#586/1336 短編
★タイトル (AZA ) 96/ 5/31 23:38 ( 62)
私は役者 永山
★内容
これでよし。
私はそうつぶやきたいのはこらえ、代わりに、一丁上がりとばかり、両手を
はたいた。
憂いは除かれた。
私を追い詰めるからいけないのだ。愛人で満足していればいいものを、妻の
座まで欲張るなんて。おかげで、愛人の椅子を補充しなければならない。面倒
極まりない。
今は先の心配をする状況にない。冷静沈着をもって、予定通りに振る舞うこ
と。これが私の採るべき最善の行動。
この部屋に、私が入った痕跡は全く残っていないはずだ。手袋はしている。
スキンヘッドだから、髪の毛が抜け落ちることもない。犯行の際、どこも怪我
はしなかったし、爪一つ割れていない。衣服はどこも綻びていない。ボタンも
きちんと着いたままだ。飲み物を出されたが、グラスに口を付けはしなかった。
もちろん、会話を交わしたのだから、唾の数滴は飛び散ったかもしれないが、
それを探し出すまでの技術が科学捜査とやらに備わっているだろうか? いや、
備わっていないに違いない。検出されない限り、唾液の一滴や二滴、恐れるに
足りぬ。
チェックを終えて、私が次に取りかかったのは、変装である。
変装には自信がある。私は役者なのだから。中野左分郎と言えば、そこそこ
名を知られているだろう。メーキャップアーティストの力を借りなくても、外
見を一変させる術は知っている。
大げさにしてはならない。さりげなく、目元や口元を変える。あるいは、い
つもしゃんとしている姿勢を、だらしなくする。それだけで充分なのだ。
だが、今回、もしも変装がばれては、人生に関わる。殺人犯としてさらし者
になるかもしれない。
そこで、主義ではないが、念入りに変装を行った。化粧類を使って肌の色を
変え、かつらを被る。顎を取り巻くように髭を垂らし、パッドを入れてなで肩
をいかつくした。服の下にはライフジャケットを入れ、少し空気を送る。これ
で太り気味の男に見える。靴は心持ち厚底の物を履き、身長を微妙に変えた。
最後に眼鏡をかけて完成。
私は大鏡の前に立ち、その完璧ぶりに満足した。事前に、この格好で妻の前
に現れたところ、全く気付かなかった。そのときと寸分違わぬ出で立ちの男が、
目の前にいる。
鏡から離れ、時計で時間を確かめる。これからアリバイ作りのため、鉄道を
乗り継がねばならないのだ。ここをあと五分以内に発たねばならない。
長居は無用だ。予定には余裕があった方がよいに決まっている。第一、ぐず
ぐずしていて、誰かがここを訪ねてきたら抜け出せなくなる。部屋を出る瞬間
だけは、誰にも目撃されてはならない。
その点、私は幸運だった。脱出は簡単だった。
「あれー? 中野左分郎? そうだ、やっぱり、中野左分郎だ。え? 人違い
だって? あ、ひどいなあ。そんなことないでしょ。ファンは大切にしなきゃ
いけませんぜ、旦那。私ゃ、あんたのファン。こうして会えるたぁ、何かの縁
でしょうが。ねえ、ビュッフェで一杯、いかがです。
隣に座れ? そりゃあ、光栄だな。嫌々でも、出張してよかった。最後の最
後で、こうした幸運があるなんてねえ。こうなってくると、新幹線の速さが恨
めしくなりますよ。ちょっとでも長くいたいのに、どんどん進んじまう。つい
さっきまで、早く帰りたくてたまらなかったのに、おかしなもんです。
何ですか? ああ、どうして分かったかって? まあ、ファンとしての眼力
とでもさせてください。そりゃあ、最初は分からなかった。でも、全体から醸
し出される雰囲気がね、何て言うか、中野左分郎!って感じなんすよ。いくら
隠そうとしたって、にじみ出るもんですねえ、やっぱ。
あれ? 何か悪いこと、言いましたか、私? そんなことない……。いや、
それならいいんですけど、顔色がよくないですよ。あ、さっきのことですか。
あれは、中野さんの変装が下手という意味ではありませんよ。ええ、決してそ
うじゃありません。変装は見事です。だけど、それを補ってあまりある、中野
左分郎の役者としての気合いってものが……」
私は、私が思っていたほどには、妻が私のことをよく見てはいなかったこと
を知った。
−−終わり