AWC 『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(33)  悠歩


        
#4303/5495 長編
★タイトル (RAD     )  97/12/24   1:44  (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(33)  悠歩
★内容
「あ……あの」
 愛美はようやく、掠れた声を絞り出すことが出来た。
「ごめんな、さい……にしざきです」
『西崎さん? あ、もしかして先日の玉子の?』
「はい………あの、信一さんは……」
 訊ねるまでもなく、電話のそばにいることは分かっていた。
『ちょっと待って下さいね』
『もしもし、代わりました』
 ほとんど待たされることなく、電話の相手は相羽信一に代わった。
「あ………」
 声を聞きたかった相手が出ているのに、愛美は言葉を失ってしまった。
 何を話せばいいのか。
 何を話すつもりだったのか。
 父が死んでしまったので慰めて下さい、とでも言うつもりだったのか。愛美は
自分が具体的に何を相羽に求めていたのか、分からなくなってしまった。
『もしもし、何かあったの? もしかして、あの本のこと』
 愛美の気のせいだろうか。相羽の言葉は、とても優しく感じられた。初めて話
をすることが出来た日も優しかったが、どこか違う。愛美自身が強く求めていた
ものだっただけに、そう思えるだけなのかも知れない。
 相羽に言われ、本を借りていたことを思い出す。読む時間など、取れないこと
を知りながら借りた本はわずかに冒頭部分に目を通しただけで、あの日からずっ
とタンスの上に置いたままだった。
「え、ええ」
 他に電話をした理由の見つからない愛美は、そう答えるしかなかった。
『なにか気になることでもあったのかな。だけど、質問されても答えられないよ。
最後まで自分で読んで確かめないと、楽しみがなくなっちゃうからね』
 明るい笑い声が、受話器から聞こえてくる。
 愛美は胸が苦しくなった。
「じ……時間がなくて、まだ読み終わるまで………掛かりそう、です」
 それだけのことを言うのに、大変な労力を費やしてしまう。
 言葉の最後の方は、酸欠を起こしたように頭が眩み、辛うじて掠れた声を出し
た。
『わざわざそんなことを言うために、電話をくれたの?』
「………はい」
 それっきり、愛美は黙り込んでしまった。
 元より、何か話したいことがあって電話したのではない。ただ相羽の声を聞け
ば、少しでも心が楽になるのではないか。そんな期待を抱いてのこと。
 不躾に突然電話をして、迷惑がられるのではと思っていたのに、相羽の声は暖
かく優しかった。
 愛美にはそれだけで充分だった。
 これで悲しみが消えた訳ではないが、そこまで求めるのは虫が良すぎる。信じ
ていた女将に裏切られ、父をも亡くし、広い世界にたった一人取り残されたよう
な気がしていた愛美。まるで気安い友人のように話をしてくれる人がいると、分
かっただけでよかった。
 もう、電話を切ろう。そう思ったとき。
『なんだか、元気ないみたいだね』
 愛美を気遣う言葉が聞こえてくる。
「いえ、そんなこと………ないです」
 口では否定するが、声の震えは抑えられなかった。思わず「助けて下さい」と
叫びそうになるのを、懸命に堪える。
『あの、もし違っていたらごめん。お父さんに、何かあったの?』
「えっ………」
 一瞬、心臓が止まりそうになる。
 どうして相羽が父のことを知っているのだろう。愛美の疑問に、相羽はすぐに
答えてくれた。
『西崎さん、昨日から学校を休んでたでしょ? それで八組の子にそれとなく訊
いてみたら、西崎さんのお父さんが倒れて病院に運ばれたらしい、って言ってた
から』
 相羽が自分のことを気に掛けていてくれた。それは愛美にとって、とても嬉し
いことだった。だが、愛美の気持ちは酷く焦り始めている。
 このままでは泣いてしまう。
 全てを相羽に打ち明けてしまう。
 早く電話を切らなければ。
 けれど愛美の手は動かない。耳から受話器を離し、電話を切るための動作を行
うことが出来ない。
『こんなことを言って、気を悪くしたら謝る。これからぼくの言うことに、間違
いがあったり、おかしなことがあったら止めて欲しい………ぼくは西崎さんのこ
