AWC わたしのコンサート鑑賞(4)   /竹木貝石


        
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★タイトル (GSC     )  98/12/13   0:46  (141)
わたしのコンサート鑑賞(4)   /竹木貝石
★内容

    ウート・ウーギ ローマ室内管弦楽団
   華麗なるヴィルトゥオーゾ 傑作の競演

 ヴァイオリン演奏の世界も、往年の大家たちが次第に姿を消し、世代交代が行われ
ていく。近年ラジオでよく聴く大家といえば、ギドン・クレメル、ウート・ウーギ、
そしてアジアの国々のソリストたちであるが、私の耳が鈍感になったせいか、昔の一
流ヴァイオリニストに比べ、現代の演奏家たちはいま一つ物足りない気がする。
 気に入った演奏をラジオで聴いたりすると、自分の好みに合うヴァイオリニストを
求めて、CDを買ったり、コンサートを聴きに行ったりしてみるが、どうも「いまい
ち」である。

 半年ほど前になるが、私はオーケストラと竹沢恭子(ヴァイオリン)の演奏会の切
符を買って引き出しに仕舞っておいたところ、うっかり忘れてコンサートに行きそこ
なった。二万円もするS席だったのでショックが大きく、私はもう二度と音楽会の券
は買うまいと思った。値段もさることながら、自分が好きで買った演奏会を忘れてし
まうというのは、記憶力の衰えとともに、音楽会に対する興味が薄くなった証拠でも
あり、忘れるようなコンサートなら無理して行くことはないと考えた。

 今回は、後輩のI君が、招待券を3枚もらったと言って誘ってくれたので、彼と私
と、彼のカラオケ教室の生徒であるEさん(年輩の女性)の三人で、ウート・ウーギ
の演奏会に出かけた。
 夕方5時前に、Eさんの運転するワゴン者で迎えに来てくれて、愛知県芸術劇場に
到着、地下五階の駐車場に車を入れ、十階のレストランでホットコーヒーを飲んだ。

 開場6時半、開演7時。
 私たちの席は、コンサートホール 二階 14列の24〜26番。
 所々空席もあって、最近は数え切れないほどたくさんのコンサートがあるから、主
催者や演奏家の苦労が察せられ、わが子を音楽家にしなくて良かったと負け惜しみつ
つ、自らを慰めている。
 Eさんが、会場の説明を次のようにしてくれた。
 天井は、あたかもカーテンを貼ったような感じに漆喰で塗り固められ、左右の端が
カーテンを搾った形に垂れ下がり、その中に照明が納まっている。
 天井から、畳一畳ほどもある透明な反響板が、舞台と客席の何カ所かに釣り下げら
れている。
 舞台を取り囲んで観客席があり、二階は、正面が8列・左右が2列ずつ・後ろが3
列とのこと。

 プログラムは以下の通りであった。
 【1】ボッケリーニ 交響曲 D MOLL OP’12−4 「悪魔の館」
 【2】モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第五番 A DUR K’219 「トル
コ風」
 (幕間休憩)
 【3】パガニーニ ヴァイオリン協奏曲第四番 D MOLL
 【4】サラサーテ カルメン幻想曲 OP’25
 アンコール:バッハ 管弦楽組曲第三番より「ガボット」
 なお、チェリストのルカ・シニョリーニが競演したが、チェロの活躍する場は少な
かった。

 【1】は馴染みの薄い曲だが、第三楽章の最初の旋律には聞き覚えがあった。
 オーケストラはまだ本調子が出ず、モッソリと歯切れの悪い演奏だったが、音が全
体的に不鮮明に聴こえたのは、会場の音響効果が悪いせいでもある。
 近頃の音楽会場は何故あのように残響の多い設計をするのか、私は常々不満に思っ
ており、何処のホールへ行っても、ワアーン ワアーンと反響して、まるで地下道に
でも入ったような、あるいはカラオケのエコーを掛けたような、耳障りな響きが飛び
交っている。元来残響の嫌いな私は、レコードやCDでも、なるべくエコーの少ない
録音しか買わないが、生演奏でエコーが強すぎるくらいつまらないことはない。特に、
今夜の『芸術劇場コンサートホール』は、見かけだけは立派だが、肝心な音響効果が
出来ていない。エコーでごまかされるのは初心者の聴衆であり、ことにクラシック音
楽では、名器の生の音を直に聴くことこそが醍醐味なのだ!

