AWC お題>ノックの音が>田川さん     叙朱


        
#861/1336 短編
★タイトル (PRN     )  97/ 8/13  17:19  (194)
お題>ノックの音が>田川さん     叙朱
★内容

 ノックの音がした。
「ママ、誰か来たみたい」
 玄関口で遊んでいた由実が大きな声を出した。ちょうど居間で文庫本を読み始
めたところだった由実の母親の田川久美(たがわひさみ)は、「はいはい」と返
事をしながら首を少しかしげる。
「どうしてインタホンを使ってくれないのかしら」
 この丘の上のアパートには、全戸に呼び鈴つきのインタホンが玄関ドアの横に
ついているのだ。変な訪問販売が流行っていて、うっかりと玄関を開けようもの
なら必要もないがらくたの説明をとうとうとやられてしまう。田川久美は、どう
もそうした押し売りをはっきりと断れないたちだった。だから玄関を開けないで、
そういう怪しい輩を撃退できるインタホンは重宝していた。
「すみません、どちらさまですか」
 無意識のうちに文庫本をエプロンの前ポケットにしまい込み、玄関ドアに向
かって声を掛ける。しかし返事はない。なんだかいやな感じだ。それでも、几帳
面な久美は玄関ドアについている覗き窓(魚眼レンズが入っていて、内から外は
よく見えるが外からは覗けない)に目を当てて、外を窺った。
 ベージュ色の作業帽に揃いの上下の作業服を着た若い男が、包装された箱のよ
うなものを小脇に抱えて立っている。典型的な宅配業者の格好だった。
「ああ、そういえばお中元の季節か」
 久美は素早く納得した。それまでお中元というともっぱら贈る側で、貰ったこ
とは一度もなかった。しかし、夫の章一もこの春に待望の課長になった。取引先
からお中元が来てもおかしくはない。
「由実、お茶の間の印鑑を取ってきて」
 いつも頼まれると嬉しい由実は、大急ぎで茶の間へと駆け出した。久美はサン
ダルをつっかけて玄関ドアのドアチェンを外す。がちゃがちゃと意外に大きな音
がした。
 そうだ、あの表札を見られたのか。嫌だな。
 ドアチェンを外しながら、突然、久美は思い出した。玄関脇の表札は結婚記念
にと桜材にちゃんと墨で書いて貰った立派なものだったのが、昨夜の台風でどこ
かへ行ってしまったのだ。仕方がないので、夫の章一がパソコンで打ち出した
「田川」という名字だけの急作りの紙表札を今朝、出かけるときに画鋲でとめて
いった。ちゃんとしたものを今日にも買って帰るから、と言い残して。
 あの紙の表札を見て、変に思ったかしら。
 宅配の若い男がインタホンを使わなかったことについて、そんな風に考えなが
ら、久美は玄関ドアを開けた。
 ドアのすぐ外で、ベージュの作業服の男は深々と頭を下げていた。久美も恐縮
して軽くお辞儀を返した。
 と、次の瞬間、若い男のからだが鞠のように跳ねて、久美にぶつかってきた。
あっという間もなく、久美は玄関口に倒れこむ。腹部に強い衝撃を感じて息が詰
まる。久美は体を海老のように曲げて咳込んだ。苦しい。腹部に手を伸ばす。冷
たい硬いものが手に触れた。目で確かめる。
 ナイフ!
 久美の腹部にナイフが突き立っていた。
「ざまあみろ。自業自得だ」
 玄関口に仁王立ちしている若い男が言い放った。語尾が震えている。久美は腹
部の衝撃にひとしきり激しく咳込んだ。掠れた視界に若い男の顔を捉える。全く
見覚えのない顔だった。
 どうして私を?
