AWC 代償   第二部 15    リーベルG


        
#4092/5495 長編
★タイトル (FJM     )  97/ 8/17   0:18  (161)
代償   第二部 15    リーベルG
★内容

                15

 どさり、と勢いよく床に投げ出されて、志穂は意識を取り戻した。
 全てが悪い夢であってほしい、とこれほど強く思ったときはなかっただろう。
 周囲を見回すと、まず正面に広がる太い鉄格子が目に入った。その他は左右の
壁も天井も全て薄汚れたコンクリートである。床には、薄い敷き布団が一枚置か
れている。
 部屋の隅には、洋式便器と小さな洗面台があった。プライバシーは全く考慮さ
れていない。用を足そうとすれば、鉄格子の外から丸見えになる。
 牢屋だ。志穂は再び恐怖が渦巻くのを感じた。ここは牢屋なんだ。
 鉄格子の向こうは、ソファと絨毯が大ざっぱに配置されたリビングになってい
る。そこに由希や田辺、その他の男たちが悠々と座って、鉄格子の中の志穂を見
ていた。
「お目覚めね」由希が微笑みながら言った。「気分はどうかしら?」
「何?何なの。一体何なの?」志穂は怯えた声で叫んだ。「誰か来て!助けて、
助けてえ!」
「誰も来ないから、叫ぶだけ無駄よ。そろそろ薬が切れる時間だから、体力を消
耗しない方がいいわよ」
「いや。先生、助けて!」
「今の私は教師じゃなくて、一人の人間よ。悪いけど、あなたを助けるつもりは
全くないわ」
「そんな……あたしが何をしたって言うの!」怒りよりも当惑を強く感じながら
志穂は訊いた。「どうして、こんなことするの?」
「私の本当の名前は、大菅由希」志穂の顔をじっと見つめながら、由希は静かに
告げた。「聞き覚えはない?」
「おおすが……?知らないわ」
「そうだと思ったわ。じゃあ、大菅加代は?」
「知らないってば!」志穂は涙を流しながら叫んだ。「ここから出して!」
「よく思い出すのよ。あなたが中学三年生のときのことを」
「中三?」途端に志穂の顔に、何かを掘り当てたような表情が浮かんだ。「まさ
か、加代坊のこと?」
「そうよ、ちゃんと覚えてるじゃない」由希は嬉しそうに言った。「忘れるわけ
ないわよね。あなたが殺したんですもの」
「あ、あたし……」志穂は喘いだ。「あたしは殺してなんかない!加代坊は自殺
したのよ!」
「加代は私のたった一人の妹だったのよ。とてもいい子だった。あなたが直接手
を下したわけじゃあないかもしれないけど、あなたのせいで死んだことは間違い
ないわ。さんざん苛めてくれたらしいわね」
「し、知らない。あたしは苛めてなんかない!」
「藤澤美奈代もそう言ったわね」
「せ、先生……」志穂は恐怖に震えながら後ずさった。「まさか、藤澤も……」
「そうよ。私が殺したのよ。もちろん、あっさり殺したりしなかったわよ。その
前に輪姦して、写真とビデオを撮って校内にばらまいて、追いつめてやったわ。
あんなにうまくいくとは思わなかったけど」
「ひ、人殺し……」
「それはあなたも同じなのよ。あなたの方がたちが悪いわ。私は自分のやった行
為の意味を理解しているし、それをこれから一生背負っていく覚悟もできている
けど、あなたは自分の罪の重ささえ知らないんだから」
「あ、あたしは……」
「あなたのところに届いた手紙に書いたことは根も葉もないでたらめではないの
