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★タイトル (EXM ) 94/ 5/29 14: 3 (181)
「願望」(1) たっちゃん
★内容
「願望」
「行ってくるよ」
裕一は、写真の中の少女にキスをした。
「いってらっしゃい、パパ」
少女は裕一に対して微笑む。
少し歪んだ笑みを少女に向けて、自分の部屋を見回す。蛍光灯も消した。
ガスの元栓や窓硝子の鍵にも注意する。
そしてもう一度、少女の方を見た。
写真の中の彼女は動かない。微笑んだまま裕一の方を見つめている。線香
の残り香、それが少女の存在を規定していた。
少女は裕一に「寄り道せずに、はやく帰ってきてね」と釘をさす。
裕一の歪んだ笑みがそれに応えた。
「わかったよ、緑」
その声は、緑だけにしか聞こえない。
裕一はその顔のまま静かに扉を閉め、鍵をかけ、朝日の輝く平野へと降り
立った。
しかし裕一の心は、既に夕刻の楽しみに向かって動いている。これからの
九時間あまりは、裕一にとって仕事以外の何物でもなかったのだ。
「必ず、時間どおりに帰ってくるよ」
しかしその言葉にも、健全な陽気さは無かった。
★
小野寺裕一の職業は郵便局員である。
裕一は第三集配課の課長という職務に就いていた。
といっても、郵便局内には大した上下関係という物は存在しない。一介の
班長でさえ平然と、上司の事を呼び捨てにしてしまう。
「おい、裕一! 」
かなり白髪の目立つ初老の班長が裕一のデスクの前に現れた。
「裕一ぃ、お前またぼけっとしてるのか? 」
立場が逆であるが、初老の班長が裕一の態度を戒めた。事実、裕一は職務
に於いて何も考えていなかった。考えることがあったとしても、住民からの
苦情をどう裁くかという事程度である。その件に於いても班長に押しつけて
終いとなるのだが。
裕一の意識が現実の世界にようやく帰ってきた。目を擦って初老の班長の
方をしっかりと見る。
「佐藤さん、どうしました? 」
初老の班長・佐藤は、左手に持っている物を裕一の目の前に差し出した。
白い紙面の、所々赤ペンで印がしてある競馬新聞であった。
「職務中でしょ、佐藤さん。サボって競馬の予想とは不謹慎ですね」
「何をいうか裕一。これが無くっちゃ仕事なんてやってられんって事くら
いお前だって知らんわけじゃないだろが」
佐藤は、これも職務だと言い切る。
実際、郵便局というのは、自分の仕事さえ完了すれば後は何をしても咎め
られない風土がある。かえって一言多い上司はここでは疎んじられ、バイト
の定着率も悪い。此処では自主性が尊重されていた。佐藤にしても午前中に
ノルマは完了し、やる事といっても殆ど見当たらない状態であった。
「はいはい、今日は牝馬特別ですね」
裕一は新聞を手にした。
裕一だって、たまには競馬をすることもある。賭けるのは小銭程度の慎ま
しいものではあるが。
「一番人気はホンダベルノですか・・・・・・ 」
「ベルノは、ここ三戦連対しているからなぁ。ワシもこれ買おうかと思っ
ていたわい」
ベルノを軸として、後はヒモを探すだけである。
対抗として紙面で紹介されていたのは、キングカンピオンとイマイキョウ
コの2頭であった。裕一は1ワクから順に馬柱を見ていた。
ある馬の名前をチェックした時、裕一が小声で呟いた。
この馬には印もついてなく、単勝馬券の予想倍率も百倍を超えていたが、
裕一はこの馬を選んだのである。
「『モリノミドリ』ってどうですか? 」
「おいおい、裕一ちゃん。こりゃ、来ないよ・・・・・・ 」
しかし佐藤は大切なことを思い出した。着外だというニュアンスは訂正せ
ざるを得なかった。
これ以上、裕一と話をする気にはなれない。佐藤はそこから立ち去る事を
考えた。
「ミドリちゃんか。来るかもしれんな」
裕一は一つ頷く。
「緑は、可愛いよ」
この台詞を裕一が漏らした時、既に佐藤は職務に戻っていた。
裕一は勝手に仕事から離れて、またもう一度自分の世界へと戻っていった。
佐藤は、不在者のメールに判を押し、修正を加えている。競馬新聞は、も
う読む気になんかならなかった。
「仕事のときまで、死んだ娘の事持ち出して欲しくないわい」
佐藤の独り言、これは三課の下で働く職員共通の意見であった。
その苦情の対象の裕一は、別段仕事に追われるということも無く、ぼおっ
と集配課の雑然とした光景を向こうに眺めながら、自分だけは全く別の世界
に心を置いて時間を潰していたのである。
★
終業のチャイムが鳴り響いた。オルゴールの音色は「夕焼けこやけで日が
暮れて」と数分間歌い続ける。
「先あがらせてもらいますよ」
裕一の職務はこれにて終わりである。後は、遅番に仕事を委託するだけで
ある。椅子にかけてあった背広を羽織り、鞄を持って帰宅の途につく。
集配課の扉を開いて、退室しようとした。
「小野寺課長」
裕一の目の前に、少し歳は食っていたが母性的な風貌を持った女性が姿を
見せた。
「課長は今日もお帰りですか? 」
「ああ、別に残業する理由も無いしね」
