#5175/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 9/30 1:43 (200)
そばにいるだけで 52−2 寺嶋公香
★内容
「それで? 何の用?」
「あ――先生が呼んでるのよ。体育祭の準備のことで」
「仕方ないな」
相羽は肩をすくめ、その動作に紛らせて、純子を見やった。目が、あからさ
まに残念がっている。
純子はかすかに首を横に振り、小さな笑みを目元に乗せた。またあとで、と
伝えたつもり。
「それじゃ、早く行きましょう。――涼原さん、悪いわね」
白沼は初めて純子に気が付いた風に会釈し、きびすを返しながら相羽の手を
取った。見せつけんばかりに、しっかり握っている。そして、数歩進んでから、
肩越しに振り返って、純子に手を振った。
(見ない内に、仲よくなったみたい……。前に、相羽君から聞いた話以上に)
純子は、我に返って歩き出すまで、少し時間を要してしまった。
やっと作った時間。やっと取り付けた約束。
純子は今朝、カーテンを開けたら、空一面が隅々まで晴れ渡っていることを、
切に祈っていた……。
待ち合わせ場所は、通学路にある公園だった。
通学路――これから会う三人が、同じ中学校へ通っていたときの道。
(郁江、久仁香……来てくれるかな)
弱気になって、純子は両手に力を込めた。握りしめる傘は上を向いていた。
時計は見ないようにした。たとえ、どれだけ時間が過ぎようとも、ずっと待
つつもりでいる。
それにきっと、約束の時刻まで、まだ余裕があるんだ。いつもの癖で、自分
が早く来すぎたんだ。純子は心中でそうつぶやきながら、待った。
傘の骨のラインに沿って、しずくが走る。端まで来て、一瞬、踏みとどまる
かと思ったら、やはり落ちていった。
「雨に唱えば、か……」
脈絡も意味もなく、独り言を言っていた。いや、脈絡なら少々あると言える
かもしれない。もうすぐ、歌の仕事があるのだ。そのことが、頭の片隅にあっ
た、ただそれだけのことだろう。
(二人とも、約束した時間には、たいてい遅れて来るんだから。小学生のとき
から、そうだった)
非難するでなく、自分を勇気づけたいがために、純子は思った。こんなしと
しと雨の日だけれども、あと少し待てば、富井と井口がやって来るに違いない。
一片の疑いもなく、信じ切っている。
そして、それは報われた。トロピカル系の黄色っぽい柄と、青と赤のストラ
イプ模様。見覚えのある傘の色形が見えたかと思うと、続いて、富井と井口の
姿が目に留まった。
よく知った二人の顔が、遠目からでも少し大人びて見える。傘の柄が弱い光
を通して、二人の表情にフィルターを掛けていた。
もし、このときに時刻を確かめていたら、三十分遅れだと知れただろう。だ
けど、純子は時計を見ることはなかった。公園に向かって歩く二人の様子を、
じっと見つめて、待つ。
「ありがとう。来てくれて」
一メートル足らず先で、二人が立ち止まると、純子は精一杯の礼を述べた。
応答がなく、続けて純子。なるべく、明るく、気易い調子に努めた。
「こうして会うのって、久しぶりだね」
「……そうだね」
井口が、口を開いた。雨で湿気があるというのに、唇が乾くのか、返事のあ
と、舌先で舐める。
富井の方は、顎を引き気味にして、黙り込んだまま上目遣いで純子を窺って
くるのみ。肩にもたせかけた傘が、時折、回転する。
「雨になっちゃったね。どうしようか」
傘から顔を覗かせ、空を見上げる純子。額や鼻の頭を、雨粒が打つ。
「ここだと、長い話はできないから、どこか屋根のあるところに移る?」
「それで、いい」
「どこにしようか」
三人とも、特に意見はなかった。公園を出て、適当に歩いていくと、ほどな
くして小さな喫茶店を見つけた。一部がカフェテラスになっているが、この雨
に打たれて、椅子の白さが淋しげである。
緑の木枠のドアを押し、中に入ると、客は一組もない。店員も、ウェイトレ
