#5044/5495 長編
★タイトル (AZA ) 00/ 3/30 10:56 (219)
そばにいるだけで 46−4 寺嶋公香
★内容 05/10/21 00:40 修正 第2版
けしかける町田。純子は当たり障りのない発言をしておいた。
「うん……相羽君もだけど、唐沢君だって人気高いでしょうね」
「あいつのにやけ顔が、目に浮かぶわ。いっそ、自分で全部ボタンを外して、
お気に入りの女の子に配りたいんじゃないかしらね」
町田の言った場面を想像して、純子は吹き出してしまった。
「やだ、芙美ったら。それって、あんまり格好よくないよ」
「……そうかもね」
簡単にうなずいた町田に対し、井口が異論を唱える。
「全部のボタンて考えるから、格好悪くなるような気がする。好きな相手の前
に立って、第二ボタン一個を自らむしり取り、『おまえのために取っておいた。
ほら』って渡す――」
「きゃあ、それ、いいわ!」
富井が敏感に反応し、手を叩いて大喜びした。井口も調子に乗って、「でし
ょ、でしょ?」とはしゃぎ気味。好対照に、町田がため息をついた。
「あんたら……もうすぐ学校に着くんだから、ちょっとは静かにしないと恥ず
かしいよ」
そう、今日は卒業式。父兄らしき大人の姿も、すでにちらほら。我が子の門
出に、気が急くものと見える。
騒いでいた二人が口をつぐんだ頃、校門が見えてきた。卒業式の看板が、手
作りの花飾りに彩られて立て掛けてあった。
* *
卒業式の朝の職員室は、いつもとは違う空気が流れているようだった。生徒
と同じように、教職員達もそわそわしている。職員室前の廊下にいるだけで、
それがよく伝わってきた。
「卒業、おめでとう」
関屋先生からの祝いの言葉に、相羽はきちんとお辞儀をしてから礼を返した。
「先生も今年度で退かれると伺いましたが」
「ええ。もう引き際だと思いましたからね。他校に移る気もありません」
「それじゃあ、四月からは……」
「家庭菜園か養蜂でも始めようかと。ああ、もちろん趣味で。完全に退職する
ことに決めましたよ。私は、教員ぐらいしかできないからなぁ」
「……続けてほしかったと思います」
「ありがとう。最後に君と知り合えて、短い間だったが、本当に楽しかった」
「僕もです」
「それにしても、あれは惜しいなぁ。結局、緑星にしたんだってね?」
「はい」
「我が校初のJ音楽院進学生――見てみたかったねえ」
「すみません。やっぱり、まだ離れたくないと分かったから……日本を」
「謝る必要なんか全然ない。ただ、わがままを聞いてもらえるなら、君にはず
っとピアノを続けてほしい」
「ええ、続けます。やめたくても、やめられないんです、多分」
「それはよかった。ははは。また聴かせてもらえるだろうか? 折角日本にと
どまることになったんだしね、ははは」
「機会があれば、いつでも聴いてください。こちらこそ、お願いします」
相羽は思い付いて、エリオットの勤める音大の名前と住所をメモ書きし、関
屋先生に渡した。
「僕を気に入ってくれた外国の音楽教師の方がいて、四月……いえ、五月から
になるかもしれませんが、週末にそこでレッスンをしてもらえることになった
んです」
「ほう、それはよかったですね!」
いきさつなどは一切聞かず、関屋先生は喜んでくれた。
「よい先生に就いて続けることが大事だから、本当によかった。ぜひとも、聴
きに行かなくては。練習の邪魔にならないときを、教えてもらえるとありがた
いんだが、どうだろうね?」
「ええ、もちろん、ご連絡します。まあ、しばらくは練習ばかりになるでしょ
うけれど」
軽く肩をすくめてみせた相羽。先生は、真顔で応じる。
「いやあ、待ち遠しい。想像するだけで、早く聴きたいと思ってしまう。――
ああ、それに、いつかのように、あの女生徒――涼原さんとの競演も期待して
いいかな?」
「――僕はやる気充分なんですが」
一拍遅れで答える相羽。照れ隠しに、気取った口調に転じる。
「残念なことに、涼原さんがどう思っているか、分かりません」
かすかに笑った関屋先生は相羽の手を取り、二の腕辺りをぽんぽんと叩いた。
