#772/1336 短編
★タイトル (PRN ) 97/ 4/27 20:57 (111)
雪の駅 叙朱(ジョッシュ)
★内容
海沿いの町で単線の列車に乗り換えた。
時刻表ではだいたい一時間に一本しか走らないローカル線は、それでも六両
編成でホームに待っていた。ヨシダが列車に乗り込むとき、ちらと見上げた雲
ひとつない空には早くも初冬の暮色が漂っている。まだ午後四時なのに、冬の
北国の夕暮れは早い。
ローカル線は、海沿いの町を出るとすぐに長いトンネルに入った。ディーゼ
ル機関車のエンジン音がトンネルの壁に反響して、ヨシダの耳に痛いくらいだ。
ヨシダの向かい側には初老の男が座っていた。車内は暖房がむっとするほど
効いている。しかしその男は毛糸の帽子で耳まで隠し、年季の入った茶色のジ
ャンパーは首のところまで釦をかけている。きちっと背筋を伸ばし、薄く開か
れた目はどこか遠くを見据えていた。まるで帰還兵のようだ。
ヨシダは列車が動き出すとほっと溜息をつき、内ポケットから手紙を取り出
した。今日もう何回も読み返していた。そのせいで、今朝はきちっとしていた
封筒も角が擦りきれている。これで最後だぞ、と自分に言い聞かせながら封筒
から小さく折られた便せんを取り出す。開くと懐かしい几帳面な文字が並んで
いた。ヨシダは文字を追う。もう何回これを繰り返したことか。それでも、ヨ
シダには書いてあることが信じられないのだ。
その時、初老の男がごそりと動いた。ヨシダが目を上げると、男は照れたよ
うににやりと笑い、足元の麻袋のようなバッグからウィスキー瓶を取り出した。
おやおや、とヨシダは男に気づかれない程度に眉をひそめる。男はさらに小さ
なプラスチックのコップをふたつ取り出した。ヨシダは、困ったぞと思った。
初老の男はそんなヨシダの顔に笑いかける。
「一杯やらないかね」
笑った男はきれいな歯並びをしていた。それがヨシダを少し安心させた。手
紙を丁寧に内ポケットにしまうと、男の差し出すプラスチックのコップを受け
取る。コップは薄くて手で持つと割れそうだった。
「どこまで行くのかね」
男は聞いた。ウィスキーをなみなみと注いでくれる。ヨシダは手紙に書いて
あった地名を言った。男は、ああ、とうなずいた。
「あそこは以前は一面の紅花畑でなあ、そりゃあきれいだったなあ」
初老の男の細い目がいっそう細くなった。ヨシダはウィスキーに口をつける。
芳醇な香りが舌から鼻腔へと抜ける。なかなか上等のウィスキーだ。久しぶり
のアルコールが食道あたりから身体に染み込んでゆくのがわかる。それに合わ
せて、目の前に一面の紅花畑が広がる。風にゆらゆら揺れる広大な紅花畑だ。
男はウィスキーを口に含むと、美味しそうにのどを鳴らした。ヨシダが何も
喋らないので、男がまた口を開いた。
「あんたはもう少し早く来なくっちゃいかんよ。この長いトンネルを抜けると、
紅葉がそりゃあとてもきれいなんだぜ。あと一ヶ月も早ければなあ」
本当に残念そうだ。酔いが回ってきたのか、男はやくざな口調になっていた。
列車の窓の外は真っ暗だ。長いトンネルだった。長いトンネルを抜けると紅葉
か。ヨシダはウィスキーをなめながら、赤や黄に燃える山並みを想像した。
列車はトンネルの暗闇を走り続けた。暗闇はいつ果てるとも分からないほど
に真っ暗闇だった。果てることのない暗闇の連続は、じわりじわりとヨシダを
不安にした。ごとんごとんごとん。レールの切れ目で跳ねる車輪の音が足元か
らヨシダを突き上げる。ヨシダの脳裏で紅葉の山々が暗転した。ああ、もう暗
いところはまっぴらだ。
ぱきん。ささやかな音を立ててヨシダの手の中のコップが割れた。いつの間
にかヨシダは握りこぶしを作っていた。たっぷりと残っていたウィスキーがヨ
シダのズボンにこぼれる。ヨシダは慌てて立ち上がった。
「あ、もったいないことをしやがる」