スの姿は見当たらず、カウンター席の向こう側に、二十代後半から三十代前半
と思しき男性が、文庫本を閉じ、その上に眼鏡を置いたところだった。天候の
せいもあるのだろうが、飾り気のない、静かな店だ。
「三名様ですね。どうぞ、お好きな席へ」
感じのよいバリトンで、マスターが言った。純子達三人は、戸口脇の傘立て
に、傘を入れると、少しの間考えて、一番奥のテーブルを選んだ。カウンター
から、やっと見えるかどうかの位置で、これからの会話にちょうどいい。
四つの椅子の内、三つを占める。純子の隣は、当然のように空席。
「ご注文は、お決まりですか」
マスターがお冷やの入ったグラスを置き、さらに、湯気の立つおしぼりを並
べた。メニューは、各テーブルにあらかじめ立て掛けてある。
「カフェオレを」
「私、ココア」
「ホットミルクをお願いします」
誰も、紅茶は頼まなかった。
マスターがカウンターに引っ込んだあとも、三人の間に、実りのある会話は
生まれない。幸い、雨音やお湯の熱せられていく音が沈黙に混じるので、完全
な静寂になるのだけは避けられた。それでもなお、寒々しいのは、今日の気温
のせいだけではあるまい。
どれくらい時間が経ったのか、感覚がない。純子達の前に、それぞれ飲み物
が並べられていた。白と焦げ茶と、その中間の色の液体を満たしたカップが一
つずつ。
添えてあった細長いスプーンを取ると、液面に挿して、かき混ぜる。みんな、
そうした。スプーンがカップの内側や底に当たり、軽やかな音が、短く、しか
しメロディを奏でるかのように鳴った。
湯気と香りが昇り立つ中、音が気詰まりな空間を、少しだけ緩めたらしい。
純子と他の二人の気持ちも、やっと溶け始めた。
最初は、純子だった。カップを包んでいた両手を下ろし、膝上に置いた。
「二人とも、ごめんね」
頭を下げた。ポニーテールが左側から前に流れてきて、揺れる。
富井達がどんな表情をしているのか、全く分からない。とにかく、始めたか
らには、話を続けよう。
「私、嘘をついてました。本当は、相羽君のことを好きなのに、ずっと黙って
いた。郁江や久仁香の、相羽君に対する気持ちを知っていたくせして……」
「……謝られたって……」
富井と井口は、困惑した顔同士、見合った。正面に視線を戻すと、富井の方
が思い切った風に口を開く。
「卒業式の日、私達もひどいことしたと思ってる、よ。だけど、純ちゃん、高
校入ってから、相羽君と一緒に通学してたよね」
「……ええ」
「心の底から悪いと思ってたら、あんなこと、できないんじゃないかなあって」
「それは――」
入学してからひと月は、必死になって相羽を避けていた。一緒に登下校する
ようになったのは、そのあと……と、答えようとして、やめた。何をどう言お
うとも、言い訳にしかならない。相羽を避けていた間でさえ、身を引き裂かれ
るような心地を味わっていたのだから。
純子が絶句してしまっていると、井口が割って入ってきた。
「純……教えてほしいことがあるのだけれど」
「うん」
「純が、相羽君を好きになったのは、いつ? 正直に答えて」
「分かんない」
答を絞り出す。迷うことはない。ただ、言葉にするのが苦しいだけ。
「分かんないけど。私自身、相羽君を好きなんだと意識したのは……去年の十
一月頃」
「それ……相羽君が、外国の学校に行くかもしれないって、言ってたころね」
井口の指摘に、ぎくりとした。
(告白されたことは、言いたくないっ)
動揺が表面に出ないよう、努力する。何か他の動作を、と思い、カップを引
き寄せる。再び、両手で包み込んだ。力が入る。
「そうだけど」
何気ない調子で返す純子。これに今度は、富井が応じた。
「相羽君が、遠くに行ってしまいそうになって、だから、急に、好きなんだっ
てことに気が付いたというわけなんだよね?」
「う、うん」
当たらずとも遠からず。純子はうなずいた。
「そのときから、今まで……と言うか、三月、あんなことになるまで、私達に
