たちには、正義
が無かったんだから。今、諸侯たちは反オーラという形で結束しつつあります。へた
をしたら孤立している我々は全滅します。それどころか、一歩間違えればオーラも滅
びます。そんな状況なのに、将軍どもは戦うこと以外に頭脳を使うつもりは全く無い
ときている。そもそもやつらに頭脳なんてものがあれば、という話ですが」
「いいじゃねぇか」
シャオパイフォウは目を剥いた。
「なにがいいんですか! そもそも私はあなたの考えるべき仕事を代行しているのに。
参謀はあなたですよ! 私は一介の情報将校にすぎない」
「オーラなんか滅んでもいいよ」
シャオパイフォウは立ちあがった。地味な造りの顔が、凶悪な形相になっている。
「いいですか」
「まあ聞けよ、というか見ろ」
ブラックソウルはいつもの獣じみた笑みを見せて、ヴェリンダを指し示す。夜の闇
のように漆黒のマントを纏ったヴェリンダは、邪悪な笑みを見せながらその右手をか
ざして見せる。
その手に乗せられていたのは、地上に堕ちた太陽。
死せる女神の心臓にして、王国の象徴。
凶暴なまでに激しい金色の光を放つ、球体。
黄金の林檎だった。
「まさか」
「そう、黄金の林檎だ」
シャオパイフォウはため息をついた。
「じゃあ、撤収ですか。しかし言っときますけど、二万の軍隊の撤収は、はんぱじゃ
ない」
「おいおい、馬鹿いうなよ」
ブラックソウルは楽しげに言った。
「引き上げるのは、お前とおれ、それにヴェリンダの三人だけだ」
「そんな馬鹿な、じゃあ兵たちは」
「戦ってもらうさ」
「誰と」
ブラックソウルの瞳が凶悪に輝く。シャオパイフォウは背筋に冷たいものを感じた。
「おれたちを追って、もうすぐやつらがくる」
「やつら?」
「魔族だよ。魔族の王ヴァルラがおれたちを追ってくる」
「勘弁してください」
シャオパイフォウは泣きそうになった。
「なに、オーラの精鋭二万だぜ。魔族相手でもそこそこやるさ。勝てなくても、負け
はすまい。一週間も足止めしてくれれば上出来だ」
「あのねぇ。私もあなたもいなくなって誰が撤収の指揮をとるんです。魔族と戦って
戦力が削がれたらトラウスの残党も黙ってないし、諸侯も敵に回るでしょう」
「いいじゃねえか。全滅しても。たかが二万、小さいことだ」
「長老たちにもそういってくださいね」
「そこは、それだよ。シャオパイフォウ。一緒に考えようぜ、言い訳を」
「全く」
シャオパイフォウはため息をつく。
「水晶宮へ戻ったとたん、あなたが抹殺されても、私は驚きませんよ」
その神殿は暗く重い空気に満たされていた。何百年も前につくられた建物特有の、
淀んだ空気。
深夜である。闇は物理的な重さを持っているようだ。人々は寝静まっているようだ
が、礼拝堂を満たす張り詰めた空気は昼間と同じだ。その神殿の礼拝堂を、サラは歩
いていた。
ふと気配を感じ、サラは足をとめる。
「え?」
「僕だよ、エリウスだ」
物陰から現れた灰色のマントを纏った青年の美貌は、確かにエリウス王子のものだ。
サラは驚愕する。このフライア神の神殿はオーラ軍に監視されているのと同時に、自
分たち巫女に仮装したヌース神聖騎士団によって警備されていた。太古からある秘密
の通路を含め、この建物に秘密裏に出入りすることはできないはず。そして、何者か
が侵入すれば自分に必ず知らされるはずだ。
サラは亡霊かと思ってエリウスを見なおす。しかし、その茫洋と笑みを浮かべた顔
は、死霊とはとうてい思えない暢気さを漂わせている。
「なにぼーっとしてんのさ」
「いえ」
サラは、ため息をつく。エリウス王子にぼーっとしているといわれては、立つ瀬が
無い。
「アルケミアの件は片付いたのですか」
「ん、ま、微妙」
サラの顔がぴくりと動く。相手が王子でなければ、一喝していたかもしれない。
「微妙とは?」
「だから微妙だよ。そんなことよりさ、急いでるんだ」
とうてい急いでいるように聞こえない、のんびりした口調で王子は言った。
「もうすぐ魔族の軍勢がくるから」
「え?」
「魔道の海を渡ってもう港から密かに上陸している。数は百騎」
「ちょっとまってください」
「だから急いでるんだって。みんなグリフォンに乗ってる。魔族だけど僕の味方だか
ら気にしないで」
