AWC 代償   第一部  9    リーベルG


        
#3903/5495 長編
★タイトル (FJM     )  97/ 6/ 9   4:51  (164)
代償   第一部  9    リーベルG
★内容

                9

 翌日、田上紀子は約束通り登校していた。ホームルームでそれを確認した由希
は、ほっとしたが、顔には出さずに出席を取った。紀子が何度か問いかけるよう
な視線を送ってきたが、あえてそれには答えなかった。
 一限目は世界史の授業だった。中間テストの後、二組で世界史の授業を行うの
は、これが最初だった。
「みんな思い出したくもないかもしれないけれど」由希はにやりと笑って、教室
の中を見回した。「中間テストの問題の復習をやります」
 不満というより、不審のざわめきが走った。一通りの答え合わせは、答案を返
した日に行っていたのだから。
「先生」美奈代が手を上げて発言した。「答え合わせなら終わってますよ」
「あれは答えを言っただけでしょ。今日は、詳しく解説しながら、みんなの記憶
を確かなものにしたいと思ってね」
 由希は黒板に最初の問題を書いた。振り向くと一人の生徒を指名する。
「檜垣くん。君はこの問題を間違えてたわね」
「はい」指名された男子生徒は、びっくりしながら立ち上がった。「よくおぼえ
てるなあ」
「先生を甘く見ないでね。今ならどう?答えがわかる?」
「都市の空気は自由にする。このことわざの自由とは何からの自由か?また、こ
のことわざが正確ではない理由を述べよ」男子生徒は上を向いて記憶をたどった。
「えーと、最初の答えは、封建領主からの自由です」
「そうね。中世ヨーロッパの都市は、唯一、封建領主の支配が届かない場所であ
ることは知ってのとおり。では設問2は?」
「えーと、その、忘れました」
「座って」由希は次の生徒を指名した。「高木さん。どう?」
 立ち上がった女子生徒は懸命に答えを考えたが、やがてギブアップした。由希
は頷いてその生徒も座らせた。
「まあ、無理もないわね。この問題ができた人は一人しかいなかったんだから」
 再びざわめきが教室を駆け抜けた。それは、由希が次の生徒を指さしたとき、
さらに高まった。
「田上さん。みんなに答えをきかせてあげて。唯一の正解者として」
 突然指名された紀子は真っ赤になりながら立ち上がった。
「中世の都市にはギルドが事実上支配していたため、本当の意味での自由はなか
ったからです」
 生徒たちは声もなく紀子を見つめた。ほとんどは素直な驚きの表情だったが、
中には敵意を浮かべている生徒もいた。
「そのとおりね。ありがとう」由希は紀子を座らせると、教室を見回した。「こ
の問題を出したのは、通りいっぺんの年号や人名を暗記するだけでは、歴史とい
うものを理解したことにはならない、ということを知ってもらうためよ。ある事
件はただ起こるわけではないの。必ず原因と結果があるということを忘れないで。
それさえしっかり掴んでいれば、年号や人名は自然と頭に入ってくるのよ」
 由希は次の問題を黒板に書いて読み上げた。
「十字軍と都市の成立の関係を、次のキーワードを用いて、百字以内で述べよ。
貨幣。商人。港市」
 由希はゆっくりと振り向くと、静まりかえった教室内を見回した。
「この問題の配点は十点。十点を取った人はいなかったわ。みんな安心していい
わよ」
 ためらいがちな笑い声があちこちで上がった。それが収まらないうちに、由希
は美奈代を指した。
「藤澤さん。十点に挑戦してみる?」
「は、はい」
 美奈代は立ち上がると、黒板に書かれた問題と、由希の顔を交互に見た。答え
はどちらからも得られなかった。
「ええと……」
「教科書を見てもいいわよ」
 美奈代は露骨にほっとした顔で教科書を取り上げ、該当のページをめくった。
由希が助け船を出してくれた、と喜びながら文章を追う。その顔に困惑の表情が
浮かんだ。
「十字軍が聖地エルサレムを奪回するために……ええと……港市から……」
 言葉が途切れた。由希は、美奈代の苦しみを長引かせることなく終わらせた。
「いいわ。座って」
 美奈代は沈んだ顔で腰を下ろした。数人の女子生徒がくすくす笑った。
「誰か答えられる人?」由希は生徒たちを見回した。
 名乗り出る者はいなかった。だが、何人かの生徒は、ある種の期待をこめて、
紀子の席に視線を送っていた。
「田上さん、どう?本番では八点だったわね。残りの二点を補ってみない?」
 またもや教室内はざわめいた。美奈代も驚きと疑いの視線で紀子を見た。
 紀子は悪いことでもしたような顔で再び立ち上がった。
「十字軍の遠征によって大量に人と物が移動したことは、物々交換経済を貨幣経
済へ移行させる大きなキッカケとなりました。それは商人や職人という階級を生
みだします。彼らは港市に集まり、やがて不定期な市場はお店となり、次第に都
市が成立していくことになります」
 紀子は心配そうに由希を見た。由希は満足そうに頷いた。
「ほぼ完璧。ちょっと字数をオーバーしてるようだけど、そんなのは紙に書いて
調整すればいいことだしね。ありがとう」
 今やほとんどの生徒たちが、驚嘆と後ろめたさの混じった視線を紀子に注いで
いた。悔しそうに歯を食いしばっているのは美奈代だけである。
「こういう問題が多くて、みんな戸惑ったと思うけど、歴史を点として捉えるの
ではなく、線として捉えるのはとても重要なことなの。ばらばらに年号をおぼえ
て、人の名前をおぼえて、地名をおぼえていても、役には立たないわ。実際、入
試でも、そういう単発の情報で取れる点なんてたいしたことはないし、出題され
る数も少ないのよ。受験で世界史が必要な人はもちろん、そうでない人にもこの
ことはおぼえておいてほしいわね」
 生徒たちは感心したようにうなずいた。
「もう一つ、こういう問題を出す利点は、カンニングがしにくい、というかほと
んど不可能だってことね」
 その言葉に全員が衝撃を受けたのがわかった。もちろん、美奈代と紀子のそれ
はクラスメイトたちを大きく上回っていた。
「どうしてカンニングの話を持ち出したかというとね、昨日先生のところに手紙
が届いたの」由希は手紙の内容を簡単に話した。「本来、手紙の内容は秘密にし
ておくべきなんだろうけど、差出人の名前がなかったし、そういう誤解をいつま
でも残しておきたくなかったから、あえてみんなの前で言うことにしたの」
 美奈代は真っ赤な顔で机の表面を凝視していた。何人かがそれを盗み見してい
る。由希はちらりと美奈代を見ただけで、穏やかな口調で続けた。
「普通、カンニングするときはカンペ作るわよね。そんなに大きなカンペを隠し
て持ち込めるわけないから、小さな紙切れになる。そこに書き込める情報ってど
んなものになると思う?立川くん?どう?」
「なんでおれに訊くんかなあ」
 その男子生徒はおどけた口調で文句を言い、クラスメイトたちはどっと笑った。
「あくまで仮定の問題よ。もちろん」
「仮定ね。そうだなあ。まあ、年号とかややこしい人名とかかなあ」
「じゃあ、こういう問題でカンニングするとしたら、何を書けばいいと思う?」
「うーん。問題がわかってるなら何とかなるかもしれないけど……」
「問題はわかるわけないわ。先生が、これを刷ったのは試験当日の朝だったんだ
から」
「うーん。じゃあ、ちょっと難しいな」
「ちょっと?」
「ああ、んー、不可能かな、やっぱし」
「ありがとう。君がそう言うなら誰だって不可能でしょうね」
「だから、何でおれなんだよ、しっつれいだよなあ」
 クラスメイトたちがげらげら笑う中、男子生徒は着席した。
「そういうわけ。少なくとも世界史に関して言うと、カンニングは不可能よ。た
とえやったって、何点か稼ぐのがせいいっぱいってこと。わかったでしょ?」