よ。ある意味では、藤澤美奈代はあなたが……あなたたちが殺したようなものな
んだから」
 志穂はまた後ずさった。
「誤解よ。あたしは何にもしてないわ」
「いいえ、したわよ。加代が自殺に追い込まれていくのを、止めようともしない
で見てたじゃない。それだけでも万死に値するわ。その上で、あなたは他の奴ら
に混じって加代をいじめて楽しんだわね」
「悪気はなかったの。お願い、信じて、先生」
「悪気はなかった?あったに決まってるでしょう」由希は冷たく答えた。「いじ
めている方は、ささいなからかいのつもりでも、やられてる方は死ぬほどの苦し
を味わったのよ」
 視界がふっとぼやけ、身体がぐらりとゆらぐのを感じた志穂は、冷たいコンク
リートの壁に手をついた。由希はそれを見ながら続けた。
「でも、いいわ。これからあなたにも苦しみってものを、たっぷり味わってもら
うから」
「あんた、きちがいだわ!狂ってるわよ」
「そうかもしれないわ。加代が死んだとき、あたしの一部も死んでしまったのか
もね。でもいいのよ。ようやくあなたに苦しみを与えることができるんだから。
あなたが加代にやった仕打ちに比べれば微々たるものだけど、それでもかなりの
苦痛になると思うわ」
「何をするつもり?」
「これから何をするつもりかより、まずこれまで何をしたのかを教えてあげた方
がよさそうね」
 由希は、にやにやと笑いながら志穂を眺めていた田辺の方に手をのばした。田
辺はすぐに了解して、何かを由希に手渡した。由希はそれを志穂の方に掲げて見
せた。例のピルが入っている小ビンだった。
「あなたが飲んでいたこの薬、なんだかわかる?」
「ピルよ」
「そう思いこんでくれて嬉しいわ。これは避妊薬なんかじゃない。Sとかスピー
ドとか呼ばれてる麻薬なの」由希は微笑んだ。「覚醒剤よ」
「正しく言うと、覚醒剤の新型バリエーションの一つだ」スーツの男が付け加え
た。「末端価格はシャブの半分以下で、短期間なら抜けるのも簡単だ。もっとも
あんたみたいに、一ヶ月近くやり続けてると、逆に抜けるのが難しくなるし、禁
断症状も激しくなる」
 志穂はよろよろとへたり込んだ。その顔には玉のような汗が浮かんでいる。
「普通は注射するらしいけどね。特注で錠剤にしてもらったわ。おかげで睡眠時
間が減って受験勉強が進んだでしょう。まあ、もっとも、覚醒剤の覚醒作用だと
単純労働はともかく、頭脳労働の効率は落ちるらしいから、身についたとは思え
ないけどね」
「うそ、うそよ」
「ついでに言っておくとね、あなたは間違いなく妊娠してるわね」由希は冷酷に
告げた。「生理が止まったそうじゃない。ピルが効いているせいだと思ったかも
しれないけど」
「それにそろそろ禁断症状が出るころだ」田辺が言った。「お前の身体はすっか
りシャブ漬けになってるんだからな」
 何かに驚いたような表情が、不意に志穂の顔に浮かんだ。次の瞬間、志穂は身
体を二つに折り曲げて、床に激しく嘔吐していた。
 志穂が、一度だけではなく、何度も何度も、胃の中身を絞りつくして黄色い胃
液を口の端から垂らすまで嘔吐する様を見ながら、しかし、由希や他の男たちは
同情の一端すら見せようとしなかった。
「時間はたっぷりあるわ。じっくり苦しんでもらうわ。安心して。命まで取ろう
とは思っていないから。でも、きっと死んだ方がましだって思うかもね」



