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「始発電車殺人事件」 連載第13回 叙 朱 (ジョッシュ)
★内容
「始発電車殺人事件」 連載第13回 叙 朱 (ジョッシュ)
44 中央林間
午後二時三十分。
栗原と山下の乗った車は中央林間の救急病院に到着した。休日で一般外来が
休みのせいか、駐車場は閑散としている。病院の正面玄関近くの駐車スペース
が空いていた。車を停め、二人は病院へと歩いた。
がらんとした病院のロビーには、神奈川県警Y署の捜査員が待ち受けていた。
栗原が会釈をすると歩み寄ってきた。
「栗原警部補ですか?ご苦労様です。」
栗原が山下を紹介する。
「どうもご迷惑をおかけいたします。」と、山下は軽く会釈をした。
Y署の二人は、そんな山下をじろりと鋭い目で一瞥する。
「山下さんの奥さんの病室はどちらでしょうか?」
栗原が聞いた。年配の方が答える。
「二階の二〇四号室です。」
栗原は山下を促した。Y署の捜査員たちは山下について行きかけたが、栗原
が、まあまあ、と押しとどめた。奥さんが自殺だと言っているのだから無理な
尋問もできまい。栗原はロビーにならんでいる椅子のほうへひとりですたすた
と歩き出した。
山下は教えられた階段を上り病室へ向かった。
階段の正面のナースステーションには当直の看護婦がいた。山下は念のため
に幸代の具合を聞いた。看護婦は、大変でしたね、と前置きして幸代の容態の
説明をした。
「幸いなことにガスをあまり吸い込んでいなかったので、後遺症の心配はない
と思います。先程から催眠剤入りの点滴で眠っていますがブドウ糖の点滴が済
めば、お引き取りしていただいても大丈夫だと主治医の先生は言ってます。」
山下はほっと溜め息をついて礼を言った。看護婦はにこりと笑って、お大事
に、と答えた。
幸代のベッドの脇には男が座っていた。山下がドアを開けると、ばね仕掛
けのようにさっと立ち上がり、山下を振り返った。
「山下さん、お久しぶりです。」
スポーツ刈りの男は白い歯を見せてそう挨拶した。山下は、その若い男の顔
に見覚えがあった。が、とっさには思い出せない。だいぶ前に確かに会ったこ
とのある男だった。灰色の背広に、ネクタイの結び目が少しほどけかかってい
る。笑顔が真顔に戻ってゆく。山下が思い出せないことにいささか落胆してい
るようでもあったが、男は口を開いた。
「啓介です。もう十年前になりますが、山下さんにご迷惑をお掛けしまし
た。」
山下の頭の中に、真っ青な顔で焦げ付きの報告をした新入社員の顔が浮かん
だ。この男はあのときの...。
「江尻啓介です。K商会に入社早々、一千万円もの不良売り掛けを作って山下
さんにご迷惑をかけ、しかも会社を休んでしまった情けない男ですよ。」
啓介は、笑いながらそう言った。
「その君がどうしてここに。」
再会の挨拶よりも疑問の方が山下の口をついて出た。
啓介は折畳み椅子をひとつ山下の前において、どうぞと促した。ベッドの上
では幸代が眠っていた。白っぽい顔色だった。
「幸代さんに頼まれたのです。」
啓介は、山下が折畳み椅子に腰を下ろすのを待って話し始めた。
「幸代さんは、二年前の山下さんの突然の降格帰任がどうしても納得がゆかな
いと言ってました。そして私に調べてくれと依頼してきたんです。」
「どうして君にそんなことが頼めるんだ?」と山下は聞く。
啓介は山下に名刺を差し出した。東日経済新聞社国際部江尻啓介とあった。
「実は例の焦げ付き事件で商社マンとしての自信をすっかり無くしまして、翌
年に山下さんがアメリカに転勤になったのに合わせて、K商会を退職したんで
す。たまたま、東日経済新聞から誘いがあったものですから。」
「君が自信を無くす必要はなかったんだ。あれは、僕の監督ミスなのだか
ら。」
山下は同行営業をしていた当時の気持ちを思い出してつぶやいた。啓介は急
に嬉しそうな顔になった。
「有難うございます。そうして山下さんは私をかばってくださいました。本当