 授業が終わった後、クラスの空気は一変していた。
 一時間前まで、得意満面だった美奈代は、じっと机を見つめたまま一言も口を
開こうとしなかった。いつも「由希先生のお気に入り」にくっついているクラス
メイトたちも、さすがに近寄ろうとはしない。
 反対に紀子の席の周りには、大勢のクラスメイトが集まっていた。何人かが紀
子に対する仕打ちを素直に謝罪し、紀子が照れながら、気にしてないよ、と答え
た後、クラスメイトたちは争って紀子と話をしたがった。中には、前から美奈代
が気に入らず、その権威があっさり失墜したことで、意地の悪い喜びを感じてい
るクラスメイトもいたにちがいない。
 クラスメイトの何人かは、あからさまに美奈代の方を見ながら、素直に謝れば
いいのに、という意味の言葉を聞こえよがしに囁き交わしていた。美奈代も後悔
していなかったわけではないだろうし、もし、仮に紀子が先に和解の言葉をかけ
ていれば、多少の逡巡はあっても最後には自分の過ちを認めたかもしれない。だ
が、さすがの紀子も、そこまで寛大になれるような気分ではなかった。
 いつもは休み時間が待ち遠しい美奈代だったが、今日ばかりは次の授業が待ち
遠しかった。授業の間の五十分だけは、クラス中の囁き声から逃れることができ
る。針のような軽蔑の視線だけは避けようがなかったが。
 騒がしい昼休み、そして午後の授業と、美奈代にとっては苦痛の時間がのろの
ろと過ぎていった。

 六時限目が終わると、美奈代は誰かが声をかけてこないうちに、急いで教室を
飛び出した。いつもなら、何かと口実をつけて職員室に行き、由希と話をするの
だが、今日は敬愛する先生の顔をまともに見る自信がなかった。もし、由希に素
っ気なくあしらわれたりしたら、二度と学校に来る勇気がなくなるのがわかって
いたからだ。
 家に帰って勉強する気にもなれなかった。親との下らない会話、退屈なテレビ、
読みかけのコミック雑誌などの日常が耐えきれなくなった。
 美奈代は自宅とは反対の方向へふらふらと歩き出した。

 駐車場に停めた車の中から、由希は重い足取りで歩いていく美奈代を見ていた。
その口元には残忍な喜びの笑みが浮かんでいる。美奈代の姿が駅とは反対の方向
へ消えていくと、由希は携帯を取り上げ、昨日と同じ番号をダイアルした。
『もしもし』男の声が答えた。
「私よ」由希は早口で言った。「今、学校を出たわ。駅と反対の方へ歩いてる。
そっちの用意は?」
『駅と反対か。わかった、そっちへ動かす。部屋と車と必要な道具は用意したよ』
「大丈夫でしょうね?」
『まかせとけ。万が一、サツに目つけられても、あんたのことは一言も言わねえ
よ』
「いいわ。どこでやるかは任せるわ。あまり遅くならないうちに帰してやってよ」
『わかってるよ。さらったら連絡するよ』
「待ってるわ」
 由希は電話を切った。そして、普段の由希からは想像もできないような冷たい
笑みをバックミラーに映した。
「最初の一人ね」
 そうつぶやくと、由希は笑みを消し、何事もなかったように車を降りると、掃
除当番の生徒を監督するために、校舎の方へと歩き出した。





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