#102/1336 短編
★タイトル (GVJ ) 93/ 8/ 1 19:48 (197)
暗黒の門 青木無常
★内容
風に、水のにおいが立ち混じる。
老人は独り、板張りの間に座して、ただ待っていた。
さわさわと森が鳴き、蒸す小屋内に湿りけを帯びた涼風が吹きつける。
その風を、ひとの気配が遮った。
ふりかえりもせず、老人は瞑目したまま。
「小角」
と人陰が静かに呼びかけるのへも、老人はふりかえるどころか身じろぎひとつし
ない。
「主」
姿勢を崩さず、ほとんど口をも動かさぬまま、老人は問うた。
「彼界からの使者か」
「そうだ」
答えつつ、人陰はその腰からゆっくりと得物を抜き放つ。
幅広、両刃。日本刀とは、明らかにちがう。
それを、ゆったりとした動作で頭上にふりあげた。
ざ、ざ、ざ、と胸を揺さぶるような音とともに、唐突に雨が地を叩きはじめる。
「名はなんという」
しわがれた問いかけに、
「エク・チュエン」
踏みだした人陰は、奇妙な幾何学模様の貫頭衣を着た浅黒い異人だった。
ぶん、と蛮刀がうなりをあげてふり下ろされ、重い音を立てて板の間にめりこん
だ。
老人は化鳥のように宙に浮き、広げた両の手を鉤型に曲げつつ、浅黒い肌の若者
に襲いかかる。
はん! と声をあげつつエク・チュエンは力まかせに蛮刀を引きぬき、急降下す
る影に弧の軌跡を疾らせた。
ずばりと影が裂け――血はしぶかない。
「飛んだか!」
叫ぶや、消え失せた老人を追うようにエク・チュエンの姿もまた激しく揺れなが
ら――
跳んだ。
四囲の光景は一変し、そこには既に上下の区別もない。エク・チュエンはすばや
く敵の姿をさがし、怒り狂う赤の渦巻く彼方に踊る修験者姿をとらえて後を追う。
「追い切れるか」
嘲弄するような声ばかりが耳もとに響き、老人の姿は流動する赤い光景のはるか
向こうに見え隠れつつ遠ざかるばかり。
怒りの悪罵を吐き捨て、エク・チュエンはふりあげた蛮刀を老人の後ろ姿目がけ
て投げつけた。
凶刃が小角の背に突きたった、かと思われた瞬間、ふりむいた老人の皺だらけの
掌の前でそれは、灰となって宙に四散した。そして――
「たばかられたか」
防御の隙に間を詰められたか、眼前にエク・チュエンの逞しい体躯が立ちはだか
るのを見て小角は、顔中を埋める白髭のなかにちらりと笑みを浮かべる。
そんなことにはお構いなしに、若者は鉤状にひん曲げた五指をふりあげ、獰猛に
光る双眸を敵にすえた。
「はう!」
電光の勢いでふりおろされた五指の軌跡を追って、赤い渦流がざくりと五条に裂
け――老人のからだは、その軌跡からわずかに外れた位置に、移動していた。
「ゆゆし」
言葉ほど切迫はしていない口調で小角はひとりごち、黒い波のようにふるえ、消
えた。
「糞!」
叫び、後を追って、跳んだ。
みたび、光景が一変する。
氷のような無数の光の粒。銀河のごとくそれは八方に轟々と音を立てながら回転
し、きらめくごとに果てしれない長さの針のごとく冷気の矢を放つ。
ああお、と白い視界を震わせたエク・チュエンの雄叫びもまた、瞬く間に凍てつ
いた結晶と化した。
「小角! どこだ!」
怒りに満ちた問いかけは張り詰めた冷気に硬く響き、
「ここまでついてこられたか」
返る答えには、揶揄と感嘆とがひとしなみにこめられていた。
怒りの咆哮とともに弧を描いて突き出した掌が、渦まく氷の世界を砕き割った。
きりきりきり、反響する音は無数に増殖し、砕け散る端から冷気の光があふれ、
吹き荒れる。
は、あ、あ、とエク・チュエンの喉を狂おしくふるわせたのは、苦鳴か。
「マヤの日ざしとは、ちがうじゃろ」
老人の声が耳もとで言った。はう、と苦鳴とも怒号ともつかぬ音をたててふりか
える。が、その動作にもすでに、先の鋭さは欠けてどこか緩慢だった。
