AWC そばにいるだけで 42−1    寺嶋公香


        
#4969/5495 長編
★タイトル (AZA     )  99/11/29  15: 3  (185)
そばにいるだけで 42−1    寺嶋公香
★内容

           *           *

 風が身体の中を通り抜けていく。そんな感覚。
 川を見渡せる斜面の草むらに身をうずめ、仰向けになっていた。どれくらい
の時間、そうしているのか意識にない。町の暮れゆく景色を漫然と見通し、ゆ
っくりと流れる雲を目で追ったり、空中でホバリングするとんぼの数を数えた
り、あるいは川面の渦の変化を凝視したりと、特に意味のない行為を続けてい
る。
 視野にその人物がやがて入ってきたこと自体は、分かっていた。ただ、明確
には認識していなかった。コートを羽織った大人の女性であることも、まだ知
らない。
(言ってすっきりした……のか?)
 心の中で唱える。公園を出てから、風景には目もくれず、ずっと考えていた
こと。幾度となく繰り返され、そして答は出ない。断られたのに、まだあきら
められない自分がいる。
 脳裏に鮮明に浮かんだ純子の笑顔が、ジグソーパズルの絵柄みたいに見える。
あちこちにひびが走り、やがていくつもの欠片に割れた。落っことしてしまっ
たジグソーパズル。
(……寒い)
 この感覚は精神的なものと言うよりも、肉体的なものだった。十月下旬にし
ては風が冷たい。猛るとまでは行かないが、吹き止まないでいる。
(ひとまず……家に帰らなくちゃ)
 上半身を起こし、思い出したようにつぶやいた。
「今日は母さんが待っている」
 膝を曲げ、立ち上がろうとした矢先、ふと注意を奪われる。
 視界の片隅にではあるが、河原に立つ女性の存在を確実に捉えた。コートの
ポケットに両手を入れ、背筋をまっすぐにして川を、いや、遠くを見つめてい
る。髪は短く、うなじがはっきり見えたが、寒そうな様子はまるでない。毅然
とした態度だ。
(母さんに……似てる?)
 後ろ姿から連想した。今は水面が太陽の光を時折反射するため見えにくく、
絶対とは言えないが、似た雰囲気があるのは間違いないように思えた。
(関係ない)
 立ち上がって、条件反射のように足や腰の辺りを手で払う。濡れた草場が付
着していないことを確かめる。
 そのとき、女性がこちらを向いた。呼応するかのように、太陽が雲に隠れる。
女性の顔がよく見えた。
(――純子ちゃん? まさか?)
 息を飲む。思わず目をこすった。改めて見直す。変に思われるかもしれない
なんていう意識は、全然ない。
(違った。当たり前か。でも、似てる)
 確かに、コートの女性の顔立ちは、涼原純子に似ていた。それも久住淳にな
ったときの風貌に近い。
「こんにちは」
 それが女性の声だと気付いた。いつの間にか彼女の方がすぐそばまで近付い
てきていたのだ。
「こんにちは」
 即座に反応した。まさしくおうむ返し。
「君はどうかしたの?」
 少しハスキーボイスだった。
「私がここへ来る前から、ずーっと寝転がって空をにらんでたようだけれど、
考えごとでもしてたのかしら」
「……お名前は、何とおっしゃるんですか」
 尋ねたあと、礼儀として自ら名乗った。そしてじっと相手の目を見つめる。
今なら、吸い込まれそうな気がした。
 と、相手の女性の口元が微笑んだ。
「私は岡崎光(おかざきひかり)と言うのよ。年齢は……そうね、君のに七つ
ほど足してくれたらいいんじゃないかな。ラッキーセブンね」
 問われていないことまで答える。その調子を保ったまま、岡崎はいきなり聞
いてきた。
「目が赤いのは何故?」
「――」
 しばし言葉を失い、次いで目尻に指をあてがった。それから夕日に目を細め、
おもむろに応じる。
「きっと夕日の赤が映ってるんでしょう」
 岡崎の表情を見ると笑っていた。吹き出したかと思うと、くすくす声を立て
て、唇を手で隠して。
「面白いこと言うのね。そんな君は何年生?」
「……岡崎さんの年齢から七つほど引いてくれるといいと思います」
「ははは! おねーさん、一本取られちゃったな」
 よく笑う人だと感じた。
(僕はとても笑える気分じゃない。ただ、この人と話してると、軽口が出て来
る……どうしてだろう)
 自分が捨て鉢になっているのかとも考えたが、どうも違う。
(多分、母さんと純子ちゃんの雰囲気を併せ持つ人だからだ)
 正直に話すことにした。
「実は、失恋したばかりなんです。それで少し泣いてしまったみたいで……目、
はっきり分かるほど赤いですか?」
「どうかな。家に帰ったら鏡をご覧なさい。それが一番確実」
「……はい。そうする前に教えてください。目が赤いのに気付いたのはいつで
すか」
「え?」
「ずっと川を見ていたはずの岡崎さんが、僕の目に注意を払えたのは、こちら
を振り返ってからですよね。それも、僕に声を掛けたあと」
「そうなるかしら」
「じゃあ、僕に声を掛けたのは何故ですか」
「小難しい質問だわ。気になったからではだめ?」
「だめではないけれど不充分、かな」
 口を衝いて台詞が出て来る。今はこの人と話していたい。そんな気がしてな
らない。突き動かされる。
「実を言うと、以前に君を一度見かけてるのよ」
「いつ」
「二、三週間前? よく覚えてないけれど、私が友人と入り組んだ路地を歩い
