#3938/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/ 6/15 23:53 (198)
【迷昧】3 悠歩
★内容
「うん、静姉もいま、半年くらい前からつき合っている人がいるの」
時折、琴音は静音を「しずねえ」と呼ぶ。
聞き慣れぬうちは、時々妙な発音をしていると思ったが、いまでは裕樹もそれ
を聞き分ける事ができる。
双子ではあっても微妙に姉、妹の関係が存在するのだなと感じつつ。
「それでね、その事でいろいろと悩んでいるみたいなの」
琴音には申し訳ないが、裕樹は心が晴れていく想いだった。
なにか沈んで見えた琴音の悩みは、姉の悩みだったと言うのだ。
自分とのつき合いに不満を感じての事ではなかったのだ。
本当のところ、それさえ分かってしまえばその後の話はどうでも良かった。
しかしそんな事を態度に出すわけには行かない。まして琴音は、双子の姉妹で
ある静音より、裕樹を近くに感じてると言ってくれたのだから。
「悩んでいるって、その人とうまく行っていないとか?」
本心からでは無いが、心配するような口調を作る事が出来た。
だが、よくよく考えてみれば静音とその男性との事も、裕樹にとってまんざら
無関係ではない。
そもそも裕樹が琴音に告白をする決心が出来たのも、静音のおかげと言ってい
い。そう考えれば裕樹は静音に恩があるわけだ。
そして何より重要なのは、静音が琴音の双子の姉であると言う事実だ。
心優しい琴音が、静音を差し置いて自分だけが幸せになる事を、よしとするは
ずがない。
現に、今日のデートでその静音のことで落ち込んでいたではないか。
「うん、それがね。その相手に、別に好きな人ができたらしいの………それで静
姉、その人に別れて欲しい、って言われたらしくて」
「酷いやつだなあ………」
この言葉は裕樹の本心から出たものだった。
琴音と同じ容貌と性格を持つ静音。もっとも裕樹がつき合っているのは、静音
ではないので性格がどこまで一致しているのか、定かではないが。その静音に別
れ話を持ち出したという、男の神経が信じられない。
少なくとも、裕樹の方から琴音に対し、別れ話を切り出すなどと言う事は絶対
に考えられなかった。
「あ、あれ、琴音ちゃん?」
興奮していたため、すぐに気づくことが出来なかったが、いつの間にか俯いた
琴音の肩が震えている。
ぽつ、ぽつ、とテーブルの上に落ちていく雫。
琴音は泣いていた。
姉の辛い気持ちを思っての涙だろうか。
「こ、琴音ちゃん」
女の子に泣かれるという状況に、どう対応してやるべきか。即座に答えを出せ
るほどの経験は、裕樹にはない。
あたふたと考えを巡らした後、ハンカチを手渡してあげようと思いついた。
しかしようやく、ハンカチを取り出して差し出し掛けた時には、既に琴音自身、
自分のハンカチを目に充てるところだった。
「ありがとう、裕樹くん」
裕樹の手にあるハンカチに気がついた琴音が、赤く潤んだ瞳で微笑む。
「あの、ぼくでよかったら何でも協力するよ。いつでも言ってよ。必ず飛んでいっ
て、力になるよ」
何が出来るわけでもない。
分かってはいたが、そう言うしかない。
「うん………いまは大丈夫だから。もし、もし本当に困ったことになったら、裕
樹くんに頼るかも知れない。その時は、お願いね」
「ああ、もちろんだよ」
裕樹は胸を張ってみせた。
その日は朝から嫌な天気だった。
どんよりと厚い雲が空を覆い、昼過ぎから雨となった。
強く降り出したかと思えば、突然ぴたりとやむ。
やんだかと思い空を見上げれば、小雨が顔を濡らす。
裕樹は自室の勉強机に向かってはいるものの、何をするでもなく、無意味に開
かれた参考書と窓の外とを交互に見ていた。
時刻は午後七時になろうかとしている。
今日は毎週楽しみにしているテレビ番組のある日だが、何だか観る気にはなれ
ない。ビデオのタイマーはセットしてあるので、リアルタイムに観る必要もない
のだが。
憂鬱。
何があった訳でもない。
いや、何もなかったからかも知れない。
今日はほとんど、琴音と話す機会がなかった。
もともと学校内では、それほど話をすることはない。
琴音とつき合っていることを、周囲に自慢したい気持ちはある。けれど人気者
の琴音が、特に秀でたところのない自分とつき合っていると知れたら、みんなは
どんな目で見るのだろう。
そんな気持ちが裕樹のなかに、あったのかも知れない。
学校内での会話のほとんどは、琴音の方から話し掛けて来たものだった。
裕樹に比べれば社交的な性格の琴音は、誰とでも自然に話が出来る。
だから学校での二人の会話は、表面上、琴音と一クラスメイトの間で交わされ
るものにしか見えなかった。
もちろん琴音と話しているとき、裕樹は優越感に浸っている。この会話は特別
な物なのだ、と思いながら。そして授業中には、幾度となく、琴音の方に目でサ
インを送り、それが単に自己満足でないことを確認していた。
だが今日は少し、様子が違っていた。
今日の琴音は、ひどく無口だった。
友人たちが話し掛けても、上の空で自分の方から何か話す事はなかった。
そんな琴音を気にした友だちが、何かあったのかと訊ねても、
「ううん、なんでもないの」
と、どこか弱々しい笑顔を返すだけだった。
授業中、しつこいほどに送った裕樹のサインにも、一度として反応することは
なかった。
もしかすると、日曜日に訊いた静音の件が理由ではないだろうか?
