AWC アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(1) 佐藤水美



#124/598 ●長編
★タイトル (pot     )  02/12/14  22:41  (499)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(1) 佐藤水美
★内容
       序章 緋色の王子

 朝日が連なる山々の稜線を次第に染めていく。
 アストール王国の若き王子ステファンは、ガレー城にしつらえた寝室の窓から、
山の頂に残った雪が白銀に輝きはじめるのを眺めていた。
 天気は上々、この様子ならギルト公国への旅の最後の一日は、快適なものになる
だろう。
 そう思ったとたん、急に肌寒さを覚えて、ステファンは肩をすくませた。窓から
離れて暖炉を見る。炎はとうに落ちていて、彼は自分が寝間着のままでガウンさえ
もはおっていなかったことに気づいた。
 春とはいえ、大陸の北方に位置するアストールでは、朝晩はまだ冷える。夏が近
づくまで暖炉を使うことも稀ではない。
 ステファンは椅子の背にかけてあったガウンを取り、袖を通した。肩まである豊
かな緋色の巻き毛を両手で掻きあげる。本当はもっと横になっていたいのだが、そ
れは無理な願いだった。端整な顔をしかめ、物憂げに赤褐色の目を擦る。思い切り
背伸びでもすれば、少しはましな気分になるのかもしれない。だが、その程度のこ
とすら、ここではできなかった。すらりと背の高い身体つきの彼にとって、部屋の
天井が低すぎるのだ。
 木製の扉を叩く音がした。ステファンは両手を腰に当てて息を深く吐いた。もう
時間が来たらしい。
「入れ」
待ちかねたように扉が開き、旅装を整えた長身痩躯の青年騎士が入ってきた。長
く伸びた艶やかな金髪が、女性と見紛うような美貌を縁取っている。
 騎士はステファンの前に進み出ると、片膝を床について屈み、右手を胸にあて一
礼して言った。
「おはようございます。もうお目覚めでしたか」
「おはよう、アラン。天気は良さそうだな」
「はい。カラバス峠を越えたときのようなことは、もはやないと思われます」
アランと呼ばれた騎士は立ち上がり、きっぱりとした口調で告げた。夏空を思わ
せる青い目がステファンを見つめる。
「あれは確かにひどかった」
ステファンは嘆息とともに、そう呟いた。旅程を短縮するために峠越えを決行し
たものの、山特有の天候の急変でかなりの困難を強いられた。一行全員が誰ひとり
欠けることなくガレー城に到着できたのは、奇跡にも等しい。
 ギルト公国のフィリス大公と、ステファンの妹であるマリオン王女との婚礼は明
後日に迫っていた。ステファンは足を痛めた父王セバスチャンの名代として、婚礼
に出席しなければならない。
「天気が変わらないうちに出立したほうがいいだろう。ギルトまであとわずかだ。
疲れているだろうがもう少しの辛抱だと、皆に伝えておいてくれ」
「かしこまりました。では……」
と、アランは言いかけて暖炉のほうを見た。
「暖炉に火を入れさせましょうか。今朝は冷えますから」
「いや、必要ない。どうせ長くはいないのだ、薪が無駄になる」
吝嗇で言っているのではなかった。ここガレー城はギルトとの国境に最も近く、
出城の役目も担っている。戦のときに最大の能力を発揮できるように造られている
場所で、少しの暖を取るために、城内の物資を必要以上に使う気にはなれなかった。
「そういえば、ジュダはどうした?」
アランの目に困惑の色が浮かぶ。
「実はまだ……」
「寝ているのか?」
「ベッドから引きずり出してやります」
アランが真面目な顔をして言うのを見て、ステファンは思わず微笑んだ。
「もう少し寝かせてやれ。昨日の峠越えではあの男が一番苦労していたからな」
「お言葉ではございますが……」
「言いたいことはわかるが、ジュダとうまくやってくれないか。出発してからふた
りとも喧嘩ばかりだ。皆に示しがつかないし、私も仲裁役はごめんだ」
「申しわけございません。私がいたらぬばかりに……」
アランが悲しそうな顔をしてうつむく。ステファンはアランの肩に手を置き、気
持ちをこめて言った。
「お前を責めてるんじゃない。マリオンの結婚式が終わるまで、揉め事を起こして
欲しくないだけだ。わかるな?」
「はい、仰せのとおりにいたします。ではすぐに、お召しかえなどお持ちいたしま
すので」
アランの表情には平静さが戻っていた。一礼して部屋を出て行く。
 ひとりになったステファンは再び窓に近寄った。日の光は早くも山全体を照らし
出そうとしている。慌しい一日の始まりだった。
 それから二時間と経たないうちに、ステファンら一行は城門の前に集合していた。
花嫁となるマリオンは慣例に従って、先にギルトに入国している。彼女には公国
内の教会で、大公妃となるための教育を婚礼前に受ける義務があるからだ。
「今日の夕刻までにはカスケイド城に入る」
ステファンは居並ぶ騎士たちを前に声を張り上げた。
「これ以上の遅れは許されない。皆、しっかりとついてくるように。特にジュダ、
離されるなよ」
「心配ご無用でさぁ、馬のほうが先にバテなきゃ大丈夫。峠越えで乗馬の腕も上が
ったし」
ジュダと呼ばれた騎士は、不敵な笑みを浮かべて言った。黒く縮れた髪に、褐色
の肌と黒い目を持つこの大男は、腰にいつも大振りの円月刀をぶら下げている。
「いいぞ、その調子だ」
ステファンは励ますように言うと、ジュダの後ろにいる少年に目を向けた。
「顔色が悪いな、エーギル。大丈夫か?」
昨日は相当無理をしたのだろう。青い目は灰色に変わり、幼さの残る顔には疲労
の色が濃く浮かんでいた。エーギルは一行の中では最年少の十四才、身分も見習い
騎士に過ぎない。絶対に連れて行かねばならない理由はなかった。
「私は平気です。ジュダ様より早いですし」
ステファンの逡巡を察したように、エーギルは笑って答えた。
「そんなぁ、アタシだって傷つくわよぉ」
ジュダが肩越しに振り向き、しなを作って太い裏声で言う。他の騎士たちの間に
笑いが広がり、ステファンも思わず吹き出してしまった。
「無理するなよ、エーギル。よし、出発だ」
 城門が開くと同時に、跳ね橋が大きく軋みながら下りた。ステファンを先頭に、
馬にまたがった騎士たちが次々と橋板を駆け渡る。春の柔らかな日差しが、彼らを
見送るように降り注いでいた。


       第一章 伝説

 国境を越えカスケイド城に到着したのは、日が西に傾いた頃だった。城下にある
町ティファは、明日の婚礼を控えて早くも祝賀に沸き返り、かつてない賑わいを見
せている。
 城内に入った一行を出迎えたのは、ローブを着た五十がらみの小男だった。ステ
ファンの顔を見たとたんに腰を深く屈め、うやうやしくお辞儀をする。
「これはこれは、ステファン様。主ともども、ご到着を心待ちにしておりました」
「ランバートか、出迎えご苦労」
ステファンはそう言って相手の顔を見た。ランバートはにこやかな表情を浮かべ
ていたが、彼の小さな奥目は一国の宰相らしく冷徹な光を放っている。
「マリオンはどうしている?」
「王女様におかれましては、ことのほかお元気にお過ごしでございます」
「それは良かった。ところで、勉学のほうは済んでいるのか?」
「教授たちの報告によりますれば、昨日無事に終了したとのことでございます。本
日は修道院にて、ご心身を清めつつ、お心静かに明日の婚礼をお待ちしておられる
ことでございましょう。どうぞ、ご安心下さいませ」
ランバートはていねいな口調で答えると、手を二回叩いた。数人の侍女が集まっ
てくる。
「さぞ、お疲れでございましょう。広間にて、ごゆるりとおくつろぎ……」
「ランバート、先に供の者たちを休ませたい」
ステファンはランバートの言葉を遮り、肩越しに後ろを一瞥した。青い顔をした
エーギルが視界の片隅に入る。
「かしこまりました」
「ではフィリス、いや大公様にお目通りしたいのだが」
「それがその……」
「書庫に入ったきり出てこない、そうだろう?」
「ご慧眼、恐れ入りました。実は朝からお入りになったままなのでございます」
「ならば、私が直接書庫へ行こう。場所は覚えているから案内はいらない」
 ステファンは他の者たちと別れ、ひとりで書庫へ向かった。城の奥へ続く細い通
路を歩きながら、昨年のことを思い出す。

 書庫の扉の前には、護衛の兵士がひとり立っているだけだった。ステファンが自
ら名乗ると、兵士は困ったような顔をしながらも扉を開けてくれた。
 内部は薄暗く、古書特有の黴臭さが鼻を突く。何列もある本棚には書物が隙間な
く詰め込まれ、それでも入りきれない分は床に積み上げられていた。
 ステファンは本棚の間を通り抜けて奥へと進んだ。ひとつの空間に出た瞬間、深
い森を抜けたときのように光が目に飛び込んできた。入り口付近の暗さとは裏腹に、
昼間さながらに明るい。
鳶色の髪をした青年が、大きな机にかじりついて紙に羽ペンを走らせていた。彼
の周りにはいくつもの燭台が置かれている。
「許しがあるまで、誰もここに入ってはならないと言ったはずだ」
青年が顔も上げずに言い放つ。ステファンは神経質な声に苦笑しつつ青年の前に
進み、片膝を床につき身を屈めて言った。
「お許し下さい、殿下」
青年がはっとしたように顔を上げ、紫色の目をこちらに向ける。
「ステファン!」
「お久しゅうございます。殿下におかれましては……」
「そんな堅苦しい挨拶はやめてくれ、君と私の仲じゃないか」
青年は恥ずかしそうな笑みを浮かべて立ち上がり、ステファンに歩み寄った。丈
が長くて簡素な服を身に着けた姿は、大公というより修道士のように見える。
「それに殿下っていうのもだ。今までのようにフィリスって呼んでくれ。さあ、立
って」
「結婚おめでとう、フィリス」
ステファンは立ち上がり、微笑んで言った。
「ありがとう、よく来てくれた」
「マリオンはふつつかな妹だが、よろしく頼む」
「大切にするよ、安心してくれ」
フィリスはそう答えると、頬を赤く染めて目を伏せた。女性がらみの話になると、
照れてしまうところは少しも変わっていない。
「それにしても来るのが遅かったな。いつになったら着くのかと、気を揉んだよ」
「済まなかった。本城でちょっとした事件があって、出発が延びてしまったから」
「リーデン城で?」フィリスは少年のような面差しを曇らせた。
「ああ、城の厩舎から馬が全部消えたんだ。父上の愛馬もね」
「盗まれたのか?」
「たぶん……」ステファンは歯切れの悪い言い方をした。
「とにかく座れよ」
フィリスは書庫用の椅子を引き寄せてステファンに勧め、自らも己の椅子に腰掛
けた。
「どういうことだ?」
「朝、馬丁たちが餌をやりに厩舎へ行ったときには、すでに一頭残らずいなくなっ
ていた。前の晩も、特に変わったことはなかったという話なんだが」
ステファンは肩をすくめて言うと、椅子に腰を下ろした。
「犯人は捕まえたのか?」
「いや、まだだ。城内の者に気づかれずに、たった一晩で二十頭もの馬をどうやっ
て持ち出したのか……」
ステファンは嘆息して首を横に振った。親友にさえ真実を語れない後ろめたさに、
胸を塞がれる思いがする。
厩舎の梁に刻みつけられた、深くて長い爪痕を見つけたときの衝撃。忘れようと
して忘れられず、意識の下に押し込めた忌まわしい記憶。
馬を盗んだのは人ではない。十年前の夏、リーデン城に現れた……。
「誰も気づかなかったなんて変だよ。疑いたくはないが、城内の誰かが盗賊を手引
きしたのかもしれないぞ。城の人間だけじゃなく、出入りする商人や仕立て屋も調
べたほうがいい。どこかに見落としがあるはず……おい、聞いてるのか?」
「あ……、ああ聞いてるよ。ここは少し暑いな」
ステファンは慌てて答えると、上着の襟元を緩めた。
「しっかりしてくれよ、ステファン。馬は探したのか?」
「リーデン城の周囲だけでなくメンテルまで捜索させたが、駄目だった」
「すぐに売られた可能性があるな」
「馬には紋章の焼印が押してある。競り市に出たら目立つよ」
「競りなんかに出さないさ。焼印だって何かの方法で消したのかもしれない。だが、
どうして城の馬を盗むなんて危険を冒すようなことを?」
フィリスは頬杖をついて怪訝な顔をした。
「こっちが訊きたいね」
また襲ってきたら必ず仕留めてやる。ステファンは知らず知らずのうちに剣の柄
を握りしめていた。
「なんだ、急に怖い顔をして。気に障ることを言ったか?」
「いや、そうじゃなくて……」
ステファンは慌てて柄から手を離した。隠し事の下手な己の性分に苦笑するしか
ない。
「念のためにリーデン城の警備は強化してきた。父上もおられることだし、大丈夫
だと思う」
「うむ、守りは固めておくべきだね。ところで国王様の足の具合はどうなんだ?」
「少しずつだけれど良くなっているよ。乗馬はまだ無理でも、他はいたって元気だ
から」
「国王様は私にとっても父上になるお方だ。大事にしていただかねば」
「心遣い、ありがとう」
フィリスはステファンの言葉に笑顔で答えると、ふいに机の上を指差した。
「君が着いたら見せようと思って」
「何を書いてる? 恋文の代筆はしないからな」
ステファンは笑いながら立ち上がり、フィリスが指したところに視線を落とした。
細かい文字がびっしりと書き込まれた紙が2枚ある。そのうちの一枚は、インクが
乾ききっていない部分が残っていた。
「古代文字じゃないか。考古学の研究でも始めたのか?」
「正確には翻訳だね。このふたつをよく見比べてくれ、面白いぞ」
フィリスに言われ、ステファンは机に屈みこんだ。
「ふたつとも古代文字では……あれ? こっちのほうはどうなってるんだ?」
「古代の鏡文字さ。しかも反転方向が一文字ずつ違う。私が今やっていたのは、こ
れを普通の古代文字に直すことだ」
「気が遠くなりそうな作業だな。で、何が書かれているんだ?」
ステファンは紙面から目をそらせ身体を起こし、再び椅子に腰掛けた。あまりの
細かさに目眩がしてきそうで、眉間を軽く揉んだ。
「読んでみればわかるさ」
フィリスは意味ありげな薄笑いを浮かべ、直した文字が書かれたほうを差し出し
た。ステファンは気乗りがしないまま、それを受け取り紙面に目を落とす。
「古代文字なんてアカデミア以来だよ。ええと、これは……オル・ハウト、その心
臓、か。リリリ・エスト・エスト・エスト・ラニニ・エスト・エスト・エスト・リ
リリ・エスト……何だ、これは?」思わずフィリスの顔を見る。
「そこは適当な訳語がないんだ。言葉の繰り返しだから、呪文みたいなものじゃな
いかと考えている」
「ふうん……」ステファンは再び紙面に視線を向けた。
「ファルテス・ペメル・モース……、運命は死を求める。ガウプ・デ・アテマ……
魂の器? リリリ・エスト・エスト……またか、うっとうしい」
「もっと下の行……、そこから十行あたり下がったところを読んでくれ」
「はいはい、ここでしょうか……、センテ・ソルベル・スェンティア・センテ・ソ
ルベル・テリドー・ガウプ・デ・アテマ……聖戦士は知っている、聖戦士は魂の器
を隠す……、聖戦士だって?!」
「面白くなってきただろう?」
「ノイ・タンデ・ガウプ・デ・アテマ・ノイ・タンデ・ガウプ・デ・アテマ……魂
の器に触れるな、魂の器に触れるな。オルラー・オルラー・オルラー……祈れ祈れ
祈れ。リリリ・エスト・エスト・エスト・ラニニ・エスト・エスト……、ここから
先は……呪文だけか。フィリス、こんなものをどこで手に入れた?」
ステファンは顔を上げてフィリスを見た。
「ハイデルクとの国境近くに、ドールっていう小さな農村があるんだ。半年前、そ
こに住んでいる農夫が、自分の畑の中から奇妙な石を見つけた。それは石板みたい
な形をしていて、表面に文字のようなものが刻みこまれていた」
「その文字がこれなのか?」
ステファンは手にした紙をひらひらさせながら言った。
「全部じゃないけどね。石板の拓本を見てほしい」
フィリスは目を輝かせて答え、机の引き出しを開けた。きれいに巻かれた紙と丸
型のルーペを取り出し、机の上に置く。
「端のほうを押さえてくれないか」
ステファンは立ち上がり、言われたとおりにした。フィリスがていねいに紙を広
げていく。
「小さいな」
ステファンは本音を口にした。石板という言葉から、もっと巨大なものを想像し
ていたからだ。
「ああ、大きさだけなら画集とたいして変わらない」
「それにしても細かい文字だ。見ているだけで苛々してくるよ。これを君ひとりで
翻訳しているのか?」
「まさか。ひとりでやったら何年かかるかわからないよ。シド博士は知っているだ
ろう? 博士と彼の弟子たちに協力してもらっているんだ。私の担当はこのあたり」
フィリスはそう言って拓本の一部を指し示した。
「借りるぞ」
ステファンはフィリスのルーペを拓本の上に乗せ、屈みこんで中を覗いた。拡大
された鏡文字が延々と続いている。
「フィリス、これは何の石板だ?」
「何って訊かれてもなぁ。全部の解読が終わっていないから確かなことは言えない
が、聖戦士にまつわるものには違いないと思う」
 聖戦士。千五百年前に突如として現れ、精霊と共に邪神ネフェルデルに支配され
た大陸を救ったとされる英雄。だが、彼らの名前や人物像の記録は残っておらず、
邪神を打ち倒したあとの行動も一切わかっていない。
「ここに何が書いてあるのか楽しみだよ。歴史を塗り替える発見になるかもしれな
い」フィリスの声は弾んでいる。
「聖戦士か……」ステファンは小さく呟いて身体を起こした。
「でも、こいつと戯れるのも今日限りだ。近々、シド博士に預けようと思っている」
フィリスは突然妙な言い方をして、拓本を指で軽く叩いた。
「えっ?」
「私も即位して一年が過ぎた。明日は妃を迎えるし、いつまでも古文書に埋もれて
はいられない。政務だってランバートにまかせきりにしておくわけにはいかないし、
大公としての役目を果たさなければ。」
友の言葉の中に何か聞き捨てならないものを感じ、ステファンは再び身を屈めて
フィリスの顔を覗きこんだ。
「ランバートに何か不都合でもあったのか?」
ふたりしかいないのに、自然と小声になる。
「いや、そうじゃないよ。私はギルトを治めていく人間なのに、知らないことが多
すぎるからね」
「耳の痛い科白だな」
「去年よりは成長しただろう? あのときは大公になるのが不安でたまらなくて、
君にまで迷惑をかけてしまった」
「戴冠式の日に緊張するのは当然だ、気にする必要はないさ。私だって同じ立場に
なったら……どこに引きこもるかな?」
ステファンはフィリスを見て微笑んだ。
「私は食糧倉庫にするよ。書庫じゃ食えないから」
「いい考えだ」
ふたりがアカデミアにいた頃のように笑ったとき、扉の軋む音が書庫内に響いた。
誰かが入ってくる足音もする。
「殿下、ステファン様」本棚の向こうからアランの声がした。
「どうした?」
ステファンは身体を起こし、声のするほうへ顔を向けた。
「晩餐の用意が整ったとのことです。おふたりとも大広間に……うわっ!」
何かが落ちるような音がした。床にあった書物の山を崩してしまったのだろう。
「本が……、申しわけございません。すぐに直します」
「そのままでいいよ、いずれ処分するつもりだから」と、フィリス。
「本を捨ててしまうのか?」
ステファンは眉をひそめて訊いた。命よりも書物と学問が大事と、常日頃から公
言していた友の言葉とは思えない。
「いや、ティファの学問所に下げ渡すつもりだ」
フィリスは笑いながら答えると、拓本を元のように巻き取り、ルーペと共に机の
引き出しの中に戻した。
「学問所?」
「私が創ったんだ。まず国中から人材を集め、見込みのある者にはイディオンを受
験させる。アカデミアを優秀な成績で卒業すれば、身分を問わず官吏として採用す
るってわけだ」
「壮大な計画だな」
ステファンは何気なく言ったが、フィリスに先を越されたような気がしていた。
身分と環境の差があるとはいえ、同じ年齢なのに……。
「始まったばかりさ。それより食事に行こう、うまい酒があるんだ」
フィリスは椅子から立ち上がり、ステファンを促した。


