#544/1336 短編
★タイトル (UUH ) 96/ 1/15 17:55 (180)
運命の逆転
★内容
「 運 命 の 逆 転 」 内 田 有 希 夫 作
プロローグ
平成8年元日。
その日の早朝、多くの日本人が初日の出を拝もうと各地に散在していた。
そして、何事もなく朝日が上り始めた。歓声があがる。
太陽は約8分かけてそのすべてを地上に現した。皆、帰路に着こうとしていた。
その時だ。突然太陽が沈みだした。
「あっ!」悲鳴に近い声が一斉に発せられた。
太陽は再び8分かけて地平線に沈んでいった。
午前7時過ぎ、気象庁、各地の気象台、警察そしてありとあらゆる関係官庁の
電話が一斉に鳴り出した。
しかし、再び太陽は上り始めた。
そして数分前の出来事がうそのことであったかのように、平成8年は始動した。
その頃、高知県の桂浜海岸で不思議な現象を多くの見物人が目撃していた。
大晦日の夕方から、そのダイハツのミラはその場所に止まっていた。
そして、翌朝、太陽が異常現象をおこした瞬間、ミラは突然、浮揚し、太平洋へ向か
っ
てゆっくり動き始めた。太陽が沈み、同時にミラは薄暗い夜明け前の太平洋上空で
突然、輝くばかりのコバルトブルーに輝き、そして消えた。
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昭和46年6月20日。大阪、長居陸上競技場。
一人の少年がレース前の選手控え室で孤独に耐えていた。
少年の名は鈴木恵一。神戸学院高校2年生、17歳。
彼はなみいる3年生スプリンターを押し退け、200m競争での決勝進出を
果していた。このレースで6着以内に入れば、憧れの全国インターハイに駒を
進めることができるのだ。
競馬の世界でG1レースに出場することが、すべての競争馬の夢のように
彼にとっても全国インターハイへの出場はオリンピックへの夢をかなえる
大きな入口であった。
しかし、予選記録から見ると彼の記録は確かに6番目だったが、7位,8位
とは僅か0.1秒差。しかも相手はすべて先輩の3年生。
不安と緊張が極限に達していた。その時だった。
「おい、ケイイチ」
恵一はその声で我にかえり、顔をあげた。
そこにひとりの見知らぬ男が立っていた。男はいきなり言った。
「君は負けるよ。7着になる。」
<<何だ、このおっさんは>>
「縁起でもないこと、言うなよ!」
しかし、男は話を続けた。
「君は無心でレースに望もうとしている。それはいいことだ。しかし相手は3年生
だ。決勝はそんなに甘くないよ」
恵一はむきになって
「そんなこと良くわかってるさ」
<<早くどっかへいっちまえ、この疫病神が>>
「わからないなら、結末を教えてあげよう。君は150mまで確実に6着のポジション
にいる。そして勝利を確信するだろう。ゴールと同時に後ろを振り返る。その時君に見
え
るランナーは一人だけ。そう、君はラスト5mで地獄に落ちるんだ」。
<<恵一の怒りは頂点に達した>>
<<馬鹿やろ・・・・・>>
そう言おうとした時、男の姿は忽然と消えていた。
それから、1時間後、恵一は失意のどん底の中にいた。
あの男の予言が現実となったからだ。
<<単なる偶然だ。まだあしたの400mが残っている・・・・>>
恵一は本来、400mを得意としていたから気持ちの切替えも早かった。
その晩はぐっすり眠れた。
翌日、恵一は予選、準決勝と自己記録を大幅に更新して順当に決勝に駒を進めた。
ところがである。あの男がまた現れたのだ!
「また、7着になるっていうのかよ」。
恵一は乱暴に言った。
「そうだよ」。
「殴るで、おっさん」。
「時間がないんだ、よく聞け、恵一。俺はお前の人生を狂わせたくないんだ。
頼むからおれの言うとおりにしてくれ。最終コーナーを回ってもし6着以内にいたら
君はまた最後で抜かれる。微妙なペース配分だが、最終コーナーを7着で通過して
最後の50mで渾身のラストスパートをかけろ!」
男の目には涙がたまっていた。
それを見て、恵一は男にそれ以上のことが言えなかった。
恵一はレース直前まで躊躇した。400mレースにおいてトップギアをいったん
サードギアに落とすと再び加速するのにものすごいエネルギーを要する。特にレース
後半の局面ではそれは致命傷となる。
<<位置について。用意。カーン>>
恵一は3コース。前には5人のランナーがいた。理屈の上では2人抜けば、6着。
しかし、インコースの2人がブラインドとなる。49秒台を持つ強豪3名のランナーは
ダントツでバックストレートを走る。恵一はマイペースを保ったまま、200mを通過
した。インコースから抜かれる気配もない。
<<いける!>>
恵一はそう思った。
恵一は長い競技生活の中で「ギャザー」というテクニックを体得していた。
400mという短距離レースは苦痛を伴う過酷な種目である。
スタートで加速したまま一気にゴールを目指すと必ずラスト100mで失速する。
そのため一流ランナーは一応にこの「ギャザー」の技術を活用している。
「ギャザー」とは一口で言えば、意識的に「ニュートラル」状態で走ることである。
それは僅か0コンマ1秒の世界。微妙な狂いがラスト100mの勝敗を左右する、まさ
に
「デッドゾーン」である。
その日、恵一はこの「ギャザー」をいつもより僅かに長くとった。
前を走るランナーの姿が遠ざかり、インコースから選手の息づかいが聞こえてくる。
最終コーナーを回った時、彼の前には7名のランナーがいた。最下位!
