#4082/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/ 8/17 0: 7 (155)
代償 第二部 5 リーベルG
★内容
5
二時限目の英語の時間が、教師が急病のため、急きょ自習となる。朝のホーム
ルームでそれを聞いたとき、めぐみは目の前が真っ暗になるぐらいの恐怖に打た
れた。もちろん、英語の授業が楽しみだったわけではない。教師のいない50分
間、クラスメイトたちの悪意にさらされなければならないことが確実だったから
である。
いっそのこと、身体の調子が悪いふりをして早退するか、保健室のベッドに寝
ていようかと真剣に考えた。だがそうなると、少なくとも三、四限めの授業も休
まなければならなくなる。休んだ部分のノートを貸してくれるクラスメイトなど
一人もいないだろうし、配布されるプリント類も届けてくれるわけがない。おま
けにめぐみがいなければ、机や椅子やロッカーが被害に遭うのは必然と思われた。
それぐらいなら、五〇分間耐えている方がましかもしれない。
運が良ければ、思いがけなく得られた自由時間を楽しむのに夢中で、自分のこ
となんか忘れてくれるかも知れない。そう期待したのだが、それははかない希望
でしかなかった。二時限が始まると、早速攻撃がはじまった。
「みんな聞いて!」
立ち上がって叫んだのは、小沢律子だった。クラス委員であり、成績もいい。
めぐみに対するいじめの総指揮を執っているのも彼女だった。
「これから、アンケート用紙を配るからあ、みんなそれに記入して!正直に答え
てね」
「何のアンケートだよ」
「ま、いいからいいから」小沢律子はにやりとした。「見ればわかるから」
そう言うと、一束のコピー用紙を列ごとに配り始める。前列の生徒たちは、そ
れを受け取って内容を見ると、吹きだしたり、くすくす笑ったりしながら、後ろ
に回していった。中には、わざわざめぐみの顔を見て笑う者もいる。
めぐみは列の一番後ろの席に座っている。プリントが届かないことなど日常茶
飯事なのだが、今日はちゃんと届いた。ワープロ書きのアンケート用紙には、次
のような質問と回答欄が設けられていた。
1.クラスで一番、不潔な人は誰だと思いますか?
2.あなたが一人だけ殺人許可をもらえたとしたら、誰を殺しますか?
3.クラスから一人だけ選べたら、誰にいなくなってほしいですか?
4.絶対に友だちになりたくない人を一人あげるとしたら誰ですか?
質問は10以上あり、作成した人間が、全てに同じ答えを書くことを期待して
いるのは明白だった。
めぐみは涙ぐんだりしなかった。そんな態度は、相手を喜ばせるだけだ、と知
っているからだ。アンケート用紙を裏返すと、落書きを始めた。
クラスメイトの名前を順番に書いてやりたい衝動に駆られた。が、その程度の
反撃で、この事態が打開されるとは思えなかった。それどころか、かえって悪く
なるかもしれない。無益な抵抗を試みたのは最初の頃だけで、今はただひたすら、
クラスメイトたちが飽きるか、別の獲物を見つけてくれるのを待つだけだった。
正確には、とめぐみは自嘲した。クラスメイトたちじゃないわね。
十分後、小沢律子が再び立ち上がった。
「集めるわよ。後ろから回してね」
めぐみはその言葉を無視して、落書きを続けた。前の席の男子は、最初からめ
ぐみがアンケート用紙を回してくることなど期待していなかったらしく、さっさ
と自分から前に送っている。
小沢律子は回収されたアンケート用紙をまとめたが、集計しようともしなかっ
た。答えはわかっている、とでも言わんばかりの底意地悪い笑みが浮かんでいる。
「じゃあ、発表するわよ」そう言って立ち上がった小沢律子は、不意に素晴らし
い発明でも思いついたように顔を輝かせた。「あ、でも、あたしが発表すると不
正だと思われるかもしれないから、誰かに代わりに読み上げてもらうことにしよ
っかな。今日は一八日か。一八番って誰だっけ?あ、佐々木かあ。あんた、声が
小さいから駄目ね」
生徒達は期待に満ちた顔で小沢律子を見ていた。
「じゃあ、六月の6を足して、二四番にしようか」同意を得るように、クラスメ
イト達を見回す。「異議のある人は?」
めぐみは大声で異議を唱えたかったが、たぶん無視されるだろうと思ったので
何も言わずに落書きを続けた。だが、手が震え出すのはどうしようもなかった。
「じゃ、二四番の人ね」小沢律子はわざとらしく、教室を見回した。「誰だっけ
?」
めぐみは身動き一つしなかった。
小沢律子はクラス名簿を開くと、真面目くさった顔で告げた。
「立川さん」
クラスメイトたちが一斉に拍手しながら、身体を固くしているめぐみを振り向
いた。どの顔にも、好意とはほど遠い笑顔が浮かんでいる。
「立川さん」小沢律子は、にこやかにめぐみを招いた。「お願いできるかしら?」
ふざけないでよ、と怒鳴りたかった。恐ろしいのは、その衝動に身を任せた結
果を想像することだった。めぐみは、握った鉛筆をへし折らんばかりに拳に力を
こめて、何とか無表情を保った。
「立川さん?」
「ほら、行けよ、立川」前の席の男子が振り向くと、にやにやしながら机を軽く
叩いた。「みんな待ってるじゃねえか。寝てんのかよ?」
周りのクラスメイトたちがくすくす笑った。
めぐみは仕方なく立ち上がった。またもや、一斉に拍手がわき起こる。