       第二	 長い夜

 晩餐は申し分のないものだった。リーデン城での事件も謎の石板のことも話題に
はならず、もっぱらアカデミア時代の思い出話が酒の肴になった。
 アカデミアは大陸のほぼ中央に位置し、大教会と大学府からなる独立国家である。
特に大学府は有名で、大陸中の優秀な若者たちが文武両道を極めるために集まって
くる。だが入学を許されるのは、年一回行われるイディオンという最難関の試験に
合格した男子だけなのだ。また運良く試験を突破しても、その後の成績がふるわな
ければ容赦なく放校処分にされてしまう。
 身分や出自がどうであれ、学問や武術に秀でているかどうかが最も重視される場
所であり、非情な実力主義が学内のすみずみまで行き渡っている。学生たちの部屋
も食事も一様に質素で、服装さえも麻布を使った粗末なものしか許されない。
 ステファンとフィリスはそういう厳しさの中で出会い、固い友情を結んだ。卒業
までの四年間、学問に秀でたフィリスはステファンに補習授業をし、武術の得意な
ステファンはフィリスに剣の稽古をつけるというように、お互いの欠点を補い、助
け合って過ごしたのだ。
 
 晩餐を終え、用意された部屋に案内されたときは、夜もかなり更けていた。寝間
着に着替えベッドでくつろぐと、ステファンは酔いが一気に回ってくるのを感じた。
旅の疲れも手伝って、強烈な眠気に襲われる。寝入ってしまう前に明かりを消そう
と、重い身体を起こした瞬間だった。
 部屋の中のどこからか、微かな物音がする。ステファンは身を固くすると同時に
耳をすませた。とろりとした気分は吹き飛んでしまっている。
「……さま」
明らかに人の声だった。素早い動きで剣を取り、柄を握りしめる。
「何者だ」
押し殺した声で訊く。他国の城で騒ぎを起こしたくはなかった。
「……私よ、お兄さま」
「その声は……まさか!」
ステファンは剣を置き、部屋の中を見回した。変わったところはどこにもない。
「マリオン、どこに隠れている?」
「言えないわ。でも、私からはお兄さまの姿が見えるのよ」
「何だって?」
「このお城にも抜け道や隠し部屋があるのよ、知らなかった?」
マリオンの声は笑いを含んでいた。
 リーデン城にも同じような仕掛けがある。だがそれは落城などの非常時に使われ
るものであって、密会をするためにあるのではない。
 ステファンはため息をついて首を横に振った。
「その抜け道を通ってここに来たわけか。いつから隠れていた?」
「……少し前から」
「今すぐ修道院に帰るんだ。抜け出したことが知れたら大変だぞ」
「心配ないわ。お金で目をつぶってくれる人は多いから」
「マリオン!」
「大きな声、出さないでよ」
ステファンは全身の力が抜けていくような気がして、ベッドに座りこんだ。周り
の者を買収してまで忍んで来るとは、いったい何があったのだろうか。
「……来た理由を話せ。私でできることなら何とかしてやるから、話し終わったら
すぐに戻れ。いいな?」
重苦しい沈黙が続く。マリオンからの返答はない。
「怒らないから言ってごらん」
叱りつけてやりたい衝動を堪え、努めて穏やかに話しかけた。
「……お兄さまに……会いたかったの」妹の声は微かに震えている。
ステファンはふいに頭痛を感じてこめかみを押さえた。そんなことのために危険
を冒すとは、妃になる者として自覚がなさすぎるではないか。事が発覚する前に何
とかしてマリオンを帰さなければならない。
「明日会えるじゃないか。早く帰ってお休み」
「……いやよ」
「マリオン、いい加減にしないと怒るぞ。お前は自分が何をしているのか、わかっ
ているのか?」
修道院で婚前の清めを行った女性は、たとえ己の父親であっても男性に会うこと
は禁じられている。
「いけないことだって……、わかってる。でも、私は……」
震える声が途切れたかと思うと、部屋の隅のほうで小さな物音がした。暗い色を
したカーテンが波打つように動く。ステファンは弾かれたように立ち上がった。
「来るな、マリオン!」
止められなかった。カーテンが左右に押し開かれる。
「お兄さま!」
マリオンが叫んだ瞬間、ステファンは目を背けた。妹の姿を見ないことが、せめ
てもの誠意だと思う。
「……私を見て、お願い……」今にも泣き出しそうな声だった。
「駄目だ、絶対に」
ステファンは目を逸らしたまま、首を横に振った。衣擦れの音が近づいてくる。
「……お兄さま」
ささやき声が聞こえ、冷え切った手がステファンの手を握りしめた。
「そんなに私を待ったのか……」
呟くように言う。マリオンに目を向けずに入られなかった。
涙で潤んだ青い目がステファンを見つめていた。ばら色だった頬は少し痩せて青
白く変わり、形のよい唇は小刻みに震えるばかりで言葉を紡ぎだそうとはしない。
思いのほか憔悴した様子に、ステファンの心は痛んだ。
叱ることも追い返すこともできなかった。ぎこちない動作でマリオンを抱き寄せ
る。どうしていつもこうなってしまうのだろう。子供の頃から、妹のわがままには
勝てないのだ。
しかし、マリオンの頭髪を覆う白絹のボンネットを目にしたとき、自分の罪深さ
を見せつけられたような気分になった。薄っぺらな帽子は清めの儀式を終えた証な
だけでなく、夫以外の異性に髪を見せない、つまり貞操を誓う意味がある。フィリ
スの顔が目の前を過ぎり、気持ちがさらに暗くなった。
「ごめんなさい……」
マリオンは涙声を出し、ステファンの胸に顔をうずめた。マントをはおった細い
肩が微かに震えている。
 ステファンは幼子をあやすように、マリオンの背中を優しくさすった。
「お前は疲れているんだよ。ギルトは初めての土地だし、勉強することもたくさん
あった。私だってアカデミアに入ったばかりの頃は、泣きたくなることが……」
「でも、ひとりじゃなかった」
「えっ?」
「……アランがいた」
「それはアランもイディオンに受かったから……」
だが、マリオンはステファンの言葉を拒絶するように、首を左右に激しく振った。
「私はひとりぼっちなのよ! 誰もいない……」
「フィリスがいるよ。少し繊細なところがあるけれど、いい奴だから。アカデミア
で共に学んだ私が一番よく知っている。お前を大切にすると言ってくれた」
「アストールに帰りたい……」
ステファンは返答に窮した。マリオンは明らかに結婚を拒んでいる。自分の立場
を考えたら、少々手荒なことをしてでも彼女を修道院に帰さなければならない。明
日の婚礼は、アストールとギルトを結ぶ儀式でもあるからだ。
「子供の頃のこと、よく思い出すの」
「マリオン、私の話を聞いてく……」
そう言いかけたとき、マリオンの手がステファンの口をそっと塞いだ。
「私が初めて馬に乗った日のこと、覚えてる?」
「……ああ」
とまどいながら答える。なぜ昔の話を持ち出してきたのか、見当もつかない。
「白くて、きれいな馬だったわ」
「そうだったね」
 マリオンが八才になったばかりの頃、十年前の夏。リーデン城の馬場で、彼女は
初めての乗馬訓練を受けることになった。
当時、ステファンはアランと共に妹の挑戦を見守っていたのだが、その目の前で
とんでもない事件が起こってしまった。厳しい選別に勝ち抜いた最高の馬が、小さ
な王女を乗せた途端、激しく暴れ、壁に向かって突進し始めたのだ。
「だけど、いきなり暴れるんですもの。本当に怖かった」
「私もどうなることかと、肝を冷やしたよ」
「あのとき、お兄さまが助けてくれなかったら、私はあの馬と一緒に……」
白馬は結局、壁に激突して無残な死を遂げた。マリオンは昔の恐怖を思い出した
ように肩を震わせる。
「無事でよかったよ、それが一番だ」
「でも、私を庇ったために大怪我をして……、それに……」
「昔のことはもういい」
ステファンは語気を少し強くして、マリオンの言葉を遮った。
「ごめんなさい……、やっぱり怒ってるわよね」
「怒ってないよ、心配してるだけだ」
「……お兄さま」
マリオンは顔を上げ、思いつめたような眼差しでステファンを見た。
「私、明日フィリス様と結婚します」
「……ああ」
妹が何を考えているのか、全くわからなかった。国に帰りたいと言ったかと思う
と、その舌の根も乾かないうちに結婚すると言う。
「お兄さまは暴れ馬から私を救ってくれた。だから今度は……、私がお兄さまを守
ってあげる。ギルトと組めば、グランベル帝国も簡単には手出しできないでしょ?」
「私はそんなつもりで、この結婚に賛成したわけじゃない」
「いいのよ、もういいの」首を力なく左右に振る。
「よく聞いてくれ、マリオン。国どおしの結びつきも大事だが、それ以上にお前に
は幸せになって欲しい。フィリスなら、きっとお前を幸せにしてくれるはずだ」
ステファンの言葉をどう感じたのか、マリオンは寂しそうに微笑んだだけだった。
 大陸一の超大国グランベル帝国は、長年にわたって周辺の小国を取り込みながら
膨張を続けてきた。だがアストールは北方の小国、帝国の大軍に攻められたら勝ち
目はない。国境を接する富国ギルトと結ぶことは、大陸で生き残るためにどうして
も必要な選択肢だった。
 でも、とステファンは思う。妹と友人には幸せな暮らしを送って欲しいと。
願わくは、戦乱など起こらないことを。

 ふいに扉を軽く叩く音がした。
 ふたりとも一瞬身を堅くしたが、ステファンは落ち着いた様子で扉に向かい、マ
リオンもその隙に素早くカーテンの裏側に隠れた。
 カーテンの動きが無くなるのを確かめてから、扉をほんの少し開く。
「……誰だ?」
「私です、ステファン様」
「アランか。こんな夜更けに何の用だ?」
不機嫌な表情を作って扉をさらに開ける。だが部屋の中が丸見えにならないよう
に、気を配らなければならなかった。
「お休みのところ、失礼いたします」
アランは生真面目な顔で言い、会釈した。手にはろうそくを持っているが、服装
は着いたときのままだ。
「お部屋の前を偶然通りかかりましたら、話し声のようなものを耳にいたしました
ので、ご様子を伺いにまいりました」
「話し声だって?」
肝の冷える思いがした。声をひそめていたつもりだったのだが。
「空耳だろう、ここには私しかいないのだし」
ステファンはあくびを噛み殺すような真似をした。
「疲れているんだ、もう寝かせてくれないか。アラン、お前も着替えて早く休め」
「申しわけございませんでした。では、お休みなさいませ」
ステファンはアランの言葉にうなずくと、早々に扉を閉めた。だが、その場から
すぐに離れることなく、耳をそばだてて外の様子を窺った。足音が確実に遠ざかる
まで声は出せない。張りつめた沈黙の時が流れる。
「……マリオン」
足音が聞こえなくなってから、声を低くして妹の名を呼んだ。カーテンが開き、
マリオンが姿を現す。
「ああ、驚いた……」
「おかげで寿命が縮んだよ」
「ごめんなさい、お兄さま。アランがあんなに耳がいいなんて、知らなかったわ」
「私もだ」
お互いに顔を見合わせて微笑む。
「フィリス様のお側にも、アランみたいな人がいてくれたらいいのに」
「大勢いるじゃないか。例えばランバートとか」
「私、あの人嫌い」マリオンは唇を尖らせて言い放った。

                               (2)へ続く




#125/598 ●長編    *** コメント #124 ***
★タイトル (pot     )  02/12/14  22:47  (498)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(2) 佐藤水美
★内容
「おいおい、めったなことを言うな。彼は有能な宰相だと聞いている」
「そうなの? でも、やっぱり嫌だわ。アランみたいに正直で、私心なく仕えてく
れる人のようには見えないもの」
「ランバートは宰相だからな、アランと違うのは当然だ。それより明日は……」
「ええ、わかってる」
 マリオンは突き放すように言い、うつむいてため息を洩らした。
「……行かなくちゃいけないのよね」
「気をつけて帰るんだぞ」
 妹の背中にそっと手を触れる。マリオンが顔を上げ、物言いたげな視線をこちら
に向けたが、気づかないふりをした。
「さあ早く、怪しまれないうちに」
「さよなら、お兄さま……」
 マリオンは小さな声で言い残すと、再びカーテンの裏側に隠れた。布が揺れ、微
かな物音がした。
 ふたりきりで会うことなど、もう二度とないだろう。
 ステファンはベッドの上で仰向けになった。妹を邪険に扱ったつもりはないのだ
が、後味の悪さが胸に残っている。
 自分にとってフィリスは親友でも、マリオンにとっては顔も見たことのない他人
なのだ。しきたりでは花婿と花嫁が対面できるのは婚礼の当日で、それまでは言葉
を交わすどころか、お互いの顔さえ知らない。相手への愛情などあるはずもなく、
不安になるのは当然だった。
 しかし近い将来、自分もアストールを守るために、顔も知らない他国の姫と縁を
結ぶだろう。王家に生まれた者として、その運命は甘んじて受けなければならない。
 ステファンはいったん起き上がって燭台の明かりを消し、ベッドの中にもぐりこ
んだ。柔らかな寝具に包まれたとき、旅の疲れと残っていた酔いが眠り薬に変わっ
た。寝入ってしまうのに、たいして時間はかからなかった。


       第三章 悪夢

 ここはどこだ?
 ステファンは薄暗い回廊にひとりで立っていた。目をこらして周囲を見回す。
 リーデン城? いや、似てはいるが何かが違う。
 どこからともなく物音が聞こえ、空気が微かに動くのを感じた。ステファンは神
経を尖らせて身構え、剣を取ろうと腰に手をやる。
 ……ない!
 信じがたいことに、丸腰だった。心細さに胸が震える。
 ……ステファン……
 くぐもった低い声。
「誰だっ!」鋭く叫んで後ろを振り返る。
真っ青な顔をした男が立っていた。濁った目とくしゃくしゃの金髪。
「……叔父上!」
……殺ったのは……お前だ……
「何を……」
……お前は……呪われている………
男は無表情のままステファンを指差した。
「いったい、私が何をしたというのです?」
……う、うう……
男は突然うめき始めたかと思うと、己の喉を両手で押さえた。どす黒い血が指の
間から噴き出してくる。
「うわあっ!」
 ステファンは思わず叫んで後ろへ飛びのいた。
……メウ・ロード……
今度は、ざらついた声が背後から忍び寄る。物が腐敗したときのような、嫌な臭
いがした。
奴だ!
ステファンは狩人に追われた野うさぎのように走り出す。後ろを見る必要はない。
少年の頃の恐怖が背筋を這い上がってくる。
回廊はどこまでも続く。出口は見えない、だが引き返すこともできない。
息が切れ、心臓は爆発寸前だ。
「あっ!」
 ステファンは急に体勢を崩した。何かにつまずいたらしい。己の足元を見る。
 人が横たわっていた。よく知っている美貌。
「アラン!」
 半開きになった口から溢れている、おびただしい血。
 手を震わせてアランの首筋に触れる。
脈がない!
……メウ・ロード……
強くなる腐敗臭。
「くそっ!」
 剣さえあればと思った瞬間、熱い痛みが背中から胸を貫いて……

「わああっ!」
 叫び声を上げて、ステファンは飛び起きた。全力で疾走した後のように呼吸が荒
く、心臓の動悸も激しい。身体中に嫌な汗をかいていた。
「……夢か……」
 喘ぎながら呟き、胸に手を当てる。冷たい汗が首筋を伝う。疲労と酒が呼んだと
はいえ、生々しく不吉な夢だった。
 寝間着の袖で額の汗を拭う。部屋の中は暗く、夜明けにはまだ遠い。ステファン
は再び身体をベッドに横たえた。
 こんな悪夢を見るのは何年ぶりだろう。とうに開放されたと思っていたのに……。
いや、そんなことはどうでもいい。少しでも眠らなくては、婚礼での大役に差し支
えるではないか。
 心臓の興奮は治まっていなかったが、ステファンは目を閉じた。
 ……お前は呪われている……
……メウ・ロード……
気味の悪い声が耳の奥で何度も蘇る。眠りは妨げられ、身体の求める休息は得ら
れそうになかった。
「まいったな……」
 ステファンはそう呟いて、また身体を起こした。目が暗さに慣れるのを少し待っ
てから、毛布を跳ね除けてベッドから降りる。窓がある方に向かって歩き、カーテ
ンを開けた。西に傾いた月が、白く冷たい光を放っている。
 ステファンが十二才のときの夏。
 あの日の夜も、白い月が出ていた。
 ステファンは背中と腰にひどい怪我をして、自室のベッドに寝かされていた。同
じ日の昼間、暴走中の馬からマリオンを救い出したときに傷を負ったのだ。
 アランが水に浸した手巾を絞り、発熱したステファンの額に乗せてくれたときだ
ったと思う。奴が現れたのは……。
 物音もなく、気配すらも感じなかった。あの腐敗臭に気づいたとき、奴はすでに
アランの背後に迫っていた。
 鋭く尖った三本の爪が、アランに振り下ろされた瞬間を今も忘れてはいない。彼
は自分の身体を楯にして、ステファンを守ろうとした。
 最初の一撃は肩に食い込み、次に薄い胸を引き裂いた。絶叫と共に、ほとばしる
鮮血がステファンの顔まで飛んだ。
 奴は怪物そのものだった。漆黒の身体、ひとつだけの赤い目、大きく裂けた口、
耳のあたりに生えた二本の角。思い出すだけでも震えが来る。
 動けないステファンはベッドから引きずり出され、壁に叩きつけられた。間違い
なく、アランと同じ目にあうのだと思った。
 しかし……、化け物は何もしなかった。赤い目を大きくしてステファンを見つめ
たまま、呟くように言ったのだ。
『メウ・ロード(主よ)』と。
 そして消えた。煙か何かのように。
 あれから、もう十年経つ。ステファンはため息をついて窓の外を眺めた。月の傾
きが増したように感じる。
 改めて思い出してみると、ふたりとも生きていることが不思議だった。ステファ
ンはともかく、アランは一カ月も死線をさまよったのだ。勉学を教授するため、リ
ーデン城に招かれていたシド博士が、卓抜した医学知識と外科技術を駆使して治療
にあたってくれたという幸運はあったのだが。
 あの化け物はどうして自分を引き裂かなかったのか。何故、メウ・ロードと言っ
たのか。いくら考えても、その謎は解けなかった。
 リーデン城の厩舎に残された爪痕を思い出す。間違いなく、あの化け物が再び現
れたのだ。アランの胸にある傷跡と比較してみれば、明らかだった。
 襲撃犯の正体を知っているのは、当事者ふたりを除いて、父王とその側近フレス
卿、そして今は亡きカテリーナ王妃しかいない。父王が内密にしておくよう厳命し
たからだ。
 化け物が城に出没したと知れたら、人心は著しく動揺するだろうし、その隙に乗
じて帝国の手が伸びてくるかもしれない。それに、ステファンの立場にも微妙な影
を落としかねなかった。
 お前は呪われている、呪われた王子だ!
 ステファンの叔父、王弟ダリル公爵の吐いた台詞が、化け物と短絡的に結びつく
ことを父王は恐れたのだ。
 ステファンは額にかかったひと筋の前髪を引っ張り、それを上目づかいで見た。
 鮮やかな緋色。アストール王家は代々金髪と碧眼が特徴で、父王や公爵はむろん、
妹のマリオンもそうだった。
 お前にはオリガの血が混じっているから、こんな髪をしているのだ!
 お前のような目の色は、王家の者にはいないぞ!
 公爵があたりかまわず、ステファンを罵った台詞はよく覚えている。思い出すだ
けで腹が立ってくるほどだ。
父王の庇護があったとはいえ、リーデン城の空気はステファンにとって暖かいも
のではなかった。城内には声高に叫ばずとも、公爵の言葉に共感する者が多くいた
からである。
 オリガ――古代聖書に則った暮らしを、頑なに守っている人々のことだ。彼らは
周囲と隔絶した集落を作り、独自の掟に従って生きてきた。貧しくとも静かな生活
を好み、争い事を嫌う。集落の外に出るのは、何かの事情があるときだけだ。
 しかし大教会は、信心深い彼らを今も昔も認めてはいない。彼らは教会への献金
をせず、大教会の頂点にいる教王をあがめることも拒んだからだ。
 異端と呼ばれ、迫害されたオリガを受け入れたのは、アストールとギルトの両国
だった。それは彼らを保護するためではなく、安い労働力として使うためだった。
今から二百五十年ほど前のことである。
 だが年月が経つと、アストールのオリガには変化が現れ始めた。周囲と次第に同
化していくようになり、いくつもの集落が消えていった。国内で最後まで残ったの
は、リーデン城の北にあった集落ただひとつ、そこはまた、ステファンを生んだ母
エレインの故郷でもあった。
 とはいえ歴史的に見れば、オリガの娘が王家に嫁ぐなど異例の事態であり、宮中
に騒動が起こるのも無理はない。父王は周りの反対を押し切って母を妻としたが、
大教会には認められず、公式には愛人と同じ扱いだった。
 愛人の子に王位を継ぐ資格はない。公爵はステファンを散々罵った後、必ずそう
言った。おそらく彼には、王位への野心があったのだろう。
 しかし、公爵はもういない。
 ステファンとアランが襲撃された翌日、公爵は自分の邸宅で、夫人と共に何者か
によって殺されてしまったのだ。犯人は未だにわかっていない。
 公爵はいなくなっても、ステファンを取り巻く状況は同じだった。髪や目の色に
ついての陰口は相変わらずだったし、ちょっとでも失敗しようものなら、オリガの
血が混じっているから駄目なのだと言われた。
 ステファンには生みの母の記憶がない。母は出産後数ヶ月で亡くなっている上に、
絵姿も残っていないからだ。彼にとっての母は乳をくれた乳母や、マリオンの実母
であるカテリーナ王妃だった。
 彼女たちには慈しんでもらったと思う。特に王妃は、継子であるステファンにも、
実の子と同じように愛情を注いでくれた。それにはとても感謝している。
 だがアストールで生きていくなら、偏見は払拭せねばならなかった。自分の中に
ある根深い劣等感を打ち砕くためにも、必死になって努力してきた。アカデミアの
大学府に入学し優秀な成績を修めたこと、寒村だったメンテルを立派な町に変えた
こと、ギルトの闘技場で当時一級剣闘士だったジュダを屈服させたことなどは、み
なその成果だった。
 これだけのことをしてもなお、正式な皇太子となるための立太子式はまだ行われ
ていない。本来なら三年前の成年式と同時に済んでいたはずだった。
 立太子式をするには大教会の許可がいる。父王が使者を立てて申請しているにも
かかわらず、返事は未だにない。おそらく母の出自が影響しているのだろう。それ
はステファンの責任ではないのだが、リーデン城に集まる貴族たちはそう思っては
くれなかった。
 何をしても認められないのかと絶望的になったこともある。だが、ここで投げ出
したら、努力が全て無駄になってしまう。
 空がうっすらと明るくなりかけていた。ステファンは両手で髪をかき上げ、ベッ
ドのところに戻った。寝間着を脱ぎ、ズボンとシャツだけの簡単な服装に着替える。
 もう一度眠ろうという気持ちは失せていた。外の空気が無性に吸いたかった。


第四章	 少女

 城内は眠りに落ちているように静まりかえっていた。
 暗い廊下を通り抜け、とりあえず中庭に出てみる。屋内よりは明るいが、日光は
まだ差し込んでいない。白い砂利の敷きつめられた地面には、庭木の作る黒々とし
た影が落ちている。
 風が吹き、木々がざわめく。ステファンは新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこみ、
悪夢を追い払うように呼気を吐き出した。
 死んだ叔父や化け物を頭の中から追放すると、やはりマリオンのことが気になっ
てくる。修道院まで無事にたどり着いているといいのだが。
私がお兄さまを守ってあげる。
 マリオンの泣き顔を思い出す。妹を哀れむ気持ちと、禁忌を犯した罪の意識とが
胸の中でせめぎ合う。
 他にどうすればよかったのか。今の自分には、結婚式が滞りなく行われるのを祈
るしかないのに。
 やるせない思いを抱いてため息を吐き、足元の砂利を軽く蹴った瞬間だった。
 何かの音――風や木々の出す音ではないもの――が、微かに聞こえたような気が
した。はっとして周囲を見回すが、何も変わった様子はない。
気のせいかと思い、踵を返して屋内に戻ろうとしたとき……。
 再び、同じような音が耳をかすめた。思わず足が止まる。
 竪琴が紡ぎ出すような、高く澄んだ音色。それが折り重なって、ひとつの美しい
調べになっていく。初めて聞いたはずなのに、とても懐かしく感じるのは何故だろ
う。
 誰が、どこでこの曲を奏でているのか。ステファンは音の出どころを探ろうと耳
をすませた。
 上からだ!
 そう確信したとたん、ステファンは駆け出した。城内に戻り廊下を走り抜け、屋
上に通じる階段へと向かう。急がなければ消えてしまうような気がして、らせん状
の石段を駆け上がった。
 屋上に近づくにつれ、曲が次第にはっきりと聞こえてくる。いつしかステファン
は走るのをやめていた。ゆるやかな音の流れに身をまかせるように上っていく。
 流れてくる風を感じて顔を上げると、入り口の扉は開け放たれたままになってい
た。早朝ながらも明るい光が差し込んでいて、ステファンは目を少し細めた。
 階段を上りきって屋上に出る。だが、そこで見たものは、想像もしていない光景
だった。
「これは……」驚きのあまり息を呑む。
 建物の陰に沈んでいた中庭とは全く違い、光が溢れていた。みずみずしい新緑の
若葉を茂らせた低木と、咲き乱れる色とりどりの花々。それらの間をぬって走る小
径には、鮮やかなモザイクが填め込まれ、精霊を模った白大理石の優美な彫像は、
日差しを受けて輝いていた。カスケイド城の屋上は、贅を尽くした庭園といっても
過言ではなかった。
 その庭園の中央、細やかな装飾が施された長椅子に、ひとりの女性が腰掛けてい
た。純白の長いベールを被っていて、しかもステファンに背を向けているため、顔
は見えない。演奏に没頭しているらしく、侵入者には気づいていない様子だった。
 邪魔をするつもりはなかった。ステファンは猫を思わせる足取りで歩き、彫像の
後ろ側に身をひそめた。
 いったい、どこの誰なのか。
 疑問が再び浮かんだとき、澄んだ歌声が旋律に加わった。
 この曲を知っている!
 懐かしさは確信に変わった。いつどこで聞いたのかは、自分でもわからない。だ
が、胸の奥が激しく震え始めるのを、止めることはできなかった。
 ステファンは彫像に寄りかかり、小さく息を吐いた。目の奥がふいに熱くなるの
を感じ、慌てて上を向く。

          長いあいだ 探し続けていた
          魂と魂をつなぐ深い絆
          遠くばかりを 見つめていたけれど
          本当に大切なものは 私のそばにあった

          愛しい人よ
          私の胸に飛びこんでおいで
          私は あなたの帰る家
          背負ってきた悲しみごと 抱きしめてあげる

          名前が変わっても 姿が変わっても
          私にはわかる
          魂のかたちは変わらないから
          時の波に洗われても
          きっと あなたを見つけられる

          愛しいひとよ 覚えていて
          運命に引き裂かれても
          すべての命の源で
          いつの日か また会えることを……

 空を流れる雲が歪んで見えたとき、ステファンは目を閉じた。
 瞼の裏に白いカーテンが映る。ゆりかごの軋む音、抱かれたときの柔らかな胸の
感触。甘い匂いと優しい歌声……。
 長い間忘れていた大切な記憶だった。熱いものが頬を伝って流れ落ちる。風が吹
き、庭木のざわめく音が聞こえた。
「あっ!」
 小さな叫び声に、ステファンはハッとして目を開けた。濡れた頬を慌てて袖口で
拭い、彫像に寄りかかるのをやめて周囲を見回す。
 ベールが風にもてあそばれて宙を舞っていた。ステファンは躊躇せず彫像の後ろ
から飛び出して、薄い布を素早くつかまえた。
「あなた、誰?」
 おびえたような、だが美しい声が後ろから聞こえた。魅惑的な響きに引かれて振
り向くと、そこにはひとりの少女がステファンを見つめて立っていた。
 年は十五か十六ぐらいだろうか。上質の白磁を思わせる肌を持ち、大きな瞳は新
緑をそのまま移したような鮮やかな色をしていた。ゆるく波打つ金褐色の髪は、腰
のあたりまでの長さがある。首には変わった形をした石のペンダントを下げていて、
ベールと同じ色の質素な服が華奢な身体を包んでいた。
 彼女は小型の竪琴みたいな楽器を大事そうに抱えなおすと、柔らかな花びらのよ
うな唇をためらいがちに動かした。
「あの……どうかしたの?」
「いや、別にその……」
 ステファンは口ごもって、うつむいた。何か言わなければと思えば思うほど、言
葉が出なくなった。胸の奥の、自分でも意識したことのなかった場所が締めつけら
れる。急に息苦しくなり、顔が紅潮してくるのを感じた。
「ベールを返してくれる?」
「ああ……」
 ステファンは歯切れの悪い返事をすると、少女に近づいてベールを差し出した。
「拾ってくれてありがとう」
 少女はそれを受け取り、可愛らしい笑顔を見せた。胸の鼓動が速くなっていく。
「あなたは、このお城の人なの?」
「いや、違うよ。ちょっと用があってね。君は?」
「私はおじいさまと一緒に、昨日着いたの」
 彼女の祖父はそれなりの地位がある人物らしい。だが、貴族の娘にしては着てい
る物が簡素すぎる。
「お城に泊まるなんて初めてだから、なんだか眠れなくて……」
 少女は小さなため息をついて、楽器を人形のようにしっかりと抱えた。その仕草
が微笑ましくて、ステファンは表情を和らげた。
「実は私も眠れなかったんだ」
「あなたもそうだったの」
「仕方なく中庭をうろついていたら、君の竪琴の音が聞こえてきて……つい、ここ
に来てしまった」
「もしかして、歌も聞いてた?」
「立ち聞きするつもりはなかったんだが、君の声が……とてもきれいで……」
「上手じゃないのに……、恥ずかしいわ」
 少女はふいに表情を曇らせて、うつむいた。
「そんなことはない! もっと自信を持つべきだ」
 声がつい高くなった。少女が身をすくませてステファンを見る。
「大声を出してすまなかった。でも、私は嘘を言っていないつもりだよ」
「あ……、ありがとう」
 少女はまだ怯えているように見えた。まずかったなと自分でも思う。
「竪琴と歌は誰に教わった?」
「母さまに。それから、これは竪琴じゃないわ」
「いや、でも……」
「よく見て。竪琴よりずっと小さいし、弦の数も違うでしょ」
 少女はそう言って、ステファンに楽器を見せた。
「ああ、確かにそうだな。なんていう名前だ?」
「ビューロっていうの」
 聞いたことのない楽器の名前だった。
「これは竪琴の原型なんですって。おじいさまがそう言ってたわ」
「へえ、初めて知ったよ。君のおじいさんは物知りだね」
「だって学者ですもの」
 学者か、なるほど。それなら城に出入りするのもわかる。名前を知りたかったが、
今ここで訊くのは何となくためらわれた。
「ちょっとだけ、ビューロに触っていいかな?」
「もちろん。どうぞ」
 少女は微笑んでステファンにビューロを差し出した。受け取って抱えてみると、
楽器は想像以上に軽い。ぴんと張られた弦を適当に爪弾いてみる。
「あれ?」
 がっかりするくらい冴えない音だった。楽器そのものが違うのではないかと思え
るほど、少女の奏でた音色との落差は大きかった。
「ビューロは見た目以上に難しい楽器だから。最初から、きれいな音を出せる人な
んていないわ」
「そうなのか、面白いものだな。君もたくさん練習をしたんだろうね」
「練習? そんなふうに思ったことなかったわ。ビューロを弾いていると、母さま
がそばにいるような気がして……」
「母上は亡くなられたのか」
 ステファンの言葉に、少女は黙ってうなずいた。
「……すまなかった」
「いいの、気にしないで」
 少女は首を横に振り、うつむいた。艶やかな髪が風に揺れる。
「あの……もしよかったら、さっきの歌をもう一度歌ってくれるかな」
 ステファンは優しく話しかけると、少女にビューロを渡した。少女は楽器を受け
取ったものの、表情をこわばらせて何もしようとはしない。
「君はビューロを弾いていると、母上がそばにいるような気がすると言ったね。そ
の気持ち、わかるよ」
 少女が顔を上げてステファンを見た。
「あなたの母さまは……」
「私を生んだ母上は赤ん坊の頃に亡くなったし、育ててくれた人も三年前に逝って
しまった。私には、母上との思い出はあまりないんだ」
 自分から母親の話をするのは初めてだった。カテリーナ王妃のことはともかく、
生みの母エレインは、偏見に打ち勝つため心の底に封じこめた存在だった。
 ビューロの音色と少女の歌が、いつの間にかそのくびきを断ち切っていたのだ。
「いいわ、歌ってあげる」
 少女は表情を和らげて言い、長椅子に腰掛けた。ベールを被り直し、おもむろに
ビューロをかまえると、小さな声で呟いた。
「……そんなに見つめないで」
「あ、ああ……悪かった」
 慌てて少女に背を向ける。他にどうすればいいのかわからなかった。
 調子を整えるように弦を数回弾く音がした後、例の曲が再び始まった。風が穏や
かに吹き、花々の香りが漂ってくる。
 ステファンは目を閉じた。白いカーテンが、また蘇る。
 ゆりかごの中の赤ん坊は、小さな足をぴくぴくと動かし、何かをつかもうとする
かのように伸ばした自分の手を見つめている。
 歌が流れている。何度も耳にした、あの歌。
 赤ん坊は自分も歌おうというのか、言葉にならない声を出す。
 ステファン……。
 聞き覚えのある優しい声。
 ……母上?
「鐘の音がする……」
 少女がふいに呟いて歌と演奏を止めた。ステファンも目を開けて耳をすます。荘
厳な音が遠くのほうから響いてくる。
「しまった!」
 鐘の音は明らかに大聖堂のものだった。今日、そこで行われることは――。
「どうしたの?」
「大事な用事を思い出した、もう行かないと」
 ステファンは少女のほうを向き、早口で告げた。少女は大きな目を見開いて、唖
然とした顔をしている。
 本当は、ここを離れたくない。歌を聴いていたい、少女ともっと話がしたい。
 だが自分には果たすべき大役がある。心がどんなに叫ぼうとも、押し殺さなけれ
ばならなかった。
「歌ってくれてありがとう。よかったら君の名前、教えてくれるかな」
「ミレシアよ。あなたは?」
 少女は自分の名前を言って、愛くるしい笑顔を見せた。彼女が野に咲く花ならば、
ためらいなく手折って持ち帰ったことだろう。
「私の名はステファン。では、さらばだ」
「さようなら、……ステファン」
 ミレシアの声を背に、ステファンは一回も振り返らずに庭を突っ切り、階段を駆
け下りた。
 もう一度、逢えるだろうか?
胸の奥が燃えるように熱い。こんな気持ちは初めてだった。

 フィリスとマリオンの結婚式は、カスケイド城の北に位置する大聖堂で盛大に行
われた。
 挙式後、彼らは成婚パレードを行うためティファに入ったが、ステファンは一足
先に城内へ戻っていた。日没になれば祝宴が始まる。父親代理の役目は終わっても、
アストール王国の代表としての役目はまだ残っているのだ。
 ステファンは客間で遅い昼食を摂っていた。テーブルのそばには不機嫌な顔をし
たアランと、普段と変わらない様子のジュダが立っている。
「まだ怒っているのか」
 パンをかじりながらアランに訊く。怒っていて当然だった。ミレシアという美少
女に気を取られ、重大な役目を危うく放り出すところだったのだから。運良く式に
間に合ったとはいえ、一歩間違えれば、父王やマリオンに恥をかかせることになり
かねなかった。
「終わっちまったことは仕方ないだろうが。マリオン様のご結婚式には間に合った
んだから、それでいいじゃないか」
 ジュダはそうアランに話しかけると、ステファンのカップにお茶を注いだ。
「二度とあんなことはしない。宴が始まる時刻まで、この部屋から一歩も出ない。
神にかけて誓うよ、アラン」
 残りのパンを口に運び、お茶で胃の中に流しこむ。本気で言っているつもりだっ
たが、今は空腹に勝てなかった。
「俺がドアのところで見張ってるからいいだろう?」ジュダが後押しする。
 だが、アランはステファンとジュダの顔を交互に見て、短いため息を吐いた。
「ステファン様、本当に反省しておられるのですか?」
 またか、と思う。全く信用してくれないアランに、ステファンの気持ちも次第に
投げやりなものになっていく。
「悪かった、反省してるよ」
「ならば、真実をおっしゃって下さい。今朝はどちらへ行かれたのですか」
「何度も言っただろう、庭だ」
 ステファンは吐き捨てるように言い、ナイフとフォークで肉料理を切り分けた。
茶色のソースが少量跳ねて、テーブルクロスに染みを作る。
「中庭ではお姿を拝見できませんでしたが」
「違う、屋上にあるやつだ」
 肉片をフォークで突き刺して、口に入れる。しばらくの間、アランとは話をした
くない気分だった。
「屋上に庭なんかあるんですかい? そいつはすごいや、見てみたいなぁ」
 ジュダが目玉をくるくると動かして、嬉しそうに言う。
「屋上に庭など、聞いたこともありません」アランの声は冷ややかだった。
「でも、ここにはそういうのがあるんだろ? 何でも決めつけちまうのは良くない
な、アラン。視野が狭くなるぜ」
「鉢に植えるならいざ知らず、今の技術で屋上に庭を造るのは不可能です」
 アランはジュダの台詞を無視して、己の意見を強調した。
「大公様のことだ、何か新しい方法でも編み出したのかもしれないぜ。ま、年寄り
みたいに頭の固いお前さんにゃ、理解できないだろうがな」
「何だって?!」
 アランの顔に赤みが差す。そろそろ雲行きが怪しくなってきたようだ。ステファ
ンはお茶を啜り、口を開いた。
「本当だよ、見事な庭だった。私だって最初は自分の目を疑ったくらいだ」
「それほど素晴らしい庭なら、何故評判にならないのでしょうか。陛下はどうして
秘密にしておられるのでしょうか」
「さあね、私にもわからないな」
「それではお答えになっていません。なぜ屋上に行かれたのですか?」
「ただの散歩だ。何度言えばわかるんだ」
 ミレシアとの出会いを打ち明けられる状態ではない、と思った。ステファンに近
づく女性が現れると、アランはひどく神経質になる。その気持ちも理解できないわ
けではないのだが……。
「真実をおっしゃって欲しいのです」
 アランは急に沈んだ声で言い、目を伏せた。
「昨日の夜といい、ステファン様は私に何か隠しておられます。十五年もお仕えし
てきた私が信用できませんか?」
「何も隠していないぞ。馬鹿なことを言うな、アラン」
 何という勘の良さだ! 内心で舌を巻く。だが、どう言われようと、昨夜のマリ
オンとの一件は墓場まで持っていくつもりだった。妹の名誉は守ってやらなければ
ならない。
「とにかく、庭でのんびりしすぎてしまっただけだ。この話は終わりにする」
 ステファンは一方的に宣言し、膝にかけたナプキンを取ってテーブルの上に置い
た。これ以上、物を食べる気にはなれなかった。
「少し休む。ふたりとも下がれ」
 アランとジュダが部屋を出て行くと、ステファンは早速ベッドに寝そべった。積
み重なった疲労で身体が重い。
 ……ミレシア……。
 少女の顔が脳裏に蘇った瞬間、胸の奥が締めつけられた。
 もう一度逢いたい、そして……。
 ステファンは深々とため息を吐き、目を閉じた。
 

       第五章 皇太子

 祝宴は日没と同時に始まった。
 大広間では豪華な料理と上質の酒が惜しげもなく放出され、宮廷楽士たちが華や
かな曲を奏でている。きらびやかな衣装を身につけた王侯貴族たちは音楽に合わせ
て踊ったり、他愛ないおしゃべりに興じたりしていた。
 ステファンは儀礼上、数人の上級貴族令嬢と踊ったが、彼女たちのように無邪気
に宴会を楽しむことはできなかった。人目を避け、大広間の壁に寄りかかって、今
宵の主役ふたりを遠くから眺めてみる。
 フィリスもマリオンも、にこやかな笑顔を見せていた。特にフィリスのほうは、
こちらが恥ずかしくなるほど嬉しそうだった。対するマリオンはどうかと言えば、
昨夜のこともあって、何となくぎこちない感じに見えてしまう。
 結婚したくない。妹はそれだけを告げるために危険を冒したのだろうか。本当に
伝えたかったことは別にあったのではないか?
 だが、確かめるすべはない。マリオンは今やギルトの大公妃となったからだ。
「ステファン王子じゃないか」
 背中で聞き覚えのある声がした。嫌な予感を胸にして振り返る。
「失礼致しました、ヘクター殿下。直々にお声をかけていただけるとは光栄に存じ
ます」
 ステファンは口許に笑みを浮かべてよどみなく言い、派手に着飾った青年にてい
ねいなお辞儀をした。
 ギルト公国の隣、ハイデルク王国のヘクター皇太子。年はステファンやフィリス
と同じ二十二才だが、彼の肉体は衣装でも隠しきれないほどたるんでいた。すでに
相当な量の酒を飲んでいるらしく、輪状の襟飾りの上に乗った丸い顔は真っ赤で、
茶色の目も血走っている。おそらく祝宴が始まる前から飲んでいたのだろう。ギル
ト王家とは遠戚に当たるため、祝宴に呼ばれたのだ。
「ふん、心にもない世辞を言うな」
 ヘクターは薄い唇を歪めて言うと、酒臭い息を吐き出した。
「疑り深いお方だ。私は真実を申し上げているのですよ」

                               (3)へ続く




#126/598 ●長編    *** コメント #125 ***
★タイトル (pot     )  02/12/14  22:53  (499)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(3) 佐藤水美
★内容
 この男はイディオンを受験した頃と少しも変わっていないと、ステファンは密か
に思った。
 あのときのヘクターは不安と重圧のせいか、宿舎内で酒を飲んだあげく、ステフ
ァンにしつこく絡み最後には大暴れをした。結果は当然のごとく不合格で、彼は肩
を落として従者たちと帰国したのだ。
「そんなことはどうでもいい。さっきまで浮かない顔をしていたではないか。花嫁
の父にでもなった心境か?」
「まさか。そのような気持ちではありません」
「祝宴とはいいものだな。酒が堂々と飲める」
 ヘクターは相手の言葉など耳に入っていないようだった。無意味な高笑いをした
かと思うと、ステファンに一歩近づき、低い声で囁いた。
「立太子式は終わったか?」
 背後から、突然切りつけられたような思いがした。返す言葉を失い、手のひらに
爪が食いこむほど、拳を強く握りしめる。ヘクターの赤ら顔に満足げな冷笑が浮か
んだ。
「ところで、君の妹はなかなかの美形だな」
 ヘクターは声を高くして言い、そばにあったソファーに身を投げるようにして腰
掛けた。
「美しい姫と知っていれば、この私がめとったものを。フィリスごときにさらわれ
るとは、かえすがえすも口惜しい」
「わが愚妹をお褒めくださるとは、もったいのうございます」
 ステファンは表情を変えずに答えた。
大事な妹をお前のような奴に嫁がせるものか!
「ギルトの楽士も大したことがないな。そろそろ退屈になってきたぞ。ステファン
王子、ちょっとした座興を楽しんでみないか?」
「は?」
「座興だよ。聞こえないふりはよせ」ヘクターの目が不気味に光る。
「何をなさるおつもりです?」
「フフフ、面白いぞ。おい、そこのお前、こっちに来るんだ」
 ヘクターは近くにいた給任を呼びつけ、彼の耳に小声で囁いた。何を考えている
のかは知らないが、ここは持ち前の自制心を発揮して乗り切らなければならない。
 命令を受けた給任の姿が貴族たちの間に消えると、ステファンは自ら口を開いた。
「国王様のお身体の具合は、いかがなのでしょうか? お加減がよろしくないと聞
いておりますが」
 ハイデルク国王グスタフは、今年に入ってから体調を崩しているとの噂が流れて
いた。彼は賢王との誉れが高く、グランベル帝国に次ぐ大国を率いるのにふさわし
い人物である。
「父上か? まだ王座におられるさ」
「いえ、そういう意味ではなくて……」
「父上に御退位の意志は全くない。残念だったな、ステファン王子」
 ヘクターは、ステファンの言葉をわざとねじ曲げて解釈しているとしか思えなか
った。これでは会話にならない。
「しかし、我がハイデルクは不滅だ。帝国の影に怯えているどこかの小国とは違う
のだからな」
 ヘクターの言い分は相変わらず傲慢で、アストールを侮辱したものだったが、ス
テファンはかえって彼の言葉に引っかかりを覚えた。グスタフ国王は退位を考える
ほど健康が悪化しているのではないか。
「では、陛下はお元気なのですね?」
「当然だ。帝国の連中が、つまらない噂を流しているにすぎない」
「それはよかった。安心いたしました」
 ステファンがそう答えたとき、さっきの給任が再び現れた。白布でくるまれたび
んのようなものを、腕の中に抱えている。
 中を見せろというヘクターの命令に従い、給任は巻きつけられた布を解いた。琥
珀色の液体の入ったびんが現れる。
「これが何か知っているか?」ヘクターが薄笑いを浮かべる。
「酒でしょうか」
「ただの酒ではないぞ。びんの底をよく見るがいい」
 給任がステファンに、うやうやしくびんを差し出した。琥珀色の底には、細長く
て数多くの節と足を持つ茶色い虫が沈んでいる。
「これは……ベルノブラウ?」
「そのとおり、ハイデルク特産のな。だが、こいつは百年物の貴重品、大陸中を探
しても同じ物はふたつとあるまい。中の虫を見てみろ、百年前の虫とは思えないじ
ゃないか」
 ヘクターの言うように虫は干からびても腐ってもおらず、びんから出してやれば、
すぐにでも地を這うのではないかと思えるほど生々しく、琥珀色の海を漂っていた。
 何という趣味の悪さだ! ステファンは心の中で舌打ちをした。
 ベルノブラウに浸けられた物は永遠に腐敗しない。この大陸一強い酒には、そん
な伝説があった。目の前の不気味な虫を見る限り、その神話は確かなようだ。
「すぐにテーブルと椅子、グラスをふたつ用意しろ」ヘクターが給任に命じる。
「開けてしまうのですか?」
「見せるだけで終わりだと思ったのか? さて、いよいよ座興の始まりだ」
 数人の給任たちが素早くテーブルと椅子の仕度をし、純白のクロスの上にふたつ
のグラスとベルノブラウのびんを置いた。
幾人かの貴族たちが、ただならぬ様子に気づいたようで、声をひそめて囁き合い
ながら周囲に集まってくる。彼らの上気した顔には、好奇心がありありと浮かんで
いた。
「早く座れよ、皆が待っているぞ」
 そう促されて、ステファンは椅子に腰掛けた。虫の入った酒など飲みたくはなか
ったが、今は我慢するしかない。
「ちょっとした勝負をやろうじゃないか。そうだな……ベルノブラウをグラスに注
いだとき、この虫が入ってしまったほうを負けとしよう。敗者は虫ごと飲み込まね
ばならない。どうだ、面白そうだろう?」
 ヘクターは口許を歪めて笑い、びんの下のほうを指差した。貴婦人たちの間から
口々に小さな悲鳴が上がる。
「恐れながら、私は殿下と競い合うつもりはありません。共に祝杯を上げるおつも
りなら……」
「臆したな、ステファン王子。虫の死骸が怖いか」
「私は臆してなどおりません。そのような飲み方は、殿下のお身体にも障ります」
「違うな、君は負けを恐れてるんだ。皆の前で恥をかきたくないから」
 ヘクターはどうしても、この馬鹿げた座興にステファンを巻き込みたいらしい。
「わかりました。そこまでおっしゃるのなら、お付き合い致しましょう」
「皆はどちらが勝つと思う? このハイデルクのヘクターか、アストールのステフ
ァン王子か」
 ヘクターは周囲を見回して言うと、びんを手に取り、ステファンのグラスに琥珀
色の液体を勢いよく注いだ。虫はびんの口のほうへと移動したが、グラスの中には
落ちなかった。
「ふん、運がいいじゃないか」
「恐れ入ります」
 ステファンは静かに答え、ヘクターのグラスにベルノブラウを注いだ。虫は移動
を繰り返しただけで出てこない。周囲で静まり返っていた貴族たちが、安堵とも失
望ともつかない溜め息を洩らす。
「乾杯だ、ステファン王子」
 グラスを持つヘクターの手が、微かに震えていた。

 勝負が引き分けに終わったのは、夜もかなり更けたころだった。虫はグラスの中
に落ちず、ベルノブラウがびんの底わずかに残ったところで、ヘクターが先に昏倒
したのだ。祝宴は中断され、大騒ぎになった。
 ステファンは騒ぎの続く大広間を抜け出して、バルコニーに立った。首に巻いた
スカーフの結び目を解いてしまうと、手すりに寄りかかって礼服のボタンを胸許ま
で外した。ベルノブラウで熱くなった身体を冷ますように、夜気を深く吸い込む。
「ステファン様!」
 声のしたほうに目を向けた。アランが金髪をなびかせて駆けつけてくる。
「こちらにおられましたか。ご気分はいかがです?」
「悪くはないよ。ところで、ヘクター殿下はどうなった?」
「ジュダが別室に運んでいます。医師が呼ばれましたから、治療を受けられるので
はないかと」
「そうか……」
 ステファンは低い声で答え、スカーフを引っ張って首から外した。
「それにしても、ベルノブラウをほとんど一本空けてしまうなんて、おふたりとも
どうかしていますよ。おまけに中の虫を飲み込むとか何とか……、悪趣味にもほど
があります」
 アランは眉をひそめて言い、ステファンの手からスカーフをさり気なく受け取っ
た。
「だが、あれは向こうが勝手に言い出したことだ。かといって逃げるわけにもいか
ないし。とにかく、虫を飲まずに済んでよかったよ」
「本当に困ったお方ですね、ヘクター様は。昔と少しも変わらない」
「ああ、全くだ。よほど私がお気に召さないらしい」
立太子式は終わったか?
あの屈辱的な台詞が耳許で蘇り、ステファンは唇を噛んだ。相手がハイデルクの
皇太子でなかったら、その場でぶちのめしていただろう。
「どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない」
 ステファンはそっけなく答えて夜空を仰いだ。白く輝く月が美しい。天空の球体
がもたらす清浄な光が、突然ミレシアを思い出させた。
「きれいな月だ……」
「そうですね。今夜は一段と明るいかと」
 ステファンはため息をつき、今度は自分の足許に目を落とした。
 ミレシアに逢いたい。彼女の歌を聞けたなら、どんなに心癒されるだろう。だが
それは、かなわないどころか口にも出せない願いだった。再びため息をつく。
「大丈夫ですか? ご気分がお悪いのではありませんか?」
「そうじゃない」
「念のために、医師の診察をお受けになられたほうがいいのでは」
「必要ない」
「お言葉ではございますが、お倒れになってからでは遅いのですよ。ベルノブラウ
は普通の酒と違い、酒毒があるといわれて……」
「うるさい! 自分の身体ぐらい自分でわかる!」
 ついカッとして言い放った瞬間、ステファンは後悔した。自分でも決まりが悪く
てアランに背を向ける。こんなことは初めてだった。
「……差し出がましい口を利き、申し訳ありませんでした」
「いや……、怒鳴ってすまなかった」
 ステファンは謝罪の言葉を口にすると、肩越しに振り返ってアランを見た。美貌
の青年は悲しげに目を伏せている。
「もう少し酔いが覚めたら、中に戻るよ。それまでの間、ひとりにしてくれないか」
「かしこまりました。御用の際には、いつでもお呼び下さい」
 アランは落ち着いた声で答え、一礼して素早く去っていった。
 冷たい夜風が吹く。ステファンはボタンをもうひとつ外した。声を荒げたときの
後味の悪さがまだ残っている。
 アランはいつものように主人の身を案じてくれたのだ。それをわかっていながら、
大人げない反発をした自分が恥ずかしかった。
 再び夜空を仰ぐ。
 ミレシアは今頃どうしているだろうか。もう眠ってしまっただろうか、いや……
まだこの城にいるのだろうか?
 心臓の鼓動が急に早くなったような気がして、ステファンは胸に手を当てた。ベ
ルノブラウの酔いとは異質の、甘美で切ない苦しさが溢れてくる。
「ここにいたのか。捜したんだぞ、ステファン」
背後でフィリスの声がした。この場所で物思いにふけるのは無理があるようだ。
「すまない、フィリス。祝宴を台無しにしてしまって……」
 ステファンは手すりを背にして向き直ると、友に対して素直に詫びた。
「君が謝ることはないさ、ヘクターのほうから仕掛けてきたって話じゃないか。そ
れに彼は君を侮辱したんだろう? 近くにいた連中から聞いたよ。誰も止めに入ら
ず、私に知らせることもしなかった。ギルトの貴族は腑抜けばかりだ」
「だが、彼の挑発に乗ってしまったのは私だよ」
「ヘクターの奴、イディオンのときも君に絡んだだろう? いったいどうして君を
目の敵にするのか、私には理解できないね。あんなのが遠戚だなんて、信じられな
いよ」
 フィリスはステファンの隣に立ち、唾でも吐き捨てるように言った。
「彼の具合はどうなんだ?」
「飲んだ酒は残らず吐かせたが、意識がまだはっきりしなくてね。容態が急変する
こともありえるから、施療院に運ぶことにしたよ。君のところのジュダ、もう少し
貸してくれないか?」
「ああ、別にかまわない」
「よかった。ヘクターはあの体型だからね、ジュダがいると助かる……いや、そん
なことより、気分はどうだ? 具合が悪くなったらすぐに言ってくれ。体質によっ
ては、ベルノブラウの酒毒にやられることがあるから」
「ありがとう、たぶん大丈夫だと思う」
「無理はしないでくれよ」
 フィリスはそう言うと、ステファンの肩を軽く叩いた。
「さて、そろそろ中に戻ろうか。マリオンが心配している」
「あの……ちょっと待ってくれ、フィリス」
「どうした? やっぱり気分が悪いのか?」
「違うよ、ただ……訊きたいことが……」
 ステファンは急に口ごもって下を向いた。胸の鼓動が再び早くなる。
「昨日、城に泊まった学者がいると思うんだが……」
「ああ、いるよ」
 フィリスは拍子抜けするほどあっさりと答えた。
「できれば……その学者の名前を教えてくれないか?」
「何でそんなことを訊くんだ?」
「いいから早く教えてくれ」
「変な奴だな。シド博士だよ」
「じゃあ、博士にはその……連れがいたはず……」
「なんで知ってるんだ? 確かに孫娘と一緒だったが」
 やった、とうとう突き止めたぞ!
 小躍りして喜びたい気分だったが、フィリスにはまだ訊きたいことがある。ステ
ファンは高揚する己の心を落ち着かせようと、深く息を吐いた。
「顔が真っ赤だぞ、ステファン。本当に大丈夫なのか?」
 フィリスは心配そうな声で言い、ステファンの顔を覗き込んだ。
「私のことはいい、シド博士は……まだ城内に?」
「いや、もう帰ったよ。例の拓本を預かってもらったんだ」
「そうか、いないのか……」
 期待した分、落胆は大きかった。足許が急にふらつくのを感じて、手すりを握り
しめる。
「ずいぶんがっかりしてるなあ。博士に用でもあったのか? 言っておいてくれた
ら引き止めたのに。私でよければ、君の用件を伝えておくよ」
「いや……」
 もういいんだ、と言いかけてステファンは口をつぐんだ。ミレシアが博士と一緒
に来たということは、ふたりは同じ家に住んでいる可能性がある。もし別々に住ま
いを構えていたとしても、それほど遠くはないだろう。
 シド博士の家に直接行く。結果はわからないが、やってみる価値はある。
「博士の家はティファにあるのか?」
「ティファの外れ、南側の薬草畑が広がっているところだ。確か、家の近くには大
きな笠松があったはず。自分から訪ねて行くつもりか?」
 フィリスは怪訝な顔をした。博士の孫娘に逢いたいからとは、さすがに言えない。
「ええと……、ちょっと礼を言いに……」
 ステファンは口ごもりなから、苦しまぎれの台詞を呟いた。顔がますます紅潮し
てくるのが自分でもわかる。
「礼だって?」
「昔……、まだ子供の頃、博士に怪我の治療をしてもらったことがあって」
「それは初耳だな」
「まだ話していなかったか? とにかくギルトに来たから、当時の恩を……」
「わかったわかった、その話は明日にでも聞かせてもらおう。今夜は何も考えずに
ゆっくり休めよ」
 フィリスは人の良さそうな笑みを浮かべ、ステファンの背中を軽く押した。

 翌朝の体調は最悪だった。頭痛と胃の不快感がひどく、食事を摂るどころかベッ
ドから起き上がることもできなかった。
 昼すぎにはようやく身体を起こせるようになったが、食欲はなく、頭痛も小康状
態になっただけで、完全に回復したわけではない。だが明日帰国する前に、シド博
士の家を訪ねるという離れ業をやらなければならないのだ。でなければ、ミレシア
に逢える機会は永遠に失われてしまう。
 ベッドに腰かけたステファンの前には、可動式のテーブルが据えつけられ、その
上には昼食が乗った銀盆が置いてあった。どの皿からも湯気が立ち上っていたが、
手をつける気にはなれない。
「ヘクター様は大変なことになっているようですよ」
 アランがグラスに水を注ぎながら言った。
「どういうことだ?」
「ジュダの話では、ベルノブラウの酒毒に当たってしまわれたとか。肝臓が腫れた
上に、全身の皮膚には湿疹が出ているそうです。医師たちが解毒薬を差し上げてい
るようですが、ご回復までにはかなり時間がかかるでしょうね」
「気の毒に。ベルノブラウは悪魔の酒だな」
 ステファンは嘆息して呟くと、水の入ったグラスに手を伸ばした。一口だけ飲み、
グラスを銀盆の上に戻す。
「おっしゃるとおりですね。でも他人ごとではないのですよ。ステファン様も、同
じ量のベルノブラウをお飲みになったのですから。明日にはここを出発しなければ
なりませんし、今日一日はご静養なさって、体調を整えていただかなくては」
「わかってるよ。それより、早く皿を下げてくれ」
「お召し上がりにならないんですか?」
「いらない。食べ物の匂いが鼻について、かえって胸がむかむかしてくるんだ」
 ステファンは顔をしかめて言い、胃のあたりをさすった。
 アランが言いつけに従い、昼食の銀盆を持って部屋を出ていくと、ステファンは
立ち上がってガウンを脱いだ。少しふらつく感じがあったが、一日中寝込んで病人
の真似ごとをしている暇はなかった。


       第六章 予感

 薬草畑の向こうに大きな笠松を見つけたのは、日が傾いて、西の空が赤く染まり
始めた頃だった。フィリスの言うとおりならば、もう少しでシド博士の家が視界に
入るはずだ。
 ステファンは手綱こそ握ってはいるものの、その体力は限界に達していた。途中
で何度か休んだにもかかわらず、身体の状態は今朝よりも悪い。馬上で揺さぶられ
たのがまずかったのだろう。
 笠松の陰から二階建ての古い家が現れる。扉を叩く前に何をどう話すか、決めて
おかなければならなかった。自分の身分、訪問の理由など。
 本当は……ミレシアが欲しい。真実を伝えたら博士は何と言うだろうか、いやそ
れよりもミレシア自身はどう思うのだろう。
 ステファンはこめかみに手を当て、ひとり苦笑した。ベルノブラウの酔いに引き
ずられるようにして、ここまで来てしまったが、今さら戻るつもりもない。
 当たって砕けろ、だ。
 馬が家の手前まで進んだところで、ステファンは手綱を引いた。フードを外し、
建物を見上げる。
「あっ」
 思わず声が洩れた。二階の窓を、一瞬何かが過ぎったような気がしたのだ。再び
目を凝らして窓を見たが、何の変化も見られない。ついに幻覚まで見るようになっ
たかと思う。
 あたりは夕闇が広がり始めていた。急がなければ。だがステファンは馬から降り
ても、すぐに歩くことはできなかった。吐き気と胸苦しさに加えて、周囲の景色ま
で歪んで見える。
 それでも歯を食いしばり、足を一歩踏み出したときだった。蝶番を軋ませて扉が
開いたのだ。
ステファン!
 忘れ得ぬ、あの声。駆け寄ってくる少女の姿。金褐色の長い髪と美しい緑の瞳。
全てはベルノブラウが見せる幻なのか……。
「ステファン!」
 華奢な身体が腕の中に飛び込んでくる。少女の体重を感じた瞬間、ステファンは
彼女を抱きしめた。夢ならば永遠に覚めないで欲しい。
「どうして私の家がわかったの?」
「人に……、訊いて……」
 息苦しくて、それだけ答えるのがやっとだった。ミレシアの顔がぼやけてくる。
「顔が真っ赤よ」
 ミレシアは驚いたような声を出すと、手を伸ばしてステファンの額に触れた。
「すごい熱! すぐ家の中に入って」
「……でも」
「いいから早く! 大変だわ!」

 ステファンは結局、ミレシアの肩にすがるような格好で家の中に入った。床や壁、
家財道具の何もかもが、引き伸ばした水飴のように歪んで見える。
「ちょっと狭いけれど、ここで横になって」
 ミレシアに言われるがまま、ステファンはマントと剣帯を外して、ソファーに身
体を横たえた。胸を圧迫されるような苦しさが増し、胃のあたりに限局していた痛
みが腹部全体に広がっていく。ベルノブラウの酒毒が回り始めたのだと直感した。
くそっ、ヘクターの奴!
 ステファンは痛みに顔をしかめながら、心の中で毒づいた。こうして唸っている
間にも、貴重な時間が無駄になっていくのだ。
 ミレシアは何をしているのか。物音のするほうに目を向けてみたが、視界は急速
にかすんで、人影らしいものがゆらゆらと動いて見えるだけだった。
 シド博士はどこにいるのだろう。話さなければならないことがあるのに。
「博士は……?」
「おじいさまなら、お弟子さんのところに行ってるわ。あなたはおじいさまのこと
を知ってるの?」
「……まあね。君はひとりで留守番を? 他に家族は……」
「いないわ。おじいさまと私のふたりだけ」
「……そうか」
 ステファンはかすれ声で呟き、肩を上下させて苦しい呼吸を繰り返した。ちょっ
としゃべりすぎたらしい。
 どこかで水音がした。目のかすみはさらにひどくなり、まるで霧の中にいるよう
だ。瞳を凝らしても、部屋の中はおろかミレシアの姿さえもわからない。視力への
 不安が胸を過ぎる。
 だが、閉ざされようとする視界の片隅で、何かが白く光っているのに気づいた。
最初はろうそくの明かりかと思ったが、頻繁に動くところをみると違うようだ。そ
の光がふいに近寄ってくる。
「気分はどう?」
 額にひんやりとした感触を覚えた。
「こんな身体で馬に乗るなんて無茶よ」
「どうしても、君に逢いたくて……」
「私に?」
 ステファンは薄く笑っただけで何も言わなかった。口の中が渇いて舌がうまく回
らない。水を飲ませてもらえばいいのだろうが、今の腹具合では少しの刺激でも吐
いてしまいそうだった。
「ステファン……」
 声が震えていた。彼女は困惑しているのかもしれない。光が輝きを増し、視界全
体が真っ白になった。
「ミレシア……、どこだ?」
 宙に向かって手を伸ばしてみる。目でミレシアの姿をとらえることは諦めていた。 
「ここよ、すぐ側にいるわ」
 冷たい両手がステファンの手を優しく包みこむ。
「……眩しいな」
 ステファンは弱々しく呟いて目を細めた。呼吸の苦しさや腹痛が続いているにも
かかわらず、意識がぼんやりとしてくる。
 ステファン!
 ミレシアの声が急に遠くなる。
 もうこれ以上、目を開けてはいられなかった。
 
 笠松の下で、アランは手綱を引いた。目の前にはシド博士の家があり、その一階
の小窓からは僅かな明かりが洩れている。扉の近くでは見覚えのある馬が、月明か
りに照らされながら主人の帰りを待つ。
 ここにおられるのは間違いない、と思った。昼間の体調の悪さを考えれば、ここ
までたどり着けたことは幸運だったのかもしれない。しかし主人の無事な姿を見る
までは安心できなかった。
 アランは表情を険しくして家を睨んだ。主人が身体の不調を押してまで外出した
理由には、うすうす見当がついている。そして自分には何も告げなかったわけも。
 主人の友である大公はいろいろと語ってくれた。シド博士の家の所在を訊いてい
たこと、昨日城に宿泊した博士には孫娘という連れがあったこと……。
 アランは己の胸に手を当てた。あの化け物に切り裂かれた身体を治療し、命を救
ってくれた人物を思う。博士がいたからこそ今の自分がある。だが、それと今度の
こととは全く別の問題なのだ。
 何としても今夜中に城へお帰りいただかなくては。
 意を決し、黒いマントの裾をひるがえして馬から降る。音を立てないよう、猫さ
ながらの足取りで家に向かって歩いた。
まず、小窓に忍び寄る。肩を壁にくっつけて中の様子を伺う。
 最初に見えたものは粗末なテーブルだった。その上には古びた燭台と手桶が置か
れている。部屋全体を見渡したくても、小窓の半分を覆うカーテンに阻まれてしま
い、それ以上は無理だった。やはり中に入るしかないようだ。
「覗きは感心しねえな」
「誰だっ!」
 素早く身体の向きを変え、剣の柄に手を掛けて身構える。
「シッ、声がでかい。俺だよ、俺」
 声の主を月明かりが照らし出す。熊と見紛うばかりの大きな男。
「ジュダ! お前いつの間に……」
「静かにしろよ、バレちまう」
 ジュダはそう囁いて人差し指を己の唇に当てた。
 誰にも告げず、ひとりで来たつもりだった。この大男はおそらく後を付けてきた
のだろう。全く気づかなかった自分に腹が立つ。
「で、ステファン様は……アラン、伏せろ!」
 ふたりが地面に伏せるのと同時に、小窓が開いた。身を固くして息を殺す。
「誰? そこに誰かいるの?」女性の美しい声がした。
 アランは唇を噛んだ。主人を連れ戻しにきたはずなのに、どうしてこんなところ
で這いつくばっていなければならないのか。
「空耳だったのかしら……」
 ほどなく小窓の閉まる音がした。ジュダが安堵のため息を吐く。
 ふたりとも無言で身体を起こし、腰を屈めた状態ですぐに家の側を離れた。笠松
のところまで引き返して、太い幹の影に身を寄せる。
「危なかったな」とジュダが言う。
「私は見つかってもよかったのだ。そのほうがかえって話が早くなる」
 アランは半ばふてくされた顔をすると、両腕を胸の前で組んだ。
「話がややこしくなる、の間違いだろ? 御用学者の家に押し入ったらマズいんじ
ゃねえのか」
「押し入るだって? 人聞きの悪いことを言うな。私はきちんと名乗って……」
「もし女が信用しなかったらどうする? ステファン様に何とかしてもらおうなん
て思うなよ」
 ジュダが白い歯を見せて、にやりと笑う。アランは反論せず、ぷいと横を向いた。
「やっぱりな、アランは短気でいけねえ。物事には頃合いってもんがあるのよ」
「どうしてあそこがシド博士の家だと?」顔を背けたまま尋ねる。
「大公様は人が良すぎる。もっとも、ハイデルクの馬鹿と同じでも困るがな」
 ジュダの声は笑いを含んでいた。アランは組んだ腕を解いて嘆息するしかなかっ
た。内密にして欲しいと頼んだのに。
「ところで、ステファン様は確かに部屋の中にいらしたのか?」
「いや、そこまでは……カーテンが邪魔で見えなかった」
「ふうん。まあ、用が済めばお出ましになるさ。気長に待とうぜ」
 ジュダはそう言って、大きなあくびをした。
「冗談じゃない、悠長に待っていられるか!」
「大声出すなって。何でそんなに熱くなってるんだよ」
「私はいろいろと考えているんだ」
「はぁ? 何を考えようがお前の勝手だけどよ、少しぐらいステファン様を自由に
して差し上げてもいいじゃねえか」
「駄目だ! 特に今夜は」
「どうして? こっそり出かけたからか? 学者の家に行っちゃ……あっ、そうか。
お前がピリピリしてるのは、さっきの女のせいか。きれいな声だったなあ」
 アランは何も答えず、例の小窓に厳しい視線を注いでいた。
「もしお前の想像どおりだったとしても、一夜の戯れみたいなもんだろう。目をつ
ぶっておけよ」
「戯れで済めばいいがな」
 アランは小窓から目を離さず、低い声で呟いた。
「どういう意味だ? 何か知ってるなら教えてくれよ」
 本当は誰にも話したくなかった。ため息を吐いてから口を開く。
「昨日の夜……、ステファン様の部屋から女の話し声がしたんだ」
「何だって!? さっきの女と同じ声か?」
「わからない」
 アランは首を小さく横に振った。
「でも、確かに女の声だった。それにステファン様の寝間着には、微かだが女物の
香水の匂いがした」
「お前、寝間着を嗅いだのかよ」
「茶化す気ならもう何も話さないぞ」
「悪い悪い、続けてくれ」
 ジュダは笑いながら言うと、アランの肩を軽く叩いた。この大男は今回の騒動を
楽しんでいるようだ。アランはますます不機嫌になり、眉間にしわを寄せて渋面を
作り押し黙った。
「結婚式に遅刻しそうになった一件にも、あの女が絡んでる。ようするに、お前は
そう言いたいんだろ?」
 ジュダは事もなげに言って肩をすくめた。
「……そうだ」
「言われてみれば、屋上を散歩していて遅れたっていうのはちょいと変だな」
「ステファン様のシャツの袖には、金褐色の長い髪の毛が一本付いていた。それが
動かぬ証拠だ」
「何で昼間に言わなかったんだよ」
「そんなものを出さなくても、真実を話していただきたかった……」
 アランはうつむいて呟くと、ジュダに背を向けた。
「お前がお袋みたいに責め立てるから、ステファン様も意固地になったんじゃねえ
のか? だけどよ、ステファン様はあの女といつ知り合ったんだ? 城の侍女あた
りならまだわかるが、学者の孫だぜ。お前の推量を元にして考えると、ステファン
様は俺たちも気づかないうちにあの女と知り合いになって、その日のうちにご自分
のものにしちまった。朝が来ても別れられなくて、屋上で逢い引きしてたら、遅刻
しそうになったっていうことになるぞ。ギルトには昨日着いたばかりなのに、そん
な芸当ができるか?」
「ならばどうして、ステファン様はあの女の家にいらっしゃるのだ!」
 アランは振り向きざまに荒々しい声で言い放った。
「知らねえよ、俺にわかるわけねえだろうが」
 ジュダも顔をしかめて言い返す。
「ステファン様のご体調は良くないんだ。お食事も召し上がっては下さらないし。
出会いのいきさつはともかく、あんなお身体でお出かけになるなんて尋常ではない。
ジュダ、私はもう行くぞ。一刻も早く城にお戻りいただくのだ。これ以上無駄話を
してはいられない!」
「ちょっと待てよ」
 ジュダは家に向かおうとするアランの前に立ちふさがった。
「どけ、ジュダ!」
「アラン、落ち着いて聞けよ。ステファン様があの女といい仲になっても、所詮身
分が違う。愛人にしたくても、女は外国人だからそれもできねえ。法律上の問題が
いろいろあるからな。学者のじいさんがまともな奴なら、今ごろふたりを説得して
るはずだ。これっきりにしろってな」
「だといいが……」
 アランは気弱な声で呟いた。
 ギルト公国とは、とことん相性が悪いらしい。この国に入ると、いつも何かが起
こるのだ。主人が闘技場で剣闘士相手に無謀な試合をしたり、戴冠式を嫌がる皇太
子の説得を引き受けたりするたびに、寿命の縮まるような思いをしてきた。
「今度は酒と女か……。ギルトに来ると、ろくなことがない」
 深い溜め息を吐き、みぞおちのあたりに手を当てる。胃の調子が変になっていた。
「そりゃ気の毒に。とにかく短慮は禁物だ、様子を見ながら慎重に行動したほうが
いい」
 ジュダは妙に真面目な顔をして言った。

 ……ステファン……
 誰だ、私の名を呼ぶのは?
 暗闇の中心に生まれた淡い光が、次第に大きくなっていく。
 ここはどこだ、私は何をしているのだ?
 ……目を覚まして……
 その声は……ミレシア!
 ふいに身体が吸いこまれるような気がした。はっとして目を開ける。
「ステファン!」
 視界の中に愛しい少女の顔があった。そうだ、ここはシド博士とミレシアの家な
のだ。
「よかった……、気がついてくれて」
 ミレシアは大きな目を潤ませて言い、ステファンの肩にゆっくりと頭をもたせか
けた。微かだが、花のような甘い匂いが鼻をかすめる。
「ミレシア、君はずっと私の側に……?」
 かすれ声で、おずおずと尋ねてみる。少女は顔を上げずに黙ってうなずいた。
「すまない、面倒をかけてしまって」
 何という不甲斐なさだろう。ベルノブラウに負け、肝心な話をする前に気を失っ
てしまったとは。これではアストールの名折れだ。

                              (4)へ続く




#127/598 ●長編    *** コメント #126 ***
★タイトル (pot     )  02/12/14  23:02  (499)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(4) 佐藤水美
★内容
 ステファンはやれやれとばかりにため息を吐き、額に手をやった。濡れた手巾が
指先に触れる。
 冷やしてくれたのかと、ミレシアをいじらしく思う。
 額の手巾を自ら取り外したとき、ステファンは身体の不快な症状が、いつの間に
か全て消えていることに気づいた。よく眠ったあとの爽快感にも似て、あまりにも
自然だったために、かえってわからなかったのだ。
 手巾を胸の上に置き、自分の手を目の前にかざす。近づけたり遠ざけたりしてみ
る。かすんだり、ぼんやりしたところはなく、いつもと同じだった。とはいえ視力
に不安を覚えるほど、目がかすんで見えなくなったのは事実なのだ。
 視野いっぱいに広がった白い光、あれはいったい何だったのか。だが体調が元に
戻った今、それを追及するよりシド博士と話をするほうが先だった。
「ところで博士は……」
 帰って来たのかと続けようとして、ステファンは口をつぐんだ。ミレシアの肩が
小刻みに震えている。
「ミレシア、どうした?」
 答えはなかった。ステファンはためらいがちに手を伸ばし、金褐色の髪にそっと
触れた。上質の絹糸のように滑らかで、しかも柔らかい。
「何か言ってくれないと、わからないよ」
 髪を撫でながら囁く。その言葉に反応したのか、ミレシアは急にしゃくり上げ始
めた。
 まさか、泣いている?!
 自分はミレシアの気に障るようなことを言ったのだろうか。この家の中で口に
した言葉を、あれこれ思い浮かべてみる。
「……迷惑だった?」
 ステファンはミレシアの髪から手を離し、覚悟を決めて言った。思い当たること
といえば、それしかない。結果はどうであれ、彼女の本音を聞きたかった。
「違うの……」
 ミレシアは幼子のような仕草で首を横に振ったかと思うと、両手で顔を覆い、ふ
いに身体を起こしてまっすぐに立った。見られたくないのか、ステファンに背中を
向ける。
 何が違うというのだ。
 ミレシアの気持ちがわからない。ステファンは不安を抱えたまま上半身を起こし、
掛けてあった毛布を跳ね除けた。床に落ちた手巾を拾い、おもむろに立ち上がる。
 こんなときは、どうしたらいいのだろう。ベルノブラウがすっかり抜けた今、少
女の肩を抱くのにも勇気が必要だった。話しかける言葉を捜して、小窓のほうに目
を向ける。外はすでに真っ暗になっていた。
 この家に来て、どれほどの時間が流れたのだろう。ステファンは小窓へ歩み寄り、
カーテンを静かに開けた。月は中天にかかっている。
 シド博士はまだ帰宅していないようだが、ステファン自身の持ち時間にも限界が
あった。城では、行方不明になった自分を捜しているに違いない。
「……ステファン」
 ミレシアの声がした。肩越しに振り向いて少女を見る。
「ごめんなさい……」
 うつむきかげんで呟くと、両手の指でしきりに頬を拭う。ステファンはミレシア
のほうに向き直り、穏やかな声で言った。
「君が謝ることはないよ。私のほうこそ世話になった」
「来てくれて……嬉しかったの。だけど私のせいで、あなたに無理をさせてしまっ
て……」
 ミレシアの声が震え始め、その目には新たな涙が浮かぶ。
「違う、君のせいなんかじゃない」
 ステファンは語気を強めて言い、首を横に振った。あのくだらない座興に付き合
った自分自身のせいなのだ。
「君が看病してくれたおかげで、身体はすっかり良くなった。もう何ともない」
「本当に?」
 ミレシアは信じられないとでも言いたげに、潤んだ目を大きく見開いた。
「だって私、特別なことは何も……」
「嘘じゃないよ」
 ステファンは少し笑って言うとミレシアに近寄った。手巾をテーブルの上に置き、
少女の未だ濡れている目元を指でそっと拭う。
「もう泣かないでくれ」
 懇願するように告げた声は、微かに震えていた。かつてこんなふうに、自分のた
めだけに涙を流してくれる存在があっただろうか。蔑まれ、陰口をたたかれる日々
に安らぎはなかった。
 ミレシアを離してはいけない、絶対に!
 沸き上がる想いに突き動かされ、ステファンはいきなりミレシアの身体を抱きし
めた。あっ、という細い声が耳をかすめても、腕に入れた力は緩めなかった。
「私は初めて逢ったときから……君を……」
 心臓の鼓動が急に速くなる。次に続く台詞は決まっているのに、喉元でつかえて
しまったように出てこない。
 拒絶されるのが怖かった。相手の本心が知りたいと願いながらも、心は臆病な野
うさぎのように震えている。
「好きになっても……いいか?」
 それが勇気を振り絞って発した、精一杯の言葉だった。ミレシアはこくりとうな
ずき、ステファンの胸に顔をうずめた。
「嬉しい、でも……」
「でも?」
「あなたはどこから来たの? ティファの人じゃないでしょ?」
 ミレシアはふいに固い口調で言い、顔を上げた。ステファンを見つめる大きな目
は、朝露に濡れた若葉のようだ。
「ああ……私は確かにティファの、いやギルトの人間じゃない。アストールから来
たんだ。隠すつもりはなかったが、その……何となく言いそびれてしまって」
「アストール……遠いのね……」
ミレシアは力なく呟いて目を伏せた。
「だが、どうして私がティファの出身ではないと?」
「話したときの抑揚が、ちょっと違うから」
「驚いたな……」
 そんなことを言われたのは初めてだった。大陸ではアベンドと呼ばれる共通語が
使われているが、国ごとによる明らかな違いはない。多少の例外はあるにせよ、均
質すぎるくらいである。ステファン自身はフィリスやヘクターと話しても、そのよ
うな差異を感じるどころか意識したことすらなかった。
 しかし言語が使用される地域、あるいは階級ごとに特色を帯びることは、決して
不思議な現象ではない。ミレシアは耳がいいのだろう。あのビューロの腕前を考え
れば、当然なのかもしれなかった。
「いつまでいられるの?」
 ミレシアの発した問いに、ステファンは即答できなかった。彼女の視線を受け止
められずに、目を逸らす。頭の中から抜け落ちていた現実のさまざまな問題が、一
気に蘇ってくる。
「……行ってしまうのね」
ミレシアはそう呟いて溜め息を吐いた。
「アストールに帰ったら、きっと……私のことなんか忘れてしまうわ」
「その程度のことで君を忘れるくらいなら、ここには来ないよ」
 ステファンは感情をこめて言うと、背を少し屈めてミレシアの額に口づけた。
今こそ、真実を言わなくては。自分が何者であるのかを。
 だが心の中とは裏腹に、言葉にはできなかった。ほんのちょっとでも漏らしたら、
ミレシアを失うような気がしてならないのだ。
 喪失の痛みと罪悪感のどちらを選ぶかは、迷うまでもないことだった。
「私は君と一緒にいたい。今だけじゃなく、これから先の人生もずっと」
「でも、あなたは……」
と、ミレシアは言いかけてふいに口を閉じた。白い頬がたちまち赤くなった。
「本気なの?」
「冗談でこんなことは言わないよ。私とアストールへ行こう、もちろんシド博士も
一緒に」
 口にした台詞を実行するのは容易でないことぐらい、ステファンにもわかってい
た。無理を押し通せば、ただでさえ少ない自分の味方を、ひとり残らず敵に回すは
めになるかもしれないのだ。
それでもかまわない、ミレシアさえ傍にいてくれたら。
「本当に……私なんかでいいの?」
「君じゃなきゃ駄目だ」
 自分自身を鼓舞するように力をこめて答え、両手でミレシアの頬を包んだ。潤ん
だふたつの目がステファンを見つめている。
「目を閉じて、ミレシア」
 少女は訝りもせず素直に瞼を閉じた。
 押し寄せる恋情にまかせて、ステファンは花びらのような唇を吸った。

