#3421/5495 長編
★タイトル (XVB ) 96/ 9/17 19:14 (180)
ねこふんじゃった1 $フィン
★内容
ね こ ふ ん じ ゃ っ た
マスター悪いグラス割っちゃった。悪いけどもう一杯お願いできないかなあ。あり
がとう。きゃしゃな身体つきなのに力ありますねって、はははは・・・おれそんな風
に見えます。
マスターもいかがですか。おれからのおごりですよ。あ、どぞどぞ遠慮なく、おれ
今夜は機嫌がいいのですよ。今夜が満月だからかな・・・それにしてもここの店誰も
来ていませんね。あ、失礼。マスターはとってもいい人に見えるのにお客さんが誰も
来ていないのはちょっと変だと思っただけなのですよ。
ああ、悪い、またグラス割っちゃった。最近は力の調節もだいぶ慣れたはずなので
すけど、ちょっと気を抜くと割ってしまうのですよね。困ってしまいます。
マスター変な顔をしてどうしたのです? おれの目が光って一瞬猫みたいに見えた?
変なこと云わないでください。
それはこの部屋が薄暗いからでしょ。マスターの気の性でしょ。おれはあんないやら
しい生き物になんて似ていませんよ。それにおれはあいつらは大嫌いなんです。マス
ターもあいつらのこと嫌いでしょ。ははは・・・気があいますねえ。おれは普通の人
間に見えるでしょ。そうですよね、どこを見てもまっとうな人間に見えるでしょ。そ
うでしょ? そうだと云ってくださいよ。おれは嫌なことを忘れるためにここに飲み
に来たのですから、ははははは・・・。
おれはね、マスターのような生活が羨ましく思いますよ。え、どこがかって、マス
ター奥さん、子供さんいたでしょ。どうしてわかったかって、マスター、顔ですよ。
マスターの顔が所帯じみているからですよ。マスターの奥さんはガーガーわめいて、
子供さんはぴーぴー泣いていたのでしょ。そんな生活っていいじゃありませんか。お
れには羨ましいですね。平凡でもいいから普通のまっとうな生活が幸せってものです
よ。はいはい、それ以上云わなくてもわかります。マスターはそんなに幸せじゃない
って思っているのでしょう。でもね幸せだと感じていないのが一番幸せな時だとおれ
は思うのです。
おれもね。一年前まではまっとうで平凡な人生を歩んでいたそうです。マスターと
同じように平凡に生まれて、平凡な家庭に育って、平凡な暮し、平凡な幸せを掴んで
いたらしいです。
それが一年前のある事件でおれの幸せがどこかに吹っとんでしまったのです。今の
おれはぜんぜん不幸に見えないって、そうでしょうね。見た目は普通の人とぜんぜん
かわりはないですから、いや身体の方はそれ以上かもしれませんね。おれ・・実はで
すね。
こんな話すると変だと思うかもしれないけど、おれ一度死んでいるのです。冗談い
っちゃ困るって、はははは・・・じゃあ今のおれは死んでいるのか、生きているのか
だって、さあ、それはおれにもわからないのです。おれ死人かもしれませんよ。信じ
てくれないのですか? 信じているけど何です。それじゃおれが死人なら怖いと思い
ます? そうは思わない。はははは・・・嬉しいですねえ。でも、他の人とはどこか
違うように見えるのですか。特におれの瞳が、そうですか、おれやっぱり変ですか。
普通にしてるはずなのに目だけがきつくなるのは職業病かもしれませんね。
これからおれの話しを聞いてくれたらおれがまっとうだった・・・今もそのつもり
ですけど、マスターはおれの不幸わかってくれます。
おれの不幸をわからすためにはおれのことを話さないといけないかもしれませんね。
マスターもそれが聞きたくて、わざわざおれに酒を飲ましているのでしょう。
いいですよ・・・マスターの誘いにのりますよ。まずどこから話しましょうか。そ
うですね・・・おれが今の不幸な境遇になったことから話した方がわかりやすいかも
しれませんね。
一年前にルナティックたちが数万人、店先のロードで殺されたこと覚えていますか。
覚えているはずですよね。忘れたとは云わせませんよ。ありゃあ痛ましい事件だった
そうですね。そりゃそうですよね。月狂いじゃないルナティックたちが数万人も死ん
でしまったのですから、忘れようとしても忘れないでしょう。
あの夜も今日みたいにとびきり美しい月が見えてた夜だったそうです。その夜、ど
ういうわけかおれもロードに出ていて、何のためにロードにいたかなんて聞かないで
くださいよ。おれもよくは知らないのだから。
エリア16と比べて穏やかなエリアに行くときでも、おれは防弾チョッキを着込ん
で出掛けていたそうです。だけど、あの夜だけはなぜか、あのエリア16にチョッキ
を着て行かなかったのですよね。マスター、今チョッキ着てますか? 着てる。ああ
そうそれはよかった。近頃じゃ、月狂いじゃなくても他の物騒な奴等が月狂いを真似
た犯行を侵すようになったから、店の中でも安全のために着ていた方がいいですよ。
本当に物騒な世の中になったものです。
その夜は満月だったからおれも月に酔っていたのかもしれませんね。満月の魔力は
ひどいものです、まったく。近頃じゃ誰もかれも満月の夜には変になって月狂いの方
が暴れやすくなってきたのも今の時代なのですかね。
ああ、そう云えば今日は満月でしたか。それでこの店に誰も来ていないのがわかり
ました。皆月狂いを恐れて出歩かないようにしてたのですね。おれは月狂いになれな
いから関係ないですけど・・・。マスターも今夜は月狂いが来る前に店を畳んだ方が
いいと思いますよ。まあ、おれも昔は満月の夜にふらふらと出掛けて、やられちゃっ
たのだから、おれも結局月の犠牲者の一人だったから偉そうにはいえませんけど。
ところで月狂いと月の関係ってなんでしょうね。満月の夜は月狂いが出やすいって
ことは統計上わかっていることだって、そりゃあまあそうですけど、それじゃどうし
て人間のホメオシタシスが月の引力に影響されるのですか。科学者の中には、人間の
身体に含まれる海水が月の引力にとりつかれて月狂いができるとか、情動を司る爬虫
類脳が本能的に掴んでしまうとか云っていますが、それじゃ昔は月狂いがそんなに出
ていなくて、2100年を越えたあたりから急速に月狂いが出てきたのは何故でしょ
う。おかしいじゃないですか。昔から地球にかかる引力があったはずなのに、今の時
代になって突然月狂いがあらわれてくるなんてね。
ルナティストの話を続けるのですか。いいですよ。マスターさえよければ、おれは
ずっと付き合いますよ。マスターも知っていると思うのですけど、どうして月狂いに
なっていないものがわざわざあんなことをして月狂いになろうとするのでしょう。お
れは自ら進んで月狂いになろうとするルナティストたちの気がしれないですね。
マスターはそうは思わない。じゃあマスターの意見を聞きましょうか。ルナティス
トたちは月狂いには成れるけど、どこか心理的に成りたくないと思っているからなれ
ない連中だって、ほうそれは初耳です。物質的には月狂いになるには別に月の光に当
たらなくてもなれるっていうのですか。ふうん、そんなものですか。変ですね。月狂
い、ルナティックたちのことを調べている政府の学者さんに云わせると原始的な爬虫
類脳が人間に残されていて、それの調節が狂って月狂いになるものだと思っていまし
た
おれがエリア16で一度目の死を迎えたとき、ロードで月に浮かれていたルナティ
ストたちを静かに見ていたそうです。え? こうして目の前で話しているから死人じ
ゃないって、ふふふ、マスターさっきもそう云いましたね。でもそうかもしれません
ね。ああ悪い、恐がらすつもりじゃなかったのですよ。ほら、こうやって足があるか
らおれはまだ死んでないってところかな。
ああ、悪い、マスター、またグラス割っちゃった。もう一杯貰えます。何杯も飲ん
でいるのに酔ったようには見えないって・・・おれ酔ってますよ。だからこんなにマ
スターと月狂いのことについて話してるじゃないですか。本当は満月の夜はこんなと
ころで酒なんて飲んでいる暇はないのでしょうけど・・・月狂いのことで、マスター
と論争するつもりはないです。おれたちの楽しい酒がまずくなってしまいます。
月狂いの苦しさは月狂いになったものしかわからないって、マスターは云うのです
か。ははは・・・マスターは月狂いになったことがあるようなことを云うのですね。
そりゃ、おれは月狂いにはなったことはありませんよ。おれは月狂いになろうとし
てももう慣れない身体なのです。月狂いになったものと慣れないおれとどっちが幸せ
かと云うとどうとも云えません。月狂いにもならず、まっとうな人間をやっているマ
スターには、おれの気持ちわからないでしょうねえ。
マスターは本当の月狂いを見たことがありますか。月狂いたちを見たこともないあ
なたに説明してもわからないかもしれないけど、云ってみれば人種の進化に外れた者
たちです。月と進化、月と月狂い、進化と月狂い、三つ巴で一体人類はどうなってい
るのでしょうか。
おれは月狂いたちを嫌になるほど見てきました。彼らは何を思い、何を考えている
のでしょうか。