クラスメイトたちの、いたぶるような視線を無視して、めぐみは教壇の横に立
った。小沢律子が、アンケート用紙の束を渡してくる。
「じゃあ、お願いね。あ、ちゃんと質問も読んでね。あたしが黒板に集計してく
から」
そう言うと、小沢律子はチョークを握って身構えた。
最初の一枚に目を走らせたとたん、燃えるような屈辱が、めぐみの全身を貫い
た。半ば予想していたことだが、それは何の助けにもならなかった。
「さあ、どうぞ」小沢律子が促した。「みんな待ってるから」
めぐみは口を開いた。
「いち。クラスで一番不潔な人は誰だと思いますか?」
小沢律子が黒板に、「一、不潔な人」と書いて続きを待った。クラスメイトた
ちも、映画のクライマックスを待ちかまえる観客の表情で、めぐみを見つめてい
る。この瞬間に限れば、星南高校中で最も静かなクラスは二年一組だったにちが
いない。
めぐみはそんなクラスメイトたちを、心の底から憎んだ。
「どうしたの、立川さん?」小沢律子が優しい声で訊いた。「別に、誰の名前が
書かれていたって遠慮することないのよ」
何人かがこらえきれずに吹きだした。小沢律子は、わざとらしく唇に指をあて
てクラスメイトたちを制すると、めぐみに向き直って言った。
「はい、いいわよ。名前は?」
「たちかわめぐみ」
めぐみが震える声でそう言うと、その時を待ちかまえていた生徒たちは、一斉
に歓声をあげた。わざとらしく身体をそらせている者、机をばんばん叩いている
者、残酷な喜びを楽しむように薄笑いを浮かべている者、仕方なく笑いに同調し
ている者。その一つひとつの笑いが、無数の毒針のように、めぐみに突き刺さっ
ていた。
しばらくの間、隣にいる人間の声も耳に入らなくなるぐらいの騒乱が、二年一
組を支配した。めぐみはその騒ぎを苦しむよりも、むしろ歓迎した。このまま続
けば、隣のクラスで授業中の教師が様子を見に来るだろうから。そうなれば、下
らないアンケート用紙の続きを読み上げる苦痛から解放される。
だが、小沢律子はそんなに簡単にめぐみを解放する気はないようだった。すぐ
に手を振り回してクラスメイトたちの注意を引いた。
「はいはい、みんな静かに。静かに!」声が通るようになると、小沢律子は唇に
人差し指をあてた。「隣から文句が来るでしょ。まだ、続きがあるんだから」
たちどころに教室は静まり返った。小沢律子は満足そうに微笑むと、立ちつく
していためぐみを振り返った。
「邪魔しちゃってごめんなさい。誰だったっけ?ああ、そうか、立川めぐみさん
ね」
小沢律子は、黒板にめぐみの名前を書くと、その下に横棒を引いた。そして、
めぐみを優しくうながした。
「続けていいわよ、立川さん」
めぐみの顔に純然たる苦痛の表情が刻まれた。小沢律子を含むクラスメイト全
員が、それを目にしたはずだったが、思わず顔をそらした者は少数派だった。助
けの手はどこからも伸びてはこない。
「早くしてよ」小沢律子が苛立ったように囁いた。「みんな待ってるでしょ」
抵抗も哀願も無駄であることは、これまでの体験から明らかだった。めぐみは、
次の質問を口にした。
チャイムが鳴り響き、ようやくめぐみは、永遠に続くかと思われた苦悶から解
放された。気力も体力も、絞りつくされたレモンのように消耗しきっている。自
分の名前を、様々な形容詞と共に喋り続けることを強要されれば、大抵の一七歳
の少女が疲労困憊するだろう。
めぐみはクラスメイトたちの嘲笑を背に受けながら、ふらふらと教室からさま
よい出た。自分でもどこに行くのかわかっていなかった。そもそも、自分が行き
たい場所など、この世界のどこにもないような気がしていた。少なくとも、星南
高校の中にないことは確かだった。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう。入学したときは、将来には夢と
希望しかないように思われたのに。大人への第一歩。学ぶべきことや体験すべき
こと。新たな友情や夢想的な恋への期待。厳しい陸上部の練習や、眠い目をこす
りながら勉強したテスト期間さえも、今のこの状態に比べれば、楽園のような日
々だった。まさか、たった一度の、しかもめぐみのせいとはいえない小さな出来
事が、その後数ヶ月にわたってずっと尾を引くことになろうとは。
三時限めの始まりを告げるチャイムが鳴ったとき、めぐみは教員用駐車場を抜
けて、学校の外にさまよい出ていた。
あの子、どこか様子がおかしい。偶然、めぐみが学校から出ていくのを見かけ
た由希は眉をひそめながらそう思った。無断で校外に出ることは、もちろん禁止
されていたが、由希は生徒のエスケープぐらいは大目に見ることにしている。生
徒には生徒なりの事情や衝動もあるだろうし、基本的に人に迷惑をかけなければ、
街をうろつこうとどうしようと、それほど気にかけていない。
だが、今目にした生徒は、退屈な授業をさぼって息抜きに行く、とか、こっそ
り昼休みに食べるドーナッツを買いに行く、といった様子ではなかった。
確か二年生の生徒だった。さすがの由希も、一、二年生の生徒の全ての顔と名
前を記憶しているわけではないが、一度見た顔は絶対に忘れない。
由希は少し迷った。が、幸い、三時限めは授業がない。由希は教員用ロッカー
に急いだ。靴を変えて追いかけてみるつもりだった。