AWC 会津旅行記『春日八郎記念館』を訪ねて(1) /竹木貝石



#81/598 ●長編
★タイトル (GSC     )  02/05/18  11:43  ( 72)
会津旅行記『春日八郎記念館』を訪ねて(1)  /竹木貝石
★内容
    はじめに

 S君と私は、教員養成校時代の同級生で、彼は伊豆に生まれ、沼津盲学校、
浜松盲学校に勤務、退職後も浜松市に住んでいる。
 ここ数年はパソコンメールのやりとりをしていて、ふとした話題から、彼も
歌謡曲歌手 故 春日八郎のファンであることが分かった。
 彼がインターネット検索で、福島県会津坂下町に〈春日八郎記念館〉が在る
のを見つけ、二人で記念館を訪ねるついでに、会津旅行をすることにした。
 乗車券の購入はメールで打ち合わせ、発売当日携帯電話で連絡を取りながら、
互いの最寄駅から、指定席の並び番号を買うことが出来た。
 下記の詳細な旅行日程は、S君が作成した物である。


    会津旅行日程表(改訂版)

  第1日 4月9日(火)
7:32 名古屋発ひかり204号 11号車7番DE席
8:06 浜松にてS乗車
9:33 東京着 17番ホーム
10:04 東北新幹線23番ホーム やまびこ37号6号車2階 27番
DE席
11:26 郡山駅着
11:30から12:15 昼食
12:22 磐越西線 会津若松方面行き発車
13:35 会津若松着
    荷物はコインロッカーに預けるかホテルに預けて市内観光に
    バスかタクシーで鶴ヶ城にゆく ボランティアガイドがいたら頼む
    天守閣 太鼓門 茶室 県立博物館 荒城の月歌碑 山鹿素行の碑
    時間が有れば蒲生氏郷の墓 漆資料館 武家屋敷など回りたい。
    市内に出て「百姓三人」で地酒をのみ「田季野」でわっぱめしを食べ
    「栄安」でそばを食べたい。
20:00 頃までにホテルに入る。
    「ホテルα−1」 電話0242−32−6868

  第2日 4月10日(水)
8:30 ホテルを出る。駅まで3分
9:00 会津坂下行きのバス出発
9:40 会津坂下の「中町停留所」下車 タクシーを探して乗る
10:00 春日八郎記念館着
    展示品の資料見学 カラオケ室で唄う
    近くにある一本杉を見る。墓が近ければ参拝する
13:00 タクシーを呼んで食堂へ行き昼食を食べる。
14:45 柳津行きのバスに乗る。
15:05 柳津着 「虚空蔵下」バス停で下車
    圓蔵寺参詣 牛をなでる 元祖岩井屋で粟まんじゅうを買う
    魚淵でウグイの乱舞を見る
17:30 旅館着 「つきみが丘町民センター」電話0241−42−
2302
    温泉に浸かりカラオケ室が有ったら借りて春日八郎の歌を歌う。

   第3日 4月11日(木)
9:00 旅館を出発 歩いてJR只見線柳津駅に向かう。15分くらい
9:38 柳津発 会津若松行きに乗車
10:35 会津若松着
11:04 郡山行き普通電車に乗車
11:35 猪苗代駅下車 駅前で昼食
12:20 長浜行きのバスに乗車
12:28 野口記念館下車 見学
13:33 長浜行きのバスに乗車
13:40 長浜着
    遊覧船に乗る
14:45 猪苗代駅行きのバスに乗る
15:00 猪苗代駅着
15:14 快速郡山行きに乗車
15:48 郡山着
16:04 東北新幹線やまびこ48号5号車2階21番DE席
17:32 東京駅着
17:46 東京発ひかり169号 6号車5番DE席に乗車
    ホームで駅弁を買う
19:16 浜松着 S下車
19:50 名古屋駅着





#82/598 ●長編    *** コメント #81 ***
★タイトル (GSC     )  02/05/18  11:44  (189)
会津旅行記『春日八郎記念館』を訪ねて(2)  /竹木貝石
★内容
    第1日目

