#3732/5495 長編
★タイトル (YOK ) 97/ 1/26 21:43 (188)
ナコンラチャシマの星はラビナルの太陽(1) 横山信孔
★内容
ナコンラチャシマの星はラビナルの太陽
10月半ばになって、毎日晴天の日が続いていた。朝目が覚めて夜眠りに就く
まで雨音を聞くときがない。そんな日が続いていることに、岡田はちょっと感動
していた。その代わり、ときおり他の街からやってきた風が、乾燥した土埃を舞
い上がらせ、体にまとわりついてくる。岡田は土埃が舞うと、いつも右腕で目を
覆い、風下に向き直って足を止めた。
岡田和志は、グアテマラで本格的な乾期を過ごしたことがなかった。乾燥して
川の水が少なくなって飲み水が不足したり、作物の収穫がなくなったりしたらど
うなるのだろうか。確か近郊の街、サンミゲルチカで活動している先輩隊員は、
雨が降ると、蛇口から泥水が出て、雨が降らないと水が出なくなると言っていた。
ここラビナルでも同じなのだろうか。岡田はそんなことを考えながら、初めて迎
える乾期という季節に、多くの不安感とほんの少しの好奇心を抱いていた。
岡田は自分の家から2ブロック離れた田中の洋裁教室を訪れる途中だったが、
−まるで目的地が定まっていない旅人のように− ちょっと街角で興味がありそ
うなものや人物を見付けると、すぐに立ち止まったりした。いつも岡田は天気が
いいとき、又は気分がいいときは、このラビナルの街をゆっくりと歩く。立ち並
ぶコンクリート造りの家々を眺めながら、壁の染みや落書き、石畳の道の上に捨
てられた食べカスやあらゆるゴミ、動物の糞などを注意して見て歩いた。そして
その情景の中で行き交うインディヘナ(ラテンアメリカの先住民族の総称。『イ
ンディオ』は差別用語。)の人々や、遊びはしゃぎまわるその子供達が創造する、
2度と起こらないシーンとを組み合わせ、ラビナルという街に住み、そこで活動
している自分を心の底から実感し、味わってみた。
ラビナルで活動が始まってすでに半年近くが過ぎようとしていたが、岡田はい
まだにここグアテマラへ青年海外協力隊として派遣されたことを、夢のことのよ
うに思っていた。それは実体のないフワフワしたもののようで、隣街から吹いて
きた風に、土埃と一緒に舞い上がってしまいそうなものに似ていた。だからこそ
こうやって、ときおりラビナルに溢れる何でもない風景と、何でもない日常に自
分が置かれていることに心を奪われたりしてしまう。それは岡田にとって、ほん
のひとかけらの幸福が味わえるひとときだった。
田中の洋裁教室に着き、開け放たれた扉から中をうかがった。教室の中は厚い
壁に外の強い日差しが和らげられて薄暗い。田中は12人の生徒を前にして、ミ
シンの使い方を教えている最中である。生徒が足を動かす度に軽快なミシンの音
がトコトコと聞こえてくる。なぜだか分からないが、岡田はこのミシンの音を聴
くのが好きだった。昔小学生の頃、母親が使っていた足踏みミシンの音色を思い
出すからだろうか、実際のところそれは彼自身もよく分からなかった。
田中はラビナルの街の女性を対象に、洋裁教室を開いている。彼女は岡田より
も4ヶ月程先輩の隊員だ。家が近いこともあり、岡田にとっていま一番交流のあ
る隊員だった。
田中はすぐ岡田に気が付き、扉の近くに寄り添って微笑している彼へと近付い
た。岡田の全身は逆光で見え辛かったが、彼の表情は容易に読みとれた。
「今日はパティシュランには行けへんのですか?」
田中は笑顔で話し掛けた。
「3日後に行きます。今日はこれから首都に行くんですよ。それでその前にこ
こへ寄ろうかなと思って」
「あ、そうなん..」
岡田は彼女の生徒達にちらりと視線を移し、「授業中でしょ、休憩まで待ちます
よ」と気を使って言った。
「そしたらちょっと待ってな..。キリがつくまでもう少しやねんから..」
岡田は右手を挙げて「OK」の合図をし、少し吹き出しそうになるのをちょっ
と堪えた。田中は福岡の産まれらしいが、大学が大阪だったこともあって関西弁
を話す。しかしそれがオリジナルな関西弁ではないので、時々変な関西弁になっ
てしまうことが多い。いつだったか忘れたが、ラビナルの隊員4人が集まって田
中の家で夕食会をしたことがあった。そのとき、彼女が言った言葉がひどくおか
しかったので、皆でゲラゲラ笑った。彼女と話していると、その光景がまた甦っ
てきてしまうのだ。
岡田は扉の近くの傍らに立ち、田中の授業風景を眺めた。田中は足踏みが上手
くできないひとりのインディヘナに集中的に教えている。1ヶ月経っても足踏み
が上手くできない人もいると、以前彼女から聞いたことがある。いま田中が熱心
