AWC ナコンラチャシマの星はラビナルの太陽(10)  横山信孔


        
#3741/5495 長編
★タイトル (YOK     )  97/ 1/26  22:18  (191)
ナコンラチャシマの星はラビナルの太陽(10)  横山信孔
★内容

                                   †

  岡田はフラフラと隊員宿泊所から表へ出て街を歩いた。今日初めての外の光は、
悲しいほど眩しかった。岡田は目に痛みを感じて幾度か指で擦った。岡田は首都
をよく知らない。だからブラブラと、あてもなく気の向くままに散歩してみるの
も悪くないな、と心の中で呟いた。そして、右を見たり、左を見たり、前へ進ん
だり、後ろを振り返ったりして歩いた。
  7番通りを北に向かった。
 あるショッピング・モールの塀にもたれ掛かった少年がいる。彼は岡田を見た。
岡田も彼を見た。少年は岡田に近付いて恥ずかしそうにボソボソと言って、右手
を差し出した。小銭を少しわけてくれ、と言ったのだろう。彼のだらしなく着た
汚いシャツが、岡田の目を刺激した。
 岡田はやり過ごして半ブロック歩いたが、思い留まって振り向いた。少年は遠
くで立ち止まって、まだ岡田を見ている。彼の脇を数人の通行人が通り過ぎてい
た。岡田はポケットに手を突っ込み、小銭があるかどうかを確かめた。そして少
年の方へ引き返し、彼の手に数枚の貨幣を渡した。
 彼は「グラシアス」と言って少し笑ったが、岡田は無表情のままもう一度北へ
向かって足を進めた。少年は右手の銀貨を数えると、ポケットにそれを押し込ん
だ。そしてまたショッピング・モールの塀にもたれ掛かって、通行人の流れに目
をやった。
  1ブロック進むとイタリア料理店があった。
 その店の前の通りで、13歳くらいの少年が信号待ちしている車の窓ガラスを
コンコンと叩いている。よく見ると右手に薔薇の花束を持っていた。運転手を相
手に、薔薇を売っていたのだ。
 見たところ誰も買ってくれる気配はない。
 大通りの真ん中まで進み、それぞれの車の窓を叩いてまわったが、誰も相手に
していなかった。やがて信号が青になり、彼は危なっかしく車のあいだを通って
歩道へ戻ってきた。外灯の脇に置いてあるバケツの中の薔薇を2、3束抱え、振
り向いてもう一度車の流れを見た。
 岡田はそんな彼ををぼんやりと立ち止まって見ていた。しばらくすると彼は岡
田に気がつき目を合わせたが、彼は何も言わず、すぐに目をそらして信号が赤に
なるのを待った。
  岡田のすぐ脇を、オンボロなバスが黒煙を撒き散らして通って行った。岡田は
鼻と口を手のひらで覆ってむせ込んだ。近くにいたおばさんも、顔をひきつらせ、
「なんて排気ガスなの。もう嫌ねぇ」と目で語りかけた。岡田は彼女の態度を読
みとったが、頭をぼりぼり掻き、無視して足を進めた。
 空を見上げると、さっきまで眩しく感じていた空も、いつもの首都の空のよう
にくすんで見える。それは首都の排気ガスなどによるスモッグのせいではないと
思った。
 岡田は朝からなにも食べていないことを思い出し、通りがかりのカフェテリア
に入った。内装は殺風景で、人はあまりいなかった。
 ひとつのテーブルを囲んで、昼からビールを飲んでいる男たちがいる。岡田が
入っていくと、彼らは一斉にその東洋人を見た。そしてコソコソと耳打ちをし、
ニヤニヤとほくそ笑んだ。
 岡田がテーブルについて待っていると、気のよさそうなセニョーラが注文を取
りに来た。彼女は日替わりランチがあると言うと、岡田はそれでいい、と言った。
他の女中がスープとトルティージャ(グアテマラの主食。トウモロコシの練り粉
を丸く直火で焼いたもの。)を持ってきた。岡田はまずスープをひとくち飲んだ。
 まだ例のテーブルの男のひとりが岡田を見ている。
 岡田はやりきれない気持ちになったが、そのまま自分を落ち着かせようと努力
した。

