#797/1336 短編
★タイトル (LPF ) 97/ 6/13 4:20 (166)
「青」〜海 如月
★内容
一組のカップルが人気のない砂浜に立ち、海を見つめていた。
「本当に人魚かと思ったよ」
男は気持ちよさそうに潮風を頬に受けながら、目をつむり、ゆっくりと海に
向かってつぶやいた。
女は男に寄り添い、頭を彼の肩に少しもたれかけさせ、黙って聞いていた。
僕は病院を抜け出した。
僕の股関節の骨は生まれつき変形しているらしく、僕はこれまで外で過ごす
よりも多くの時間を病院で送ってきた。退院しても、ほとんど家から出ること
もなく、しばらくするとまた病院へ。その繰り返しだった。
学校も、こんな調子では馴染めるはずもなく、友達もいなかった。自分から
作ろうとしなかったのかもしれない。
もう歩けないままでいい。だからもっと自由にやりたいことをやりたい、と
思った。でも、そう考えると何がいったいしたいのか、それもわからなかった。
そんなとき、病院の屋上から見えたこの海のことを思い出した。僕はまだ、
間近で海を見たことがなかった。
とにかく海に行こう。もう病院にはいたくない。同情のまなざしも、励まし
の言葉も、もううんざりだった。たまりにたまっていたものを吐き出すように、
一気に病院を出た。
たどり着くのに、三時間がかかっていた。最初の情熱も二時間が限度で、後
は意地だけだった。腕がしびれて感覚が無くなりかけていた。海に着いてから
も車椅子の車輪は砂に埋まり、1メートルを進むにもかなりの力を要した。波
打ち際にたどり着くのに、すべての気力と体力を使い果たしていた。
疲れ果て、これからどうしようかと途方に暮れながらぼんやり海を見つめて
いたとき、彼女は現れた。
人魚だと思った。
とは言っても本物の人魚を見たことがあるわけではないけれど。
僕が見つめていた海から突然、頭、肩、胸と、だんだん現れてきて・・・・・・。
足に魚の尾鰭は無かった。ふつうの人間だった。
もうすぐ十月になるというのに、海水浴でもないだろう。しかも彼女は全裸
だった。
彼女は真っ直ぐに僕の方へ歩いて来ると、腰に手を当てて僕の目をのぞき込
むようにしていた。
僕は目の前に彼女の胸が来て、目のやり場に困っていた。
「ねえ、どいてよ」
これが彼女の第一声だった。
何がなにやら分からないまま慌てて動こうとして、車椅子でビニール袋を踏
んでいたことに気がついた。
「あっ、ごめんなさい」
それには何も答えず、彼女は袋から青いワンピースを取り出すと、身体を拭
おうともせず、そのまま着てしまった。そして、僕の横に座ると、今自分がやっ
て来た海の方に顔を向けた。遠くを見るような目だった。
何となく無視されているように思えて、何も言えずにいると、彼女は海に視
線を向けたまま話しかけてきた。
「ねえ、海は好き?」
「は、はい」
「ふーん。どこが?」
どこが、と聞かれて、どう答えたらいいのか僕は分からなかった。
僕が答えられずに黙っていると、彼女は長い髪を両手で絞りながら言った。
「海は母親の胎内と同じなんだって。だから懐かしい感じがするんだってさ。
知ってた?」
「はあ・・・・・・。そうなんですか」
「あんた、名前は?」
「は、はい。達夫です。吉野達夫」
「ふーん」
さして興味があるわけではなく、何となく聞いただけらしい。でも、脚のこ
とを尋ねられないのは、初めてだった。同情しているように装っても、みな興
味津々に聞いてくる。聞いてこないまでも、目を車椅子に向けながら、聞くの
を我慢しているのが見て取れる。無理に話題を逸らされるよりは、はっきりと
聞いてくれた方がまだましだった。
今度は僕の方から聞いてみた。
「お姉さんの名前も教えてください」
「お姉さん?達夫はいくつ?」
「十三です」
「あたしは十四よ。まあ、お姉さんには違いないか。名前は千秋。秋に生まれ
たんだって」
「だって、って誕生日から考えれば・・・・・・」
「あたし、自分の誕生日知らないもん」
驚いた。自分の誕生日を知らないということがどういうことなのか、僕には
考えられなかった。
「ねえ、海には何があると思う?」千秋は独り言のように続けた。「あたしの
父さんと母さんはね、海にいるんだって」
「海に?」
「そう、海に」
それ以上聞いてはいけないような気がした。僕は何とか話題を変えようとし
た。
「僕、病院を抜けて来たんだ」
「ふーん」千秋はそこで初めて僕の車椅子に気づいたかのように車輪の砂を手
で払いながら言った。「達夫は歩けないの?」
僕は自分の脚のこと、病院のこと、両親や医者が手術を勧めるが、自分は直
る見込みのない手術はしたくないことなどを一気に話した。こんなに自分の気
持ちを素直に話したのは初めてだった。それも、まだ会ったばかりなのに。