とを、よく知らない。この間の玉子のことがなかったら、いまでも名前すら知ら
なかったはずだ。
 だけどあの時、知り合って話をして。ぼくの勝手な推測だけど、西崎さんって
男子の家に些細な用事で、電話の出来る子じゃない気がするんだ。さっきから、
様子もおかしい。
 もしかすると………入院しているお父さんに、何かあったんじゃない? こん
なことを言って、ごめん。その……大変なことになっているとか………』
 愛美は応えなかった。
 応えることが出来なかったのだ。
 受話器を握ったまま、床に膝をつく。
 そして泣いた。
 相羽がそこまで自分を見ていてくれたことが嬉しいのか、改めて父の死が悲し
いのか、愛美自身にも分からない。
 何か受話器から音がする。コインが終わり、電話が切れる直前の知らせといま
の愛美には判断出来なかった。
『西崎さん、いまどこにいるの?』
 相羽の問いかけを、はっきり認識出来た訳ではない。ただうわ言のように目に
入ったものをそのまま言葉にしただけだった。
「コンビニ………」と。
 それが相羽の耳に届いたかは分からない。
 言葉が終わらないうち、通話時間の終了した電話機は沈黙してしまったから。

 愛美は声を上げて泣いていた。
 父の死の瞬間より、激しく泣いたかも知れない。
 稚児のように、聞く者がいても理解出来ぬ言葉を発し、わんわんと泣いていた。
 もし電話ボックスで泣いている愛美を、外から見る者があれば何か只ならぬ事
態が起きたのではないかと思っただろう。何か急な発作に苦しんでいるように見
えたかも知れない。気がふれてしまったのだと思ったかも知れない。
 しかし泣いている愛美に、声を掛ける者はなかった。
 誰もそばを通らなかったのか、関わりを持ちたくないと避けて行ったのかは分
からない。
 どれほどの時間、泣いていただろうか。
 ようやく涙が止まった。
 いや、出なくなったと言うべきだろう。身体中の水分を涙に使ってしまったよ
うな気がする。まだ嗚咽は続いていたが、涙は果ててしまった。
 身体がだるい。
 愛美は肩で息をしている自分に気づいた。
 まるで長距離を走り終えたランナーのように、身体が激しく酸素を求めていた。
大きく息をする度、渇ききった喉がひゅうひゅうと鳴っている。
 こんこん。
 誰かが電話ボックスのドアを叩いた。
 気がつけば、とうに愛美の手から離れた受話器がだらしなくぶら下がっている。
正確には分からないが、長時間電話ボックスを独占していた。ドアをノックした
来訪者は、電話を使いたいのか、あるいは中で蹲っていた愛美を不審に思って近
づいてきたのだろう。後者であったのならば、どう応じればいいのだろう。戸惑
いながら、ドアを振り返る。
「だいじょうぶ? 西崎さん」
 聞き覚えのある声が、愛美を迎える。
 見覚えのある顔が、そこにあった。
「あいば、くん………」
 愛美は音にならない声で、彼の名を呟いた。
 傍らに自転車を停めて、電話ボックスを窺う少年。相羽信一がいた。

 それどころではないはずなのに、お腹が鳴った。相羽の顔を見て、少し緊張が
和らいだせいなのか。突然愛美は、自分が空腹であったことに気がつく。
 こんな時でもお腹が空くものなのかと驚くと同時に、その音を相羽に聞かれて
しまったのではないかと思うと、恥ずかしくなる。
「すぐ戻ってくるから、少し待ってて」
 そこに愛美を残し、相羽は自転車に跨るとどこかへと走っていった。
 電話ボックスにほど近い公園。初めて入った公園だが、一度に五・六人の子ど
もが同時に遊べそうなほど、大きな滑り台があった。その下には広い空間があり、
ちょっとした小屋のようになっていて、多少の雨風なら防げそうだ。きっと滑り
台同様にこの空間も、子どもたちの格好の遊び場になっているのだろう。片隅に
はアニメキャラの絵が入った、プラスチックのバケツとシャベルが転がっていた。
 精神的にも肉体的にも疲労しきっていた愛美は、電話ボックスに相羽が来てく
れたときに、自力で立ち上がることが出来なかった。そのため、相羽の手を借り
てこの滑り台の下に来て休んでいた。スカートが汚れるからと言って、相羽が自
分の上着を敷こうとしてくれたのは断った。電話ボックスの中で蹲っていたので、
もう充分に汚れていたから。
