#992/1336 短編
★タイトル (PRN ) 98/ 2/ 1 20:41 (168)
お題>復活。 ジョッシュ
★内容
また雪になった。
見渡す限りの雪野原の上に、綿のような雪が降りしきる。少し前まで、少しは
見えていた丘へと続く細い道の柵も、すっかり雪を被ってしまった。もう柵を頼
りに辿ることはできそうにもない。
しかし、少女に躊躇(ためら)いはなかった。
赤い外套に赤い帽子、黄色のマフラーを首にはしっかりと巻き付けた。黄色の
長靴を履いて、雪の中へと出かける。踏み出すと長靴は雪の中にすっぽりと埋ま
る。力を込めないと、足が持ち上がらない。
「ふう、これは思ってたよりも大変だわ」
数歩進んだだけで、少女の胸はすぐに苦しくなった。少女の先、丘へと続く白
い野原には足跡ひとつない。まったく無垢な白い世界が広がっていた。少女は胸
を押さえながら、ゆっくりと進む。
窓から見えていた細い道のあたりを目指しているつもりだが、確信はない。降
りだした雪は止む気配もなく、少し風も出てきたようだ。
しんしんと降りおちていた雪が、くるりくるりと舞い始める。少女の頬が紅く
なる。胸が苦しい。少女は背をかがめ、足元を見つめながら進む。
風がだんだん強くなってきた。少女に正面から吹き付ける。まるで少女を押し
戻そうとするかのような勢いだ。少女は体を前のめりにしながら進む。
息が詰まる。風の勢いでからだが思うように進まない。今や吹雪のように舞い
狂う灰色のカーテンの向こう、丘はかすかに稜線をみせている。雪空と白い丘の
境目は辛うじて見分けられる程度に霞んでいた。
「お待ちなさい」
吹く風の中、突然、声がした。
風の唸りに紛れてはいるが、鋭い声だった。少女はちらりと顔を上げる。
「こんな雪の中、どこへ行こうというの」
声は少女の頭の上からのようだった。しかし、頭上には鉛色の空から、石礫の
ような雪が降り注ぐだけである。少女は足を止める。
「あなたは誰なの」
「あたしかい。そんなことはどうでもいいやさ。それよりか、問題はあんただよ。
この雪嵐の中、なにを無茶やっているんだい」
相変わらず声だけが、雪とともに降ってくる。声の正体は定かではなかった。
「わたし、あの丘にゆきたいの」
今にも稜線が見えなくなりそうな小高い丘の方を指さす。
「おやおや、あんなところまで行きたいのかい。どうしてまた、そんなことを思
いついたんだね。あんたのその具合じゃ、あそこにゆく前に倒れちまうよ」
「それでもいいの。あそこまで行かないと意味がないの」
少女は思い詰めた表情をしている。また歩きだした。
「ふーん。でもその調子だと死んでしまうよ」
「それならそれでもいいの」
少女の長靴は雪に深々とのめり込む。引き抜くだけでも大変だった。
「どうして、あの丘に行きたいのか、良かったら教えて欲しいね」
声は少し柔らかくなった。
「夢を見たの」
「夢・・・」
「そう、夢。わたしね、生まれたときから体の具合が悪くて、ずっとベッドに寝
ているの。私のお家はあそこ」
少女は振り返って、ふもとに建つ白い四角い建物を指さした。
「ああ、知ってるよ」
声が応える。
「私の部屋には小さな窓があるの。そこからちょうどあの丘が見えてね、朝から
晩まで、ずっと見ていたわ。他にすることなんか、ないんだもの。ずっと、ずっ
と見ていた。晴れた日には、丘のあたりがきらきら光るの。積もった雪のつぶつ
ぶが風に巻かれて、踊り出すのよ。とってもきれいよ」
「ああ、そうだね」
声が相づちを打つ。
「その内に雪も降ってくる。晴れていた空が急に曇ってきて、それを見ていると