 昼食を終えてカフェテリアを後にし、岡田はまた30分ほど当てもなく歩いた。
そして大通りの銀行の前に腰をおろし、通りを行き交う車の流れを眺めた。ぼん
やりとしているのにも、少し疲れてきた。岡田は頬杖をつき、何度もため息をつ
いた。
 コレヲキョウクンニワタシタチモキヲツケナキャ..
 赤井の死は我らの教訓だったのか。
 なんという寂しい言葉なのか。
  岡田は空を見上げた。入道雲は何層にも影をつけ、奥行きが鮮明に現れている。
この空のかなたに、同じように赤井を偲んで、途方に暮れている人たちがどれく
らいいるのだろう。彼らの無数のため息が、いつか風に運ばれて、自分の頬を撫
でてくれはしないか。
 岡田は小さくぽっかりと口を開け、空を見上げ続けた。
 そしてため息をつき続けた。
 いつかグアテマラの風が、どこか遠い赤井の知り合いに運んでくれるかもしれ
ないと思ったからだ。

  岡田の横を子供連れの夫婦が通り過ぎた。グアテマラでは上流階級に属する家
庭だろうか。子供は両親の手にそれぞれ自分の両手をあずけて、スキップしなが
ら通り過ぎていく。岡田は目だけ少し動かして彼らの姿を追った。
 彼らも自分と同じ様に人の死を経験しているのだろうか。
 哀しくて、辛くて、寂しくて、悔しくてたまらない経験を持っているのだろう
か。
 いまは幸せであっても、きっといまの自分のような苦々しい過去を持っている
のだろうか。
 そしてその苦境を乗り越えて、笑い合える日を待ち望んでいたり、逆に恐れて
いたりした日々があったのだろうか。
 岡田の視界からその家族の姿が消えたとき、彼はそっと目をつむった。

  一体何時間街をぶらついただろうか。いままで見てきたグアテマラシティーの
街の風景や印象すべてが変わってしまったようだった。以前岡田が大失恋を経験
した翌日も、同じような光景を見た。朝起きてからすべての景色が変わったよう
な気がしたのだ。

                                   †

 午後4時前に宿泊所へ帰った。高柳が山木に電話する時間だったからである。
 岡田は相変わらず誰にも会いたくなかった。玄関を抜け、トイレに入って手と
顔を洗うと、すぐに図書室に入って意味もなく雑誌をひろげた。すると伊藤がや
ってきた。
 「岡田さん」と伊藤が声をかけた。「どうですか、最近の調子は?」
 日頃仲のいい伊藤にも返事をするのが億劫だった。「ぼちぼちです」と彼は雑
誌から目を上げずに答えた。
 「今度の休暇、コバンに来れるんでしょ。まえ約束しましたよね」
 「ええ..来週の連休ですね」岡田は目を伏せ「たぶん、その頃には..」とわざ
と意味深げに呟いた。
  「調子が悪いんですか? 顔色もあまりよくなさそうだし」伊藤は怪訝な顔つ
きで岡田を見た。
 「いえ、別に体の方は最近大丈夫です」岡田は伊藤の顔を見た。
 「じゃぁ他に何かあったんですか」
 岡田は答えず、手に持っていた雑誌をパタリと閉じて「また、そのことについ
ては今度お話します」と伊藤に言った。伊藤はよく分からないといった面立ちで、
岡田の顔をのぞき込むような格好をした。
 「でも、もしもコバンに行けないようでしたら、必ず事前に連絡しますよ」岡
田は言葉尻を切るようにはっきりと言った。
 「そうですか」伊藤はまた怪訝な顔をした。「でも、もし何か相談事があった
らいつでも言ってください。何かお力になれるかもしれませんし..」
 「はい」
 岡田のおかしな様子にたまりかねて、伊藤は図書室を出た。岡田は伊藤にどう
思われようが構わなかった。昔伊藤に随分好意を抱いた季節もあったが、いまそ
れはどうでもいいことのように思えた。そして(誰がどうお力になれるというの
だ..。)岡田のひねくれた考えが浮かび、「ソンナニショックダッタノカ」とい
う言葉もまた頭の中を回転しながら駆けめぐっていった。