「これからも充実した人生を送ってください。応援してますよ」
「どうもありがとうございます。関屋先生も、いつまでもお元気でいてくださ
い」
少々の言葉を尽くしたぐいらでは表しきれない感謝の意を、態度で代弁すべ
く、相羽は深く頭を下げた。
* *
「式が終わったらアルバム、僕らが運ぶんだって」
町田達三人と別れ、五組の教室に入ると、相羽が声を掛けてきた。
「ありがと。覚えとかなくちゃ。卒業式のあとだと、忘れちゃいそうで」
「じゃ、終わったときにもう一度言うよ」
「――今日で卒業ね。中学校生活もおしまい」
「うん。急にどうしたの?」
「色んなことあったけれど……一番覚えてるのは」
最後まで言おうかどうしようか迷った。
(あなたから告白されたことよ)
言ったあと、どうすればいいのか分からなくなって、困るだろう。そんな予
感からためらっていると、幸か不幸か邪魔が入った。
白沼が勢いよく接近してきて、相羽の後ろで急停止。肩越しに、覗き込むよ
うな仕種を見せている。
「あ?」
相羽が勘付いて、振り向いた。白沼は口元に微笑を浮かべ、軽くうなずいた。
「どうかした、白沼さん?」
「べっつにー」
来たときとは違って、優美とも言えるゆっくりな動きで身体を横に向ける白
沼。腰の後ろに手を組み、今思い出した口ぶりで続けた。
「ねえ、さっきの話の続きだけれども、本当に、どこかに落としたのね」
「落としたかどうかも分かんないよ。なくしたとしか言いようがない」
何の話だろう?と純子が首を傾げかけていると、その目の前で、相羽は学生
服の胸の付近に指を当てた。
(第二ボタンがない)
気が付いて、純子は上目遣いで相羽の顔を伺う。
(もう、誰かにあげたの?)
だとしたら、その相手は少なくとも白沼ではないと知れる。合格発表の日、
相羽とはまだ付き合っていないと白沼が言っていたのは、本当だった。
いかにもどうでもいいような口ぶりで、白沼は言い捨てた。
「よりによって、今日という日になくさないでほしいわ。せめて、名前書いて
あるような物ならねえ、探してみようかなって気も起こるんだけど」
「今から保健室に行って、予備のボタンを着けてもらおうかな。式のとき、み
っともないし」
「それじゃあ、意味がないのよね。まあ、これで安心できると言えなくもない
けど」
踏ん切りを着けた風に言って、白沼は自分の席に戻って行った。
「相羽君」
純子の口調は切羽詰まっていた。
「うん? 何?」
「保健室に急がなくちゃ。時間ないわよ」
小学校卒業のときはほとんど泣かなかったけれど、今度は涙ぐんでしまった。
あと少しであふれそうなところを我慢していたが、最後にはぽろぽろぽろ……
と一筋の涙が流れた。
(大泣きしなくて、よかった)
式が終わって体育館を退場し、そんな風に思っていたところへ、まさしく大
泣きしている富井の姿を見つけた。
列がばらけるのと同時に駆け寄る。町田と井口も相前後して現れた。
「そんなに泣かないの」
「だって、だって、涙、止まんないんだもーん!」
左右の手の甲で、交互に拭う。卒業証書が落ちそうになったのを、純子が持
ってあげた。
なだめ役を引き受けた形の町田は、辺りを見回した。
「ほらほら。他に泣いてる子なんて……いるわね」
頭をかく。
井口に至っては、もらい泣きを始めてしまった。
「――郁江が泣きやまないから、うつっちゃったじゃない」
「相羽君と同じ学校じゃなくなる、もうこれで」
「そういう言い方しないでよー。私も悲しくなってくる」
「そうそう。会えなくなるわけじゃないんだから」
二人を町田があやしてるみたいな形だ。
純子は何も言えなくなってしまった。四月からまた相羽と同じ学校に通える
自分に、一体どんなことが言えるだろう。
と、そのとき、視界の片隅に相羽の姿が入った。こちらをしばらく見つめて
いたように思えたが、純子が気が付いたときには、彼は職員室の方へ向かって
いるところだった。
(――あ)
思い出した。自分も行かなくては。
(もう一回、声を掛けるからって言ってたのに!)
