#7384/7701 連載
★タイトル (SEF ) 00/10/29 02:52 (105)
ART【7】 /えびす
★内容
喜八郎の仕事を受けてから五日間、赤坂はまったく普段どおりの生活を続
けた。仕事の期限は八週間後だ。今まで、仕事を受けてから何日かは、いつ
もぶらぶらすることにしていた。その習慣を変えると、変に怪しまれるかも
しれない、と赤坂は判断した。
図書館、フィットネスクラブ、近所のスーパー、近所の喫茶店、それに加
えて、映画も観に行ってみた。そこで判ったのは、確実に喜八郎になめられ
ている、ということだった。その点だけは確かにありがたい要素と言えた。
喜八郎は赤坂を過小評価している。少なくとも赤坂本人は現状をそう判定し
た。
この五日間で、尾行がふたりしかつけられていないことを赤坂は確認でき
た。ふたりでワンセットの尾行者は練度が並だったので、最初の一日ですぐ
に判別できた。そこで翌日、相手の人数を確認するため、フィットネスクラ
ブから映画館に移動する際にきわどいタイミングでJRに乗った。もちろん、
時刻表はこのために事前に調べてあり、慌てて乗ったのは故意だ。どこに行
くか相手に分からない状況で、相手に時間的余裕を一切与えずに列車に乗る。
案の定、ひとりは同じ車両に乗った。降りるとき、その男が上着のポケット
に手を入れるのが見えた。何らかの通信機器で符牒を使い、別の車両に乗っ
ている相方に連絡したのだろう。降りてから映画館まで、尾行がまたふたり
になった。基本通り、ひとりは反対側の歩道だ。劇場で約二時間過ごし、ふ
たたび駅に向かうと第一尾行と第二尾行とが入れ替わっていた。もし第三尾
行がいるなら、そちらが第一尾行と入れ替わるべきタイミングだった。三人
以上のセットであれば、赤坂ならそう組むし、普通のディレクターも同様の
組み方をするだろう。危険性とコストとを天秤にかけてみると、常識的にだ
いたいそういう手順に落ち着くのだ。
総合して考えると、訓練度が並の尾行者二名が常についている、という結
論が出た。
五日目の今日になっても、その結論は正しいように思えた。
これは、消えるかどうかの分岐点だった。今なら、確実にできる。ほぼ同
時にふたり消せるように状況をセットし、直後、即座に銀行で全預金を一旦
国外に飛ばす。彼らの定時報告が最悪一時間毎の高頻度だと仮定してもこち
らに三〇分程度の時間はあるだろう。飛ばしたら、すぐ消える。金は後で外
国で慎重に引き出せばいい。
殺害の場所と銀行の場所を何通りか考えながら、早朝のフィットネスクラ
ブで二〇分ほどの腹筋運動をした。毎回、メニューの最後にする運動だ。ク
ラブには毎日行くわけではないので、行く毎に腹筋に負荷をかけるぐらいで
もちょうどいい。
スポーツタオルで汗をぬぐいながら、赤坂は腹筋台から降りた。
小さなクラブなので、この時間だとあまりひとは居ない。赤坂ひとりしか
いないことも多い。今日は、もうひとり、少し離れたところで髪の長い女が
軽く柔軟をしているだけだった。赤坂が腹筋を開始してから一〇分ぐらいし
て入ってきた女だ。初めて見る顔だった。
シャワー室に行こうと女の後ろを通ったとき、その女が伸ばした身体をさ
らに横にストレッチしながら言った。
「いくらなんでも、ずいぶんと甘く見られていたみたいだな」
赤坂の足が止まり、反射的に一歩引いて間合いを空けた。
女は、軽く、とん、とん、とその場で二度跳んでから赤坂のほうを振り向
いた。
「あれでは一対二でもストレッチの代わりにもならない。女はいろいろな意
味で甘く見られる。ただし我々のような仕事の場合、それは利点だ」
その女は率直に言ってかなりの美人だった。スタイルもかなりいい。女が
赤坂の眼を見つめた。
「わたしが何の話をしているか。話の意味がわかるかわからないか、イエス
かノーかで答えてほしい」
赤坂は答えなかった。答える代わりに、演技のスイッチを入れた。赤坂は、
何を言っているのかさっぱりわからないというかのように訝しげに目の前の
女を見ると、シャワー室に向かった。ただし、首のスポーツタオルを外して
軽く右手に持った。絞殺に使える武器となるからだ。女に背を向けたのは、
一か八かだった。
「完璧な回答だ。度胸も座っている」
女が言う。
その言葉を無視してトレーニングルームを出た赤坂は、振り返って女がつ
いてきていないことを確認すると足早にシャワー室の前を通り過ぎ、ロッカ
ールームへ向かった。まずい。あの女がどういう人間かは知らない。ただ、
じぶんのペースでないことだけは間違いない。仕切りなおす、あるいは逃げ
るべき局面だった。
鍵つきのロッカーを開け、着替えの入っているボストンバッグを開いた。
着替えたらすぐにここを出るつもりだった。
バッグの中に、札束が詰まっていた。
さすがに赤坂の思考がストップした。
「三千万ある」
さっきの女がいつのまにか赤坂の後ろに立っていて、そう言った。赤坂は
その女の気配をまったく感じなかった。それで、あきらめた。手の打ちよう
がない状況だと判断した。
「どういうことですか」
「あと七千万出す」
「それで」
「つまり、一億で雇いたい」
恐ろしいほどの高報酬だった。仕事の内容も、それなりの難度のはずだ。
だが、これは赤坂が決めていた引退のための条件を満たすことができる金額
だった。これを最後の仕事にできる。
そこまで考えて、現実の問題を赤坂は思い出した。思い出すまでは眼前の
現金の効果で夢の中だった。急に現実に引き戻された。
「別の仕事を受けています。プロデューサーに話をつけてからにしてくださ
い」
「残念ながらもう彼と話はつけられない」
「消したのですか」
「心配しなくていい。全て片付けた。全て、だ」
この女は本当のことを言っている、と赤坂は感じた。急に肩が軽くなった。
同時に、頭が回転した。
「あとひとり消しておかないと問題になる可能性があると思います。しかし
それが誰かは判りません」
「いいセンスだ。見込んだだけのことはある」
「どうしますか」
「調べて消すだけだ」
嵯峨は簡単にそう言った。
二日後の深夜、ある宗教団体の会長の自宅が全焼した。焼け跡からは逃げ
遅れたらしい当人の遺体が発見された。失火は居間での煙草の不始末が原因
らしい、ということだった。
【つづく】