教えてくれなかったのは、どうして?」
「……」
唇を噛みしめ、わずかにうつむく純子。返事に窮する。ミルクの液面を見つ
めながら、素直な答を探した。
いや、答そのものなら、すでに分かっている。
(あのとき、相羽君をふったから、もう先はないものとあきらめてた。だから、
好きという気持ちも、自分一人の内に仕舞っておけばいいと思った)
これを正直に話すのは、ためらわれる。相羽から告白されたという事実が、
一種変わった形の負い目となって、純子に覆い被さっている。
「ごめん、分からないの。おかしいけれど、自分のことなのに、自分でもうま
く説明できない」
結局、そんなうやむやな返事になってしまった。
「友達なんだから、言ってほしかった」
井口がぽつりとこぼし、富井とうなずき合う。それから、二人揃って同じ眼
差しを純子に向けた。どうして言ってくれなかったの?――最終的に行き着く
のは、やっぱりその地点。堂々巡りになりそうな気配が漂う。
「――私ね」
断ち切ろうと、純子は決心した。最後の勇気を絞り出すため、無意識の内に
間を取ると、自然と二人の意識をより強く惹き付けることになった。
純子は下を向いていた視線を起こし、微笑んだ。本当に、かすかな笑み。
「今の私、相羽君とは、何ともないから。もちろん友達だけれど、それ以上じ
ゃない」
「そ、そんなこと言われても――」
「壊れたんだもの」
「え? 壊れ……?」
「失恋しちゃった」
目を細め、舌先を覗かせた純子。心中では、泣き出しそうなのをこらえるの
に忙しい。
「ほ、本当に?」
富井と井口が、口々に叫んだ。腰を浮かしかけたり、両手を胸元でぎゅっと
握りしめたりと、驚きを隠せないでいる。純子が相羽に告白して、ふられたの
だと二人が解釈したのは、間違いない。
純子は、ゆっくり、首肯した。そのまま小首を傾げるような仕種に移り、た
め息混じりに続ける。
「告白して……ふられちゃってさ。私は、つまり――終わってるわけ。今、相
羽君と話すのは、仕事のことの他は、ほんと、極当たり前のお喋りだけよ。友
達同士のお喋り」
途切れがちになりながらも、言い切って、ほっとする。ミルクを飲もうとす
ると、液面に膜ができていた。スプーンでかき混ぜてから、ふた口、飲んだ。
見れば、返す言葉に迷っている風の、井口と富井も、それぞれ自分の飲み物
を口にしている。
「ぬるくなっちゃったね」
どんな表情をしていいのか分からず、とりあえず飲み物のことを言って、苦
笑を浮かべた。
「失恋したからって、許してはもらえないだろうけれど……」
「そんな」
「二人とも、夏休み中に、相羽君と何度か会ったんでしょう? 勉強を教えて
もらうために」
純子の言葉に、井口と富井は、無言で決まり悪そうに、しかししっかりと首
を縦に振った。
「結構、いい雰囲気になったんじゃない?」
「ま、まさか。勉強教わってただけだよぉ」
「そ、そうそう。それに、二人きりならまだしも、三人だしね」
富井も井口も、若干顔を赤らめた。さして明るくない店内でも、それはよく
分かる。純子はテーブルの下、膝に乗せた手を握りしめた。
「だったら、もっとがんばって、相羽君と仲よくならなきゃ。学校の方にも、
来ればいいわ」
「緑星に……?」
「そう。たとえば、一緒に下校なんて、できたらいいね。それに、文化祭や体
育祭といった行事も、もうすぐあるしさ。ぜひ、来て」
饒舌すぎることのないよう、セーブしながら、言葉を尽くす。無理強いせず、
気持ちだけは伝えておきたい。
「詳しいことが決まったら、また連絡するわね。そのときには、芙美も一緒だ
ったらいいな」
「え、ええ。そうだね」
「――私の今日の話は、これでおしまい。また会ってくれるかな?」
「うん……」
二人からの肯定の返事を聞き届けると、純子は財布を取り出した。ミルクの
代金を過不足なく出すと、テーブルにある伝票の上に載せる。
「じゃあ、先に帰るね。郁江と久仁香は、ゆっくりして行って」
――つづく