「へえ、今日も娘さんが食事を作って待っているんですね」
彼女の言葉の裏にあるものが裕一の深層にあるものを刺激した。しかしそ
の件で文句を言うのも大人げない。
苦笑いを作って裕一は応えた。
「野口さん、暇だったら一緒にどう? 」
「そうですね、旦那には帰りが遅くなるって言っておきます」
野口啓子は微笑んで言った。
啓子は年金課の係長であった。実のところ裕一は、かつての啓子の上司で
ある。裕一は現在は集配課の課長であったが、かつては年金課の係長を勤め
ていたのである。裕一から一人置いて、啓子が係長の辞令を受け取ったのは
3年前の事であった。
啓子は今でも裕一の部下なのである。
「野口さんは、僕の前に都合良く現れるよな。いつも」
「私の歳になると、周囲が敬遠して誰も誘ってくれないんですよ」
「だから、僕を誘うんだな」
「色々と喋りたいんですよね。男が多い職場で働いているから話し相手も
少なくて」
タイムレコーダーの入力を終え、二人は通用門から出た。
「俺も、佐藤さんはじめ先輩連中と話せない事って沢山あるし。野口さん
は笑って聴き流してくれるから」
裕一の言葉に啓子は明確な反応を示さなかった。
また、こんな仕種。啓子には不憫でならなかった。
今日こそはと、啓子は決めていた。5年前の出来事以来、二人のあいだに
は切ない酒の席が続いていた。「このままではいけない」、この気持ちは裕
一の先輩方以上に啓子が抱いていたものであった。
駅前の繁華街の店に二人は入った。いつもよく使う、3000円飲み放題
の手軽な居酒屋の店員の「いらっしゃいませ」という威勢のいい声が響き渡
る店には、脂っこい匂いが強制換気しても吸い尽くせないくらいに立ち込め
ていた。
★
裕一と啓子は、恋人とか友達とかという枠では括れない同士である。昔か
らお互いに干渉し続けた仲であった。
「啓子のとこの娘さんは、来年中学校だよね」
呼び方が、野口さんから啓子に変わった。
「そうね、けどあの子に制服が似合うとは思えないわ」
「大丈夫だよ、緑にだって似合うんだから」
啓子は「緑」という固有名詞に顔をしかめた。
「課長、死んだ子の歳を数えても意味ないですよ・・・・・・ あっ店員さん、
ビールもう一本」
「あいよ!」
「あれは事故なんですよ、課長。ここ数年は緑ちゃんの話ばっかり! 」
啓子の言葉には諭しの意味に加えて、微量の私情が混じっていた。
「ビール、お待ちどう」
大瓶の冷えた生ビールが二人のカウンターの前に置かれた。
「どうぞ、課長」
「ありがとう、啓子」
さっきの諭しが効きすぎたのか、少し縮こまって酌を受けた裕一である。
「済まない、啓子の言うとおりだ」
裕一はそう言って啓子に詫びた。
しかし裕一の謝罪の言葉にはまだ未練があると啓子は読み取っていた。啓
子は何故裕一がそこまで亡き娘に執着するのか、その隠れた理由を知ってい
たからである。
といっても今の啓子には、直接的な療法で裕一を癒す資格は無かった。そ
れが出来ないが為に、啓子は今までためらっていたから。
「課長は、不倫なんて考えた事ないんですか? 」
啓子はためらいながら言った。
「僕は、この先結婚するつもりはないよ。啓子が相手なら話は別だと思う
けど、それはちょっとワガママが過ぎるからね。啓子は幸せにやっているじゃ
ないか。しわくちゃのおばあちゃんになるまで娘の面倒をみる、これが母親
しいては妻の幸せだと思うよ」
「私って、幸せだと思います? 」
啓子の質問に何か変な感覚を覚えた。
「幸せにやってるんだろ」
「そうよね、12と4つの子供とドジだけど憎めない夫に囲まれて幸せじゃ
ないって言ったらバチが当たりますよね」
裕一は言い切った。
「僕は、君が幸せだと、安心する」
「課長たら。その台詞、少し危ない」
「おいおい、本当に不倫してしまうじゃないの」
啓子のカラッとした笑いにつられて、裕一も笑った。
「ま、旦那がぽっくりいったら僕の所へおいでよ」
「不謹慎! 課長ったら」
裕一の中身が緑のことばかりで埋め尽くされ、行き場を失ってしまってい
る時、そこから一時的だが救い出してくれるのが啓子であった。啓子が気さ
くに接してくれるお陰で、自分が狂うことなく日常生活を送っている事だっ
て勿論わかっていた。
けど、いつでも啓子が側に居るわけではない。
家に帰ると独りなのだ。裕一は一人で飯を炊き、たったひとりの布団の中
で眠るのである。こうした酒の場も、啓子が出来る最大限のことである。戻
るべき場所に誰もいないことが絶望的だという事、歳を重ねるにつれそう思
うのだ。
その事は啓子だって判っていたこと。けど、裕一の世界に入り込むことは
できるわけがなかった。
このきんぴらごぼうだって、自分が作った方がもっとおいしい。啓子は居
酒屋で食べるとそう思うのだ。
少しの間飲み食いして二人は別れた。啓子は家族の待つ家に帰る。時計は
8時、健全な時間帯であった。
裕一は11番系統のバス乗り場へと向かう。下町の自宅方面へと向かうバ
ス乗り場には列が出来ていた。
つづく