AWC 残り香(1)        みかりん


        
#3183/5495 長編
★タイトル (PAN     )  96/ 1/ 4  22:31  (200)
残り香(1)        みかりん
★内容
残り香

 さとみが死んだ。
 少し心が痛み、同時に安堵している自分がいた。

『一人暮らしのOL 惨殺
 血まみれ男を現行犯逮捕 』
 新聞に大きく載った見出しを、僕は他人事のように眺めていた。
 被害者は、竹中さとみ。25歳。
 帰宅したところを襲われ、包丁で滅多刺しにされた。遺体はずたずたに引き裂かれ
、
元の顔すらわからないという。犯人は近所に住む男で、精神病を患い、入退院を繰り
返していた。数ヶ月前から男は彼女に目をつけ、嫌がらせを始める。ポストに投げ込
まれたおぞましい手紙の束が、彼女の部屋から見つかっている。悲鳴を聞きつけた隣
人の通報で警官が駆けつけた時には、もう彼女の息はなかった。
 僕は新聞を放り投げた。何紙か買ってきてみたが、新しい発見は何もなかった。
 自分の恋人の身に起こったことを、新聞で知るというのは、何とも不思議な気分だ
っ
た。手紙のことも、嫌がらせがあったことも、さとみは一言だって言わなかった。そ
んなことがあって、恐ろしくないわけがない。なぜ僕に言わなかったのか。そもそも
彼女とまともに話したのはいつだったのだろう。
「哲也……わたし、怖い。怖いのよっ!」
 彼女がうわごとのように繰り返し、泣きじゃくったのはほんの一週間前。あの時、
もっと親身になってやれば、こんなことにはならなかったのかも知れない。
 久しぶりに青空が覗いていた。窓から眩しいくらいの日差しが射し込んでいる。僕
は窓辺にたたずみ、目を細めた。
 後ろめたい気持ちと、後悔の念が僕を取り囲んでいた。

 生暖かい風が吹いている。額がかすかに濡れているのは、肌にまとわりつく湿気の
せいなのか、汗のせいなのかよくわからない。薄暗くなった路地に黒い人の波がどこ
までも続き、目的地が遥か遠くに思えてならなかった。さとみが僕を近付けぬよう意
地悪をしているのかも知れない。
 誰もが涙にかきくれている。
 どうして、あんないい子が……。まだ、若いのに。なんて惨いことを……。
 ひそひそと交わされるおしゃべり。恐怖と憎悪と、悲しみと同情。彼女のところに
近付くにつれ、やるせない空気は重く僕にのしかかる。
 低い嗚咽。悲鳴のような鳴き声。彼女の名を呼ぶ者。狂ったように泣き叫ぶ人々。
 突然すぎる死に、誰もが戸惑いを隠せずにいた。
 僕は泣けなかった。こうして皆の彼女への想いを身にしみるほど感じても、幸せそ
うに微笑む遺影を目にしても、何の感情も沸いてこない。
 さとみ……。僕は本当におまえを愛していたのだろうか。
 それすらも今はもう、自信がない。
「哲也……」
 振り返ると、大学時代の同級生たちがいた。女たちは泣きはらした目をハンカチで
押さえ、互いにしがみつき声を殺して泣いている。男たちも泣き崩れる女たちをなだ
め、励ましながらも必死で涙を堪えている。
 その中で僕だけが異質だった。
 さとみの一番近くにいたはずの、彼女の死で一番衝撃を受けていいはずの僕が、こ
うしてしっかりした足取りでここにいる。
「吉田くん……どうしてっ。どうして、さとみなの? あの子何もしてないじゃない
。
どうしてよ……」
さとみと一番仲の良かった圭子が僕を睨み付ける。ぶつけようのない怒りが僕を見た
途端、沸き上がってきたのだろう。圭子は僕を責めているわけではない。だが、痛々
しいほど腫れ上がったその目が突き刺さるようで、僕は目を逸らした。
「ばか、よせよ。哲也に当たってどうするんだよ。おまえだけじゃない。哲也もつら
いんだから」
「わかってるけど。じゃあ、どうしたらいいのよっ!」
 僕は目の前で繰り広げられている光景を冷静に受け止めていた。
 一番つらい? 僕が? 涙も出ないというのに。
 不謹慎にも僕は笑い出したい衝動に駆られた。いや、つらいのかも知れない。ある
意味では。それはきっとみんなの言うところのつらいとは、かなり違っているけれど
。
「哲也、少しやつれたんじゃないのか」
「いや……大丈夫だ」 
 同情を含んだ声と哀れみの瞳。かすかに残っている良心が痛む。
「残念だよ。さとみがこんなことになって。……あんないい奴、いなかった」
「ああ」
 彼女は特に美人というわけでもなかったが、人見知りせず、いつも楽しげに話す姿
は周りまでも明るくした。よく気が利き、さっぱりとした気性は誰からも好かれ、ク
ラスの人気者だった。彼女が突然、家にやって来て、付き合ってほしいの、と言った
時、断る理由などなかった。
 理想の彼女だ。そう思った。この笑顔をずっと大事にしていこうと。
 あの時は本当に思っていた。

