#4331/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:12 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(61) 悠歩
★内容
愛美の父親の棺を見送り、連絡を終え、一通りの用事を済ませて、いま部屋に
戻って来たところだ。
一服つきたくなって、駿はジャケットのポケットから煙草を取り出す。
「やっぱり、外で吸った方がいいな」
たったいま部屋に戻ったばかりだが、子どもたちに気を使って外で煙草を吸う
ことにする。まだしばらくの間は部屋で煙草を吸うのは、はばかられそうだ。い
っそ、これを機に禁煙しようかとも思う。
耳が痛くなるような寒さの中、二階の手すりに寄り掛かって煙草に火をつける。
白い世界の中に、白い煙が立ち昇る。どこまでが煙草の煙で、どこからが自分の
息なのか分からない。
静かな午後だった。
雪は音を吸収する性質があると言うが、そのせいだけでもないだろう。
良太と美璃佳はまだ眠っている。愛美とその叔母さんは、父親の亡骸と共に出
掛けて行った。北原の老夫婦も、それにつき添った。
そして、いつもは誰よりも賑やかなマリアもいない。
いまこのアパートで起きているのは駿だけだった。
「一人で大丈夫かな、マリアは」
二服めの煙を吐きながら、呟いた。
マリアだけは、朝から元気だった。昨日あれだけ走り回り、雨風に打たれたに
も関わらず、風邪一つひいた様子はない。流したあの涙も、駿の錯覚だったので
はないかと思われるほど、元気だった。
元気過ぎた。
何かを忘れようとするかのように。
甲斐甲斐しく愛美を手伝った後、駿たちの食事は自分が作ると言いだし、材料
を買いに出掛けた。
未だに駿は、マリアを一人で外に出すことが不安だった。あの落ち着きのない
性格。注意力が散漫になって、事故に遭わなければいいが。まさかとは思うが、
変な人に声を掛けられ、着いて行ってしまわないだろうか。
駿は苦笑する。
指に挟んだ煙草から灰が落ちて、積もった雪に混じる。
これではまるで、幼い娘を初めて一人で買い物にやった、父親の気分ではない
か。
「なにか楽しいことがあったの?」
いつの間に帰って来たのか、駿の後ろに、手に買い物袋を下げたマリアが立っ
ていた。
化粧もしていない素顔に、紅い唇がやけに艶やかに見える。
淡いピンクのコートと、買い物袋。その所帯じみた組み合わせに、よりマリア
が近しい存在に思えてしまう。
『マリア、好きだよ。駿のこと』
マリアの紅い唇が紡いだ、昨日の言葉。その唇が、駿の頬に寄せられた感触。
思い出しただけで、顔が熱くなってしまう。
出来ることなら、この少女と共の時間を永遠に過ごしたい。いや、マリアの存
在しない時間など、もう考えることは出来ない。
「どうしたの、駿? まだお熱があるの」
ぼおっとしていた駿の目に、つう、とマリアの瞳が大きく映し出されて行く。
駿はマリアから目を逸らさぬようにして、煙草を急いで手すりに押し充てて消
した。
額と額を合わせて、相手の熱を診る。テレビドラマの中で見掛ける、背中が痒
くなってしまうような恋人同士のやり取り。ばかばかしい演出だと笑っていたも
のを、現実に自分が体験しようとしている。
駿は避けようとしない。ばかばかしいと笑えない。それどころか、マリアの額
が触れる瞬間を、期待を持って待ってしまう。
しかし訪れたその瞬間は、心ときめくものではなかった。
温かな感触の代わりに、駿は火花を見たような気がした。
そして駿の耳は、こん、と大きな音を捉える。
「つうっ!」
「痛あい!」
駿と、そしてマリアの口からは同時に痛みが訴えられた。
「プ、プロレスじゃないんだから、さ。マリア」
駿は気恥ずかしいシチュエーションを期待していた自分と、加減も知らずに突
っ込んで来たマリアに苦笑するばかりだった。
「だってぇ………マリア、すぐご飯作るね」
だって、の後に説明の言葉が続いていない。マリアは額を掌でさすりながら、
痛みさえも楽しいかのように笑っていた。そしてすぐ料理に取り掛かろうと言う