 高柳が帰ってきた。足早に居間へ進むと、伊藤に「岡田さん、いまいる?」と
聞いた。
 「岡田さんなら図書室に」と伊藤が答えた。高柳が図書室へ駆け足で入ってい
くのを、伊藤は複雑な心境で眺めた。
 高柳が口を切る前に、岡田から「山木さんに電話したんですか」と尋ねた。高
柳はそれには答えず、うなだれて椅子に座った。「そのことで岡田さんの意見を
聞きたいんだけど」と言った。
 高柳は妙に慎重な調子で話し始めた。昨夜と同じ、いままで知っていた高柳と
は明らかに違う彼女だった。
 「はい、どうしたんですか」岡田は奇妙に思った。
 「実はいろいろ考えたのよ。あれから」高柳はため息を一度ついて続けた。
「山木さんに頼んで花を持ってってもらうのは、やめようと思うの」
 岡田は高柳の話を黙って聞こうと思った。いまここグアテマラでは、彼女だけ
が自分の気持ちを最も理解してくれる人物に思えたからだ。
 「山木さんが、花を赤井さんの家まで届けてくれるのは、物理的に何の問題は
ないと思う。でも..」高柳は目を伏せ、一度咳払いして言った。「でもそれは違
うと思うの」
 いつも冷静沈着な高柳が、少し取り乱して話す仕草を岡田はじっと見ていた。
  「私ははじめ赤井さんが亡くなったことを聞いて、ものすごくショックだった
の」
 高柳は両手を前で交差して、神経質に指を動かした。そういう素振りはいまま
で知っていた彼女には、あまりにも似つかわしくない。
  「私達がここグアテマラにいながら、それでも何かできることがないかってい
ろいろ考えたの」
 「はい、よく分かります。自分はそれでいいと思います」岡田は言った。
「ここにいて何もしないでただぼぉっとしているよりは、はるかにいいと思いま
す」
 岡田は何かしたかった。何か自己満足でもいいから、自分のできる範囲のこと
をやりたかった。何もしないでうじうじしている自分が腹立たしくて仕方がなか
ったのだ。
 「そうなんだけど..」
 高柳はテーブルの上に置かれた自分の両手を眺め、少しからだを震わせた。岡
田は彼女らしくない素振りにほんの少しの苛立ちを覚えた。
  「赤井さんの御両親のことを考えたのよ。いま彼の御両親がどんな気持ちでい
るかを。それなのに..」
 高柳は言葉につまった。それでも気丈な彼女は唇を震わせながら言葉を続けた。
 「突然見知らぬ人がやってきて、グアテマラの隊員からの花だから持って行っ
て欲しいって言われたって..」
 彼女は岡田の顔を見上げた。両目が真っ赤に染まって打ち震えている彼女がそ
こにいた。
 「まだ御両親だって..赤井さんをまだ見ないうちからそんな花を渡されたっ
て..もちろん、まだ信じられないと思うのよ。わが子が死んでしまったなんて。
彼を一目見るまでは。だってそうでしょう? その気持ちを考えたの。赤井さん
が日本を発つときには御家族だってどんな気持ちだったか..。にも拘わらず、ど
んな理由であれ彼は死んでしまったの。これから彼らは死んだ赤井さんを引き取
りに行くために飛行機に乗ってタイまで出かけるのよ。それを考えたら胸が張り
裂けるような気分に襲われたの..」
 すがるように高柳は岡田の目を直視した。
 「岡田さんはどう思う? これは私だけの考えなの。..ごめんなさい、自分で
花を持っていってもらおうと言っておきながら..」
 高柳の頬を一筋の涙が流れて落ちた。その涙は圧倒的な力となって、岡田の心
に迫ってきた。涙どころか、泣き言さえ一度たりとも言ったことのない高柳が、
訓練所でほとんど話をしたこともない赤井のために泣いているのだ。その両親の
胸中を察して泣いているのだ。
 なんという優美な涙なんだろう..。岡田は彼女が頬を真っ赤にして、唇を噛み
しめて、子供のように流れ落ちる涙を何度も何度も拭き続ける素振りを見てそう
思った。そして岡田はうなだれた高柳の髪にそっと指で触れた。彼女も岡田の腕
へと手を伸ばした。お互いの手の温かさが心の底へと伝わっていく。
 「僕も気付きませんでした。確かに赤井君の御両親のことを考えると、僕たち
は少しばかり出すぎた真似というか、失礼なことを考えていたかも知れません」
 「私に気を使わなくてもいいのよ。岡田さんがしたいようにして..これは私の
意見なんだから」涙を拭きながら彼女は言った。
 「いや、本当に自分もそう思います。自分ももっとよく考えていればよかった
です..」
 岡田はそう言って唇を噛みしめた。
  少しのあいだ、高柳は岡田の腕の中でうなだれて、目を指で撫でていた。そん
なときに伊藤が図書室に入ってきた。ふたりは互いの手を振り払った。高柳は岡
田から少し目をそらし、わざとらしく近くの小説に手を伸ばしてパラパラとめく
った。伊藤は間が悪かったことをすぐに察して、そそくさと図書室を出た。伊藤
の耳が真っ赤に染まっていることを岡田は確認した。岡田は少し目を細めて伊藤
の後ろ姿を見送った。
 「彼女、勘違いしたかな」高柳は伊藤が出ていったことを確認して言った。瞼
は真っ赤に腫れていた。
  「僕にはどうでもいいことです」
 岡田は本当にどうでもいいことだと思えた。




前のメッセージ 次のメッセージ 
「長編」一覧 横山信孔の作品
修正・削除する         


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE