AWC ハレの日(1)    時 貴斗


        
#4924/5495 長編
★タイトル (VBN     )  99/ 9/ 4  12:27  (168)
ハレの日(1)    時 貴斗
★内容
   1

 私はあせっていた。傾きかけた日の光が杉やけやきの葉と葉の間から
わずかに差し込み、森は徐々に暗さを増していた。カラスの鳴く声、ひ
ぐらしの声が、かえって静けさを際立たせる。深い森の中で私は完全に
迷っていた。
 暑い。顔中から汗が流れ、いくらぬぐっても次から次へとふき出して、
土の上に滴り落ちる。まぶたを伝って眼に入ると、痛くて開いていられ
ない。何度となく見た地図をもう一度広げる。木々の間をぬうように続
いているこの小道を進めば、国道に出られるはずなのだ。
 だがそんな私の期待は、またしても裏切られた。
「ああっ、また」思わず言葉が口をついて出る。
 朽ちかけた木の道標が、私の前に姿を現した。左を向いた木の板には
「井場トンネル」、右を向いた板には「笠が池」と、どちらもほとんど読
めないくらいに消えかかった字で書いてある。
 もう何度、この傾いた道標を見たことだろう。同じ所を堂々巡りして
いるだけだ。井場トンネルを抜ければ国道に出られるはずだ。だがこの
分かれ道を左へ進んでいくと、徐々に草でおおわれて、道は細く、細く
なって、やがてなくなってしまうのだ。それでも草をかきわけて進んで
いくと、ようやく木立の間をぬう小道が現れる。しかし先に進んでいく
と、道は途中で何度も枝わかれし、その度に別の道を選ぶのだが、結局
は元の場所へ戻ってしまう。私は大きくため息をついて首をうなだれた。
 ふと、笠が池の方へ行ってみようかという気になった。水筒の水はと
っくに切れて、のどが乾いていた。うまくすれば飲める水かもしれない。
それに、道標があてにならないのならば、どちらに進もうが同じことだ。
 休日の、ちょっとした山歩きのはずだった。それがこんなふうに迷っ
てしまうとは。自分の迂闊さを呪いながら、けもの道のような細い道を
進んでいくと、清々しい水の音が聞こえてきた。
 急に視界が開けて、広い空間に出た。大きな池が目に映ると、安堵の
ため息がもれた。周りは木々に囲まれ、正面は崖になっていてちょっと
した滝のような流れが水の中に注いでいる。底まで見えるような清らか
な水面のそばに小走りに寄り、手を差し入れた。
 両手いっぱいにすくった水を口元に持ってきた時、突然人の声が聞こ
えた。
「その水、飲んじゃだめだあ」
 驚いて声が聞こえた方を向くと、池の向こうに老婆が立っていた。か
すりのうわっぱりに縞のもんぺ。頭にほっかぶりをしている。
「腹こわすよ」
 私は慌てて手の中の水を池に戻した。しかし、こんな山奥で人に会え
たのは有り難かった。
「あの、すみません。国道に出るにはどう行ったらいいですか」言いな
がら、お婆さんに近づいていく。
「あれまあ、道に迷ったかね。国道まではだいぶ歩かねばならんよ」眉
をひそめて私の顔を見る。
「どのくらいかかりますか」
「さて、二時間くらいですかの」
 私は腕時計を見た。もう六時になろうとしている。
「今日はもう遅いし、夜の山道は歩くのがしんどい。明日になさったら
どうかね。家に泊まったらいいが」