ていたら、ちょうど見えたわ。あなたともう一人、同じ年頃の男の子がいて。
その間には小さな女の子もいた。外国人みたいだったわね」
「……分かりました」
 つぶやくように答えた。
(唐沢が見つけた迷子のラビニアを、二人で連れて歩いていたときか)
 疑問の一部は解消された。でもまだ足りない。
「一度見ただけで声を掛けたんですか」
「それは結果論でそうなるけれど……どういう風に言えばいいのかな。あんな
に活き活きしてた子がしょぼんと沈んじゃってる、だから気になった。どう? 
ちゃんと最初の答に行き着いたでしょう」
 得意そうに笑みを作る岡崎。どことなく、人工的な笑い方だ。
「それで、落ち込んでる原因が分かって、おしまいですか」
 不満が口調に出る。もっと話したい。今目の前にいるこの人と話すことが、
のどの渇きを癒す水と同等に思える。
「おしまいじゃないわ」
 岡崎の表情に寂しさが加わったよう。目線をふっと斜め下に逸らし、頬に自
嘲気味の笑い皺を作った。
「君が私に大事なことを打ち明けてくれたお礼に、私も秘密を教えてあげる。
正直言うとね、私も偉そうに語れないんだ。何故って、この間、失恋したばか
りなんだから」
「……」
 呆気に取られていたかもしれない。もしくは共感を覚えでもしたかもしれな
かった。とにかく、何らかの心理的原因で言葉がしばらく出なかった。
 岡崎が言う。声からはいつしかしわがれた響きが消えていた。
「君、少しだけ、私に時間をくれない?」
「何だかよく分かりません。はっきり言ってくれなきゃ」
「しばらくの間でいいから、失恋した者同士で楽しく慰め合おうということ。
年齢差なんて気にしなくていいわ。私はかまわないから」
「……でも」
「君、かなり賢いでしょう? 話し方がこましゃくれてる。失恋直後とは思え
ないくらいに冷静だわ。それだけ大人びているのなら、私みたいな年上のおね
ーさん相手でも慰めてくれるんじゃないかな」
「まさか。とても無理です。それができるくらいなら……まず、ふられてなん
かいない」
「ふむ、真理かもね。まあ、それは脇へ置くとしてよ。気の利いたことを話せ
と言ってるんじゃないのよ。聞き上手でいてくれたらいいから」
 岡崎の手が静かに伸びて、こちらの顎先辺りの高さで止まる。細い指だ。手
の甲には血管が浮き出て見える。
「すみません。時間がないんです」
「え? どうして」
「明日の夜から、ちょっと遠出しなければいけない。だから、あなたの話し相
手を務める余裕がないんです」
「ふうん」
 大きな瞳が覗き込んでくる。探られている。結局、目だけでは分からなかっ
たようだ。
「帰って来てからでもいいんだけどな。どこへ行くの」
 単刀直入に尋ねてきた。
「アメリカ合衆国」
「――ぷっ。なあに、きょうびの中学生クンは、ハワイかグアムに行くのでも
大げさに合衆国だなんて言うようになったの?」
 お腹に両手を当て、岡崎は笑った。爆笑ではないけれど、今度の笑顔は本物
に違いない。
 相羽はわずかばかり頬を緩め、否定の返答をする。
「ハワイやグアムでもアメリカ合衆国には違いないから、間違いではないでし
ょう。ただ、僕が行くのはニューヨークなんです」
「この時期にニューヨーク……。シティマラソンが開かれるんだっけ?」
「さあ、知りません」
「何しに行くのかな」
「……自分を計りに行く」
 正確なところを言うのが惜しい気がした。何とはなしに秘密めかしたくなっ
たのはどうしてだろう。格好をつけたかったのかもしれない。
「へえ? いいわ。夢のある言葉」
 岡崎が白い歯を覗かせる。
「私もそれぐらい夢のあること、中学生のときにしておけばよかったかな」
「……今の岡崎さんでは無理なんですか、その、夢」
「自分でも無理かどうか分からないわ。ただ、勇気が出ない。性格の問題なん
でしょうけれどねえ。安定した暮らしに慣れてしまったから」
 目尻を下げ、寂しげになる。どうしようもないあきらめが見え隠れする。
「人生、やり直せたらと思う。恋も夢も」
 こんなときだからか、岡崎が口にした願いに素直に共感できた。
(少しだけ、もやもやが溶けたような気がする)
 自分と似たような目に遭った人がいる現実を、すぐそばで感じたせいかもし
れない。
「岡崎さんぐらいの年齢なら、まだまだ大丈夫ですよ」
「ふふ。言われるまでもない。そして当然、君もだよ」
 岡崎は人差し指をやや弓なりに伸ばし、その先を鼻の頭すれすれに突き付け
てきた。思わず、後ろへよろめきそうになる。
「私よりも若い君が、一度の失恋でくじけるな。悲しい記憶が生々しいみたい
だから、今すぐ新しい恋を見つけろなんて言わない。君は、君が好きな子のこ
とを気の済むまで想い続けたっていいんだからね」
「……ありがとう、ございます」
 何か勇気めいたものが身体の中から湧き出てくる、そういうイメージが頭に
浮かんだ。いつもの自分に戻るにはまだ全然足りないけれど、足りない分は頑
張ればいい。
「君とのデート、幻に終わっちゃいそうだね。残念」
 岡崎の口ぶりは、五割以上本気の響きがあった。
「僕も残念です」
「本当に? 今はそのふられた子の顔、思い浮かべてるんじゃないのかな?」
「ええ。別格ですから」

――つづく




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