AWC お題>雨       千秋


        
#668/1336 短編
★タイトル (PAN     )  96/10/21  17:19  ( 45)
お題>雨       千秋
★内容
 俺が殺してしまったのか…。目の前には血まみれの女が横たわっている。俺の手
には包丁が握りしめられている。そしてその手にはまだ、恵美子の首を刺した感触
が残っている。どうしてこんなことになってしまったんだ。殺すつもりなんかなか
ったのに。

 会社を出ると恵美子がそこに立っていた。俺の退社を待ち伏せしていたんだろう。
恵美子は話があると言って、俺を人通りの少ない路地に連れていった。路地の中ほ
どで恵美子は足を止め、振り返った。そこで、あいつはいつの間にか持っていた包
丁を自分の喉にあてがい、「あたしと結婚する気がないんなら、この場で死んでや
るから」と言ったんだ。俺は驚いた。そして止めたんだ。それがもみ合っているう
ちに、どうしてか恵美子の首に包丁が刺さってしまった。俺は止めようとしていた
んだ。そりゃあ俺には妻も、かわいい盛りの二人の子供もいる。その上会社も一流
企業だし、出世だって人並みにしている。順風満帆な人生だ。それをほんのちょっ
とちょっかいだしただけの女に、ぶち壊しにされたくはない。それは確かだ。だか
らといってあいつを殺そうなんて思ったことはない。いや…どうだろう。そう言い
切れるだろうか。こんな騒ぎをまた起こされたら迷惑だ、とは思わなかっただろう
か。こんな面倒な女、いっそいなくなった方がいいとは思わなかっただろうか。自
殺を止めているはずの手が、喉に包丁を押し込んでいなかっただろうか。

 恵美子は驚いたような顔をして膝から崩れ落ちていった。俺は慌てて、恵美子の
首から包丁を抜いた。助けようと思ったんだ。首に包丁が刺さっていると痛いだろ
うと思ったんだ。しかしその瞬間、恵美子の喉から激しい血しぶきが上がった。恵
美子も俺もその血で真っ赤に染まった。吹き上がる血を呆然と見ている俺の背後で、
女の鋭い叫び声があがった。「人殺し」と叫んでいた。警察にはもう通報したんだ
ろうな、あの女。俺が今まで築き上げてきたささやかで幸せな人生は、これでおし
まいって訳だ。天を仰いだ俺の顔に冷たいものがポツリとあたった。

 あっと言う間に土砂降りになった。夕立か。人生が急転直下した今の俺にふさわ
しい天気だな。足下に転がっている恵美子を見下ろすと、全身に浴びた大量の血が
洗い流されはじめていた。体を覆っていた鮮血がなくなると、恵美子が死んでいる
とは思えなくなってきた。ぬかるみに滑って驚いているだけのようにしか見えない。
今にも起きあがって、「今のは全部冗談よ。お芝居。驚いた?」と大笑いするんじ
ゃないだろうか。恵美子を殺したという事実が、次第に不確かなものに思えてきた。
俺が恵美子を殺すはずはないんだ。そうだ。恵美子は死んでいないのかもしれない。
俺は恵美子を殺さなかった。この路地では実際、何も起きなかったんだ。そう。恵
美子は死んではいない。俺は明日からもまた、今日までと何一つ変わらない生活が
送るんだ。この空からの恵みは街中の埃だけでなく、この惨劇までもきれいにすす
いでくれているんだなぁ。

 雲の間から光が射しこみ始めた。俺の気分も晴れやかなものになってきた。夕立
の後には虹も出て、今までよりもきれいな青空が広がる。明日からはより幸せな生
活が待っているのかもしれないな。さぁて、家に帰ろう。家族の待つ暖かい家に。
俺は包丁を捨て、この路地を出るために歩き始めた。今日の夕飯は何だろう。ケー
キでも買って帰るかな。その時、サイレンの音を響かせて、パトカーが俺の前に停
まった。




前のメッセージ 次のメッセージ 
「短編」一覧 千秋の作品
修正・削除する         


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE