#406/1336 短編
★タイトル (ARJ ) 95/ 2/16 14:30 (114)
お題>月と指輪 行抜け修正版 みのうら
★内容
赤く染まった視界の中で、女は嗤った。子供の笑顔で無邪気に。
忙しい左腕が振り上げられ、彼は教壇にたたきつけられる。
ぼぐん、と盛大な音を立てて折れたのは右足だった。
振動が頭蓋骨を打ち、目眩がする。
痛みはなかった。
熱だけが折れた部位から上がってくる。
右足に飽きたのか、今度は左足を捕まれた。ぐいと引きずられ、逆さまに釣り下げら
れる。
痛めつけられた内臓からは、いくらでも血が湧き出している。胃が心臓に化けたよう
だ。
口から溢れなかった血が、気管に入って痛い。
鼻孔も血塊でふさがれ、満足に息もできない。
それでも咳込めば、右腕がやって来てぐいとばかりに肋骨を締めつける。
「ぎ……ぐ」
歯茎の間から意味不明の空気が漏れる。
今度は肋骨が折れた。まとめて数本。
痛いなどという生やさしい感覚はとうの昔に消えた。
やわらかな、なまあたたかいほどの眠気と目眩と無気力。
骨が擦れるきな臭い音が頭蓋を支配した。
ぼんやりと女を眺める。
朝、彼の担任教師だった女は二倍に膨れ上がり(質量は三倍以上だ)、皮の間から獣
の肉がげろりとはみ出す。
長い黒髪は所々抜け落ち、爬虫類の緑と赤を覗かせている。
細く長かった指も節くれだって爪が伸び、黒鉄をぬめり光らせている。
醜くふくれた親指には銀輪がはまっている。
白く美しい輪は皮膚に食い込み、そこから滴る体液にも負けず繊細な文様を誇ってい
る。
じゅ。
滴りが木の床を溶かした。白煙が上がる。
生臭く焦げ臭い、喉につまる臭いが充満していたが、彼の鼻は血でいっぱいだった。
『どぅ……らあ』
太い喉から咆吼が響く。低い、岩の鳴るような。
ぼたり。
彼の目の隅を滑り落ちたのは、髪の毛が残る肉塊だった。
「うう、ごぅ」
初めて、血以外のものが上がってきた。
それでも血混じりの、胃液だ。
精神的要因で彼は吐いた。喉も耳も鼻も涙腺も、酸味のきいた体液で洗われる。凝っ
た血が、流される。
制服の、白いシャツがまだらに染まる。
女はいらだたしげに、獲物を捕らえた腕を振る。
「げぶ」
めり込んだ場所は黒板だった。
めし、と大きなひびが入り、ついで細かな蜘蛛の巣が描かれる。
緑地に黒で描かれたクレーター。
「ふ……るううう」
彼の虚ろな瞼の下に、窓の外から三日月が映る。細く冷たい銀の月。
似ている。女の指に銀の月。
刻まれた呪言が月の光に再生される。
消えかかった意識の底で、小さな火種が炎を上げた。
大地よりもなお古い、低いうなりをつぶやいて、つぶれかけた喉が発声する。だらり
下がった乾いた舌が、引き上げられて声になる。
「ぁあふう、ろお、ろ、ぁあ、あだ」
獲物の頭をもぎ取ろうと、緩慢に動かしていた左腕が、消えた。
『びうぅ!』
突き飛ばされて転がり落ちた。
何に突き飛ばされたのか解らない。鈍重に身を起こそうと足掻き、身体を振るわせる
。
その横に、べたり。
落ちてきたのは肉片。蛍光灯を割って突き刺さり、振り子のように揺れているのは女
自身の腐敗しかけた右腕だった。
『ぐうぅうあああぁあぁあうあ』
劇的な身体の変化に、獣の脳髄が悲鳴を上げた。痛みはまだない。視覚情報の方が痛
覚よりも早いのだ。
けれど彼には、もっと劇的な変化が起きていた。
「ふうぅううぅうあぅうなぁあうんぁいぅうううぅう」
解放された声は、のけぞった喉からほとばしる。
ごぐんと骨のずれる音がして、左肩が奇妙に変形した。
肉が突き上げ、半袖の開襟シャツが裂ける。
皮膚がひっつれ、また縮み、また張りつめるとぱっくり開く。
その隙間から、異質な闇が染み出した。
金色に輝く一対の眼。ナイフで切ったような瞳孔の奥は紅い。
掌は分解され、四散し、再構成が行われる。
熱い吐息とむき出しの牙。炎の舌を持つ恐怖の顎に。
元の腕の何倍にも膨れ上がった腕は、一頭の獣と化した。
ぎろりとむいた一対の他に、少し遅れて左右、二対の眼が現れた。こちらは朱に刻ま
れた、蒼い闇。
三対の眼に一つの顎。闇の毛皮に身を包み、獣は咆吼した。
彼と凶悪なる左腕は、別種の生き物としてそれぞれ独立する。未成熟なうすい肩を境
目に。
ぎし、しゅゆあんうあんゅううしゃああぁう
涎と吐息の白煙をまき散らし、獣は咆吼した。
重たい威嚇に女はたじろぐ。腰をついたまま、あとじさりする。
優勢が劣勢に、獲物が狩人にくるりと入れ替わる。
上げる咆吼が交錯し、獣たちは咬み合った。
女の皮を被った巨獣と少年を引きずった闇の顎が、互いの肉に牙を立て引きずり倒そ
うと力を競う。
不利なのは彼女だった。
彼にはもう意識がない。半眼に伏せられた瞼の下は濁り、口元にも力がない。
そして彼女はおびえていた。
戦い相手を喰らい尽くそうとする獣の本能と、泣き叫び逃げ出そうとする彼女の意識
とがせめぎ合い、ぶつかりあって肉の動きを掣肘する。
顎が喉笛に喰いついた。筋肉が裂け、赤黒い体液が噴く。
巨体がのけぞれば顎を支点に空を舞う。
くるりと回転し、着地する。彼の意識の優先権は今や獣の側にある。喰いちぎった肉
片音立てて咀嚼し、再び跳んだ。
筋繊維が引きちぎられる生臭い音は、肉の持ち主の耳にまではっきり届いた。
彼女が大きく悲鳴しても、彼の耳には届かない。彼の鼓膜は、哭き続ける黒い獣が支
配している。
両腕が噛み落とされ、銀の輪が落ちた。
うあぁあぁああんぁあぁなあぁぁあ
どちらが上げた咆吼なのか。
虚空に細い月が血塗れの教室を照らしている。
95/02/13 スケッチまたは習作
あんまり行抜けがひどいので、前のは削除いたしました。アップした時点でなぜ気付
かぬ……。