#1030/1336 短編
★タイトル (PRN ) 98/ 4/12 19:32 ( 64)
お題>子守歌 ジョッシュ
★内容
目を覚ますと、まったく覚えのないところにいるというのは、よくあることだ
った。
白い天井、白い壁、わずかばかり開いたカーテン。差し込む淡い白い光。
わたしは横になっていた。シーツも白い。枕(ピロウ)も白だ。ぼんやりと見
える壁の絵も黒い縁どりの中は白っぽい馬が描いてある。
目を閉じても、開いても無駄だった。視床底の風景は変わらない。
そう。わたしは白の中にいた。意識してもしなくても、わたしのまわりはすべ
て白だった。無色透明ではない。明度は高いが、白だった。日が陰れば灰色に沈
んでゆくだろう白だった。
わたしは何も身につけていなかった。裸で暮らしていた訳ではないから、どこ
かに脱ぎ捨てたのだろう。それもたぶん白い服だったにちがいない。
それが自然なように思えた。それが当然だと。
ただ、これまでとは違う決定的なものがあった。
確かめたわけではない。あれこれ考えた結果でもない。ただ感覚的にわかった。
わたしの思考能力は鈍っていたが、それでも身体の奥深くで絶対的なものを感じ
ていた。
このまま意識が途絶え、わたしは白く冷たい塊になる。
あと五分くらいか・・・。わたしの消滅まで。
五分・・・それが長い時間なのか短いのかさえ、もはや意味を持っていなかっ
た。
わたしはじっと横になっていた。
頭の中は白濁して・・・それはいつものことだったが、そして、下腹部が鉛で
も詰まっているかのように重かった。
次にとるべきいかなる行動にも思い当たらなかった。体を動かす意味が見あた
らなかった。だからわたしは、ひそやかに息を吸い、長い時間をかけて吐いた。
ざらざらとした自分の呼吸音だけが耳につく。
呼吸はわたしに何も与えてくれない。酸素を取り入れるという生理は、わたし
を生かし続けてはくれないのだ。それは、わたしが生きるべくしてここにあるの
ではないことを物語っていた。
思考はずるずると滑り落ちて行く。踏みとどまる縁(よすが)はない。
わたしは死ぬ。
嫌な気分だった。
なぜ、わたしなのだ。誰だっていいじゃないか。わたしは選ばれたのか。それ
とも、どこかに厳然としてあるという外在律の差し金か。
そもそもわたしの死はどこから始まったのか。そして、どう終わるのか。
ああ、意味はない。そんなことを知ったって何の助けにもならない。
わたしの心は平静だ。しっかりと受け止めるつもりだ。現実を。
いま、「わたし」は消えつつあるのだ。
どこへ? さあ・・・。
「ごめんなさい」
突然、女の声は謝ることから始めた。語尾が震えている。
「あたしが悪いんだ」
女の声は続けた。閉じてゆく意識の扉を擦り抜けて、その声がわたしを錯乱さ
せた。身体がこわばる。どこかで誰かが女の声に反応していた。
「ちゃんと生んであげられれば・・・」
びくん。
わたしの身体が跳ねた。
なぜだ。この女は悲しんでいる。そして、女の声にわたしの身体は反応してい
る。なぜだ。わたしは混乱した。答えを探そうにも、わたしの中で知識を引っ張
り出せる集積部は、まっさきに瓦解していた。溶けてゆく自意識にとって、第三
者の感情の揺れは遠い陽炎のようだった。
はるか昔に似たようなことがあったかもしれない。つい昨日もそうだった気が
する。たった十年違いで生き損ねたこともあったし、ずうっとそのままだったこ
ともあった。
思いは球形状に圧縮され、点になり、そして不安定な煽動を繰り返してから破
裂した。ちりぢりの意識の破片はゆっくりと拡散し、わたしは存在感を無くした。
「ああ、許しておくれ。無慈悲な母をどうか・・・」
か細い声は、意識が完全に閉ざされる間際まで聞こえた。まるで子守歌のよう
に・・・。
(了)