ね、怖いような悲しいような不思議な気持ちになってくるの」
「ふーん、そうかい。で、その夢ってのはどうなんだい」
「それがね、とてもすてきな夢だったわ。寒い季節が終わっててね、あの丘には
一面に林檎の花が咲いているの。いい匂いが私のベッドまで流れてきてて、窓越
しに見ているだけで、わたしは幸せな気分になれた」
少女は右手で丘を指した。まるでそこに林檎の花が咲いているかのように。し
かし、指先には相変わらずの雪が降り続けているだけで、何も変化はない。
「夢と現実は違うんだよ。見てごらん、ここら辺りはずっとこうさ。寒くて、雪
が降って、静かで、何も起こらない・・・」
「そうよ。静かで平和で何も起こらなくて、わたしを修理するには最適の環境だ
わ」
少女の口調がかすかに乱れた。それは少女の感情の揺れだった。
「修理というのは、生命のないものについて使う表現だよ。あんたはまだ生きて
いる。治療というんだよ、こういう場合は」
「わたしは死んだも同然よ。気が付いたときからずっと、ベッドの上。自由に歩
きまわったこともあんまりないし」
「それでも、生きている。それは大切なことよ。なにを思ったか知らないけれど、
わざわざ命を縮めることはないんじゃない。あの丘に行ったって、あんたの病気
が良くなるわけでもない」
「そんなことは分からないわ。だって、夢の中でわたしを呼んでる声を聞いたの」
「ほう」
「信用してないわね。わたしがあの丘に行けば、きっと雪は溶け、リンゴの木が
芽吹くわ。そして、花が咲き、小鳥が歌う楽しい季節が巡ってくる」
「そうしたら、あんたも元気いっぱいになるってかい。とんでもない夢だ。そん
なデタラメ、信じられないね。あたしが記憶している限りでは、ここはずっとこ
うさ。ずっとずっと昔から、たぶん、あんたが生まれる前から、ずっと寒くて、
暗くて雪しか降らない。ほらほら、体が冷えてきたろう。ここで行き倒れになら
ないうちに、あの家にさっさと戻って欲しいね」
声の主は少女との押し問答に苛立ってきたようだった。しかし、少女は歩みを
停めようとはしなかった。
「ねえ、どうしてわたしに声をかけるの? あなたは誰なの。あの丘まで行きた
いというのは、わたしが自分で決めたことよ。それがダメで、途中で死んでしま
ったって、それはわたしの問題で、あなたには関係ないじゃない」
「ほほう。あたしはあんたに関係がない、とね。まあ、そうだね。確かに関係は
ないかもしれないね」
「だったら、もう黙ってて・・・」
少女は言い放った。語尾が弱々しい。途端に強い風が吹いて、少女は思わず身
をかがめた。そうでもしないと吹き飛ばされそうだった。
「まあ、黙ってもいいけどね。ここんところ、あんたみたいな子供ばっかり見て
るもんで、心配しているんだよ」
「どういうことなの」
「あちこちの子供が突然、家を出て、いなくなっているんだよ。行き倒れになっ
て、雪の下に埋もれてしまってるんだ。親が気づいて呼び戻せるときはいいんだ
けど、あんたみたいに親の留守をねらって出てくる子供は、どうしようもない。
みんな死んでしまってね」
「みんな、あの丘に行きたいのよ」
「ああ、そうかもしれないね。みんな、あんたのように、素敵な夢を見たんだろ
うさ」
「でも誰もまだ、あの丘の上にはたどり着いてないわね。だって、まだこんなに
雪が降ってるもの。誰かが行ってたら、雪は止むはずだもの。だから、私が行く
の。そして、暖かい季節を呼ぶんだ」
少女の声に力はなかった。いつの間にか、雪の上に座り込んでいる。
「ほら、そんなこと言ってたって、もう動けなくなっちまったろう。悪いことは