 今年に入って、さとみのまわりもちらほらと結婚し始めた。その頃から彼女の態度
がおかしくなった。もともと結婚願望の強い方だとは思っていたが、実際、彼女の度
重なる催促にはうんざりしていた。
 僕はといえば、結婚なんてまだまだ実感のないものだった。とても人一人、養って
いく余裕などない。経済的にも、精神的にも。
 主婦になりたいわけじゃない。ただ、ずっと一緒にいたいだけだ、と彼女は言う。
 僕もさとみも一人暮らしだから、お互い頻繁に行き来していた。大概一緒にいたし
、
もちろんこれからだってそうするつもりでいた。形がなくても心が通じているから大
丈夫と信じていただけに、彼女の言葉は理解できなかった。
 最初のうちは、いつか迎えに行くから、待っていてほしいと説き伏せた。本当にそ
うするつもりでいたし、このままいけば結婚するのだろう、と漠然と考えてはいた。
「何がいけないの? 一緒にいたいのよ。ずうっと一緒にいたいだけ。それ以外は何
も望んでいないわ。哲也は一緒にいたいと思わないの?」
「今の何が不満なんだよ。僕はいつもさとみの側にいるだろう? それだけじゃ、だ
めなのか?」
 そう言うと、さとみはじっと僕の瞳を覗き込み、それから遠くを見て呟くように言
っ
た。
「それじゃあ……だめ、なのよ。このままじゃ、だめなのよ」
 茶色の瞳の奥で儚げに光が揺れた。膝に乗せた両手をぎゅっと握りしめて、さとみ
はうつむいた。
 このようなやりとりは頻繁にあった。彼女に責められれば、責められるほど、僕は
ほとほと困り果てた。信じて待っていていほしいなんて言うのは、男の身勝手なのか
。
それとも僕は信じるに足らない男なのか。
「ごめんなさい。そういうつもりじゃないの。……そうね、わたし、待ってる」
 そんな殊勝なことを言っていたのも、束の間。友達が一人二人と結婚することにな
るにつれ、彼女は手を変え品を変え、結婚を匂わせ始めた。
「お金がなくてもいいの。立派な結婚式なんていらないから」
「わたしも働くわ。ね? そうしたら、経済的にも楽でしょう?」
 僕が躊躇しているのは金のせいだけじゃないのに、さとみはどんどん先走っていく
。
確かに大した貯金もなかったし、浪費癖は認める。たぶん彼女の方がしっかり貯金を
しているのだろう。だが、あからさまに金がないと決めてかかられるのは、面白くな
かった。
 いい加減にしろと怒鳴れば、
「私に問題があるのね。だから、哲也は迷うんだわ」
 と泣き出す始末。
 これを毎日のように繰り返され、さすがの僕も愛想が尽きてきた。
 昔のように外に出歩くこともなくなった彼女は、毎日僕の部屋で帰りを待っている
。
料理を作り、洗濯を済ませ、部屋中を掃除し、そしてよく甘えた声で言った。
「ねえ、いい奥さんになれるでしょ」
 幸せそうに微笑む彼女の笑顔が醜く歪んで見えた。
 少しずつ、僕たちは食い違っていった。さとみの殺気さえ感じる一途さが、僕には
重荷だった。仕事を理由に部屋への出入りを規制し、彼女には習い事を勧めたりして
、
他に気持ちを向けさせようとした。彼女は関心を示したものの、やはり結婚への執念
は相当のものらしくて、結局堂々巡り。
 確かに長い間待たせて悪いとは思っている。だけど、僕だっていつまでもこのまま
、
と思っているわけではない。僕の気持ちもわかってほしかったのに。
 僕を責めて、彼女は泣く。泣きたいのは僕の方だ。
 同じことの繰り返しに、僕は疲れていた。
 律子と深い関係になったのは、その頃だった。
 その日も僕は一人で黙々と残業をしていた。昼間はいろいろなことに追われて、自
分の仕事がはかどらない。誰もいない静まり返った職場を、僕は気に入っていた。
「吉田くん。まだいたの? カンシン、カンシン」
 突然頭上から降ってきた声に、僕はびっくりして顔を上げた。
 経理課の山根律子が立っていた。隣のフロアにいるので、あまり話すこともなかっ
たが、噂は耳にしていた。僕の二年先輩の彼女は、女性初の総合職として入社した
注目株なのだ。
「あげる。お腹すいたでしょ」
 彼女は微笑んで、缶コーヒーとドーナツを僕に差し出した。
「すいません。いただきます」
 僕は言って、彼女を見上げた。
「経理は今、忙しいんですか?」
 彼女はぺろっと舌を出した。
「昨日まで一週間ほど休んでいたの。久しぶりに出社したら、書類の山」
「で、一人で残業ですか。感心、感心。はい」
 僕は彼女にドーナツを一つ分けてあげた。彼女は吹き出して、それを受け取った。
それから僕たちはすっかり話し込んでしまい、仕事もそこそこに会社を後にした。
飲みに行こうと誘うと、彼女は無邪気な笑顔で頷いた。普段のとりすました顔から
は想像できないほど、彼女はいろいろな表情を見せた。彼女は話題が豊富で人を飽
きさせない。僕たちはたくさん話をして、すっかり打ち解けていた。
「寄っていかない? お茶でも……」
 帰り際、律子が言った。彼女の顔は真っ赤だった。酒のせいだけじゃないのは、
僕にもわかっていた。その日、僕は律子の部屋に泊まった。
 家に帰りたくなかった。さとみが待っていると思うと、気が重くなる。明るい部
屋に帰るのが待ち遠しかった頃も、確かにあった。だが、今はそれが鬱陶しい。
 さとみはいるのだろうか? ……ずっと待っているのかも知れない。僕がどんな
に遅いときでも、彼女はいつも起きて待っていたっけ。
 隣で律子がもぞもぞと動いた。布団から目だけを覗かせて、じっと僕の顔を見て
いる。化粧をおとしてしまうと、あどけなさの残る顔立ちだ。律子はくぐもった声
で言った。
「彼女のところに帰りたい?」
 その時僕は一体どんな顔をしていたのだろう。律子は目を細めた。
「正直ね。いいのよ、帰っても」
 僕が黙って布団を掛け直すと、律子が抱きついてきた。僕と同じシャンプーの匂
いがほのかに香った。彼女は僕の首にキスをしながら言った。
「本当は、帰ってほしくない。私、あなたのこと好きよ。私にもチャンスをちょう
だい。もっと私を知って、それからでも遅くないでしょう? それで彼女のところ
に戻っても、恨んだりしないから」
 律子の言うことにも一理ある。それに、さとみのところに戻っても、僕はもう彼
女に愛情を感じることはないだろう。あるのは結婚という妄想に取りつかれた哀れ
な女への同情だけだ。
 それから、僕は毎日のように律子の部屋に入り浸った。さとみは家へは来ていな
いようだった。たまに着替えに戻る部屋には、彼女の来た形跡はなかった。
 別れよう。何度も決意しながらも、なかなか行動に移せないでいた。悪者になる
後味の悪さも嫌だったし、なによりも彼女の微笑の裏に潜む凄まじい執念が、僕を
躊躇させていた。
 ただでは済まない。簡単に納得してくれそうにもない。
 ……いなくなってくれないかな。
 勝手にもそんなことを思っていた矢先、さとみが死んだ。