 【2】は大変美しい曲で、もしも、古今の音楽の中から好きなレコードを5枚だけ
選べ といわれたら、私は迷わずこの曲を挙げるだろう。
 ウート・ウーギの生演奏は、優しく綺麗な音質、まさにヴァイオリンらしいヴァイ
オリンの音という点で感心したが、あまりに倍音が少ないために、昔のLPレコード
を聴いている感じがして若干物足りなかった。Eさんが言うには、割合背丈の低い人
だそうだから、音も繊細なのだろうか?
 彼のビブラートが細かくて早いので、残響の大きい会場では一層不鮮明になって、
細かいフレーズが聞き取れない。最前列で聴くとか、もっと狭いホールなら良かった
と思う。
 それにしても、最初のうち、音程が微妙にずれていたのは何故だろう? 名人の演
奏にしては、些か腑に落ちない点だった。
 モーツァルトの作品は、楽器を習った人なら誰でも1曲や2曲は挽くし、取っつき
やすく親しみやすいのが特色である。けれども、モーツァルトの音楽が軽いとか簡単
と考えるのは早計で、聞き方によっては、パガニーニやリストよりも難しく、寸分違
わぬ音程とリズムを要求されるのである。

 幕間の時間に、ロビーの店で、I君がCDの三枚組を購入したが、私は自重した。
なにしろ、わが家にはCDやMDが山ほど在っても、それを聴く暇がないのだ。
 音楽会の終了後にも、もう一度その売場へ行ってみたら、既にCDは完売となって
いた。

 【3】に至り、伴奏のオーケストラはようやく活気を帯びてきて、ウートウーギの
ソロは快調そのものとなった。
 それまで静かに耳を傾けていたI君は、感激の拍手とともに、
「巧い!」
「素晴らしい!」
「すごい!」
 と、賛嘆を惜しまなかった。

 【4】も、スピカットやフラジオレットを駆使した超絶技巧であった。
 歌劇『カルメン』の中から、サラサーテがヴァイオリン用に編曲した組曲で、4曲
演奏したが、一曲毎に長い拍手が鳴りやまず、何処からがアンコール演奏なのか区別
がつかなかった。

 バッハのガボットは勿論アンコール曲で、清楚な美しい演奏だった。
 Eさんが最後の拍手の終わらないうちに席を立ったので、私も後ろについてホール
を出た。確かに、しつこくアンコールを要求するのは私の好みでないが、早々と席を
立ってしまうと、もしかして演奏者の方にまだアンコールの用意があるかもしれず、
あまりさっさと帰るのも失礼な気がする。

 ヴァイオリンの音色について言及しておく。
 チラシによれば、今宵ウート・ウーギが挽いたヴァイオリンは、二台の名器であっ
た。
  『Xグリュミオー』と呼ばれる1744年製作のグァルネリ・デル・ジェス
  『クロイツェル』と呼ばれる1701年製作のストラディバリ
 この二つのヴァイオリンを聴き比べるのが、今夜の私の最高の楽しみだったが、年
をとって耳が悪くなったせいか、会場の残響がひどかったからか、はっきりと聞き分
けることが出来ず残念だった。
 多分、【2】曲目がストラディバリ、【3】曲目以後はグァルネリだったと思うが、
当たっているかどうか自信はない。
 前者は、ヨゼフ・スークの音色に似ていたし、後者は、アイザック・スターンに似
た倍音が僅かに混じっていた。
 今回の演奏で、ストラディバリウスとグァルネリウスが、ほとんど同じ音質だった
ということは、ヴァイオリンの音が個々の楽器で異なる以上に、演奏者によって特徴
付けられるということになる。
 楽器の違いをよく聴き分ける人も居るだろうが、あらゆる条件を一定にしない限り、
至難の業ではないだろうか。

 演奏会場と残響についても、もう一度触れておきたい。
 パンフレットの中に、ウート・ウーギ自信の言葉として、次のように書かれていた。
「日本で一番感心したのは、会場が何処も大変立派だということです。……イタリア
でも、もっと音楽文化に予算を使ってほしいと要望しているのですが、なかなか実現
しません。」
 これは正に演奏者としての声であり、聴衆側の見解ではない。
 残響について、私には忘れられない苦い思い出がある。かい摘んで述べると、学生
時代に、名古屋市公会堂で男声合唱をした時のことである。1500人あるいは
2000人もの観客が入り、管弦楽演奏の前座として舞台に立って合唱したが、自分
の歌声が全部何処かへ吸収されてしまい、他の団員の歌う調子外れの声だけが妙には
っきり聴こえてきて、全然ハーモニーが作れなかった。
 このことからも、昔の公会堂のような残響がほとんど無い会場では、どれほど演奏
がしにくいかということを、私は十分知っているつもりである。
 京都の東本願寺の本堂に上がった時も、自分の話す声が天井へ消えていってしまう
感じで、四百畳敷きの部屋というのは、まるで満員の公会堂の舞台と同じであった。
 こんな場所で音楽演奏をしたら、あらが目立ってどうしようもないだろう。
 とすると、残響の強弱は、演奏者と聴衆にとって正反対の効果を表すのだろうか?
 否、私はそうは思わない。演奏しやすく聴きやすいコンサートホール、そういう設
計術が必ずあることを私は確信している。


          [1998年(平成10年)12月11日   竹木貝石]




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