#3725/5495 長編
★タイトル (YOK ) 97/ 1/26 19:29 (195)
一本のピンチョをめぐる想い(2) 横山信孔
★内容
ウエイターがピンチョとププーサ、そして炭酸飲料を持ってきた。
どうして食事を待たせているあいだに、飲み物を持って来るという気遣いができない
のか。そう大橋は言った。
杉谷は「そういうもんなんだ」と言い返した。
飲み物は汚れた瓶に入ったオレンジとバナナの炭酸水だった。いかにも体に悪そうな
着色料と香料でごまかした安物ドリンク。それでも杉谷はこのバナナソーダを結構気に
入っていた。同じものではないが、家の近くの駄菓子屋で、子供の頃によく飲んだ炭酸
飲料に似ているような気がするからだ。
普通は瓶に口を付けて飲むと汚いので、長いストローが入れてある。しかしだからと
いってそのストローはきれいなのかと、大橋は杉谷にしつこく聞いた。杉谷はたぶん大
丈夫と言ったが、彼女は納得のいかない顔をして、そのストローを使っては飲みたくな
いと言い、ウエイターにコップを持ってくるようにと杉谷に言わせた。
ピンチョは簡単に言えば串焼きだ。大きなキューブ状の肉とタマネギや赤ピーマンが
豪快に鉄串で刺されて焼かれている。ププーサは生地の厚いトルティージャにチリペッ
パーのかかったキャベツや肉を挟んである食べ物だ。ププーサはエルサルバドルが本場
だが、国によっても、また地方によっても食べ方が違う。杉谷がエルサルバドルへ行っ
たとき、向こうのププーサがホンジュラスのそれとは随分違っていたことに驚いたし、
面白いとも思った。
ピンチョもププーサも手で掴んで食べた。それを杉谷はうまいうまいと言っては口に
運んだ。彼がププーサを頬張ると、中に挟んであるキャベツがバラバラとこぼれ、手を
汚しながらそれを拾っては口に入れた。 そして彼女と目が合うと、照れながら微笑ん
だ。大橋はそんな彼を静かな表情で見ていた。
大橋はあまりそれらに口を付けようとせず、立て付けの悪いテーブルに肘を立て、相
変わらず話を続けた。
こういう国の人たちは純情だ。きっと先進国にいる人たちの何10倍も笑顔を大切に
している。なんだかこういう国にいると、自分の笑顔も少しは美しくなっていくような
気がする..。
一体どうしたというのか。歯が浮くようなセリフが、彼女の口からどんどんと出てく
る。
「食べないのか?」
いつまでもテーブルの上に肘を立ててお喋りをしている大橋に向かって言った。
「うん..どうしようかな」
食べる気がないんだろう。杉谷は分かっていた。それでも彼女が少しでも食べられる
ようにと、ピンチョを一本皿の上に残し、紙ふきんで手を拭った。
「なんだか最近になっていろいろと分かってきたのよね..」また遠い目をして言う。
「なにが?」
「なにが..ってはっきり言えないんだけど、なにかがよ。こんな国にいると、視野が
広くなるって言うのかな。今まで当たり前と思っていたことが、そうじゃなくなるとい
う瞬間を味わうことができるの」
昨日来たばかりじゃないか。
「さっきも言ったように、ここに来る前にちょっと調べたのよ。観光地の情報とかだ
けでなく、歴史的なこともね。また、こういう中米のような小国の集まりでも、どうし
て日本が援助をするのかも..。」大橋はそう言って意味心な目つきをした。
「私にはよく分からなかったの。確かに困っている国を助けるのは道徳上の見解から
すれば当然なんだろうけど、そう言う発想ってキリスト教的だと思うのよ。結局ボラン
ティア精神みたいなものは、世界の主導権を握る欧米諸国の倫理観なわけ。まぁもちろ
んそれだけじゃない。結局のところ政治的な要素が強いのよ..。当然だけどさ」
国連の票畑と言いたいわけか..
「結局こんな小さな国だって、国連の中では一票を持っているのよね。それは日本の
それと一緒。もちろん厳密には違うけどね..。つまり日本とか欧米諸国がこういう国に
援助するってことは、その一票が欲しいってわけよ」
やっぱり。
「倫理観でやってるわけじゃない。貧しい人たちに愛の手を..みたいな風潮がまるで
ないのよ。そういう姿勢が私は気に食わないわ。私は援助をしちゃダメって言ってるわ
けじゃないのよ。ただその腹黒さが無性にいやなのよ。ブイかなにかに足を刺されて、
どうしようもないくらい痒いような、そんな気分になるのよ」
なんだ、それは?