そして、ルナティストたちは、まっとうな人間が裸になってより月の光をあびて、
月に祈りを捧げるいかれている集団たちのことです。
違うのですか、この月狂いにはいろいろな系統があって・・・やめるのですか、こ
こで月狂い、ルナティストたちの講義をおれとしていても始まらないということです
か。
そうですか。マスターも月狂い、ルナティストたちについて知りたいのなら、近く
のセンターに行ってみるといいですよ。どこのセンターでも生きている死んでいるに
関わりなく月狂い、ルナティストの関係なら何でも記録されていますよ。
実はいうとおれも昔のことは覚えてなくて、月狂い、ルナティストたちと昔どうい
う関係を持っていたかということも含めてね。
おれは政府の学習センターでルナティスト、月狂いのことはみっちりしごかれまし
たよ。特に月狂いたちの歴史、犯罪、月との因果関係なんてもね。それでもおれには
月狂いのことがわかりません。わからないのです。考えれば考えるほど、月狂いとは
何だ。記録されても現われてこない、どこかでおれの中で理論の破綻が出てくるので
す。
おれの昔の記録簿にたまたまここの前のロードでルナティストたちを見ながら死ん
だと書いてあったから、気になって来ただけですから、ほんの感傷ですよ。おれはル
ナティストたちの乱舞を見ていた。とにかくおれは何者かに殺されてしまった。これ
は確かなことです。
月への貢ぎ物をするつもりで重症の月狂いがルナティストたちの中に爆弾を投げ込
んで、おれはそのとばっちりを受けて死んだ。俗に云うルナティスト一万人の夜って
云われている事件のことです。未だにおれをやった犯人は捕まっていないから、その
まま月に操られたまま一緒にあの世行きと云うところだろうね。自業自得だね。
あのままおれもあの世におさらばしていたらどんなに楽だっただろうかとこんな身
分になってみて思ってしまうね。うん、つくづく思う。
ルナティストたちはこのときの襲撃が元で全部死んだけど、おれだけは死ななかっ
た。死ねなかったと云った方がいいかもしれませんね。このとき人間としてのおれは
死んだのだけど、今のおれはこのとき誕生したと思ってくれてもいいです。
そもそもおれの【素質】がたまたま偶然に政府の目に止まったのが運の月です。こ
こにも月がでてきましたね。偶然がいくつも重なって今のおれが誕生したのだろうね。
まず第一におれが満月の夜にエリア16に歩いていなくては、おれが爆弾に当たっ
て死ぬこともなかった。次に肉片が散乱するロードの中で唯一頭部だけが、無事だっ
たのもおれだけだったらしい。彼らが研究開発していた究極兵器がおれが死んだ直後
に完成したということだ。それからこれ以上云うとくどくなってしまうが、おれの隠
れた【素質】が究極兵器に合いすぎるぐらい合っていたということなのです。
その証拠に、おれの死後も頭部だけ無傷の完全な死体は何度もその筋の研究機関に
運ばれたと噂だけは聞いているが、未だにおれに続くものが現われないところを見る
と、おれを襲った偶然とおれの【素質】は非常に特殊だったものらしい。
こうしておれは政府機関のちゃんとした研究室に運ばれ、頭蓋骨と脳髄を分離した
姿で、ガラスの容器にぷかぷかと浮かんでいたのが約一日。正確に云うと25時間1
3分32秒の間ガラスの容器におれの脳髄だけがぷかぷか浮かんでいたと記録されて
います。
おれの脳髄がガラスの中で浮かんでいる間に移植の準備と猫のお産に付き合うと云
ってだたをこねていた術者の説得を機関のものがしたと云うのだから驚きだね。脳髄
を収めているガラスの液剤はほとんど人間に含まれる成分と同じもので、脳髄がその
中に収められている限り永遠に意識体としての死は訪れることはないと云われている
のは今の医学界の常識だから知っているよね。
おれの脳髄がほんの25時間13分32秒しかガラスの容器にいられなかったのは
原因がある。おれが各種の実験を経て初めて人間の脳髄の移植体だったということだ。
どれぐらい脳髄のままぷかぷかと浮かんでいけるものか、彼らもわからなかったと云
うことらしい。どうせするなら生きのいい方がいいと思ったのだろう。このころはお
れじゃなくても無傷の脳髄さえあれば次の実験ができると考えていたのだから、おれ
は彼らにとって一種のプロトタイプだった。彼らもおれの脳髄を馬鹿にしてくれるね。
まったく。プロトタイプだから、どうせたいしたものはできないと踏んでいたらしい
が、大間違い後にも先にもおれ以外の移植は成功例がないと云うのだから笑ってしま
うよ。