僕の味方? サラはその言い方にひっかかった。トラウスの味方では無いといいた
いのか? まあ魔族である以上、エリウス王子以外の人間は虫けらと見なしていても、
なんの不思議も無いのだが。
「気にしないでといわれても」
「なるべく人は殺さないように頼んであるから。じゃ」
ふっ、とエリウスの姿が、闇に溶ける。
「ちょっとお待ちください」
「あ、そうそう」
消えたときと同様に、忽然と王子が姿を現す。
「黄金の林檎ね、あれ取られちゃったから」
「取られちゃった?」
サラは眩暈を感じる。頭の中に手を突っ込まれて、ぐるぐる掻き回されている気が
してきた。
「アルケミアに黄金の林檎があったのですか?」
「うーん、そうじゃないけどね。今はブラックソウルが持ってるんだ。じゃ、これか
ら魔族と合流してブラックソウルを追いかけるから」
「待ってください!」
サラは、必死でエリウス王子のマントを掴もうとしたが、一瞬にして王子の姿は消
えた。
「エリウス王子!」
サラは叫んだが、答えは無い。柱の影に隠れただけのように見えたのだが、王子は
完全に姿が消えている。魔法としか思えない。
サラは身を翻すと走り出した。
騎士団を集め、早急に手を打たねばならない。
本当に、中原に魔族の軍が上陸したのであれば、とんでもないことになる。サラの
顔は蒼ざめていた。何百年も昔に中原が魔族に蹂躙され、何万もの人間が死んだと聞
く。
そんなことにならないと思いたい。
ただサラには、エリウス王子の考えを理解することができなかった。
夜が明けつつある。
西から東へと空を見渡してゆけば、濃紺が薄紫へと変化していくのを見ることがで
きた。そして、無慈悲な神の瞳のような明けの明星が、怜悧な光を地上へ投げ下ろし
ている。
薄い絹のベールが降ろされたように、地上は霧によって覆われていた。そしてその
白い海水に満たされた海の底を思わせる平原を、オーラの軍隊が埋め尽くしている。
先頭にいるのは鋼鉄で作られた蜘蛛のような、機動甲冑たちであった。その鉄で身
を覆った毒虫たちは火砲の砲身を、前方にある丘陵の頂へと向けている。
その黒い鋼鉄の戦闘機械は、数百ほどいるだろうか。そして、その機動甲冑の後ろ
に騎兵部隊がいた。
戦闘用の鎧に身を包んだ馬たちに跨った兵士は皆、連射式の火砲を手にしている。
輪胴型の弾倉を装着した火砲は、中原のあらゆる国を業火に包んできた凶悪な兵器で
あった。およそ五十発は連射可能なその武器は、敵が何ものであれ破壊しつくすこと
ができるはずだ。
それらの機動甲冑や騎兵と組み合わされる形で、歩兵たちが配備されている。歩兵
たちもまた、槍のように長大な火砲を手にしていた。その装備であれば、通常の中原
の軍隊なら、たとえ十倍の兵がいたとしても蹴散らすことが可能だと思われる。
夜の闇が薄らぐ中、兵たちは待っていた。
魔族の軍勢が現れるのを。
いうなれば、神話の中の存在ともいえる魔族。
かつて魔族の狂王ガルンは、オーラに攻め込み数万の機動甲冑に乗った兵士を別の
次元界へと消し去った。後に残った空の機動甲冑は、墓標のようにオーラの地に放置
されている。
しかし、今のオーラ軍は違う。何より魔族の女王自身が施した魔道を防御する呪術
文様が、その鎧に描かれている。そして、従軍魔導師たちが軍勢を結界で覆っていた。
いかなる魔法攻撃もオーラ軍を脅かすことは無い。
霧が晴れてゆく。
そして、太陽が最初の光を投げかけたとき。
その朝日が輝く中、丘陵の頂に一騎の騎士が現れた。
漆黒の鱗に覆われた、四足の巨大な爬虫類であるグリフォンに跨った魔族。
夜明けの光を消し去るかのような漆黒のオーラを全身から放つ魔族の騎士は、王に
こそ相応しい悠然とした足取りでゆっくり丘陵の頂を上り詰める。魔族の軍勢はその
後ろに控えていた。
そしてその魔族の騎士の隣には、一人の馬に跨った人間がいる。
神が造りあげた彫像のような美しさを持った青年。夜の闇のような黒き髪と、黒曜
石のように輝く瞳を持つその青年は、魔族の騎士とともにゆっくりと馬を進める。そ
の姿は最も古き王国の王子に相応しい、見るものを慄然とさせる美しさがあった。
オーラの兵たちにどよめきが走る。彼らは伝説の中だけの存在であった魔族を目の