   2

 崖のそばに、木々の間に隠れた細道があって、お婆さんはそこに入っ
ていく。私は慌ててついていった。たいした健脚の持ち主で、遅れない
ようにするのが大変だった。
 森林を抜けると、そこには村があった。かやぶきの農家が密集し、暮
れかけた日に照らされている。地図には出ていない。それほど小さな村
だということか。お婆さんはそのうちの、やや大きめの二階建ての一件
に足早に歩いていく。
「父ちゃん、ただいま。お客さんを連れてきたよ」
 奥の障子が開いて、つるっぱげのお爺さんが顔を出した。
「どなたじゃ?」
「道に迷いなさったそうで、泊まってもらうことにしたんだよ」
「すみません。ご迷惑をおかけします」私は頭を下げた。
「おや、そうかい」お爺さんは驚いたように目を見開いた。「それは大変
だったのう。何か食ったかい? 腹減ったろう。さあ、上がって」
 今時珍しく玄関を入ると土間があって、かまどの上の羽釜から湯気が
たちのぼっている。土をしっくいで固めて作ったらしい土がまの中では、
薪が勢い良く燃えている。その横を通り過ぎて座敷に上がると、板の間
の真中に囲炉裏があって、鮎を刺した串が数本立っていた。
「お疲れじゃろう。さ、さ、お座んなさい」紺の襦袢にももひき姿の主
人は私に座布団をすすめた。
「こんなもんしかないが」お婆さんが土間から上がってきて私の分の鮎
を囲炉裏に立てた。
「いえいえ、ご馳走になります」
 主人はマッチをすってきせるに火をつけた。自在鉤に下がった鉄鍋の
中では味噌汁がいい匂いをたて、ほどなく、囲炉裏に置かれた鉄瓶が湯
気をふき始めた。日は急速に沈み、夜が訪れようとしていた。
「この辺は、よく都会もんが迷うてくるでな」主人は口を開いた。「村の
もんでも、子供は迷う。道路が整備されるといいんじゃがな」
「あの、ここは何という村ですか」
 主人は、きせるを吸い、そして煙をはいた。
「竜宮(たつみや)村じゃ。時々来る都会の人に聞いてみても、誰も名
を知らん。まあ、人里離れた小さな村じゃから、無理もないが」
 鮎が、いい具合に焼けてきた。
「町は今、どうじゃね」
「どう、と言いますと?」
「つまり、何というかな、開けてきたんかい。車や、建物は、増えたん
かね」
 私は、ちょっと不思議な気分で老人の顔を見た。
「町にはあまり、出かけないんですか」
「ああ……、そうじゃな。わしが山を降りたのは、もう……ずいぶんと
前のことじゃ」
 私は、この古びた村に閉じ込められるようにしてひっそりと暮らして
いる老夫婦の生活を想像した。ひどく侘しいものに違いない。
「ええ、車はひっきりなしに通っていますよ。ビルがぎゅうぎゅう詰め
に建っていて、窮屈なほどです。それに比べると、ここはいいですね。
私はどちらかというと、こういう静かな暮らしにあこがれます」
 事実、座敷にはテレビさえなかった。
「ほほう、そうかね」主人は奇妙な笑みを浮かべた。
「都会の人には信じられんほど、古風な村じゃ」お婆さんが三段に重な
ったお膳を持って現れた。
 脚がついたそれを私達の前に置き、自分は座布団のないござの上にじ
かに座る。膳の上の食器は、お茶碗にご飯が盛られて、あとは空だ。赤
い椀に味噌汁をよそい、鉄瓶から湯を急須に注ぎ、それぞれの湯のみに
茶をいれる。
「ささ、お食べなさい」と、主人は言った。
「いただきます」
 料理は、田舎の味がした。炊飯器で炊いたのではないご飯も、スーパ
ーで買ってきたそれとは一味違う鮎も、うまかった。それは、新鮮だっ
た。
 すっかり満腹すると、主人は風呂をすすめた。庭を横切って風呂場に
行き、木の湯船につかると、昼間の疲れが体から溶け出していった。温
泉に出かけるのとはまた風情の異なる、独特の味わいがある。迷ってか
えって良かったかな、と私は思う。
 戻った私はお婆さんに言われて二階に上がった。
「ゆっくりお休み」とだけ言って降りていく。私は、排気ガスで汚れて
いない風でしばらく涼んだ後、敷布団の上に寝転がって籐枕に頭をのせ
た。山歩きの疲労も手伝って、急速に眠りに落ちた。


   3

「大変だあ」
 次の日、朝食をご馳走になっていると、勢いよく戸を開けて一人の若
者が飛び込んできた。
「どうしたんじゃ三郎、騒々しい」
「伊槌さん家の鶏がやられたぞう」
「またか!」主人が箸を置く。
「いったいどうしたんです?」私は興味をひかれ、聞いた。
「いやいや、鶏が山犬に食い殺されたんじゃ。よくあるんじゃよ」
「山犬が出るんですか」
 村の近所を狼みたいなのがうろついているのかと思うと、ぞっとした。
なんという田舎だ。
「ああ、都会の人には信じられんだろうが」
「そうじゃねえんだ」三郎と呼ばれた野良着姿の若者は、血相を変えて
言った。「蛇にのまれたんだ」
「なんじゃと!」爺さんまで顔色を変えた。「大変じゃ。こもらんといか
ん」
「あの、どうかされたんですか」と、私は言った。嫌な予感がした。
「この村のならわしでな。鶏が蛇にのまれたら、その日一日村にこもら
んといかんのじゃ。誰も外に出られん」
「そうですか。それはやっかいですね」
「あんたの事を言っとるんじゃよ! あんたにも今日一日ここにいても
らわんといかん」
「ええっ? 私も!?」私は仰天した。「それは困ります。家族が心配し
ます」
 今日は日曜日で、仕事の問題はないのだが、昨日帰らなかったことで
妻は心配しているだろうに、もう一日帰らないというのはどう考えても
まずい。お婆さんが困った顔をして私の方に手を伸ばしかけた。
「すまんのう。この村の忌み事なんじゃよ。禁忌というやつじゃ」
「誰か一人でも外に出ると、村に祟りがあるぞ!」
「申し訳ないが、いてくれんかのう。……そうじゃ。祭りでも見ていっ
たらええ」
 私を外人でも見るような目で見つめていた若者が、口を開いた。
「おお、そうだ、そうだ。今ちょうど龍神祭りの最中だ。あんたあ、い
い時に来たなあ」
 そう言われても、こんな小さな村のお祭りなど、興味はない。しかし、
タブーをおかすことは難しいだろう。仏滅の日の結婚、丙午の出産。都
会でさえ忌み嫌うのに、ましてや都市化されていない世界ではタブーは
重要視される。都会人が単なる迷信と片付けてしまうことが、村の人間
にはそれでは済まないのだ。
 私は、妻に電話の一本でもいれておくべきだろうと思った。
「あの、それじゃあちょっと、電話をお借りできますか。今日は帰れな
いと、伝えておかないと……」
「この村に、電話はない!」
 きっぱりと言いきった主人に、私は目を丸くした。




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