#4137/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/ 9/30 16:31 (190)
そばにいるだけで 15−2 寺嶋公香
★内容
「どっち?」
「同じだろ」
「立島が逆転したんじゃないか」
「長瀬が逃げ切ったように見えたけどな」
そんな声が、ぼそぼそと聞こえる。多分、立島のコースに近い方で見ていた
者は立島の勝ちに、長瀬を近くで見ていた者には長瀬の勝ちだと思えたに違い
ない。それだけ、接戦だった。
二人揃って、タイムを聞いている。
ふと、足下に目をやると、長瀬の膝小僧の絆創膏が、なくなっていた。剥が
れて、流されてしまったに違いない。白と赤が入り混じって見える傷口が、遠
目でも痛々しい。
(ひょっとしたら、傷に染みたのかな、長瀬君。かわいそう……。途中でスピ
ードが落ちたのも、あのせいかも)
純子は少し、がっかりした。急に長瀬の肩を持とうと思ったわけではなく、
どうせなら公平な勝負が見たかった。そんな気持ちが強い。
原則として、個人のタイムは公にしない。だが、このときばかりは、見守っ
ていた生徒達から声が飛ぶ。
「どっちが勝ったの、先生?」
「教えてよ!」
みんなの声を聞き入れて、先生は立島と長瀬に確認を取ってから、両手の親
指と人差し指とで、三角マークを作り、大きく掲げた。
「引き分けだ」
途端に、がっかりしたような、ほっとしたような、何とも言えない空気が場
を満たす。
「ストップウォッチでは、限界があったみたいね」
前田が、どこか安心したように笑いながら言った。
「相羽君と、どっちが速かったんだろ? ねえ」
富井が聞いてくるが、三組女子の面々はもう移動しなければならない。自分
達もテストを受けるのだから。
「分からないよ。あとで教えてあげるから、楽しみにね」
そう言い残して、割り振られたコースの列に並ぶ。
「涼原さん」
振り向くと、隣の列には白沼がいた。名簿順から言って、当然だ。
「何、白沼さん?」
「さっきのレース、凄かったわねえ。相羽君だけにしとこうと思ってたのに、
立島君も、なかなか捨てがたいわ、ああいうのを見せつけられると」
「あ、そう……。あは、はは」
笑顔がひきつってしまう。手持ちぶさたで、右頬をかいていると、白沼がじ
ろじろとこちらを見ているのに気が付いた。
「な、何を見てるの」
「あ? ええ、前々から感じてたんだけれど、涼原さんて、スタイルいいのよ
ね。水着を見て、はっきりしたわ」
その言葉に、慌てて両腕を身体の前で組む純子。
「隠さなくていいのに」
「だ、だって、変なこと言うから」
「変? よく言うわ。ルックスもまあまあのくせして。私なんか、結構自信あ
るから、見せびらかしてるんだけど」
ファッションモデルのようなポーズを取る白沼。水泳帽がなければ、髪をか
き上げたに違いない。
言うだけあって、白沼もこの歳頃にしては、いいプロポーションをしている。
普段着のときよりも、ふっくらして見えるが、それも、胸の大きさと相まって
バランスがいい。
(引き替え、私は……)
未だにわずかに膨らんだだけの胸を見て、息を小さくついた。
「あなたも男子の視線、かなり集めてるのよ。知ってる?」
「ええ? まさか」
不意に背中の辺りがむずむずしてきたが、慌てて振り返って、万が一にも誰
か男子と視線が合うのも嫌なので、辛抱する。ただ、前にあった腕を後ろに回
し、お尻の辺りを隠した。
「全然、自覚ないんだから」
「う、嘘だぁ」
「あら、本当よ。意識しなくちゃ。意識したら、もっときれいになるわよ。胸
も大きくなるかもネ」
最後のフレーズには、少しばかり意地悪な響きが含まれていたような。
(勘弁してよー。そういえば、芙美にも似たようなこと、言われたっけ。私の
こと、いいと言ってる男子がいるとかどうとか……信じられないよ)
思い悩んでいる内に、順番が回ってきた。今日はこんなことばかり続く。
泳ぐのは好きだけど、大得意というほどでもない。その上、さっきの白沼の
言葉が気になって、プールサイドからの視線を意識してしまった。
スタート台に立つと、まともに顔を上げていられない。早く笛を吹いて!と
祈りたくなった。
ほどなく、スタートしたが、いつものように伸び伸びと泳げなかった。かい
でもかいでも、力が空回りするだけで、疲労感が蓄積されていく。
二十五メートルの折り返しに着く頃、急に思い付いた。
(潜水にしたら、プールサイドからは見えないかも)
息を止めておくのは自信があるので、後半に入るや、即、実行。
最初、癖で腕を回してしまいそうになったので姿勢を崩しかけたが、すぐに
立て直し、つま先を揃えて思い切り水を蹴る。案外、進んでくれることが分か
って、意を強くした純子は、調子に乗ってそのまま最後まで泳ぎ切った。
「−−っは。あー、苦しかった」
顔に着く水をひと拭いしてから、プールサイドに両手を突っ張り、上がろう
とした。
ちょうど、同じクラスの男子達が視界に入る。特に相羽は、純子が潜水をし
たせいか、苦笑いをしていた。
その折もおり−−。
「? きゃっ」
短く悲鳴を上げて、純子は慌てて飛び込んだ。胸元がすーすー、冷たいなと
感じると同時に、水着の右の肩紐がずれ落ちかけてるのに気付いたのだ。
(み、見えた? まさかね、そんなことないはず)
言い聞かせるように心中で唱えながら、肩に水着をしっかりとかけ直した。
そして今度は慎重に上がって、先生からタイムを聞いた。序盤、調子が出な
かった割には、自己記録に意外と近いタイムが出ていた。
「あー、やっと終わった」
ついさっきの恥ずかしさを吹っ切りたくもあって、水泳帽を取り、目を瞑っ
て激しく頭を振った。窮屈な帽子の中にあった豊かな髪が解け、はらりはらり
と割れていく。
「何で、潜水なんかしたんだよー?」
女子達のいる場所へ向かう途中、清水が聞いてきた。
まともに理由を答えるのも気後れするので、適当にごまかす。
「人の自由でしょ」
「だけどなあ、どう見ても相羽の真似……いてえっ」
皆まで言わせず、背中を思い切り叩いてやった。
「この、暴力女!」
「うるさーいっ。そっちこそ、お喋りな口をどうにかしなさいよ!」
言い捨てて、すたすたと立ち去った。
「お帰りーぃ」
出迎えた富井の横に、腰を下ろし、膝を抱えた純子。
「さっき、清水と何を言い合ってたの?」
「ああ、あれ。潜水したのが、相羽君の真似じゃないかって言うもんだから、
腹が立って」
「あ、それは私も思ったけどぉ」
「郁江まで……」
がっくりきて、純子は下を向いた。
「調子が出なかったから、試しにやってみただけよっ」
言い訳する頃には、最後の組がスタートしていた。
クラス代表が誰になったかって?
女子は水泳部の峰岸。
男子は−−。
「三人同タイムーぅ?」
純子らから知らされた富井と井口が、素っ頓狂に叫んだ。
「凄い偶然。立島君と長瀬って人が同じなのは分かってたけど」
「もう一人って、相羽君なのね」
「その通り」
二人の質問に、町田が大きくうなずいた。
「それで、結局は誰が代表選手になったのよ。焦らさないで、早く」
「焦らしてるつもり、ないんだけど」
とぼけてから、純子や前田を見やる町田。
富井達はますますブーイングを上げた。
「早くってば!」
「はいな。代表決定戦……なんてことはせずに、くじで決めるはずだったんだ
けど」
再度、町田は純子と前田に視線を送った。
「相羽君も立島君も、優しいねえ」
「どういうこと?」
焦らされ通しの井口と富井は、あきらめたように質問してくる。
「くじ引きする前に、相談した二人が言ったのよ。『怪我がなかったら、長瀬
の勝ちだったろうから』って、長瀬君に譲ったの」
「ええー、何だあ」
気抜けしたように、天を仰ぎ見る富井と井口。
くすくす笑い始めたのは前田だ。
「いいじゃない。はらはらしなくて済むんだから」
「それはそうかもしれないけど……見たかったよぉ」
「完全に、可能性がゼロになったわけじゃないわよ」
「え? どういうこと?」
町田が言うのを聞いて、色めき立つ富井ら。一方、純子はどきりとした。
「芙美、それは言わない方が」
純子が止めるのも聞かず、町田は続けて説明を続ける。
「競泳大会まで、長瀬君の怪我が治らなかったら、立島君か相羽君か、どちら
かが出るっていう約束になったの。だからさ、相羽君が大会で泳ぐのを見たか
ったら、長瀬君の回復が遅くなるように−−なんちゃって」
冗談を口にした町田に対して、富井と井口が真剣そうな顔つきで目を見合わ
せたような気がして、純子は、はあ、とため息をついた。
その話が出たのは、調理部の実習が終わり、純子がお邪魔させてもらってい
るときだった。
できあがった今日の料理を、「なかなかのヒットだと思う」と自画自賛する
町田が、続けて言った。
「これなら、親が留守のとき、一人で作ってもおいしいのをこしらえる自信が
ついたわ」
「そうか、芙美のところ、共働きって言ったよね」
箸を口に運びながら、井口が呼応。
「頻繁にあるの? 自分で夕食を用意するのって」
「うんにゃ。滅多にない。ご飯だけは炊いておく場合が多いけどね」
「大変ねえ」
「でもない。独り暮らしの練習だと思えば、気楽なもの」
明るい調子で言った町田に続いて、それまで静かに試食していた相羽が、ぼ
そっとつぶやく。
「独り暮らしか……自分もしばらく、そうなるんだっけ」
誰かに聞いてもらおうという気はなく、独り言のつもりだったのだろう。本
当に聞き取りにくかったが、純子達の耳にはしっかり届いた。
「どういう意味、相羽君?」
富井の問いに、相羽は一瞬、唖然としたようだ。聞かれているとは思ってい
なかったに違いない。
「えっと……親が仕事の都合で出張するんだ。来週の月曜から五日間、独り暮
らし状態になるわけ」
「出張って、どこ?」
「北海道だってさ。寒そう」
気軽に答える相羽に、「お土産、何か頼んだ?」とか「五日ぐらいなら連れ
ていってもらったらいいのに」と言った勝手な意見が飛ぶ。
「ま、独り暮らしのいい練習になるのは間違いないわよ。単身赴任に備えてね」
町田が面白半分の口調で言うと、相羽は真顔で切り返す。
「そうだなあ。調理部に入ったのも、そのためだったし」
そして破顔一笑。
つられて、純子達も大笑いした。
純子は帰宅するなり、相羽が五日間、独り暮らしの状況に置かれることを母
に伝えた。特別な意味はなく、一つの話題のつもりでしかなかった。
ところが、話し手の予想を超えた反応を、聞き手は示した。
−−つづく