AWC アゲイン(その7)    りりあん


        
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アゲイン(その7)    りりあん
★内容
          アゲイン(その7)
                     りりあん

 そのレストランはホテルの地下にあった。店の内部はディナータイム
らしく薄暗い。インテリアとして置かれている作り物の椰子が、気味の
悪いほどリアルに見えた。
 案内された席につくとき、隣のテーブルにいた壮年の男性と一瞬目が
合った。
 料理はコースでなくアラカルトで注文した。ベトナム風の生春巻きや
香菜入りのシーフードサラダは、食事というよりワインのつまみに近か
った。酔いがまわってくるにつれ、互いに舌が滑らかになった。拓巳は
大学時代の下宿先での失敗談やサークルの話をして、真砂を笑わせてく
れた。
「そうだ、あれ、やめちゃったの?」
「なにを?」「ええと……クラリネット」
「ああ……、よく覚えてたね。確か高2でブラスバンドから引退してそ
れっきり」
「もったいないね」
 真砂の言葉に、彼はちょっと肩をすくめただけで何も言わなかった。
 「君も結構強いんだな。驚いたよ」
 エスカレーターの上で笑いながら拓巳は言った。
「そうでもないわ」
 真砂は思わずうつむいた。頬が燃えるように熱い。顔は赤くなってい
るだろう。色白だからよけいに目立つのだ。
「顔に出るのっていやね」
「酔い覚ましに……夜景でも見ようか」
 拓巳は真砂の耳元でそう囁くと彼女の手を軽く握った。互いの指と指
が絡まり合うのに、たいして時間はかからなかった。
 