に教えている彼女もそういった生徒なのだろうか。その生徒は他の村ほど艶やか
な織物ではないが、いかにもラビナル織りらしい、青が基調のウイピル(インデ
ィヘナの伝統的民族衣装。各村でその織物のデザインや基本的な織り方までが異
なる。)を纏い、不器用にミシンと悪戦苦闘していた。
以前田中が岡田に大変興味深い話をしたことがある。田中のクラスの生徒はイ
ンディヘナとメスティーソ(インディヘナとスペイン系白人の混血)が半々くら
いの割合でいたが、両者共に、相手がまったく存在しないかのように振る舞うと
いうのだ。岡田ははじめ田中の言うことがよく分からなかった。しかし何度か彼
女の教室に足を運ぶにつれ、少しずつ分かってきた様な気がする。ある日メステ
ィーソのひとりの生徒がミシンでスカートを縫っていたとき、その布の一端が隣
のインディヘナのミシンまで覆っていた。そのインディヘナはその布が邪魔でミ
シンが使えない。にもかかわらず、両手をミシンの受け台の下に引っ込めて、布
がいつか自然にどかされるまで待っていた。しかも布の持ち主もそうと知ってい
ながら、それをどけようともしない。はじめ岡田は、インディヘナへの人種差別
がこんな教室の中にも横行していると思い、憤りを感じた。しかし田中が後で言
うには、その逆の場合でも同じだと言う。お互いまったく会話もしないし、相手
の存在が見えないかのように、まるで干渉しない。彼らには彼らなりの複雑な歴
史があり、我々日本人には理解し難いことがたくさんある。それでも田中は、い
つもそれを何とかしたい、少なくともこの教室の中では、と話していた。岡田は
そんな情熱を感じる田中に、言葉で表現し難いある種の親近感を抱いていた。
休憩になって田中が話し掛けてきた。
「今日はなんでグアテマラに行くのん?」
「支援経費のことでちょっと調整員と話があるんですよ。ほらあのパティシュ
ランでのプロジェクトのことで。結局いまのところ鶏舎とか鶏用のワクチンだと
か、全部協力隊の支援経費で賄っているけれど、俺それにはやっぱり疑問がある
んですよ..。彼ら自身が負担して、彼ら自身が意欲を持ってプロジェクトを運営
していってもらいたいですからね。プロジェクトの最初の基盤がすべて援助で補
われているっていうのは、やっぱり疑問が残りますから..」
「うーん..。そうやろか、やっぱり」
田中は岡田の意見には手放しで賛成していないような素振りを示した。
「実際、それをはじめから負担するっていうのは、彼らには無理なんちゃう
の?」
「それでももし、彼らがやる気をなくして、そのプロジェクトの目的が達成で
きずに終わってしまったら、日本の援助はまったく意味のないものになってしま
うんですよ」
「それでどうしたいん?」田中はちょっとせっかちに聞いた。
「調整員に話してもらって、もしプロジェクトが途中で暗礁に乗り上げたとき
は、最初の援助は全部返してもらうことを約束して欲しいんです」
「彼らもリスクがあればちょっとはやる気が出るかもしれへんからなぁ」
岡田はちょっと興奮気味に話した自分を振り返り、小さなため息をついてこわ
ばった顔の筋肉を緩ませた。
「まぁとりあえずやれるとこまで」
「そうやな。それにしても岡田さん、ほんま情熱的やなぁ。私なんて毎日毎日
の教室が無事終わればそれでええわ」
「田中さんも結構熱いくせに」
「ぼぉーっとしてるやん、いっつも」
そこで田中は思い直したように岡田の顔を覗き込み、話題を変えた。
「そうやぁ岡田さん、ミシンのことなんだけど。やっぱり支援経費で買った方
がええと思う?」
え、ミシン..? 岡田は一瞬何のことだか分からず戸惑ったが、すぐに先月こ
この教室から5台ミシンが盗まれたことを思い出した。ある生徒が授業が終わっ
ても帰らず、教室に居残って、ミシンの使い方をもう少し練習したいと言い張っ
たときがあった。しかし田中はその日、他の生徒の誕生会に呼ばれていた。そこ
で彼女にちゃんと鍵をかって出ていくように注意して、教室を後にした。
完全な田中の不注意だった。
翌日教室へ朝一番に着いてみると、鍵がかかっておらず、扉が開け放しになっ
ていて、12台あったミシンのうち5台が姿を消していた。田中はあまりのショ
ックに、薄暗い教室で、扉から延びる自分の影を眺めながら呆然と立ち尽くした。
彼女は悔しさのあまり、その晩岡田の家までやって来て、1時間以上悪態をつい
て泣きじゃくったのだった。
「援助でミシン買ってもええよって生徒に言ったら、そんならいまの古い奴も
全部新しいのに買えてぇ言うねんで。腹立つわぁ、ほんま」田中は早口でまくし
たてるように話す。