「それに日本の援助は本当に質が悪いわ」
そう言う話になると思ったよ。
「ヒサトには耳が痛いと思うけど、結局ダムとか橋とか無駄なものを日本のゼネコン
がODA(政府開発援助)使って造ってんじゃない。日本の税金使って日本の企業が潤
う構造になっている。底辺で働くその国の庶民のことなんてちっとも考えてない。それ
が日本の援助よ。まぁ他の国の援助も似たようなものだと思うけどさ」
分かったこというじゃないか。
「気を悪くした? ごめんなさいね、はっきり言って」
それが何だと言うのだ。その手の本なら、どこにだって書いてあることじゃないか。
こんなところまで来て、鼻息荒くする必要もないだろう。
杉谷は大きく息を吐いて、苦笑した。
「いや、その通りだよ。実際その通りだと思う」
一応同意しているような態度を見せておこうと思った。
「確かに台湾も中米には随分と金をつぎ込んでる。国連入りしたいんだよな。だから
中米諸国は台湾の国連入りをプッシュしているんだ。なんにも援助してくれない中国な
んて相手にしちゃいないよ」
大橋は興味津々といった表情で彼の話を聞いた。
杉谷はウエイターを呼び、もう一本バナナソーダを頼んだ。
「私のジュース飲んでもいいわよ」
そう言って、ほとんど口を付けていないオレンジ色のソーダが入ったコップを、彼の
前に押しやった。コップの縁に、僅かに口紅の淡い朱色がついている。
「いいよ、どうして飲まないんだ?」
「うーん..」
首を傾け、あいまいな返事をする。どうせ口に合わないんだろう。
それよりも大橋は、話を続けたいようだった。
「いろんな本のウケ売りなんだけど..」
深くため息をつきながら彼女は話し始めた。
「さっきも言ったように、日本の援助は間違っていると思うのよ。他の先進諸国のそ
れもそう大した差はない。だけど日本の援助は特に企業とつるんでいる傾向が見え見え
なのよね。これも本に書いてあった話だけどさ、ある途上国の電話公社に、日本の援助
で10数台のパソコンが寄贈される話があったらしいの。ところがその電話公社には、
ある大手電気メーカーの機材がすでに導入されていた経緯があった。だからそのメーカ
ーのパソコンが送られてきたの」
「そりゃそうだろう」
「でもそのパソコン、日本ではメジャーだけど、世界共通の仕様にはなっていない代
物だったのよ。インストールされていたOS(オペレーション・システム)も日本語版
だったんだって。笑っちゃうわよね。結局そのメーカーは在庫処分できないパソコンを
政府に買い取ってもらって、援助という名目で途上国に送りこんだのよ。ひどい話じゃ
ない?」
うちだって同じようなことやってるな..
「どうやって使うのよ、そんな日本語OSしか入ってないパソコンを..」
大橋はかぶりを2、3度振り、呆れた顔で煙草を取り出した。
「煙草吸うようになったのか?」
「最近ね..」
大橋はわざと彼から視線をそらし、煙を宙に吐いた。そして煙が空気中に見えなくな
るまで目で追った。そんな素振りを自分自身で酔っているようにも見える。彼女はそう
いう女なのだ。
「まだ他にもあるわ..」
そう言って大橋は、あるアフリカの国で問題になっている大規模な援助開発の結果、
環境破壊につながった例や、ブラジルのアマゾン地域開発における被害の数々を話しは
じめた。
杉谷はそんな彼女の言葉を粗悪なBGMだと思いこむようにして、外の景色に目を向
けていた。太陽が隠れてしまったのか、通りにさし込んでいた淡い陽の光は、アスファ
ルトの中へと染み込んで、消えてなくなっていた。
散々日本の援助を罵ったあげく、彼女は首を傾け、杉谷の表情を覗き込もうとしてい
る。
「あん?」杉谷が曖昧な返事をして振り返った。
「いい給料もらってんでしょ?」大橋は意地悪そうな上目遣いで聞いた。
「まぁ....ね」
「日本のときの何倍くらい? 2倍? 3倍?」
「そんなもんかな」
「詳しくは聞かないけどさ..」大橋はかすれるような声で言った。「ところで、いい
車よね、あれ。もうホンジュラスでも販売が始まっているとは知らなかったな。あの車
って、まだ発表されたばかりのメルセデスでしょ。私だってそれくらい知ってるんだか
ら。たいしたもんよね」
彼女は目線を、駐車場に停まっている杉谷の車に注いだ。
「いちいちうるさいな」彼は小さな声で言った。
彼女はちょっと目線をそらし、目を細めて黒目だけを彼へと動かす。そしてさもおい
しそうに煙草を吸った。
「そんなこと聞いてどうすんだよ?」杉谷は苛立ちを隠せずに言った。それでも声は
小さく、囁くようだった。
「別にどうもしないわよ。興味があっただけ..。でも20代で年収1千万は越えるな
んてさ..すごいわよね」
「そんなにはもらってない」
杉谷は自分の口調に変化があったような気がして、恥ずかしい気分を味わった。 実