 アランは笠松の陰からシド博士の家の監視を続けていた。一方のジュダは、大き
な身体を可能な限りに屈めて、小窓の真下に張りつき、首をいっぱいに伸ばして中
の様子を伺っている。
 風に揺さぶられた笠松の枝が、ざわざわと音を立てた。アランは苛立ちのあまり
片足を踏み鳴らし、しかめっつらをしてジュダを睨んだ。
 主人の姿が見えたら合図を送る手はずになっているのに、あの大男は小窓のとこ
ろで間抜けな彫像のように固まって動かなかった。まさか約束自体を忘れてしまっ
たわけではあるまい。
 これほど気をもむくらいなら、自分が窓辺に行けばよかったと後悔した。ジュダ
の目には、主人以外の誰が映っているのだろうか。
 今、家の中には少なくとも三人の人間がいるはずだった。主人、シド博士、そし
て問題の孫娘。
 いったいどんな女なのだろう。ジュダと同じように、声だけはきれいだとアラン
も思った。だがそれだけでは年齢や顔立ちはおろか、生まれ持った気質や教育の程
度など、肝心なことは何ひとつわからない。主人が追いかけていくほどなのだから、
それなりの魅力はあるのだろうが。
 ジュダは相変わらず窓のところに張りついて微動だにしない。再び風が吹いて笠
松がざわめく。
 遅い、遅すぎる。あいつは何故、覗き込んだまま動こうとしないのか。
 その理由について考えを巡らせたとき、アランは突然不吉な予感を覚えた。幸か
不幸か、こういうときの自分の勘は必ず的中するのだ。静かに見える家の中では、
ジュダが約束を忘れてしまうような、取り返しのつかない何かが起こっているに違
いない。
「くそっ、あの馬鹿!」
 悪態をつき小窓に向かって駆け出した途端、ジュダが腰を屈めたまま、ゆっくり
と後ずさりを始めたのに気づいた。荒々しい足音は風の音と笠松のざわめきにかき
消され、大男はアランに気づかない。
「ジュダ! どうなってるんだ!」
 感情の高ぶりにまかせて叫ぶ。声が家の中まで通ってもかまわなかった。ジュダ
がぎょっとした表情で振り返り、身振り手振りで懸命に制止しようとしたが、その
行為は却ってアランの怒りに火をつけた。
「お前の見たものを正直に言え!」
 今にも噛みつきそうな勢いで喚き、ジュダの胸倉を引っつかんで無理やり立ち上
がらせた。
「やめろよ、いきなり何しやがる」
「言え、言わないか!」
「馬鹿野郎、聞こえちまうじゃねえか!」
 ジュダは小声ながらも叱りつけるように言い、アランの手を振り解いた。
「いったいどうしたんだよ、急に」
「お前は隠している!」
 アランは人差し指をジュダの鼻先に向け、怒りをあらわにして言い放った。
「シッ、声がでかい。俺が何を隠してるって? お前、頭がどうかしちまったんじ
ゃねえのか?」
 ジュダは両手を腰に当て、けだるそうに首を横に振った。人を小馬鹿にしたよう
な台詞と態度が、アランの神経を逆なでする。
「では訊くが、ステファン様は何をしていらしたのだ?」
「何って、その……話し合いだよ、さっき俺が言ったみたいなやつだ。話の内容を
聞こうとしたんだが、わからなかった」
 アランは押し黙って腕組みをすると、上目づかいでジュダを睨んだ。この大男の
言うことには、いつもどこか胡散臭いところがある。
「ジュダ、私との約束を覚えてるか?」
「約束? 何だっけ……あっ、あれか!」
 ジュダは明るく笑って、両手をぽんと叩いた。
「すまん、すっかり忘れてた」
「忘れただと? よくもそんな……」
「おい、静かにしろ!」
 ジュダは突然アランの言葉を遮り、自分の唇に人差し指を当てた。
「それで言い逃れをしたつもりか?」
「違うって、何か聞こえないか?」
 大男の表情は真剣だった。怪訝に思いながらも耳をすます。確かに遠くのほうか
ら、地響きのようなものが近づいてくる。
 アランは音のする方向に顔を向けた。暗がりの中に、ぼうっとした光が目玉のよ
うに浮かび上がっている。
「おい、こっちへ向かってくるぞ」
「わかってる」
 アランは短く答えると、身を翻して近くの藪の中に入った。ジュダも慌ててそれ
に続く。
 ほどなくして、光の目玉は彼らの前を通り過ぎ、家の玄関の前で止まった。
「馬車か。いったい何しに来たんだ?」
「黙ってろ」
 光の目玉の正体は、馬車にくくりつけられたふたつのランプだった。御者がその
うちのひとつを手に取り、御者台から滑るように降りた。車体の扉を開け、ランプ
で足許を照らす。
 出てきたのは、白髪の老人だった。丈の長いローブを身にまとい、筒状の入れ物
を大事そうに抱えている。ランプの光に浮かび上がった顔を見た瞬間、アランは思
わず息を飲んだ。十年の歳月など問題にはならなかった。
やがて老人が家の中に入り、馬車が去っていくと、アランは黙って藪の外に出た。
ジュダもまたそれに倣う。
「さっきのじいさんは、いったい誰だろう?」
 ジュダは首筋を掻きながら、素朴な疑問を口にした。
「……謀ったな」
 アランは大男を睨みつけ、低い声で呻くように言った。沸き上がる怒りで、顔が
紅潮し、身体が震えてくる。
「何言ってるんだよ」
「お前を少しでも信じた私が馬鹿だった」
「ちょっと待ってくれよ、そんなに怖い顔するなって。俺はお前を怒らせるような
ことなんか、何にもしてないぜ」
 ジュダの顔に薄笑いが浮かぶ。まだわかっていないのだ。
「何もしてないだと、この大嘘つきめ!」
  アランは憤怒の形相で叫んだ。こんな男に騙されたのかと思うと、悔しくてたま
らない。
「さっきのご老体こそシド博士だ!」
「冗談だろ……」
 ジュダは目を大きく見開き、気の抜けた声で呟いた。

 扉を叩く音がした。
「きっとおじいさまだわ」
 ミレシアがステファンの腕の中で囁いた。ついに来たか、と思う。
「早くお出迎えしよう。私もシド博士には、ぜひお会いしたいから」
 ステファンは笑顔で言ったものの、緊張が次第に高まってくるのを自覚せずには
いられなかった。何も知らないミレシアは、その言葉に安心したらしく、いそいそ
と玄関へ向かう。
 どんなふうに話を切り出そうか。博士にとって、たったひとりの家族である孫娘
を貰おうというのだ。そう簡単にはいくまい。
 お帰りなさい、と言うミレシアの声が聞こえる。ステファンは上着のボタンをき
っちりとめて、簡単に身支度を整えた。
「お客様がいらしてるの」
「客だと? いったい誰じゃ、こんな夜更けに」
 居間に入ってきたシド博士は、明らかに不機嫌な顔をしていた。血色もあまりい
いとは言えない。ステファンは一瞬ためらいを覚えたが、ここまできた以上、もう
後には引けなかった。
「お久しぶりです、シド博士」
 落ち着いた声で言うと、怪訝な表情を見せる老人の前に進み出た。
「リーデン城でご教授いただいたのは、十年も前のことなので、ご記憶にはないか
もしれません。それに私は、出来のいい生徒ではありませんでしたし、学問以外の
ことでご迷惑をおかけしてしまいました」
「あなたは今、リーデン城と……」
 博士はそう言いかけて、急に黙り込んだ。疲れたような顔に驚愕の表情を浮かべ
た途端、抱えていた筒状の入れ物を危うく落としそうになった。
「まさか……アストールのステファン王子!」
「当時は、いろいろとありがとうございました。今日、私がこうしていられるのは、
博士のおかげだと日々感謝しているのです」
 その台詞は誇張でも世辞でもなく、ステファンの偽らざる気持ちだった。博士は
すぐに片膝を床について身を屈め、頭を垂れた。
「もったいないお言葉でございます。ギルトにお越しとは聞き及んでおりましたが、
我があばら家にまでおいで下さるとは、思いもいたしませんでした。知らなかった
こととはいえ、このような時刻までお待たせしてしまった非礼を、心よりお詫び申
し上げます」
 博士が長い口上を述べている間、ミレシアは呆然とした面持ちで立ちつくしてい
た。ばら色の頬が無惨に青ざめ、両膝が崩れ落ちるように折られたのを目の当たり
にしたとき、ステファンは自分の行為が、いかに卑怯で身勝手なものであったのか
を思い知った。
「これにおりますは、我が不肖の孫ミレシアにございます。何も知らぬ小娘ゆえ、
数々のご無礼があったことと存じますが、この老いぼれに免じて、どうかお許し下
さいませ」
「博士、立ち上がって下さい。私のほうこそ、何の連絡もせず突然伺ってしまい、
申しわけなかったと思っています」
 穏やかな口調で話しかけながらも、ステファンの心は乱れていた。自業自得とは
いえ、ミレシアの視線が痛い。
「それにミレシアには、とてもよくしてもらいましたよ」
 心ならずも白々しい台詞を口にして、ステファンは愛しい少女の顔を見た。光る
ものが浮かぶ悲しげな目を見つめ返しながら、自分の愛に決して偽りはないのだと、
今は胸の中で叫ぶしかなかった。
「過分なお褒めをいただき、ありがとうございます。ミレシア、お前もお礼を言い
なさい」
 博士がそう言ったとき、家の外で誰かが、激しく言い争うような声が聞こえた。
続いて、何かが叩きつけられたような鈍い音までする。
「い、いったい何じゃ! 何事じゃ!」
 博士は突然おびえきった様子で喚き、慌てて筒状の入れ物を抱きしめた。目の前
にステファンがいることなど、一瞬のうちに忘れてしまったようだ。ミレシアも驚
きと不安の入り交じった複雑な表情で、自分の祖父とステファンを交互に見ている。
「私が見てきましょう。燭台を借りますよ」
 ステファンはことさら落ち着いた声で告げ、テーブル上の燭台を取ろうとした。
「お、お待ち下さい! 扉を、扉を開けてはなりません!」
 博士は入れ物を抱えたまま、いきなりステファンの足に取りすがった。深いしわ
の刻まれた顔は青白く、しかも汗にまみれている。
「急にどうなされたのです? 何かご心配なことでもあるのですか?」
「そ、それは……」
「ご懸念には及びません。こう見えても、腕には自信があるのですよ」
 ステファンは笑って言い、手を伸ばして博士の肩を軽く叩いた。言い争いの声は、
いつの間にか一方的な罵声に変わっている。誰が騒いでいるのか知らないが、迷惑
な行為はやめさせなければならない。
「ミレシア、私の剣と剣帯を」
 少女は黙ってうなずき、言われたものをすぐに持ってきた。ステファンは素早く
腰に剣をくくりつけると、床に座り込んで震えている博士を立ち上がらせた。
「博士を頼む。それから念のため、ふたりとも家の奥に隠れて」
「でも……」
「いいから、早く!」
 テーブル上の燭台を手に取り、玄関へと向かう。気をつけて、と言うミレシアの
声を背中で聞いた。
 扉を開けると、冷えた夜気が流れ込んできた。燭台の火が微かに揺れる。ステフ
ァンは火が消えないように、ろうそくの部分を手でかばって外に出た。
 殺してやる、地獄に落ちろなどという、物騒な台詞が耳に飛び込んだ途端、ステ
ファンは罵声の主が誰なのかを知った。ため息を吐いて、思わず天を仰ぐ。
 声のするほうへ燭台を向けてみれば、仰向けにひっくり返って足をばたつかせて
いるジュダと、その上に馬乗りになって、相手の太い首を締めつけているアランの
姿が見える。ステファンの存在には気づいていないようだ。
 元々反りが合わず、出会ったときから喧嘩の絶えなかったふたりだが、この状態
は異常だった。互いに剣を抜かなかっただけまし、などと悠長なことは言っていら
れない。
「やめろ、アラン! ジュダの首から手を放せ!」
 ステファンは大声で叫び、走った。燭台の火が消えてしまっても、月明かりは残
る。声が届いたのか、アランがはっとしたように顔を上げ、こちらに目を向けた。
「ステファン様! ご無事で……うっ!」
 アランは突然顔をしかめるなり、地面に横倒しになった。主人に気を取られた一
瞬の隙をついて、ジュダが拳に物を言わせたらしい。
「ふたりとも大丈夫か?」
 ステファンは彼らのそばにしゃがんだ。ジュダは喉に手を当ててひどく咳き込み、
アランは腹を押さえて呻っている。
「いったいどうしたんだ?」
 ふたりとも自分を追ってここまで来たのだろうが、喧嘩の原因まではわからなか
った。
「こ、こいつ……、本気でやりやがった。くそっ、こぶまで出来てやがる」
 ジュダは喘ぎながら呟いて上半身を起こし、己の後頭部に手をやった。
「黙れ、この大嘘つき!」
 今度はアランが顔を上げて言い返す。
「ふたりともそこまでだ、私闘は許さん!」
 ステファンはきつい口調で命じ、ふたりの顔を交互に見た。
「事の子細はカスケイド城で訊く。シド博士との話が終わるまでは、絶対に騒いで
はならん。わかったな」
「博士とは、どんなお話をなされるのですか?」
 アランは腹をさすりながら上半身を起こした。眼光がいつになく鋭い。
「話の内容はカスケイド城で伝える」
「お身体の不調を押してまで、博士に会おうとなさるのは、世間話をするためでは
ありますまい」
「身体はとうに直った。アラン、何が言いたい?」
「私にはわかっているのです、ステファン様がここにいらした理由が」
「いきなり何を言い出すかのと思えば……」
 ステファンは苦笑して首を横に振った。ミレシアとのことを、アランに今知られ
るのはまずい。
「どうか、ただちにカスケイド城へお戻り下さい」
「博士との話が済んだら帰城する」
「それでは意味がありません!」
「もういいかげんにしろよ、アラン」
ジュダが座ったまま、うんざりした様子で口を挟んだ。
「お前のしつこさには呆れるぜ」
「しつこくて悪かったな! こうなったのはジュダ、お前のせいなんだぞ!」
「アラン、よさないか! ジュダもアランを刺激するようなことを言うな。とにか
く、帰城するのは話が終わってからだ。これ以上の口答えは一切許さん」
 ステファンは断固とした口調で言い放ち、立ち上がってふたりの顔を睨んだ。ア
ランが下唇を噛み無念そうな表情を浮かべたのに対し、ジュダはうつむいてため息
を吐いただけだった。
 とりあえず何とか収まりそうだと思ったとき、背後で足音を聞いた。
「あの……ステファン様……」
 ジュダが美しい声に引かれるように、顔を上げる。こちらを見るアランの目つき
が、さらに険しくなった。
 時期が悪い。だが来てしまったものを、追い返すわけにもいかなかった。後ろを
振り向くと、火のついたろうそくを持ったミレシアの姿があった。自然に目と目が
合う。 
 来てはいけなかったの? 
 言葉を交わさなくても、ミレシアの声が聞こえるような気がするのは何故だろう。
ステファンは微笑んで首を軽く振った。
「こっちにおいで」
 そう言って、ミレシアを手招きした。そばに来た愛しい少女の肩を抱く。やはり
隠すのは性に合わない。
「ご紹介していただけますね? ステファン様」
 アランとジュダが、声をそろえて全く同じ台詞を吐いた。こんなことは、もう二
度とないだろう。

 ここにいるのは不本意だった。
 アランは腕組みをして壁に寄りかかり、冷ややかな目で居間全体を見渡した。木
製の丸椅子の上に、きれいに折りたたまれた主人のマントが置いてあるのに気づく
と、絶望的な気持ちになった。
 一方のジュダは、猛烈な勢いで七個めのパンを食べ、五杯めのスープを飲んでい
る。頭に細長い綿布が巻きつけられているのは、こぶの部分に当てた湿布がずれな
いようにするためだ。
 初めて訪れた家で、どうしてあんなに意地汚く食べられるのか。アランは眉をひ
そめ、顔を背けた。
 主人はシド博士と奥の部屋に入ったきり、未だに出てくる気配がない。あのミレ
シアとかいう美少女も、ジュダに手当てを施した後、食事の給仕に呼ばれて出てく
る以外は台所に引っ込んだままだ。
 それはさておき、十年ぶりに会った博士に、幽霊でも見たような眼差しを向けら
れたのは、正直なところ心外だった。
 こう言っては申し訳ないが、あなたは長生きできないと思っていましたよ。傷の
後遺症もないとは、まさに奇跡です。神様があなたをお守り下さったのですよ。
 そうですね、ありがたいことです。
 心にもない台詞を言って笑顔を見せるときの苦しさは、誰にもわからないだろう。
 アランの知る限り、神とは気まぐれで残酷な暴君そのものだった。年端もいかな
い子供のころに、父親と引き裂かれた瞬間から信仰心は消えたのだ。主人と共に礼
拝堂でひざまずいても、それは形だけのことであり、周りが熱心に祈れば祈るほど
心が凍っていくのを感じずにはいられなかった。
 自分が死なずにすんだのは、神の加護などではない。博士の知識と技術、そして
自身の生命力が死に神に打ち勝ったからだ。
「あー、食った食った!」
 ジュダは膨らんだ腹をなでつつ満足げに言うと、大きなげっぷをした。
「食べ過ぎだ」
「城のパンやスープよりうまかったぜ。お前も食えばよかったんだ」
 ジュダはそう言って、袖で口許を拭った。どうしてこんな奴と一緒にいなければ
ならないのだろう。あの下品さがこちらにまで伝染してくるように思えて、不愉快
でならなかった。
「腹が減っていれば、どんなものを食べてもうまいだろうな」
「何言ってやがる。俺はこれでも美食家なんだぜ」
 美食家が聞いて呆れる。薄い冷笑がアランの顔に浮かんだ。ジュダはふいに立ち
上がったかと思うと、今度はソファーに寝そべった。両手両足を伸ばして、まるで
自分の家にいるようにくつろいでいる。
「だらしがないぞ」
「怪我人には優しくしろよな。お前が足払いなんか掛けるからこうなったんだ」
「油断したほうが悪い」
「言ってくれるじゃねえか。お前の相手をしてやりたいのはやまやまだが、眠くな
っちまった」
 ジュダは目をこすりながら言い、拳がそっくり入ってしまうかと思えるほど、大
きな口を開けてあくびをした。
「おい、ジュダ」
「うるせえな、寝たっていいだろうが」
「お前、小窓から何を見た?」
「何って……わかってるんだろ? 聞かねえほうがいいんじゃねえのか」
 返す言葉がなかった。ようするに認めたくないのだ。
「アラン、お前は女に惚れたことがあるか?」
「私は忙しいんだ。色恋にうつつを抜かしている暇はない」
「だろうな。訊いた俺が馬鹿だったよ」
 ジュダは再び大あくびをして目を閉じた。

 奥の部屋はシド博士の書斎兼仕事場になっていた。
「すぐに片づけますので、少々お待ち下さい」
 博士は小棚の上に燭台を置き、恐縮したように言った。慌てた様子で、机に散ら
ばった書類や羽ペンに手を伸ばす。開いたままの辞典や蓋のないインク壺もあった。
「あまり気になさらずに。私はいっこうにかまいませんよ」
「お気遣い、恐れ入ります。粗末な椅子で大変心苦しいのですが、どうぞこちらに
おかけ下さい」
 博士が片づけに専念している間、ステファンは勧められた椅子に腰掛けて、部屋
の中を見回した。
 学者の部屋らしく、背の高い本棚には様々な種類の書物が隙間なく並んでいた。
その隣には、何段もの引き出しがついた幅のある戸棚があり、天板の上には数個の
びんと白っぽい頭蓋骨が載っている。びんの中身は標本のようだが、元が何だった
のかはわからない。人体をかたどった精巧な模型が、臓物をさらして壁際に立って
いるのを見たときは、さすがに気味が悪いと思った。
「先ほどは見苦しい姿をお目にかけてしまい、本当に申しわけございませんでした」
 博士は、机を挟んでステファンと向かい合うように座るなり、謝罪の言葉を口に
して頭を下げた。
「やめて下さい、博士。あの騒ぎは私の供の者たちが引き起こしたこと、責任ある
者として、謝らねばならないのは私のほうです。どうか許して下さい」
「このような老いぼれにまで……もったいのうございます」
「監督不行き届きで、全く恥ずかしい限りです。しかし私も、彼らに黙って城を抜
け出してきたのですから、立派なことは言えません。悪かったと思っています」
 ステファンはそう言って苦笑した。ふたりとも、特にアランは血相を変えて探し
回っただろう。その姿を想像すると、胸が少し痛んだ。
「ステファン様は側近に恵まれておられますな」
 博士の顔に穏やかな笑みが広がった。
「えっ?」
「彼らにはまず、私心がありません。表現の仕方が違っていても、ふたりともステ
ファン様に対して深い愛情を持っていますよ」
 愛情という言葉を聞いたとき、ステファンは背中がむず痒くなるような気がした。
「そうでしょうか」
「人を見る目には多少自信がございます。殿下のお近くにも、そのような者がいれ
ばいいのですが……」
 結婚式の前夜、マリオンも似たようなことを言っていたのを思い出す。
「殿下に何かあったのですか?」
「いえいえ、そのような意味ではございません。ティファの学問所などから、新し
い人材が育ってくれれば、それでよろしいのです。ところで、ステファン様……」
 博士は突然声を落とし、身体を前に乗り出した。表情が一変して厳しいものにな
る。ステファンは机の下で拳を握り、次の言葉を待った。
「殿下から、石板のことをお聞きになられていますね?」
「え、ええ……聞きました」
 身体から力が抜けていくのがわかった。博士は何故、訪問の理由を訊かなかった
のだろう。聖戦士についての記述があるという、例の石板がよほど気になるらしい。
「あの石板がどうかしたのですか?」
「何からお話しすればいいやら……、あれが小さな農村の畑から見つかったのは、
ご存じですか?」
「ええ、知っています。殿下がそうおっしゃっていましたから」
「実は、石板を掘り出した農夫が、奇妙な死に方をしたのでございます」
 博士は暗い目をして言葉を紡ぎ、ため息を吐いた。
「どういうことですか?」
「石板が発見されてから三日目、その農夫は畑土の中に頭を突っ込んだ形で死んで
おりまして……」
「待って下さい、博士。頭が土の中に埋もれていた、という意味なのですか?」
「左様でございます」
「頭から勢いよく倒れたとしても、埋もれてしまうのは変ではありませんか。これ
は殺人としか思えませんよ」
「村の役人たちも、当然そう考えて調べにあたったのですが、犯人の目星すらつけ
られませんでした。死んだ農夫は男やもめのひとり暮らし、財産と言えば、わずか
な畑と粗末な家ぐらいのもので、親戚すらおりません。彼を殺して得をする者など、
誰ひとりとしていなかったのでございます。しかし犠牲となったのは、彼だけでは
ありませんでした。城まで石板を届けにきた村長も、ティファで馬車に轢かれて死
んだのでございます」
「何ですって?」
「しかも、その馬車は村長を轢いた後、忽然と消えてしまったというのです。夕暮
れ時だったとはいえ、割合と往来の多い通りで起こった事故でございましたから、
見た者が大勢おります。彼らの全員が見間違ったとは、考えにくいのでございます」
 狭い部屋が重苦しい雰囲気に包まれた。博士は懐から手巾を取り出して、額に浮
かんだ汗を拭った。
「お話を伺った限りでは、とても信じられません」
「お言葉、ごもっともでございます。私も最初に聞いたときは、我が耳を疑いまし
た。ティファの物好きたちの間では、幽霊馬車と名付けられているとか」
「この件について、殿下は何とおっしゃっているのですか?」
「村長は気の毒だったが、幽霊馬車とは面白い呼び名だと……」
 今度はステファンがため息を吐く番だった。
「そして二ヶ月ほど前に、拓本を作らせた職人にも、災いが降りかかったのでござ
います」
「また……死んだというのですか?」
「はい。工房と住居が火事で全焼いたしまして、家族共々焼死してしまったのでご
ざいます。この火事にもまた、不審な点がありました」
 発見から、わずか半年。この短い期間に、石板にかかわった者たちが次々と命を
落としていた。

