#91/1336 短編
★タイトル (DRB ) 93/ 7/16 22:57 ( 32)
私が傘を持たないわけ くり えいた
★内容
私の年が今のちょうど半分だった高校生の頃のことです。下校途中の電車からホー
ムに降り立った私は、田舎駅の木のベンチに腰をおろして、参考書を読み始めました。
突然の激しい夕立で、しかも私には傘がなかったからです。
朝晴れていたからといって、この梅雨の時期に傘を用意して来ないのは、どうやら
少数派のようで、何台も電車が止まっては出て行きましたが、ホームの屋根で雨宿り
をしているのは、私と背広姿のくたびれたおじさんだけでした。そのおじさんの風体
を見ていると、自分はああいう大人にだけはなりたくないと、参考書に引く蛍光ペン
にもぎゅっと力が入るのでした。雨は止むどころかますます激しくなります。
そんな時、もうすっかり暗くなった駅で、蛍光燈の光が参考書に落ちるのを妨げる
ものがありました。顔を上げると、立っていたは彼女でした。中学校の時の同級生な
のですが、ずっと憧れていたのに一度も同じクラスになったことのないあの彼女です。
もちろんほとんど口を聞いたこともありません。その彼女が傘を差し掛けてくれてい
るのです。私は今わが身に起こっている事が現実であるのを確かめるために、思わず
横のおじさんの顔を見たほどでした。おじさんはヤニ臭い歯を見せて笑っています。
私が生まれて初めて女性との相合い傘を経験したのはその時のことです。しかも初
めての相手は私のマドンナでした。彼女の自宅に入る路地までの数百メートル、私は
何を話したのか話さなかったのか何も覚えていません。覚えているのは彼女の方にあ
る私の手をどこに置いたら落ち着くのか狂おしいくらい困ったことと、気絶しそうな
くらい彼女はいい匂いがしたということだけでした。雨の線の入って来ない傘から下
の空間にそれは満ち満ちて息が詰まりそうなほどでした。
傘を貸してあげるという彼女の申し出を遠慮した私は、家までの帰り道、どしゃぶ
りの雨を顔と両腕に受けて抱きしめながら歩きました。
その日から後のことは聞かないでください。よくある話ですから。雨の日の幻が消
え失せたのは、あまりにもよく晴れた日だったのです。
くたびれたおじさんとなってしまった今でも、私が傘を持たずに家を出るのはそん
なわけです。あの日の駅のホームで、家に電話もかけず、ただ雨が振るのを眺めてい
たおじさんが来るはずのない何を待っていたのか、そんなことが少しわかる年になり
ました。
くり えいた