#4681/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:10 (200)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【05】 悠歩
★内容
古ぼけた小さな鏡に向かって、マリィは口紅を塗る。13という年齢にはそぐ
わない、紅い口紅を。
口紅の色だけではない。いまのマリィは13歳の少女ではなくなっていた。も
とより自らの力のみで生きなければならないという環境の中、マリィは普通の
13歳より精神的に大人びた少女であった。
それがいま、外見も大人へと変わっていた。
無造作に束ねていた髪を解き、ブラシで丹念に梳く。ろうそくの仄かな明かり
に照らされ、闇よりなお暗い色を持つ髪が、きらきらと輝く。
決して清潔とは思い難い、傷みの目立つシャツを脱いだ下からは、潔癖なまで
に白い肌が現れる。新たにその白い肌が纏うのは、黒い揚羽蝶の羽を思い起こさ
せるドレス。鎖骨の浮いた肩を大胆に曝して。
まともな生活をしている少女で在れば、まだ当分、いやあるいは生涯履くこと
もないであろう黒いストッキングをガーターベルトで留める。
痛々しいまでの変化。化粧と衣装で少女は大人のふりをする。ただどんなに腕
をふるい、巧みに化けてみたところで13歳の華奢な体つきばかりはごまかしよ
うもなかった。
「さて、そろそろ出掛けないといけないんだけどねぇ」
紅を塗り終えたマリィはそう呟き、傍らの幼き者へとこうべを振る。
「ん? どうかしたの、ルウ」
無言のままに傍らで変身を見守っていたルウの、ぽかんと口を開いた表情に気
がつき、マリィは言った。
「ああ、これかい? 私のお仕事用の格好なんだよ。ここでは働かないと、ごは
んが食べられないからね」
出逢ったときから、語るべき言葉を持たないルウではあったが、まさに言葉を
失ったかのような表情がおかしく、マリィの顔にも笑みが浮かぶ。
ふいにルウの顔に翳りが射す。すぐにその意味を察したマリィは、その頭を優
しく抱き包んだ。
「ルウはまだおちびちゃんだからね。心配しなくていいのよ」
陽は完全に沈んだようだ。外はすっかりと夜の帳に包まれ、その分だけろうそ
くの明かりが強く感じられる。ろうそくの明かりが、きらきらと輝かせるルウの
黄金色の髪を撫で上げて、マリィは言った。
本当ならばどんなに幼くても、自分の足で立って歩ける年齢になれば働かなく
てはいけない。それがこの街でのルール。そうしなければ、このスラムでは生き
ていけない。
この街に来たばかりのルウが、それを知るはずはない。けれど分かっているの
だろう。言葉を紡ぐことのできない小さな唇を微かに震わせ、何かを必死に訴え
ようとしている。
自分も働きたいと。
もしかするとルウは、この幼さでマリィにも想像のつかない、辛い思いをして
きたのかも知れない。
「そうね、そのうち考えましょう」
その言葉に安心したのか、幼い少女は微かに笑った。
「さあ、私はもう出掛けないと」
抱いていたルウをそっと離すと、マリィは立ち上がった。
「もうすぐデニスも帰って来るはずだから。私が出掛けたら、中から鍵をかけて
待ってね。もしデニス以外の人が来ても、絶対に開ちゃだめだよ」
ルウを一人にして出掛けることには躊躇いもあったが、仕方ない。マリィとて、
日々の糧を得るためには、仕事を休む訳には行かないのだ。
ルウに注意を与えると、そのまま部屋の出口へと向かう。が、マリィの足は三
歩と進まぬうちに歩みを止める。ドレスの裾を、ルウにつかまれたのだ。
「お願いルウ、離してちょうだい。お仕事に行けないでしょ?」
生きていくためには、幼子の我侭を聞いてやることは出来ない。マリィが働か
なければ、ルウとて食べて行けない。ひいてはそれがルウのためにもなるのだ。
少し口調をきつくしてマリィは言った。
悲しげに潤んだ瞳がマリィを捉える。
けれどそれに負けてはいけない。
「離しなさい、ルウ。怒るわよ」
マリィはさらに口調を厳しくする。ルウのその瞳から、涙がこぼされることを
覚悟して。それでもいまは、心を鬼にしなくてはならないと思って。