 朝6時40分すぎに、妻と二人で家を出た。最近私は一人で外出するのがお
っくうになり、今回も名古屋駅まで妻に送り迎えしてもらうことにしたのであ
る。
 リュックサック・ウエストポーチ・スニーカーというスタイルで、JR中央線
に乗り、途中格別のこともなく、名古屋駅に着いた。
 新幹線のプラットホームには転落防止用の柵が設けられ、これはつい3ケ月
前にはまだ無かった物だ。柵は高さ1メートルくらいの太いステンレス製
パイプで、その手すりの下は細かい縦格子になっていて、幼児でもくぐり抜け
られない。新横浜駅のように、開閉ドアは無く、乗車口部分が開いているが、
従来の点字ブロックだけよりははるかに安全だ。
 ひかり号に乗ると、すぐに車掌さんが来て、
「どちらまで行かれますか? 東京駅に連絡して置きましょうか?」
 と声を掛けてくれた。

 浜松で乗車してきたS君と久々の挨拶を交わす。
 彼とは3年前の同級会で一緒に神戸へ行き、クラス会で一泊して、翌日もう
一人の同級生と三人で、六甲山の〈オルゴール館〉を見学したものだ。
 話題はその時のことから、昔の思い出話、そしてS君の得意分野である物理
学の理論に進み、「飛行機は何故飛び上がれるのか」という疑問、すなわち、
揚力の原理について説明してもらった。
 東京駅で東北新幹線に乗り換え、私は初めて『マックスやまびこの二階席』
に乗った。帰り道でS君が言った通り、二階席でも、東海道新幹線より揺れが
少なくて快適だ。車中の話題は主に旅行日程の確認と変更点だったろうか?
 郡山で下車。あいにく雨が降っていたので、旅行案内で見つけた店へ行くの
は諦め、駅内の食堂街の1軒に入って、『三色ミニ定食』を食べた。
 列車の時刻表が変わったらしく、磐越西線の発車は20分ほど遅かったが、
会津若松にはほぼ予定の時間に到着した。

 40年前になるが、東北北海道地区盲学校研究会で、ここ福島県に来たこと
があり、4年前には還暦祝いの旅行で、弟夫婦と会津〜日光方面を訪れた筈な
のに、その折り何処を通り何を見物したのか、私はほとんど記憶していない。
 今、郡山も会津若松も、空気が澄んでいてひんやりと爽やかだ。
 コインロッカーを捜し、17番のボックスに二人の荷物を入れて、いよいよ
市内観光に出発する。S君があらかじめ観光案内等を調べてくれ、そのうちの
何処を廻るかは、私の希望に合わせてくれる。
 タクシーで『滝沢本陣』まで920円。S君が会津若松の人口を尋ねたら、
運ちゃんが次のように説明してくれた。
「人口は11万人です。…この会津若松は全然空襲を受けてないんですよ。と
いうのはね、この街に長く住んでたアメリカ人が、戦争の作戦担当委員になっ
たんです。それで、会津若松には素晴らしい仏像が在るから爆撃しないように
って進言し、それが通ったらしいんですね! だから、郡山は空襲を受けたの
に、50キロしか離れていないここは一発も落ちなかったんです。」

 滝沢本陣は、昔大名が旅支度をした、いわゆる本陣跡である。
 入り口で入場料を払うとき、
「刀の傷痕を触ることは出来ますか?」
 と訊いたら、受け付けにいた老人が、
「さわれるよ! 触るだけだから、料金は一人分でいい。」
 と言ってくれた。
 土間の隅には農具などが置いてあり、靴を脱いで上がると、畳に上敷が敷い
てあって、2メートル×1メートルほどの大きな暖炉が切ってある。
 上がりはなに近い所が家臣の部屋、奥の一段高い方が殿様の部屋で、建物の
外は小堀流の庭園になっていて、水音が聴こえる。
 幕末に西軍がなだれ込んできて、そのときつけられた弾痕や刀傷が、壁や鴨
居に残っているというので、S君と二人であちらこちら探ってみたが、木材の
節なのか傷跡なのか判然としない。
 そうこうするうちに、立てかけてある板を私が足で蹴って倒し、S君がその
板を見て、
「あ、弾痕と書いてある。」
 と言い、そばの柱を手で触ったら、鉄砲の弾が貫通した穴が見つかった。
 私たちは大喜びで、そこここに立てかけてある表示板のそばの柱や敷居や障
子を手探りして、多数の銃弾の痕と刀でえぐられた傷痕を見つけた。
「高い所ばかり捜していたが、もっと下の方に在って、目印にちゃんと板が立
ててあるんだなあ。」
 とS君が言う通り、例えば、柱の腰から胸の高さとか、障子の一番下の段で
板張りの部分などに、悲惨な傷痕が生々しく残っていた。