千秋は黙って聞いていたが、また海の方へ目を向けて言った。
「いやならやらなきゃいいじゃない。達夫の人生でしょ」
突き放すような言い方だったが、手は優しく僕の脚をさすっていた。
僕はこれまで、自分のために手術を受けたことはなかった。五回にわたる手
術はすべて、両親を悲しませないためだった。少しでも可能性があるならと、
両親は病院を探し、手術を勧めた。次第に僕は、それは僕のためじゃなく、親
の身勝手だと思うようになっていた。
「でも、手術を勧めてくれる親がいるだけいいじゃない」
千秋は僕のそんな気持ちを見透かしたように言った。
「うん・・・・・・。そうだね」
やっと僕はそれだけを言った。
しばらくすると、急に千秋は手に付いた砂を払いながら、立ち上がって言っ
た。
「ねえ、いかだ作らない?」
「いかだ?」
「そう。いかだで海のもっと沖の方まで行ってみたい」
千秋がどうして海に入っていたのか、何となく僕にも分かるような気がした。
だから千秋の手伝いがしてあげたかった。それに、僕はいつも誰かにしてもら
うばっかりで、人のために何かをしてあげたことも、何かを成し遂げたことも
なかった。だから、一も二もなく千秋に賛成した。
「それはやってみたいけど、僕なんかにできるかな」
「達夫にはちゃんと動く二本の手があるじゃない。それに、僕なんか、なんて
いうのやめなさい」
「うん。やっぱりお姉さんだね」
「あら、そうね」
千秋は笑いながら、僕の背中を一つたたき、車椅子を押し始めた。
材料を探してしばらく移動すると、丸太を積んだ上に、腰掛けている人がい
た。僕たちは思いきって話しかけてみた。
「いかだ、か・・・・・・。それもいいかもしれん」
その人は、もう二十年もこの浜で海の家をやっていたけれど、今年限りでや
めてしまうつもりだと言った。思い出深いこの丸太は、下取らせるよりも、海
に返した方がいいかもしれないとも言っていた。おまけに、手伝ってくれると
言って、道具まで貸してくれた。
材料を運び、さあこれから組もうというときに、その様子を離れてみていた
おじいさんが、話しかけてきた。
「わたしにも手伝わせてくれないか」
もちろん僕たちに異存はなかった。
おじいさんは定年を迎えてからずっと、ここに散歩に来て、海を見るのが日
課になっていると言った。
「何もすることがないのは何よりもつらいことだ。たとえこんな年寄りになっ
てしまってもね」
みんな楽しそうだった。ぼくも、楽しかった。みんなの顔が、汗と一緒に輝
いていた。僕も今、こんなにいい顔をしているのかどうか、鏡で確かめたいく
らいだった。
太陽がだんだん海に近くなって、もうすぐ出来上がるというときに、僕は現
実に引き戻された。
「たっちゃん」
母さんだった。母さんは、僕に駆け寄ってきて、僕の背中にしがみついた。
僕は母さんがかわいそうになり、心配をかけたことを少し後悔した。父さんは、
少し離れたところで、静かに僕を見つめていた。
「たっちゃん。もう何も心配しなくていいのよ。いやなら手術もしなくていい
から、だから帰りましょう。ねっ」
千秋はしばらく手を止めて、黙ってその様子を見ていた。
「母さん。僕、病院に戻るよ。手術も受ける。今度は自分のために。歩けるよ
うになるまで何度でもやってみるよ。でも、このいかだができるまで、もう少
し待って」
「たっちゃん・・・・・・」
母さんも、父さんも泣いていた。二人が僕のこの言葉を待っていたんだとい
うことに、僕もやっと気が付いた。
いかだが出来た。安全のために、いかだには長いロープをつないでおいた。
僕も、千秋も、海の家のおじさんも、散歩のおじいさんも、みんな満足そう
だった。僕は胸の中を風が通り抜けたように感じた。
「じゃあ、行って来るね」
千秋はみんなの見送る中、振り向いて言った。
「達夫。よかったね。手術がんばるんだよ」
「うん」
「あたしも父さんと母さんにあいさつしたら、施設に帰るよ。あたしも抜け出
して来たんだ。じゃあね」
おじさんと、おじいさんは最後まで見届けると言っていたけれど、僕は千秋
が夕日の方を向くと同時に、病院の方へ車椅子を向けた。
あれから十五年。この海は何も変わっていないように見える。少し引きずっ
てはいるけれど、こうして自分の足で歩けるようになったのも、千秋のおかげ
かもしれない。名前しか聞かなかった彼女は、今どうしているだろう。
「君に初めて会ったときに、千秋という名前を聞いて、ここのことを思い出し
たんだ」
「そう。同じ名前だったの。よく名前を覚えてたわね」
「うん」
「あの二人はどうしているかしら」
「え、今何て?」
「ううん、何でもないの。風が冷たくなってきたわ。もう行きましょう」
「そうだね」
彼女は、まだ少し名残惜しそうにしている男の背中をぽんと一つたたくと、
男の腕を取り、ゆっくりと歩き始めた。