<<届かない。負ける!>>
そう思った時、彼の前に小柄な選手の姿が視界に入った。
<<吉田 暁>>
恵一の宿命のライバル。1年前の近畿ジュニアでは彼に快勝している。
<<負けるはずがない・・・>>
恵一は渾身のラストスパートをかけた。しかし、彼は恵一と違い持久力タイプ
の中距離選手。それだけにラストになってもなかなか減速しない。
350mを通過しても、その差約2mはまったく縮まらない。
<<だめだ・・・>>
その時である。恵一にも信じられない「神風」が吹いた。今流に言えば
「ターボエンジン」が点火したとでも言うのだろうか。
ゴール手前5mで恵一と暁は並んだ。そして渾身のフィニッシュ。
<<勝ったのか、負けたのか>>
当時は写真判定装置はなく、審判の目による着順判定がなされていた。
従って、結果は場内アナウンスを待つ他なかった。
待つこと10分。1着から次々に名前と記録が放送されていく・・・
そして運命の6着。
<<6着、鈴木恵一君、神戸学院高校、記録50秒0。以上>>
暁が握手を求めてきた。
「君はやっぱりすごいな。僕はあの近畿ジュニア以来、君のことをかたときも忘れずに
練習してきたというのに・・・」
<<恵一は驚いた。>>
1着しか経験したことのない恵一は2着以下になった選手の記憶も
まして、その選手の思いも考えてみたことがなかったからだ。
「暁、これはまぐれだよ。勝ったのは俺の実力じゃない。」
でも、暁は言ってくれた。
「和歌山インターハイでは、僕の分までやってくれよな。」
暁の目にはうっすら涙が浮かんでいた。
6月の夕陽がまぶしかった。
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それから何ヵ月かたったある日のこと。恵一の家に一つの大きな郵便小包が
送られてきた。
開けてみると、見たこともない、A4サイズの黒い機械が入っていた。
そして1通の手紙が同封されていた。
恵一の記憶からほとんど消えていた、あの男からのものだった。
<<前略 鈴木恵一殿
その後の貴殿のご活躍、新聞にてうれしく拝読致しております。
さて、お送りした機械は「ノートパソコン」と呼ぶものであります。
貴殿の時代においては、コンピュータは汎用型と呼ばれる大型コンピュータしか
存在せず、専門のシステムエンジニアがコボルというコンピュータ言語で操作し、
一個人がコンピュータを扱える時代ではありません。
しかし、昭和50年代に入るとマイクロコンピュータが開発され、それが進化して
私的コンピュータ「パーソナルコンピュータ」略して「パソコン」が開発されるのです
。
初期のパソコンは大きなテレビモニターを要し、能力も汎用コンピュータの足元にも
及ばなかったのですが、平成<<ヘイセイと呼びます>>
詳細は省略しますが、昭和は63年で終わります。
話を戻します。平成に入ってパソコンは劇的な進化を遂げ、軽量小型化し、その性能
も
汎用コンピュータを凌駕するに至りました。
パソコンに同混されている丸いプラスチック状のものはこの時代、「CD−ROM」
と
呼ばれるものです。
このCD−ROMには昭和47年1月から平成7年10月(1972年〜1995年)
までの主要な新聞の記事がすべて収録してあります。
パソコンの操作はマニュアルを読めば、すぐに使えるようになると思います。
恵一君、つまりあなたはこれから先23年間の未来を知ることが出来るのです。
この奇跡が君に多くの幸せをもたらすことを祈っています。
さようなら、恵一君>>
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平成8年1月11日。自民党、社会党、さきがけの連立与党内閣において自民党の橋
本
龍太郎党首が第82代の首相として任命された。
その閣僚の中に若干41歳の通産大臣、鈴木恵一の名前があった。
完
【付録】鈴木恵一のプロファイル
1954年4月30日 神戸市生まれ
1973年4月 東京大学地球物理学部入学
1976年 モントリオールオリンピック陸上100m代表
日本人としては40年ぶりの決勝進出を果たし10秒24
の日本記録を樹立
1980年 米国マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏と出会い
MS−DOSを開発。同年同社日本支社の社長となる
。
1984年 社業のかたわらロサンゼルスオリンピックの代表とな
り
世間をあっと言わせる。決勝でカール・ルイス、
ベン・ジョンソンについで3位入賞を果たす。
1985年 阪神タイガースが21年ぶりの優勝を果たしたが、
熱狂的な彼は「道頓堀川」に飛び込み、一時危篤状態
と
なる。
1986年 自由民主党に入党
その他 何故か競馬、株に強く100発100中で40歳
にして、資産100兆円。現在、「世界を牛耳る男」
の
異名を得る。