当たりにしたのは、はじめてだった。兵たちはその姿に驚き、声をあげる。
将軍たちは、そのどよめきを切り裂くように叫び声をあげた。
将軍たちは、配下の部隊に攻撃指令を下す。進軍を知らせる喇叭が、金属質の音を
響き渡らせた。
号令に答えるように、兵たちは戦いの叫びをあげる。
怒涛のようなときの声が軍隊を揺るがしたその瞬間。
その声があたりを支配した。
それは、むしろ静かな声である。怒号のような戦いの叫びに比べると、夕暮れの日
差しのように落ちついた声だった。
しかし。
その声は兵たちの脳を、その深奥から揺さぶることができる。
その声は、こういった。
『出迎え御苦労である。家畜たちよ』
誰も。
オーラの兵は、誰一人として火砲の引き金を引くことができなかった。その声はま
さに自分たちの根源的な主が放ったものであることが、本能的に判ったためだ。
声は語り続ける。
『我が名はヴァルラ。魔族の王だ』
兵たちは、完全に静まりかえってしまった。脳そのものを鷲掴みにされたような感
覚が、兵士たちを襲っている。身体が麻痺していた。
『本来であれば、お前たちの出迎えを祝福するはずだった。つまり、おまえたちの汚
れた血を大地へ流すことによって、醜悪なおまえたちの存在をより聖なるものへと変
化させてやるはずだった。しかし、我は友の願いを聞き入れた』
百名はいる従軍魔導師は、皆血の涙と血の汗を流している。魔族の王、ヴァルラの
声を消し去ろうとしているためだ。しかし、それは巨大な暴風雨を一枚の紙切れで押
し戻そうとしているようなものだった。従軍魔導師たちは一人、またひとりと倒れ伏
してゆく。
そして、ヴァルラの声は大地を割って悠然と流れてゆく大河のように、兵士たちを
飲み込んでいった。
『しかし、おまえたちは醜く惨めに生まれてきた。それを放置するほど我は無慈悲で
はない。喜べ家畜ども。我はおまえたちを祝福する歌を歌おう』
ぞくりと。
兵たちは戦慄を憶える。
『我の歌はお前たちを目覚めさせる。恐怖と悲哀に』
地鳴りのように。
微かな振動が大地を渡っていった。
しかし、その振動は物理的なものではなく。
それは、精神をこそ振るわせる波動であった。
『そしてその恐怖こそ』
太陽が翳り、闇が笑う。
兵たちは天空が割れ、無数の破片が自分たちに降り注ぐのを見た。
そして、空が割れた向こうから無限の虚無がたち現れてくる。
また、大地が消失し足元に闇が開いた。
兵たちは、無限の闇の上へ立ち尽くしている。
聖なる暗黒が降臨した。
時は止まり。
無限と化した。
王は歌う。
遥かなるときを渡り、闇から生まれ闇へ消えて行く存在を唯一包むことが可能なそ
の歌。
すなわち。
恐怖の歌。
『おまえたちの存在を祝福しうるものなのだ』
闇は。
あまりに広大すぎた。
時は。
あまりに果てしなさすぎた。
開示されたのは永遠よりも長い時。無限よりも果てしない闇。闇は兵士たちの精神
を、魂を、肉体から切り離し果てしない無限の牢獄へ幽閉してしまう。兵たちは皆、
自分の魂が肉体から切り離され、深淵へと吸い込まれるのを見る。それは暗黒の巨大
な海獣が、自分たちの魂を呑み込んで、深海の底へと帰ってゆくのを見るようなもの
だ。闇は獰猛で容赦はない。そして貪欲に、かつ無慈悲に魂を刈り取る。
それは、兵たちを狂わせるのに十分なものであった。兵たちは恐怖の絶叫をあげ、
あるものは魔族から遠ざかろうと身を翻す。しかし、恐怖に鷲掴みにされた兵たちの
身体は、ごくゆっくりとしか動かない。
馬たちは悲鳴をあげ、地面に倒れてゆく。騎兵は狂乱の叫びをあげて大地をのたう
つ。時折、火砲が暴発し火炎をあげる。そこは地獄と呼ばれる場所とよく似た風景に、
なっていった。
兵たちは皆震え、逃げ惑う。火焔が吹き上がり、獣や人を舐めまわす。鋼鉄の毒蜘
蛛は狂ったように疾走し、兵たちを踏みにじり殺戮を繰り広げる。
ただ一人。
古き王国の王子、エリウスたげは兵士たちと同じものを見つめながら悠然と微笑ん
でいた。神々を称える壁画に描かれた賢者のように優しく。邪神を滅ぼす殺戮の天使
のように冷たく。
王子は静かに微笑んでいた。
闇は津波のようにオーラの軍勢を覆い尽くす。
そして、兵たちは一人残さず発狂した。