AWC 代償   第二部  3    リーベルG


        
#4080/5495 長編
★タイトル (FJM     )  97/ 8/17   0: 5  (182)
代償   第二部  3    リーベルG
★内容

                3

 日曜日、由希は静かな廊下を歩いていた。手には、かすみ草を中心にアレンジ
された花束を持っている。
 知らない人が見たら、この廊下を病院のそれとは思わないだろう。たいていの
病院にある様々なもの、消毒薬の匂いや白衣を着た看護婦、呼び出しの放送、救
急車のサイレンなどが皆無だからだ。廊下の壁の色も、ホワイトやグリーンなど
ではなく、暖かく落ち着いたベージュである。天井に長い間隔で埋め込まれてい
る照明も、柔らかくにじみ出すような光に調節されていて、それを補うように、
同色のフットライトが設置されている。パンプスの足音が響かないのは、毛の短
い絨毯が敷かれているからである。
 由希は慣れた足取りで廊下を進むと、突き当たりの鍵のないドアを開いた。
 緑の鮮やかな色彩が由希を迎えた。
 そこは小さな公園ほどの広さを持つ中庭になっていた。地面は緑で覆われてい
たが、手入れされた芝生などではなく、半分が青々とした牧草だが、残りは雑草
だった。あちこちに一見無造作に、小さな花壇が配置されていたが、飢えられて
いるのは、パンジーやチューリップのような観賞用の草花ではなく、タンポポや
クローバーといった、ある人々にとっては何の価値もない植物達だった。イチョ
ウやカシの木も何本か天に伸びている。
 中庭には、コテージのような木造の建物が六ヶ所に建てられている。配置は均
等ではないが、ばらばらという印象は受けない。
 由希はコテージの一つに歩み寄った。木目が美しく強調されているが、見た目
だけではなく、実用性を十分に考慮して設計されていることを、由希は知ってい
た。
 ドアをノックする。脇に打ちつけられた白樺の切り株には、細いペンキの文字
で、「Kana Usui」と書かれている。
 すぐにドアが開き、克也が顔を見せた。
 克也はサマーセーターと、薄手の綿パンというラフな格好で、温和そうな笑み
を浮かべている。美奈代の拉致を命じた男と同一人物には見えない。
「由希さん、待ってたよ」
「遅くなっちゃってごめんなさい」
「どうぞ。香奈が待ってる」
 克也は由希を招き入れるとドアを閉めた。そのまま先に立って歩き出す。
 短い廊下を曲がった先は、趣味のいい調度が揃った小さなリビングになってい
た。小テーブルを囲んで、適度に柔らかそうな、ゆったりしたソファが三つ並ん
でいる。
 その中の一つに座っていたレモン色のワンピースを着た女性が、由希の姿を見
ると飛び上がらんばかりに立ち上がって、喜色満面で叫んだ。
「由希さん!」
「はーい、香奈ちゃん」由希も心からの笑みを浮かべた。「お久しぶり」
 香奈と呼ばれた女性は、小走りに近寄ってくると、歓声をあげながら由希に抱
きついた。ショートカットとふっくらした顔立ちで、女性というよりは少女の領
域に分類されるようだが、実際には二十歳まで数ヶ月を残すだけである。
 克也に笑われて、渋々由希の身体から離れた香奈は、ふくれっつらで文句を言
った。
「いいじゃない、久しぶりなんだから」
「久しぶりかもしれんが、由希さんを座らせてあげたらどうなんだ」克也はおか
しそうに言った。「忙しい中、訪ねてきてくれたんだぞ。お茶の用意だってでき
てるんだろ?」
「あら、やだ。お湯かけっぱなしだった。兄さん、火止めてきて。早く!ダッシ
ュ!」
 克也は何かぶつぶつ言いながら、奥に続くキッチンの方へ姿を消した。由希は