 叫びたいが、息が詰まったままで声にならない。
「ママー、どうしたの?」
 印鑑を片手に戻ってきた娘の由実が、玄関で倒れ込んでいる母親を見付けて大
きな声を出した。若い男の視線が由実のほうへと向けられたようだ。
 いけない、逃げるのよ。訳わかんないけど、この男は危険なのよぉ、由実、早
く逃げてー!
 しかし、せっぱ詰まった久美の必死の言葉は喘ぎに遮られて声にはならない。
今や若い男の関心は由実に移ったようだ。不気味に黙り込んでいる。
 何とかして、この男を止めなければ、由実を守らなければ。久美は目の前の男
の足をつかもうと手を伸ばした。
 その時、男が急にへなへなと玄関に腰を下ろした。
 いぶかしげに久美が男を見る。男が情けない声を出した。
「あれー、どうして子供がいるわけぇ? ここ、カワダさんの家(うち)だよね」
 カワダ? ああ、あの新婚ほやほやのカワダさんなら、もうひとつ上の階だ。
「いいえ、うちはタガワですけど」
 息が継げない母親に代わって、娘の由実がはきはきと答えた。
「いやーん、そんなバカなことってあるわけぇー? あんなに愛し合っていたの
に、あたしを捨てて、若い女と結婚してしまったカワダの家じゃないの? そん
なあ・・・だって表札にカワダって・・・」
 急にナヨナヨしだした男が恨みがましく続けた。
「表札? ああ、パパがパソコンで作ったあれでしょ。ちゃんとタガワって書い
てあったと思うけどなあ」
 由実が自分のサンダルをはいて玄関を出てゆく。表札を確かめにいくようだ。
 少し息が楽になって、久美はもう一度しげしげと自分の腹に刺さったナイフを
見た。
 ナイフだよね。ちゃんと刺さっているのに、どうして痛くならないのかな。
 実際、男にぶつかったときは息が詰まってしまったが、それ以上は痛みもなに
も感じない。
 おっかしいなあ。
 理由は簡単だった。ナイフはエプロンの前ポケットにほうりこんだ文庫本に突
き刺さっていて、腹までは届いていなかったのだ。ああ、命拾いした。久美は
ほっとした。
 そこへ由実が戻ってきた。まだ玄関で横になっている母親に向かって説明する。
「ねえ、パパの書いた表札がねぇ、縦書きなんだけどさあ、風に煽られたのかし
ら、上下(うえした)宙返りしていたよ。だからねえ、タガワの田川がねえ、カ
ワダの川田に読めちゃうんだよぉ」
 ええ? それじゃあ、私が突然ナイフで襲われたのは、表札が風でひっくり
返ってしまったからっていうわけ? とほほほ。
 久美は、へたりこんでいる男をしりめに、そそくさと立ち上がった。ズボンの
埃をぱっぱっと払う。そのはずみで、エプロンの前ポケットで突き刺さったナイ
フが揺れた。今度は、若い男のほうがひっくり返る番だった。
「あ、い、う、え、お。お腹にナイフが、あの、あの」
 久美は焦る若い男を冷ややかに見下ろした。お腹のナイフの柄が男の頭の上で
静かに揺れている。その恐ろしい光景に、男はパニックに陥った。前後見境なく
後ろずさりに玄関を出ようとばたばたしている。
「あのね、人を一人殺そうかというときには、名前だけじゃなくて、部屋番号も
確認したほうがいいんじゃない? あなたの狙っている川田さんは、この上よ」
 久美はナイフを抜くと男に差し出した。
「は、はい、わかりました」
 男はナイフを受け取ると、そのまま後退りして玄関から逃げ出すように姿を消
した。
「それから、インタホン使ってよね」
 この久美の言葉が男の耳に届いたかどうかは定かではない。