 由希の言葉は、ほとんど志穂の耳に入っていなかった。嘔吐感が消え、これま
で経験したことのないような脱力感と疲労に身体が包まれていたのだ。
 右腕の内側に、ひりひりと痛みを感じた。目を落とすと、いつの間にか、爪を
立てて腕をぼりぼりと掻きむしっていた。その部分に微かな痒みを感じたのは、
その事実を認識した後だった。すでに爪は皮膚を破り、線状に血が滲んでいる。
たいしてかゆいわけではない。だが、止めようと思っても、指の動きは止まらな
かった。まるで、そのかすかな痒みの根元までほじくり出さなければならない、
と指そのものが決意したかのようだった。
 小さな悲鳴とともに、志穂は指を引きちぎりそうな勢いで、掻くのをやめさせ
た。血が滲み出し、小さな球となってふくれあがる。ぞっとする思いとともに球
を見つめると、それはくしゃりと潰れて、真紅の染みとなって腕に広がった。
 心の中の理性的な部分が、どうしてこんなことが気になるの?と疑問を投げか
けていた。だが、その部分は、すでに非理性の部分によって圧死しようとしてい
る。その境界さえ、はっきりと見定めることができなかった。やがて、自分の心
の全てが人間の心を失ってしまう。そう考えることは、死そのものよりも恐ろし
いことだ。深宇宙の底知れぬ淵を、どこまで落ちていくような果てのない恐怖だ
った。
 志穂は床にごろりと転がった。すでに息が荒い。頭の右側が割れるように痛む。
同時に、間近でドラムを激しく打ち鳴らされたように、耳がきーんと鳴った。残
響は少しずつ変化しながら止むことなく続いていった。
 自分が----正確には自分の身体が、何かを猛烈に欲していることを、志穂は知
った。空腹の胃が食物を求めていたり、乾いた喉が液体を求めているといった生
易しい欲求ではない。全身の細胞が痛みにも似た悲鳴をあげるほどの、根元的な
領域での飢え、魂そのものの飢えだ。
 志穂は何かを求めるように腕を伸ばした。腕に焦点を合わせると、普段は見え
ないような毛穴の一つひとつを、くっきりと鮮明に見定めることができた。生え
ている薄い産毛が風に揺れているのがわかる。ある種の浮かされたような感動と
ともに、それを眺めていると、産毛がしゅるしゅると音をたてながら、四方八方
に伸びていった。一本一本が独自の生命を有しているようだ。毛の先端には、小
さな顔と手がついていて、喉を掻きむしりながら何かを叫んでいる。叫んでいる
言葉は蜘蛛が囁くように小さいが、訴えていることはわかった。何かを欲しがっ
ている。人間としての誇りも、魂の尊厳も、あらゆる自由と権利を投げ出してで
も欲しがっている。
 欲しい!志穂はそう叫んだ。いや、叫んだような気がしただけで、実際には乾
いた喉の奥がごろごろと鳴っただけなのだが、もはやそれと気付くだけの知覚が
働いていない。乾ききった唇を舌で湿すことさえ思いつかない。
 欲しい、欲しい、欲しい!何が欲しいのかわからないまま、志穂は心の中で繰
り返し叫んでいた。
 やがて全ての感覚、あらゆる思考が混沌と渦を巻き、意味をなさなくなってい
く。脳の爬虫類的な領域が活性化する。志穂を志穂たらしめている知性が、圧倒
的な欲求の前に薙ぎ倒される。良心も道徳も羞恥心も状況への疑問も過去の記憶
も、全てが時の障壁の彼方へ消え去った。わずかに残ったのは最も純粋な感情の
ひとつである恐怖。自分の身体に生じている異変に対するそれではない。昨日ま
での日常と永遠に隔絶してしまったことを悟ったものでもない。この恐るべき欲
求が、もしかしたら満たされることないままで、次の数秒間を生きていかなけれ
ばならないのか、という絶望に満ちた恐怖である。だがそれすらも、押し寄せる
津波のような欲求の前では、悲しいほど無力であり、ほとんど意味をなさないも
のであった。
 どこか遠くで、おそらく世界の果てを越えた場所から、かすかに声が聞こえて
きた。単語を聞き取ることはできないし、文章を理解することもできない。だが
それが人間の声であることだけは、なぜか明確にわかった。悪意、嘲笑、喜び、
蔑み、欲望、好奇心。声そのものよりも、声に含まれている様々な感情こそが、
むしろ強烈に志穂まで届いていた。
 誰かが腕を掴んだときも、志穂はほとんどそれに気付いていなかった。





前のメッセージ 次のメッセージ 
「長編」一覧 リーベルGの作品 リーベルGのホームページ
修正・削除する         


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE