#4300/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:41 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(30) 悠歩
★内容
そこならカレー以外にもメニューがある。子どもの食べられるカレーもある。
子どもたちには適当に選ばせ、自分はカレーを頼もう。辛いやつがいい。漂う香
りを嗅ぎながら、駿はそう考えていた。
それにしても、この匂いはどこからしてくるのだろう。
下の老夫婦がカレーを食べるとは、少し考えにくい。そうなると後は愛美のと
ころしかないが、父親があの状態で彼女はずっとつきっきりのはずだ。風のせい
で、アパートの外から漂ってくるのか。
「ねえ、お兄ちゃん。となり、誰かいない?」
ゲームに熱中していた良太が、顔を上げて言った。
「えっ?」
駿はリモコンでテレビの音量を下げて、聞き耳を立てた。
確かに隣の部屋から、何か聞こえてくる。
この二階には、駿の部屋以外に人はいないはず。すぐ隣は良太と美璃佳の部屋
であるが、二人ともいまはずっと駿の部屋で生活している。他の二部屋は、長い
間誰も住んではいない。
もしかすると、良太たちの母親が帰っているのか?
それならば、しなければならない話がある。彼女が覚醒剤の売買、あるいは自
身が使用しているのか、駿には興味がない。それはいずれ警察がはっきりさせる
だろう。
それより彼女が子どもたちのことを、どう考えているのか確認したい。今日ま
で所在が分からず、勝手に話を進めてきたが、やはり実の母親の意見を訊いてお
きたい。
いろいろと問題は多いが、もし彼女に子どもたちと暮らす意志があるのなら…
……出来るだけそうしてやりたい。それが良太たちのためだろう。
「良太くんは、ここで待ってて」
物音の正体を確認するため、駿は外へ出た。
「あれ?」
隣の部屋の前に立ち、駿は先ほどから漂っていたカレーの匂いがそこから発し
ているのを知った。あの母親がまさか………そう思っているところに、部屋のド
アが開かれる。駿は慌てて横に飛び退き、ドアにぶつかるを避けた。
「あっ、駿だ!」
陽気な声と共に中から現れたのは、マリアだった。手にはあの匂いの元となっ
ているらしい、鍋を持っている。鍋つかみの代わりだろう、取っ手の部分には幾
重にもテッシュが巻かれていた。
「熱いの、駿の部屋のドアを開けて。早く!」
「あ、はい」
茫然としていた駿は、マリアの声に飛び上がるようにして、自分の部屋へ駆け
出した。
隣の部屋での物音の正体は、マリアと美璃佳だった。
銭湯の帰り、駿と分かれてから二人はスーパーで材料を買い揃え、隣の部屋で
カレーを作っていたのだ。
「それにしたって、どうして隣で作っていたんだい?」
「内緒にして、びっくりさせようと思ったの。それに駿のお部屋、ご飯を作る機
械がないんだもん」
それからマリアと美璃佳は顔を見合わせ、それも打ち合わせしていたかのよう
に同時に首を傾げ、「ねえ」と言った。
「それに、まいにちおそとでごはんたべてると、おかねがたいへんでしょ?」
確かに四人での外食をすると、その代金は一回で駿のアルバイトの半日分はゆ
うに出てしまう。それに加えて、先日のプレゼント代が大きく響き、手元に残っ
ているお金はかなり苦しくなっているのは事実だった。
「あ、じゃあせめて材料費くらい払うよ。いくら掛かった?」
駿は財布から千円札を数枚取り出した。
「いいの。マリア、この前駿からお小遣いもらってるから。美璃佳ちゃんに教わ
って、ちゃんとお買いもの出来たんだよ」
嬉しそうなマリアは、駿の差し出したお金を受け取ろうとはしなかった。
マリアと美璃佳の作ったカレーライスは、お世辞にも上手く出来ているとは言
えなかった。
まずカレーの下のご飯は、ほとんどお粥に近い状態になっている。二人ともこ
れまでご飯を炊いたことがないと言うのだから仕方ないが、水の量が多すぎたよ
うだ。それでも水が足りずに、米の芯が残っているご飯よりはいいだろう。
カレーのルーは甘口。これ自体、辛目を好む駿の口には合わない。が、中辛以
上では美璃佳や良太、たぶんマリアも食べられないだろうから仕方ない。しかし
こちらはご飯と逆で水が少なかったらしい。かなり固めのルーになってしまって
いる。お粥状態のライスと絡めて、丁度いいかも知れないが。
ルーの中の具材、肉やじゃがいも、にんじんは形がいびつで、大きさはどれも
不揃い。しかも火が通りきっておらず、生煮えのものが多い。たまねぎも買って
来たそうだが、目にしみて切ることが出来ないと、入れられなかったらしい。
著名な料理評論家の前に出したとしたら、口に運ぶ以前に不合格を言い渡され
てしまうだろう。
駿にしてみても、味見栄え共に好みに合うものなど見つけられない。だが「不
味い」と言ってスプーンを置く気にもならない。
もちろん一生懸命に作ったマリアと美璃佳に対して、そんなことを言えるほど
駿は無神経でない。それにどういう訳か、それを食べることが苦痛にならない。
いやむしろ舌に合わないはずのその味、出来映えが好ましくさえ感じるのだ。
きっと視覚神経と味覚神経以外にも、食べ物の味を感じる器官があるに違いな
い。二人が懸命に作ったカレーは、駿のその三つ目の感覚に強く訴えるものだっ
たのだろう。
一方マリアと美璃佳は、その出来には完全に満足しているようだ。
「おいしいね」
「うん」
折りたたみのテーブルで差し向かいになった二人は、楽しそうにそう自分たち
の作ったカレーライスを評価している。よく見れば、具はほとんど食べていない
のだが。
一人暮らしで使うために買ったテーブルなので、四人で使うには狭すぎる。駿
と良太は雑誌を積み重ねてテーブル代わりにしていた。
その良太は旨いとも不味いとも言わず、ただ黙々と妹たちの作ったカレーを食
べている。どうにも駿には、そんな良太の姿が気になった。
良太には年齢のわりには、どこか大人びたところがあった。父親はなく、母親
も子どもたちのことを一切かまわず遊び歩いているような女で、兄妹二人だけで
過ごす時間が多かったのだろう。良太以外、美璃佳を守ってやれる者はいなかっ
た。幼い妹を守るため、精神的に強くならざるを得なかった。
だが駿たちと共に過ごすようになって、少しずつではあるがその責任が和らぎ、
良太も歳相応の表情を見せるようになっていた。
それが昨日辺りから、元の表情に戻り始めている。守られる子どもから、誰か
を守る保護者の顔に。
何かあったのだろうか。
その理由を訊き出すべきだろうか。
しかしあと二・三日、明日明後日にでも連絡が入れば、良太たち兄妹は駿の手
元を離れて行くだろう。もう駿が良太の悩みをどうにかしてやれる時間はない。
可哀想ではあるが、仕方ない。自身の悩みは自身で解決出来るようにしなければ
ならないのだ。ここで、駿が半端な手助けをしても、それはかえって良太のため
にならない。
突然鳴り出した電話の音が、そんな駿の思考を中断させた。
愛美は幸せだった。
幼い愛美を真ん中にして、その手を引く若い父と母。
二人とも笑っている。とても幸せそうに。
緑の草原を左右に分かち、どこまでも続く長い道。
愛美たち三人は、その道をただひたすら歩いていた。
道の両側には檻があって、ゾウやキリン、トラやライオン、クマやイノシシが
いる。極彩色の魚が泳いでいる水槽もあった。
ここは動物園なのだろう。
愛美たちと同じような親子連れが檻の前に立って、戯れる動物たちを見ながら、
