AWC お題>涙(中)       青木無常


        
#5494/5495 長編
★タイトル (EJM     )  01/10/31  20:41  (162)
お題>涙(中)       青木無常
★内容
“肉体”のあとを追うのは簡単だった。腐臭を放つ汚汁を追えばいい。が、進むに
従ってアリユスは、惨状の範囲が拡大していくことに気づいた。
 最初に遭遇したときは、人ひとりが歩いた程度の幅にしか残っていない腐汁が、
徐々に広がりはじめたのだ。
 それはやがて道の周囲に生えた雑草のたぐいにも影響を及ぼしはじめた。しおた
れたものが増えていき、やがて明らかに溶解した残骸がそれに混じりはじめた。数
軒の民家にいきあたり、最初のそれに劣らぬ惨状を見出したがそのころにはあたり
一面、腐敗する生の残骸と化してもいた。
 道も四囲も汚汁にどっぷりと浸かっている、というわけではないのでどうにか跡
をたどることはできたが、アリユスが指先で少し触れただけで痺れるような痛みと
ともに猛烈な悪寒を惹起した。汚物に足を踏み入れでもしたら、靴をだめにするく
らいではすみそうにない。
 おそらく、転がる屍も一瞬にして腐敗してしまったのだろう。
「ねえ」アリユスは“神”に問いかけた。「あなたの“肉体”が制御できなくなっ
たのはなぜなの?」
 シェラについて先をいく“神”は、しばらくは無言のままだった。
 が、やがてふりかえりもせずひとりごとのように語りはじめた。
「最後の贄を喰ろうたときから、ああなった」
 いつからかは定かでない。気がついたとき彼は、村人から崇められる存在として
山中の堂に巣くっていたのだという。
 供物はさまざまだった。果実、野菜、時には家畜とおぼしき肉。彼の味覚をもっ
とも満足させるのは肉だった。ほかのものは手をつけないか、多くを残したが肉だ
けは最後の一片までしゃぶりつくした。やがて供物はもっぱら動物の肉が納められ
るようになった。“神”はすべて喰らいつくした。
 願いごとは、かなえることもあればかなえないこともあった。気まぐれからそう
することもあり、彼の手には余る願いの場合もあった。それでも奉納が絶えること
はなかった。
 ある日、死者をよみがえらせてほしいという願いが届けられた。死神から死者を
奪う所業は手に余ったので放っておいた。よくあることだった。だが誓願者は毎日
のように供物を捧げ、同じ願いをおいていった。
 かまわず供物だけを貪っていると、ある時――人間が供物として捧げられた。若
い少女だった。
“神”はそれを喰らう。美味だった。骨までしゃぶりつくした。生きたまま喰らう
のも、それまでは知らなかった快感を“神”にもたらした。
 彼はあくる日も、妙なる供物を待ちうけた。だがそれが届けられることはなかっ
た。あくる日も。あくる日も。それからは、ときおり死んだ動物の肉が奉納される
ことはあっても生きた人間の贄が捧げられることはなくなった。死んだ動物の肉は、
以前ほどの魅力を喪失した。どうあっても人間を喰らいたい、と彼は渇望するよう
になった。
 だから、それを捧げた人間の魂をのぞき、そこに刻印された容貌を見た。そして
その形どおりに泥水をこねて肉体をつくりあげ、それをあやつって請願者のもとへ
届けた。
 その日のうちに、山ほどの供物が捧げられたが、“神”の所望する人間の肉では
なかった。“神”は失望し、泥のかたまりをあやつるのをやめた。
 すると、泣き叫びながら請願者がやってきた。帰ってきたはずの息子が動かなく
なったと嘆きかなしみ、人間を贄にしつづけることは長である自分にも不可能だと
訴え、死んだ動物の肉でそれに変えることはできぬのかと問いかけた。
 彼は人間の姿を模してそのものの前に現れ、それはできぬとこたえた。請願者は
退散した。
「そのとき、その願いごとをしたひと自身を食べなかったのはなぜですか?」
 おぞましげに話をきいていたシェラがふりかえってきいた。
“神”はしばし無言だったが、やがて「それはできない」とだけ答えた。
 口調に畏怖がこもっているように、アリユスには思えた。
 話から類推するに、彼はもともと何らかの肉食獣に宿った精霊であると考えられ
た。獣であれば、人間への恐れをその魂に刻みこまれたものは多い。その名残が彼
のなかに残っていて、捧げられたものしか受け入れることができないのではないか。
 が、あえてそれを質そうとはせず、さらに神が語る言葉に耳を傾けた。
 またしばらくのあいだ、供物の捧げられぬ日々がつづいた。飢えに苛まれながら
神は堂にいた。するとまたある日、動かぬ息子を得た請願者が再来した。
 贄はどうした、と問うと、村に祟りを下してくれ、という答えが返った。
 先に捧げた娘は、人目を盗んでさらった村の幼童であった。そういうことを幾度
もくりかえしてはそのうちに誰かに見つかるし、第一人間をくりかえし贄にさしだ
していればそのうちに村人は絶えてしまう。それよりは例えば十年に一度と期限を
定めて定期的に贄をさしだすよう定めてしまえば、ならいごととして絶えることも
なく長い年月つづけることができるだろう。だがいくら村の長である自分でも、今
まで捧げなかった贄をいきなりさしだせと村人にいってもだれも肯んずることはあ
るまい。だから祟りを下せ。
 そういったようなことを、請願者はどもりながら語ったのだという。
 十年に一度というのは気が遠くなりそうなほどながいスパンだったが、まるで手
に入らぬよりはましだと彼は考えた。
 だから腹黒い長の言葉に従って、村の田畑を無差別に根こそぎすくいとり、贄を
さしだせ、さしださねば片端から喰らいつくそうぞ、とひとびとの魂に語りかけた。
 しばらくして、ふたりめの贄が堂に届けられた。満月の夜だった。彼は陶然とし
ながら生きた娘の肉を喰らいつくした。
 それから泥のかたまりをあやつった。ものを食うふりをし、かたことで語らせ、
ときおりそこらを歩かせる、といった程度だがそれでも父親である村長は嬉々とし
て泥塊に語りかけ、母親はなにくれとなく世話を焼いた。ひとの肉は無理でも、堂
には定期的に肉を届けるようにもなった。彼は泥をあやつることをつづけた。
 同時に、ひとの世の営みをつぶさに観察することになった。ひとには男と女とが
いて、むつみあい子を設けることを知った。そして十年めに、つぎの贄がさしださ
れた。
 彼はひとのまねをしてその娘とむつみあってみた。だがさほどの興は覚えなかっ
た。営みをやめて彼は娘を喰らい、泥塊をあやつりながらつぎの十年を待ちつづけ
た。
 やがて村長は死に、その妻も死に、何人かいたうちの息子たちのひとりが長の地
位を継いだ。“神”はあいかわらず泥人形をあやつりつづけたが、以前のごとく熱
心に泥塊の世話を焼くものはいなくなった。試しにあやつるのをやめると、死んだ
ものとして埋葬された。
 その後も供物を持って願いを捧にくるものは減らなかったし、十年めには新たな
贄がさしだされた。面倒になったので、ひとの願いをかなえることはいつのまにか
やめていたにも関わらず。見返りを求められることもなく、彼は存分に贄を喰らい
楽しんだ。つぎの十年も。そしてそのつぎの十年も。
 必要はなくなったが、人間のようすを観察するのはやめなかった。人間たちの日
々の営みは、奇妙に彼の興味をひいたらしい。
 彼は喰らい、観察した。
 ある年、ひとつの魂が産声をあげるのを彼は感得した。その魂の輝きは、奇妙に
彼を惹きつけた。
 生まれた幼子は娘だった。何が特別だったのかはわからない。ほかの人間とは、
魂のありようがまるで違うように彼には思えたが、どこがどう、とは自分にも定か
ではなかった。わけもわからぬまま彼は娘の成長を見守り、ものごころつくように
なってからはひとの姿を真似てその眼前に現れては語りあい、しばしばともに時を
過ごすようになった。
 娘は神と交信できるものとして、巫女と崇められた。それほどの器量よしという
わけではなかったらしいが、彼にはそんなことはどうでもいいように思えた。ただ
娘とともに過ごす時間がひどく大切であるように思えた。
 やがて娘は年頃に育ち、生まれた時とはまた違う輝きを発するようになった。そ
の輝きに彼は抑えようもなく魅かれるようになった。試しに、一度きり試みただけ