 受付係が初老の女性に代わっていて、白虎隊の墓の場所を尋ねたら、400
メートルくらいの距離だと言うので、小降りの雨の中、傘をさして坂道を登っ
た。
 観光名所の順路らしき表示看板が在ったが、暗くてよく読めないので、それ
を通り越して暫く登ると、やがて右前に『さざえ堂』が見えてきた。世界的に
も珍しい建築法で、四階建てくらいの建物を螺旋状の廊下が取り巻いている様
子は、S君の言葉を借りるなら「核酸の二重螺旋構造」である。
 受け付けで一人400円の入館料を納め、靴履きのまま堂内に入ったが、こ
の建物は実に素晴らしい!
 ほぼ1間幅の廊下が、六角形のお堂の周囲を巡っていて、左側に手すり、右
側の所々に小部屋がある。廊下の床は約10度の勾配になっているから、30
〜40センチ間隔に滑りどめの桟(横木)が打ちつけてある。手すりにつかま
って、滑る足を踏みしめながら、S君の後ろに着いて歩く。
 さざえ堂の頂上まで登ると、今度は下りになるが、勿論同じ道を通ることは
なく、螺旋状の廊下は全長150メートル以上あったと思う。
 感激しつつさざえ堂を後にし、石段をバス通りまで下りた。

 雨が降っていてタクシーを拾えそうにないので、近くの郵便局に入り、女性
局員に頼んで、電話で車を呼んでもらった。
 鶴ケ城まで620円。今回の旅行では、金銭の支払いが二人の間で過不足に
ならぬように、なるべく早目に清算するよう心がけた。
 砂利道を踏んで太鼓門をくぐる辺りは、今正に桜の満開だ。
 受け付けで『ボランティアガイド』を呼び出してもらい、Oさんという若い
男性の案内と説明で、下記の箇所を廻った。
 太鼓門:藩士が登城あるいは下城する際に、直径5尺余の大太鼓を叩いて合
図した所。
 土手の石垣:鼎打ち積み方式と言い、岩を積んでその隙間に石を打ち込む工
法。
 遊女岩:縦も横も10メートル、士気を鼓舞する為に女性を乗せて引かせた
岩。
 天守閣の石垣:のずら積み方式。
 茶室:鱗閣と呼ばれ、蒲生氏郷が、千利休の次男を保護して建てた茶室。
 荒城の月歌碑:土井晩翠が地元の女学校で講演した際に、「荒城の月の歌詞
は鶴ケ城を思い浮かべて書いた」と言ったとかで、それにちなんで立てられた
碑。
 鉄(くろがね)門:鉄板を貼った黒い門柱。
 ボランティアガイドのOさんにお礼を言って別れた後、
「謝礼を渡すべきだったかなあ?」
 とS君が言ったので、私も一瞬考えた。

 城の建物(天守閣)は鉄筋コンクリート作りで、一階・二階の写真類やガラ
スケースの展示物をざっと眺め、最上階の回廊を一回りしたが、雨天で見晴ら
しは良くない。
 天守閣に隣接して建てられた『南走り館』と『干し飯櫓』は、元々の建物と
同じ建築様式・同じ材料を用いてあり、一坪当たりの費用が130万円(?)、
六寸角の柱が建ち並び、床も敷居も階段も、分厚い木材をすべすべに削ってこ
しらえてある。
 通路の右側が窓や壁になっていて、武士が銃丸から鉄砲で外を狙っている姿
を模型で作ってある。
 駕籠が置いてあり、S君と二人で前後の棒をかついで持ち上げてみた。こう
いう作業を表現するのに、名古屋弁では「つる」という便利な言葉がある。
 通路の左側の部屋に、柵で仕切って武具や調度が展示してあり、槍が立てて
あったので、柵の隙間から中に入って観察したが、長くてとても穂先には届か
ない。
 S君が火縄銃の置いてある柵を越えようとしたら、感知器が作動して、
「この中に入らないでください。」
 という注意メッセージが聞こえた。
 干し飯櫓の二階に上がると、窓際から弓で敵を狙っている様子や、石落とし
の上で岩を抱えて待ちかまえる姿の模型人形が立っていた。
 私が一番気に入ったのは米櫃で、これは40センチ角の長方形の木の箱であ
る。横の長さは1メートル、もしかすると1メートル半もあるだろうか? こ
の箱が、8個・6個・4個・2個という風に、台形に積み上げてあった。