くすくす笑いながら、香奈に花束を渡した。
「わあ、ありがとう、由希さん。早速、花びんにさしとくわね」香奈は嬉しそう
に花の匂いをかいだ。「きっともってきてくれると思って、花びん空けといたん
の。あ、どうぞ、座ってて。今、お茶の用意するからね。ここの温室で採れたハ
ーブティーだよ」
 香奈は花束をかかえて、キッチンの方へ走っていった。入れ替わりに克也が戻
ってきて、ソファのひとつに座り込む。
「元気そうね」由希は小声でそう言うと、キッチンの方を指さした。「顔色もい
いようだし」
「由希さんが来るって聞いてからな」克也はタバコを取り出したが、すぐに苦笑
しながらしまった。「ここは禁煙だった。でも、先週は発作があったらしい。す
ぐ収まったようだがな」
「何かあったの?」
「いや。夜中だったらしいから、夢でも見たんだろう」
「薬は?」
「いや。すぐに落ち着いたから」
「そう。よかったわ」
 由希は春の光のように暖かい笑みを浮かべた。そのまま表情を崩さないまま、
囁くような声で言った。
「この前は世話になったわね」
 克也は小さくかぶりを振った。
「まだ続くんだろう?」
「もちろんよ」
「何かあればいつでも言ってくれ。次の計画も立ててあるんだろ?」
「もう始めてるわ。ありがとう」
 香奈が戻ってきた。ティーポットとカップの乗ったトレイを、両手で持ってい
る。克也が手を貸そうと立ち上がりかけたが、香奈は首を振って自分でテーブル
の上に置いた。
 手際よくカップが配られ、ポットから心地よい芳香のハーブティーが注がれる。
「このクッキーも、あたしが焼いたのよ」香奈はキツネ色のクッキーが盛られた
皿を由希にすすめた。「ちょっと形が不揃いだけど」
「おいしそうね。じゃ、遠慮なく」
「どれどれ」
 克也が手を伸ばしたが、香奈がぴしゃりと叩いた。
「何するんだよ」
「お客様が先でしょ」香奈は兄を睨んだ。「さ、由希さん、どうぞ」
 むしろ克也のために、由希はクッキーをつまんで口に運んだ。にっこり笑って
感想を口にする。
「とってもおいしいわ。甘すぎないし、さっくりしてて」
「よかった」
 克也が、もういいか?とでも言うように香奈を見た。香奈は鷹揚に頷いて許可
した。
「砂糖が足らないんじゃないか?」克也は二、三個いっぺんに口に放り込んでお
きながら、文句を言った。
「いやなら食べなくてもいいのよ」
「まあ、少しはましになったかな」克也はにやにや笑った。「この前みたいに塩
が入ってるより、ずっといいな」
「ばか」
 三人はとりとめのない話をしながら、楽しい時間を過ごした。香奈の身体のこ
とも話題になった。香奈自身が笑い話のように口にしたのだった。以前は、遠回
しに言及することさえできなかったのだから、香奈の病状は確かによくなってい
る、と由希は安堵していた。
「そういえば由希さん、学校の方はどう?」香奈が訊いた。「この前、新聞で由
希さんの学校のこと読んだよ。誰か自殺したって」
 由希と克也は、視線を交わすことさえしなかった。
「うん、まあね。ま、いろいろあるのよ。高校生と言っても、もう大人みたいな
ものだし」
「でも、由希さんのクラスだったんでしょ?」
「香奈」克也が静かにたしなめた。
「いえ、いいのよ」由希は軽く笑った。「そう。私がもうちょっと早く気付いて
あげていればよかったのに、って思うわ。教師失格ね」
「そんなことないよお」香奈が手を伸ばして、由希のそれに重ねた。「由希さん
は、絶対すごい先生だよ。あたしだって、由希さんがいなかったらどうなってた
かわからないもん!」
 ふと涙ぐみそうになって、由希は慌てて目をしばたいた。
「なんか照れるなあ、そんなこと言われると。この話はもう、おしまいにしよ。
ね?」