ただよう白い霧が凝固して人の姿をとった。小角の、姿を。
「おのれ、なぜわしを追う」
ぐ、と喉を鳴らして唾をのみこみ、エク・チュエンは槍のように掌をぐいと突き
出した。手刀は霧を割ってなんの手応えもなく深く突きささり、小角はなにごとも
なかったように平然とくりかえした。
「おのれ、なぜわしを追う」
怒りと、そして無力感から湧き出したマグマのような憤りが、かあ、と若者の口
から紅の怒気と化して吐き出された。手刀で突かれても平然としていた小角の飄々
とした顔貌が、一瞬、激しく引き歪む。
「神が告げられたのだ!」誇り高く響いた声が束の間、冷気の浸食を押し戻した
かに見えた。「フラカン! グクマツ! シュピヤコシュ! シュムカネ! わが
世界を創りたまい維持される尊い神々が、冥府からわき出る悪鬼どもの跳梁からこ
の世界を守るために、このおれをお選びくださったのだ!」
「神!」霧の声が、深く、重い怒りを底に秘めて低く響いた。「神! そやつら
が、そう名乗ったのか。自らを、神と!」
「なれば、どうだと!」
怒号より速く、褐色の肉体が霧に向かって突進した。霧の小角は瞬時、困惑に眉
をひそめ、エク・チュエンの前進の速度にあわせるようにして、後退する。
「まことの神なれば、人の世には関わらぬ!」
後退りつつ、小角は叫ぶ。聞く耳もたぬと言わんばかりにエク・チュエンは猪突
しながら、闇雲に鉤指をふりまわしつづけた。
「まことの神なれば、ひとの力など借りようか!」
なおも繰り返される諌言に、
「ならばおれの見た神はなんだ!」
訊きかえす若者は、癇癪をおこした子どものように、泣きわめいていた。
小角は白髭の下でちらりと笑い、
「ついてこい!」
叫びざま、四散した。おう、と応えつつエク・チュエンは、跳んだ。
どろどろとタールのように渦巻く暗黒。地獄か、とエク・チュエンは息をのみ、
目をそむける。
「もうひとつだ」
どこからか声が聞こえ、その声のみをたよりにもう一度跳び――
虚無と静寂の彼方から、ど、ど、ど、ど、と遠いどよめきが微かに聞こえる。目
をこらし、若者は濃藍の闇の彼方に、震える瀑布の白い泡沫を見た。
「小角!」
呼びかけに、応えるようにはるかな瀑布がゆらめく。エク・チュエンは轟きを目
がけて跳んだ。
弾ける粒子を突き抜け、さらに追った。
――太陽。
燃え盛る太陽が、眼前にあった。
「カムク!」
エク・チュエンは感嘆の声をあげ、伏し拝んだ。
「あれが、おまえのいう神か?」
小角の声が、どこか遠くで疑念を表する。
「トヒルの神に導かれて、八人のキチェがハカビツの麓に見いだした至福の光だ」
若者は感動のあまり声ふるわせながら言った。
言ってから、ふと、その表情に翳が落ちる。
「そうなのだろう?」
問いかけは、悲鳴のように響いた。
その通りだ、と声が聞こえた。
はっとしてエク・チュエンは顔をあげ、眼前の巨大な太陽の中に、鉄の冠と仮面
を被って奇怪な武器を手にした異様な人影を見出した。
「おおお、トヒル!」
歓喜に双眸を見開き、両の手で顔を覆って若者は、だれ憚ることなく声を立てて
泣きはじめた。
「見たか小角! おれは正しかった。おれは新たなる神と出会ったのだ! わが
一族に、太陽の恵みを与えてくださった、大いなる神と!」
「そうか」応えた声は、憂鬱げに沈んでいるように思えた。「フラカン、グクマ
ツだのといった神々も、あのような姿をしていたのか」
「まさにあのとおり!」勝利の輝きに満ちて、エク・チュエンは宣言する。「わ
れらの神にまごうかたなし! 世にさまざまな神を人は夢想すれど、まことの神は
ただひとつ、われらマヤの民の神々のみ!」
がしかし、勝利の雄叫びはふいに、途切られた。
冠と仮面と鎧をつけ武器を手にした神の姿が、溶けるようにしてその姿を変えは
じめたのだ。
「その託宣を受けるものが漢族のものであれば」
暗く、沈んだ小角の声音が告げるとともに、神の姿は袷の衣をつけ奇妙な錫杖を
手にした白髪白髭の老人の姿に変わった。
「神はこのような姿で現れたであろうな」
エク・チュエンはあまりの驚嘆に思考力を奪われ、うめきひとつ発することがで
きずにただ口を開きふるわせ、両の目をこぼれんばかりに見開くだけだった。
そうしている間にも、神の姿は再び形を変えはじめ、
「ドラヴィダの者であれば、こんな神を見たじゃろうて」
褐色の濡れ光る肌に端布を巻きつけ、人の生首を抱えどくろの首飾りをつけた異
様な神が、剣を閃かせて踊る。
「あるいは神と子と精霊とやらを信望する輩であれば、こんな姿を見たか」
突如、一面に光があふれ、まばゆさにくらむ視界に薄布をまとい両手を広げた、
翼もつ男とも女ともつかぬ七体の天使が、ゆっくりと天上から降下してくる光景が
広がった。
「これは……では……」
惚けたようにつぶやくチュエンのかたわらに、ついと修験者姿がよりそい、告げ
た。
「すべてわしがおまえに見せた幻。なれば、おまえにとってわしは神か?」
揶揄するがごとき言葉の内容とは裏腹に、その口調ははてしなく憂鬱で重かった。
若者は力なく首を左右にふり、がくりとうなだれる。
行者のしわだらけの手が、そっと重ねられた。エク・チュエンは悲しげに目を伏
せ、両の手で顔を覆う。
どれほどの時が経ったのか。
気がつくと、絶え間なく屋根を打つ雨の音が鼓膜を震わせていた。
涙をぬぐい顔をあげると、最初のあの小屋に戻っていた。
自分が踏みこんだ時そのまま、開け放された扉の向こうから無数の水滴が風に吹
かれてびょうびょうと吹き込み、灰色の山景がおぼろに霞む。
そして老人は、最前と同じように瞑目し、無言のまま座していた。
「小角……おれは……」
途方に暮れた呼びかけに、
「わしのように、また、おまえのように」抑揚を欠いた声音で、老人は淡々と言
葉を口にする。「時を、場を、超えることのできる者がまれにおる。そして、その
ような者らが邪魔な者どももまた、おるらしい」
「おれに神を見せたのは……そいつら……?」
小角は目を閉じたまま、かすかに微笑んだ。
「さて」
当惑するエク・チュエンに、くつくつと肩を震わせながら老人は笑った。
「わしも、そしておまえのいう神とやらも、同じ力を持つ者。どちらが正しいと
も、間違っているとも、おまえには判ろうはずもあるまい」
若者は瞠目したままかろうじて、わずかににうなずいて見せる。
「わしを殺す気が失せたれば、どこへなりと出かけ、答えをさがしに出るもよし。
ただし――」
と、そこで小角はその両の瞳をカッと見開き、
「今よりは、おのれもまた追われる立場にあると知れ」
炎のようなその言葉が、エク・チュエンの胸に重く、やるせない楔を打ち込んだ。
神の庇護の許から突如として放り出され、暗闇のなかどこへ行く当てもなくひと
り、置き去りにされたように。
ぐびり、と喉を鳴らしながら目を伏せ、
「小角、おれは――」
再びあげた視線の先に、老人の姿はすでになく、板の間に突き立てられた己の蛮
刀がただ、冷たく鈍い輝きを、薄闇の中に浮かばせているばかりだった。
ふりつぐ雨の細片を背に受けつつ、褐色の肌の若者はしばし凍りつき――深く、
重いため息とともに気怠い動作で立ち上がると、剣を手にとり板の間に腰を降ろす。
途方に暮れたようにあげた視線の先の、雨にかすむ光景は、たしかに自分の故地
のものではない。
「では……幻ではないのか……?」
独りごち――かたり、と音を耳にすると同時に、背後に気配を感じ、剣を構えて
ふり向いた。
木枠の向こうに、何者かの気配。
「それも今――わかる、か」
はてしなく憂鬱に、それでも、戦う対象を見出せた喜びを秘めて、若者はつぶや
いた。
(了)