のだろう。部屋の中へと消えて行った。
「食事の前に、胃薬を飲んでおくべきかな」
額を押さえながら、一人駿は呟く。
先日、マリアと美璃佳が二人で作ったカレーを思い出していたのだ。
まだ前科一犯であるが、マリアの料理に期待は持たない方がいい。味だけで言
えば、インスタントの方が上であろう。けれど駿は、マリアの料理が出来上がる
のを楽しみにしている自分に気づく。
『料理は作った人の心だ』
理屈では分かっていたが、それを実感したのは初めてのことだ。もし目の前に、
一流シェフが高級な食材をふんだんに使って作った料理と、マリアの作った生煮
えのカレーが並べられ、どちらかを選ぶとなれば、駿は迷わずカレーを選ぶだろ
う。
但しまだ作る前から、マリアの料理を失敗と決めつけているのは失礼な話であ
るのだが。
何が出来てくるかに関わらず、駿はそれを楽しみに待っている。けれど熱を出
して寝ている良太と美璃佳には、少々きついものがあるかも知れない。ご飯さえ
無事に炊ければ、お粥くらいはなんとか出来るだろう。炊飯器はまだ、良太たち
の部屋から借りたものを使っているのだが。
「炊飯器くらい、買っておこうかな」
駿は貯金の残高を頭に思い浮かべた。大きな買い物をする前に、次の仕事を決
めておかなければ、どうにも不安な数字である。
「けどなあ………一人暮らしには無用の長物だと思っていたけど、そうでなくな
ったら、どうせ長く使うものだし」
その言葉の意味に、呟いた駿自身が恥ずかしくなってしまった。
「そ、そんな………まだマリアの気持ちも確認してないのに」
午後になっても、気温はほとんど上がらない。まして駿の立っている場所は陽
も当たってはいない。寄り掛かった手すりは、氷のように冷たい。
なのに駿は寒さを感じていなかった。
実際は着ているジャケットも、手すりに触れた指先も、安物のスニーカーの中
の爪先も、顔も身体も冷え切っている。けれど身体の中は、ぽかぽと暖かい。
ほどなくして漂ってきた匂いが、駿の鼻腔をくすぐる。
匂いに刺激され、朝食を抜いていた駿の胃袋が活動を始める。
マリアの作る、食事の匂い。
「いい匂いだ………」
危なっかしい手つきで、包丁を使うマリアの姿が頭に浮かぶ。
料理にいそしむマリアの姿を見ていたいという気持ちと、匂いとに誘われ駿は
部屋の中へ戻って行った。
「上手に出来たかな?」
きらきらと輝く瞳に期待の色を溢れさせ、マリアが返事を待っている。
「おいしい!」
先を越されてしまった。
元気良く応えたのは美璃佳だった。
「ああ、美味しい。最高だよ、マリア」
「よかった」
嬉しそうにマリアが笑う。
美璃佳に倣った訳ではないが、駿もそう応える。お世辞ではなかった。
いったい、どうしたことだろう。
マリアの作ったものを食べるのは、これが二度目。最初のカレーは、美璃佳と
の共作だったが、製作者の名前を伏せた状態で出されていたら、間違っても美味
しいと言えるものではなかった。
それが二度目にして、マリア信じられない上達を遂げて見せた。
熱を出して寝ていた子どもたちでも食べられるようにと、玉子をとじた雑炊。
わかめと豆腐のみそ汁。白みそと刻んだねぎの香りがたまらない。そして鱈の煮
付け。
もはや味の面でも、一流シェフを超えたのではないかと、駿は思った。もっと
も一流シェフの味など、経験したことはないのだが。
駿を制していち早く「おいしい」と応えた美璃佳も、満足そうに食べている。
熱はもう、すっかり退いたようだ。それにしても旺盛な食欲だ。
さすがに良太は昨日の今日で元気はないが、それでも箸が進んでいる。無言の
ままに、マリアの料理がおいしいと言っているようなものだ。
「それにしても驚いた。マリアが日本のご飯を、こんなに美味しく作れるなんて」
「あのね、お勉強したの!」
「お勉強?」
「うん! お買いものの前にね、本屋さんに行ったの。そしてお料理の本を読ん
で、お勉強したんだよ」
たかだか一度、料理の本を立ち読みしたしらいで、あんなカレーを作っていた
マリアに、これだけの味が出せるものなのか。作り方は、記憶力さえ優れていれ
ば立ち読みでもなんとかなるだろうが。きっと微妙な勘と言うものも、マリアは
優れているのだろう。
「マリアおねえちゃん、いつでもおよめさんになれるね」
口の周りを雑炊の中の玉子の色に染めて、美璃佳が言った。
聞き流すふりをしながらも、マリアがどう答えるのか気になって仕方ない。駿
は耳に全神経を集中させていた。
「うん、マリア、いいお嫁さんになるの」
マリアの答えは、駿の期待にも応えていた。ただ訊いた美璃佳に対して、マリ
アも同じレベルの子どもとして話していたようであるのが気にはなったが。
陽射しは柔らかく、春を思わせる。
けれど良く見ればその陽光は、春に比べてまだ弱々しい。そして日陰に残され
た雪が、いままだ冬であることを告げていた。
駅の外から、陽気なクリスマス・ソングがプラットホームにも流れ込んで来る。
『ああ、そうか。今日はイヴだったのね』
すっかり忘れていたことを思いだし、愛美はなんだかおかしくなってしまった。
クリスマス・イヴの日に、遺骨の納まった白い布に包まれた箱を持ち、駅に立っ
ている自分の姿がなんとも珍妙に思えたのだ。
今日、愛美はこの街を去る。雪乃叔母さんと共に。
胸に抱いているのは両親の遺骨。先に亡くなった母だか、お墓を買うことも出
来ず、今日まで寺に預けられていた。愛美が叔母さんの家で暮らすことが決まり、
母方のお墓に父と共に納めることが決まったのだ。
これでこの街と愛美を繋ぐものがなくなる。そう思うと寂しかった。
辛いこともあったが、父母との思い出がたくさん刻まれた街。今日を最後に、
もう二度と訪れることもないかも知れない。
「本当に、みなさん。愛美が長い間、お世話になりました」
叔母さんが見送りに来てくれた人たちへ、深々と頭を下げる。
「いえ、何も出来なくて………愛美ちゃん、元気でね」
駿が手を差し出した。けれど愛美は、遺骨で塞がれているために手を握り返す
ことが出来ない。
「愛美ちゃん」
それを察した叔母さんが、愛美の手から遺骨を受け取った。
「ありがとうございます。あの、藤井さんも頑張って下さい」
何を頑張るのか、言った愛美にも分からなかった。ただ良太や美璃佳のことを
任せられるのは駿しかいない。そう思っていた。
けれど無責任に「良太くんたちをお願いします」とは言えない。子どもたちの
母親のことは、駿一人でどうにか出来る問題ではないのだから。
「元気でね、愛美ちゃん………マリア、愛美ちゃんのこと、忘れないから」
マリアはいきなり愛美に抱きついて言った。
愛美は何かが、自分の首筋を濡らすのを感じた。マリアの涙のようだ。
あまりマリアとは深く接する機会がなかったが、もう少し時間があればいい友
だちになれただろう。愛美の方が歳下なのに、自分のために泣いてくれているマ
リアを可愛いと思った。
「さよなら、愛美お姉ちゃん」
「まなみおねえちゃん、さようなら」
続いて、はにかんだような良太と、何かを後ろ手に隠した美璃佳が歩み寄って
来た。
「えへへっ」
何か意味ありげに、美璃佳が笑う。なぜだか、美璃佳の人形を良太が抱いてい
る。きっと美璃佳の後ろにかくされたものと関係あるのだろう。早く秘密を明か
したくて、うずうずとしている顔だ。けれどさきほどから、美璃佳が動く度にか
さかさと音がしている。隠しているものも、ちらちらと愛美の目に入ってしまう。
「なんだか楽しそうね、美璃佳ちゃん」
何も気がついていないふりをしながら、愛美は膝を折って、美璃佳と視線の高
さを合わせる。
「あのね、まなみおねえちゃんに、クリスマスとぉ、おわかれのプレゼント」
そう言うと、美璃佳は後ろに隠していたものを、さっ、と愛美の目の前に出し
た。
「わあ、凄い。これ、美璃佳ちゃんが作ったの?」
愛美はそれを手に取り、大袈裟に驚いて見せる。けれど芝居したつもりはない。
本当に嬉しくて驚いたのだ。
それは色とりどりの折り紙で作られた、千羽鶴だった。
さすがに千羽とはいかなかったが、数珠繋ぎにされた折り鶴が数本、束ねられ
ている。
「これ、美璃佳ちゃんたちが作ったの?」