AWC 兄                  リーベルG


        
#361/1336 短編
★タイトル (FJM     )  95/ 1/ 8  21:56  ( 95)
兄                  リーベルG
★内容

 兄のバイクの右のミラーには、いつも半分空が映っている。
 空に車は走ってないわよ、と言うと、兄は寂しそうに、そしてどこか脅えたように
微笑みを刻む。お前にはわからないよ、とでも言うように。
 兄の細く痩せた躯をきつく抱きしめ、ヘルメット越しに背中に頬をすり寄せると、
バイクの規則的な震動に混じって、時折唄があたしの耳に届く。兄の魂がすすり泣い
ているような、哀しいメロディがあたしに伝わってくる。まるで冬の夜の雨のように
凍てつき、時も運命も遠く離れた世界を一人旅しているようなメロディ。
 兄の視線は何秒かに一回の割合で、吸い寄せられるように右のミラーに流れる。そ
の細く枯れた瞳が見つめているのは、後方のアスファルト上ではなく遠い空の徴候。
あの年、兄が旅をした中東の空に続く空。
 兄はそこで何を見たのだろう。旅から帰った兄は、あたしが知っていた兄ではない。
あたしが誰だか分からず、ぶつぶつ独り言を呟いては死んだように眠り、夜中に悲鳴
を上げて飛び起きる兄。
 ----兄さん、どうしたの?あたしが問いかけても、兄はあたしを見ながら、あたし
の背後の何かを見ていた。あたしは兄の視線を追って振り返る。
 もちろん、そこには何もない。床に置かれたルームランプが作り出すあたしの影が
壁に投げられているだけ。
 兄はあたしの問いかけに答えて、一言だけ答える。おれはもうすぐ奴等のものだ。
 奴等、が誰なのか、兄は口にしようとしない。
 ----大丈夫よ、兄さん。あたしは確信もなく慰める。あたしがずっとそばにいる。
いつまでも、あたしが兄さんのそばにいるわよ。
 兄は子供のように泣き、あたしの胸に顔を埋める。あたしは兄を抱きしめる。兄が
泣き止み、そして眠りにつくまで。

 バイクに乗って出かけられるようになっても、兄は常に何かに脅えている。外に出
るのは昼間だけ。それも、晴れている日にしか、外に出ようとしない。
 ----奴等は闇を好むんだ。あるとき、兄はそう言った。雨の降る夏の夜だった。お
れが闇に呑み込まれるのを待っている。奴等の忍耐は深く、凍りつくような邪悪さは
虚空のように果てしない。
 ----奴等って何なの?何度目か、あたしは訊いた。答えを知りたくもあり、知るの
が恐ろしくもあった。
 ----奴等がおれを連れ去ろうとしている。兄はあたしの問いが聞こえなかったかの
ようにつぶやく。おれは必死で抵抗しているが、奴等の古い力の前には何者も無力だ。
 ----兄さん。悲しみが声を高くする。奴等って何なの?
 ----おお、おれは何ということをしてしまったのだろう。兄は静かに怒号する。
 ----兄さん……。
 そこで初めて、兄はあたしに気付いたように、あたしの身体を抱きしめる。
 ----おれは怖い。兄はあたしをきつく抱きながらつぶやく。おれが侵してしまった
ことがではなく、これから受ける罰が。おお、おれは知らなかった。知らなかったん
だよ。
 ----ああ……
 兄の恐怖があたしの心に同じ黒い雲を喚んだ。
 やがて……それは沈み込むような官能に変わる。

 バイクで流しているときの兄は、空を映すミラーに視線を投げている。哀しいメロ
ディを口ずさみながら。
 あたしは理由もなく確信している。兄が何を恐れているにせよ、恐れながら同時に
それに惹かれていることを。兄は惹かれてしまう自分を認めることを恐れ、そうする
ことで変わってしまうことを恐れている。
 引き留めることができるだろうか?あたしに、その力があるのだろうか?
 何よりも兄は引き留められたいと望んでいるのだろうか?

 兄は明るい光の中であたしを抱く。羞恥と官能と哀しみに熱く染まるあたしの肌を、
ある時は脆いガラスのように優しく、ある時は野獣のように荒々しくむさぼる。食事
をほとんど摂ろうとしない兄の身体は、痛々しいほどに痩せこけている。触れる唇は
乾き、探る指は力強さを欠いている。固い男根が躊躇いがちにあたしを貫くとき、兄
は何かを探すように目を覗き込む。あたしが、あたしであることを確かめずにはいら
れないように。
 けれども、哀しくも激しい官能の波に翻弄されながらも、あたしは兄の瞳の中に別
の影を見る。兄が恐れながら惹かれている何かの断片を。決して明かされることのな
い秘密。言葉にできない光と闇の境界線に存在する幻影。
 それは……暗く、どこまでも冷たく、想像を絶するほど深い淵。そこに落ち込んだ
兄を救う術を、あたしは知らない。知る術は兄自身によって閉ざされ、その病んだ心
の奥深くに幽閉されている。無力な、血が滲むような脱力感があたしを襲う。このと
き、確かにつながるのが分かる。あたしと兄の世界が。底知れぬ無機質な絶望を触媒
として……
 だが、それは一瞬のきらめきと共に去っていき……そして、虚しく一方的な肉体的
快楽だけが残される。溺れてしまえるほど強くはなく、無視してしまえるほど弱くも
ない。
 ああ、いっそ、何もかも忘れてしまえれば。何も考えることなく、この重く苦しい
官能の波に全てを委ねてしまえれば。心の防壁が押し戻している熱く誘惑的な狂気が
蹂躙するに任せてしまえれば。
 確実に、着実に近付いてくる破滅の前に、我と我が身を投げ出すことで兄の救済が
かなうなら。

 夜の国道。赤く浮かび上がる車のテールランプ。メーターの針は弱く震え、排気音
が兄のメロディを乗せて後方へ流れ去っていく。まるで命を少しずつ削り取るように
すり抜ける風が体温を奪う。温もりを感じるのは、兄の背中とあたしの胸。
 バックミラーには星のない夜空。厚く垂れ込めた雲の間隙に、兄は短く視線を走ら
せ、まるで追われているかのようにスロットルを絞る。兄の動作の一つ一つを、あた
しは五感によらずして感じ取る。締めつけられるような恐怖、無慈悲な未来に対する
焦燥感、あたしへの哀しい慈しみの心。あたしの中に流れ込む兄の様々な感情を、あ
たしは永劫に続く記憶に焼きつける。
 迫り来るカーヴ。慎重な運転を好んだ以前の兄からは想像もつかないようなスロッ
トルワークで、マシンと一体となったあたしたちの身体は地面にこすれるほどバンク
して、ワインディングロードのコーナーを駆け抜ける。
 振り向けない。何も見えない。全ての音が意味を失う。次の瞬間を恐れない兄。分
断された夢の時間が過ぎ去り、太陽の光の前に闇の軍勢が撤退するまで走り続ける。
 感じるのは、ただ冷たい風だけ。

                                1991. 5. 1
                                                             1994.12.11
                                                             1995. 1. 8





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