                               (5)へ続く




#128/598 ●長編    *** コメント #127 ***
★タイトル (pot     )  02/12/14  23:09  (497)
アトランティック・サーガ −悲しみの大地−(5) 佐藤水美
★内容
「出火の原因は何だったのですか?」
「当初は失火と思われておりました。ところが遺体を検分した結果、頭や胸、背中
などに深手を負っていたことが、わかったのでございます。」
「では何者かが職人一家に危害を加えた後、家屋に火を放ったと……」
「そのとおりでございます。家の中にあった金品は手つかずであったといいますか
ら、強盗の仕業とは考えられません。おそらく賊は、彼らを殺すためにやって来た
のでしょう」
「犯人はまだ捕まっていないのですね?」
 ステファンは冷静に発言しながらも、内心では慄然としていた。偶然以上の何か
があるとは考えたくない。
博士は黙ってうなずくと、震える手で手巾を握りしめた。
「怪しい人影を見た者はおろか、叫び声を聞いた者すらいなかったのでございます。
いくら調べても、一家を恨んでいるような人物は浮かばず、焼け跡からも犯人に結
びつきそうな遺留物は出ませんでした。ただ少し気になることが……」
「いったい何です?」
「火事が起きる直前、黒っぽい霧のようなものが、窓から家の中に入っていくのを
見たと言う男がいたのでございます」
「黒い霧、ですか……」
 そう口に出したとき、ステファンは記憶の底から例の怪物が浮かび上がってくる
のを感じた。
 煙のように消えた漆黒の身体。奴なら自由自在に姿を変えられるかもしれない。
あの鋭い爪であれば肉体を切り裂くことなど、造作もないだろう。
「ステファン様、いかがなされました?」
「いえ、別に……。ところで他に見た者はいなかったのですか?」
「残念ながらおりませんでした。しかもその男は近隣では有名な大酒飲み、あの日
も相当な量を飲んでいたという話でしたから、彼の言うことなど誰も信じなかった
のでございます」
「博士も酔っぱらいの戯言だと思っているのですか?」
「彼の話が事実であるのかそうでないのか、私にも証明はできません。もし事実で
あったとしても、それがこの事件にどうやって繋がるのか……」
 博士は小さく張りのない声で呟くように言い、顔の汗を拭った。
「神経質すぎるとお思いになるでしょうが、嫌な予感がするのでございます」
「博士のお気持ちはよくわかります。石板をめぐる怪異がこれだけ続けば、不安に
なるのも当然でしょう」
 拓本を見せてくれたとき、フィリスは一連の事件について一言も触れなかった。
隠しているとは思いたくない。
「ステファン様は、どうお考えになられますか?」
 博士は探るような目つきでこちらを見た。
「そうですね……」
 ステファンは即答せずに言葉を濁した。目線が自然と下を向く。状況から怪物の
関与を疑ってはいるものの、それを口にするつもりはなかった。たとえ相手が博士
でも、奴の存在は決して他言してはならない秘密だった。
「全ての怪異は石板の発見から始まっています。私個人としては、もはや偶然とは
言い難いものを感じますね」
 目を上げて正直な心情を伝えると、博士は我が意を得たりとばかりに大きくうな
ずいた。
「仰せのとおりでございます。私には何か……、邪悪な意志が働いているような気
がしてならないのです」
「邪悪な意志?」
 ステファンは思わず眉をひそめた。実証主義を信条とする博士らしくない発言に、
かえって驚きさえ感じる。ただの石板に害意などあるはずは……。
 ファルテス・ペメル・モース、運命は死を求める。
 ノイ・タンデ・ガウプ・デ・アテマ、魂の器に触れるな。
 フィリスが翻訳していた部分には、確かそんな文言が書かれていた。あれは呪詛
の言葉だったとでもいうのか。
「殿下は何とおっしゃっているのですか?」
 フィリスは幽霊馬車を面白い呼び名だと言ったのだ。彼の認識がどの程度なのか
見当はついていたが、訊かずにはいられなかった。
「偶然が積み重なっただけと……」
 博士はやるせない様子で言い、深々とため息をついた。顔色がいっそう悪くなっ
たように見える。
 やはり、と思った。隠していたというより、単なる市井の事件としか見ていない
から言わなかったのだろう。フィリスは己の目で直接見るか、客観的に証明できな
ければ絶対に納得しない男なのだ。まして人間の勘など気にかけるはずもない。だ
がステファンには例の怪物に襲われた経験があった。嫁いだばかりの妹のことを思
うと、博士の危惧を見過ごしにはできなかった。
「石板は今、どこに安置されているのですか? 出土した場所に埋め戻せば、怪異
が治まるかもしれません」
「あれはカスケイド城内の礼拝堂にございます。私もステファン様と同じことを進
言いたしましたが、殿下はどうしても手元に置きたいのだとおっしゃって、お聞き
入れ下さいませんでした。それでやむなく、公国教会の大司教に依頼して封印の護
符を貼り、祭壇の中に納めた次第なのです」
 フィリスは何故石板にこだわるのか。拓本は出来上がっており、解読作業には支
障がないはずだった。
「幸いにも、火事の後は何も起こっておりません。表面では平穏を取り戻したかの
ようですが、私にはこの状態が続くとは思えないのでございます。石板にかかわっ
た者は、農夫や村長、職人たちだけではありません。私や私の弟子たち、大司教、
そして殿下も……」
 アランとジュダが家の外で騒ぎを起こしたとき、博士はひどく怯えていた。今な
ら、その理由がわかる。つまらぬ取り越し苦労にすぎないと、笑い飛ばせたらどん
なにいいだろう。
「私の本音を申し上げれば、もう解読作業などしたくはないのでございます。ここ
にある拓本も燃やしてしまえたら、どんなに気が楽になることかと……」
 博士は傍らにある筒状の入れ物に目を向けた。石板には、学者の好奇心さえも凍
りつかせるような、不吉な文言が刻み込まれていたのかもしれない。
 覚悟を決めなければ、とステファンは思った。拓本の一部を読んだ以上、自分自
身も当事者のひとりになることは免れないのだ。
「差し支えなければ、わかっている範囲の内容を教えてもらえませんか? 実は一
昨日、私もその拓本を見ているのです。殿下が翻訳なさっていた部分も、少しです
が読ませていただきました」
「拓本までご覧になったのですか!? あれほど、お話だけで留めておかれるよう
にと申し上げたのに!」
 博士は悲鳴に近い声を上げたか思うと、机に肘をついて頭を抱え込んだ。
「殿下に悪気はなかったのだと思いますよ。聖戦士についての資料が見つかって、
とても嬉しそうにしておられましたから」
 ステファンは博士の顔を覗き込むようにして言った。
「しかし……」
「過ぎたことをあれこれ言うのはやめましょう。今は怪異が再び起こらないように、
方策を立てるのが先決です。石板を埋め戻すお許しが出ないのなら、他の方法を考
えなくてはなりません。そのためにも、拓本の内容をぜひ知りたいのです」
「わかりました、それほどまでにおっしゃるのなら……」
 博士は力のない声で呟いて椅子から立ち上がった。ふらふらとした足取りで戸棚
に近寄り、引き出しを開けて中に手を入れた。
「私が担当した部分しかございませんが、どうぞご覧下さい」
 博士はそう言って席に着くと、持ってきた一枚の紙を机の上に置いた。小棚に手
を伸ばして燭台を取り、ステファンの手元にそれを近づける。
「これは石板の碑文の中に散らばっていた、意味の明白な単語を古代語の文法と用
法に則り、成文化したものでございます。まずは、お読みになってみて下さい」
 ステファンは言われるがまま紙面に目を落とした。
 ノイ・タンデ・ガウプ・デ・アテマ.
 オウテム・ファルテス・ヴィ・ディーテ・モース・アクエオ・ペサット・テウ.
 魂の器に触れるな。
 さもなくば、運命は汝らに等しく死を与えるだろう。
 思わず顔を上げ、博士を見た。目と目が合ったが、喉の奥に物が詰まったかのよ
うに言葉が出ない。石板が発見されてから、あんなに死者が出たのだ。魂の器とは
まさか……。
 ステファンは急に吹き出した冷たい汗を拭いながら、次の節に目を移した。
 ルフ・ガウプ・デ・アテマ・インペルス・タムクオルム・レグーナ・アテマ・ア
ビイット・レム・ノクォーアム・ガルボット.
 ウルキィス・デ・ラプトゥム・アピデス・インセル・エト・テレース・ヴィ・メ
ルゴー・イム・スィームス・デ・カラマローム.
 カレウム・フィンドゥレ・テレータ・クォンティートゥ・ファルテス・ペメル・
モース.
 魂の器を王者のように支配するなら、魂は立ち去った場所に決して戻らない。
 引き裂かれた神の復讐が始まり、世界は災厄の海に沈むだろう。
 天は割れ、大地は鳴動し、運命は死を求める。
「殿下はこれを……」
 声が微かに震えた。引き裂かれた神という言葉の意味は、博士に確かめてみるま
でもないだろう。
「ご存じでいらっしゃいます」
「知っているなら、どうして何もしようとしないのだ!」
 ステファンは思わず声を荒げ、拳で机を叩いた。博士が椅子の上で身体をびくり
と震わせる。
「すみません、つい頭に血が上って……。博士に言ったのではないのです」
「いいえ、お怒りになられるのも当然でございます。殿下をお止めすることが未だ
にできないのですから」
「全く困ったものだ……」
 ステファンは首を横に振って溜め息を吐いた。何もないように見える平穏な日常
こそ、最も大切なものだ。フィリスはどうやら、それを忘れているらしい。
「これを読ませてもらった限りでは、やはり石板を元の場所に埋め戻すしか方法は
なさそうですね。殿下を説得できるかどうかわかりませんが、私からもお話しして
みましょう」
「本当でございますか!? ご助力いただけるとは、何とありがたいことか! ど
うか、どうかお願い致します」
 博士はそう言うが早いか、椅子を蹴って立ち上がった。そしてステファンの脇に
回り込むと、いきなり這いつくばって床に頭を擦りつけた。お願い致しますと、涙
声で何度も繰り返す。
「博士! そんなことはやめて下さい!」
ステファンは慌てて席を離れると、博士の側にしゃがんだ。
「言葉を尽くせば、殿下もきっとわかって下さるはず。あまり悲観的ならずに希望
を持ちましょう。どうか頭を上げて」
「今宵は本当に見苦しい姿ばかりを……」
「いいんですよ。さあ、座りましょう」
 博士は目のあたりを手でしきりに拭いながら、ようやく身体を起こした。ステフ
ァンに促されて椅子に腰掛けたときは、だいぶ落ち着きを取り戻していた。
 そろそろミレシアとのことを話したいのだが、どう切り出せばいいのだろう。適
切な方法を思いつけないまま、ステファンは自分の席に戻った。
「私も年を取りました。神様のご加護で長生きをさせていただき、今日まで学問に
打ち込むことができたのですから、たとえ災いが降りかかって命を落としても、悔
いはございません」
「石板を埋め戻しさえすれば、きっと怪異は治まるはず。悲しくなるようなことを
言わないで下さい」
「このような老いぼれにまで、優しいお言葉をかけて下さるとは、もったいのうご
ざいます」
 博士は机の上の手巾を手に取って、目頭に押し当てた。
「私はどうなろうとかまわないのですが、心配なのは殿下の御身と我が孫娘……」
 孫娘という言葉を聞いたとき、ステファンは今しかないと思った。このきっかけ
を逃せば、永遠に口を閉ざさねばならなくなる。
「博士、実はミレシアのことなのですが……」
 愛しい少女の名を口にしたとき、胸の奥が締めつけられるような感覚があった。
甘く切ない感情が溢れてきて、石板の不吉な文言を押し流していく。
 ステファンはミレシアとの出会いから訪問の目的まで、何もかも包み隠さずに話
した。特に強調したのは、彼女を本気で愛していて、自分の妃に迎えたいと思って
いることだった。
「身勝手なのは承知しています。しかし私の妃になる人は、ミレシアの他には考え
られないのです。宮廷生活でのつまらぬ苦労や窮屈な思いは絶対にさせません。彼
女のことは、私がこの身に代えても守り抜きます」
 顔が紅潮してくるのが自分でもわかる。心臓の鼓動も早い。だが、博士は考え込
むような顔をして黙ったままだった。その表情から心情を推しはかるのは難しい。
「結婚は、特に女性にとっては一生に関わることです。熟慮した上で決めてもらう
のが本来のあり方なのですから、私のしたことは道理を外れていると言ってもいい
でしょう。自分の都合を押しつける格好になってしまい、本当に心苦しいのですが、
私には時間がないのです。次はいつギルトに来られるかわかりません。博士、どう
かミレシアを私に下さい。必ず幸せにします、お願いします!」
 ステファンは胸の内の思いを一気に吐き出すと、博士に頭を下げた。ミレシアを
妃にできるのなら、どんなことでもやるつもりだった。
「ステファン様! 下々の者がするようなことをなさってはいけません!」
 厳しい声に思わず顔を上げる。だがステファンの目に映ったのは、驚くほど穏や
かな表情をした博士の顔だった。
「なるほど、これでわかりました」
「は?」
「ミレシアは帰宅してからというもの、食もあまり進まず、暇さえあればお城の方
角を見つめてため息を吐いておりました。どうしたのかと訊いても、何も言わず首
を横に振って涙ぐむばかり。これはもしやと思っておりましたが、ステファン様を
お慕いしていたとは……。恐れ多いことでございます」
「私のことをそんなに……知りませんでした」
 ミレシアも初めから自分と同じ気持ちだったと聞くと、ステファンの胸はいっそ
う熱くなった。しかしそれだけに、身分をきちんと打ち明けられなかったことが悔
やまれてならない。
「やはり、お話ししておく必要がございますな……」
 博士が急にしんみりとした口調で言った。
「実は……ミレシアには、オリガの血が流れているのでございます。あの子の母親
がそうでしたから」
 お断りしたいという意味で、博士は秘密を打ち明けたのだろうか。だが、何を言
われようと引き下がるつもりはなかった。
「博士もご存じのように、私もオリガの血を引いています。ミレシアがオリガの血
筋であろうがなかろうが、そんなことは大した問題ではありません」
「お言葉ではございますが、ミレシアを妻として迎えれば、ステファン様のお立場
がかえって危うくなるかもしれないのですよ」
「我が身を守るすべは心得ていますから、安心して下さい。子は親を選べないとい
う事実を無視して、血統にこだわる今のしきたりのほうが間違っているのです。人
間の価値はその人の行いや態度で決まるものであって、血筋ではありません」
 ミレシアに出会うまで、結婚相手は顔も知らない他国の姫になるだろうと思って
いた。しかし今は違う。血筋に頼って立場を固めても、そこに本当の安らぎは存在
しないことに気づいたからだ。
 同盟関係に頼らなくとも、ミレシアを、アストールを守ってみせる。ステファン
は決意をさらに固くして博士の言葉を待った。
「そこまでご決心なされているのなら、ミレシアやその父母のこと、何もかも申し
上げましょう。十六年前のある夜、我が愚息がシーラという名の少女を連れて、こ
の家に現れたのが全ての始まりでございました」
 燭台の火が微かに揺れる。博士は軽く咳払いをしてから再び口を開いた。 
「当時の愚息は、ティファの南にある小さな町で、結婚したばかりの妻とふたりで
暮らしておりました。私と同じく学問の道を選び、まだ駆け出しの身ながら、聖戦
士と邪神にまつわる伝説を専門に研究していたのでございます。暗黒時代の言い伝
えを検証しようというのですから、公国内ばかりでなく、時には他国にまで足を伸
ばして、新しい資料を収集しなければなりません。そのような旅の途中でも、近く
へ来たときは必ずここに立ち寄って、元気な顔を見せてくれたものです。しかしあ
のときばかりは、いつもとはまるで様子が違っていたのでございます」
「どういうことですか?」
「ふたりとも荷物を全く持っていなかったのです。おそらく着の身着のままで幾日
も過ごしたのでしょう、物乞いのように汚い格好をしておりました。私は驚きのあ
まり、言葉も出ませんでした。ところが愚息は私の顔を見るなり、目をギラギラと
光らせて、シーラとふたり、何も訊かずにこの家において欲しいと言い出したので
ございます」
「ご子息は、どうしてそんなことを? 理由を言わないのもおかしいですね」
 ステファンの言葉に、博士も大きくうなずいた。
「理由もわからないまま、承諾することはできませんでした。ましてや、子供のよ
うな少女と一緒なのです。年を訊けば、まだ十三歳だと言うではないですか。これ
はいったいどういうことなのか、私は愚息を厳しく問いつめました。押し問答を何
時間も続けた末に聞き出したのは、シーラを妖魔から守るため、という言葉だった
のでございます」
「妖魔……」
 リーデン城に現れた怪物こそ、実は妖魔だったのではないか。ステファンは背筋
が冷たくなるのを感じた。
「妖魔などこの世に存在するはずがない、くだらない嘘をつくなと、私は声を荒げ
て言い放ちました。自分にとって都合の悪い何かを隠すために、馬鹿げたことを言
ってごまかしているのではないか。そう思った私は、シーラのほうに目を向けまし
た。汚れていても、目鼻立ちの整ったきれいな顔をしていることはすぐにわかりま
した。彼女にも話を聞かせてもらおうとしたとき、私は気づいたのでございます」
「そのときすでに妊娠を……」
「さようでございます。服で隠しているつもりだったのでしょうが、腹の膨らみは
明白でした。私は愚息に、腹の子はお前の種かと尋ねました。すると彼は首を横に
振り、シーラとは契っていないと言ったのです。ならば子の父親は誰なのか、彼女
とはどこで知り合ったのか。私は次第に高ぶってくる感情の波を押さえ、愚息を再
び詰問しました」
 博士はそこまで話すと、ため息を吐いた。顔色がひどく悪い。
「気分が良くないのではありませんか? 今宵はここまでにして……」
「いいえ、大丈夫でございます。私が生きているうちに、是非ともお伝えしておか
ねばなりません」
 そう言われると、ステファンも返す言葉がなくなってしまう。
「最初は頑なに口を閉ざしていた愚息でしたが、私の追及に根負けしたらしく、シ
ーラとは公国中部にあるオリガの村で出会ったと白状しました。はっきりとは言い
ませんでしたが、おそらく村の長老あたりから、伝説に関する話を聞こうとしてい
たのでしょう。オリガの人々は独特の口伝を持っておりますから」
「口伝ですか、初めて聞く話ですね」
「研究者しか知らないことでございますので。それに口伝は選ばれた者のみが継承
し、その内容は決して他言してはならないとされているのです。それはさておき、
愚息は研究のために入村したはずなのに、どうしてこうなってしまったのか。やは
り彼がシーラに手をつけたために、村を追われたのだとしか考えられませんでした」
 博士の口から、再びため息が漏れる。これ以上、何が出てくると言うのだろう。
「私は真実を告げて欲しいと、さらに迫りました。しかし愚息は、もう何も話すこ
とはない、妻とも離婚したのだから後には引けないとまで言ったのです。それを聞
いた瞬間、私は激昂して彼を殴りつけました。姦淫の罪を犯した上に、妻を一方的
に棄てた非道が許せなかったのでございます」
「ご子息は、彼女のために全てを棄てたのですね……」
 ステファンは膝の上で拳を握りしめた。事の善悪はともかく、博士の息子いやミ
レシアの父親には、ひとりの女性のために、何もかも投げ出せるほどの勇気と覚悟
があったのだ。
ミレシアとの結婚を成就させるまでには、様々な困難にぶち当たるだろう。どん
なに反対されても、自分も彼と同じように後へ引かない決心を示さねばならない。
「当人たちはそれでいいでしょうが、周囲の者は彼らのために振り回されるのです
から、たまったものではありません。私は何とか気を取り直すと、シーラに対して、
子が生まれたら親元に帰るようにと諭しました。彼女が説得に応じてくれれば、愚
息も考え直して、妻と復縁するかもしれないと思ったのでございます。しかし……」
「別れたくないと?」
「いいえ、彼女は帰りたくても帰れないと言ったのです。そして自分にとって、愚
息は命の恩人だから許してくれと……」
「命の恩人?」
「さようでございます。私はシーラに詳しい事情を話して欲しいと頼みました。彼
女なら本当のことを言ってくれるに違いないと、そう思ったからです」
 博士は口を閉じて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ところが、その可愛らしい口から出た言葉は、にわかには信じがたいものでござ
いました。自分の腹に宿っているのは人の子ではなく、精霊の魂だと言うのです」
「何ですって?!」
「神話の世界ならいざ知らず、体内に精霊が宿るなどということが、現実に起こる
はずはありません。妊娠を認めてもらうための方便にしては、あまりにも空想的で
お粗末でした。ですがシーラはむろん、アカデミアで高等教育を受けた愚息までが、
それを真実だと固く信じていたのでございます。こうなってしまうと、もはや狂信
者と同じ……。しかし私はあえて彼女の話を否定せず、どうしてそう思っているの
か訳を聞かせて欲しいと言いました」
 ステファンは下唇を噛んで押し黙った。視界いっぱいに広がった、あの白い光を
思い出す。ベルノブラウの酒毒がひと眠りしただけで消えてしまった理由は、ミレ
シアが精霊の化身だからなのか。
「シーラもまた愚息と同じように、肝心なところでは口を開こうとしませんでした。
私はやむなく、訳をきちんと話してくれたら、この家にいてもいいと言わざるを得
なくなりました。譲歩したのが功を奏したのでしょう、彼女はようやく打ち明けて
くれたのでございます」
「それで何と言ったのですか?」
 ステファンは思わず身を乗り出した。心臓の鼓動が早くなる。
「口伝の予言が成就したと……。全てはその予言どおりに運んでいるから、腹の子
は精霊に違いないのだと、そう言うのでございます。私は確かな証拠を、つまり口
伝の内容を教えて欲しいと頼みました。第三者が聞いても納得できるようなもので
なければ、シーラの言が正しいのかどうか証明できませんから。しかし彼女は頑と
して受けつけませんでした。愚息は愚息で、成就した予言を聞くと死の呪いがかか
るなどと、馬鹿なことを言い出す始末」
「死の呪い……」
 例の石板の文言が、ふいにステファンの頭の中に浮かんだ。自分でも飛躍のしす
ぎだと思うのだが、何か引っかかるような感じがするのはどうしてだろう。
「口伝の中身を知っていたということは、シーラはおそらく継承者だったのでしょ
う。それなら他言しない理由もわからなくはありません」
「待って下さい、博士。精霊の存在はさておき、大切な継承者が何故村を追い出さ
れたのでしょうか?」
「これもまた、誠に信じがたいのですが……」
 博士は表情を暗くして急に黙り込んだ。大きなため息を吐き、再び口を開く。
「村が妖魔の群れに襲われ、シーラと愚息以外は皆殺しにされてしまったというの
でございます」
「妖魔の……群れ……?」
 そう呟いたステファンの声は震えていた。
 あんな怪物が何匹もいるというのか!
 漆黒の身体、鋭い爪、胸の悪くなるような腐敗臭。少年の日の悪夢は消え去るど
ころか、大きくなる一方だった。
「どうかなされましたか?」
「いえ……何でもありません。続けて下さい」
 ステファンは首を左右に振り、博士を促した。確証はないが、村の襲撃とリーデ
ン城の事件とは、奥深いところで繋がっているような気がする。
「シーラは危うく殺されかかったところを愚息に助け出され、命からがらこの家ま
でたどり着いたと言っておりました。だから村にはもう戻れないのだと……。彼女
の言葉を疑ったわけではないのですが、やはり確認してみなければなりません。私
は数日後、密かに人をやって村を調べさせたのでございます」
「さぞかし凄惨な光景が……、広がっていたのでしょうね」
 耳の奥にアランの絶叫が蘇る。今にも血しぶきが飛んでくるような気がして、ス
テファンは目を伏せて顔を背けた。
「それが不思議なことに、村には死骸はおろか、血痕や肉片さえも見あたらなかっ
たのでございます」
「ええっ、そんなはずは……!」
 思わず博士の顔を見る。使いの者が得にもならない嘘を吐いたとは思えなかった。
それとも妖魔たちが殺戮の証拠を全て消してしまったのか。
「私も話を聞いて驚きました。その代わり、多くの家が朽ち果てて崩れており、畑
は草が生い茂って荒れ放題だったそうです。完全に廃墟と化していたのでしょう。
シーラと愚息が村を逃げ出してから一ヶ月あまり。さほど長くない間に、そこまで
崩壊してしまうというのも、奇妙な話でございました」
「……変ですね、確かに」
 ステファンは胸の前で腕を組み、呻くように言った。話を聞けば聞くほどわから
ないことが増えてくる。
「疑うつもりはないのですが、本当に何も見つからなかったのですか?」
「殺人の証拠はひとつも……。発見できたものといえば、楽器ぐらいでしょうか」
「楽器?」
「はい。村に入った者がこちらに持ち帰ったのでございます。ステファン様はご存
じないでしょうけれども、オリガ独特の楽器でして、竪琴の原型とも言われて……」
「ビューロのことですね。ミレシアから聞いています」
「おお、そうでしたか」
「とてもいい音色でしたよ。私も少し弾かせてもらいましたが、ろくな音が出ませ
んでした」
 ステファンはそう言って苦笑した。ビューロに触れたのは昨日なのに、遙か昔に
あったことのような遠い感じがする。
「あれを弾きこなすには、かなりの技術が必要でございますから。ミレシアは物心
がつく前から、シーラに手ほどきを受けて弾き始めたのですが、私の見るところ、
あの子の腕前は母親をとうに凌駕しておりますよ」
 さっきまでの暗い表情が消え、博士は嬉しそうに言った。
「母上からは歌も教わったそうですね」
「シーラはビューロの名手であったばかりでなく、歌の才能も豊かでした。精霊の
魂だの妖魔だのとさえ言わなければ、本当にいい娘だったのでございます。彼女は
三年前に亡くなりましたが、我が子の成長を見届けられなかったこと、さぞ無念で
あっただろうと……」
「何が原因で亡くなったのですか?」
 だが博士はステファンの問いに即答しなかった。
「このことについては、私にも責任の一端があると思っているのでございます」
 重苦しい沈黙が続いた後、博士が沈んだ声で言った。燭台の火がその身を震わせ
るように揺らめく。
「亡くなった当日、シーラは風邪を引いて床に臥せっておりました。微熱と咳が少
し出ていただけですから、一日か二日安静にしていれば良くなるだろうと考えて、
看病をミレシアに任せ、私はここで仕事をしていたのでございます。半日ほど過ぎ
た頃でしょうか。ミレシアの悲鳴が聞こえたので、私は慌てて寝室に向かいました」
「まさか……」また妖魔が?!
「急いで中に入ると、シーラは目を剥いて苦悶の表情を浮かべたまま、事切れてい
たのでございます。側ではミレシアが半狂乱になって、泣きじゃくっておりました。
少し落ち着くのを待って話を聞いてみましたら、容態の急変は、どうやらあの子が
台所へ水を取りに行った僅かな間に起こったようでした」
「かわいそうに……ミレシア……」
「全く痛ましいことでございました。ミレシアはもう泣いて泣いて……自分自身を
責め続けて一年あまりの間、家の中に引きこもってしまったのです。シーラの側を
離れたのが悪い、急変に気づかなかったのは自分のせいだと。ですが、私も後悔し
ているのです。たかが風邪だと甘くみて、重大な兆候を見逃していたのではないか、
専門の医者を呼んで診せるべきだったのではないか……」
「そのとき、ご子息はどうしていたのですか?」
「愚息はミレシアが生まれる前に亡くなっております。倒れたときはもう、腹の中
に腫物が広がっていて、手の施しようがありませんでした。好き勝手をしたあげく
私より先に逝くとは、とんだ親不孝者でございます」
 博士はしかめっ面をして、半ば吐き捨てるように言った。しかし、我が子に死な
れて悲しくない親はいないはずだ。
「博士もミレシアも辛い体験をしていたのですね。それに比べて私は……恵まれて
いました」
 ステファンはそう言って目を伏せた。ダリル公爵にいじめられたり、上級貴族た
ちに憎まれたりしていても、自分にはまだ父王が健在であり信頼のできる側近もい
る。だが、彼らはたったふたりで肩を寄せ合って生きてきたのだ。
 ミレシアを愛している。その気持ちに今も変わりはない、それどころか彼女を思
う気持ちは前にも増して強くなった。しかし恋情を貫けば、博士から可愛い孫娘を
取り上げてしまうことになる。もし自分が博士の立場だったら、とても耐えられな
いだろう。
「長い人生には様々なことがございます。喜びに沸く日もあれば、悲しみにくれる
日もあるでしょう。人との出会いもまた同じこと。気晴らしになればと思い連れて
行ったお城で、ステファン様と巡り合ったのも神様の思し召しなのかもしれません。
仰せのとおりミレシアは差し上げましょう」
 すぐには信じられなかった。恐る恐る目を上げて博士の顔を見る。老人の表情は
予想に反して驚くほど穏やかだった。
「本当に……よろしいのですか?」
 気弱な声を出したステファンに対し、博士はしっかりとうなずいた。
「ミレシアには私の他に身寄りはおりません。世間のことは何もわからない小娘ゆ
え、私が死んだらいったいどうなってしまうのかと、それはもう心配で……。嫁に
出したほうがいいと勧める者もいましたが、生活のために愛のない結婚をさせるの
は不憫で、よい考えを思いつけないまま、今日まで来てしまったのでございます。
ステファン様、どうかあの子を……ミレシアをお願い致します」
 博士は目を潤ませて言うと、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。ミレシアは必ず幸せにします」
 ステファンは力強い口調で言い、微笑んだ。これから先は彼女の人生をも背負っ
ていくのだから、嬉しさの中にも身の引き締まるような思いがあった。ミレシアが
精霊の化身だろうが普通の人間だろうが、そんなことは関係ない。
「それから私としては、博士にもぜひアストールに来ていただきたいのです。ミレ
シアもそう望んでいますし、私もまだ未熟で教えを請う必要のある人間です。ただ
石板のことがありますから、今すぐにとは言いません。作業が一段落した後でもい
いのです。住まわれる屋敷はこちらで用意しますし、何か欲しいものがあれば遠慮
なく申しつけて下さい。ギルト以上の待遇を約束します」
「実にありがたく過分なお言葉ではございますが、仕事が終わりましても、私はこ
こを離れるつもりはありません」
 博士は薄く笑って首を横に振った。外国とはいえミレシアと暮らせるのだから、
悪くはない話のはずだ。
「しかし、それではお寂しいでしょう。身の回りの世話をする者も必要ですし」
「いいえ、ご案じ下さいますな。ご覧のようなあばら家ですが、ここには家族の思
い出が……特に亡き妻との思い出が、染み込んでいるのでございます」
 博士は静かに言い、一瞬遠くを見るような目になった。
「私はやもめ暮らしが長うございましたから、身の回りのことはひととおりこなせ
ますし、近くには弟子たちも多くおります。どうかご安心のほどを」
 石板にまつわる怪異を恐れているのだと、ステファンは直感した。博士は自ら遠
ざかることで、ミレシアを守ろうとしているのではないか。
「何度も言うようですが、石板を元の場所に埋め戻せば怪異は治まるはず。時間が
かかってもいい、もう一度考え直してもらえませんか」
「ステファン様、それは……」
 無理でございますとでも言いたげに、博士が首を左右に振る。
「私だって拓本を見ているし、碑文の内容も一部知っているんですよ」
「ノイ・タンデ・ガウプ・デ・アテマ、この文言の意味を思い出して下さいませ。
考えてみれば、犠牲になったのは石板に直接触れた者ばかりです。職人一家も家族
全員で同じ仕事をしておりました。私だけでなく、殿下や大司教、私の弟子たちも、
その点については彼らと同じなのでございます。しかしステファン様は石板そのも
のをご覧になっていらっしゃらないし、触ってもおられません」
「確かにそうですが……」
「恐れながら、私にとってステファン様は唯一の希望なのでございます。石板の真
実を後世に伝えられるのは、あなた様をおいて他にはおられません。そして何より
ミレシアを心から愛して下さっている。本当にありがたいことです」
「まだ死ぬと決まったわけではありませんよ、博士。封印の護符が効力をなくす前
に、石板を埋め戻すことができれば、ギルトの安泰は保証されるでしょう。甘い見
方は禁物ですが、かといって悲観的すぎるのもよくないと思います」
 ステファンは強気に言い切ったものの、心の中には漠然とした不安もあった。
もし石板を元のように埋めても怪異が治まらなかったら? いや、そんなはずは
ない。とにかく、城に戻ったらすぐにフィリスを説得しなければ。
「悲観的……そうかもしれません。偶然とはいえ、忌まわしい遺物を掘り当ててし
まったものです。殿下の前で口にできることではございませんが」
 博士はため息を吐いてさらに続けた。
「念のため、ステファン様もご身辺にはお気をつけ下さいませ。万が一、御身に災
いが及んだら、国王様にどうお詫びすればよいものやら」
「私は大丈夫ですよ、ご懸念には及びません」
 ステファンはそう言って、不安を払拭するように明るく笑った。ミレシアを迎え
入れるのだと改めて思うと、怪物の黒々とした姿も次第に小さく変わっていく。
「それより我がアストールへお越しのこと、ぜひ再考をお願いします。博士がギル
トに留まると知ったら、ミレシアはどんなにがっかりするでしょうか」
「私が共に行かずとも、ミレシアの心に迷いはありませんよ。先ほどの騒ぎのとき、
あの子は私の制止を振りきって、ステファン様の後を追ったのでございますから」
 博士の台詞を聞いた瞬間、ステファンは顔が紅潮してくるのを覚えた。ミレシア
の気持ちを嬉しく思ったが、それを言葉にするのは気恥ずかしい。照れ隠しめいた
咳払いをひとつした。
「私の作ったメンテルを見ていただきたかったのに……残念です。もし博士のお考
えが変わったら、いつでも知らせて下さい。すぐお迎えに上がります」
「この老いぼれへの過分なお心遣い、もったいのうございます」
 博士は神妙な面持ちで答え、頭を下げた。
「ミレシアはまだ十五才、子供じみたところもありますが、心の優しい娘です。宮
中の作法は何ひとつ知りませんが、料理とビューロを弾くことが上手で、薬草の知
識を豊富に持っています。言葉の読み書きや算術にも不自由はありません。どうか
あの子を末永く……」
 声がふいに途切れた。博士はうつむいたまま、肩を震わせている。ステファンは
自分の胸にも熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「安心して下さい。ミレシアは必ず幸せにします」
 
 シド博士の家を出たのは、東の空がうっすらと明るくなり始めた頃だった。アラ
ンとジュダを従えて城への帰路につく。
 不思議と疲れは感じなかった。

                               (6)に続く
 




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