そう考えた裕樹は、友だちを訪ねるふりをして静音のクラスに行ってみるが、
彼女の姿はなかった。
仕方なく友だちと他愛のない話をしながら、それとなく訊いてみると静音は風
邪で休んでいると言う事だった。
後で詳しい話を訊こうと思ったが、授業が終了すると共に裕樹が声を掛ける間
もなく、琴音は帰ってしまった。
その事がずっと気になって、裕樹まで気分が落ち込んだままでいた。
『電話してみようかな』
何度、そう思っただろう。
その度に電話の前まで行っては、何もせずに部屋に戻ってしまう。
そしてまた、こんどこそ電話を掛けようと、立ち上がったとき。
「裕樹、電話よ。今中さんって、女の子から」
母親の声がした。
「もしもし、裕樹だけど」
『…………』
「もしもし、琴音ちゃん?」
裕樹は母親に聞こえないよう声をひそめ、電話の相手に呼びかけた。
けれど、電話の相手は何も応えない。
しかし僅かに聞こえる息づかいから、それが間違いなく琴音であると確信する。
「何か………あったの?」
『私、裕樹くんしか………頼る人がいないの』
ようやく聞こえてきた、弱々しい琴音の声。
その声は、琴音が何かただならぬ状況に置かれていることを感じさせた。
「もしかして、静音さんのこと?」
すぐには答えが返らない。
身内の秘密を話すには、いくらつき合っている相手とはいえど、少し決心のた
めの時間を要したのだろうか。
『静姉が、出ていったの』
「よく分からないよ。出ていった、ってどう言うことなの? 気を落ちつけて、
分かるように話して………静音さんは風邪で寝ていたんじゃ、なかったの?」
裕樹が出来る限り優しい声で言うと、受話器の向こうから、大きく息を吐く音
が聞こえた。
琴音が深呼吸をしたのだろう。
『静姉、どうしてもあの人と別れたくないって………ここのところ、食事もほと
んどとっていなくて。それで身体をこわして、寝ていたんだけど』
「それが居なくなってしまったんだね」
『うん………たぶん、あの人に会いに行ったのだと思う。わたし、なんだか恐く
て………このままもう、静姉が帰って来ないような気がするの。こんなこと、マ
マには話せないし、もうどうしていいのか………』
終わりの方は涙声になっていた。
まだ裕樹には詳しい状況が分からなかったが、静音とその相手との間は、かな
り複雑に拗れているらしい。
キスの経験さえない裕樹に、なんとか出来るような状態とも思えないが、放っ
ておく訳にもいかない。琴音のためにも、出来る限りの力にならなくては。
「静音さんの、行き先は分かっているの?」
『たぶん……学校だと思う』
「学校? ぼくたちの学校なの!」
『うん』
「分かった、とにかくこれから学校に行ってみるから………」
『待って………わたしも行くわ』
「でも」
『お願い』
「………じゃあ、校門で待っている。すぐに家を出るから十分、遅くても十五分
後には着くから」
「うん、ありがとう………裕樹くん」
琴音が電話を切るのも確認せず、裕樹は受話器を置いた。
自分の部屋に駆け戻って、ジージャンと腕時計を取り、玄関にと急いだ。
「裕樹、こんな時間にどこに行くの」
後ろから聞こえてくる、母親の声にも振り返らず、「友だちのところ」と言い
残し、家を飛び出した。
にわかに強くなった雨が、傘を鳴らした。
腕時計の弱々しいライトが、デジタル数字を浮かばせる。
七時三十七分−−裕樹はもう二十分も、ここで琴音を待っていた。
琴音の家から学校までは、ゆっくり歩いても十分も掛からないはず。
自分が何か勘違いをしたのでは………そんな不安に捕らわれ、校門の外から中
を見渡してみる。
校舎は職員室にまだ明かりが灯っているが、他の教室に人の居る気配はない。
もとよりこの雨の中、グラウンドでの部活動は行われていなかったし、体育館
も真っ暗になっている。夏場でも、部活動は六時半までの決まりになっているか
ら、この時間には学校内に生徒は残っていないはずだ。
本当に、ここで静音は誰かと会う、いや会っているのだろうか。
「まさか職員室で?」
この時間、しかも雨の中。
明かりのない他の場所で、話をするとは考えにくい。が、すぐに職員室の明か
りが消されてしまった。
おそらく最後まで残っていた先生たちは、裏門を使うのでここにいても会うこ
とはないだろうが、これで外の街灯の他に、校内に明かりはなくなる。
校内に静音がいる可能性は、ほとんどなくなったように思える。
「どうしよう。ぼくの聞き間違い? それとも………」
琴音に何かあったのだろうか。
再び時計を見ると、もう四十分を過ぎていた。
このままここに立っていても埒があかない。
とりあえず校内に入ってみるべきか、それとも琴音の家に電話をするべきだろ
うか。
そのとき。
激しい雨音を割るように、ばん、と言う大きな音が聞こえた。
「なんだ、プールの……ほう?」
それは確かにプールの方から、聞こえてきた。
何か大きな物を、水面に叩きつけた音。
傘をその場に置き、裕樹は服が濡れるのも厭わず、校門を乗り越えプールに急
いだ。
風が強く吹き、雨粒に殴られ顔が痛む。
一瞬、一際強い風が吹き抜けたかと思うと、雨は小降りになる。
「おい、誰だ? 何かあったのか」
もうプールに着くという寸前、不意に声を掛けられ、裕樹は身体を跳ね上がら
せて驚いた。足がもつれて、転びそうになるのをなんとか堪えた。
「た、高橋先生」
裕樹は声を掛けてきた相手の顔を見て、その名を呼んだ。
怪訝そうに裕樹を見ているのは、美術教師の高橋だった。
「君は確か………橘ひろゆきくんだったかな」
「裕樹です」
高橋の間違いを訂正しながら、裕樹はそんなにも校内での自分の印象が低いの
かと思った。