#891/1336 短編
★タイトル (PRN ) 97/ 9/ 9 0:46 (105)
勇敢な恋の詩 穂波恵美
★内容
初めて彼女を見たのは、雨の日だった。
僕が見て見ぬ振りをして通った段ボール箱。
後ろから歩いてきた女生徒が、濡れるのもかまわず道路に膝を着いた。
綺麗に編まれたお下げが、雨の滴を受ける。
彼女は、か細い声をあげて震えていた子猫を、抱き上げ微笑んだ。
眼鏡の奥の切れ長の瞳が、柔らかな光をたたえていた。
たぶん、その瞳が致命傷だった。
子猫を抱えた彼女が、道の向こうに消えるのを、僕は呆然として見送っていた。
僕は、俗に言う一目惚れという現象に放り込まれていた。
次の日から、僕は彼女のことを調べまくった。
制服を着ていたし、同じ学校と言うことは分かっていた。
同学年ではないだろうと思っていたが、予想通り一つ上の学年だった。
紫野、佐和子。
彼女はけっこうな有名人だった。唯、僕の予想とは大きく違っていたが。
「紫野先輩だろ? やめとけって、美人だけど性格悪いって評判だぜ?」
「クラブで一緒だけど、あの人笑ったことないのよ」
「何か、中学の頃担任と出来てたって噂……知ってるか?」
忠告、中傷えとせとら。
でも、僕の中の彼女は、雨に濡れて子猫を抱えていた女の子だった。
図書委員だということを突き止め、僕は早速図書室に赴いた。
重そうな本を抱え、彼女は一人で本棚を整理していた。
眉根を寄せている横顔を見た瞬間、思わず言葉が出ていた。
「手伝いましょうか?」
驚いたように、彼女が振り向く。
弾みで、本が腕からばさばさと落ちた。
「あ……」
「ごめんなさい、俺拾います」
何とか全集、という背表紙が目にはいる。結構埃が積もっていて借りている奴は、
あまりいそうになかった。
「はい」
「……ありがとう」
本を受け取り、彼女はまた整理を始めてしまった。
真っ直ぐに伸ばした背中が、何だか孤独な感じがする。
「あの、紫野さんですよね?」
「え?」
「俺、一年C組の、空条夏生っていいます」
彼女はちょっと困ったような、不審そうな顔をして僕の顔を見た。
「私に、何か用なの?」
「はい!」
僕は単刀直入に切り出した。
「僕と、つきあってもらえません? あ、最初はお友達でも良いですけど」
「……はぁ?」
彼女は、心底呆れたような声を出し、その後は話しかけても答えてくれなかった。
……惨敗。
でも、勿論こんな事ぐらいでは、僕はくじけなかった。
それから毎日、僕は図書室に通い詰めた。
「隣、良いですか?」
一週間目、諦めたのか、心を開いたのか、紫野先輩は小さくため息をついて答えを
返してくれた。
「どうぞ」
「何、読んでるんですか?」
「白痴」
「はくち? 誰の本ですか?」
「……ドストエフスキーよ」
「面白いですか?」
「君は、自分の本を読んだら?」
「君じゃなくて、空条夏生ですよ」
「……はいはい、空条君」
それが、初めて彼女が僕の名前を呼んでくれた日だった。
名前を覚えてもらうのに一週間、友人の座をしめるのには一ヶ月を要した。
けれど、とにかく僕は彼女と普通に話せる位置にこぎ着けたのだ。
でも、普通に会話が交わせるようになって二ヶ月、僕は未だ雨の日以来、彼女の笑
顔を見たことがなかった。
「好きな人? そうね、いたわよ」
そう彼女が口にしたのは、夏の終わりの図書室だった。
交代で図書委員が、蔵書整理をするはずだったのだが、何故か来ていたのは僕と彼
女だけだった。
恋愛小説を整理していて、そんな話になったのかもしれない。
「……え?」
「意外?」
瞬間、噂が脳裏をよぎり声をあげた僕に、彼女が手を休めずに問いかける。
「い、いえ。……その、どんな人だったんですか?」
彼女は、ちょっと手を休めて、遠くを見つめる顔をした。
「優しくて、物静かな大人の人だったわ。色々教えてくれて、憧れて、でもその人に
とって私は唯の子供だった。たぶん、ちょっと浮いていたから、気を使ってくれただ
けだったのよね」
心臓が、ドキドキしすぎて痛くなった。
僕には見えない誰かを見ている彼女は、懐かしそうでそれでいて切なげだった。
「すごく憧れて……大好きだったの」
そう呟いた彼女の声を、僕は生涯忘れられない気がした。
自分が子供っぽいと分かっていたけど、嫉妬せずにはいられなかった。
「その人のこと、好きなんですか? 俺のことは、何とも思ってないんですか?」
たぶん、相当むっつりした顔をしていたんだろう。
彼女はちょっと僕の表情を眺めて、クスリと笑った。
「私、過去形で言ったのよ。……気が付かなかった?」
「……え?」
一瞬、自分の目と耳を疑った。
彼女は確かに微笑していた。そして、今言ってくれた台詞は……
「俺、期待していいんですか?」
「さあ?」
秘密めかして、彼女が微笑む。子供扱いされているのが、何となく感じられた。
悔しいけれど、でもその笑顔は、ものすごく可愛かった。
それから一気に僕と彼女の距離が縮まったわけではない。
唯時々、彼女は笑顔を見せてくれるようになった。
そして僕は、片手に鰹節を抱えて彼女の家を訪れている。
これで、三度目の訪問、鰹節は猫のハーブへの賄賂である。
いい加減、ハーブに慣れてもらわないと、僕の手は引っ掻き傷で埋まってしまうだ
ろう。
もうすぐ冬が来る。
僕は、紫野先輩から佐和子先輩に、呼び方を変えていた。