 城を後にして、山鹿素行の碑を見に行くことにし、途中で3度道を尋ねた。
三人目に訊いた相手は『若松女子高』の新入生だったか、山鹿素行を知らなく
て怪訝そうな顔をしていたが、そこから百メートルも行かないうちに左へ入る
道があり、表示看板が出ていた。
 山鹿素行の石碑は、幅1.2メートル・高さ2メートル・厚さ50センチも
あるだろうか? 私は台座の上に上がって、その立派な御影石を観察した。岩
の両横は綺麗に丸くしてあり、てっぺんには全然手が届かない。碑文は縦書き
で次の2行だった。
      山鹿素行 先生 誕生地
     元帥 伯爵 東郷平八郎 書
 S君に教わりつつ、一番分かりやすい八の字を、両手の指でなぞって確かめ
た。かつて神様のごとく尊崇された東郷元帥の文字かと思うと、ある種の感慨
を覚え、偶然にも、名前が春日八郎と共通している。

 タクシーを拾って、蒲生氏郷の墓へ来た。治世僅か4年ながら、氏郷の業績
は大きかったようだ。
 墓の前に、蒲生氏郷辞世の和歌が書いてあり、
   限り在れば 吹かねど花は散るものを
    心短き 春の山風
 この風流な歌を繰り返し暗唱した。
 誰も居ないのを幸いに、柵の中に入り込み、墓石の1段目に登って、なるべ
く上の方まで触察させてもらった。無論礼儀に反することだが、全盲者の私が
観察するには、是非こうせざるを得ない。
 墓の全体的な形は大きな円錐系で、四角な台座の上に球形の石、その上に灯
篭の屋根のような広くて四角い石、その上に円柱形の石が立っていて、さらに
上の方へ僅かに広がっている。

 夕暮れになったので、見物を終えて食事を取ることにした。
 寺を迂回する感じで、横道から裏通りに入り、あらかじめチェックしておい
た店を捜す。
 まず、ソバの『栄庵』を見つけたが、既に「閉店しました」と書いてあり、
食材と味に拘る店だけあって、一定の数しか準備しないものと思われる。
 輪箱飯(わっぱめし)の『田季野』は後で寄ることにし、先に居酒屋『百姓
三人』に入った。
 畳の席に上がると、テーブルの下が囲炉裏のように低くしてあり、腰掛けて
座ることが出来る。『ニシンの山淑漬け』で、S君が地酒を、私は札幌ビール
を飲んだが、ここは地酒を飲むべきだったと後悔する。私が枝豆、S君はなめ
こおろしを追加注文したが、枝豆は冷凍物で不味かった。どんな話をしたのか
覚えていないが、静かな田舎風の雰囲気と、S君が飲んでいた300CCのと
っくりの形が印象的だった。
『百姓三人』を出て、『田季野」に入り、座敷に上がって『五種輪箱飯』を食
べた。五種(五目)は何と何が入っていたのか私には言えないが、蒸篭で蒸し
た五目ご飯のまろやかな味は忘れられない。小皿等の食器が皆塗り物であるの
も風流だ。

 駅のコインロッカーに戻り、S君が17番の鍵を開けたら、荷物が中に入っ
ていなくてびっくりした。が、そう思ったのは勘違いで、隣のボックスの中を
探っていたという笑い話だった。
 ホテル『α−1』は、駅のそばですぐに見つかった。
 ツイン部屋で916号。7千円くらいだっただろうか?
 このホテルに大浴場は無いとのこと、自室の風呂に入るのも面倒になり、持
参した機材で春日八郎のカラオケを歌って遊んだ。S君がFMトランスミッタ
ー、私がFMラジオを借りて持って行ったので、それをつないで、MDでカラ
オケの伴奏を流しながら、二人で30曲は歌った。私は何年来カラオケをやっ
ていなくてまともに歌えないが、S君はなかなかに巧い。
 眠ったのは1時過ぎだろうか?





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