男は麻袋をがさごそさせると真っ白な手ぬぐいを取り出した。ヨシダに突き
出す。頭を下げて受け取り、ヨシダは慌ててズボンを拭いた。暖房の効きすぎ
た車内にウィスキーの甘い匂いが流れ出す。遠くの席で中年の女が胡散臭そう
に立ち上がったヨシダを見ている。
「まあ、座れよ」
立ちつくしたヨシダに細い目を向けて男が囁いた。はい、と答えてヨシダは
しおらしく座る。一体どうしたというんだ。ヨシダは息を整えながら自問する。
もう戻らないんだ。自分に言い聞かせる。相変わらず、列車はトンネルの暗闇
を走り続けている。
「ほら、今度は注意しろよ」
見ると、男が新しいコップを差し出していた。列車の車内灯を受けてコップ
が鈍く光る。男はまた、なみなみとウィスキーを注いでくれた。
「あのな、ウサギ女の話を知っているか?」
ヨシダが新しいウィスキーに口をつけるのを確かめて、男は話し始めた。
「あんたの行く町にはウサギ女がいるんだ」
男は真顔で言った。ヨシダは、ウサギ女ですか?、と聞き返した。男はゆっ
くりとうなずいた。
「ウサギ女はなあ、哀しい女なんだ。たったひとりでな、今ではすっかり無く
なった紅花畑を探しているらしい。雪が降ると哀しそうな目をして人待ち顔で
立っているそうだ。あんたも今日あたり見れるかもしれんぞ」
男はまじめな顔をしていたが、その話にはあまり説得力がなかった。酔いが
回ってきたのか、男の身体はゆらゆらと揺れ始めている。列車の揺れもひどく
なってきた。それとも、ヨシダが酔っぱらってきたのか。
突然、うるさかった列車のエンジン音がふっとかき消えた。車窓がぱあっと
明るくなる。
「ああ、雪だあ」
ヨシダの後ろで歓声が上がった。車窓は見渡す限りの白だった。その白はち
ょうど窓枠のあたりで暮れゆく空の色に溶け消えて、走り去る山々は墨絵のよ
うにかすんでいる。とうとう列車は長いトンネルの暗闇を抜けたのだ。ヨシダ
は窓に貼り付いた。列車は雪の降りしきる谷間を川沿いに走り下っていた。窓
ガラスがヨシダの吐く息で曇り始める。
「あんたの降りる駅は次だろ」
男が親切に教えてくれる。眠そうな顔をしている。列車がカーブを切るとそ
の小さな駅が見えてきた。だいだい色の灯りがぽつりと見える。ヨシダの胸の
鼓動が早くなる。
列車は川沿いに右に左にとカーブを切った。その度に小さな駅が山間の暮色
の中に見え隠れする。そして現れる度に少しずつ近くなる。ヨシダは息を詰め
てその駅を見つめていた。駅のプラットホームが見えてくる。列車を待つ黒い
人影が見えてくる。そしてホームの一番手前に白いコートが見える。
「おい、あれがさっき話したウサギ女だよ。そうに違いない」
いつの間にか男も窓ガラスに顔をくっつけていた。確かに男の言うように白
いコートを着ているのは女だった。
「いいか、ウサギ女はきっと赤い目をしている。それが人間と違うところだ。
ようく見てるんだぞ」
男のアルコール臭い息がヨシダの顔にかかる。しかしヨシダは窓から離れら
れない。もしかしたら...。ヨシダの心臓は期待と不安でのどから飛び出して
きそうだ。列車が速度を落とし始めた。もう駅は目の前だ。
白いコートの女は一心に列車の方を見つづけている。口をゆっくり動かして
いる。何かを繰り返し喋っているのだ。ヨシダは女の口に合わせて、声を出し
てみる。
オ、カ、エ、リ、ナ、サ、イ。
列車は雪の降りしきる谷間の駅に滑り込んだ。男が得意げにヨシダの肩を叩
く。
「おい、見たか。あのウサギ女の目。真っ赤だったろう?、あんたはまったく
幸運な男だよ。ウサギ女が見れたんだから」
ヨシダは黒いボストンバッグを手にして立ち上がった。泥酔状態の男に礼を
言う。歩き出したヨシダの背に、男の独り言が聞こえた。
「なんでえ、珍しいウサギ女を見れたぐらいで、大の男が泣くんじゃねえよ」
<了>