 真砂はレースのカーテンを開けた。窓ガラスの向こうには地上の星屑
が散らばっていた。額を擦りつけるようにして見下ろした先には、ふた
つずつ並んだオレンジ色の流星が次々とカーブを描いて駆けてゆく。
「きれいだな」拓巳の声がした。
「そうね」
 彼女は振り向かずに、ガラスに映った拓巳の姿を見た。彼は真砂のす
ぐ後ろに立っている。
「水でも持ってこようか?」
 拓巳はそう言いながら、真砂の腰にゆっくりと両腕を回した。微かな
紫煙の匂いが鼻をくすぐる。
 拓巳を愛している、彼に抱かれたいと思っている。それなのに彼に全
てを預けてしまうことができない。ここまできて何故ためらうのだろう
。いらない、と彼女は呟いて目を閉じた。
「後悔してるのか……」
 静かすぎる声が真砂を咎めた。(とがめた)軽く首を振る。
「あなたはどうなの……?」
 顔をややうつむきかげんにして目を開けた。拓巳を見る勇気がない。
視界の端を流星が走ってゆく。
「僕は……、自分の心には嘘をついていないつもりだ」
 腕の力がそれを証明していた。情事、そんな言葉が心に浮かぶ。拓巳
はどうして自分を抱くのだろう。真砂は本当の自分自身を取り戻すため
に彼を求めている。単調な日常生活に振りかけるためのスパイスではな
い。
「ねぇ、やっぱり何か飲まない?」
 拓巳の腕から逃れたかった。しかし彼が黙って真砂を自由にしたとき
、彼女は軽い失望を覚えた。勝手なものだ。
 冷凍冷蔵庫の上にある棚には、グラスなどの他に何本かのミニチュア
ウィスキーが並んでいた。真砂はふたつのグラスに氷を入れ、適当に取
り出した琥珀(こはく)色の小瓶の口を切った。そしてほぼ均等になる
ように液体を注いだ。
 拓巳は窓際に立ったまま上着の内ポケットを探っている。
 真砂はこのとき初めて部屋の全体を把握できた。落ち着いた色合いの
ソファーと灰皿がのったガラステーブル、ビデオ付きテレビ、こげ茶色
のライティングデスクなどが行儀よく所定の場所に置かれていた。どち
らかというと地味なインテリアが並ぶなか、スタンドに照らされたセミ
ダブルのベッドだけが異彩を放っていた。
 拓巳がタバコに火をつけた。彼の横顔からは何も読みとれない。時折
、外に目をやりながら、真砂の存在など忘れてしまったように煙を吐き
出している。
 不倫に意味を求めるのは間違いなのだろうか。いっそのこと、拓巳が
妻とはうまくいっていないとか、寝ていないとか、いわゆる男の常套句
(じょうとうく)を言ってくれたらと思った。だが彼は家庭のことにつ
いてひとことも話そうとしなかった。
愛している、それだけじゃ駄目なのか?
言葉や仕草の端々にそのことを感じても、無条件で喜べるほど若くはな
かった。
 「真砂」 肩を揺さぶられて我に帰った。いつの間にか、拓巳が目の
前に立っていた。ずっと彼を見ていたはずなのに、なんか変だ。
「いやだわ、ぼうっとしちゃって」
 氷が少し溶けかかり、グラスは汗をかきはじめていた。ひどく決まり
が悪い。
「はい、これ……」
 そう言って彼女はオン・ザ・ロックを拓巳に差し出した。だが彼はそ
れを受け取るかわりに真砂の手首をつかんで、強い力で引き寄せた。グ
ラスが鈍い音をたてて転がり、氷と琥珀色の液体がじゅうたんの上に黒
いしみをつくる。
「もう、これ以上じらすな」
 拓巳は絞りだすような声を出した。真砂は息ができなくなるほどきつ
く抱きしめられた。彼の鼓動が真砂を叩く。
「ひとりで遠くへ行かないでくれ」
 心を開いていないのは真砂のほうなのかもしれない。
「怖くて、不安で……」
 声が震えてしまい、それ以上は言葉にならなかった。拓巳を自分ひと
りのものにしたい。自分のために全てを投げ捨てて欲しい。拓巳の手が
髪を何度も撫でるのを感じながら、どんな理由をつけても結局はそこに
行き着くことを悟った。
「どうしたら真砂に信じてもらえる?」
「私に……、ちょうだい」
 真砂は拓巳の上着の胸に唇を押し当てるようにして言った。
「あなたを……全部」
 自然と小声になる。もう言わせないで。
「みんな真砂にやるよ……、誓ってもいい」
 ただし、この部屋にいる限り。それが現実なのだ。真砂はかぶりを振
った。
「ここでいくらそう言っても、きっと家に帰れば何事もなかったような
ふりをするのよ」
 拓巳に向けたはずの台詞は真砂自身を直接刺し貫いた。自分だってき
っとそうするはずだ。ありもしなかった同窓会についての作り話をまこ
としやかに語るに違いない。わが身を守り、今夜のようなひとときを再
び楽しむために。なんていやな女だろう。
「……悔しい」
 思いがけず、涙声になった。真砂は拓巳の腕を振りほどき、彼の胸を
両方の拳で何回も叩いた。熱いものが筋となって頬をつたう。自分への
怒りや見ず知らずの女に対する嫉妬が、いまの彼女を突き動かしていた
。
「真砂は僕にとって一番大切なんだ」
 拓巳はそう言った瞬間、真砂を抱きすくめて唇を奪った。身体中の力
が一気に抜ける。
「君のためなら僕は死ねる」
 熱情にうかされた声が耳元で響く。
「拓巳……」
 ふたりとも踏み絵の前にひざまづき、そしてくちづけたのだ。怖れる
ものは何もなかった。
 たとえ一瞬でも離れたくない。ぼんやりと照らし出された浮き舟の中
で、ひとつに溶け合った。恍惚とした喘ぎ(あえぎ)が洩れるたびに、
それは波間を漂う木の葉のように揺れる。
 汗ばんだ皮膚が激しく火照り、のけぞるような凄まじい快感が全身を
貫いた。荒い呼吸と共に、舟はゆっくりと動きを止めた。
 部屋の中は独特のけだるい空気に満ちていた。真砂は拓巳の肩に頭を
のせ、彼にぴたりとくっついていた。
 穏やかに上下する彼の胸にそっと手を置いてみる。眠ってしまったの
か、何の反応もない。だが伝わってくる静かな鼓動は、これが夢ではな
いことを教えてくれる。体内に残ったワインと心地よい疲労感が瞼を自
然に重くした。
 それからどのぐらいたったのだろう。気がついたとき、隣に拓巳はい
なかった。目をこすりながら上半身を起こす。
「目が醒めた?」
 拓巳の声がした。顔をあげるとバスローブを着た彼が立っていた。そ
の髪は少し濡れて、身体からは仄かな石鹸の匂いがする。シャワーを浴
びてきたのだろう。
「やだ……、眠っちゃったのね。起こしてくれればよかったのに」
「あんまりかわいい顔して眠ってたから、起こす気にならなくてね」
 拓巳は微笑みながらそう言うとベッドに腰掛けた。どこか愁いを含ん
だ目で、肩越しに真砂を見る。彼女はあわてて乳房を隠すように毛布を
引っ張り上げた。
「……どのくらい眠ってた?」
 いま、何時だろうか。時計が気になって仕方がない。今夜は息子と一
緒に実家へ泊まることになっている。
 心の片隅では、帰りが遅れたときの言い訳を必死で捜していた。母が
怖いわけじゃない。だったら何に怯えているのだろう。
「30分ぐらいかな。長い時間じゃない」
 甘い余韻は煙となって消え失せ、ほろ苦さだけが広がっていく。拓巳
には何もかも見抜かれているのかもしれない。
「……私、着替えなきゃ」
 真砂は拓巳から目をそらして、小さな声で呟くように言った。彼が黙
って立ち上がったとき、ベッドのスプリングが僅かに軋んだ。
やるせなさが胸の中に溢れた。
 真砂は素早く服を着て、髪と化粧を直した。拓巳のほうは着替えもせ
ず、バスローブ姿のままで寝乱れたベッドの上で仰向けに伏していた。
何も言わず、ただ天井をじっと見ている。
「泊まっていくの?」
 沈黙が怖くて、イヤリングをはめながら彼に話しかけた。
「ああ……、どうせ誰もいないし」
「誰もいない?」
「いや、別に……。この部屋で真砂の残り香を抱いて寝るよ」
「気障(きざ)ね、拓巳らしくないわ」
 真砂は鏡を覗きこみ今度は前髪をいじった。
「僕は本当のことしか言わないさ」
 思わず振り返って拓巳を見る。いつの間にか、彼は上半身を起こして
いた。
「じゃあ、誰もいないっていうのは?」
 深い意味はなかった。ちょっとした悪戯(いたずら)のつもりだった
。一瞬、拓巳の表情がこわばる。
「……家族が」
 そう呟いてまた仰向けになった。彼は大きく息を吐きながら、
「バツイチなんでね」
 他人事のようにあっさりと言い放った。

                     つづく      




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