爪先が追い掛ける方角に向く。
しかし、富井と井口の様子が気に掛かり、すぐには動けない。逡巡した挙げ
句に、町田だけに聞こえる調子で言った。
「あのね、芙美。ごめん、私、行かなくちゃ」
「あん? そうか、アルバム委員だっけ。いいよ」
「あとで、家庭科室でね!」
後ろ髪を引かれつつ、ダッシュ。みんなが感傷に浸っている隙間を縫うよう
にして、廊下を急いだ。
「――相羽君っ」
その背中を目で捕捉して、すぐに呼んだ。相羽は、周りの女子数人から、何
か話し掛けられていたが、それを断る仕種を見せて振り返った。
「富井さん達とはもういいの?」
追い付いた純子に聞いてくる。早足を続けながらうなずいた。
「それよりも、声掛けてくれるって言ってたのに、先に行くなんて」
「声を掛けにくい雰囲気だったから。一クラス分のアルバムくらい、一人で運
べると思ったし」
「……相羽君は泣かなかった?」
「うん、さっきの式? じーんと来た瞬間はあったけどね。涙は、よっぽどの
ことがないと」
相羽が泣くところを純子が見たのは、一度きり。それを思えば、男だ女だと
いう話は置くとしても、相羽が泣くことは滅多にないだろうと理解できた。
(私がふってしまったときも、全然泣かなかったのかな……)
ふと、ビターな記憶がよみがえり、そこから連想した。少しぐらい泣いてい
てほしいと思う。
「純子ちゃん、ほらっ! 前、見てないと危ない」
相羽に注意を喚起され、周りが見えた。危うく、掃除道具入れにぶつかると
ころだった。もしも走っていたなら、手遅れだったかも。
ちょうど職員室前。二人前後して入室し、担任の牟田先生のところからアル
バムの入った箱を抱え持つ。男女別に一箱ずつ。重量は同じ。
純子は歩き出したものの、案の定、足取りがふらつき始めた。そちらは何と
かなるにしても、指が早くも痛い。
「お――重ーいっ」
と言った途端、軽くなった。数歩先を行く相羽が箱を下ろし、女子の箱から
何冊分かを移したのだ。純子が戸惑いながらお礼を述べたあとも、それは続け
られる。
「あの、ねえ、相羽君。それくらいで……」
三分の一強を移し終えた時点で、相羽は手を止めた。いや、純子が言ったか
ら止めたのだ。
「じゃ、行こう。教室が一階で助かったよ」
「え、ええ」
相羽の腕の筋肉が、力の入れ具合を物語っていた。
その重量のせいかどうか分からないが。
「あ」
教室に到着し、箱を降ろしてしばらくしてから、相羽が呟く。振り向いてみ
ると、彼は広げた左手を見つめていた。
「どうしたの」
純子は相羽の斜め後ろに回って、聞いた。アルバムを配るのは先生が来てか
らなので、手透きである。
「何となく痛いと思ったら、切れてた」
相羽の説明を聞くまでもなく、純子の目にも彼の手の平が映っていた。真新
しい用紙の縁で切ったような極細の傷が、親指と人差し指それぞれの付け根の
間を走っている。血が滲んでいた。
「はい。使って」
内心、どきりとしつつも、純子はポケットからちり紙を取り出した。黄色に
紺のラインをあしらった布製カバー付きで、かわいらしい。
「なめていれば治るよ」
実際、舌をちらと覗かせ、傷口をなめる相羽。だが、純子は強固に主張した。
「だめっ。あなたの手は、ピアノを弾くんだから」
「それなら、自分のちり紙を使う。確か、鞄の中に……」
行こうとする相羽を引き留め、無傷な右手の方にカバー付きポケットティッ
シュを押し付ける。
「早い方がいいでしょ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
微笑んだ純子だが、その直後、背後から前田の声で呼ばれた。表情を引き締
め、振り返る。
「はい?」
「サイン帳が二つまとめて、回ってきてる。私のを含めて、三つ。急がないと、
どんどん溜まっちゃうわよ」
前田は一冊をひらひらさせながら、にこやかに告げた。宿題を出す先生みた
いだ。
「うひゃあ。アルバムを取りに行ってたせい? がんばって書かなくちゃ」
前田のいる方へ向かう純子。相羽の、「ティッシュ、こんなにいらないよ」
という声は聞こえたが、「あとで」と返すので精一杯だった。
――つづく