そして熱い涙が、頬を流れ落ちる。
「あっ!」
思わず声を上げる。驚きの声を。
確かに涙はこぼれた。マリィの予想通りに。
だが、こぼしたのはルウではなかった。泣いていたのは他ならぬ、マリィ自身
だったのだ。
忘れかけていた、いや忘れようとしていた過去がマリィの胸に甦る。
「ママ、ねえママぁ。私の帽子、どこへ行った知らない?」
「なに言ってるのよ、テーブルの上にあるじゃない。さっき、あなたが置いたん
でしょう」
慌てたマリィに対して、呆れたような母の声が返される。
その日マリィは浮かれていた。前の日から今日が待ち遠しくて、夜中何度目が
覚めたことだろう。こんな気持ちはいつ以来だろう。父が死んでからは記憶にな
い。
マリィの住む村でも、男たちの多くは戦場へと赴いていた。そして命を落とし
た。
悲しいことに、マリィの父もその中の一人であった。
一年前、父が戦死したと知らされたときには、マリィも母も泣いた。もう二度
と笑える日など訪れはしない、と思ったものだ。けれど人は、マリィが考えてい
るよりも強く出来ているようだ。
母は残された子どもたちのため、いつまでも悲しんでいることを止めた。マリ
ィは、そんな母を見て強くなろうと決めた。
幸いなことに、マリィたち母娘が強く生きられる環境もあった。マリィたちの
村はその周辺も含め、長い戦争の中で一度も戦場となったことがない。肥沃な土
地は豊かな実りをもたらし、父の残してくれた畑は男手がなくても充分な糧を得
ることが出来る。男手がないぶん、村人たちは協力しあい、お互いの畑仕事に力
を貸す。収穫された作物は村人たちのお腹を充たすばかりでなく、食糧事情の悪
くなった国内で高く流通される。
そんな村だからこそ、マリィたちは父を亡くしても今日まで生きて来れた。同
じような境遇の者たちが、周囲に多かったのも支えになっていてた。
けれどだからと言って、父を亡くした悲しみを忘れてしまった訳ではない。母
の前、友だちの前では明るく振る舞ってはいても、一人ベッドの中で、涙を止め
られなくなってしまった夜も数え切れない。
そんなマリィが、今日という日を心待ちにしていた。
今日は収穫祭。
戦時下にあっても、豊かな村では毎年賑やかに収穫祭が執り行われる。カボチ
ャから牛や馬までの、様々な品評会。料理自慢たちがその腕を競い合う、お菓子
コンクール。わざわざ遠くの街からやって来る、軽業師や道化師。艶やかな衣装
を着込んだ役者たちが登場する、芝居小屋。様々な催し物が、所狭しと立ち並ぶ。
今日、マリィは仲の良い友人たちと、収穫祭を見て回る約束をしていた。その
中には、マリィが心秘かに想いを寄せていた男の子も含まれている。今日だけは
父のことも完全に忘れ、マリィは浮かれていた。
「ねえ、ママ。私の髪、ヘンじゃない?」
「いいえ、可愛いわよ」
母に言われて幾分安心したが、それでも少し気になる前髪をいじる。長い髪を、
ただストレートにしただけではあまりにも工夫がなかったとも思うが、いまから
ではもう時間がない。あきらめて帽子を被る。
「ねえ、このドレスでよかったかしら?」
膨らんだドレスの裾をつまみ上げ、母へと訊ねてみる。
「良く似合ってるわ。とっても可愛らしくて」
「可愛い? 綺麗じゃなくて?」
「綺麗で可愛らしいわよ」
笑いながら答える母が気になり、もう一度ドレスを見直す。淡い黄色のドレス。
胸元はほとんど白に近いが、微かにグラデーションが掛かっていて、足下へ行く
と色が濃くなっている。二着のドレスの中から、散々迷った挙げ句に選んだもの
ではあったが、この期に及んで、もう一着の方が良かったのではと思ってしまう。
どん。
遠くで花火の音がした。
「いっけない! もうこんな時間」
いつまでもこうしてはいられない。早く出掛けなければ、待ち合わせの約束に
遅れてしまう。まだ些か納得いかない気持ちも残ってはいるが、それはあきらめ
てドアへと急ぐ。
「それじゃママ、行ってきま………」
マリィの口から発せられた出掛けの挨拶は、最後まで言い終わらないうちに止
められてしまった。同時に、急いでいたはずのマリィの足も停まる。