言わないから、今からでも家に戻りなさい。あんたが見たのは幻で、あの丘には
なんの意味もないんだ。それはあんたの体の奧にある狂った体時計が、あんたを
死に急がせているだけなんだよ」
「体時計? それじゃあ、わたしの体時計は狂っているの?」
「ああ、そう思うね。行き倒れになって死んだ子供達をみんな調べてみたんだ。
そしたら、みんな時間が逆進していた。つまり体時計が負のエネルギを出してい
たというわけさ」
「そしたら、どうなるの」
「あんたみたいになる。もともと生き延びるように仕組まれた体時計なんだ。お
陰で、食欲もわくし、睡眠もとる。時期が来れば繁殖欲も生まれる。みんな生き
るために体時計が作用しているのさ。自分から死のうなんて言う発想は、起こり
得ないはずだった」
「でも、そのあり得ないことが、起きているわけでしょう」
「ああ、そうみたいだね」
「それは何故なの」
「まだはっきりとは分からない。でも、想像はできる」
「なに」
「時間が停まりかけている」
「体時計は逆進してるって、あなたはさっき言ったわ」
「そう。子供達の体中の時計は逆進していた。その通りだよ。その原因は外(そ
と)の時計、つまり大宇宙の時間が停止に向かっているから」
「大宇宙の時計?」
「この大宇宙の時系列のエネルギ塊を、あたしたちはそう呼んでいるわ。その大
宇宙の時計が停まったら、たぶん、生あるものは全て、無になってしまう。つま
り、死んでしまうということね。生物は時間との係数で生化学反応を行って生き
ているから、当然のことだけど、分かるかしら?」
「なんだか難しくて、さっぱり」
「あんたの体時計は大宇宙の時計(外の時計)と互いに連携して動いているんだ。
だから、外の時計が停まりかけているのを察知して、いち早く反応したんだろう
ということ」
「ふーん。それじゃあ、いずれにしてもわたしは死ぬんじゃないの。そこまで分
かっているなら、止(と)めないで」
少女の声は小さくなる。疲れていた。もう立てそうもなかった。口をぱくぱく
喘がせる。胸が苦しくて、思うように呼吸もできない。
「どうやら、あんたもダメみたいだねえ。みんなそうなんだ。監視役のあたしが
せっかく見つけだしても、誰も引き返そうとはしない。限りある命でも、生きて
りゃなんかあるかもしれないのにさ」
少女の顔色が、次第に青白くなった。荒れ狂う吹雪が、少女の体温を赤い外套
越しに奪い去って行く。頭の裏側から睡魔もやってきた。
「ああ、もうこのまま眠ってしまおう」
雪に倒れ込みながら、弱々しく呟く。
閉じた瞼の裏側には、林檎の木が連なり始める。赤く、てかてかに光る林檎が
たわわに実っている。少女は駆け出した。甘い匂いが満ちあふれた丘を。胸がど
きどき打ちふるえている。何故かとても晴れ晴れとした気分だった。一番大ぶり
の林檎を両手で抱え込むと、がぶりと噛みついた。果汁が頬を伝って流れ落ちる。
構わずに、柔らかい果肉を口いっぱいに頬張った。
「やあ」声を掛けられた。少女と同じくらいの少年が少女のすぐ脇に立っていた。
「きみの名前は?」少年が真っ直ぐに少女を見ながら尋ねる。「わたしの名前は・
・・」少女は思いだそうとした。でもなかなか出てこない。代わりに尋ねる。
「あなた、名前はなんて言うの」
少年は胸を張った。「ぼくの名前は、イザナギ」
倒れ込んだ少女の上に雪は降り続けていた。
少女の赤い外套が、白い雪にどんどん埋もれ、見えなくなってゆく。黄色い毛
糸の帽子も降り積もった雪で真っ白になっていた。しかし、少女は安らかな顔を
していた。息を引き取る前に、ほんの少しだけ微笑んだようだった。
(復活。>>了)