際のところ、彼がこの国に来たのは、会社から出るその特別手当の高さにつられたから
だ。そのことについては、ここへ来る前から彼女にも話していた。しかしなぜか後ろめ
たい気分にさせられているような気がしてならない。お金を稼ぐために仕事をするのは
当然のことだ。それに、条件によって手当てがよくなるのも当然のことだ。にもかかわ
らず、杉谷はばつが悪くなり、はやくこのレストランから出たいと思った。彼女の瞳の
輝きが、どうも自分を蔑んでいるように見えるからだ。
彼女は貝殻の形をした灰皿に煙草を強く押しつけ、まだ話し続けようとした。
「話は変わるけど、ヒサトの仕事って結局どういう..」
「Quiero pincho!」
大橋が話しはじめた瞬間、レストランの中に太い女の叫びが声が響いた。ふたりとも
その声の方向をちらりと見た。藁葺きの屋根を支える一本の柱のそばに、肌が垢で汚れ
たひとりの中年女が立っていた。親指を舐めながら、乱れた黒髪を撫でている。それほ
ど粗末な身なりではなかったが、ところどころに、はたけばとれそうな土埃がついてい
た。彼女の目はとげとげしくすさんでいて、明らかに彼らを敵視する瞳をしていた。そ
の女が親指をぺろぺろと舐めている姿が、妙にいやらしく杉谷の目には映った。
「Quiero pincho!」
その女はもう一度そう叫んだ。
杉谷はずっとその女を見ていたが、大橋はすぐに目をそらした。
「このピンチョが欲しいって言ってんだ」と杉谷が言った。
大橋はそれには答えなかった。杉谷もそれ以上はなにも言わなかった。
ふたりとも黙っていた。
大橋はテーブルの上をじっと見ている。彼女の頬がほんのりと赤く火照っているよう
にも見えた。
もう一度同じ言葉をその女が叫んだ。
そして「Quiero gaseosa!」とも言った。大橋の目の前にあるオレン
ジソーダが欲しいのだろう。しかし杉谷は敢えてそれを訳さなかった。
杉谷は、女がそのピンチョを当然もらえるものだと主張するような、そんな態度が気
に入らなかった。自分は貧しい人間なのだから、金持ちから恵んでもらえることは当た
り前だと思い込んでいるような、そんな傲慢さに腹が立つのだ。しかしながら、そんな
風に思っても、やはり同情する気持ちは持ち合わせていた。こんななにもない国道添い
にあるレストランに、彼女はどうやって辿り着いたのだろうか。それともここら辺に住
んでいて、いつもなにか食べるものをもらいにくるのだろうか。そんな風に思ったが、
だからといって彼はその女になにかをあげようという気にはならなかった。 ふと大橋
に、目の前にあるピンチョを彼女に渡してもいいかと尋ねようとした。しかしよくも考
えなかったが、それもなんだか億劫だった。杉谷はただ単に面倒臭いと思った。そして
はやくその女が諦めて、どこかへ行ってしまわないかと考えていた。
杉谷がその女を眺めてあれこれ考えていると、大橋はおもむろに皿の上に残してあっ
たピンチョを食べはじめた。黙々と口に含み、時折むせかえすと、オレンジソーダをコ
ップに注ぎ込んでごくごくと飲み、胸の辺りをトントンと叩いた。
中年の女はなにも言わずにそこで立っていた。
ウエイターも突っ立ったままなにも言わないでいた。無表情のまま、ちらりと厨房に
いる若い男に目配せするだけだった。厨房の男はカウンターに肘をつき、チュ−イング
ガムを食べながらその女をじろじろ見ていた。
杉谷は、黙ってピンチョを食べている大橋の顔を見た。
彼女は「結構おいしいじゃない」などと彼の顔を見ずに言っている。
柱に寄り掛かって立っている中年の女の視線を横顔に感じながら、杉谷はかまわず話
した。
「それで? 俺の仕事の話が聞きたかったんじゃないの?」
やはり彼女は彼の顔を見ずに、「そうね」と答えた。宙を小刻みに泳ぐ視線が、とて
も神経質に見えた。
「大した仕事じゃないよ。まぁ美紀が想像するような、ODAの無駄遣いの..」と言
いかけてやめた。自分の声が、レストランの前を通りすぎるトラックの騒音に飲み込ま
れたからだ。トラックの積み荷が揺れて、がちゃがちゃと鳴る音が遠のくのを待ち、杉
谷は言葉を継ごうとした。しかし、それもやめてしまった。彼女はまるで聞く気がない
ような素振りで、皿の上に乗っているものを乱暴に口へ詰め込んでいた。
杉谷が中途半端に話をやめても大橋はなにも言わず、ただ口の中に入れたものを必死
に飲み込もうとしている。そしてなんとか飲み込んだあと、残りのオレンジソーダをコ
ップに注ぎ込んで飲んだ。何度も何度も息継ぎをしながら飲み干した。
彼女は顔を上げ、はじめて杉谷の顔を見た。そして不思議そうな顔をして「なに?
私の顔になにかついてる?」と言って微笑んだ。それはひきつった笑いだった。
杉谷は柱の方を見た。中年の女がうなだれて、足を引きずりながら歩き去っていく姿
があった。ウエイターの男もその行方をじっと見ていた。