「いかにも彼女達らしい発想だよ」
「はっきり言って支援経費でミシンを導入するのって不可能じゃないと思うん
やけど、そう簡単にぽんぽん新しいものが手に入ると思われるのは嫌やわ。岡田
さんの話じゃないけど、やっぱり援助の仕方って難しい思う」
つい最近まではそのことについて口にするのも嫌がっていた彼女だったが、こ
の口振りを聞いていると、少しずつ彼女の心の傷も癒えてきたことが分かる。田
中の口調はまだ少し尖ったところを残していたが、それでも岡田は幾分安心して
聞くことができた。
「でもさぁ、いまのミシンは替える必要ないと思うよ。あのミシンの音、結構
俺気に入ってるんだよね..」
田中は白い目で岡田をまじまじと見て突っかかった。
「ミシンの音が気に入ってるとか、気に入らないとかそういう問題じゃないね
んけん..とと..」興奮したのか、舌がまわらなくなって慌てて口を両手で塞いだ。
そして見る見るうちに頬が真っ赤に染まって、まぁるい田中の顔がますます膨れ
上がったように見えた。岡田は彼女の変な関西弁も好きだったが、彼女の膨れ上
がった丸顔にも狂おしいほどの愛着を覚えた。
†
バスターミナルの辺りで菓子パンをかじりながら、埃の舞う路上に腰掛けてバ
スを待った。メルカード(青空市場)の辺りの賑やかな雰囲気が岡田のいるとこ
ろまで届いて来て、たまにその方角を振り返ってみる。
岡田が初めて赴任した当初、メルカードの周りの鼻につく匂いが耐えられなか
った。路上で売られている、熟れた果物や、無造作に捨てられた野菜類が、腐っ
て絶えず異臭を放っている。そのために売っているインディヘナや、その子供達、
その売り物にも、常に蝿が集っていた。その光景は、岡田が日本にいるときにイ
メージを膨らませていた、『途上国』そのものがあった。
ラビナルの街からは北と南に火山を展望できる。どちらかと言えば盆地になる
わけだが、火山が遠くにそびえているため、何もない拓けたところに突如小さな
街が出現したかのように思わせる。中央公園に面した聖堂以外、高い建物はほと
んど見当たらない、だから結構風があるのかなぁと岡田は無邪気に考えた。
それにしても空はどこまでも青く澄み渡り、透き通っている。ボリューム感の
たっぷりある入道雲がところどころ重そうに浮かんでいる。変な表現だが、あの
空の向こうをずっと凝視していると、岡田がいまだかつて行ったことのない、異
国の情景が見えてくるような気がした。そしてグアテマラとはまったく違う文化
を、何百年、何千年とかけて形成してきた人たちの顔が見えてくる。
ひとりは、仕事に疲れ果てて歩いている老人。
ひとりは、子供を抱いてその子供の父親に寄り添っている若い女性。
ひとりは、膝を抱えて本を読んでいる学生。
そして、街頭で遊ぶたくさんの子供達..。
皆それぞれ異文化の衣装を着て、異文化の建造物の周りで2度と産まれないシ
ーンを創造していた。
ひとりになってぼぉっとしていると、岡田独特の妄想は絶えることなく続く。
岡田はそんなイマジネーションを、人に話して聞かせたりしたことは一度もなか
った。人よりも遠く遠くを見て、自分だけの時空を越えた想像力を誰にも邪魔さ
れずに楽しむ。岡田にとってそんな時間は、どんな素晴らしい映画や小説よりも
興奮させてくれたし、幸福をもたらしてくれた。
バスは15分くらい待ってから来た。
岡田は座れるように、他の現地人と競い合いながら、勢いよくバスに乗り込ん
だ。赴任当初は、いつも現地人に躊躇していたが、いまは肩を相手に突き出し、
スキあらば強引に押してでも席を奪おうとした。外国人だからといって容赦はし
てくれないのだ。
今回はバスのまん中の席に何とか座ることができ、ほっと胸を撫で下ろした。
首都までは速くて4時間半くらい、遅くて6時間くらい。まだ経験はなかったが、
そのあいだ立ちっぱなしというのは想像するだけで疲れてきそうだ。なんとして
でも席は確保しなければならない。岡田はバスに乗るとき、いつもそういう重圧
に似た気持ちを持っていた。
首都までの道のりは、決して誉められたものではない。何度このバスに乗って
も、まだまだ岡田の体には馴染まなかった。グアテマラで走っているバスのシャ
シーの強度は、それはそれはお粗末なもので、道の凹凸部を拾う度にバスが縦や
横へときしんでしまう。それも尋常ではない角度を持ってきしむ。グアテマラで
使われているバスは、環境問題をたたきつければいますぐにでも廃車にしなけれ
ばならないものばかりだった。使えるものは最後まで徹底的に使ってやろうとい
う考えなのだろう。意味のない消費国家に生まれた岡田にとっては、ほんの少し
新鮮に感じる考え方だった。