「ちょっと、なんなのよ」
困ったようなマリィの声。振り返った視線は、足下へと下ろされている。
マリィのすぐ後ろ、小さな少女がそのドレスの裾を強く握っている。マリィと
は対照的な黄金色に輝く髪を持つ少女が、訴えるような碧眼でこちらを見つめて
いる。
「だめよ、離してルウ。ドレスがしわになっちゃう」
ドレスの裾をつかみ、急ごうとするマリィを足止めしているは、今年3歳にな
ったばかりの妹、ルウだった。
「ルウも、いっしょに、おまつり、いく」
離すどころか、さらにドレスをつかんだ手に力を込めてルウは言う。
「ああん、もう。急いでるってときに」
マリィは嘆息し、天を仰いだ。いつもなら、妹のこんな我侭さえ可愛らしく思
うのだが、いまは相手をしてやる余裕はない。
「ルウ。私は急いでいるの。お願いだから、手を離して」
腰に手を充て、少し怒ったように言ってみる。乱暴に裾をつかむ手を振り解か
ないのは、幼い妹へのいたわりより、ドレスが傷むことを恐れてだった。
「ルウもいく、マリィねえちゃと、いく」
相手の事情を察することのない幼児は頑固である。頑なな瞳がマリィを捉えた
まま、拳にはさらに力が加えられた。
「ママぁ」
こうなってしまっては、もうマリィが説得するのは難しい。マリィは顔を上げ、
後ろで姉妹のやり取りを楽しげに見ていた母へ、助けを求めた。
「はいはい、意地悪なお姉ちゃんね。ルウ、お祭りにはママと二人で行きましょ
うね」
ルウを抱き上げた母は、その指をそっと開かせようとする。ルウの手から力が
緩んだ瞬間を見逃さず、マリィは素早くドレスを引いた。
「もう、みんな行っちゃってたら、ルウのせいだからね」
ようやく自由になったマリィは、もう妹へと振り返ることなく家を飛び出した。
「やあ! マリィねえちゃといくぅ」
背中から聞こえてくる、妹の声。きっと駄々をこねるルウに、母も手を焼いて
いることだろう。
その時のマリィに、それが最後に聞いた妹の声になるなどと、知る由もなかっ
た。
どこまでも抜けるような青空。
平野に位置する村では、近くに視野を遮る大きな山がないため、一層空が広く
感じられる。
収穫祭には絶好の日和と言っていいだろう。だがもし、この時のマリィに少し
でも冷静さがあったのなら、いつもとは違う気配を感じとれたかも知れない。
静かすぎる空。
さえずる鳥はなく、収穫祭の開催を知らせる花火も家で聞いた一発からあと、
上がってはいない。
しかしそれはのちになって、この日を思い起こしたマリィが気づいたこと。そ
の時間、その場にいたマリィが気づかなくても仕方ない。
待ち合わせの時間に遅れそうになり、マリィは急いでいた。マリィの家はほぼ
村外れに近く、一方の収穫祭の会場となる広場は村の入口であった。待ち合わせ
の場所は、その中間の教会の前。
「ゴメン、遅くなっちゃった………待たせちゃったかな?」
「ううん、そうでもないよ」
マリィに応える少女は、一瞬誰であるのか分からないほどにめかし込み、普段
の地味さは見事なまでに隠されていた。
「あれ、まだ揃ってないんだ?」
息を整え、集まった顔を見遣るマリィ。ひい、ふう、みいと数えると自分を含
め女の子が二人、男の子が一人。約束をしていた数の半分にしか達していない。
「それがさあ、なんかおかしいんだよ」
唯一の男の子が、眉間にしわを寄せて言う。その男の子は大人を真似てやたら
と難しい顔をし、いつもはみんなから笑われいる。
「おかしいって何が?」
また始まったと思いながらも、マリィは笑いを押し殺して訊ねてみる。
「みんな、ただ遅刻してるだけならいいんだけどさ。いま集まっている三人の方
が、まだ来ていない三人より、ここから遠いところに住んでるっていうのが気に
なる………」
「えっ?」
押し殺していた笑いが、跡形もなく消滅してしまい、マリィはもう一人の女の
子と顔を見合わせる。確かにここにいる三人は、比較的村外れの方に家のある子
たちばかりだった。けれどそんなことは、ただの偶然、とマリィが言いかけたと
き。
「あのね、関係ないかも知れないけど………今日の収穫祭に、軽業の人たち、来
ないかも」
「どうして?」