 文庫本はナイフのせいで、読みづらくなった。読書はあきらめて、久美は夕食
の準備にかかることにした。今夜は残り物が沢山あるし、チャーハンにしよう。
夏はチャーハンに中華スープ。それにゆでトウモロコシが今年は美味しいん
だって。
 チャーハン用の大きなフライパンを取り出したところで、また、ノックの音が
した。
「ママ、また誰か来たみたい」
 玄関口で遊び続けている由実が大きな声を出した。「はいはい」と返事をしな
がら久美は首を少しかしげる。
「どうしてインタホンを使ってくれないのかしら」
 インタホンを恨めしそうに見やりながら、玄関ドアに向かって声をかけた。何
気なくフライパンを持ったままだ。
「すみません、どちらさまですか」
 しかし返事はない。なんだか、またしてもいやな感じだ。神経質な久美は玄関
ドアについている覗き窓に目を当てて、外を窺った。
 宅配だったらお断りよ。
 玄関の外には野球帽をかぶった中年男が、大きな洗剤の袋を下げて立っていた。
「ああ、新聞の勧誘ね。オマケの洗剤は魅力あるけどなあ」
 久美はその洗剤袋の大きさに、ついふらふらと玄関ドアを開けた。
「あのー、もうスポーツ新聞を取ってますから・・・」
 言いかけた久美に典型的な新聞の販促員の笑顔を浮かべ、中年男は洗剤袋をこ
れみよがしにぶらぶらさせた。からんからからと洗剤にしてはおかしな金属音が
する。
 すると、それまでにこやかだった中年男の顔がひきつれたように歪んだ。
「おい、こらあ。うそつき女のミタぁー。新聞を取ってくれると言ってはオマケ
の洗剤ばっかり運ばせやがって、おれはもう頭に来たぞぉー」
 叫びながら中年男は洗剤袋の中に手を突っ込んでいる。男のすごい剣幕にたじ
ろぎながらも、久美の頭をひとつの疑問が駆け抜ける。
 ミタぁー? 誰よそれ。
 中年男は久美の疑問にはお構いなしに、洗剤袋から重そうに黒い見慣れないも
のを取り出した。ゆっくりと久美に向かって構える。
「あ、それってもしかしたら、機関銃?」
 久美はすっとんきょうな声をあげた。確かにアメリカのギャング映画で、暴走
する車の窓から、だだだん、とぶっぱなすやつだ。中年男は返事の代わりににや
りと笑った。
 咄嗟だった。久美が思わず手にしたフライパンを弾除けのように体の前にかざ
したときに、中年男の機関銃が、だっだっだっと火を吹いた。
 かきんかきんかきん。弾はことごとくフライパンで跳ね返された。
「あちょー!」
 カンフー映画の悪役のような声を上げて、中年男がひっくり返った。野球帽が
飛んで禿頭が見える。フライパンで跳ねた弾が当たったわけではない。ただ単に
機関銃の発射の反動を支え切れずにひっくり返っただけだった。
「あのねぇ・・・」惨めにひっくり返った中年男に向かって、久美が声を掛ける。
「うちはミタじゃなくて、タガワなんですよ。間違えないで下さい」
 禿頭は機関銃を腹に抱えたまま、人差し指で久美のほうを指している。
「え? なんですか?」
 いぶかしげに久美は振り返る。目に入ったのは貼り出してある紙の表札くらい
のもの。
 他に何か? え、表札? 中年男が大きくうなずく。
 表札のどこがおかしいのよ。
「ママー、表札がねぇ、横になっちゃってるよ。だから縦書きの田川が、ミタの
三田に読めるんだよ」
 いつの間にか表に出てきた娘の由実が解説する。
 ええー、それじゃー、わたしが機関銃で撃たれたのも、この表札が風で90度
くらい回ってしまったからだっていうのぉ。およよよー。
 久美は深々とため息をついた。なんという日だ。あの紙の表札のおかげで、宅
配員にはナイフで刺され、新聞屋には機関銃で撃たれるなんて。
 だん。
 久美の頬をかすめて弾が飛ぶ。
「いい加減にしてちょうだい。私はタガワ。あんたの言うオマケ大好き女の三田
さんは、もう2階上よ」
 久美がむっとして振り返ると、禿頭は機関銃を洗剤袋に押し込もうと焦ってい
た。
「いや、今の1発は暴発です。失礼しましたぁ」
 やっと機関銃を洗剤袋に収めると、なくした野球帽には構わず新聞屋は西側の
階段へと姿を消した。撤収は素速い。やれやれ・・・。
 頭を振りながら由実に笑いかける。
「パパの作ってくれた表札のおかげで、今日は退屈しないね」
 玄関ドアを引いて部屋に戻ろうと久美は、その時、後ろから肩を叩かれた。
「あのう・・・銃声がしたようですけど・・・」
 また胡散臭い奴かも。久美は身構えながら、さっと振り返った。
「あ、おまわりさん」
 駅前交番の制服巡査が直立不動で立っていた。
「あのぉ、確かに銃声がしたようですが、大丈夫ですか、アブラさん」
 は? 
 久美は返事に詰まった。
 アブラさん? どうやったら、田川がアブラに読めるわけ?
「あ、ママ、見て!」
 由実も同じことを考えたらしい。表札を指差している。
 表札は新聞屋が読んだとおり、左横90度の「三田」状態のままだった。
 ところが、新聞屋の機関銃の最後の1発(新聞屋いわく暴発弾)がちょうど
「田」の字の真上に当たってめり込んでいたのだった。
「あ、アブラ、油だよ」
 由実が叫ぶ。久美は無言で、その紙表札をはぎとると、思いっきりくしゃく
しゃに丸めてエプロンの前ポケットにしまい込んだ。

(お題>ノックの音が>田川さん・・・・・おしまい)

蛇足:このお話は、KEKEさんの「紙製の表札・紛失」という書き込みにヒントを得
ました。音声読みだしの方には、このネタがご理解いただけないかもしれません。
 




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