 相羽が立ち去った後、一人残された愛美は虚ろな気持ちで夜の公園を見つめて
いた。
 冷たい風が吹き、乗り手のないブランコが軋んだ音を立てて揺れる。
 砂場の砂が舞い上がる。
 目に映る、それらの光景に対して、愛美はなんの感情も持てない。涙と共に感
情の全ても涸れ果ててしまったのだろうか。
 電話ボックスの前に現れた相羽。本当は心の奥底で、彼が来てくれることを強
く望んでいたのに。なのに相羽の顔を見たとき、それほど嬉しいとも思わなかっ
た。現実と分かっていながら、父の死すら笑えもしない悪質なジョークのように
感じられる。
 程なくして相羽が戻ってきた。自転車のかごに、コンビニの袋を乗せて。
「ごめん、一人にしちゃって。恐くなかった?」
 特に何かに気を使う様子もない、ごく普通の話し方。
 見れば相羽の耳は真っ赤になっていた。よほど自転車を飛ばしたのだろう。普
通に走っても、ここからコンビニまでは一分掛かるかどうかなのに。
「西崎さんは、カフェ・オレとミルクティー、どっちが好き?」
「ミルク………」
 どちらでも良かったのたが、愛美はそう応える。
「熱いかも知れないから、気をつけて。それと………お腹が空いているみたいだ
から、これ。西崎さん、どっちが好きなのか分からないんで、二種類買ってきた」
 相羽から愛美へ、ミルクティーの少し大きなサイズの缶と紙袋に入った中華饅
頭が手渡された。
 ミルクティーの缶を見た途端、愛美は強烈な渇きを思い出した。一刻も早く、
それを潤したくてプルタブへと指を掛ける。が、知らぬ間にかじかんでいた指は
思うようにならない。
「開けてあげようか?」
 相羽の申し出に、愛美は無愛想な子どものようにミルクティーの缶を突きだし
た。
 手袋を外した相羽が缶を開けて、愛美に戻す。愛美は礼も言わず、缶を掴むと
一気に喉に流し込んだ。
 渇いた砂に水が染み込むように、ミルクティーは愛美の喉に吸収されていく。
半分以上を一気飲みしたのに、お腹の中に落ちた感じがしない。
 喉に潤いを得たことで、今度は空腹が愛美を攻めたてる。片手に握った紙袋か
ら香る中華饅頭の匂いが、それをさらに刺激する。この二日間、まともに働く機
会のなかった胃が、早くしろと叫びだす。
 愛美は缶を足元に置くと、紙袋に入っていた二つの中華饅頭を両手に取り、貪
るように口に運んだ。中華饅頭の中身はこしあんとひき肉だったが、味わう余裕
はなかった。ミルクティーで潤したとはいえ、まだ唾液の分泌が不充分な口腔や
喉に中華饅頭の皮が貼り付く。それをミルクティーで無理矢理押し流し、また食
べる。二つの中華饅頭を平らげるのに、さして時間は掛からなかった。
 最後に飲み込んだ欠片が上手く喉を通らず、愛美はミルクティーの缶を口元に
寄せた。たが既にその中身は飲み尽くされて、天を仰ぐほどに缶を傾けても、数
滴が口内に滴り落ちるだけだった。
「ほら、これを飲みなよ」
 相羽が自分のカフェ・オレを愛美の前に差し出した。呼吸困難に陥り掛けてい
た愛美は、引ったくるように相羽の手から缶を取ると、彼がそれに口を付けたの
かも確認せずに飲んだ。
 渇きと空腹が癒され、ひと心地つくとどこかへ消え失せていた感情が、長い乾
季を終え雨を吸収した後の大地から、新しい命が芽吹くように甦ってくる。
 途端に普段なら決して執ることのない、はしたない態度を愛美は恥ずかしく感
じた。
「ごめんなさい………」
 普通に出せるようになった声も小さく、相羽に謝ると顔を伏せた。
 恥ずかしさのあまり、寒空の下にあって耳が焼けるように熱くなる。
「プレゼント」
 短い言葉と共に、相羽が何かを投げてよこした。それは愛美の膝の上にと落ち
る。手に取ると一枚のタオルと、それにくるまれた使い捨てのカイロだった。
「本当はどこか、屋根のあるところに入れば良かったんだろうけど。ま、ここに
も一応屋根はあるけどね」
 滑り台を見上げ、相羽は笑った。
「西崎さんも、他の人に顔を見られたくないんじゃないかと思って。こんな寒い
ところになってしまったけど、せめてそのタオルとカイロ、使ってよ」
 そう言って相羽は愛美の隣に、やや距離を置いて座った。
 愛美はタオルで、強く顔を拭いた。




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