にありがたかった。人の足を引っ張ってでも、新人にミスをなすりつけてでも
上にのし上がろうという商社マンが多い中で、そう言ってくれる山下さんはき
らきら光ってました。」
啓介はしばらくそこで口をつぐんだ。まだ、山下の質問に答えていない。話
す順序を考えているようだった。
「確かに、焦げ付き事件の頃は幸代さんとお付き合いしていました。会社を休
んでふさぎ込んでいる私から幸代さんは焦げ付きのことを聞き出すと、上司に
会いに行くと息巻いていました。そんな大金のトラブルで新入社員に責任を押
しつけるなんてとんでもない、と怒ってました。幸代さんは本当に真っすぐで
純粋な人でした。そして本当に山下さんい会いに行ったんですね」
「そうだ。」
山下は、初めて会ったときの幸代の真っすぐな瞳を思い出した。着ていた紺
のベルベットのワンピースまで思い出す。啓介の話は続いた。
「帰ってきた幸代さんは浮き浮きしていました。あんな人もいるんだね、安心
したわ、と嬉しそうでした。結局、体面を気にした私の叔父が急きょ一千万円
の穴埋めをした後も、幸代さんの気持ちが山下さんへ振れてゆくのははっきり
分かりましたよ。」
「ちょっと待ってくれ。君の叔父さんが一千万円の穴埋めをした?そう言った
のか?」
山下は啓介の意外な話に驚いた。幸代の実家が穴埋めしてくれたのだとばっ
かり思っていた。啓介はバツが悪そうな顔になった。
「すみません、つい口を滑らせてしまいましたが、この件は秘密だったのです。
でも、もう十年も前のことですから、時効でしょう。」
啓介は決まりが悪そうだった。山下は啓介の名刺をもう一度見た。
「君の叔父さんというのはひょっとしたら?」
啓介が頭をかいた。
「そうなんです。K商会海外統括本部長の江尻武夫は、私の叔父です。もっと
も、叔父は私が入社した昭和六十一年頃はフィリピンK商会に駐在していまし
たから、ほとんど社内で知っている人はいませんでした。その後叔父はすぐに
台湾K商会設立のために台湾に移り住み、そして去年東京本社に呼び戻される
まで、ずっと海外だったので実際に社内でも会ったことはありません。」
「そうだったのか。しかしよく一千万円もの大金が作れたな。」
山下は素直な感想を述べた。啓介は、山下の一言を独り言ととったのか話題
を変えた。
「幸代さんが山下さんを追いかけるようにアメリカに結婚していった後も、時
々便りの交換ぐらいはしていました。もともと、幼なじみでしたからね。そし
て、私が新聞社に入ったことも彼女は知っていたわけで、それで頼みやすかっ
たんでしょう。」
そのときベッドの上で、ううっと幸代がうめいた。そろそろ、催眠剤が切れ
るのかもしれない。ブドウ糖の液は点滴瓶の中にまだ半分くらい残っている。
山下が見つめるうちに幸代はまた静かな寝息に戻った。啓介が少し声を落とし
た。
「調べてみて分かったのですが、山下さんの突然の帰国命令には、いくつか不
可解な点があるんです。」
言いながら、啓介は小型の手帳を内ポケットから取り出した。
45 長津田
午後二時三十分。
神奈川県警N署の嶋田捜査係長が電話を片手に柏木警部を呼んだ。
「主任に警視庁S署からお電話です。」
柏木はちょうど、木村弦一の尋問について考えているところだった。木村の
移送車は、厚木バイパスにさしかかっているという連絡が入ったばかりだった。
あと三十分もすればN署に到着するだろう。木村には聞きたいことがたくさん
あった。何気なく受話器を手にした柏木の耳に、聞き覚えのある男の声が飛び
込んできた。
「この間はどうも。S署の立花です。」
柏木は不意をつかれ、一瞬、自分の耳を疑った。立花警部とは数ヶ月前に激
しい口論をしたっきりだった。ツキオンナケモノ事件だ。柏木の驚いた気配を
察したのか立花が続けた。感情を抑えた口調だ。
「山下玲二という男のことについて知りたい。そちらで事情聴取をしたと聞い
た。」
「山下はもうここにはいないけれど、何が知りたいの?」
柏木は体勢を整えるため、嶋田捜査係長の押し出した椅子に腰を下ろした。
「新宿Cホテル殺人事件の容疑者、倉科エリコとの関係を知りたい。倉科の行
方を知っているかもしれない。」
「ああ、K商会の役員がホテルの部屋で死体で発見された事件ね。山下が会社
から電話連絡を受けていたところにちょうど居合わせたけれど、特に変わった
様子はなかった。」
「それは何時頃の話だ?」
立花の言葉使いが雑になってきた。話に熱中してくるとこうだ。この間もこ
の調子で激しくやり合うことになったのだ。
「あれは昼の天丼を食べ終わった頃だったから、午後一時前くらいかな。」
柏木は努めて事務的な言葉使いで話した。
「K商会の誰からの電話連絡だった?」
立花は何かに引っかかっているようだった。柏木は思いだそうとする。
「山下は江尻本部長からだと言ったような気がする。でもそれがどうかした
の?」
「ふん。事件の報道発表は午後一時だ。K商会には電話をしたが、録音テープ
が回っていて誰ともコンタクトがとれていない。どうして、その江尻とかいう
男が午後一時前に事件を知っていたのか、興味があるな。」
なるほど、疑問はもっともだ。立花の神経質そうな顔が目に浮かぶ。しかし、
新宿Cホテル殺人事件の犯人の目星はついているはずだ。神奈川県警にも、特
別手配の連絡が入っている。何が気になるのだろう。
「犯人は倉科エリコという女性で間違いないんでしょう。」
柏木は聞いてみた。立花は少し黙り込んだ。
「気にくわないんだ。」
立花の声が不機嫌になった。この立花のセリフは前にも聞いた。柏木が感情
を抑えて話す。
「ツキオンナケモノ事件でもそんなことを言ってたわね。」
「そうだ、あれも気にくわない事件だった。君の見事な推理にしてやられたけ
れど、実際、気にくわないことだらけだった。」
立花の声が低くなる。柏木は立花の鋭い目を思い出した。なぜ立花はああま
でも小学六年生の子供の尋問にこだわったのか。いまだに柏木には納得する答
えがなかった。いつか、もう一度立花に直接会って話してみなければ。立花が
続ける。
「大の男が背中からナイフで一突きで死んだ。しかも、死体はシャワー栓にも
たれかかるように立ったままだ。そして犯人と思われる女はひとりで、ホテル
の従業員から服を奪って逃走した。そんなに鮮やかに男をひとり殺せるもの
か?男には全く抵抗の跡がない。」
「シャワーは出ていたの?」
柏木はすぐに聞き返した。
「シャワーは出っ放しだ。かなり熱かったな。それが何かあるのか。」
立花の質問にはかまわず、柏木は次の質問をした。
「犯人は服を奪って逃げたといったわね。ということは、服を着替えないと外
に出られなかったという事ね。残された衣服に何か変わったところはあった
の?」
「返り血は驚くほど少なかったな。他には変わったところはない。衣類はバス
タブに投げ込んであった。」
「ふーん。どうも、被害者の死体は司法解剖に回した方がよさそうね。」
柏木は提案した。立花が鼻を鳴らした。
「言われなくても死体は警察病院で解剖中だ。しかし、君の名推理を聞いてみ
たくなった。何を考えているんだ?」
立花の声は相変わらず低い。柏木は明るく答えた。
「たぶん、立花警部と同じ事じゃないかしら。」
柏木の答えは立花を満足させたようだった。この間はこうは行かなかった。
立花は柏木に自分の手の内を一切明かそうとはしなかったのだ。説明してくれ
れば協力できることもある。立花が最初の話題に戻った。
「ところで、山下はずっとN署にいたのか?」
「山下は午前六時十分頃から現在まで、神奈川県警の観察下にあるわ。」
「ふーむ。」と立花は考え込んだようだ。
「それじゃ、共犯は他にいるのか。」
立花は独り言のように呟いた。柏木は聞きとがめて、軽く溜息をついた。立
花は違うことを考えているようだった。柏木は自分の考えを言おうか迷った。
ツキオンナケモノ事件での口論が思い出された。ま、司法解剖で分かるでしょ。
そう決めて、柏木は電話を切ることにした。
「山下玲二と倉科エリコの関係については、調べて連絡するわ。」
柏木の気配は立花にも伝わったようだった。よろしく、と立花の方から電話
は切れた。
(以下、連載第14回に続く)