 駅に降り立つと小雨がぱらついていた。小走りに通り過ぎる人を横目に、僕はの
ろのろと歩いた。水をじっとりと含んだ上着が重すぎるくらいだった。
 家に着くと、留守電のランプが暗闇に光っていた。案の定、さとみのことを知っ
た奴らからのお悔やみ、励まし、計八件。
 上着をベッドに放り投げ、煙草に火をつけたが、すぐに消してしまった。
「煙草なんて百害あって一利なし、よ」 
 さとみはそう言って、何度か強制的に僕から煙草を取り上げた。灰皿や煙草をど
こかに隠してしまうのだが、僕は宝捜しを楽しむようにそれらを見つけだす。ある
時、どうしても見つからなくて、トイレで煙草を吸っているところを彼女に目撃さ
れ、えらくあきれられた。結局、彼女の努力は実らず、悪習慣は直らなかった。
 不思議なもので、やめろと言われると、吸いたくてたまらなくなる。
 いなくなってしまうと、恋しくなるのだろうか。
 自分の考えがおかしくて、笑いがこみ上げてきた。そんなことがあるわけないと、
自分でよくわかっているはずじゃないか。
 僕は独り笑った。気が狂ったように大声で笑い、そんな自分がおかしくて、また
笑う。ひとしきり笑うと脱力感が襲ってきた。僕はベッドに座り、ぼんやりと部屋
を眺め回す。
 電話が鳴った。面倒くさいのでそのまま放っておくと、電話は切れた。さとみの
ことでまた誰かが慰めの電話をかけてきたのだろう。




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