 気がつくと、由希の予定していた二時間はとっくに過ぎていた。由希は慌てて
帰り支度をすませると、名残惜しそうにしている香奈を軽く抱きしめた。
「それじゃあね、香奈ちゃん。また来るから」
「絶対よ、由希さん。待ってるから」
「早くよくなるといいわね」由希は頬をつけて囁いた。「元気でね」
「うん。由希さんも先生がんばって」
「ありがと」由希は、そばに立っていた克也を見た。「克也さん、駅まで送って
もらっていい?」
「ああ、もちろん」
「お兄ちゃん、運転気を付けるのよ」香奈はようやく由希を解放した。「事故っ
たら、お兄ちゃんが死んでも由希さんを助けるんだからね。わかった?」
「はいはい」克也は肩をすくめた。「なんて妹だ、まったく」
「当たり前でしょ。由希さんは、可愛い妹の命の恩人なんだから」
「確かにそうだ。可愛いってところ以外は正しいな」
「なんですって?」
「行こうか、由希さん」克也は由希を促した。「電車の時間に遅れる」
 もう一度別れを告げ、さらなる来訪を約束させられ、由希はコテージを出た。
香奈は手を振って見送っていた。
「よかったわね」中庭を抜けて廊下に本館の廊下に戻ると、由希は嬉しそうに克
也を見た。「安心したわ」
「由希さんのおかげだよ」
「私は何もやってないわよ。香奈ちゃん、もともと強い子だったから。それに、
ここの先生たちも優秀な人ばかりだしね。もちろんあなたもね」
 そのとき、廊下の向こうに一人の男が現れた。男は二人の姿を見ると、急ぎ足
で歩いてきた。
「やあ、橋本さん。今日、来ると香奈ちゃんから聞いていましたよ」
「お久しぶりです、如月先生」
 如月は大男だった。身長は一九〇センチを越えていて、天井に頭が届きそうだ
った。いかめしい顔の下半分は、長い髭で覆われている。まくりあげたセーター
の袖口から伸びる太い腕にも濃い体毛が渦巻いている。何の情報も与えられなけ
れば、十人が十人、山男、だと思うにちがいない。
 実際には、日本とアメリカ、そしてドイツで医学を学び、博士号を三つ持って
いる医師である。特に、臨床心理学の分野では知らない人間はいない。どちらか
と言えば、研究に比重を置いた生活をしているが、ここ、如月ハウスと呼ばれる、
個人経営の療養所の責任者でもある。
「香奈ちゃん、元気そうですね」由希は如月と握手しながら言った。「先生のお
かげです。ありがとうございました」
「ぼくは大したことはしていませんよ」如月は、野性的な風貌からは想像もでき
ないほど優しい声で答えた。「香奈ちゃんは強い子なんです。それに、あの子が
あそこまで回復したのは、あなたのおかげですよ。由希さん」
「そんな、私なんか」
「そういえば、由希さん、教職につかれたとか」
「ええ。この春から、高校で世界史を教えています」
「新聞で読みました。痛ましいことですね」如月は元気づけるように、大きな手
で由希の肩を軽く叩いた。「しかし、惜しいですね。まだ、ぼくのところに来る
気にはなれませんか?あなたなら、ここの優秀なスタッフになれるでしょう」
「ありがとうございます」由希は微笑んだ。「でも、教師も大切な仕事だと思っ
ていますから」
「おお、それはもちろんですよ。まあ、その気になったら、いつでも来て下さい。
私はあなたをあきらめませんからね、由希さん」
「先生」克也が笑いをこらえかねて噴き出した。「まるで、ふられた男が想いの
丈をぶちまけてるみたいだぜ」
「いや、全く」如月も笑い出した。「私に妻と四人の子供さえいなければ、この
まま連れて帰りたいぐらいですからね」
「教師をクビになったら、先生に雇っていただきます」
「由希さん、そんな約束しない方がいい」克也は真面目な顔に戻った。「この先
生、学校の理事長に手を回して由希さんをクビにしかねないよ」
「ああ、それはいい考えですね、克也君」如月も真顔で頷いた。「何という学校
でしたかね?」
「ちょっと先生」由希は少し不安そうな顔になった。





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