の、男女の交わりをしてみた。ひとの発するようなあえぎや歓喜が彼に訪れること
はなく、行為そのものには感興を覚えなかったが、しばらくして娘のほうから交わ
りを求めてきたので、定期的にそれをするようになった。
 そうして、新たな十年めが訪れた。巫女の娘は十六になっていた。当然のごとく、
贄に選ばれた。神に気に入られたものならば、贄にはふさわしかろうと。
 期待もこめられていたかもしれない。少女を贄として出せば、以降はあたら若い
命を無意味に出さずともよくなるかもしれぬ、と。
 彼自身にもわからなかった。
 巫女は村内に建てられた神の宮から、山中の堂へと贄として移され、そして夜が
きた。少女はおそれてはいなかった。微笑みながら神の入来を待ち――そして彼は
少女を貪り喰った。何も考えてはいなかった。ただ十年分の渇望が、ためらいもな
く少女の喉笛に焦点を結んでいただけだった。
 それから一両日を彼は、堂でひとりきりで過ごした。語りあう者のない時間は、
ここ数年では初めてのことであった。
 そして気づいたとき、彼の魂は肉体から分離していた。
 肉体は勝手に堂を出て歩き始めた。ひとの姿すら留めてはいなかった。獣じみた
姿はとろとろと腐りはじめ、あとに汚汁を残していった。あやつられるように村を
目ざし、行き当たった民家になだれこんで驚き逃げまどう家族をつぎつぎに貪り喰
った。貪り喰う端から、人間たちは彼と同じように腐れて落ちた。腐れ死んだ屍に
は興味を失い喰らうのをやめてそこらに投げ捨て、肉体はほかの獲物を追いまわし
た。
“魂”は、暴虐きわまるその所業を見守ることしかできなかった。肉体に戻ろうと
試みても、まるでうまくいかなかった。
「肉体が行っているのは、おれがひとの肉の味を覚えて以来、やりたくてたまらぬ
行為だった。思うさま人間を貪り喰らう。おれはいつも飢えていた。喰らいたくて
たまらなかった。だが何かがおれのその飢えを抑えていた。いまおれの肉体は抑制
をものともせずに、望んでいた行為を行っている。だがおれには何の感興もない」
「でしょうね」ため息とともに、アリユスはいった。「で、その肉体を捨てること
はできないの? つまり、もうひとつ別の肉体を用意することは?」
「やってみたが、できなかった。あれ以外に、おれの肉体はないらしい」
 そう、とアリユスは重ねて嘆息する。
 肉体から分離した魂を呼び戻す呪文なら知っている。肉体が生きてさえいれば呼
び戻すことはできるが、この場合にもその呪文が有効なのかはわからない。
 だが問題はそれよりも、この存在が人を喰らうことを覚えた魔怪にほかならない、
という点にある。
“肉体”と遭遇すればそれから身を守らねばならないのはまちがいないし、それを
どうにかできたとしても、魂と肉体とが一体化したときの“神”がどういった反応
を示すかもまるで未知数だった。へたをすれば、自動人形化しただけの今の状態よ
り、始末に負えない存在になることもあり得ないことではない。
 厄介な事態になってしまったが、報酬を受けた以上、逃げるわけにもいかない。
例え逃げたところで只ですむとも限らない。
 しばし無言のまま進む。腐汁の範囲の拡大は、しばらく前からおさまっていた。
ひと三人がつらなって横たわる程度の大きさだ。ある予感がアリユスにはあった。
 やがて陽が暮れはじめたころ、里が見えた。盆地の底に、民家が軒をつらねてい
る。その真ん中に、うごめく影があった。
 一行は足をはやめる。
 汚汁は縦横無尽にちらばっていた。山道を下っているときはわきにそれることも
なかったのでその大きさも伺い知ることができたが、もはや範囲も何も判然としな
い。半壊した家屋。溶け崩れた屍。なかには犬らしきそれも見受けられた。生きた
存在はどこにも見あたらない。むごたらしい物色の残滓が、腐臭を立ちのぼらせて
横たわるだけ。
 だがアリユスにもシェラにも――そしておそらくは“神”自身にも――気配だけ
は感じられた。
“肉体”の発する、異様な気配。
 腐臭そのもののように、吹きつけてくる。




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