楽しげに笑っている。
「おかあさん、まなみ、ちょっとつかれちゃった。すこしやすもうよ」
そう言って愛美が母の方に顔を向ける。するとふいに握っていたはずの、母の
手の感触が消えた。
「おかあさん?」
感触だけでない。
振り向いた先には、母の姿もなかった。
「おとうさん、おかあさんがいなくなっちゃったよ」
慌てて見上げた父の顔は、霞が掛かったようにぼやけていた。
「おとうさん………」
父は何も応えない。
愛美の方へ振り返ろうともしない。
ぼやけた顔は青白く、生気も感じられない。
「ここから先は」
ようやく開かれた父の口から、掠れた声が漏れる。
「愛美一人で行きなさい」
「えっ」
霞む、霞む、霞む。
そして父の姿も、蚊柱が風に散らされるようにして消え失せた。
「おとうさん、おかあさん」
独りぼっちになった愛美は、悲しくなって泣き出してしまう。
いつの間にか、檻も動物たちも、それを見ていた人々もどこかへ消えていた。
長い道の上に、ただ一人愛美がいるだけだった。
「どこ? どこなの。おとうさん、おかあさん!」
いくら周りを探してみても、みつからない。
強く生きなさい。
そんな声が聞こえた。
どんどんどん。
遠くで何かを叩く音がする。
どんどんどん。
次第に音が近く大きくなっていく。
「んっ………」
深いまどろみから目覚めた愛美は、咄嗟に自分がどこにいるのか分からず、辺
りを見回す。見慣れた光景が目に飛び込んできた。
「私の部屋?」
なぜ部屋に戻ってきて来ていたのか、途切れていた記憶を辿る。
朝方、父の容態が落ち着いているのを確認して新聞配達に出掛けた。その後一
度病院に戻り、夕方まで父につき添っていた。それから愛美自身が着替えるため
にアパートに戻って、つい寝込んでしまったらしい。
どんどんどん。
また音がする。誰かがドアを叩いていた。
「愛美ちゃん、いないの?」
駿の声だ。
「は、はい。います」
どこか緊迫してして聞こえた駿の声に不安を感じ、手櫛で髪の乱れを整え、愛
美はドアを開けた。
「病院から電話があった」
ドアを開くなり、駿が言った。
愛美の部屋には電話がない。それで先日、父を病院に運んでくれた駿の所へ連
絡が入ったのだろう。しかし、そうまでして来た連絡が、愛美にとって良いもの
でないことは容易に想像が出来る。
駿が次の言葉を放つ前に、もう愛美の足は震えていた。
「お父さんが危篤になったそうだ」
予想通りの言葉だったが、愛美の意識は遠のきそうになる。それを必死で耐え
た。
「お父さん!」
集中治療室に飛び込んだ愛美に、戸田医師は軽く一瞥をくれただけだった。じ
っと父の脈を取っている。
父に繋がれた装置のモニター。それが示す波形は、前に見たときよりも弱々し
いものになっている。
「先生、お父さんは………?」
父の容態について愛美が訊ねてみても、医師は応えず何やら看護婦に指示を送
る。
「せん……せい?」
ぷしゅう、という音だけが愛美に応える。父が自ら行っているのか、機械が強
制的に行わせているのかは分からない。父の呼吸音。
「良くない………覚悟をしておいた方がいい」
ようやく返ってきた医師の言葉は、愛美が一番聞きたくないものだった。
「お願い、お父さん。私を一人にしないで」
愛美は意識のない父の左手を取り、強く胸に抱く。
暖かい。
とても死に瀕している者の手には思えなかった。
流れた涙が頬から顎へ、顎から抱きしめた父の手へと滴り落ちる。
「お父さん、お父さん、お父さん、お父さん、お父さん………」
念じるように繰り返し、父を呼ぶ。
もう一度声を聞きたくて。
−−馬鹿野郎。ったく、役に立たない娘だ。
そう罵るのでも構わない。殴られてもいい。
だからもう一度、声を聞かせて欲しい。
愛美の名を呼んで欲しい。