#548/1336 短編
★タイトル (RAD ) 96/ 2/ 5 0:31 ( 74)
明日を夢見る者たちへ 悠歩
★内容
男がマウンドに向かう時、それを迎える声援は無い。
それどころか、試合に見切りをつけた観客たちが、ぞろぞろと出口に急ぐ。
投球前に打ち合わせに来た捕手も、どこか淡白だった。
後ろを守る七人にも、そしてベンチにも、もう試合の緊迫感は無い。
捕手との短い打ち合わせを終えると、男は先発投手等によって踏み荒らされたマウ
ンドを、足で丹念にならす。
そして、白いボールを手でこねながら、球場の中でただ一人、緊張を保とうとする。
敗戦処理。
それが男に与えられた役目だった。
もう逆転が望めそうに無い、大差の中で男の出番がまわって来た。
今の男には、こんな状況でしか出番は来ない。
それでも良かった。
男は試合で投げられる事が嬉しかった。
でんな試合でも、投げられさえすれば、自分を見て貰える。
ここで結果が残せれば、いずれは球場の全てが、緊張した試合で登板出来るかも知
れない。そんな想いが有った。
「プレイ」
主審の手が上がった瞬間、そんな想いも意識の彼方へと消える。
男の視界には、キャッチャーミットだけが残された。
そのミットめがけて、男は球を投げる。
名前がコールされ、男は足早に一塁ベースへ向かう。
男が一塁ベースに達すると、球場全体に、割れんばかりの歓声が巻き起こった。
しかしその歓声は、男に向けられた物では無い。
ゆっくりと打席へ向かう、四番打者へ送られた物だった。
代走。
それが一塁ベースに立つ、男の仕事。
同点のランナーである、男の役目は大きい。
だが、人々の期待は全て打席の四番打者に向けられていた。
ホームラン………殆どの観客がそれを望んでいるのが判っていた。
けれど、男は二塁打を願ったいた。
それも、男がぎりぎり本塁へ戻れるかどうかの当たりを。
打球が野手の間を抜け、長打コースにさえ転がれば、全ての注目が男に集まる。
ボールが返球され、タッチに来る捕手をかいくぐって本塁を盗る。その瞬間こそ、
今の男が主役になれる瞬間。
カーンと澄んだ音、舞う白球。
男は走り出す。
全ての視線を背中に受けて。
試合開始前、両チームのメンバーがコールされる。
七番、セカンド。
それが男の、今日のポジションだった。
男のポジションは、試合毎に変わる。
時には外野手、時にはキャッチャー。
しかし、プレイボールが宣言される時、男の姿はグラウンドに無い。
偵察メンバー。
それが男の役目だった。
毎試合の様に、スタメンに名を記しながら、決してグラウンドを踏むことは無い。
白熱する試合を横目に、控え投手たちの球を受ける。
そう、男の本来のポジションはキャッチャー。
しかしに与えられている仕事の場は、ブルペン。
今、リリーフエースの球を受けながら思う。
俺はこの投手、いや、チームの全ての投手を誰よりも知っていると。
名前がコールされ、リリーフエースはマウンドへ向かう。
その背中を見送りながら、男はいずれ彼を送る側では無く、迎える側になりたいと
思う。
いつかきっと、試合が始まっても、自分の名前がスコアボードから消えない日が来
る。
男は、それが夢で終わらないことを信じていた。
−終−
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偵察メンバー………敵チームの先発投手が予想出来ない時などに、仮にスタ
メンに入れておく選手。
相手投手が発表されると、その投手に相性のいい選手と
交代させられる。