AWC 吉外信報61                 大舞 仁


        
#7092/7701 連載
★タイトル (XVB     )  99/ 7/10  10:25  (124)
吉外信報61                 大舞 仁
★内容

 今回は新展開! 暮らしの中の「七」(今は無き雑誌フォークロアより、この雑
誌良心的な内容で好きだったのだけどな。マイナーな民俗学が専門であって発刊
して少しして消えた)を特集します。

「七」をめぐる葬送儀式
 初七日 
  死亡後初七日までの一週間は喪家の者にもっとも重い忌が課せられました。
  墓参りに行くには編笠をかぶっていかねばならず、墓穴掘りに用いた道具類
 は七日間外庭で晒したりしました。また、この間に死者が蘇生する可能性(今
 では医療が発達してそんなことはないでしょうが、昔は心臓の病とかで急にぽ
 っくりなくなったときに蘇生する可能性があったのでしょうね。またこの仮死
 状態のときに臨死体験をしたのでしょうけど、その説明はまた別の機会にで)
 があったために、死者の顔を見に行き、三味線などを鳴らして飲酒する風が南
 島の風葬(遺体をむしろに包んだり棺に納めたりして地上におき、風化を待つ
 葬法)洞穴墓の分布する地帯にはあった。
  また初七日は、ヒアケ、アラビアケ、シアゲなどと呼ばれ、荒忌の明ける日
 である。この日まで毎日死者の着物を北向きに懸けて水をかける「七日晒し」
 の例が各地にあったそうで、また村の念仏講(念仏を信ずる人達が当番の家に
 集まって念仏を行うこと)が毎夜詠歌を唱えに喪家を訪れる。あるいは七日間
 墓地で火を焚く所もある。初七日が過ぎると一応そうした行為をやめる。忌は
 謹慎の晴れる第一段階であり、それはケガレの一種としてできたものである。

 七日帰り
  和歌山県有田郡清水町では初七日の日に死霊を送り出す儀式をした。庭、祭
 壇の横、縁先、軒下などに竹三本を結んで三脚状に立て、これに蓑、笠を掛け、
 供物を供えて祀った後、墓地、村境、川などにこれを送り出した(灯篭ながし
 にもにてないことはない)同様の風習は徳島県三好郡、見馬郡、麻植郡の数カ
 所でも伝承されており、三好郡池田町大申では、六日夕刻に庭の入口に三脚状
 の竹を立て、これに蓑・笠を掛けて、さらに三脚中ニ脚には麦わらの束を結び
 つけて人間の姿にします。この作りものをカリヤと言い、飯や灯明を供えて祀
 るとともに、翌七日のシアゲの膳がすむと、棺かつぎ役をした親類の者がカリ
 ヤをかつぎ、「もう来んぞー」と叫び、鉦(かね)を三回鳴らしながら谷へ捨て
 に行く。カリヤは庭に作られる地区がほとんどで、送り出す場所は墓地、山、
 谷、畑、川などである。
  
 ナナクララヨセ
  中陰行事として秋田県男鹿半島では産死者、子供の溺死者、不慮の死をとげた
 大人などに対しナナクラヨセ(七座寄せ)という儀式をしたことが柳田国男は言
 っている。(この場合の霊は普通の往生の仕方をしながったために残された民の
 鎮魂と畏怖が入っていると思う)エダコ(巫女)に依頼して死霊を七回も続けて
 下ろす行事であり、一回ごとに霊前を代え、また一回ごとにエダコに白米一升ず
 つをあげる。下しが七回終ると、板の小舟に藁人形を座らせ、七色の布片で七色
 の旗を作って小舟に立て、食物を満載して小川に流す。エダコにあげるお礼の米
 は喪家の親類の女たちが、男鹿中の村々を巡ってもらい集めたものという。巫女
 による死者の口寄せが七回連続して行われるわけで、荒荒しい死霊に対しては、
 これほども鄭重に声を聞き、かつ死霊そのものを藁人形に憑依させて送り出そう
 とした。ナナクラヨセとは七度の座を設けて死霊を下ろすことであり、あちこち
 に彷徨しているあそれのある荒霊をくりかえして招き入れて鎮送しようとしたわ
 けである。

 七軒乞食
    三重県度会郡では「七軒乞食」という習俗がある。葬式後、喪家の屋根の見え
 ない範囲の家七軒から米銭を集める。各家に行って「オヤゴイ願います」と叫ん
 で米銭を乞い、その米で作った握り飯を藁包みに入れて左の肩に背負い、「オヤ
 マケせんように」と唱えながら夜の海に行って、うしろ向きになり、左の肩越し
 に海中に捨てる。親より長生きするための行為で、オヤゴイとも言う。多気郡で
 も葬式の帰路、親を亡くした子供は将来困らないように、七軒の言えから乞食の
 まねをして米を一つかみずつ貰った。これも七軒乞食と言った。
  オヤマケとは親負け、すなわち親の死のケガレを受けて負けること、忌負けの
 ことであろう。忌負けして死の世界へつれて行かれないように、七軒の家から米
 の合力によって子は力を強め、一部の米で作った握り飯を海に捨ててケガレを払
 ったと思われる。

 七色の豆配り
  同齢者が死亡したという通知を受けたとき、七色の豆(七種類の豆)を紙に包
 んで、我が家から棟の見える七軒の家に配り歩く習慣を滋賀県蒲生郡にある。三
 重の七軒乞食は物乞いであるが、この例は贈与である。つまり同齢者であるため
 にうけたケガレを他家に分散して死の危険を防ごうとする呪術である。物乞いも
 贈与も「七軒」の範囲を共通する点、七軒が正負両様の運命共同体であった。

 七本塔婆
  墓地には七日ごとに四十九日まで計七本の塔婆が建てられる。所によっては埋
 葬時にまとめて七本塔婆を建て、初七日以降一本ずつ抜いていく例もある。いず
 れにしても、埋葬上には七本の塔婆が建てられて四十九日という荒霊期間の死霊
 の往生がはかられる。

 七つ墓
  両墓制の埋墓では、遺骸はどこでも埋めてよいとするのが古い姿であった。と
 ころが共同埋墓内に七ヶ所の固定した埋葬地を設けている例がある。和歌山県橋
 本市只野は三五、六の小さい村で、両墓制地区であるが、昔から埋墓内には七ヶ
 所だけに限定された埋葬地(墓穴)があり、新しい墓穴を増やしてはいけない。
 「只野の七つ墓」といい、奇習とされている。

 お七夜・七五三
  これは人が生まれてから七日目に祝いをするのがお七夜といい、これは昔赤ん
 坊が生まれて七日目までに死ぬことが多かったことがことから七日を乗り越えれ
 ば生きることができるというお祝いだったのである。この日に名前を名づけるこ
 ともした。同様にして七五三(特に女子の場合帯解きの祝いと呼ばれ、男女に限
 らずも七歳になると祝った)子供は七歳までに死ぬものが多く、これを乗り越え
 るとうまく育つことができるとしたものである。また、「七つ前は神のうち」と
 も呼ばれ、七歳になるまで何を考えているのかわからず、何を言っているのかわ
 からず、七歳になるまでは神の子として特別扱いされてきたようである。七歳を
 すぎることによって社会に認められたことになる。これにも面白いことに先に紹
 介した七軒乞食とは反対に、子供が七歳になると、正月の七日に各自が近所七軒
 をまわり、雑炊を貰って食べると病気にもならず元気に育つと考えられていたよ
 うである。

  反対に死ぬとナナクララオセのように、産死者、子供の溺死者、不慮の死をと
 げたものは、生者は死者の恐れ(祟りとでも言おうか)ケガレを払うために死者
 をああいった風に扱う。これは大昔の屈葬(体を折りたたんで埋葬する)と同じ
 く死者を生者から守るために行われた。
  生きても死んでも七は畏怖がこめられていると思う。

 七人同行・七人みさき
  七人同行は、四辻などで牛の股から向こうを覗くとゾンビ(成仏していない死
 者でブドウ教のゾンビとは別物)が七人一列になっているものが見え、それを見
 たものは死ぬ。
  七人みさきとは溺死者が七人を誘いだす(つまり殺すことですな)まで成仏で
 きない死霊のことである。

 七不思議など言葉としての七
  人間というのは七という言葉が好きで仏典では七難・七福・七情・七聖財・七
 宝・七珍、民俗では草分七軒・七福神・七つ道具・七色菓子・七所粥・七変化・
 七人御先・七草・七夜・七五三・七鳥居・七墓巡り・七口・七瀬などがあり、多
 くの数や聖数になっている。このように七つの構成物は曜日・惑星・天・虹・海
 美徳と悪徳・学芸・音階・賢人など時代や文化をこえてあります。
  七という数字は完璧な秩序や循環を意味し、知恵や幸福の数を象徴する聖数で
 あったが、古代ギリシャの哲学者ピタゴラスは「七は三と四に分けられる。三は
 神(三位一体=父・子・精霊)を表し、四は四方世界(東西南北)を表す。この
 三と四を合わせた七という数字は、無限の神と有限の世界を同時に示すもので、
 宇宙全体はこの七という数字の中に完全におさまっている」と述べている。

                                 大舞 仁




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